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小学生の集団登校を見て愕然としたこと

日本も世界も”薄ら寒い”ご時世となっている
 ――大人は、一度、集団登校での子供達の表情を見て見るが良い!
 


   ※一昨日は、連休で大賑わいのニュースを横目に、BS1スペシャル『新型コロナウイルス 集中治療室 生と死の記録』を見た。私は、感染の危険があるところに行くのはやめようと改めて思った。昨日は、国連でのトランプの演説やヨーロッパでの感染拡大のニュース、そして、アベがやっぱり仮病だったという記事(LITERA)を読み、心底薄ら寒くなった。この秋から冬にかけて、トランプリスクは現実化し、コロナの感染爆発も必至だろう。そして、私も大きなことは言えないが、今の日本の若者には、こうした危機を跳ね返す勢いは感じられないのだ。サロさんの足もそうだが、もう覚悟を決める必要があるかもしれない。

   先日、サロさんと散歩をした時、小学生の集団登校の様子を見て愕然とした。ほとんどの子供が不機嫌そうに下を向いて歩いていたのだ。それは、数年前電車の中で見た、仕事帰りの疲れたサラリーマンの表情とさして変わるものではなかった。日本は本当にヤバイ!痛烈にそう感じざるを得なかった。

   前にも書いたことがあるが、私は、時々、内閣府の「青少年に関する調査研究等」を覗くことにしている。とりわけ、平成30年度の「我が国と諸外国の若者の意識に関する調査」は興味深かったが、今年7月に公表された「(令和元年度)子供・若者の意識に関する調査」も、ツッコミが不十分という印象は拭えないが、深刻な現状を感じ取ることはできた。要するに、日本の若者は現在の学校や職場の中で「自己肯定感」を持つことが難しく、「対人関係」に問題を抱えてしまうということなのだ。課題は、対処療法的にではなくその原因をつかむことだと思うが、いうまでもなく、それには「いじめ」や「差別」の基盤をなす集団的画一主義や単線的能力主義そして経済的格差などが関係しているだろう。

   また、先日、「大竹まことのゴールデンラジオ」で深澤真紀さんが触れていたが、ユニセフの『レポートカード16』「先進国の子どもの幸福度をランキング 日本の子どもに関する結果」や日本財団の『18歳意識調査』第20回 「国や社会に対する意識」(9カ国調査)で指摘されている、日本の若者たちの「精神的幸福度」の低さや「自殺率」の高さ、そして、「自己肯定感」の低さは衝撃的と言って良い。たとえば、後者によれば、「自分を大人だと思う」(29.1%)・ 「自分の国に解決したい社会課題がある」(46.4%)・「自分は責任がある社会の一員だと思う」(44.8%)・「自分で国や社会を変えられると思う」(18.3%)と言った具合だ。そして、これは、遠山啓さんが「思想教育」と喝破した「競争原理主義・管理主義・国家主義」教育によって、さらに、学校卒業後、新自由主義的な労務管理と労働市場によって、若者たちが「主権者」意識とは程遠い、無力で、ただ命令に従っていれば良い存在へと「生産・再生産」されたということではないのか。

  そして、こうした社会の中で、意地汚くのし上がって来た「優等生」が「マウント=ヒラメ主義」の「エセ・エリート」ということだろう。もちろん、彼らと(彼らが本当に求めらているはずの)「能力」とはほとんど関係がない。というよりは、私たちが大坂なおみや大谷翔平や藤井聡太らに爽やかさを感じるのは、「マウント=ヒラメ主義」の「エセ・エリート」たちとは違って、つまらぬ競争原理主義や集団主義などを突き抜けてしまっているからのように思われる。そして、このことは、私たちの周りにいる、本当に信頼できる人々についても同様だ。嘘つきの誰かさんたちよりも、私の生活と心を支えてくれている人たちの方が何倍も「有能」なのだ。そして、そんな人々を大切にしてくれる政治家や役人が本当に「能力」のある人と言えるだろう。危機の最中、こうした感覚は日毎高まっている。

   スガ政権は、相変わらず「のり弁」の海苔を剥がそうともせず、そして、国民の目先につまらぬ飴玉をぶら下げて国民を幻惑しつつ、お友達の利益実現に走っている。あまりにも、見え透いている。心から薄ら寒い―――(ついでに一句)「長月や 寒さ重なる コロナかな」
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「専門家」気質の崩壊?―アベの「お友達外交」の果て

