fc2ブログ

「日米同盟」についてーーーーーー9条の外交・安全保障政策とは何なのか?(2)

「日米安保体制(米軍プラス自衛隊)と憲法」から、
     「日米軍事同盟対憲法第9条(専守防衛)」へ?!


  ※(6月27日)猛暑日が始まった。畑仕事をしていて、目の前が暗くなって、慌てて自販機で水を買って飲んだ。義父は畑仕事中に倒れたのだが、初めはこんな感じだったのだろうか。近所の80歳前後の方々が相次いで倒れ、入院している。同い年の卓球の同好の氏も頸動脈の血栓手術で1ヶ月入院した。サロさんのオムツかぶれも要注意だ。夏は独特の嫌な皮膚感覚があるが、いよいよ私が最も苦手とする季節がやってくることになる。
  ところで、人間の性格にはいろいろなタイプがあるが、最近感じたことが2つある。一つ目は、私の先生の一人であるT氏が老衰で91歳の生涯を終えたのだが、それを知って私が抱いた印象は、本当に「善い人」だったなあ、というものだった。彼は非常にフレキシブルだったが、それは彼が「人間」に対する基本的な信頼感を持ち続けることができたが故のような気がする。田舎出の素直な坊ちゃんという面もあり、私にはない「おおらかさ」があったように感じる。それにしても、あんなに「優秀」だった人もアルツハイマーになり、晩年を過ごすことになるのだ。二つ目は、元同僚の方々と話す時に感じる、何歳になっても「希望」・「目標」を失わないポジティヴな生き方だ。それも私にはないうらやましい気質に思える。私はといえば、人間に対して彼らよりも悲観的だし、「希望」を持っていないように感じる。そんな私と接する時、彼らはどんな印象を持つのだろう。私は彼らを応援したいと思っているが、私自身はといえば、非日常的な「ハレ」への欲求がほとんどなく、普通の日常的生活に対する充実感や喜びの方が大切に感じられるのだ。そして、それを破壊する者たちへの「怒り」こそが日常的とは言えない行動の動機になっていたように思われる。その「怒り」の基準が私なりの「正義」であり、また、その実現が「希望」ということなのかもしれないが、その「希望」自体が日常的ときているのだ。要するに、私にとって「希望」とは普通の生活であり、そういう意味で、私は安倍晋三でも志位和夫でもなく、オノヨーコでも矢沢永吉でもない、「一般ピープル」ということなのだと思う。しかし、「一般ピープル」にも、意地も誇りもあるものなのだw。

  朝5時に起きてブログに取り組み、今、朝の雑事をこなした後、畑で一仕事してきた。もう9時を過ぎていたので、周りの家庭菜園に人影はなかった。今回は、「日米同盟」について書くつもりだが、いつ頃からだろうか、世の中が、「日米安保」ではなく「日米同盟」と表現するようになったのは? おそらく、それはアベ内閣の閣議決定による集団的自衛権の「容認」と戦争法制定以降のこと、すなわち、日米安保条約を憲法9条の制約から解き放ち、双務的でフルスペックな軍事同盟に変質させようとの意図の表れに違いあるまい。繰り返しになるが、戦後の日本が国際社会の中で戦争に直接加わらなかったのは、日米安保条約が、アメリカは日本が軍事基地を提供する見返りに防衛義務を負うが、日本は憲法9条の制約の下、海外でのアメリカの戦争を助ける義務を負わなかったが故に他ならない。

  ところで、私にとっての「日米安保」とは、「安保反対」の「安保」であり、日本がアメリカの戦争に加担し、日本がアメリカの戦争に巻き込まれることを意味していたと言える。「60年安保」のことはよくわからないが、「70年安保」はベトナム反戦と結びついており、当時、アメリカの施政権下にあった沖縄からは米軍が直接出撃してベトナム人民を殺傷し、また、本土においても、軍需品の生産や兵器の修理などが問題となっていた。9条の制約下にあっても、日米安保体制は、米ソ対立の最中におけるアメリカの極東戦略の要に位置するもの、すなわち、日本国憲法の「非戦・中立」とは明確に相容れないものと考えられていたと思う。そして、日米安保体制の実体が米軍の存在とそれを「補完」する自衛隊だったことは言うまでもない。

  (※昼食をとっていたら、テレビで関東地方の梅雨明けが報じられた。まだ、6月ですぜ!)

