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長崎と沖縄の心――2018年8月9日長崎・原爆の日に

 翁長氏の遺志を忘れない!
 無辜の子供たちを無差別に殺害する核兵器に義はない!

 
   8月8日、沖縄の翁長知事が亡くなった。辺野古新基地建設の反対にまさしく命をかけて取り組んだ人であった。今多くを語ることはできないが、沖縄の正当な民意を実現しようとする彼の行動には〈義〉があった。そして、それを貫こうとする彼の凛とした”澄んだ”表情が強く印象に残っている。隠しきれないアベたちの醜悪な表情とは対照的なものだった。私は、翁長氏のような”澄んだ”表情で生きていく方を選択したいと思う。

   8月9日、今日は長崎・原爆の日だった。「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」における、田上富久市長や田中熙巳氏の核兵器禁止条約に背を向けるアベ政権の姿勢に対する批判が重く心に響いた。そして、小学生と高校生による合唱を聞いて、無辜の子供達までをも無差別に虐殺する核兵器を正当化している権力者たちに対する怒りが再び湧き上がってきた。何が「賢人会議」だ。核兵器の使用は、もっとも醜悪な国家〈テロリズム〉でしかない。被爆者の方々の残酷な死と、その後の過酷な生活を思う時、〈絶対否定〉以外答は有り得ない。アベよ!沖縄に、広島に、長崎に、よくもその醜い姿を晒せたものだ。被爆者の方々の思いを想像してみるがいい!

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公明党ー創価学会・アベ政権存続の最大の功労者―――なぜ悪逆非道で”反国民”的なアベ政権が続くのか(5)

「平和の党」?「生活者の党」?「アベ政権のブレーキ役」?
  ―――平和と生活の破壊者の〈露払い〉役としか見えないけれど!


   ※世の中は、「男・山根明」と東京医大、そして、「第100回夏の甲子園」と台風13号の話で持ちきりだ。個人的には、この夏の暑さが一番深刻なのだが、農作業は無理をせず、サロさんと息を切らしながらも散歩だけは続けている。政治では、アベの自民党総裁選での三選が濃厚とのことだが、今の自民党に「自浄能力」など期待できないから、只只、日本社会への不安が増すばかりだ。アベも山根も東京医大も根は同じなのだが、アベ(やアソウ)は居座るというわけだ。そして、そんなアベを支えている最大の功労者は公明党ー創価学会だ。

   野党の「だらしなさ」という話はさておくとして、実際の選挙においてアベ政権を支えているのは、公明党・創価学会の700万ほどの”手堅い”組織票と言って良いだろう。要するに、公明党ー創価学会の票がなければ、前回の都知事選や都議選のように自民党は勝てないのだ。前回の衆院選においても、相対多数は変わらないにせよ、(比例区で)得票率33.3%の自民党は、得票率12.5%の公明支持層の支援を得なければ、小選挙区で野党共闘に勝つことは難しかったろう―――さらに、その得票数(1855万)を全有権者(1億609万)との比率で言えば、18%程でしかないのだ。世論調査におけるアベ〈自公〉政権の支持率でも、”安定”した公明党ー創価学会の存在は大きいだろう。NHKの最新の調査でも、内閣支持率は41%(不支持率も41%)であったが、政党支持率では自民支持層は35.6%、公明支持層は4.1%であったから、公明票が離れれば、実際の選挙での得票率とほぼ同じ、35%ほどと言うことになる。要するに、公明党ー創価学会はアベ政権存続の最大の功労者なのだ。

