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木洩れ陽の光の様な人生を楽しむ             ーーー『PERFECT DAYS』を観て

人生の喜怒哀楽が木洩れ陽の光の様に輝く
      木洩れ陽はささやかではあるが、千変万化
            その美しさと儚さは心を満たす。


 ※最近の見たnet番組で良かったのは、デモクラシータイムスの『危機のパレスチナにのしかかるトランプという暗雲』(『なぜガザは戦場になるのか - イスラエルとパレスチナ 攻防の裏側』の著者高橋和夫と池田香代子の対談)とNHKスペシャルの『続・“冤(えん)罪”の深層~警視庁公安部・深まる闇~』だ。追い詰められるパレスチナの人々。「善人」ぶりながら停戦案に拒否権を発動するバイデン。ウクライナやロシアの情勢などを利用して日本を権力政治の泥沼に誘い込もうと図る国権主義者たち。日本売りの円安・株高と国民生活の質の低下とが錯綜する中での自民党の”裏金政治”のテイタラク。世界と日本の大状況は見るに忍びないほどだ。そうした中、先日、役所広司主演の『PERFECT DAYS』を見てきた。

  役所広司は昨年のカンヌ映画祭男優賞を獲得したわけだが、セリフがほとんどない中、確かに見事な演技だと思った。監督のヴィム・ヴェンダースは『東京物語』の小津安二郎に影響を受けているそうで、私にはよくわからないのだが、社会関係や人間関係の変化にもかかわらず、その中で生きる人々の感性の機微に光を当てた秀作だと感じた。隣の席のおじさんはいびきをかいていたがw、私にとっては、その2時間はあっという間の様に感じられた。

  舞台は、Mさんと「大江戸散歩」をした、東京スカイツリーが見える隅田川・桜橋に近い、浅草やその近辺。主人公は私より2回りほど若い一人暮らしの中年で、もとは音楽と文学を好むどこかの裕福な家の坊ちゃんだったらしいが、父親との確執から関係を断ち、トイレの清掃員として毎日(「ルーティン」)を過ごしている。そして、そんな彼は、確かに時代の文化や人間関係は変化したけれど、その”アナログ”の(音楽カセットとアナログカメラに象徴される)感性によって、自然や人々の細やかな「命」の輝きを感じ取ることができる。彼は、植物の成長や木洩れ陽の千変万化の美しさの中に喜びを見出すことができるのと同時に、人生の木洩れ陽の様に輝く喜怒哀楽の儚さと美しさにも涙を流し、微笑むことができるのだ。デジタルは「信号」に分断された情報の集まりにすぎない。それに対して、アナログは分断されることのない「全体性」を維持している。対象を「役割」や「機能」などに分断して捉えるのではなく、「全体性」において捉える、そんな彼の”幸せ”そうな”PERFECT DAYS”。激しい競争社会の中で自分の身体と心をすり減らせている「現代人」とどちらが幸せなのか。解答は明らかな様に感じられた。
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「あきらめましょう、あきらめましょう、私は一人!」となってはいけない。孤立化と諦念を打ち破る。

ボッタクられた上に、舐められ、疎んじられた”怨恨”を
 報いられて当然の相手に対して、自ら、晴らそうではないか!


  ※昨日は春一番が吹き、季節はまた人の都合には頓着せずに回っているなあと感じさせる。近頃、私は、バッハを聴いたり、『ブギウギ』を見たりしながら、盛んに頷いてみたりしている。また、2月に入った大雪の日には、歌舞伎座で『猿若祭』を観てきた。歌舞伎界の中で鍛え上げられた中学生の勘太郎と小学生の長三郎が見事な舞台を務めていた。また、昨日は、東松山の埼玉ピースミュージアム (埼玉県平和資料館)にも行ってきた。戦時下の日常生活の中にあった品々、国民学校の教室と防空壕、本当にちっぽけに見える焼け爛れた三八式歩兵銃、そして、8月14日にあった熊谷の空襲を題材としたアニメ映画など、ガザの子供達のことも思い浮かべながら見てきた。少し、元気が戻ってきている。

  さて、イスラエルのガザへの暴虐は止まるところを知らない。イスラエル政府とそれに従っているユダヤ人たちの行為は到底許すことはできない。しかし、ワールドニュースを見ていると、最近のドイツの報道にはかなりの危うさを感じる。今のイスラエルを支持することがどの様なことに帰結するのかをよく考えたほうが良い。ドイツはヨーロッパの中で変質しつつあるのではないか。それに比べてスペインの報道はかなりジャーナリズムの本筋に沿っていると感じられる。そして、もちろん、アルディージャの報道は被害を受けている民衆の様子を伝えてくれる貴重なものだ。とにかく、さまざまな国のニュースを見ていると、戦争国家のプロパガンダに堕することのないジャーナリズムとは何かを考えさせられることが多い。