  ところで、日本における米軍と自衛隊の存在は、極めて”単純な”国際的な力関係に規定されていたと言ってよいと思う。つまり、当初は、連合国のアメリカとソ連が敗戦国日本を分割占領・支配する、すなわち、北海道から沖縄に至る地域をアメリカが、そして、北方4島を含む千島列島をソ連が占領・支配するという構図だーーーこの点については、『北海道新聞 電子版』(2017.12.30)の記事「ソ連四島占領 米が援助 艦船貸与、兵訓練…極秘合同作戦 45年2~9月 根室振興局調査で判明」が明らかにしているところだ。しかし、米ソ対立の激化、とりわけ、朝鮮戦争以降、アメリカにとっては、日本にソ連や中国に向けて自由に使用できる軍事基地を確保することは最重要の課題であり、また、その在日米軍の補完的役割を果たすものとして、日本に再軍備化(警察予備隊ー保安隊ー自衛隊・・・)が求められてきたというわけだ。しかし、日本の「独立」と同時に作られた「日米安保条約」=「日米安保体制」の成立には、(キシノブスケのような日米戦争を主導し、敗戦後には米ソ対立を絶好の僥倖としてアメリカに擦り寄り、アメリカの“走狗”となって生き延びようとした勢力とはまた別の)、占領統治国アメリカの絶対的権力を前にしつつも、平和を願う日本国民の意志を背景に、日本国憲法の規定を逆手にとって、アメリカの単なる”走狗”とはならない選択を行なった勢力も存在したということだ。もちろん、その選択には、沖縄の犠牲や独立国とは到底言えない「日米地位協定」にみられる属国化があったわけなのだが・・・。

  (※昨日27日の午後は、製氷皿とサロの爪用のヤスリと花の苗2つを買いにホーム・センターに行き、その後、サロと田んぼの畦道を通って1時間ほど散歩した。帰ってきて、夕食までの間、NHKプラスで『雲霧仁左衛門2』を観ていたら、ついでに、『クロ現』で桑田佳祐の「時代遅れのRock’n’Roll Band」のことを知り、YouTubeでFull ver.を聴いてみた。「私鉄沿線」の野口五郎らと「平和」について歌っていたが、66歳のおじいちゃんたちの孫たちを思う気持ちがしみじみと伝わってきて、ご時世との乖離を薄寒く感じながらも、少し感動してしまった。「正義の戦争」や「最終戦争」を含めた戦争一般に対する人々(一般民衆)の絶対的忌避感こそが日本国憲法の人民的側面なのだと改めて感じたところだ。夕食後、皿洗いをして、風呂に入る。右腕が痛いので、明日の卓球のために、低周波治療器で治療する。そして、サロのオシッコを絞ってオムツを替え、就寝。録画した『ハゲタカ』は後日見ることにする。
  28日、朝目覚めて、mailをチェックする。Mさんから「梅狩り」の件の連絡が来ていた。1年ぶりに、遠出をして再会することができる。楽しみだ。その後、サロのご飯、朝食、ゴミ出し、庭整理。「奥さん」は今日も「キョウヨウ」と「キョウイク」があるw。サロが呼ぶが、暑くならないうちに畑に行かねばなるまい。
  今日も強烈に暑かった。ポリタンに水を入れて自転車で運び、野菜たちに水をやる。それでも、ナスが一本枯れかけていたので、秋茄子に植え替えねばなるまい。畑から帰ってきて、昼食までサロと一緒に昼寝をした。今日の昼食は、野菜ジュース、キュウリ丸かじり、魚肉ソーセージ、そして、ソーメンとヨーグルト。午後は、卓球をやる。
  卓球は、ダブルスで5勝1敗1引き分け、セット数で言えば、16勝4敗。水を1リットル飲んだ。帰ってきてサロと昼寝。6時過ぎから30分ほど散歩した。気温は高かったが、風が心地よかった。
  夕食後、皿洗いをして、さて・・・・)

  さて、ソ連邦の解体後、日本の「革新勢力」や「知識人」の間には、「日米安保体制」(米軍と自衛隊)に対する姿勢に大きな変化があった。最も大きかったのは、やはり、社会党の政権参加(村山内閣)による安保と自衛隊に対する「方針転換」だったろう。まさか、ソ連が崩壊したので、それでは、アメリカかというわけではないのだろうが、私にはこの動きがどうにも納得できなかった。というのは私たちの世代にとって、「帝国主義国」アメリカも、現存「社会主義国」ソ連や中国も、反対こそすれ、模範とすべき対象だとは思われなかっただろうからだ。もちろん、アメリカ側の陣営で生活している限りにおいて、アメリカ側の「非道」に対する対抗思想の一つとして、あるいは、それに反対しうる対抗勢力の一つとしての存在意義位はあるだろうと考えていたとは思う。しかし、日本国憲法が指し示す「中立・全方位外交」としての「全面講話」がより望ましかったろうと考えられたのと同様に、米ソの全面核戦争という危機を前にしてアメリカ側につくのとかソ連側につくのかとかと言ったこととは全く視点が異なっていたことは確かだ。ところが、話によると20年ごろ前の東大社研もそうだったらしいのだが、最近の「日米安保容認論者」は少し様子が違うらしいのだ。つまり、アメリカもソ連も良いとは言えないが、アメリカの方がよりマシだから、日本がアメリカとの「同盟関係」を結んできたことは、現実的であり、正しい選択だった、てな話なのだ。私に言わせれば、こうした姿勢は、どちらにしても「権力」(強い方)とともに生きる、どちらかの「権力」(強い方)に張り付いて生きることを習い性とした似非エリートの姿だと感じるのだ。そして、そうした思考の中では、国内においては、沖縄はもちろん米軍基地に関わる国民の犠牲や負担、そして、国外においては、ベトナムやイラクやアフガニスタンの人々の犠牲やそれに関わる自衛隊員の命、そうしたものが「仕方がない」ものとして、結局、矛盾を押し付けられる人々の「理解」や「金目」でやり過ごされるということになるのだ。もう寝るしかない!