   こうした自公政権下で、今回の「カジノ解禁」法や「残業代ゼロ=過労死促進」法をはじめ、国家機密法、戦争法、アホノミクス、原発再稼働、沖縄辺野古米軍基地の建設強行、立憲主義・議会主義の破壊、政治の私物化、等々、数限りない悪行が行われたのだ。個別の案件について論ずることはしないが、これらは、全て、一部の強欲で鉄面皮な特権享受者とそれに追従してオコボレに与ろうとする者たちの利益のためのものであって、私たち「一般ピープル」の生活と生命を軽んじ、破壊していくものに他ならないと言える。このことは、個別案件に対する国民世論が、ほとんど、否定ないし慎重なものであったことに示されている通りだ。そうした中、「平和の党」とか「生活者の党」とか「アベ政権のブレーキ役」とか自称している公明党が実際にやっているのは、「中間管理職」的なポストやいくつかの「実績」を手に入れるため、アベによる〈平和〉と〈生活〉の破壊に、まさしく、「目くらまし」役として手を貸しているだけではないか!トランプと「100%共にある」アベ政権に加わる代償はあまりにも大きく、その歴史的審判は極めて深刻なものにならざるを得ないだろう。

   私は、実際のところ、公明党ー創価学会についてはほとんど知らない。幼い頃、ある地域で「折伏」なるものが行われていて迷惑していると言う話を聞いたことはあった。しかし、学生時代を通して学会員として話した人は皆無だったし、職業生活においても、「らしい」と言う話は聞いたことがあるけれど、勧誘も投票の依頼も受けたことはなかった。数年前、知人の夫が学会員であることを知ったが、もちろん、社会を実体的に担う普通の信頼できる人物だった。選挙の時だけ妻に電話があったり、創価学会婦人部の人が複数で投票依頼に来ることはあったが、妻がアベ政権の批判をすると「最近、おかしいよね」などと言って、帰って行ったと言う。だから、私にとって、公明党ー創価学会は、特別好きでも嫌いでもない存在だったと言って良い。しかし、アベ政権と〈共にある〉公明党ー創価学会はそうはいかない。

   私は、神の存在も仏の存在も霊の存在も信じないのだが―――人間特有の〈感覚〉と〈想像力〉が生み出した観念だと思う―――、以前、博士号を持つ基督教の牧師に、そう言うお前こそ「宗教的人間」だと言われたことがあった。確かに、神や仏は信じないが、人間の宗教的な〈感覚〉や〈観念〉には興味があって、文字でしかないが、基本的な書籍には目を通したこともあった。つまり、私には宗教に対する拒否感はないと言って良いのだと思う。また、私の周りには、学会員ではないが、創価学会に理解を示す人も何人かいた。その理由は、まさしく、戸田城聖第2代会長の「反核・平和主義」であったり、「庶民」の生活を大切にする姿勢であったり、創価大学学長・大熊信行の「国家悪(反国家主義)」であったりしたわけだ。そうした視点からすると、現在の公明党・創価学会はそれとはほとんど無縁な存在となっていると言って良いのではないか。歴代の公明党指導者や現在の信者との間でも意見の相違があるようだが、そもそも、宗教家も、死後の救済よりも、共同的存在たる人間の現世における幸せをこそ願っているはずだと思う。そうした観点から、アベ政治は一体どう正当化されるというのか。現在の公明党指導部は、創価学会の”硬い”宗教的結束を利用して、己の権力への接近を実現しようとしている野心家のようにしか見えないが、どうなのか。
   
   この数年間の公明党のアベ政権との関係は、「ブレーキ役」どころか、アベの暴走を助ける「露払い」でしかなかった。しかし、暴走の先には激突しかないのだ。その時には、「露払い」も「神風」の犠牲となる他ないだろう。公明党(ー創価学会)が本当に「平和の党」・「生活者の党」であるなら、アベ政権と共にあることはできない。

   次回は、「なぜ悪逆非道で”反国民”的なアベ政権が続くのか?」の最後として、政治的無関心層、選挙に行かない40〜50%の人々について考えてみたい。


73年目の広島・原爆の日に思う

「核抑止」や「核の傘」という考え方に未来はない!
  ―――「平和」に生きることができる社会の実現とは?



