「日米同盟」についてーーーーーー9条の外交・安全保障政策とは何なのか?(2)
「日米安保体制(米軍プラス自衛隊)と憲法」から、
「日米軍事同盟対憲法第9条(専守防衛)」へ?!
※(6月27日)猛暑日が始まった。畑仕事をしていて、目の前が暗くなって、慌てて自販機で水を買って飲んだ。義父は畑仕事中に倒れたのだが、初めはこんな感じだったのだろうか。近所の80歳前後の方々が相次いで倒れ、入院している。同い年の卓球の同好の氏も頸動脈の血栓手術で1ヶ月入院した。サロさんのオムツかぶれも要注意だ。夏は独特の嫌な皮膚感覚があるが、いよいよ私が最も苦手とする季節がやってくることになる。
ところで、人間の性格にはいろいろなタイプがあるが、最近感じたことが2つある。一つ目は、私の先生の一人であるT氏が老衰で91歳の生涯を終えたのだが、それを知って私が抱いた印象は、本当に「善い人」だったなあ、というものだった。彼は非常にフレキシブルだったが、それは彼が「人間」に対する基本的な信頼感を持ち続けることができたが故のような気がする。田舎出の素直な坊ちゃんという面もあり、私にはない「おおらかさ」があったように感じる。それにしても、あんなに「優秀」だった人もアルツハイマーになり、晩年を過ごすことになるのだ。二つ目は、元同僚の方々と話す時に感じる、何歳になっても「希望」・「目標」を失わないポジティヴな生き方だ。それも私にはないうらやましい気質に思える。私はといえば、人間に対して彼らよりも悲観的だし、「希望」を持っていないように感じる。そんな私と接する時、彼らはどんな印象を持つのだろう。私は彼らを応援したいと思っているが、私自身はといえば、非日常的な「ハレ」への欲求がほとんどなく、普通の日常的生活に対する充実感や喜びの方が大切に感じられるのだ。そして、それを破壊する者たちへの「怒り」こそが日常的とは言えない行動の動機になっていたように思われる。その「怒り」の基準が私なりの「正義」であり、また、その実現が「希望」ということなのかもしれないが、その「希望」自体が日常的ときているのだ。要するに、私にとって「希望」とは普通の生活であり、そういう意味で、私は安倍晋三でも志位和夫でもなく、オノヨーコでも矢沢永吉でもない、「一般ピープル」ということなのだと思う。しかし、「一般ピープル」にも、意地も誇りもあるものなのだw。
朝5時に起きてブログに取り組み、今、朝の雑事をこなした後、畑で一仕事してきた。もう9時を過ぎていたので、周りの家庭菜園に人影はなかった。今回は、「日米同盟」について書くつもりだが、いつ頃からだろうか、世の中が、「日米安保」ではなく「日米同盟」と表現するようになったのは? おそらく、それはアベ内閣の閣議決定による集団的自衛権の「容認」と戦争法制定以降のこと、すなわち、日米安保条約を憲法9条の制約から解き放ち、双務的でフルスペックな軍事同盟に変質させようとの意図の表れに違いあるまい。繰り返しになるが、戦後の日本が国際社会の中で戦争に直接加わらなかったのは、日米安保条約が、アメリカは日本が軍事基地を提供する見返りに防衛義務を負うが、日本は憲法9条の制約の下、海外でのアメリカの戦争を助ける義務を負わなかったが故に他ならない。
ところで、私にとっての「日米安保」とは、「安保反対」の「安保」であり、日本がアメリカの戦争に加担し、日本がアメリカの戦争に巻き込まれることを意味していたと言える。「60年安保」のことはよくわからないが、「70年安保」はベトナム反戦と結びついており、当時、アメリカの施政権下にあった沖縄からは米軍が直接出撃してベトナム人民を殺傷し、また、本土においても、軍需品の生産や兵器の修理などが問題となっていた。9条の制約下にあっても、日米安保体制は、米ソ対立の最中におけるアメリカの極東戦略の要に位置するもの、すなわち、日本国憲法の「非戦・中立」とは明確に相容れないものと考えられていたと思う。そして、日米安保体制の実体が米軍の存在とそれを「補完」する自衛隊だったことは言うまでもない。
(※昼食をとっていたら、テレビで関東地方の梅雨明けが報じられた。まだ、6月ですぜ!)