  (※29日朝、扇風機をつけていたせいか、サロさんは安眠していた!朝食前に庭仕事をし、その後、ゴミを出して、2nd兄貴を駅まで送った帰りに畑仕事を済ませ、これからサロのオムツの洗濯をする。「日米同盟」を書くのに3日かかることになるが、おかげで私の日常も書き残すことができた。そして、今朝の『東京新聞』に載っていた写真に添えられていた言葉ーー「幻の梅雨恋し」も、日本にはまっとうな梅雨も無くなったのかという想いとともに、書き残しておくことにしよう。)

  さて、「日米同盟」についてだが、私は、現在の経団連や自民党は、目先の我欲の故に作り出してきた「格差」の構造とその結果としての日本の(総体としての)凋落をキシ・ノブスケ流の(準)「戦時体制国家」の構築によって乗り越えようとしているのであり、そのための「戦争国家」化を、日米の「共通の敵」に対する“双務”的な軍事同盟への質的転化によって実現しようとしているのだと考えている。しかし、その実体をなす自衛隊や米軍は、どう見ても、日本国民の安全を守るためのものとは到底思えない。例えば、私たちが目にしている自衛隊は、「災害救助」の役割を担ってくれてはいるが、原発を守ろうともしていないその姿は、主権国家の「個別的自衛権」の主体とすら思えず、ただアメリカの世界戦略の中に補完的に位置づけられたものでしかないと考えざるを得ない。さらに、日本に極東最大の軍事基地を持つ米軍が何のために存在しているのかと言えば、日本を守るために、では決してあるまい。自主防衛派らしい人々が、有事の際にアメリカは日本を本当に守ってくれるのかと心配しているようだが、アメリカは、日本や東アジアを戦場にすることはあっても、それは日本を守るためのものでないことなど自明のことだろう。核保有国同士は全面核戦争によって共倒れにならない範囲内で覇権を争うのであってーーーとはいっても、その共倒れの回避も保証されたものではないのだがーーー彼らにとって、いわゆる「代理戦争」や「地域紛争」は織り込み済みの事態と考えて間違いあるまい。しかも、今流行りの「核抑止力」も、アマルテア・センが言っていたように、中印の核武装はカシミール紛争を防ぐことができなかったのであり、主権国家の国権主義的指導者たちにとっては、核兵器の保有とその相互的な不使用はお互いの生存を保証してくれるのかもしれないが、その視野の中には戦場で犠牲となる一般民衆のことは数字としてしか存在しないようにも思われるのだ。

  (※今日の暑さはすごかった。夕食の時、初めてクーラーを入れた。テレビでは、フィンランドとスウェーデンのNATO加盟にトルコが賛成したと報じていた。その見返りは、フィンランドとスウェーデンがトルコ国内におけるクルド人の分離・独立運動(ーテロ活動)への対応を変えるということらしい。ハ〜ッ?、成り行き次第で変えるんだ?! また、ロシアの悍ましい戦争犯罪についての報道も連日夥しい頻度で行われている。ただ、歳をとったせいもあるだろうが、もうこうした絵に描いたようなプロパガンダやダブルスタンダードには飽き飽きしているのだ。AALA諸国におけるそれとは全く異なるこれらの報道は、ウクライナの市民の犠牲者のためにではなく、日本の統治者たちによる日本の戦争国家化への後押しとしてなされているに違いないと思う。)