   今日は、広島・原爆の日だった。そして、記念式典での松井広島市長の「平和宣言」とこども代表の「平和への誓い」は例年より重く心に響いた。

   今年、私たちが目の当たりにしたトランプとキム・ジョンウンによる「核での脅し合い」は、核兵器廃棄への一歩前進に結びついたかにも見えたが、けっして、広島・長崎の悲劇を繰り返してはならないという”人類”的視野に立ったものではなく、まさしく、自国の「安全保障」のためには、被曝犠牲者を「当然視」するものだったと言って良い。

   これに対して、松井市長は、「核抑止や核の傘という考え方は、核兵器の破壊力を誇示し、相手国に恐怖を与えることによって世界の秩序を維持しようとするものであり、長期にわたる世界の安全を保障するには、極めて不安定で危険極まりないものです。為政者は、このことを心に刻んだ上で、NPT(核不拡散条約)に義務づけられた核軍縮を誠実に履行し、さらに、核兵器禁止条約を核兵器のない世界への一里塚とするための取り組みを進めていただきたい。」と述べた。これこそが、被爆国日本の私たちが選び取るべき方向性なのだと思う。そして、このことは、あのトランプと「100%共にある」アベ政権には託し得ないものなのだ。あの欺瞞的な歪んだ表情が、また、眼に浮かぶ。

   また、「苦しみや憎しみを乗り越え、平和な未来をつくろうと懸命に生きてきた広島の人々」の平和への思いをつないで行こうとする新開美織さんと米廣優陽君は、「平和への誓い」で、次のように述べている。「平和とは、自然に笑顔になれること。平和とは、人も自分も幸せであること。平和とは、夢や希望をもてる未来があること。」と。

   昨日、私は、見知らぬ青年が、友人らしき人物に、「年寄りを見ると殺したくなる」と繰り返し言うのを耳にしている。これを聞いて私がすぐ連想したのは、相模原障害者施設殺傷事件の植松被告や杉田水脈の「生産性」云々という言葉だった。理由こそ聞き漏らしたが、このようなことを言う人間がこんな近くにもいるのかと、正直、暗澹たる気持ちになった。それにしても、この青年の心象風景とはどのようなものなのだろうか。イキがってはいるものの、決して幸せそうには感じられないその印象からすると、根本的なところでは自己肯定感を持ち得ず、そのストレスや劣等感を、不当な差別に基く社会観に依りつつ、自分より「劣位」にある(と勝手に解釈した)「弱者」を差別・排除することによって紛らわそうとしているようにも感じられた。それにしても、こうした風潮が、アベ政権下で強まっていることは間違いないことだろう。

   アベ政権が推進する日本社会は、より大きな格差を当然視する社会システムの中で、人々は苛烈な競争を煽られ、その「結果」は自己責任だとするものに他ならない。こうした社会の中で、人々は自然に笑顔になれ、人も自分も幸せだと感じ、夢や希望のもてる未来を感じることが出来るだろうか。言うまでもなく、先の青年の心象風景は、それと対照的なものだったと思われる。

   これに対して、「平和」に生きることの意味を二人の小学生が言ったように捉えるならば、私たち大人は、後続の世代がそのように生きていくことのできる社会をこそ実現していかなければならない。そして、それを実現していく先にこそ、核兵器の廃絶があるのだと思う。「核抑止」論や「核の傘」という考え方の先には、人類を絶滅の危機から救う核廃絶の道は、けっして見えてこないのだ。

日本会議・神道政治連盟―――なぜ悪逆非道で”反国民”的なアベ政権が続くのか(4)

アベ政権は「保守」と言うよりも極右《カルト》では?!
    アベ「従米」政権の「愛国」とは一体なんなのか?!