 「国家意思」を軽い「お友達」意識で操れるとでも思ったか!
 ―――小賢しい「マウント=ヒラメ」主義者たちが権力を詐取する時、何が起こるか。


   ※昨日から、サロさんの左後脚の調子が良くない。散歩もままならない状態で、公園の芝生に連れて行って、世間を眺めさせている。でも、サロさんは、めげずに頑張っている。今度は鹿肉でも買ってやろうかなどと考えながら散歩から帰って朝刊に目をやると、「接触アプリ 誤表示続出」の記事が載っていた。この国の「専門家」・「仕事人」はどうなってしまったのだ?そんなことを考え込んでしまった。

   いうまでもなく、その典型が、「マウント=ヒラメ主義」の「統治(エセ)エリート」だ。彼らには、本物の「専門家」意識など、全く感じられないではないか。上司・任命権者に媚び諂い、違法行為も辞さず、ただひたすら、出世・栄転を目指す。バカ殿のケツまで舐めるが如き彼らは、諫言一つできないのだ。そして、「下」に対しては、恥ずかし気もなく、サルにも劣る「マウンティング」(強権的なパワハラや陰湿ないじめ)だ。もちろん、赤木さんのような公務員、そして、厳しい現状の中でも頑張っている政治家もいる。ただ、アメリカの「専門家」たちのように、臆することなくその持論を展開し、その信念に従ってあくまでも抵抗を貫く「専門家」たちが少な過ぎるのではないか。そうした多様性と倫理感の欠如こそが、現在の日本と日本人の劣化の原因でもあり結果でもあるように思われてならない。

   そして、その象徴が「外交のアベ」だったろう。先日テレビを見ていたら、自衛隊出身の元外務副大臣佐藤正久が、アベを「外交の天才」だとか持ち上げていた。その心は、すぐ仲良くなれるということらしい。ウラジミールとかドナルドとか言うわけか。確かに、アベは「ホスト」としての才能はあるかもしれない。しかし、この手の話にそう簡単に乗ることはできない。アベが一国の「外交」担当者(あるいは「セールスマン」)として能力があったかどうかは極めて疑わしいところだ。実際、各国首脳が彼をどう見ていたか、あるいは、どう見下していたのかは、その「成果」の中に明らかと言えるのではないか。

   ところで、「民間外交」なる言葉もあるけれども、いわゆる「外交(diplomacy)」の担い手といえば、「主権国家」を代表する首脳ないし外交官ということになる。そして、彼らには、外交特有な知識や語学力など、それなりの資質や能力が必要ともいえるのだろう。しかし、民主制国家にあっては、外交の目的は、あくまでも、主権者たる「国民」(ないしは、世代を超えた「国家」)の”利益”を増進するためのもの(協調・妥協・対立等々)としてあるはずだ。つまり、外交とは、交渉者のアホなレガシーや自己実現のためにではなく、国民の”利害”が掛かった、極めて重い責任を有するはずのものなのだ。もちろん、宮廷外交の時代にあっては、王権を背にした貴族たちの「踊る会議」的な馬鹿馬鹿しいものもあったろうし、また、全権を掌握した独裁者の国民をないがしろにした駆け引きという場合もあったろう。それでは、こうした観点から「アベ外交」を顧みれば、どうなるのだろうか。