  長くなったのでもう止めるが、要するに、「日米安保体制」は、それが日本の国家主権の制限を認めているがごとき問題性はもちろん、その「進化形」たる集団的自衛権の容認に基づく「日米同盟」は、国際紛争を武力によって解決しようとの主権国家同士の軍事同盟に他ならないのであって、さらに、その戦争国家アメリカとの同盟は、日本を必ず戦争の惨禍の中に引き摺り込むことになるだろう思われる。もっとも、それは、世界最強の米軍基地が置かれている日本に「先制攻撃」がなされる可能性が高いと言うのではない。それは自滅を意味するだろうからだ。そうではなく、日本は米軍の実質的な指揮の下で、その「使いっぱ」にされるのだ。米軍が日本にいるのは、日本の支配層がお願いしたからと言う出来すぎた話もあるが、そんこととはおかまいなしに、アメリカは勝手に日本にいるのだ。そして、もし日本が米軍基地の撤去(安保条約の解消)や独自の核武装を試みようとすれば、アメリカはあらゆる手段を用いてそれを阻止しようとする可能性は極めて高い。つまり、日本を軍事的に「侵略」する可能性が最も高いのはアメリカなのであって、そうした意味で、アメリカの“言いなり”になっているのは、日本にとっての究極の安全保障だと考える「お利口さんのワンワン」もいることになる。しかし、その中でどれほど多くの一般人民の金や命や生活が犠牲になっていくことか。そうではなく、「非戦」に基づく「中立・全方位外交」こそが、日本と世界の平和を愛する人民の「平和的生存権」の実現=「人間の安全保障」に向かう道なはずだ。「日米安保条約」はやはり解消すべきものと言わなければならない。ついでに言えば、世界情勢は一人一人の一般民衆とはほとんど無関係に動いていく。だからこそ、一人一人の一般民衆は、主権国家のイデオロギーであるナショナリズム(国民意識)などに囚われることなく、いざとなったら、一人の人間として、逃げ、助け、闘い、面従腹背を決め込む、等々、己の生を生き、そして、死ぬしかないのだと思う。繰り返しになるが、私は、アベやタケナカやトウデンやハゲタカたちのために死ぬ気は全くないのだ。

  (※4日目に入ってしまったw。日記たる「ムリキブログ」最長のものになったはずだ。サロさんが足元で寝ている。抱っこして、ベッドの横に寝かせる。おやすみなさい。)

スポンサーサイト



「中立」政策について         ーーー9条の外交・安全保障政策とは何なのか?(1)

「上がらぬ賃金、減る年金」、それで、国家のために死ねってか(!)
  ーーー内政・外交共々、末期症状の日本をどう立て直すのか?

  
  ※昨日は「父の日」だった。なんと、夕飯はお寿司で(パック入りだけれどw)、おまけに、子供たちからは「MP3プレイヤー」(3300円のだけれどもw)をもらってしまった。本当にありがたいことだ。気候は梅雨の晴れ間で蒸し暑く、畑仕事は汗だくで、サロとの散歩も日が沈んでからにした。世の中、通常国会も終了し参院選間近だが、主権者とは程遠い無力な一般国民の感性からすると、「このクソのような政治屋と欲ボケした似非エリートたちが仕切るこの国はもうダメだ。」と思わざるを得ない。ただ、このクソのような政治を、少しでも私たちのような普通の一般人民のための政治にするには、ただフテっていてもしょうがないので、少なくとも、このクソのような政治に「不承知」であったことを言っておかねばなるまい。それが辛酸を舐めるだろう残される世代に対するお詫びの気持ちというものだ。

  戦時中だって、自分の生きている場が直接戦場とならないうちは「戦争」の何たるかを理解することは難しいと聞いた。しかも、その「戦争」に対しても、それぞれの諸個人が置かれた具体的な状況によって、さまざまな感情や思考や対応があるのだ。そして、今考えようとしている「日米同盟」や「中立政策」についても当然同じようなことが言えるだろう。

  今、詳しくはフォローはできないが、例えば、スイスやスウェーデンやフィンランドの「中立政策」は、それぞれの国が、その具体的な国際情勢・国内情勢の下、その国の安全保障、というよりは、その国の「人民ー国民」の命と生活を守る上で最も妥当な選択として採られてきたものだと言えるだろう。つまり、それは、単なる観念的な「理想」の実現なのではなくて、現実的な「人民ー国民」の「平和的生存権」や「幸福追求権」実現のための具体的方策だったということだ。そのことは、「非武装・中立」(!)のコスタリカの場合についてもいえるーーー足立力也の『平和って何だろう: 「軍隊をすてた国」コスタリカから考える 』や『コスタリカを知るための60章』(III)(IV)などを参照。そう考えた時、今回のウクライナ戦争を契機とするスウェーデン・フィンランドのNATO加盟への意思表示、すなわち、これまでの「中立」政策の転換についても同様なことが考えられなければならない。そして、今回の動きに対する私の第一感とは、「永世中立国」スイスの米ソ冷戦終結後の国連加盟の背景が(対立する二超大国の一方)ソ連の崩壊だったように、今回のスウェーデ・フィンランドのそれは、ロシアの脅威の増大というよりは、ロシアの現在から将来にわたる弱体化の故ではないかというものだった。もちろん、その根底には、両国民多数派のかって侵略を受けたロシアへの嫌悪の情があることは確かだろう。ただ、そうした両国民の選択が「正解」なのかどうかはわからない。つまり、NATOの通常戦力における圧倒的優位そして米露間の全面核戦争を非現実的と見積もったとしても、両者間の地域的な限定核戦争の可能性は否定できないし、また、これまでの「中立」政策のメリットが失われることが将来の国際関係の枠組みの中でどのような効果を両国民にもたらすかは不明と言って良い。つまり、それがロシアとの軍事的緊張関係や経済的依存関係に直接マイナス効果をもたらすことは言うまでもないが、さらに、ロシアの中国やインドとの関係はもちろんのこと、ロシアと(これまで欧米-NATO諸国の「支配」を受けてきた)発展途上国との関係がどうなるのかも未知数だからだ。もちろん、そうした選択はスウェーデンとフィンランドの政府と国民自身のものだ。ただ、そうして形成されていく「新冷戦」の構造(軍事同盟の拡散・強化)が、核兵器禁止条約の動きに見られるようなより安全・公平な国際秩序の形成の動きと矛盾することはいうまでもあるまい。事態は近代主権国家(の統治エリート)の論理で動いていく。しかし、それと世界の一般人民の「命と生活」(「平和的生存権」と「幸福追求権」の追求)とが容易に一致しないことが「キモ」なのだ。