   ※台風12号が近づき、そして、西に去って行った。西日本の被害が心配だ。和歌山市長選では、また、姑息なカジノ隠しで、現職が当選した。賭場の胴元仲間の政治がこっそりと進展していく。それにしても、国内・国際を問わない、世の中の〈荒んだ〉雰囲気が重く心にのしかかる。その原因の一つは、言うまでもなく、排他的な狂信的宗教に関連したものだ。人間が科学的観方を獲得した後も、人間の宗教的感情と観念の力は相変わらず大きな力を振るっている。シオニズム、イスラム原理主義、キリスト教原理主義、オウム真理教、そして、国家神道もそれに含めなければならない情勢になっているようだ。おぞましい光景だ。

   現在のアベ政権に大きな影響を与えている組織として、日本会議と神道政治連盟という二つの組織が挙げられている。アベとアソウをはじめ、アベ内閣では、15/19人が日本会議に、19/20人が神道政治連盟に名前を連ねているという。両者にはかなり重なり合う面が多いとのことだが、要するに、これらは、戦前の政治と戦争、とりわけ、総力戦体制下の超国家主義(天皇制ファシズム)を肯定・支持する〈極右〉の団体ということだ。私なりの受け止め方で言えば、前者は、冷戦崩壊前の社会主義や共産主義に反対するという意味での「右」ではなく―――それならば、自由民主主義者や社会民主主義者も「右翼」となってしまう―――、旭日日章旗を掲げ軍歌を流しながら街宣する「極右」軍国主義者に極めて近い団体だ。実際、日本会議の中枢を担っているのは「生長の家」などの民族派学生運動の元活動家らが多いらしい。また、後者は、全国約8万社を束ねる神社本庁の関連団体なのだが、それは、古来からの「神社神道」ではなく、明治維新以降の「国家神道」(天皇を主権者とする政治体制を天皇をアマテラスの子孫とする現人神信仰によって正当化する、国教化された神道)の流れをくむ宗教的民族主義者の組織で、戦前の侵略戦争を肯定する歴史観(「靖国史観」)を奉ずる〈靖国神社〉への参拝を推進している政治組織だ。
  
   ところで、どの国にもどの時代にも宗教的民族主義者や軍国主義者はいるものだが、その両者が合体し、一国に”全体主義”的な体制を築き上げていたのが総力戦体制下の日本だった。そして、その指導者(政治的・経済的・軍事的・イデオロギー的)たちは、無謀な侵略戦争に突き進み、国民に言語を絶する悲惨で汚辱にまみれた犠牲を強いた上で、敗北したのだった。ところが、靖国神社が掲げる「靖国史観」とは、国民を〈虐げた〉政治や戦争を〈真っ当に反省することもなしに〉肯定する歴史観であって、「国事」に殉じた者とりわけ軍人を「英霊」として「美化」することによって、彼らを戦地に送り出した(自分たちをも含めた)戦争指導者たちを「負けたけれども、悪くはなかった」として擁護するものなのだ。それ故に、東條英機らは靖国に合祀されることになったのだが、これに対して昭和天皇は、理不尽な犠牲を強いられた戦争犠牲者たちの立場に立ったのであろう、その後、靖国神社への参拝を止めたのだった―――同様の心性は、戦後日本の沖縄への対応を潔しとせず、沖縄に心を寄せ、しばしば訪問した明仁天皇にも見られるであろう。それにしても、何をやっても、そして、結果がどうであれ、(批判が許されない)「天皇」のため、あるいは、(それ自体極めて曖昧な)「日本の歴史や文化」そして「日本人の心」を守るためだったなどと言えば済むとなれば、指導者の〈責任回避〉にとって、これほど便利な〈仕掛け〉はないだろう。さらに、そうした戦争指導者への批判を「自虐」と呼ぶレトリックも登場したが、これは、国民一般をそうした輩と同一視することによってのみ成り立つ話に過ぎない。もちろん、国民の多くは、敗戦という現実を前に、そうしたイデオロギーを受容し、協力してしまったことに後悔と責任の念を抱きつつ、戦前からの自由主義的・民主主義的な伝統とそれを体現する政治家たちを仲立ちとしながら、平和憲法の理念を我がものとしていったと考えられるのだ。戦争指導者たち、とりわけ、超国家主義者たちの責任を曖昧にしてならない。