ところで、日本における米軍と自衛隊の存在は、極めて”単純な”国際的な力関係に規定されていたと言ってよいと思う。つまり、当初は、連合国のアメリカとソ連が敗戦国日本を分割占領・支配する、すなわち、北海道から沖縄に至る地域をアメリカが、そして、北方4島を含む千島列島をソ連が占領・支配するという構図だーーーこの点については、『北海道新聞 電子版』(2017.12.30)の記事「ソ連四島占領 米が援助 艦船貸与、兵訓練…極秘合同作戦 45年2~9月 根室振興局調査で判明」が明らかにしているところだ。しかし、米ソ対立の激化、とりわけ、朝鮮戦争以降、アメリカにとっては、日本にソ連や中国に向けて自由に使用できる軍事基地を確保することは最重要の課題であり、また、その在日米軍の補完的役割を果たすものとして、日本に再軍備化(警察予備隊ー保安隊ー自衛隊・・・)が求められてきたというわけだ。しかし、日本の「独立」と同時に作られた「日米安保条約」=「日米安保体制」の成立には、(キシノブスケのような日米戦争を主導し、敗戦後には米ソ対立を絶好の僥倖としてアメリカに擦り寄り、アメリカの“走狗”となって生き延びようとした勢力とはまた別の)、占領統治国アメリカの絶対的権力を前にしつつも、平和を願う日本国民の意志を背景に、日本国憲法の規定を逆手にとって、アメリカの単なる”走狗”とはならない選択を行なった勢力も存在したということだ。もちろん、その選択には、沖縄の犠牲や独立国とは到底言えない「日米地位協定」にみられる属国化があったわけなのだが・・・。
(※昨日27日の午後は、製氷皿とサロの爪用のヤスリと花の苗2つを買いにホーム・センターに行き、その後、サロと田んぼの畦道を通って1時間ほど散歩した。帰ってきて、夕食までの間、NHKプラスで『雲霧仁左衛門2』を観ていたら、ついでに、『クロ現』で桑田佳祐の「時代遅れのRock’n’Roll Band」のことを知り、YouTubeでFull ver.を聴いてみた。「私鉄沿線」の野口五郎らと「平和」について歌っていたが、66歳のおじいちゃんたちの孫たちを思う気持ちがしみじみと伝わってきて、ご時世との乖離を薄寒く感じながらも、少し感動してしまった。「正義の戦争」や「最終戦争」を含めた戦争一般に対する人々(一般民衆)の絶対的忌避感こそが日本国憲法の人民的側面なのだと改めて感じたところだ。夕食後、皿洗いをして、風呂に入る。右腕が痛いので、明日の卓球のために、低周波治療器で治療する。そして、サロのオシッコを絞ってオムツを替え、就寝。録画した『ハゲタカ』は後日見ることにする。
28日、朝目覚めて、mailをチェックする。Mさんから「梅狩り」の件の連絡が来ていた。1年ぶりに、遠出をして再会することができる。楽しみだ。その後、サロのご飯、朝食、ゴミ出し、庭整理。「奥さん」は今日も「キョウヨウ」と「キョウイク」があるw。サロが呼ぶが、暑くならないうちに畑に行かねばなるまい。
今日も強烈に暑かった。ポリタンに水を入れて自転車で運び、野菜たちに水をやる。それでも、ナスが一本枯れかけていたので、秋茄子に植え替えねばなるまい。畑から帰ってきて、昼食までサロと一緒に昼寝をした。今日の昼食は、野菜ジュース、キュウリ丸かじり、魚肉ソーセージ、そして、ソーメンとヨーグルト。午後は、卓球をやる。
卓球は、ダブルスで5勝1敗1引き分け、セット数で言えば、16勝4敗。水を1リットル飲んだ。帰ってきてサロと昼寝。6時過ぎから30分ほど散歩した。気温は高かったが、風が心地よかった。
夕食後、皿洗いをして、さて・・・・)
