沖縄・名護市長選・・・ただ、こころが痛むが

 「一般ピープル」の〈自立〉には〈連帯〉が必要だ
     腐朽した「買弁」勢力に抗して生きていくために     
  
 

  ※心が痛む。しかし、自公維の〈軽蔑〉すべきやり口と歪んだ表情、そして、稲嶺氏や翁長氏たちの真摯な表情を見れば、選挙の勝ち負けよりも、私たちがこれから生きていく上での教訓を得たような気もした。

  落選した稲嶺氏の苦渋に満ちた記者会見でもっとも印象的だったのは、「私は常に20年30年、50年先の、安全安心を訴えて、やって来た」と言う言葉だった。悲惨な戦争を経験した親の世代とこれから長い人生を送っていく子供や孫の世代を繫ぐ私たちの世代は、自分たちのことはもちろんなのだが、子供や孫たちの世代にこそ責任を持たなければならないと言って良い。もちろん、今日も明日も危ないのだけれど、今基地を作らせないこと、その危険を次の世代に押し付けないこと、それに責任を持とうとしているのが稲嶺氏たちの考えだと思う。

  これに対して、自公維は、ナチスの手口を真似たつもりだろう、辺野古の「へ」の字も言わずに、「生活向上」(交付金や地域振興策など)の掛け声に隠れて、米軍基地を作ってしまおうというのだ。それは、暴力的な基地建設によって市民の〈諦め〉を誘い(まるで時代劇の封建的支配者のやり口ではないか!)、そして、これから必ず降りかかってくる基地被害に対する責任からも逃れつつ(「賛成したわけではない」って?!)、札束で頬を打ちながら、基地に依存した「虚飾・虚構」の生活向上への期待に人々を誘い込んだのだ。それにしても、公明党は、口先では平和だの、基地反対だのと言いながら、どうして基地建設を強行し、日本を戦争国家へと誘うアベ政権を支え、それを推進する諸政策の実現を手助けできるのだろうか。アベ政権をチェックするなどと宣っているが、基地反対なら、専守防衛なら、アベ自民党と手を組まず、彼らを政権の座につけなければいいのだ。全くの欺瞞と言って良い。

   おまけに、アベと「一心同体」の盟友は、あのトランプなのだ。トランプは、すでに、究極的な無差別殺戮兵器である〈核兵器の先制使用〉をすら政策に組み込むに至った世界最大のリスクだ。それはもう「核〈抑止〉論」ですらなく、ならず者国家のやり口に他ならない。そして、唯一の被爆国たる日本の外務大臣コウノは、なんと、それを「高く評価」すらしたのだ。まさしく、戦後「平和国家」日本の全面否定と言って良い。このままことが最悪の事態へと向かい、核戦争の下で無辜の民が多数犠牲となった時―――その犠牲者の中には拉致被害者も含まれているかもしれない―――、アベ=コウノと政権を共にした公明党はなんと言うのだう?!

   それにしても、アベ友たちのあまりにも〈エゲツない〉有様に、きっと、「教養人」・西部邁も耐えられなかったに違いない。実際、一般ピープルたる私ですら、名護市民の生活の厳しさにつけ込んだ今回の〈エゲツない〉やり口には、耐えられない思いがする。もともと、辺野古での米軍基地建設は、日本ためでもなんでもなく、ただ只管アベ友の利益を実現するためにアメリカに追従し、その犠牲を沖縄県民に押し付けようとするものでしかない。しかし、テレビでもやっていたが、少なからぬ市民が、「兵糧攻め」にされた苦しい生活の中、「どうせ作られてしまうのだから、負担を押し付けられるだけではなく、取れるものは取らないと・・・」と言ったところに追い詰められているようだ。そして、あの手の輩は後で必ず言うのだ、「結局、金目でしょ」と。さらに、色男を気取った小泉シンジロウあたりが、このバカバカしい粉飾決算以下のアホノミクスの有様の中で、「今の好景気の波が必ず名護にもやってくる」などといったことをしたり顔で言うのだ。また、稲嶺氏のパンダ云々といった話についても、小泉あたりが揶揄するのは想定されることではあるが、それをもって敗因とするかようなしたり顔の論評は下品とすら言える。