   このように、戦前の戦争指導者たちとりわけ超国家主義的な指導者にとっては、近代「天皇制」の〈国家主義〉的イデオロギーは、自らの権力行使に〈正当性〉を与える重要な根拠であった。そして、このことは、鬼畜米英・一億玉砕を叫んで国民を煽りながら、敗戦後は、米ソ対立を背景に、アメリカの「スパイ」となって〈延命〉した―――アメリカからすれば利用した―――岸信介たちにも当然当てはまる。こうして、彼らは、戦前の国家主義的なイデオロギーとアメリカ追従という醜悪な矛盾を抱え込んだのだ。さらに、こうした彼らの矛盾と欺瞞を鋭く突くのが日本国憲法の理念に他ならなかった。こうして、彼らとその末裔にとって、日本国憲法体制(基本的人権の尊重、国民主権、平和主義)の破壊は宿願となったのだ。そして、それは、岸信介の孫・安倍晋三によって、時代錯誤的かつグロテスクな様相を呈しながら眼前で推し進められている。

   ところで、戦前の超国家主義につながる戦後の「歴史修正主義」的思想については、このブログでも、『「従軍慰安婦」問題・考(1〜3)』や『安倍の好きな靖国神社に行ってみた――大江戸散歩・番外編』などで触れてきているので、興味のある方はご覧いただきたい。ただ、今回考えたいと思っているのは、戦前回帰の「極右」思想が、どのような方法で、そして、なぜ、この時代に、ある程度受容されるがごとき風潮になっているかだ。アベ政権を持続させている背景の一つには、明らかに、このことがある。

   まず、東西冷戦終結以降、宗教的外皮をも纏う、国家主義的・民族主義的な勢力が世界的に勢いを強めていることはしばしば指摘されていることだ。とりわけ、ソ連邦崩壊以後の東欧、中東におけるアメリカのユニラテラリズムに対抗するイスラム原理主義、グローバリズムの矛盾や難民問題に起因する欧州における「極右」勢力の台頭、そして、キリスト教原理主義を主要な支持基盤とする自国第一主義のトランプのアメリカ、中華民族の偉大な復興を掲げる習近平の中国、そして、ギリシャ正教会(ービザンツ帝国)とも結びつき「第三のローマ」を目指すプーチンのロシア等々、世界は強力な指導者(「独裁者」)に率いられた〈帝国主義〉さらには〈全体主義〉的な様相さえ呈するに至っている。これらの指導者は、テロリストまがいの既成秩序の破壊と惨事便乗型の行動を繰り返し、不安と恐怖に駆られた「大衆」に差別と偏見に満ちた「強者」の価値観・論理を刷り込み、国民を操作しようとしていると考えられる。世界は、今、混沌とした状況下にあると言って良い。

   こうした中、日本においても、戦前の帝国主義的な侵略戦争を推進した、国家主義的・民族主義的な価値観と体制の復興を謀る策動(「改憲」)が山場を迎えている。その旗振り役が自民党内で自由主義的な護憲派を抑えて主導権を握ったアベなのだが、彼自身は公の場でその〈超国家主義〉的な主張を声高に主張することはせず、日本国憲法の価値観との対立をできるだけ隠そうとしている。ただ、それは日本国憲法の理念が幅広い国民に定着していることへの戦術的な対応であって、そのポーズは「見せかけ」で、〈本音〉は自分たちと同じだと、「ネトウヨ」などの「極右」はアベを熱烈に支持し続けているわけだ。しかし、アメリカに経済的にもそして軍事的にも従属することによって自らの階級的・階層的利害を確保し、そのためには国民同胞の犠牲など気にも留めない買弁的なアベたちを信じるのは、自分がお坊っちゃまの本物の「お友達」でないならば、あるいは、官房機密費で生活の面倒でも見てもらっているのでないならば、あまりにもナイーヴ過ぎるというものだろう。