さて、ソ連邦の解体後、日本の「革新勢力」や「知識人」の間には、「日米安保体制」(米軍と自衛隊)に対する姿勢に大きな変化があった。最も大きかったのは、やはり、社会党の政権参加(村山内閣)による安保と自衛隊に対する「方針転換」だったろう。まさか、ソ連が崩壊したので、それでは、アメリカかというわけではないのだろうが、私にはこの動きがどうにも納得できなかった。というのは私たちの世代にとって、「帝国主義国」アメリカも、現存「社会主義国」ソ連や中国も、反対こそすれ、模範とすべき対象だとは思われなかっただろうからだ。もちろん、アメリカ側の陣営で生活している限りにおいて、アメリカ側の「非道」に対する対抗思想の一つとして、あるいは、それに反対しうる対抗勢力の一つとしての存在意義位はあるだろうと考えていたとは思う。しかし、日本国憲法が指し示す「中立・全方位外交」としての「全面講話」がより望ましかったろうと考えられたのと同様に、米ソの全面核戦争という危機を前にしてアメリカ側につくのとかソ連側につくのかとかと言ったこととは全く視点が異なっていたことは確かだ。ところが、話によると20年ごろ前の東大社研もそうだったらしいのだが、最近の「日米安保容認論者」は少し様子が違うらしいのだ。つまり、アメリカもソ連も良いとは言えないが、アメリカの方がよりマシだから、日本がアメリカとの「同盟関係」を結んできたことは、現実的であり、正しい選択だった、てな話なのだ。私に言わせれば、こうした姿勢は、どちらにしても「権力」(強い方)とともに生きる、どちらかの「権力」(強い方)に張り付いて生きることを習い性とした似非エリートの姿だと感じるのだ。そして、そうした思考の中では、国内においては、沖縄はもちろん米軍基地に関わる国民の犠牲や負担、そして、国外においては、ベトナムやイラクやアフガニスタンの人々の犠牲やそれに関わる自衛隊員の命、そうしたものが「仕方がない」ものとして、結局、矛盾を押し付けられる人々の「理解」や「金目」でやり過ごされるということになるのだ。もう寝るしかない!
(※29日朝、扇風機をつけていたせいか、サロさんは安眠していた!朝食前に庭仕事をし、その後、ゴミを出して、2nd兄貴を駅まで送った帰りに畑仕事を済ませ、これからサロのオムツの洗濯をする。「日米同盟」を書くのに3日かかることになるが、おかげで私の日常も書き残すことができた。そして、今朝の『東京新聞』に載っていた写真に添えられていた言葉ーー「幻の梅雨恋し」も、日本にはまっとうな梅雨も無くなったのかという想いとともに、書き残しておくことにしよう。)
さて、「日米同盟」についてだが、私は、現在の経団連や自民党は、目先の我欲の故に作り出してきた「格差」の構造とその結果としての日本の(総体としての)凋落をキシ・ノブスケ流の(準)「戦時体制国家」の構築によって乗り越えようとしているのであり、そのための「戦争国家」化を、日米の「共通の敵」に対する“双務”的な軍事同盟への質的転化によって実現しようとしているのだと考えている。しかし、その実体をなす自衛隊や米軍は、どう見ても、日本国民の安全を守るためのものとは到底思えない。例えば、私たちが目にしている自衛隊は、「災害救助」の役割を担ってくれてはいるが、原発を守ろうともしていないその姿は、主権国家の「個別的自衛権」の主体とすら思えず、ただアメリカの世界戦略の中に補完的に位置づけられたものでしかないと考えざるを得ない。さらに、日本に極東最大の軍事基地を持つ米軍が何のために存在しているのかと言えば、日本を守るために、では決してあるまい。自主防衛派らしい人々が、有事の際にアメリカは日本を本当に守ってくれるのかと心配しているようだが、アメリカは、日本や東アジアを戦場にすることはあっても、それは日本を守るためのものでないことなど自明のことだろう。