  今日はこの辺にして、畑に行ってくる。次は「日米同盟」についてこれまで考えてきたことを略記してみたい。

日本の言論が歪んでいるーーー9条が隠されている

化けの皮が剥がれるということ
 ーーーポロリと顔を出す、「お友達」政権の提灯持ちたちの本音


  ※サロさんの介護が大変だ。寝ている時以外は、私の姿が見えなくなると子犬の様な声で呼ぶ。また、夜中に便意をもようした時にも、鳴いて知らせる。そうなると、”圧迫排尿”の後、オムツを交換する必要があり、慢性的な睡眠不足に悩まされることになる。一方、サロさんの足が弱ったので台車に乗せて散歩する様になったため、返って運動量が増えて私の体調は上向いている。一長一短ではある。しかし、どちらにしても、予想していなかった事態だw。
  庭仕事や畑仕事は、梅雨入りということもあって、一段落だ。ただ、今年の畑には少し自信がある。失敗続きだった平さやエンドウも立派に成長している!音楽では、中村晃子の「虹色の湖」が何故か頭に浮かんでくる。「ふるさとの村にある喜びも忘れて」というサビの部分に反応しているようだ。田舎者の望郷の念だろうか。読書では、ティム・インゴルドの『人類学とは何か』を読んだ。未だに自分を「定義」づけることのできない私にとって、人間を千変万化の諸過程の中で関係論的に把握しようとする筆者の見方には慰められるところがあるw。まあ、何処かの学者さんたちの様に、物事を静態的に捉えてわかった様な気になっても仕方あるまい。

  さて、夏の参院選までに自分なりにひと一通りのことを考えておきたいと思い、次は「日米同盟」と「中立」政策について書くつもりだった。しかし、なかなかまとまった時間が取れなかったり、スピルバーグの『ペンタゴンペーパーズ』を見て改めて打たれるものがあったりしたので、今日はまずそれについて書いておくことにする。それにしても、映画の中のアメリカ人は、一般民衆と知識人とを問わず、自らの憲法ーーーこの場合は、修正第1条(言論の自由)のことだがーーーに「誇り」を持ち、それを現実のものにするために「骨」のある行動を取ることのできた人物が相当数いたのだ。それを現状の日本と比較してみるとーーーこの場合は、第9条(戦争放棄)のことだがーーー、暗然とした気持ちにならざるを得ない。もちろん、ベトナム戦争当時と比較してアメリカ社会も大きく変質しているらしい。しかし、ウクライナ問題についても、キッシンジャーからオカシオ=コルテス、そして、イワン・ブレマーからチョムスキーまで、「骨」を感じさせる知識人の存在が感じられるではないか。それと比べて、日本の大手メディアに登場する常連さん達は、私が目にする限りにおいて、とてもそうした人物とは思えないのだ。

  それどころか、人間の悲しい(?)性の一面を表しているのだろうけれど、権力や富へのなりふり構わぬ執着と浅薄な差別意識を剥き出しにした輩たちが地上波の「液晶ディスプレイ」w上で鉄面皮を晒している。こうした輩が言っているのは、要するに、「強者・富者」たちの利益の正当化であり、「弱者・敗者」たちへの侮蔑の妄言に他ならない。もちろん、「強者・富者」への”憧れ”を煽るその影響力は決して無視できるものではないが、この手の効果は「事態」の変化によって容易に移ろいゆく代物とも言えるだろう。これに対して、一見、中立的、技術的、客観的な装いをとりながらも、実際は、都合の良い事実あるいは見方だけを選択・提示し、そのことによって、より狭い選択肢の範囲内に人々を囲い込む手法が存在する。つまり、この手の番組は「極論」を排して「中道」をといった体裁を取っているわけだが、どっこい、その内実は、エスタブリッシュメント内部の(右の)「極論」は素通しなのであり、それに対して、なんと日本国憲法の基本原則に基づく言論などは見事にカットされるのだ。もちろん、前提となる「客観情勢」自体が、欧米メディですら陥らないような、バイデン=ゼレンスキー政権側のプロパガンダの一方的垂れ流しとなってもいるのだが、その上で、日米(軍事)同盟の声高な強化路線とそれに対する及び腰の「懸念」といった構図だけが示されるわけだ。
 