   はじめにアベ外交のあらましを見てみよう。
   まず、対米関係では、アベはあのトランプと世界で一番良好な関係を築いたらしい。では、その中で、主権者たる国民は何を得たのか。日米地位協定はどうなったのだ。武器の爆買いで貢いだだけではないのか(トランプによると「脅し」が効果的らしい)。まして、憲法違反の日米の軍事的一体化の推進で、国民を一体どうするつもりなのだ?
   対露関係におけるプーチンとの交渉も何だったのだ。そもそも、四島一括返還から二島変換への方針転換はいつどこで決まったのだ。そして、何十回と会い、ファーストネームで呼び合う「お友達」プーチンに、なぜかくもつれなくそでにされたのか説明して見たらどうなのだ。
   対中関係においても、習近平の国賓待遇での来日も結構だが、尖閣諸島の国有化以降、緊迫感を増す軍事的緊張関係をどう解決していくつもりなのだ。そもそも、一般の国民にとって、グローバリズムと国民経済とは矛盾に満ちたものだ。そうした中で、アベ政権は、企業利益のために経済的依存度を無警戒に高めながら、他方、政治的には、アメリカとの従属的一体化を進めて軍事的敵対関係を強めようとしてきた。しかし、全てが逆方向性なのではないか?!「政冷経熱」で問題が解決するはずがない。中国の巨大化を前にして、近隣アジア諸国と連携しつつ、日本独自の対応が必要だろう。軍備増強〜軍事衝突〜戦争状態の想定で一体どんな未来が見えるというのだ。
   韓国・北朝鮮との関係などは、もう話にならない。要するに、「もう、お付き合いしない」ということで済むならそれで結構だが、それで両国間で抱えている諸問題を解決できるといえるのか。素人の目から見ても、問題解決への戦略的思考がほとんど感じられないのだ。

   それでは、こうした現状の原因は一体何なのだろうか。それは、一言で言えば、アベによる「外交の私物化」もしくは「バカ殿外交」の故と思われる。つまり、アベの「外交」には、その背後ないし基盤に主権者たる「国民」の存在が感じられないのだ。彼が派手な「手土産」を持って歓迎していただくその外遊費用も、その「手土産」自体も国民の税金から出ているのだが、彼の頭の中には、世襲政治家の家系に生まれただけのつまらぬ選良意識と歴史的に無残な結果をもたらしている薄っぺらな国家意識、そして、周りで煽ててくれる「お友達」しか存在しないかのようだ。そして、さらにバカバカしいのは、アベが「大国」の最高権力者(=最高責任者!)というだけではなく、あたかも全権を掌握した独裁者(同士)の如きノリで交渉に臨むことだ。おそらく、トランプもプーチンもムンジェインも、アベよりはるかに自国の「国民」やその批判勢力に気遣っていたはずであり、内心、この馴れ馴れしく軽いノリの人物は一体何者なのだと感じていたのではないか。そして、さらに悲惨なのは、その到底「専門家」とは思えない外交交渉の有様であって、その恣意的で思いつき的な性格は、先にも見たような外交結果に如実に現れていると言って良いだろう。そして、それを許したのは、劣化した「マウント=ヒラメ主義」の「外務」官僚だったに違いないのだ。

   そして、アベの安全保障政策の中心にも「国民」は存在しない。この点については、後日、「敵基地攻撃能力の保有」に関連して考えて見たい。(―――麒麟が来て、鞍馬天狗が再臨し、そして、これから半沢直樹を見るwww)

アベの闇番頭と闇手代による、スガ=カト政権。   「市民と野党の共闘」で政権交代を実現しよう!

日本国民は、また、”スカ”をつかまされた。
 ―――陰湿な強権支配と新自由主義の闇の中へまっしぐら


   秋は嫌いではない。少し物寂しいが、実りと紅葉のこの季節は、世界の「意味」を味わうのにふさわしい時だ。ただ、今年の秋は暗い!実に暗い!実際、日本と世界は新型コロナの脅威に晒され、そして、人々は格差と分断に引き裂かれ、その矛盾は弱いものに集中されつつある。こうした中、アベが政権を放り出した後、「アベ政治」の”闇”の実務を取り仕切り、政権を支えていたスガが首相の座に着くことになった。おまけに、官房長官はあの鉄面皮「ご飯論法」のカトウ、そして、首相補佐官にはカケやコネクティングルームのイズミなのだ。こうした陰湿なキャラたちによって、日本の政治はますます透明性を失い、経済は格差と停滞に苦しみ、社会は冷たく分断され、文化はその多様性と深みを失うことだろう。あ〜、真っ暗、クラ〜イ、クライ🎵だ。