   富裕な支配層は、自分たちの利益を実現するために、彼らが犠牲を強いる人々が共通の利害でまとまることを阻止しようと、政治・経済・イデオロギーの様々なレベルで「孤立化」と「統合」を図っている。そうした中で、日常生活を送るノン・エリートの普通の人々とその家族にとって、生きていくための「仕事」の重みは何よりも重いのだ。こうした中で、私たちが「自立」して自分たちの人間としての利益を貫くためには、むろん「やせ我慢」も必要なのだが、経済・社会生活上の「連帯」がなにより必要なのだと改めて思うのだ。私的・公共的、様々な領域と形での「連帯」が模索されなければならない。我が身を振り返りながら、そう思う。

   『朝イチ』が・・・  
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〈手作業〉の面白さ―――大雪の2週間から

    ヒトとしての「力」と「喜び」を感じる時

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大雪の日、僕の後に道はできる

   ※この2週間は何しろ忙しかった。大雪の除去作業をはじめ、その後の連続する寒波で、色々な機器に不具合が生じたからだ。ただ、それらをなんとか〈修理〉しようと夢中になっていると、なぜかヒトとしての喜びを感じたりもしたのだ。今日は、それらのことについて書いておきたい。

  別にレヴィ・ストロースの「ブリコラージュ」(日曜大工)を気取っているわけではないが、私はどちらかというと機械類を修理したりするのが好きなようなのだ。若い時には、B君から1万円で譲り受けたシヴィック1500ccに、オイル交換やスロー調整をはじめとする様々なメンテナンスを加えて喜んでいた。しかし、車がコンピューター制御になってしまってからは、私には全く手に負えない代物となってしまった。いいのか悪いのか・・・

  ところで、「ブリコラージュ」といえば、向かいの住人は寒波で凍結した道路の氷をつるはしで割っていたが、これに対して私は、農作業で使っている備中鍬や平鍬、剣先スコップやアメリカンレーキを、雪と氷の状態に合わせて使ってみた。作業能率が全然違うので、辛い作業ではあったが、なぜか楽しい気分になることもできた。

  また、氷点下の日が続いた時には色々なところに被害が出た。一番軽いのは、庭の散水栓の吹き出し口のところが、中の氷の膨張によって見事に壊れてしまったというものだ。この他にも、給湯器が凍結してしまったり、また、原因は定かではないが、風呂の追い炊きができなくなったりもした。その時、風呂釜のフィルターの清掃などをやってみたのだが、その結果、昼過ぎには追い炊きができるようになり、業者に依頼していた修理をキャンセルすることができた。少しは家計の足しになったかもしれない。

  また、地震のせいもあってか、靴箱の蝶番がうまく閉まらなくなってしまった。これには、蝶番を付けたり外したり、色々な調節もしたのだが、結局、新しいものに交換しなければならないことが判明した。当面は、磁石付きの蝶番で押さえることにはしたが、合計3時間はかかっているだろう。とにかく、最近の蝶番はかなり複雑な(?)仕組みになっていることが初めてわかったのだ。

  さて、一番驚いたのは、月山まで行った50ccのベンリー号のエンジンが不調になったことだ。なんとエンジンオイルに大量の水がたまり、キャップを開くと水で薄められたオイルが吹き出してきたのだ。バイク屋さんの話では、暖機運転をしっかりしないとガソリンが燃焼する時に出るなんとかというガスが冷却されて水になってしまうのだそうだ。ただ、その時も、懐かしのチョークやアイドリング調整のためのネジをいじって、妙に楽しく感じたものだ。

  また、一番嬉しかったのは、音がうまく鳴らなくなっていたレコードプレーヤーを復活させたことだ。はじめは古いイコライザーのせいかと思っていたのだが、兄から送ってもらった新しいものに取り換えても変化がなかったので、その後、電話で話をしながら、ゼロバランスやカートリジの接点の清掃、そして、アンチスケーティングやオイルダンプのダイヤル類などを、文字通り、押したり、引いたり、回したりした結果、なんと綺麗な音が復活したのだ。要するに、40年以上前のアナログ式の機器は、メンテナンスさえ良ければ、100年でも使えそうなのである。50ccのベンリー号も「10万キロはいけますよ」と言われたが、こんな世界もいいなあ、とつくづく感じたものだ。