   ただ、アソウは「ナチスに学べ」とその手の内をポロッと漏らしてしまっているが、確かに、アベたちがナチスの「成功体験」にも学ぶ巧みなプロパガンダを駆使していることは確かだ。例えば、歴史的事実の隠蔽とアナザーストーリーの提示、聖戦のイデオロギーや「愛国」的献身の美化、汚い「本音」(ある時代の支配層によって形成され、歴史的にも継承されてきた差別や偏見)をくすぐるポピュリズム的手法、恐怖こそ人を動かすのだと〈力〉を見せつけるファシズム的手法、そして、心にもないのに殊勝気に謝ってみせたり、すぐウソだとバレるのに妙に自信あり気に断言して見せたりたりする「印象操作」、等々だ。ただ、これらは、物事をあまり深くは考えない「大衆」を騙すテクニックとしては有効だろうが、人々が正しい知識や情報を獲得し、科学的・論理的・多角的な思考をすれば容易に乗り越えられる程度ものに過ぎない。しかし、問題なのは、そうした思考自体をブロックする心理的なフィルターないしバイアスの形成なのだ。

   ここで私がポイントだと感じているのは、一見〈政治的とは思われない領域〉で形成される基底的な「人間」観や「国民」観に他ならない。前々回扱った「新自由主義」や「社会ダーウィン主義」(⇆「競争原理主義」)などもそうなのだが、そうした領域での観念が「国家主義」的・「超国家主義」的なイデオロギーを支えるということだ。今回の事例で言えば、戦前の侵略戦争(残虐行為)の受け止め方に際して、私が以前大変興味深く聞いたのは「(優しい)爺さんがやった戦争が悪いものだったはずがない」というものだった。そして、最近になると、なんと、「(よい)日本人がそんなことするはずがない」となっている。確かに、侵略戦争に動員された肉親や同胞の「善意」を肯定的に受け止めたい気持ち(心理)は重々理解できるが、同時にそれは、しばしば、帝国主義的な侵略戦争を支えた人種間や民族間の優劣を前提とする差別や偏見と通底してしまうのだ。こうした意味で、最近のマスコミに見られる「日本すごい」的な煽りは、それがスポーツや文化の領域におけるものであっても、明らかに、政治的な効果を持つと考えなければならない。例えば、以前は、対等な国民・民族間同士の「親善ー友好」(多様性の統一:共存・共栄)だったものが、最近は、日本の、あるいは、日本人の「優秀」性を誇示する、あるいは、誇示しなければならないものへと変化してきているように感じられる。そして、そうした流れの中で、「日本人」や日本人の「国民性」に対する、それ自体〈事実〉にはそぐわないのだが、ほとんど「信仰」に近い感覚・観念が醸成されるのだ。そして、このような感覚や観念は、国家主義や民族主義を正当化する「下敷」として容易に利用されるだろう。こうしたことに私たちは重々注意しておかなければならないと思う。

   勿論、スポーツも、文化も、そして、武道も、国籍・民族を超える〈人類〉に共通する普遍性を持つものだ。それらを国家主義的あるいは民族主義的な枠組の中に閉じ込めようとする動きは、明らかに無理筋というものだ。例えば、我国の〈神社神道〉についていえば、それは、”縄文”時代にもその源を発する多神教的な性格を持つものであって、たかだか明治以降の、天皇崇拝に収斂される「国家神道」の枠組みに収まるものではけっしてないのだ。我々が楽しむ、神田明神の御祭礼は、近代の狭い国家主義や民族主義の遥か前から存在する深みを有している。更に言えば、欧米列強の植民地支配が荒れ狂った帝国主義時代に形成された「国家神道」は、極めて包容力のある「神社神道」に比べれば、”排他”的で”狂信”的な、「カルト」に近いものとさえ言えるのだ。そして、アベ政権はこうした「カルト」と一心同体の如き有様となっている。