   今朝、スガ内閣成立の新聞を読み、また、これまでも、netで関連する記事や動画に目を通してきた。どれもこれも、実に明瞭で、わかりやすく、興味深いものだった。要するに、スガというのは、いざ陽の当たるところに出ると、極めてわかりやすい性格を持っているということなのだろう。そうした中で、とりわけ興味深かったのが、元自民党関係者である、中村喜四郎さんや小林節さんの話だ。前者は、『市民連合』の「中村喜四郎さんインタヴュー」や一昨日の『報道1930』での話であり、後者は、昨日の『デモクラシータイムズ』の「菅の権力 その実体は」などでの発言だ。詳しくは省略するが、彼らのアベ政権そしてその継承政権への危機意識は尋常なものではない。彼らの表情は、アベ=スガのやり口を知りながら明言を避け、そのことによって、厚労相のポストを与えられ、そして、これからのコロナ危機の責任とこれまでのコロナ対応への”言い訳(正当化)”を押し付けられるだろう田村や石破の「中途半端さ」とは対照的なものだ。

   話を聞いている限りにおいて、彼らが大切にしているのは、「民主主義」や「立憲主義」であって、それがスターリニストであろうが、ファシストであろうが、テクノクラートであろうが、宗教指導者であろうが、粗野で恣意的な権力行使への彼らの批判的意識は共感に値するものだ。我々「一般ピープル」にとって、我々を単に利用し、支配し、命令する存在だと考える輩など、百害あって一利なしの寄生虫に過ぎない。もちろん、我々と有機的に結びつき、一定の権力を行使する代表者や専門家も必要だろう。だが、その権力の行使は、一定の範囲内・限度内に限られ、また、常に普通の人々に監視・統制されるものでなくてはなるまい。権力の恣意的な濫用は、「民主主義」の観点から、決して許されるものではない。

   しかし、こうした民主主義の原則は、歴史的にも現在的にも、常に実現されているわけでは決してなかった。とりわけ、戦争や革命など、社会の危機的な状況においては、権威主義的あるいはエリート主義的な考え方によってしばしば侵犯されてきたと言って良い。だが、一人一人の「人権」や幸福が守られなければならないとする思想は必ず生まれ、そして、そうした思想を大切にすることこそが社会をより良き方向に動かしてきたと言って良いだろう。そうした点において、これまでの、アベ=スガ政権の姿勢は、まさしく、それとは真逆の、「民主主義」・「立憲主義」を否定・軽視するものに他ならなかったのだ。安保法制然り、モリ・カケ・サクラ然りだ。

   先日、「姉貴」に、なんのことかは良くわからなかったが、「ミイラ取りが、ミイラにならないようにね」と言われてしまったが(W)、確かに、私の社会観・政治観は、「アベ政権」以前の中村喜四郎さんや小林節さんのそれとは異なっていたはずだ。しかし、現在、「民主主義」や「立憲主義」に基づく「市民と野党の共闘」によって自公政権を追い詰め、政権交代を実現し、市民ー国民の命と生活を大切にしたいという思いは明らかに共有されていると感じる。さらに、彼らの独自の経験による「アベ政治」の評価は非常に傾聴に値するものがある。安全保障問題をも含めた、民主主義的・立憲主義的な手続きを尊重した形での共闘が実現されることを期待したいと思う。

今の自民党について――政権交代が必要だ!

悍ましい権力の私物化が続く
 官僚支配・マスコミ支配に続き、「アベ−スガ」の党内支配が完成!

 
   ※長〜い梅雨と、暑〜い8月が終わり、(巨大)台風の9月となった。私はこの夏の暑さであまり調子は良くなかったが、ここにきてやっと元気が出てきた。すると、あのアベも至って元気そうで、高級料亭で「コース料理を完食し、ワインも口にしていた」そうだ(『朝日新聞DiGITAL』)。『3ジジ放談 安倍退陣の真相 疑惑に蓋・利益再分配の安倍後継計画』(デモクラシータイムズ、20/09/08)を見たり、また、辞任表明後は病院にも行っていないらしい話を聞いて、いよいよ“諸々の”理由による「仮病」説が信ぴょう性を増してきたと思っていたら、なんと、一昨日、NHKニュースがわざわざアベが通院したというニュースをたれ流した。ますます怪しいだろうがw!アベはやっぱり一度「塀の中」に収まるべき人物ではないのか。そして、今、スガが自民党総裁(→首相)に選出された。それにしても、余りにも見え透いた事の成り行きだ。日本の一般ピープルはすっかり(その甘さを)見透かされていると感じる。