核保有国同士は全面核戦争によって共倒れにならない範囲内で覇権を争うのであってーーーとはいっても、その共倒れの回避も保証されたものではないのだがーーー彼らにとって、いわゆる「代理戦争」や「地域紛争」は織り込み済みの事態と考えて間違いあるまい。しかも、今流行りの「核抑止力」も、アマルテア・センが言っていたように、中印の核武装はカシミール紛争を防ぐことができなかったのであり、主権国家の国権主義的指導者たちにとっては、核兵器の保有とその相互的な不使用はお互いの生存を保証してくれるのかもしれないが、その視野の中には戦場で犠牲となる一般民衆のことは数字としてしか存在しないようにも思われるのだ。
(※今日の暑さはすごかった。夕食の時、初めてクーラーを入れた。テレビでは、フィンランドとスウェーデンのNATO加盟にトルコが賛成したと報じていた。その見返りは、フィンランドとスウェーデンがトルコ国内におけるクルド人の分離・独立運動(ーテロ活動)への対応を変えるということらしい。ハ〜ッ?、成り行き次第で変えるんだ?! また、ロシアの悍ましい戦争犯罪についての報道も連日夥しい頻度で行われている。ただ、歳をとったせいもあるだろうが、もうこうした絵に描いたようなプロパガンダやダブルスタンダードには飽き飽きしているのだ。AALA諸国におけるそれとは全く異なるこれらの報道は、ウクライナの市民の犠牲者のためにではなく、日本の統治者たちによる日本の戦争国家化への後押しとしてなされているに違いないと思う。)
長くなったのでもう止めるが、要するに、「日米安保体制」は、それが日本の国家主権の制限を認めているがごとき問題性はもちろん、その「進化形」たる集団的自衛権の容認に基づく「日米同盟」は、国際紛争を武力によって解決しようとの主権国家同士の軍事同盟に他ならないのであって、さらに、その戦争国家アメリカとの同盟は、日本を必ず戦争の惨禍の中に引き摺り込むことになるだろう思われる。もっとも、それは、世界最強の米軍基地が置かれている日本に「先制攻撃」がなされる可能性が高いと言うのではない。それは自滅を意味するだろうからだ。そうではなく、日本は米軍の実質的な指揮の下で、その「使いっぱ」にされるのだ。米軍が日本にいるのは、日本の支配層がお願いしたからと言う出来すぎた話もあるが、そんこととはおかまいなしに、アメリカは勝手に日本にいるのだ。そして、もし日本が米軍基地の撤去(安保条約の解消)や独自の核武装を試みようとすれば、アメリカはあらゆる手段を用いてそれを阻止しようとする可能性は極めて高い。つまり、日本を軍事的に「侵略」する可能性が最も高いのはアメリカなのであって、そうした意味で、アメリカの“言いなり”になっているのは、日本にとっての究極の安全保障だと考える「お利口さんのワンワン」もいることになる。しかし、その中でどれほど多くの一般人民の金や命や生活が犠牲になっていくことか。そうではなく、「非戦」に基づく「中立・全方位外交」こそが、日本と世界の平和を愛する人民の「平和的生存権」の実現=「人間の安全保障」に向かう道なはずだ。「日米安保条約」はやはり解消すべきものと言わなければならない。ついでに言えば、世界情勢は一人一人の一般民衆とはほとんど無関係に動いていく。だからこそ、一人一人の一般民衆は、主権国家のイデオロギーであるナショナリズム(国民意識)などに囚われることなく、いざとなったら、一人の人間として、逃げ、助け、闘い、面従腹背を決め込む、等々、己の生を生き、そして、死ぬしかないのだと思う。繰り返しになるが、私は、アベやタケナカやトウデンやハゲタカたちのために死ぬ気は全くないのだ。
(※4日目に入ってしまったw。日記たる「ムリキブログ」最長のものになったはずだ。サロさんが足元で寝ている。抱っこして、ベッドの横に寝かせる。おやすみなさい。)
「日米軍事同盟対憲法第9条(専守防衛)」へ?!