   さらに、それにしても、なぜこの時代という疑問についてだが―――それは「なぜオウム真理教が・・・」というのと同様に非常に難しい問だ―――、大まかに言えば、「外」(他者)との関係に恐怖心を抱き、人間としての「自信」を失いかけている人々が、内向きに(排他的に)その「自信」を回復させようとする故かも知れない。さらに世界的な動きとの関連で言えば、生産手段の私的所有(:労働力の商品化)と市場経済によって”孤立”化し、さらに「大衆社会」状況によって”アトム”化し、挙句の果てはグローバリズムによって”棄民”化されて寄る辺ない存在と化しつつある人々が、人間としての「共同性」の回復をなんらかの擬似的な共同体あるいは観念によって満たそうとする願望の故かも知れない。ただ、それが、現実的な「共同性」(共同の利害)に裏付けられている場合―――労働組合や様々な協同組合そして北欧型の社会民主主義などはそうした事例だと思う―――はそれなりの現実性を持つのだが、それが観念的かつ排他的で独善的な場合には、歴史的にも明らかなように、それらによってもたらされる惨禍は計り知れないものになってしまうのだ。日本人がそうした陥穽に再び陥らないことを切に願うものだ。
 
   長くなってしまった。次回は、公明党ー創価学会についての感想を述べてみたい。

伝統的「保守」?――なぜ悪逆非道で”反国民”的なアベ政権が続くのか(3)

アベとタケナカなど 悪徳・勘定奉行と口入屋に過ぎぬではないか!
私的な利益誘導政治に取り込まれては故郷と故郷の人々は守れない! 


   ※一昨日、熊谷で国内最高気温41.1℃を記録した。死者もたくさん出ている。まさしく、生命の危機を感じる暑さだ。そんな中、短時間ではあるが畑で草取りをしたのだが、いつものように蚊に刺されないので不思議に思った。後で、1st兄貴から、蚊も35度以上だと活動を停止すると言う話を聞いて納得してしまった。ただ、国民の血をすするアベの支持率は、まだ、殺人的な国内最高気温よりも高い。日本人の頭も暑さで狂っているのだろう。

   前回は、アベ政権に恩恵を受ける「富裕層」(資本家・経営者)316万人について考えてみた。そして、この層の家族を含めた数は、およそ、1000万人ほどになるのではないかと推測される―――316万と言う数字をほぼ世帯数に近いと考えると、「富裕世帯」は全世帯5340万の5.9%(17世帯に1世帯)、そして、世帯平均人数は2.47人だが、富裕層の家族はこれよりも多い3人だと仮定すれば、ほぼこの程度の数字になる。そして、この層の投票率は一般的に高いと考えられるから、この層の投票数は、前回衆院総選挙(比例区)の与党獲得票2560万票のうちの約40%、自民党得票数1855万票のうちの約55%ぐらいになるのではないだろうか。アベ自民党は、もはや、米国に追従して自分たちの階層的利益を確保するために国民一般の利益を売り渡す、買弁的な「富裕層」のための政党と言って良いと思うが、上の数字はそうしたアベ政治の「岩盤」的支持層の有り様をかなり正確に表しているのではないだろうか。もちろん、社会には〈資金〉も〈経営〉も必要なわけだが、問題はそのあり方とそれを担う人々の思想だ。無節操な金融緩和と金融機関のサラ金化、電力をはじめ、既成産業の既得権益を守る産業政策に依存する巨大企業群、国民全ての経済的複利の増進ではなく、一部の資本家や経営者の私的利益のみを追求する経営手法等々、日本社会の劣化は、この層がアベ的な選択肢に依存し、それ以外の選択肢を示し得ないところにも現れているといってよい。しかし、こうしたやり方での富と権力の維持など、儚い幻の如きものと言って良いだろう―――アホノミクスの崩壊は近い。

   さて、アベ自公政権を支えているもう一つの勢力として、地方自治体(都道府県・市町村など)の首長と議員たち、そして、彼らを支援する後援会などの構成員が考えられる。総務省のデータを参照すると、市町村レベルでは、「無所属」が圧倒的に多いが(70.8%)、その過半数がいわゆる「保守」系ー「自民」系であることは間違いないだろう。都道府県や政令指定都市のレベルになるとより政党色が強まるが、やはり、自公が40〜50%の得票率を確保しているようだ。この勢力が国政選挙で自民党を支えるわけだ。