  また、今週は、知人からもらったヒノキの小板を彫刻刀で削って鼻笛というものを作ってみた。ヒノキの硬さには閉口したが、完成度は低いものの、一応、音の出るものが出来上がった。「笛」という楽器なわけだが、どうやら、吹き出た息をどう「邪魔」するかによって音が出るようなのである。その「邪魔」の仕方こそがポイントだった。面白いものだ。大昔の人々もこうやって色々な道具と戯れて喜んでいたのだろう。私は、手芸や工作などはあまりやらなかったが、その気持ちも良〜くわかるような気がした。

T・ペインの『コモン・センス』一般ピープル論(4)

  人民の経済的「自立」と政治的「自治」=共和制
      アメリカの独立〈革命〉に見られる民主主義の本義



   ※大変な一週間が過ぎた。実際、20センチ以上の積雪とマイナス7度とか8度とかの世界だったわけで、生垣のゴールドクレストが真っ二つに折れ、続く寒波で給湯器が凍りつき、そして、道路を覆う氷の「破砕」ー除去作業が思いの外きつかった。サロさんも雪の上では「僕の後ろに道ができる」とかドヤ顏だったが、氷結した道路の上では滑って後ろ両足をしょっちゅうとられ、困惑していた。北国育ちの私としては懐かしくもあるのだが、やはり、雪と寒さは、正直、きつかった。この間行った様々な作業や〈修理〉については次回。

   さて、トマス・ペインの『コモン・センス』であるが、これは、フランス革命における『第三身分とは何か』と同様、アメリカ独立革命(1776年7月)の直前(1月)に出されたパンフレットで、イギリスからの分離・独立をアメリカの人々の「常識」たらしめた決定的な文書と言われている。もちろん、アメリカ独立革命といえば、まず、『独立宣言』を起草したジェファーソンの思想を思い浮かべるだろう。確かに、ジェファーソンの民主主義・共和主義の思想は、現代にも生き続けるアメリカ的理想主義の最良のものの一つであり、現代社会の諸問題にも幅広く適用しうる極めて意義深いものと考えられる。ただ、自身が「一般ピープル」としての辛酸をなめているトマス・ペインの『コモン・センス』は、上層市民だけではなく、より広範な「一般ピープル」への波及力という観点から、そして、独立革命 に参加した人々の息吹を感じ取る上でも、必須のものと言える。彼は、その後義勇兵となってイギリス軍と戦い(『アメリカの危機』)、また、フランス革命(1789年)に際しては、エドモンド・バークの『フランス革命の考察』(1790年)を批判して『人間の権利』(1791年)を著し、人民による革命を擁護している。

   ところで、私の問題意識は、アメリカ人民がどのような思想や現状認識によって民主主義の〈主体〉=主権者たり得たかということだ。そして、この点において再度確認しておかなければならないのは、アメリカ独立革命が、その後の民族解放闘争に大きな影響を与えた、「〈民族〉の覚醒」に基づく植民地の「〈独立〉戦争」というだけではなく、あくまでも、君主制と世襲制を否定し、人民主権の共和制を実現した「〈革命〉」に他ならなかったということだ。確かに、フランス革命もそうだったように、異民族の王家への対抗心がなかったとは言えないだろう。しかし、それは、あくまでも、〈自然権〉思想に基づく〈市民政府〉の形成というよりラジカルな性格を持っていたことをしっかり押さえておく必要があるのだ。我国の自由民権運動における植木枝盛作詞といわれる『民権数え歌』(六つとセー、昔を思えば亜米利加の独立したのもむしろ旗、この勇ましや 十五とセー、五大州中亜米利加は自由の国のさきがけぞ、この嬉しさよ)はアメリカ独立革命の影響を見ることのできる大変興味深いものだが、どのような政体(ex.立憲君主制)を選択するのかは別として、フランス革命へと続くアメリカ独立革命の根本的特質がこの共和制にあったことは忘れてはいけない。
 