  日本のエスタブリッシュメントは、日本を「戦争当事国」にしたくて仕方がない、あるいは、そうなる準備に専心しているとしか思えない有り様だ。そして、その手法は、原発再稼働への策謀と同様に、大手メディアと連携した見えすいた「ショックドクトリン」(恐怖心の操作)とエスタブリッシュメントの都合に合わせた「フィルター・メカニズム」、そして、それに基づく偽りの「二者択一」の仕掛けと見ることができる。そして、そんなやり口を可能にするのが、日本大手メディアの「寿司友」経営者たちと野放しにされた「傭兵」たちとお利口さんの「ジャーナリスト」たちというわけだ。しかし、注意深く見ていると、こうしたお利口さんたちの上手の手からも、「お友達」に擦り寄る「本音」が次々と飛び出てくる。例えば、ウクライナの悲惨な現状に情緒的に反応しているように見せていた学者が、突然、エスカレーションもなんのその、ウクライナの徹底抗戦とそれに対する武器供与を強烈に主張する。この先生、あの悲惨な沖縄戦にも、これからの沖縄へのミサイルの配備にも肯定的なのだろうと思ざるを得ない。また、トランプには批判的だがバイデン路線には同調し、日本人の戦争観の変化を肯定的にとらえているらしいある学者は、人道の危機を語りながら、日本のNATOとの連携やアジアでの「軍事同盟」強化を当然のように語る。この先生の頭にはもう憲法9条も立憲主義もないのだろう。また、「反骨」を売り物にしていたあるキャスターは、軍事力礼賛者に無批判的に語らせるだけではなく、核抑止力に関連して、「ドイツ人は日本人のように核アレルギーはないのですか」とまで宣うのだ。日本人の反核感情は治療を要する病気みたいなものというわけだ。

  今や日本の大手メディアの言論状況は、「非武装」や「中立」は言わずもがな、集団的自衛権の否認や専守防衛や非核三原則のも全くなかったかの様に「議論」が進められていく。日本の大手メディアの「知識人」たちはこんなものなのだ。日本という国の先行きが明るいはずはない。やばい!もう、ねる!


「人間の安全保障」を支える「平和的生存権」    ーーー『現代文 トルストイの日露戦争論』から

人間が人間として平和に生き、暮らしていくためには、
 過渡的なものであれ、国民国家・主権国家を超える視座が必要だ! 

  ※今日は猛烈に暑い。午前中に畑仕事を終えたが、この気温上昇は危険だ。また、電気・ガス・水道代など、公共料金の値上がりも激しい。慎ましく暮らしているつもりだが、これもかなりヤバそうだ。散歩もしてきたが、風はあったけれど、サロさんは台車の上でハアハア言っていた。この夏を乗り切るのは大変そうだな・・・

  一昨日、テレビで「報道特集」を見ていたら、ロシア軍兵士の相談を受けている弁護士の話をやっていた。兵士たちの話を聞いていると、『トルストイの日露戦争論』(国書刊行会、2011年)のことが思い出された。そこには、家族や職業から引き離され、良心に反して殺人を強制され、将棋の駒の如くに使い捨てられる一般民衆の姿が極めてリアルに描写されているが、現代のロシア兵たちも、トルストイが見聞きした日露戦争当時のロシア兵たちと同じ様な訴えをしていると感じたわけだ。また、この本の巻末には、トルストイの論文を掲載した(日英同盟下英国の)『ロンドンタイムズ』の論評も載っているが、その内容は現代のマスコミでもよく見受けられる「お利口さんのワンワン」の見解(イデオロギー)の典型を思わせるようなものだった。しかし、その止むを得ない「(正義の)戦争」ーーー実際は、朝鮮半島の権益をめぐる帝国主義国家間の戦争だろうーーーとやらが、膨大な普通の人々を死に追いやっただけではなく、その防止の展望すら示めせなかったのは明らかなことだ。確かに、トルストイの倫理的価値意識はキリスト教のそれであり、私はキリスト教徒ではない。しかし、キリスト教徒でなくとも仏教徒でなくても、彼の言葉は、どの様な”言い訳”も通じない不条理な『現実』を勇気をもって告発するだけではなく、自らの「生」の主人公たるべき私たちに、自らの基底的価値意識に基づいた”選択”を呼びかけるものとして、普遍的な価値を持つに違いないと感じる。

  確かに、近代の国民国家・主権国家は、その内部とその相互関係の中に解消できない矛盾を抱えながらも、一定の「必然性」をもって成立したということはできるだろう。つまり、国家内部及び国家間関係の双方における、相互的な依存関係と敵対的な支配・従属関係だ。ただ、その矛盾を解消する方向性に向かうとすれば、それは、「民族」や「階級」を超えた、「人間」の解放として、つまり、一人一人の個人が、この地球上で、自由に、平等に、平和に生きていける社会の実現という方向性を取らざるを得ないだろう。しかし、近代の「民族の解放」や「民主主義」には、依然として、民族間の優劣や諸個人間の優劣を主張する様々なイデオロギーが張り付き、その実現を困難にしてきたことも事実と言って良い。