  先日、NHKニュースで”核のゴミ”の最終処分場選定についての報道があった。しかし、それは、結局のところ、調査の3段階の手続き云々といった話に終始し、高レベル放射性廃棄物の危険性についての話ーーー例えば、ガラス固体化のキャニスターとか、地層処分の信頼性とか、半減期10万年とかいったことーーーについてはほとんど触れられていなかった。一事が万事だが、自公政権と原子力ムラに不都合なことについては、隠蔽・改竄・でっち上げといった趣なのだ。また、岸田の国会答弁などを聞いていると、只々、「一般民衆」にこれまでの自民党政治のやり方ーーー「政治」には”闇”が必要で、”金”がかかるーーーをその根底において”当然視”させ、結局、”諦めさせよう”ー”泣き寝入りさせよう”とする意図や思惑がムンムンと感じられるのだ。そこには、偉そうで驕り高ぶった姿と困惑し怯えた姿とが重なってはいるが、その根底には、やはり、「一般民衆」への侮りと蔑視が根付いていると言って良いだろう。世襲政治屋の本性とはそんなところだ。しかし、同時に、これまでの経過や自らの心の内を覗いてみれば、実際、我々の意識の中にもそうした「弱者」=「従者」としての”諦めの心”が無かったとは言えまい。もちろん、それは心地よいものではないし、鬱屈した感情を私たちにもたらしてはいる。そして、「雲取仁左衛門」や「必殺仕事人」に寄せる想いや自らをも犠牲にした山上容疑者への同情心もそんなところに起因しているのかもしれない。

  しかし、それではいけないのだ。「お仲間」と「公金チュウチュウ」した挙句、その汚いやり口を隠蔽し・改竄し・目眩しするために脅したり、賺したり、諦めさせたり、飴を舐めさせたりする輩たちに対して、一般民衆は、その”恨み”を、自ら!、晴らさねばならないはずなのだ。そして、今その最も効果的な手段は、選挙で、投票することによって、年老いた親を苦しめ、後継世代に理不尽な労働を強い、また、少子高齢化や環境破壊や戦争国家化を押し付けている輩を選挙で落選させ、政権の座から引き摺り下ろすことだろう。日常生活を送る一般民衆がそのことに思い至るだけで、悪どい輩たちによるボッタクリ社会から普通の人々の命と生活が大切にされる社会への移行が始まるはずなのだ。幼い頃聞いた歌の歌詞が思い出される。「あきらめましょう、あきらめましょう、私は一人!」・・・それではいけないのだ。

スペインの農民の腹筋がすごい!ーーー直接生産者としての、主権者としての”誇り”を感じる

日本では、”民”が”主人公”足り得ているだろうか?
 ーーー学校で、職場で、地域で、「従者教育」が行われている?!


  ※今、1日に2〜3枚のレコードを聴いている。そして、何のためだったのかは判然としないが、十数年前から、CDとレコードのディスコグラフィーを作っている。昨日で907枚目になった。これに残りのCDとレコード、そして、MDやカセットテープを加えるとおそらく80歳の声を聞くことになるだろう。ということで、ディスコグラフィーは1000で止めることにした。あとは、本当に聞きたい曲だけを聴くことにするw。6日に小澤征爾が88歳で亡くなった。しかし、私は彼のレコードは持っていない。CDやYouTubeでは聴くのだが、私には彼の個性がまだ捉えきれていないと言って良い。しかし、これからはもう少しじっくりと聴いてみようと思う。「奥さん」がファンである小澤俊夫さんは彼の兄なわけだが、90歳を超えてもまだまだ元気だという。きっと弟の死を悲しんでいることだろう。

  さて、日本の政治状況は”悲惨”という他はない。統一教会と政策協定を結び選挙を応援してもらっていながら知らぬ存ぜぬを通していた文科相・盛山晋太郎の醜い姿。そして、その盛山の更迭すら拒否して保身を図る岸田。そんな有り様をなんの恥じらいもなく傍観するだけの裏金政治屋たち。そして、その背後には、ハゲタカ金融資本と、アメリカングローバリズムに従属し、「実体」経済でまともに勝負することもせずに、円安と株高で暴利を貪ろうとする資本家や企業経営者、そして、そうした政治ー経済システムの中で犠牲を強いられる「一般民衆」がいる。そして、現在も、マスコミの「お仲間」たちが新NISAやインバウンドなどを盛んに宣伝する一方で、「一般民衆」の実質賃金の減少、ボッタクリの「富裕層」との格差が拡大しているのだ。まあ、やってられないね!、というところか。