   テレビは、連日、自民党総裁選の”出来レース”を繰り返し報道していた。もちろん、毒ガスを振りまいているが如きスガに対する石破やキシダの話を聞くのも悪くはない。とりわけ、首相の座をちらつかされてアベノマスクを離さなかったキシダと比べて、石破の主張は、ある意味で、「古き良き自民党」の一つの側面を表しているようにも思われた。かっての自民党の中に見ることができた、一定の「矜持」と「幅」と言ったら良いだろうか。しかし、今回の総裁選挙の結果は、そうした自民党の「矜持」がほぼ死滅したことを意味する。石破排除のために2位にしてもらって喜んでいるキシダの笑顔はその「矜持」の終わりを象徴していると言って良い。

   今回の自民党総裁選を見て感じたのは、「ナチスに学ぶ」アベ友勢力の「政治」(言うなれば、日本会議的極右思想と竹中的ボッタクリ資本主義との結合)が極めて古めかしい事大主義的な町内会的慣行の中でその独裁的支配権を確立してしまったと言うことだ。そして、それは「平和主義」や「民主主義」そして「(ケインズ主義的)福祉国家」や「日本的経営」といった戦後の日本が目指そうとした一定の方向性とその担い手が自民党内で窒息死寸前の状態になったことを意味する。「ネトウヨ」グループにとって、アベが垂涎の的だったことがよく分かる。

   とりわけ印象的だったのは、自民党所属の国会議員と党員が、いわば、「勝ち馬」に乗り遅れるなとばかりに雪崩を打ってスガ支持に走ったことだ。アベ=スガの政治手法の特徴は、官僚支配とマスコミ支配、そして、「アベ一強」による党内支配だ。これまでも、衆院・小選挙区制下での党の公認をめぐるアベの支配についてはよく言われていたが、その内実が最も露骨に表れたのが、前回2019年参院・広島県選挙区における溝手候補と河井案里候補との関係だったと言うことができるだろう。要するに、アベ(自民党中央)はアベを批判する候補をあらゆる手段を使って(アベの秘書を送り込み、破格の1億5000万円をつぎ込み、それをカツユキに配らせ)追い落とそうとしたのだ。そして、今回の総裁選において、70%を超える自民党国会議員と地方の党員たちは、アベ=スガたちのこうしたやり方を承認し、あるいは、「白旗」を挙げてそれに付き従い、”保身”に走ったのだ。ここに、名実ともに「自民党政治」は「アベ政治」となった。

   私のこれまでの自民党(議員・支持者)に対する印象は決して良いものとは言えなかった。物欲や権勢欲に突き動かされ、地位と人脈をフルに使って他者を誘導ないし操作し、もし言う事を聞かなければ、露骨に脅したり、排除しようとする。特に悪質な場合は、他者の人権を口を曲げながら侵害したり、あるいは、嘘をつくことに全く恥じることもないといった風だ。しかし、当然のことながら、「支持政党」(あるいは、所属政党)によって、その人の”人格”が即判断されるわけではない。自民党支持者あるいは保守主義者の中にも、安心して任せられる有能な仕事人、思いやりに満ちた優しい人、誠実で公平な信頼しうる人、より多くの(あるいは、全ての)人々の幸福を考え、行動する理想主義者も確実に存在したと私は思っている。しかし、今日確立した「アベ=スガ」政治によって、そうした人々はもう自民党内で生きる残ることはできないのではないか。石破の居場所は、彼が「白旗」を挙げ、アベ=スガに擦り寄らない限り、今の腐りきった自民党の中にはないだろう。さあ、彼は、どこで、どう勢力を結集できるのだろうか。

    人間の認知能力や判断能力には限界がある以上、個人も政党も、誤りも犯せば、軌道修正もする。また、社会は個人や集団の意思とは独立して動き、予想すらできない結果を生み出すこともある。それ故に、内政、外交、経済、社会、文化など、重要な諸政策の選択には、党派性を超えた慎重な検討と判断が求められることは間違いない。しかし、主権者ではあるが、日常生活を生きる一般ピープルにとって、最低限、決して許してはならないことがある。それは、権力の私物化ー乱用に他ならない。すなわち、アベ=スガ政治がそれだ。モリ・カケ・サクラそしてカワイの選挙違反やアキモトのカジノ汚職はもちろん、(その結果として、日本の経済や社会に「衰退」をもたらした)「アホノミクス」や「コロナ対策」そして「Go to トラベル」なども同様だ。つまり、彼らは露骨な「お友達」への利益供与や自らの権力維持のために国民の税金や行政・官僚機構を恣意的に利用し、また、反対者には陰湿な“いじめ”や露骨な「差別」・「冷遇」で報いるのだ。いやはや、大変な政治だ。