※(6月27日)猛暑日が始まった。畑仕事をしていて、目の前が暗くなって、慌てて自販機で水を買って飲んだ。義父は畑仕事中に倒れたのだが、初めはこんな感じだったのだろうか。近所の80歳前後の方々が相次いで倒れ、入院している。同い年の卓球の同好の氏も頸動脈の血栓手術で1ヶ月入院した。サロさんのオムツかぶれも要注意だ。夏は独特の嫌な皮膚感覚があるが、いよいよ私が最も苦手とする季節がやってくることになる。
ところで、人間の性格にはいろいろなタイプがあるが、最近感じたことが2つある。一つ目は、私の先生の一人であるT氏が老衰で91歳の生涯を終えたのだが、それを知って私が抱いた印象は、本当に「善い人」だったなあ、というものだった。彼は非常にフレキシブルだったが、それは彼が「人間」に対する基本的な信頼感を持ち続けることができたが故のような気がする。田舎出の素直な坊ちゃんという面もあり、私にはない「おおらかさ」があったように感じる。それにしても、あんなに「優秀」だった人もアルツハイマーになり、晩年を過ごすことになるのだ。二つ目は、元同僚の方々と話す時に感じる、何歳になっても「希望」・「目標」を失わないポジティヴな生き方だ。それも私にはないうらやましい気質に思える。私はといえば、人間に対して彼らよりも悲観的だし、「希望」を持っていないように感じる。そんな私と接する時、彼らはどんな印象を持つのだろう。私は彼らを応援したいと思っているが、私自身はといえば、非日常的な「ハレ」への欲求がほとんどなく、普通の日常的生活に対する充実感や喜びの方が大切に感じられるのだ。そして、それを破壊する者たちへの「怒り」こそが日常的とは言えない行動の動機になっていたように思われる。その「怒り」の基準が私なりの「正義」であり、また、その実現が「希望」ということなのかもしれないが、その「希望」自体が日常的ときているのだ。要するに、私にとって「希望」とは普通の生活であり、そういう意味で、私は安倍晋三でも志位和夫でもなく、オノヨーコでも矢沢永吉でもない、「一般ピープル」ということなのだと思う。しかし、「一般ピープル」にも、意地も誇りもあるものなのだw。
朝5時に起きてブログに取り組み、今、朝の雑事をこなした後、畑で一仕事してきた。もう9時を過ぎていたので、周りの家庭菜園に人影はなかった。今回は、「日米同盟」について書くつもりだが、いつ頃からだろうか、世の中が、「日米安保」ではなく「日米同盟」と表現するようになったのは? おそらく、それはアベ内閣の閣議決定による集団的自衛権の「容認」と戦争法制定以降のこと、すなわち、日米安保条約を憲法9条の制約から解き放ち、双務的でフルスペックな軍事同盟に変質させようとの意図の表れに違いあるまい。繰り返しになるが、戦後の日本が国際社会の中で戦争に直接加わらなかったのは、日米安保条約が、アメリカは日本が軍事基地を提供する見返りに防衛義務を負うが、日本は憲法9条の制約の下、海外でのアメリカの戦争を助ける義務を負わなかったが故に他ならない。
ところで、私にとっての「日米安保」とは、「安保反対」の「安保」であり、日本がアメリカの戦争に加担し、日本がアメリカの戦争に巻き込まれることを意味していたと言える。「60年安保」のことはよくわからないが、「70年安保」はベトナム反戦と結びついており、当時、アメリカの施政権下にあった沖縄からは米軍が直接出撃してベトナム人民を殺傷し、また、本土においても、軍需品の生産や兵器の修理などが問題となっていた。9条の制約下にあっても、日米安保体制は、米ソ対立の最中におけるアメリカの極東戦略の要に位置するもの、すなわち、日本国憲法の「非戦・中立」とは明確に相容れないものと考えられていたと思う。そして、日米安保体制の実体が米軍の存在とそれを「補完」する自衛隊だったことは言うまでもない。
(※昼食をとっていたら、テレビで関東地方の梅雨明けが報じられた。まだ、6月ですぜ!)