   こうした視点で『コモン・センス』を読んで行くと―――直接的な引用はできるだけ避けることにするが―――、そこには、ロック的な〈自然権〉思想や直接神と向かい合う自由で平等な人間というプロテスタント的な思想に基づく極めて激しい王政批判と世襲制批判があり、また、これまでのアメリカの「恵まれた状態」及び将来にわたるさらなる繁栄の可能性、それを破壊せんとした7年戦争以降のイギリス政府による数々の「暴政」、そして、そうしたイギリスからの分離・独立による政治的「自治」=共和制の実現の提唱(自分自身を統治するのは、我々の自然権である)があった。そして、私が特に注目するのは、こうした議論の基底をなす、当時のアメリカの人々が彼らの生活体験の中から獲得し、共有していた実際的な良識(practical good sense)、すなわち、「コモン・センス」とはなんであったかということなのだ。そして、こうした問から浮かび上がってくるのは、独立革命以前にすでにアメリカで形成されていた、言うなれば、「自然権」的な世界なのである。すなわち、彼らの多くは、迫害や貧困から逃れてイギリスや大陸からやってきた移民なのであるが、本国イギリスから遠く離れているという利点によって、王家や領主層による厳しい封建的収奪やイギリス政府による直接的な収奪から相対的に免れることができ、(クエーカー教徒を代表とするような)プロテスタント的な倫理に基づく自由・平等な「共同体」を形成し、その中で自己労働に基づく「個体的所有」と自由な貿易による経済的な「自立」を達成し、また、タウンミーティングやウォードから大陸会議に至る政治的な「自治」を発展させることができていた、ということなのである。もちろん、先住民との関係や黒人奴隷の問題なども指摘できるが―――ジェファーソンやペインは建国に先立つ時点から奴隷貿易や奴隷制に反対している―――、こうした極めてわかりやすい「恵まれた」条件によって、普通の働く人々(農・工・商の「平民」)が自分たちこそが社会を実質的に担っているのだということをはっきりと自覚することができ、社会の主人公としての「矜持」を持つことができたと考えられるのだ。すなわち、「(自分たちのことは自分たちでできる)自立」した植民地の人々にとって、とりわけ7年戦争以降のイギリス本国による「暴政」は、まさしく、「寄生」そのものと受け取られたことだろう。そして、こうしたイギリス国家との敵対的な関係性の中で、彼らは、それからの分離・独立(→独立戦争)によって、新しい13の植民地による〈人民主権〉の「公共」的世界(アメリカ合衆国)の形成を試みたのだ。そして、それは、階層的な特権を貪ろうとしたイギリスの「エリート」たちの「俺たちあってのお前たちだ」という「主従関係」の意識を根底的に否定するものだったに違いない。実際、その後に続くアメリカ合衆国の歴史は、不十分ながらも(!)、「人民の、人民による、人民のための政府」たる共和制国家が、清教徒革命におけるクロムウェルの独裁やフランス革命におけるロベスピエールの独裁などを経ずしても、実現可能であることを見事に立証したといってもよいであろう。

   こうした観点から見た時、私たち現代日本の「一般ピープル」は、自分たちが社会を実質的に担っているという確固たる意識を持ち得ていると言えるのだろうか? また、そうした自分たちが自分たち自身の公共的世界を作り出すことができていると言えるのであろうか?もし、それができていないとすれば、それはなぜなのだろうか?それが、次の問題である。
   さらに、もう一つ付言すれば、あたかもアメリカの「植民地」あるいは「従属州」のごとき今の日本の有様を思う時、日本の国民は、そうした観点からも、ペインの『コモン・センス』を再度味読すべきだと思う。アベ政権の〈買弁〉性が良〜くわかるというものだ。全く情けないことだ。


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スーパー・ブルー・ブラッドムーンに(2018/1/31)







社会を実質的に担っているのは?一般ピープル論(3)

 「一般ピープル」とは何か?
     ―――それは「第三身分」(シェイエス)である



   ※昨年末の左ひざの負傷から、健康の大切さが身にしみてわかるようになってきた。体を動かすことが少なくなると、本当に柔軟性の低下が著しい。これはヤバい! 先週の月曜日にも医者から老化を指摘されたが、一昨日も別の医者に「油切れですね」と言われてしまったw。もう身の丈にあった「老人モード」で生活しなければならないということだろう。しかし、先日、テレビで〈葉酸〉の重要性を知ったので、私も自分で育てたブロッコリーなどをせっせと食べて、早く左ひざを回復させ、適度な運動によって筋力と柔軟性の維持に努めようと思っている。しかし、それにしても、本当にこのような時が来るとは(笑)。子供たちよ!よーく心得ておくがよい。人間は歳をとる。私の初めての人生訓だw。