  ところが、「日本国憲法」は、近代の国民国家・主権国家の憲法でありながら、その限界を超える視点も含まれている。すなわち、諸個人が一人の「人間」として「平和に生きる権利」(平和的生存権)という規定だ。それは国際人権法や世界人権宣言につながる性格のものと言えるが、『日本国憲法』は、さらに、世界の中で生きる諸個人の「平和に生きる権利」実現のための「制度的保障」として、侵略戦争の否定(=「戦争放棄」)にとどまらず、主権国家の常備軍の廃止と交戦権の否認にまで突き進んでいるのだ。現在、「国家の安全保障」とは異なる「人間の安全保障」の構想が強く求められているが、それを支えるのが『日本国憲法』の人間一人一人の「平和的生存権」という視覚であり、そして、又、それを求める具体的な声こそ、トルストイがその論文の中で書き記したような一般民衆一人一人の声だと言って良いだろう。それだからこそ、現代の国権主義者たちとそれに付き従う「お利口さんのワンワン」たちは、そうした一般民衆の声をかき消し、あるいは、主権国家ー国民国家の論理の中に閉じ込め、また、『日本国憲法』の「平和的生存権」と9条2項を”普通”の主権国家の原理を否定するものとして排斥しようと必死なのだ。

  もちろん、それを支え、包み込み、可能とする国際的「秩序」をどの様に作り出すのかという問題は別だ。これについては、個人的には中村哲氏の生き方に共感を覚えるし、また、過渡的な主権国家のあり方としては、コスタリカの例などに注目している。また、現在、ロシアのウクライナ侵攻を機にスエーデンやフィンランドが伝統的な「中立」政策を転換しようとしているが、これについても、後日。

「拡大抑止」〜台湾有事への軍事的関与だとよ!ーーー静かな日本、これは何を意味するのか?

なし崩し的な『日本国憲法』の破壊!
  ーーー立憲主義を壊して何が自由・平等・人権・法の支配だ!


  ※最近は、庭仕事と畑仕事が本当に楽しく感じられる様になった。サロを傍に置いたり、手作りのキャリアで畑まで運んで仕事をするわけだが、何か「生きてる!」という感じがするw。もうすぐ後期高齢者だが、こうやって暮らしていけることは幸せなことだと思う。しかし、日本のこれからの世代の将来を考えると、不安と怒りが込み上げてもくる。

  バイデンはもう「死神」を思わせるような雰囲気を漂わせている。そして、日本国100代目首相キシダは、ヘラヘラと得意満面(!)で彼にへつらっていた。私は「民権」論者なので、「勝手に決めやがってふざけんじゃねえ!」と怒り心頭なのだが、「国権」主義的観点から見ても、よくまああんな「国辱」的姿を晒せるものだと思う。そうか、こんな風に日本は破局へと向かっていくのか、と深く憂慮せざるを得ない。だが、プーチンがロシア人民によって裁かれるだろう様に、バイデンもアメリカの民衆自身によって責任を問われることになるだろう。しかし、なし崩し的に自国の『憲法』が踏み躙られていくのを指を咥えて見ている日本国民はどうなるのだ。またしても、あの侵略戦争の場合と同じ様に、愚かで、セコくて、恥知らずな似非エリートたちを免罪していくのか?もしそうなら、お人好しにも程があるというものだろう。

  今回の「日米首脳会談」の内容はことごとく日本国憲法(9条)の「平和主義」を破壊していくものだ。敵基地攻撃能力の保有、アメリカの(核をも含む)「拡大抑止」へのより緊密な連携、防衛費の増額など、「専守防衛」や「非核三原則」をはじめ、憲法9条が禁じる 「軍事大国化」=「戦争国家化」への露骨な接近と言える。これらのことを、キシダは国民的な論議はもちろん、まともな国会での議論も無しに、また、事実の隠蔽はもちろん、子供騙しの如き言葉の言い換えなどを駆使しつつ、鉄面皮にも推し進めているのだ。