   ところで、地方政治におけるこの勢力に対する私自身の印象は、良く言えば、その土地に根付き、郷土愛に燃えた面倒見の良い世話役といった人々だ。その多くは比較的裕福な農民や商店主そして中小企業の経営者たちだが、そのまわりには、同じ町内の知り合いの人々や水利組合とかライオンズクラブとかの会員とかが集まっている。これらの人々は、私にとっては、時代劇や歌舞伎などでおなじみの古い伝統的な「保守」のイメージにつながる人々で、逆に、どうしてこれらの人々が「アベ政治」(”悪役”そのものだろうに!)を支持するのか疑問に思う程なのだ。つまり、これらの人々には、地域社会を実体的に担う「人情」厚き人々も少なくないのであって、故郷とそこに住む人々を犠牲にして自分たちの階層的利害を追求して恥じない買弁的アベ政治と根本的に対立する面があると思うからだ。

   その一方で、これらの人々は、いわゆる人権意識とか主権者意識とかとはかなり遠いところにあり、親分・子分的な命令ー服従の意識に囚われ、政治家との人格的な繋がりによる〈私〉的利害の実現という関係性の中に閉じ込められている面が強いように思う。良く聞いた話だが、何かしてほしいこと、実現してほしいことがあれば、政権(権力)の座にある自民党に頼るのが一番早いと確信しているというわけだ。つまり、言ってみれば、彼らは、〈小さな〉「モリ・カケ」的関係性の中で生きている、あるいは、生きて行かざるを得ないと諦念しているのであって、それがアベ自公政権に対する「寛容さ」にもつながっていると考えても良いかもしれない。

   ただ、私たちが政治に要求すること、そして、政治に実現させねばならないことは、裏口入学だとか就職のコネだとか公共事業の”不正”な受注だとかいったことではなく、あくまでも「公」的な、すなわち、全ての人々に当てはまる、人間らしく生きるために必要な諸条件の実現なのだ。すなわち、例えば、障害がある人のためのなんらかの施設は、障害のある人々の「私」的な要求なのではなく、明日の私たちのためでもある、「公」的な要求なのだ。もちろん、財源が限られ、小さなパイを取り合うといった場合もあろうが、その時こそ、その公共性や正当性を判断する透明で合理的な調整が必要とされるのだ。こうした《公平》性の観点からすれば、アベの「モリ・カケ」など、その対極にある代物と言って良い。そして、アベたちは、あらゆる面において、〈希少性〉を操作し、限られたパイを奪い合うような関係を強め、人々を卑小な「私」的利害関心の意識の中に閉じ込め、「利益誘導」型政治の罠の中に国民を絡め取ろうとしているのだ。予算削減と補助金・許認可・・・国民の分断・孤立化の上に、アベ友どもによる国税と資産の私物化が進められている。これに対して、私たちは、先に述べたような「公共」的世界をこそ創り上げていかなければならないのだ。

   ところで、アベ政治による「地方の疲弊」と共に強まっているのが、地方議員の「ネトウヨ」化だ。それは、アベ政治の下では、本来的な(故郷とその住民を守る)「保守」政治は実現できないので、それを過激な「右翼」思想でカモフラージュしようとする動きとも考えられる。ここで、大きな働きをしているのが、日本会議と神道政治連盟という、宗教的ナショナリストの、二つの組織だ。これについては、創価学会とともに、次回触れることにする。
プロフィール

SARO MURIKI

Author:SARO MURIKI
おりこうさんのワンワンです。年齢は、2017年11月現在満11歳です。見てのとおりの柴ですが血統書はありません。性別はオスで、飼い主には、朝夕、45分ずつ2回の散歩を義務付けているVIP犬、正確に言うと、VIDです。文句あっか?!

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