   さて、シェイエスの『第三身分とは何か』は、1789年1月に出されたパンフレットで、当時の「大ベストセラー」となって、フランス大革命(7月4日〜)に大きな影響を与えたと言われている。筆者シェイエスは、第三身分の生まれで、イエズス会の聖職者身分(→修道院長)となったが、第三身分陣営に身を投じて、三部会や国民議会の議員として指導的な役割を演じた人物である。有名な「テニスコートの誓い」を起草し、人権宣言の公布にも大きな影響を与えたとも言われている。

   それでは、本の題名とも重なる、有名な一節を確認しておこう(訳は、拙訳w)。

Qu'est-ce que le Tiers-État ?  Tout.
 第三身分とは何か?・・・全て
Qu'a-t-il jusqu'à présent dans l'ordre politique?  Rien.
 それは政治的秩序の中で現在までいかなるものであったか?・・・無
Que demande-t-il à devenir?  Quelque chose.
 何になることを求めるのか?・・・それがそうである何か(全て)に
       
   これは、フランスの変革を目指したシェイエスが、哲学者としてその目的を明確に示し、また、政治家としてその目的を困難な状況の中で一歩一歩実現していこうとする意志を示したものと言える。当時のフランスは、『旧制度(アンシャン・レジーム)』という、王権と結びついた第一身分(聖職者)と第二身分(貴族)が、領民支配権と様々な特権(免税権や政治的代表権など)を持って、第三身分(農民と市民)を支配する体制だった。こうした中、「ノン・エリート」たる「第三身分」が、特権を享受する「エリート」たちに対して、我々こそが全てであるという力強い宣言を成し得た根拠は何処にあったのか。それが私の注目したところだ。

   シェイエスによれば、国民が存続し、栄えるためには、個人的労働と公職が必要だ。「個人的労働」には、まず、農業、工業、商業という「実利的はたらき」がある。さらに、この他にも、「多くの個人的労働と個々の人に直接役に立ち且つ喜ばれる仕事」が必要で、それは、学問的職業や自由業から「家庭内の仕事」までをも含んでいる。そして、このように、社会を維持するのに必要な労働を担うものこそが「第三身分」なのだ。また、「公職」(これ自体、第三身分の貢納・納税によって成り立っているのだが)には、剣、法服、教会、政治がある。そして、これらの職の20中19までを第三身分出身の者が占めている。しかし、名利伴う地位は特権身分に独占され、彼らによって第三身分は束縛され、抑圧されているのだ。こうした様々な特権を享受している―――物の生産に何一つ協力しないくせに最も良いものを消費できる―――特権身分は、フランス国民、フランスの生活共同体にとって、「異邦人」・「重荷」に過ぎない。それ故に、特権身分がいなくなってもなんら困ることはなく、かえって、自由で生き生きと生活できるというわけだ。つまり、特権身分は、いなくなればかえって健康になる、寄生虫のような存在と認識されたのだ。このように、「第三身分」は、寄生虫的に特権を貪る支配者に対して、国民経済を支える社会的分業の一員(個)としての自覚から、直接生産者としての「矜持」と「国民」的一体感(→「ナショナリズム」)を持つに至ったといってよいと考えられる。

   さて、前回述べたように、私の「一般ピープル」の原初的なイメージは、このシェイエスの「第三身分」によったものだ。それは、社会を実質的に支えている幅広い〈労働〉の担い手であって、現代的に表現すれば、「ノン・エリートの」という限定はつくが、社会的に有用な財やサービスの生産(「金融経済」に対比される「実体経済」)に費やされる「労働」の担い手と言っていい。そして、私の私的生活史の中においても、そうした素晴らしい「一般ピープル」を多数指摘することができるのである。また、現代における「特権身分」とは何かという問題はさておき、「一般ピープル」の「労働」とパワーは、ストライキはもちろん、閉店・休業、そして、不買運動や納税拒否などを想定すれば、明らかなことだと言えよう。