   少なくとも、自民党に自浄能力がないことが今日証明された。それどころか、「スガ政治」は「アベ政治」を追認・正当化することによって、その闇をますます深くすることだろう。スガは「自助・共助・公助」などと恥ずかしげもなく責任逃れに走っているが、真面目に生き、社会を支えてきた一般ピープルに、“アホな政治”のツケをまず押し付けようと言うのか!自殺者が急増している今の日本の中で、政治家として何をやってきて、何をやるというのだ。恥を知るが良い!このコロナ禍の中でも解散・総選挙は近いだろう。なぜなら、日が経てば経つほど、化けの皮が剥がれるからだ。(トランプのアメリカもそうだが)日本の政治はアベ=スガ勢力による政治の私物化・乱用によって歪められている。政権交代が必要なのだ!

『忘れられた 戦後補償』を観て―――一般ピープルに犠牲を押し付けて恥じぬ卑怯者たちの群れ

こういうのって、“卑怯”って言うんじゃないか!
 ―――「ともあれ失政の責任をとるわけでもなく、数々の疑惑を説明するわけでもなく、再び病気を理由に首相はやめる」(『東京新聞』、8月29日、「こちら特報部」、デスクメモ)


   アベの辞任発表後の新聞で最も興味深かったのは、三木義一さんが、アベの辞任とカワイ夫妻の買収事件とを関連させ、「立花隆氏の著書によれば、安倍氏の祖父の岸信介氏は、ロッキード事件で検察との話し合いで政界を引退したと言われている。辞任の背景にこうした事情が絡んでいなければよいが」とコメントしていたことだ。検察との取引?確かに、この裁判の成り行きはアベ政治を終焉させるための一つの重要な条件となる。日本の司法が本当に憲法と国民のために(権力者のためにではなく)働きうるのかをしっかりと注視していかなければならない。また、辞任を表明したアベは、任期中の”改憲”を実現できなかったわけだが、極右・ネトウヨ向けの「レガシー」として、「敵基地攻撃能力の保有」(→先制攻撃の容認)を置き土産にしようと画策している。これまでのアベの選挙では「北風」が大きな役割を果たしたが、今回は本命の「南風」にも期待して、次の総選挙での争点の一つにしようとしている。私たちは、喫緊のコロナ対策はもちろんだが、アベ友勢力の安全保障政策が私たちと私たちの大切な人々を守るものではないことをしっかりと見定めなければならない。こうした面でも、宿題だった『忘れられた 戦後補償』(NHKスペシャル)は学ぶところが大変多いと感じる。

   先の戦争で日本人は310万人の死者を出したが、そのうちの80万は国家総動員体制のなかで様々な形で戦争に協力した民間人だった。しかし、これまでの日本国家(政治家・官僚)はこうした民間被害者への補償をできるだけサボろうとしてきた。とりわけ、空襲被害者などには未だになんらの補償もなされていない。ところが、戦前、日本と三国同盟を結んでいたドイツとイタリアでは、軍人と民間人との区別なく、市民一人ひとりに補償する政策が選択されてきていたのだ。恥ずかしいことに、私は、この歳になるまで、こうした事実を意識することはほとんどなかった。知らないということは恐ろしいことだ。

   だが、戦前の日本には、軍人恩給だけではなく、総力戦に協力した民間人被害者に対する補償制度も存在していた(「戦時災害保護法」)。しかし、敗戦後、GHQはこれらを軍国主義復活の温床になるものとして廃止し、全般的な社会保障制度によって対応するものとした。これに対して、日本国家(政治家・官僚)は、主権回復後、軍人・軍属への補償を極力復活・強化する一方、民間人への補償は、限定的な「救済措置」は別として、一貫して抑制・否認する政策を採ってきたのだった。それでは、共に国策に協力し、犠牲を負った人々に対するこうした日本国家の対応の違いは何に起因したのだろうか。この番組では、前者に関しては、戦後に復権した旧軍人勢力や板垣正・日本遺族会事務局長(あの板垣征四郎の息子)らの「組織力」に言及している。板垣正によれば、国家存立の基礎は国のために死も辞さぬ精神であり、そうした犠牲的精神・献身的精神をこそ讃えたかったというわけだ。こうした考えから、恩給額には位階によって大きな差が設けられ、また、民間人犠牲者は軽視されることになったとも考えられる。つまり、戦後の「軍人恩給」などの復活・強化は、総力戦を組織し、その挙句、無残な敗戦を招いた日本国家が全ての戦争犠牲者に対して責任を負うというのではなく、逆に、戦前の日本国家(天皇ー軍人・官僚・政治家)が引き起こした非道で無謀な戦争を擁護・正当化する手段としての意味合いが強かったと言わざるを得ない。(私に言わせれば、一般の軍人犠牲者は当時の怪しげな国策への協力の故にではなく、そのことによって受けた犠牲の故に補償されるべきなのだ。)