ところで、日本における米軍と自衛隊の存在は、極めて”単純な”国際的な力関係に規定されていたと言ってよいと思う。つまり、当初は、連合国のアメリカとソ連が敗戦国日本を分割占領・支配する、すなわち、北海道から沖縄に至る地域をアメリカが、そして、北方4島を含む千島列島をソ連が占領・支配するという構図だーーーこの点については、『北海道新聞 電子版』(2017.12.30)の記事「ソ連四島占領 米が援助 艦船貸与、兵訓練…極秘合同作戦 45年2~9月 根室振興局調査で判明」が明らかにしているところだ。しかし、米ソ対立の激化、とりわけ、朝鮮戦争以降、アメリカにとっては、日本にソ連や中国に向けて自由に使用できる軍事基地を確保することは最重要の課題であり、また、その在日米軍の補完的役割を果たすものとして、日本に再軍備化(警察予備隊ー保安隊ー自衛隊・・・)が求められてきたというわけだ。しかし、日本の「独立」と同時に作られた「日米安保条約」=「日米安保体制」の成立には、(キシノブスケのような日米戦争を主導し、敗戦後には米ソ対立を絶好の僥倖としてアメリカに擦り寄り、アメリカの“走狗”となって生き延びようとした勢力とはまた別の)、占領統治国アメリカの絶対的権力を前にしつつも、平和を願う日本国民の意志を背景に、日本国憲法の規定を逆手にとって、アメリカの単なる”走狗”とはならない選択を行なった勢力も存在したということだ。もちろん、その選択には、沖縄の犠牲や独立国とは到底言えない「日米地位協定」にみられる属国化があったわけなのだが・・・。
(※昨日27日の午後は、製氷皿とサロの爪用のヤスリと花の苗2つを買いにホーム・センターに行き、その後、サロと田んぼの畦道を通って1時間ほど散歩した。帰ってきて、夕食までの間、NHKプラスで『雲霧仁左衛門2』を観ていたら、ついでに、『クロ現』で桑田佳祐の「時代遅れのRock’n’Roll Band」のことを知り、YouTubeでFull ver.を聴いてみた。「私鉄沿線」の野口五郎らと「平和」について歌っていたが、66歳のおじいちゃんたちの孫たちを思う気持ちがしみじみと伝わってきて、ご時世との乖離を薄寒く感じながらも、少し感動してしまった。「正義の戦争」や「最終戦争」を含めた戦争一般に対する人々(一般民衆)の絶対的忌避感こそが日本国憲法の人民的側面なのだと改めて感じたところだ。夕食後、皿洗いをして、風呂に入る。右腕が痛いので、明日の卓球のために、低周波治療器で治療する。そして、サロのオシッコを絞ってオムツを替え、就寝。録画した『ハゲタカ』は後日見ることにする。
28日、朝目覚めて、mailをチェックする。Mさんから「梅狩り」の件の連絡が来ていた。1年ぶりに、遠出をして再会することができる。楽しみだ。その後、サロのご飯、朝食、ゴミ出し、庭整理。「奥さん」は今日も「キョウヨウ」と「キョウイク」があるw。サロが呼ぶが、暑くならないうちに畑に行かねばなるまい。
今日も強烈に暑かった。ポリタンに水を入れて自転車で運び、野菜たちに水をやる。それでも、ナスが一本枯れかけていたので、秋茄子に植え替えねばなるまい。畑から帰ってきて、昼食までサロと一緒に昼寝をした。今日の昼食は、野菜ジュース、キュウリ丸かじり、魚肉ソーセージ、そして、ソーメンとヨーグルト。午後は、卓球をやる。
卓球は、ダブルスで5勝1敗1引き分け、セット数で言えば、16勝4敗。水を1リットル飲んだ。帰ってきてサロと昼寝。6時過ぎから30分ほど散歩した。気温は高かったが、風が心地よかった。
夕食後、皿洗いをして、さて・・・・)