  そんな中、ワールドニュースを見ていると、EU諸国、とりわけ、フランスやスペインなどの農民たちが激しい抗議行動ーーートラクターによる道路の占拠などーーーを行っている。そして、こうした人口の1%強でしかない農民たちの行動を国民の相当数が支持し、その不便を甘受している様なのだ。また、私にとって特に印象的だったのは、警官によって排除されようとしていたスペインの一人の高齢な農民の姿だ。両腕を持たれ引っ張り上げられながらも、彼の農作業で鍛え上げられたのであろう腹筋は、座り込んでいた両足の形を崩さなかったのだ。それは、農業に携わる直接生産者としての、そして、国の主権者としての矜持を感じさせるものだった。彼らの行動の背景には、ウクライナ戦争の影響やグローバリズムをとるEUの農業政策によって苦境に立つヨーロッパの農民たちの生活がある。確かに、彼らの要求はナショナリズムや右派勢力(ドイツのAfDやフランスの国民連合など)と親和性を持つものと想定される。そして、もちろん、狭隘な民族意識や自国(国益)第一主義が問題を根本から解決することはないだろう。しかし、農民たちがその生活を改善する諸政策を要求する権利は間違いなくあるはずなのだ。あとは、諸政党あるいは各国政府、あるいは、欧州議会や欧州委員会の対応が問われるだけだ。ここで、一般的な「ポピュリズム」批判でお茶を濁すことなど、到底できるはずはないのだ。

  やはり、市民革命や人民戦線を経験した民衆たちは違うのだろうか。しかし、我が国にも一般民衆が立ち上がった抵抗の歴史はある。しかし、それが成功した体験はほとんどないのかもしれない。さらに、現在においても、私たちは、学校において、職場において、地域において、自らの生の主人公でも、国家の主権者でもなく、只々、「従う者」としての訓練がなされていると言って過言ではないのではないか。さらに、民衆の間には様々な「分断」と「孤立化」の仕掛けが施され、また、民衆的な「連帯」や「連合」の契機が押し潰されているようだ。日本の日常生活を営む「一般民衆」が彼らの様な「強さ」を手に入れるには何が必要なのか。日本の「裏金政治」を終わらせることができるかどうかも、そのことにかかっている様な気がする。

「鬼は外、福は内」                  ーーー近所で豆まきの声は聞こえないがw

 昨日は立春、そして、一昨日は、豆まきと「鰯と柊」を済ませた! 
  よ〜し!、主権者として、汚い「裏金政治」を終わらせようぜ!


  ※一昨日は節分で、我が家では恒例の「鰯と柊」作りと「豆まき」を済ませた。今年の豆は特に美味しかった。また、「奥さん」が今年は柊にさやの残った大豆の枝を絡ませたが、なかなか趣があると感じた。それにしても、近所の家では豆まきの声が全然聞こえなかった。色々な理由があるのだろうけれど、こうした文化が廃れていくことは寂しくも感じる。新しい「イワシの頭」もたくさんあるだろうにw。今日は、関東地方も大雪の予報だ。たくさん積もってくれなければ良いのだが。

  国内政治も国際政治も混迷を深めている。それにしても、岸田や麻生や安倍派の連中などを見ていると、日本の「政治エリート」の”悲惨さ”が身に染みてわかる。あいつらは本当にまともじゃない!悪事を働き、罪を手下に負わせ、意味不明な「目眩し」(論点のすり替え)と責任逃れに走っている。そして、その「裏」では、”こっそり”と震災対応や社会福祉などへの信じられないような手抜きを、そして、「お仲間」のボッタクリのための規制緩和や軍拡を推し進めているのだ。その一方で、彼奴等の同類はしたり顔で「民衆」批判を咬ましている。もちろん、「一般民衆」にも”おかしな”連中はいるが、昨日の『七人の侍』ではないが、そうさせたのは、そうさせているのは一体誰なのだ。こうして、社会全般がモラルハザードに陥っていく日本社会の将来の姿はどうなるのだ。自公政権と連んだ最近の日本の大企業の不正=腐敗の有り様は、それを端的に示しているように思う。しかし、『七人の侍』のように、そうした状況を逆転させていくことができるのは、やはり、己の命と生活を守るために”立ち上がる”「一般民衆」なのだろう。そして、彼ら側には、一般民衆と結びつき自己変革を遂げた「有機的知識人」がいることだろう。

  昨日、前橋市長選で、野党系の小川晶さんが当選した。群馬に住む友人の話では、彼女はあの山本一太による朝鮮人慰霊碑撤去をも批判していた様だ。今の状況で、「一般民衆」がやるべきことは、まず、私たちと本当に結びつくことのできる「有機的知識人」を”雇い”、腐り切った自民党を権力の座から引き摺り下ろすことだ。もちろん、日本を壊滅的な原発事故と放射能汚染から救ってくれたのが珠洲の住民であった様に、私たちにも、私たちの生きる場で、私たちの命と生活を守るための活動があるだろう。しかし、彼奴等が「眠っていてほしい!」と願う私たちが最低限やるべきことは、まず、投票権を行使すること、世論を政治に反映させること、つまらぬ「目眩し」を許さないこと、主権者としての誇りと怒りを持って汚い「裏金政治」を終わらせることだろう。彼らが今最も恐れているのはそれなのだ。また、我々「一般民衆」が恐れなければならないのは、再びあの「民主党の裏切り」を許さないことなのだ。

日本の若者は”生き生き”としているだろうか?