   ところで、岩波文庫版『第三階級とは何か』(1950年)の訳者である大岩誠氏は、”État”を「階級」と訳した。しかし、この「 Tiers-État(第三身分)」は、農民とその家族、そして、都市のブルジョアとプチ・ブルジョア、さらに、より広範な働く人々を含む概念である。それは、家事労働をまで包み込む射程を持っていたと考えられる。つまり、経済学的規定に結びつく「階級(classe)」概念では、このような広範な人々を捉えきれないと言えるのだ。さらに、そうした「階級」概念では、ニクソンを支え、トランプをも支えている白人〈労働者〉「階級」の政治的・イデオロギー的有様をうまく説明できないであろう―――政治的、イデオロギー的領域の(相対的)自律性?!―――。 すなわち、現在の私たちにとっても、目前にある様々な状況をより適切に理解するには、より幅広い視座から、すなわち、「一般ピープル」的な視座から再考する必要があると考えられるのだ。

   我々にとってさらに大切なことは、シェイエスの「第三身分が全てである」という主張が、儒教的徳治主義―――「民」は国の「基(もとい)」なので大切にしなければならないという(それ自体は貴重な)エリートの「善政」論―――を超える、民主主義の〈本義〉(根本)を示していることである。すなわち、社会を実体的に担う「第三身分」こそが「公職」=公共的領域においても本当の主人公になるのだという主張だ。そして、こうした感覚(センス)は、フランス大革命に先立つ、アメリカ独立革命(1776年)の中で鮮明となったものと考えられる。それを象徴的に示すのが、トマス・ペインの『コモン・センス』だ。次回は、これに触れたいと思う。

   外では大雪が降っている。もう5センチは積もっているだろう。時々、寒冷紗代わりに使っている100均の不織布に積もる雪を払いに行く。夜中の3時まで降り続くというのだから、これは、かなり大変なことになりそうだ。

  

エリートと一般ピープル――「一般ピープル」論(2)

  「愚か」なのは一体誰なのか?
     ―――「ポピュリズム」論に匂うエリーティズム


   ※この数日、動画で『ガールズ&パンツァー』の戦車隊のテーマ音楽を聞いている。映画『八甲田山』でも歌われている『雪の進軍』は―――「♪ここは何処ぞ皆敵の国」か?侵略戦争に駆り出されたのですねえ!―――は、小さい頃、親から教えられていたので少し懐かしかった。ただ、今回印象深かったのは、『抜刀隊』(→分列行進曲)と『カチューシャ』の二つだ。『カチューシャ』は、日本語訳は付いていなかったが、赤軍兵士の愛唱歌で、若き乙女カチューシャと国境警備に向かった恋人を歌ったロシア版「防人」の歌である。これに対して、『抜刀隊』は、西南戦争の折、薩長藩閥政府によって編成された警視庁白兵戦部隊(官軍)の歌で、のちに編曲されて、あの神宮外苑における学徒出陣の行進曲にもなったものだ。両者の歌詞の違いには改めて驚く他はなかった。さらに、後者のような「忠君愛国」歌が、現在の陸上自衛隊でも使われるようになっているというのだから呆れるほかはない。日本国憲法との関係はもとより、日米地位協定や米軍との指揮権上の問題を考えても、強い違和感を感ぜざるを得なった。否、どちらかというと、「恥ずかしい」とすら感じたのだ。