さて、ソ連邦の解体後、日本の「革新勢力」や「知識人」の間には、「日米安保体制」(米軍と自衛隊)に対する姿勢に大きな変化があった。最も大きかったのは、やはり、社会党の政権参加(村山内閣)による安保と自衛隊に対する「方針転換」だったろう。まさか、ソ連が崩壊したので、それでは、アメリカかというわけではないのだろうが、私にはこの動きがどうにも納得できなかった。というのは私たちの世代にとって、「帝国主義国」アメリカも、現存「社会主義国」ソ連や中国も、反対こそすれ、模範とすべき対象だとは思われなかっただろうからだ。もちろん、アメリカ側の陣営で生活している限りにおいて、アメリカ側の「非道」に対する対抗思想の一つとして、あるいは、それに反対しうる対抗勢力の一つとしての存在意義位はあるだろうと考えていたとは思う。しかし、日本国憲法が指し示す「中立・全方位外交」としての「全面講話」がより望ましかったろうと考えられたのと同様に、米ソの全面核戦争という危機を前にしてアメリカ側につくのとかソ連側につくのかとかと言ったこととは全く視点が異なっていたことは確かだ。ところが、話によると20年ごろ前の東大社研もそうだったらしいのだが、最近の「日米安保容認論者」は少し様子が違うらしいのだ。つまり、アメリカもソ連も良いとは言えないが、アメリカの方がよりマシだから、日本がアメリカとの「同盟関係」を結んできたことは、現実的であり、正しい選択だった、てな話なのだ。私に言わせれば、こうした姿勢は、どちらにしても「権力」(強い方)とともに生きる、どちらかの「権力」(強い方)に張り付いて生きることを習い性とした似非エリートの姿だと感じるのだ。そして、そうした思考の中では、国内においては、沖縄はもちろん米軍基地に関わる国民の犠牲や負担、そして、国外においては、ベトナムやイラクやアフガニスタンの人々の犠牲やそれに関わる自衛隊員の命、そうしたものが「仕方がない」ものとして、結局、矛盾を押し付けられる人々の「理解」や「金目」でやり過ごされるということになるのだ。もう寝るしかない!
(※29日朝、扇風機をつけていたせいか、サロさんは安眠していた!朝食前に庭仕事をし、その後、ゴミを出して、2nd兄貴を駅まで送った帰りに畑仕事を済ませ、これからサロのオムツの洗濯をする。「日米同盟」を書くのに3日かかることになるが、おかげで私の日常も書き残すことができた。そして、今朝の『東京新聞』に載っていた写真に添えられていた言葉ーー「幻の梅雨恋し」も、日本にはまっとうな梅雨も無くなったのかという想いとともに、書き残しておくことにしよう。)
さて、「日米同盟」についてだが、私は、現在の経団連や自民党は、目先の我欲の故に作り出してきた「格差」の構造とその結果としての日本の(総体としての)凋落をキシ・ノブスケ流の(準)「戦時体制国家」の構築によって乗り越えようとしているのであり、そのための「戦争国家」化を、日米の「共通の敵」に対する“双務”的な軍事同盟への質的転化によって実現しようとしているのだと考えている。しかし、その実体をなす自衛隊や米軍は、どう見ても、日本国民の安全を守るためのものとは到底思えない。例えば、私たちが目にしている自衛隊は、「災害救助」の役割を担ってくれてはいるが、原発を守ろうともしていないその姿は、主権国家の「個別的自衛権」の主体とすら思えず、ただアメリカの世界戦略の中に補完的に位置づけられたものでしかないと考えざるを得ない。さらに、日本に極東最大の軍事基地を持つ米軍が何のために存在しているのかと言えば、日本を守るために、では決してあるまい。自主防衛派らしい人々が、有事の際にアメリカは日本を本当に守ってくれるのかと心配しているようだが、アメリカは、日本や東アジアを戦場にすることはあっても、それは日本を守るためのものでないことなど自明のことだろう。核保有国同士は全面核戦争によって共倒れにならない範囲内で覇権を争うのであってーーーとはいっても、その共倒れの回避も保証されたものではないのだがーーー彼らにとって、いわゆる「代理戦争」や「地域紛争」は織り込み済みの事態と考えて間違いあるまい。しかも、今流行りの「核抑止力」も、アマルテア・センが言っていたように、中印の核武装はカシミール紛争を防ぐことができなかったのであり、主権国家の国権主義的指導者たちにとっては、核兵器の保有とその相互的な不使用はお互いの生存を保証してくれるのかもしれないが、その視野の中には戦場で犠牲となる一般民衆のことは数字としてしか存在しないようにも思われるのだ。