   彼らが楽しい思い出を残せるような社会を!

  ※今は入手困難なレコード、リヒテル=ムラビンスキー/レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団のチャイコフスキー『ピアノ協奏曲第1番』とリヒテル=ザンデルリンク/レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団のラフマニノフ『ピアノ協奏曲第2番』(SMK-7612)を、久しぶりにダンボール箱の中から引っ張り出して聴いてみた。レコードに傷はあるし録音も良いとは言えないが、室温のせいではなくw、体が震えてしまった。リヒテルの”若さ”の故か、血湧き肉躍るような名演だと改めて思った。

  「老人には思い出を、若者には希望(夢)を」とか言った言葉があったように思う。そして、私も「過去」にこだわる傾向が強いように思うw。例えば、思い出が詰まった、使い古した品物が捨てられないのだ。昨日も、畑に水を運んでいた自転車のタイヤが経年劣化でパンクした。その自転車は、他にも、前照灯は弱り、鍵はガタつき、サドルは穴が空き、後ろの反射板は脱落しと言った具合だった。しかし、私は、1万円も出せば買える新しい自転車よりも、この自転車を修理(部品交換)してもらい、使い続けたいと思うのだ。そこで、馴染みの自転車屋さんに修理を依頼すると、見事に若返った「愛車」(元は2nd兄貴のものだった)が戻ってきた。同様なことは他にもある。今着ている毛糸のセーターの肘には穴が空いていたが、これにも布が当てられて現役というわけだ。また、農作業用のゴム長靴も一箇所破れていたが、防水テープを貼って使い続けているw。要は、ケチくさい=貧乏性なんだろうが、長い間愛用していたものを捨てるときには写真を撮ってからにしたりするので、それだけではないようだ。それにしても、写真や動画がなかった頃、どうやって「過去」を思い出したのだろう。絵や詩や彫像などは「過去」を思い出すために創られたのかもしれない。過去の演奏を再現するレコードやテープやCDも同様だろう。ただ、どんな映像や音響も「生」(当時)を超えることはできないだろう。ただ、「生」の記憶を甦えさせたり、それを想像させたりするだけのことではないか。つまり、一番大切で、そして、厄介なのは、その「生」の体験とその記憶ということになる。

  今の若者たちはどんな「生」の体験を積み重ね、記憶に残しているのだろうか。どんな「社会」そして「世界」の中で”生きて”いると感じているのだろうか。日本社会の「劣化」が指摘されるようになってから久しいが、私は、そのことが気になって仕方がないのだ。彼らはどのような「教育システム」の中で、どのような「労働環境」のなかで、どのような「社会」的(共同的、差別的、支配-従属的、敵対的・・・)関係の中で生き、そして、どのような「希望」や「夢」を持って生きてきたのか。そして、現在の若者たちの非婚化や少子化、そして、自己肯定感(自尊心)の低下や公共的関心の低下などの統計的結果を見るにつけ、先行世代として本当に悲しく感じるし、また、責任を感じざるを得ないのだ。もちろん、目の前に展開している「格差」の拡大からわかるように、若者を一括りにすることなどはできない。しかし、彼らは”同じ”社会システムの中で生きている。そして、その社会とは、おおよそ、「新自由主義」的とか、「管理社会」的とか、「能力主義」的とか、「脳化社会」的などと、様々な呼び名でその輪郭を捉えることができるものだ。そして、それらこそ、今日の日本の若者たち(の多数)から「希望」や「夢」を、「未来」に対する肯定的な感覚を奪っている可能性が高いのだ。私たちは、それに対する個人的な”対処”(一揆か逃散か、など)は別として、最低限、それらに対する「公共」的な関心を持ち続けることが必要なのだと思う。それが私たち先行世代の責任でもあるだろう。
プロフィール

SARO MURIKI'S FATHER

Author:SARO MURIKI'S FATHER
おりこうさんのワンワン、サロ・ムリキ(2006〜2023)の遺志を継ぐブログです。サロさんは、放射能と戦争と弱い者いじめとぼったくり屋が大嫌いで、「市民と野党の共闘」を私と一緒に応援していました。人と自然を大切にし、普通の民衆が生き生きと生活できる世界を目指します。さあ、理想と意欲に燃えて再出発だい! 2023年8月24日

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