   それでは、本題に戻ろう。前回述べた「エリート」とは区別される「その他大勢の普通の人々」は、これまでも様々な名称で呼ばれてきている。例えば、東洋的言語世界では「民」であったり「百(の)姓」であったりする。また、西洋的世界では、「デモス」であったり「ピープル」というわけだ。そして、それらは、様々な〈思想〉をもとに、「人民」とか「民衆」、「一般民衆」とか「普通の人々」とかに訳され、さらに現代に至っては、「大衆」とか「群衆」とかいった新しい概念も登場してきた。ただ、注意しておかなければならないのは、これらの言葉の背後には、「エリート」と「ノン・エリート」との間の政治的・経済的・イデオロギー的な支配ー被支配関係、指導ー被指導関係、管理ー被管理関係などへの評価が張り付いているということだ。大まかに言えば、例えば、プラトンの「哲人政治」や孔子の「徳治主義」などに始まる「エリーティズム」と、「民主主義」や「人民主義」などに見られる「反エリーティズム」だ―――ただし、後者にも、様々な階層的な「エリーティズム」が張り付いている場合が多い。もちろん、「ノン・エリート」が「エリート」の支配、指導、管理等に従順に従うべきであるとの考えは、「エリート」によって、様々な宗教的、思想的、理論的形態で語られてきた。例えば、寡頭制支配の鉄則とかメリトクラシイ(「能力主義」)とか民主的・有機的リーダーとかだ。しかし、とりわけ権力的な統治関係における「エリート」と「ノン・エリート」との間には、必ず矛盾と敵対的な関係が孕まらざるを得ず、そこにはそれらを抑制・調整する思想や諸制度が構想されねばならない客観的な条件が存在すると言わなければならないのだ。両者間の予定調和など「エリート」によるレトリックにすぎない。 

   ところで、このところ、「ポピュリズムpopulism」という言葉が盛んに使われている。そして、この言葉についても、それを積極的に評価する事例(いわゆる、左右の「ポピュリスト」)もあるが、多くは「大衆迎合主義」と訳されることが多いところにも見られるように、「大衆」(ー「民衆」)を愚かなものとして否定的に評価する「エリーティズム」の匂いがするものが多い。しかし、アメリカン・グローバリズムの矛盾が生み出したトランプ現象などを「ポピュリズムー衆愚政治」の一形態と捉える最近の風潮は、ファシズムを「衆愚政治」の一形態として捉えるのと同様に、ほとんど意味がないとすら言えよう。実際、ヒットラーを「支えた」のは当時のドイツ財閥であったし、トランプを「支えている」のも結局ウォール街の金融資本と共和党に他ならないからだ。つまり、欲得にまみれて構造的な矛盾を適正に解決し得ず、ファシストにおすがりして既存の〈グローバリズム〉を推進・維持しようとしているのは、既存の支配的「エリート」多数派に他ならない。つまり、トランプを支持する「大衆」(支持勢力)にはグローバリズムの構造的矛盾から発するそれなりの実際的な理由があるのだが、より本質的な目と代替案を持つ「反グローバリズム」運動への対抗上、かれらの不満や不安がファッショ的あるいは権威主義的に統合されるのを消極的にではあっても許さざるを得なかったと考えられるのだ。しかし、「政治」的に結合した「権力ブロック」内部の分派間闘争とはいっても、グローバリズムに口先だけでも異議を唱えることは「愚か」なこととしなければならない。支配的「エリート」層がそこから利益を吸い取る(国際金融取引やパラダイスペーパーも含めた)「グローバリズム経済」は、必然的で不可避な発展方向とされねばならず、それに「感情的」に反発するのは根本的に「愚か」なことだというわけだ。さらに、トランプらの人種主義や排外主義や自国中心主義は、支配的「エリート」層内部の諸分派がこれまでに蒔いてきた種が「異常」に発芽・成育したものと言ったほうが正確とすら言えよう。要するに、「ネオナチ」や「トランプ」や「アベ政治」は、〈アメリカン・グローバリズム〉の矛盾が深化している中での、「新しいファシズム」と表現するのが最も適当だと考えられるのだ。

   それでは、「一般ピープル」とは何なのか?これについての私のイメージは、西洋と日本については若干異なっているが、まず西洋について言えば、次の2冊の本に依っていると言っていい。すなわち、シェイエスの『第三身分とは何か』(私が読んだのは、大岩誠訳の『第三階級とは何か』だが)とトマス・ペインの『コモン・センス』だ。次回は、シェイエスの主張を確認しておきたい。

   
プロフィール

SARO MURIKI

Author:SARO MURIKI
おりこうさんのワンワンです。年齢は、2017年11月現在満11歳です。見てのとおりの柴ですが血統書はありません。性別はオスで、飼い主には、朝夕、45分ずつ2回の散歩を義務付けているVIP犬、正確に言うと、VIDです。文句あっか?!

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