(※今日の暑さはすごかった。夕食の時、初めてクーラーを入れた。テレビでは、フィンランドとスウェーデンのNATO加盟にトルコが賛成したと報じていた。その見返りは、フィンランドとスウェーデンがトルコ国内におけるクルド人の分離・独立運動(ーテロ活動)への対応を変えるということらしい。ハ〜ッ?、成り行き次第で変えるんだ?! また、ロシアの悍ましい戦争犯罪についての報道も連日夥しい頻度で行われている。ただ、歳をとったせいもあるだろうが、もうこうした絵に描いたようなプロパガンダやダブルスタンダードには飽き飽きしているのだ。AALA諸国におけるそれとは全く異なるこれらの報道は、ウクライナの市民の犠牲者のためにではなく、日本の統治者たちによる日本の戦争国家化への後押しとしてなされているに違いないと思う。)
長くなったのでもう止めるが、要するに、「日米安保体制」は、それが日本の国家主権の制限を認めているがごとき問題性はもちろん、その「進化形」たる集団的自衛権の容認に基づく「日米同盟」は、国際紛争を武力によって解決しようとの主権国家同士の軍事同盟に他ならないのであって、さらに、その戦争国家アメリカとの同盟は、日本を必ず戦争の惨禍の中に引き摺り込むことになるだろう思われる。もっとも、それは、世界最強の米軍基地が置かれている日本に「先制攻撃」がなされる可能性が高いと言うのではない。それは自滅を意味するだろうからだ。そうではなく、日本は米軍の実質的な指揮の下で、その「使いっぱ」にされるのだ。米軍が日本にいるのは、日本の支配層がお願いしたからと言う出来すぎた話もあるが、そんこととはおかまいなしに、アメリカは勝手に日本にいるのだ。そして、もし日本が米軍基地の撤去(安保条約の解消)や独自の核武装を試みようとすれば、アメリカはあらゆる手段を用いてそれを阻止しようとする可能性は極めて高い。つまり、日本を軍事的に「侵略」する可能性が最も高いのはアメリカなのであって、そうした意味で、アメリカの“言いなり”になっているのは、日本にとっての究極の安全保障だと考える「お利口さんのワンワン」もいることになる。しかし、その中でどれほど多くの一般人民の金や命や生活が犠牲になっていくことか。そうではなく、「非戦」に基づく「中立・全方位外交」こそが、日本と世界の平和を愛する人民の「平和的生存権」の実現=「人間の安全保障」に向かう道なはずだ。「日米安保条約」はやはり解消すべきものと言わなければならない。ついでに言えば、世界情勢は一人一人の一般民衆とはほとんど無関係に動いていく。だからこそ、一人一人の一般民衆は、主権国家のイデオロギーであるナショナリズム(国民意識)などに囚われることなく、いざとなったら、一人の人間として、逃げ、助け、闘い、面従腹背を決め込む、等々、己の生を生き、そして、死ぬしかないのだと思う。繰り返しになるが、私は、アベやタケナカやトウデンやハゲタカたちのために死ぬ気は全くないのだ。
(※4日目に入ってしまったw。日記たる「ムリキブログ」最長のものになったはずだ。サロさんが足元で寝ている。抱っこして、ベッドの横に寝かせる。おやすみなさい。)
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