   これに対して、120万人の民間人死者と1200万人以上の引揚者を出したドイツでは、1950年の西ドイツ「連邦授護法」で、国は全ての戦争被害者に対して責任があるとされ、被害に応じた補償がなされることになった。また、民間人死者15万人のイタリアにあっても、1978年の「戦争年金に関する諸規則の統一法典」で、軍人と民間人との区別のない補償が法制化されている。そして、こうした政策の背後には、「個人の被害に国が向き合うことは民主主義の基礎をなすものです。国家が引き起こした戦争で被害を受けた個人に補償することは、国家と市民の間の約束です。第二次世界大戦は総力戦で、軍人だけではなく、多くの民間人が戦闘に巻き込まれ亡くなりました。軍人と民間人の間に差があるとは考えられなかったのです。」(ゴシュラー教授)という考えがあった。

   では、日本における先に見たような「軍民格差」はどのような理由で生み出されてきたのか。この番組の優れた点は、この点をその政策決定に携わった官僚や政治家の直接的な証言から明らかにしていることだ。その証言については色々な見方が可能だろう。しかし、その要点は、戦争被害は国民一人一人が受忍すべきものであり、また、法律上、国家に補償義務はない、というものだ。彼らは「テクノクラート」とか「パワーエリート」とか呼ばれる「専門家」たちであったわけだが、私に言わせれば、日本国憲法の下、このような欺瞞的な理屈がなぜ通用したのかと驚くほかはない代物だ。

   まず、国家の「法的責任」云々について言えば、日本国憲法がそうした補償を否定するはずはなく、そうでなければ、なぜ「軍人恩給」は可能だったというのか。要するに、必要ならば独伊のように法律を作れば(あるいは「復活」すれば)良いだけの話だったろう。さらに、そこで持ち出された、「一億総懺悔」にも通じる「一億総受忍」なる詐欺まがいの言説は、結局彼らが何者であったのかを教えてくれるようにすら思われる。少し長くなるが、話を聞いてみよう。

   「国を挙げて国民全体がこの戦争に取り組んだことが事実で、別にそれで国民全体に責任があるという意味ではありませんけれども、国を挙げて総力戦でやって、戦争に負けて、無条件降伏をやった、そうゆうことですから、国民等しく受忍をね、受忍という言葉をよく使いますけれど、やはり我慢して耐え忍んで、再建を、復興を個人個人でそれを基本にして頑張ってもらいたい。本当に気の毒で気の毒だけれども、自力で頑張ってくださいと言うしかなかった。」(禿河徹映)

   さらに、「パンドラの箱を開けるようなことになっちゃ困る。交付金をやるようなことになりますと、やっぱり、広島の原爆で死んだのが何万とおるわけですね。そういう人は何も受けていない。やっぱりよこせと言うような議論が出てくる。」(河野一之)

   こうした理屈は、大蔵省や厚生省などの官僚によって、敗戦後から高度経済成長期そして経済大国化した1980年代に至っても、繰り返されたものだ。ここに見られるポイントは、大きく分けて三つだ。