  大体、バイデンが日本に求めている「安全保障」の内実が日本の国民にとってどの様なものであるのかを岸田たちは考えたことがあるのだろうか。私の見る限りでは、戦争国家アメリカは、(1)核保有国同士の直接的な衝突(全面核戦争)は避けつつ、(2)その「冷戦」体制の中での中間的諸地域への「競争」的介入や限定された地域的戦闘(代理戦争)にはその都度式に対応し、(3)最低限、関係国民の恐怖心を煽って抑止名目での軍拡を推進して「お友達」(軍産複合体)の利益を実現する、というわけだ。つまり、アメリカは、中国との本格的な核戦争は望まない。何故なら、飛んでくるミサイルを防ぐ手立てはないからだ。だからと言って、核兵器を廃絶する気などは全くなく、その「恐怖の均衡」のなかでの相対的な優位をあくまでも追求し続ける。そして、「お友達」が壊滅的な打撃を受けない範囲内において、その経済的・政治的利益実現のために、その他の諸国・諸地域に対する軍事的介入をためらうことはない。というよりは、そこに形作られる敵対的関係と紛争こそが「お友達」の利益を保証するからだ。それを止めうるのは、そうした「お友達」の利益のために動員され、戦わされ、犠牲となる「お友達」以外の一般民衆の反対と抵抗と革命以外にはない。それ故に、一般民衆を「お友達」のための戦争に動員する様々なプロパガンダが用いられる。ナショナリズム、友-敵観念、ヘイト、宗教、そして、勝ち馬に乗らんと戦々恐々たる群衆向けの「勝った勝った」の大ボラ、等々だ。もっとも、日常的な暮らしの中で一般人民の命や生活を大事にしていない政府や「お友達」たちは信用されるはずもなくーーー騙されることはあるがwーーー、権威主義的な恐怖や国権主義(ー反人権)的な合法性によって国民を強制するしかないことになる。どこかの国の様にだ。どちらにしても、いくら国民の安全や命を守るとか言っても、「主権国家」の軍隊は「主権国家」(の支配者たち)を守るのであって、一般国民を守るわけではない。というよりも、それは、一般人民に幻想的な「国益」や「領土」のために犠牲を求め、それを前提とすらしているのだ。このことを忘れてはいけない。

  今回のバイデンーキシダの合意事項も、軍事的には、米日エスタブリッシュメントの権益を守るための対中包囲網の一環として、中国の「第一列島線」上に位置するとされる沖縄県に中距離(核)ミサイル基地を設けようとするためのものと考えるのが一番妥当だ。そして、バイデンが台湾有事への軍事的コミットメントを明言した以上、そのことは、沖縄県民の命と生活を守るどころか、「敵国」の最初の攻撃目標としての犠牲を押し付けることになるのだ。しかし、キシダたちは、北朝鮮も同様なのだが、最強国アメリカに張り付いていれば攻撃されることなどなく、ただ、恐怖心を国民に注入して軍拡を推進できれば、「お友達」は倍増された防衛予算でおいしい思いができるぐらいにしか考えていないことだろう。つまり、(3)の段階に収まって丸儲けというわけだ。

  しかし、ウクライナの例を見ても分かる様に、「代理戦争」に駆り出される地理的に微妙な「衛星国家」はそんなにのんびりしてはいられない。米中の対立が軍事的に加熱し、一線を越えることになれば、米中は、(1)を避けるために戦闘のレベルと地域を一定のところに限定しつつも、(2)の段階での武力紛争を躊躇うことはない。何故なら、それは、「お友達」の権益にとって願ってもないことだからだ。ウクライナの戦況も、大枠、こうした線で推移していると考えられる。先日、ゼレンスキーは「2月24日の侵攻開始前の状態」を停戦から戦争終結への一つの目安とすると発言している。しかし、それはクリミア併合とミンスク合意の線へ戻るということではないか。それでは、アメリカの“軍事的支援”を受けながらドンバス地方とクリミアの奪還を進めようとしたゼレンスキーの方針はどうなるのか。もちろん、ゼレンスキーはウクライナの軍事的勝利がアメリカ(やNATO諸国)からの軍事的支援に依存する(「代理戦争」)以上、アメリカの意向を無視することはできない。答えは明らかな様に思われる。「ロシアを追い詰めない」程度に戦争を継続し、新たな「冷戦」の境界線を形成しつつ、ロシアの弱体化とバイデンの政治的・経済的権益を増大させるということだ。実際、戦争を「殲滅」云々などとしたり顔で語る軍事オタクとは異なり、ウクライナ(アメリカ)とロシアが共に戦闘を「限定」していたことーーー首都キーウへの集中的なミサイル攻撃やロシア領への攻撃ーーーは明らかなことだ。それでは、「2月24日の侵攻開始前の状態」での停戦とその後の交渉によって新たな「妥協」と「安全保障」の枠組みが可能ならば、この間、犠牲となった非戦闘員や「任務が完了」するまで戦略的に放置された人々はどうなるのだ。かけがえのない命を奪われた人々とその家族・友人にとって、国家の「戦争」とはどのような意味を持つというのか。要するに、一般民衆にとって、それ自体として受容できる「正義の戦争」など存在するはずはないのだ。
プロフィール

SARO MURIKI

Author:SARO MURIKI
おりこうさんのワンワンです。年齢は、2021年11月現在満15歳です。見てのとおりの柴ですが血統書はありません。性別はオスで、飼い主には、「テン」付きのVIP、つまり、「お犬人様」と呼ばれています。歳はとっても、散歩をする時は、力一杯歩きます♪文句あっか。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
ワン・クリック・エリア

にほんブログ村 犬ブログ 柴犬へ
にほんブログ村 にほんブログ村 格闘技ブログ 剣道へ
にほんブログ村 にほんブログ村 政治ブログ 平和へ
にほんブログ村
リンク
QRコード
QR
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる