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”不幸”を生み出す職場の現実――『七つの会議』を観て

見え見えな「支配」の基底的構造
 ―――「働くこと」の意味を改めて考えた


   ※このところギターをいじっている。一時は「禁じられた遊び」がかろうじて弾けるようになっていたが、ギターの調子が悪かったので、長い間、屋根裏に放置してあったのだ。しかし、2週間ほど前、楽典の本と一緒に図書館から借りたCD「アルハンブラの想い出」(荘村清志)を聴いて、もう一度ギターをいじりたくなった。そこで、ペグと弦を交換し、(音叉の代わりに使う)クリップ式チューナーまで買って、バネ指にもめげずにw、ギターをいじっている。結構楽しい。

   さて、先週、池井戸潤原作、福澤克雄監督、野村萬斎主演の『七つの会議』を観てきた。この作品は、現在、邦画の観客動員数第1位ということだ。野村萬斎と池井戸作品の「オールスター」がその演技をぶつけ合う様は、流石に見応えがあると感じた。萬斎は、狂言も観たことがあったが、この現代日本にも、彼の演ずるような人物が「このあたりの者でござる」と存在してくれたなら、さぞかし住み良い社会になるだろうと思ったw。また、『昆虫すごいぜ』の(カマキリ)香川照之は本当に貴重な俳優だ。『カイジ』から『ジョン・ラーベ』まで、彼に代わりうる俳優はちょっと想像できない。

   映画の筋について言えば、おそらく、日本の企業社会を経験したことがある人ならほとんど誰もが、「あった、あった!」とか「ある、ある!」とか言って、苦笑したり、あるいは、「鬱になりそう!」と感じたのではないだろうか。そこには、日本の「組織(官・民・軍)」に通底する〈支配ー隷属〉関係とそれを正当化する〈意識〉と〈文化〉の”ひだ”が実感できるといえよう。しかし、我国の歴史と文化には、それに対抗しうる「義」に基づく「企業倫理」や「職業倫理」も明確に存在したのだ。しかし、それを無残にも「おちょくった」のが、アベ政治の内政や外交に典型的にあらわれている、ボッタクリの〈新自由主義〉と究極の恥知らずと言える〈歴史修正主義〉に他ならない。役所広司がニヤついていたが、偽装にしても、隠蔽にしても、忖度にしても、ボスの言い逃れにしても、それはアベとアベ友がやっていることそのものといえるのだ。しかし、この映画自体にも表れているように、見る人は見ているのだ。最近のアベの”強がり”も、トランプのそれと同じで、窮地に立たされているが故の「悪あがき」というしかあるまい。いやはや、とんだ迷惑というものだ。次回は個別的な事案について述べて見たい。

   それにしても、日大アメフトの内田前監督は、自民党や検察や警視庁と”仲の良い”お友達なんでしょうねえ。最近は、つくづく、この日本もしっかり”政権交代”をして”巨悪”を裁いていかなければダメではないかと感じるようになった。善も悪も人間のものだ。そして、暴力も非暴力も自然なものだ。それ故に・・・、甘ちゃんの私の「政治(家)不信」がここまできた。彼らの良識には任せられないのだ。
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ニュース雑感(2)国内編―――2019年2月

「エリート」の腐敗・堕落と「国民」の主権者意識
  嘘まみれのアベは時代劇のヒーローに成敗してもらうしかない?w


   ※諦めているわけではない。逆に、アベ政治への想いはもう限界に達するほどまでに悪化している。このままでは、日本は劣化し、間違いなく国民生活は荒廃したものになるだろう。彼らの合言葉は「我亡き後に洪水は来れ!」どころではなく、「他人はどうとでもなれ、俺たちは甘い汁を吸い続ける」というものなのだろう。いやはや、とんでもない時代に向かっている。

   さて、前回は、国際政治についての感想をいくつか書いてみた。ところで、そうした国際政治に対する日本の職業的解説者たちの話を聞いていつも妙に引っかかるのが、それらに付随して語られる「ポピュリズム」批判の言説なのだ。例えば、イギリスのEU離脱(ブレグジット)に関連してあの「国民投票」が語られ、結局、”無知”で”感情的”な一般国民にその「判断」を任せるとロクなことにならないといったニュアンスが垂れ流されるわけだ。あの「国民投票」の前後における「エリート」たちの”無能”ぶりが明らかなのにも関わらずだ。もちろん、欧米などでの移民排斥に見られる右翼的ナショナリズム(ーネオ・ナチ)の動きや、権力の掌握のためには「大衆」に強く訴えかけ、強い支持を得る必要があるなどとする橋下の「ポピュリズム」擁護を聞いていると、「大衆」動員型の政治に対する警戒感もわからないでもない。しかし、そうした「ポピュリズム」批判の多くの中に私がいつも感じのは、ノン・エリート(「民衆」)の積極的で、直接的な政治参加・政治行動それ自体への嫌悪感なのだ。抑圧”体制下の「エリート」による「民衆」への醜悪な”蔑視”や”差別”については今更コメントする気もないが、一見”リベラル”な雰囲気を漂わせている論者にも感じられるそうした傾向を見るにつけ、結局、あなたたちは、「民衆」を苦しめる「体制」の諸問題を「民衆」自身の積極的・直接的な政治参加・政治行動抜きにどう根本的に解決できると考えているのか、是非お聞きしたいと思うのだ。そもそも、お仲間の「エリート」が問題を真っ当に解決できているのならば、日常生活を送る「民衆」は苦労しないのだ。

   それにしても、最近の日本の政官財の「エリート」の”惨状”は言葉を失うほどだ。これまでも、モリ・カケ問題に対する財務省や検察などの対応にウンザリしてきたが、この間の厚労省による統計データ不正から次々に明らかになってきた実態はさらに深刻で、ここでいちいち具体例をあげていったら怒りで精神がもたないほどなのだ。要するに、彼ら「(似非!)エリート」たちは、”私利私欲”のために、本来ならばそれに奉仕するはずの”公共”の利益を著しく侵害しているということだ。その有様は、時代劇の悪代官とその手下、そして、彼らと連む悪徳商人の姿を彷彿とさせる代物だ。だが、同時に、「民衆」の多くも、「何がなんだわからないのよ」とかいった風情で、せいぜい、正義のヒーローに「成敗」してもらうしかないと思っているが如き有様なのではないか。アベ友の信じられないようなバカバカしい支配の存続は、そんな「民衆」に支えられていることは間違いない。アメリカや韓国そしてフランスとの違いは決定的だと言って良い。とにかく、仲間内でかばい合いながら言い逃れに走り、他人事のようにしらばっくれ、見え透いたウソを吐き続けるアベ友を許している社会が、”国民主権”の民主社会と言えるはずはないのだ。まずは、国民の一人一人が自ら(真っ当な報道機関や「大竹まことのゴールデンラジオ」でも聞いて)「ファクト」を確認するとともに、なによりも、わが身に巣食う非自立的な「従属者」意識を払拭する必要があるというべきだろう―――大体、明仁天皇も悪くはないが、”皇族”だという理由だけで、子供にまでも疑問なしに「〇〇様」とか呼んでいるのはおかしいだろう。

   「民の声は天の声」という言葉もあるが―――そう言えば、賃金や景気の上昇について、庶民は「えっ?どこでの話?どこかで誰かが儲けているのかねえ?」とかいう声が多かったが、こちらの声の方が正しかったというわけだw―――、市井に生きる「庶民」自身は、”ノン・エリート”の「一般ピープル」を、即、何か特別な「真理」や「価値」を体現する存在であるが如き幻想を持つことはほとんどあるまい。周りには、粗野な「悪人」や「公共」のことなどほとんど考えずボーッと生きている人間が少なくないからだ。だからと言って、「(似非)エリート」が、十把一絡げに、”ノン・エリート”の「一般ピープル」を無知で粗野な存在の如く扱うのは笑止という他はない。もともと、政治理論や政治思想には、「哲人」や「聖人」による政治から始まって、フランス革命を批判したエドマンド・バークの「保守主義」とか、あるいは、、寡頭制支配や官僚制化の必然性を説いたりする「エリーティズム」の流れがあった―――もちろん、その真っ当なものは、その問題性や機能不全をも指摘している。しかし、当の「(似非!)エリート」どもが、わが身をも省みずに、”したり顔”を決め込んでいる姿ほど醜悪なものはない。その見事な実例が今も液晶画面の中に写っている。『嘔吐』という小説があったよな・・・とても見ていられない。う、うう・・・・今日は映画でも観に行くか。    

   このところ、サッカーのアジアカップだの「嵐」の解散だのと、世の中妙に騒がしかったように思う。我が家も「奥さん」がサッカーファンで結構一生懸命なのだ。「嵐」についても、なに?神社・・、なに?誇り・・勇気をもらって?・・・笑ってしまうほどだった。つくづく、人間の価値観は多様だと驚く。そして、こんな多様な人様のことを過度に気にしたり、引きずられたりしていては、とても悠々と心穏やかに生きてはいけないだろうとつくづく思うのだ。しかし、こんな世の中でこそ「公共」のことを考えなければならない。実に大変なことではないかw。

2019年1月・ニュース雑感(1)海外編

「したり顔」の哀れな末路が見える
  ―――それに付き合わされることない知恵を発揮し得るか?



 ☆大坂なおみが全豪オープンで優勝
   クビトバトとの優勝決定戦を”気合いを入れて”見ていたら、「2nd兄貴」に「大坂なおみってお父さんにとってどんな意味があるの」と冷ややかに言われてしまった(w)。本当に何だったのだろう?自分の何かを投影してでもいたのだろうか?「日本人」だからと応援していたとも思えない。おそらく、彼女の”キャラ”に何か惹かれるものがあったのだろう。それにしても、『リテラ』の「大坂なおみが日清ホワイトウォッシュ問題を「気にしてない」「なぜ騒ぐ?」は誤報道!別の質問への回答を歪曲・誤訳」と言う記事には考えさせられた。この報道が正しければ(記事を読む限り間違いはない)、日本の巨大マスコミの恥ずかしさは尋常ではない。しかも、『日刊スポーツ』の記事によると、二重国籍の大坂なおみが日本登録で出場するようになった理由は大坂の父フランソワさんが「無名の時から娘を支援し続けた日本の恩義を尊重した」ためだという。そこには、これからの日本が取っていくべき姿勢が表れているようにも感じられた。「日本人」の概念も明らかに変化してきているが、自らが生まれた母方の母国=日本が、彼女にとって、頼りになり、愛すべき国であり続けることを願うばかりだ。

 ☆「孤立化」を深めるアベ外交―――真の「友好」は金では買えない
   昨年末のブログで、アベの外交を「トランプにカモられ、プーチンにはオチョクられ、習近平にはノセられ、文在寅にはウトまれ、金正恩にはシカトされ」と評したが、いやはや、事態は一層深刻なものとなってきている。それもこれも、アベ政権の、金をチラつかせて、「強き」には媚び「弱き」には高飛車に出る、「スネ夫」的性格によって引き起こされたものと考えて間違いないと思う。いやはや前途は暗い。

   トランプとの関係で言えば、膨大な軍備品を法外な値段で買わされていることはもちろん、これからも、アベ友一味の利害を守るために、どれほど多くの譲歩を強いられ、貢がさられるかは想像もつかないほどなのだ。

   また、プーチンとの「北方領土」問題については、たとえプーチンが納沙布岬の眼下に見える歯舞・色丹を北海道の一部として引き渡すことに同意することがあっても、「南千島」の国後・択捉島のロシアへの帰属をサンフランシスコ講和条約の記述に従って公式に認めさせようとしているぐらいのことは素人にもわかることだ。それを〈戦争による領土の併合〉の否定を基準に、日露和親条約(択捉島以南)や樺太・千島交換条約(千島列島全体)の時点にまで戻って交渉し得るかは、まさしく、政治の力量の問題と言えるのだ。しかし、現状は2島も危ういものとなっている。とまれ、最低限、先住のアイヌ民族には国境線をまたいで生活し得る権利がみとめられるべきではないだろうか。

   また、中国との関係で言えば、アベ友は戦前のイメージを引きずって日本優位の幻想にすがりついているが、中国の生産力や技術水準はもはやアメリカが脅威と感じるところまでに達している。こうした中、対米関係悪化の穴埋めを日本に求めてくる中国との関係において、経済面で圧倒的に依存している現状を直視しつつ、長期的な展望に立った適切な関係の構築に成功しなければ、その悪影響は計り知れないというべきだ。もちろん、日本経済の「ものつくり」国家としての自立と再生を基本にだ。

   さらに、日韓関係は、「レーダー照射」や「低空威嚇飛行」の問題で当分関係改善が見込めない有様となっている。私見では、今回の状況は、「歴史認識」問題に直結する「徴用工」問題への適切な対応ができないが故の両国政府の関係悪化と言う状況下で、(おそらく)偶発的に生じたであろう「レーダー照射」事件を、「同盟国」関係の中で穏便に処理することをせず、公に問題化したことに発するのだと思われる。そして、それも、日韓の相互依存関係の現実を直視できないアベ友たちの幻想的な優越意識に基づいているはずだ。中国に対しても同様だが、日本がケツを捲れば、韓国は困って、日本がアメリカにするように、擦り寄ってくるだろうというわけだ。しかし、その結果はどうなるのか。やれるものならやってみろと文在寅は思っていることだろう。つまり、それほどまでに、6カ国間における日本独自の存在感は低下しているということだ。北朝鮮との関係については、もう、言うまでもない。カヤの外なのだから。

   だが、一番問題なのは、こうしたアベの対応が、各国政府首脳はもちろんのこと、当該諸国の普通の国民や国際世論にどう受け止められているかということだ。意見あるいは利害の対立があっても、相互に尊重し合い、尊敬し合う関係というものはあるものだ。しかし、一緒にゴルフをやったドナルドの、一緒に温泉に入るはずだったウラジミールの、そして、習近平や文在寅のアベに対する表情はどうだったのか思い出してみよう。また、アベは国民が汗水垂らして生み出した税金を大量に世界にばらまいているが、各国の民衆は、アベや日本をどう受け止めたのだろうか。尊敬を勝ち得たのだろうか。アジア諸国はもちろん欧米諸国の政府や民衆はアベの「歴史修正主義」をどう見ているのだろう?「従軍慰安婦」や「徴用工」問題に対する日本政府の態度に賛同しているのだろうか。尖閣や竹島そして北方領土問題に対しても積極的な理解を示していると言えるのか。そんなことはあるまい。その場限りの社交辞令やリップサービスはあるかもしれない。しかし、結局、真の「友好」や「尊敬」は金では買えぬものだ。「落ち目」のスネ夫が、真っ当な努力もせずに、虚勢を張っているだけでは、あとは、残っている預貯金までをも差し出すしかなくなることだろう。その結果は、一層、馬鹿にされ、疎んじられると言うことだ。今の日本には、もはや、アベの愚策に付き合っているような悠長な暇はないと言うべきだ。(続く)   
     

Thunderbolt Fantasy東離劍遊紀2―躍動するキャラ

 「実存」の危うい輝き!
    ―――ショウフカンの”普通”が貴重に見える時―――

   ※前回はNスペの『アウラ』について書いたが、昨年末には、この他にも、BS1スペシャルの『隠された日本兵のトラウマ〜陸軍病院8002人の”病床日誌“』や『戦争孤児〜埋もれた”戦後史”を追う』という印象深いドキュメンタリーがあった。被害者がかえって差別や犠牲を強いられるという不条理な日本社会の有様が重く心に残っている。そして、こうしたことは今の私たちにもけっして無縁なものではない。それをどのように受け止め、どう対処していくのか、今を生きる我々に問われているのだ。

   さて、『Thunderbolt Fantasy東離劍遊紀2』であるが、今回は一度見ただけで細かいセリフなどをしっかり把握していないので、全体的な印象だけを書き留めておきたい。作品の衝撃度という点では前作を超えるものではなかったと思うが、キャラクター設定の面白さや最後の”もづきのよ”を使った仕掛けなど、相変わらず楽しませてもらった。

  まず、キャラクター間の関係について言えば、殤不患(ショウフカン)と蠍瓔珞(カツエイラク)、凜雪鴉(リンセツア)と嘯狂狷(ショウキョウケン)、さらに、最強の敵諦空(テイクウ)=婁震戒(ロウシンカイ)と七殺天凌(ナナサツテンリョウ)、また、新キャラの浪巫謠(ロウフヨウ)とショウフカンとのそれが基軸となっていたようだ。しかし、カツエイラクは思いの外「常識」的で気弱な「忠臣」であり、また、眼鏡のショウキョウケンも悪に殉じるほどのプライドを持たない小賢しい「役人」に過ぎないのだ。そして、結局、両者とも、ショウフカンやリンセツアにではなく、「悪」の権化の如きロウシンカイに殺されてしまうことになる。ところで、吟遊詩人ロウフヨウが敏感に感じ取ったテイクウ=ロウシンカイの「悪」の正体とは何だったのだろうか。

   それは、一言で言えば、「虚無主義(ニヒリズム)」であろう。それも、単なる「懐疑主義」の延長のそれではなく、本源的な「存在(命)」そのものへの「虚無感」といってよい。確かに、荒んだ現状から、いわゆる「人間性」や欺瞞的な価値観への懐疑が生まれてくるのは当然のことと言える。しかし、そもそも、自らのそれをも含めて、「存在(命)」そのものに何か特別な意味や価値が必要だなどという考え方自体が傲慢なのではないのか。そうではなく、”普通”に生きる「存在(命)」自体に意味や価値(「尊厳」)があると”認識”すべきなのではないか。しかし、そうした「感性」を持ち得ないが故に、ロウシンカイは、ナナサツテンリョウの「美」に意味と価値を見出した時、容易に彼女が求める犠牲者の「存在(命)」を無視ないし軽視することが出来たといえるだろう。ただ、彼とナナサツテンリョウとの関係は、ナナサツテンリョウの魔力に操られたものというよりも、彼の「実存」的選択の結果によるものであり、そうした意味において、ナナサツテンリョウの思惑を超えるものだったことは大変興味深いところだ。

   ところで、この作品の躍動する多様なキャラクターを前にして、「人間」に共通する本質、とりわけ、共同的なそれを抽象的、一般的に指摘することは非常に難しいだろう。反対に、それらの個別ー具体的な「実存」の「自由」と「責任」にこそ、この作品の魅力があると言って良い。しかし、「実存」への過度の着目は、個人的な価値を過度に肥大化させ、人々を孤立や対立に追い込むことも少なくはない。そうした中で、ショウフカンの基本的スタンス―――それは「普通の人」のそれだ―――は、彼の仲間であるロウフヨウやリンセツアだけではなく、”過激”な映像を観せられている我々をも「ホッ」させるのだ。それにしても、今のところ、私の周りにロウシンカイに似た人物の存在を強く意識しないで済んでいることは救いと言える。ただ、あのカツエイラクやショウキョウケンやナナサツテンリョウにはそれなりの”リアリティ”が感じられるのだ。本当に困った現状だ。(ということで、次回は、昨今の現状についての感想を述べてみたい。)

アウラとイシ――人にとって文明とは何だったのか?!

「人」を殺しあわない「真の文明」は可能か?
 ――「人」を分け「人」を結びつけるものを知らなければならない


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『イシ』と自作の歩行補助ヒモ


   ※サロさんと遠くの公園まで散歩してきた。サロさんの気が向くままに歩いたら、2時間以上かかった。ただ、嬉しいのは、サロさんの後足が足を引きずるようになる前の状態に回復していることだ。実は、足を引きずる様子を見てもうダメだと思い、市販の歩行補助ハーネスや二輪歩行器も用意したのだが、結局、使えたのは、写真に写っている剣道の胴紐で自作したものだった。そして、今は、それも使っていない。こうした様子を見ていてつくづく感じるのは、サロさん自身が自分の足で歩きたいと思っているだろうことだ。考えさせられることだ。

   さて、昨年末、NHKスペシャル『アウラ 未知のイゾラド 最後のひとり』を観て心動かされた。アマゾンの奥深くに暮らしていた未知の先住民=イゾラドの最後の一人となったアウラ。彼の部族に一体何が起きたのか。それが、文化と言葉の壁を乗り越えようとする言語学者ノルバウ・オリベイラの努力によって、影絵のように映し出されていく。それは、これまでも「未開」と「文明」(あるいは、「文明」と「文明」)の「接触」によってしばしば引き起こされてきた、「文明」の側からの侵略と強奪と虐殺による「死」の有様に他ならない。それが、あの第二次世界大戦後の世界の中でも繰り返されていただろうということだ。私はアウラたちの生活と文化がどのようなものであったのかについては番組の範囲内でしか知らないが、同様に、「文明」によって一つの民族の「最後の一人」にまで追い詰められた人物については、シオドーラ・クローバーの『イシ 北米最後の野生インディアン』(1961年)や『イシ――二つの世界に生きたインディアンの物語――』(1964年)でかなり詳細に知ることができる。

   両書とも、同じ人間としての「共感」と彼が受けた悲しみへの「同情」から、涙なしでは読めないような作品だ。筆者のシオドーラ・クローバーは、イシと直接関わった文化人類学者アルフレッド・クローバーの妻で、また、あの『ゲド戦記』で有名なル=グウィンの母だ。そんなこともあって、ル=グウィンは『イシ 北米最後の野生インディアン』の再版(1991年)に「序文」を書いている。素晴らしい文章だ。カリフォルニア・インディアン・ヤヒ族の「最後の一人」イシ(本名ではなく「人間」という意味)の伝記とも言えるこれら本の内容を敢えて紹介することはしないが、『イシ 北米最後の野生インディアン』は文化人類学や社会学的知見を備えた大人向けの本で、『イシ――二つの世界に生きたインディアンの物語――』は文学的性格の強い子供向けの本だ。そして、私には、やはり、前者の方が迫真力が感じられたと言って良い。しかし、どちらにしても、「文明」や「科学」の名の下に、同胞を迫害し、自然を傷つける「人間」の悲しい有様に猛省を迫るものだ。

   ただ、イシの時代においても、「インディアン」を迫害した凶暴な人間たちもいたし、また、イシたちを守ろうとした人たちも存在した。そして、私たちは、両者を分かつものは何であるかのを知り、そして、私たちがそのどちらの側に立つのかを考えなければならない。それが無知や偏見や恐怖心に基づくものなら、それを克服しなければならないし、いわゆる、「人間性」の本質に関わるものであるならば、そのことを深く省察しなければならないだろう。

   ところで、年末から正月にかけて、「人間性」について、「姉貴」と話したことがある。彼女の話によると、問題は、人間「存在」の根源的な「暴力性」への自覚から、どのような「生き方」が選択されるのかということだという。そもそも、人間は、自然や他者に支えられることなしには生存しえないけれど、同時に、生きていく上で、自然や他者を傷つけたり、犠牲にしたりせずには生きていけない存在でもある。それ故にこそ、私たちは、自然へも、植物へも、動物へも、そして、人間同士でも、それなりに「気遣い」して生きていく方が良かろうというわけだ。私は、こうした発想はイシのそれに近いもののように感じる。それは、いうまでもなく、インディアンを虐殺したベンツやアンダーソンのそれ、そして、私欲に居直る「アメリカ第一主義」のトランプのそれとは対極をなすものだ。さらに、それは、最近もより凄まじい様相を呈している、トランプと「100%共にある」、アベやアベ友たちのそれとも違っている。

   田中正造は、明治45年6月17日の日記で次のように書いている。「○真の文明ハ山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さゞるべし。  ○古来の文明を野蛮二回らす。今文明ハ虚偽虚飾なり、私慾なり、露骨的強盗なり。」
   私たちは、どちらの「生き方」を選んでいけるのだろうか。
   
  (うちの「奥さん」はル=グウィン(とサトクリフ)のファンで、その影響で、私は『ゲド戦記』も『イシ』も読む機会を得た。ありがたいことだ。)
プロフィール

SARO MURIKI

Author:SARO MURIKI
おりこうさんのワンワンです。年齢は、2018年11月現在満12歳です。見てのとおりの柴ですが血統書はありません。性別はオスで、飼い主には、朝夕、45分ずつ2回の散歩を義務付けているVIP犬、正確に言うと、VIDです。文句あっか?!

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