   その一つは、戦前の戦争指導勢力の決定的な責任を曖昧化し、その責任を国民一人一人に拡散・転嫁していることだ(「一億総懺悔」)。一体、誰が、「一君万民」の擬制の下で「天皇陛下万歳」の音頭を取りつつ私欲・権勢欲に溺れ、杜撰な情勢分析のまま非道で無謀な侵略戦争を拡大させ、全国民を総力戦に巻き込み(国家総動員体制)、そして、戦争終結への責任ある展望もないまま、「神州不滅」とか「神風が吹く」とかのフェイクをかましつつ「本土決戦・一億玉砕」を叫び、その挙句、結局、天皇の「聖断」による無条件降伏に至らしめたというのか。おまけに、そんな戦争指導者たちは、確かに俺たちは号令をかけた、でも一般国民もそれを信じ乗ってきたわけだから、君達が損害を受けたからといって俺たちだけが悪いわけではなく、俺たちだけに責任を負わせるのはおかしい、と言うわけだ。しかし、まさしく、「民族」と「国体」を危機に落としめたこのような輩の議論は、(全てを「天皇陛下のため」と喧伝された)昭和天皇の立場からも、無責任極まりないものと映ったことだろう。

   さらに悪質と思われるのが、二つ目の、「一億総受忍」の中身だ。そもそも、日本が「大和民族」の「共同体国家」あるいは「家族国家」と言うのならば、その「国家」が遂行した戦争の犠牲に対して、「国家」あるいは「国民一人一人」がその犠牲者に対してできうる限りの補償を行うのが筋というものだろう(共同的な公的補償)。ところが、戦前の戦争指導者たちとその後継者たちは、「国民一人一人」に無限の犠牲を命令・強制しながら、軍関係者には靖国合祀と軍人恩給を提供する一方で、「国民一人一人」(実際には、空襲なのでの民間人犠牲者)には、「一人一人の受忍・我慢」を強いたのだ。私たちは、「鬼畜米英の敵性言語」“one for all, all for one”という言葉を知っているが、私たちが目にしたのは、恥知らずな棄民政策に他ならない。番組にも登場するように、「自助」を強いられ、力尽きて倒れた人々、困窮の果てに呻吟した人々がどれほどいたことか。それは弱者に負担を押し付ける「緊縮財政」の一種だろうが、もしこれらの民間人の方々の犠牲の上に戦後の復興と経済成長が成されたとすれば―――私はそんなことはないと思うが(!)―――、その間に見られたこうした政策決定者たちと民間人被害者との間にあった生活の質の差は決して公平と言えないだろう。そして、我々の親の世代と我々の世代は、こうした欺瞞を許してきてしまったのだ。

   三つ目は、さらに悍ましい、補償を求める人々への「敵意」に似た感情だ。それは、イタリア国家が示した「国家が持つべき(戦争被害者に対する)感謝の念や連帯の意」とは程遠い代物だ。補償を要求する人々は「やっぱりよこせと言うような」存在でしかない。かっての戦争指導勢力とその末裔にとって、国民への補償を認めることは彼らの戦争(=敗戦)責任を認めることでもあり、あらゆる法的あるいは超法規的理由を用いて避けねばならないものであったのではないか。そして、そうした彼らの姿勢は、戦争被害者の要求を「不当」なものとし、それ故、彼らに対する暴言や攻撃―――「国家の責任にして金をせびろうとする乞食根性」だの「欲張り婆さん、今更何をいっている。そんなに金が欲しいのか」など―――を助長ないし黙認することになったのだと思われる。この手の人々が実際何を手にし、誰に煽られていたかは想像の範囲内だが、これも戦後と「国家総動員体制」との“非切断”の一つ側面だったと思われる。

    『忘れられた 戦後補償』は、日本の戦後補償のあり方、そして、国家の戦争責任とは何なのかを改めて考える機会を与えてくれた。とりわけ、同じ敗戦国だったドイツとイタリアの事例は、日本の「国家(似非)エリート」の反「人民ー国民」性を対比的に浮かび上がらせてくれた。現在、私たちは先に挙げた戦前の戦争指導者の末裔たちと対面している。私たちには、再び、私たちをその権益や権勢に奉仕させ、私たちにとって無意味な戦争に動員しようとする「国家(似非)エリート」たちの「仕掛け」に流されない理性と感性が必要となってきている。
 
プロフィール

SARO MURIKI

Author:SARO MURIKI
おりこうさんのワンワンです。年齢は、2019年11月現在満13歳です。見てのとおりの柴ですが血統書はありません。性別はオスで、飼い主には、朝夕、45分ずつ2回の散歩を義務付けているVIP犬、正確に言うと、VIDです。文句あっか?!

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