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人の〈生き血〉をすするアベ政治―――悪法の数々

 不埒な悪行三昧――こうして、この国は壊されていく!
 野党頑張れ!山本・森・有田議員の抵抗を断固支持する!


   ※なに?69人!えっ?水道を民営化!漁場を「独占が支配」?次々に飛び込んでくるとんでもないニュースに、アベ政治に対する途轍もない嫌悪感とそれを許している日本政治の現状に絶望感に近い感情が湧き上がってくる。サロさんと戯れ、畑仕事をし、音楽を聴き、本を読んで精神の「安定」を図ろうとするが、私にはそれを可能とするような「叡智」は備わっていないようだ。でも、国を憂うるとすれば今だろう!

   私は「人相見」ではないが、「アベ友」連中の顔つきというのは、よくもあの様に似るものだと思う。権謀術数を気取っているつもりなのだろうが、なんの面白味もない見え透いた嘘八百を、あの権力を傘に着たしたり顔で、恥じることもなく言い連ねる様は、ほとんど同じ「仮面」を被っている様にすら見える。アベ応援団の「評論家」や「芸能人」も同じだが、彼らの偉そうな姿に憧れを抱き、同一化すら望んでいるような「一般ピープル」も顔つきが似てきているようだ。

   繰り返しになるが、アベ政治というのは、「タケナカ」的なもの、「カケ」的なもの、あるいは、「アソウ」的なもののための政治に他ならない。国民の税金を食い物にし、法を悪用して、さらに肥え太ろうとする〈アベ友〉の真の姿が見えない限り、あのつまらない嘘八百にたぶらかされ続けることになるのだ。最近、私は、ドキュメンタリーにはまっている。とりわけ、BSには良質な国内外のドキュメンタリー番組が多数あり、それによって、眼前の権力の動きがよりハッキリと見えてきているように感じている。私たち「一般ピープル」は、やはり、自分たちの”本当”の利害に気付かねばならないのだ。もちろん、この社会は多元的であり、また、利害の相克も確実に存在している。それ故に、一般論としては、諸利害の(妥協ー)調整が、「最大多数の最大幸福」を基準としつつ、”公明正大”に議論され、為されるべきと言えるだろう。しかし、アベ政治の現状は、極めて限られた「アベ友」の利害を、圧倒的多数の「一般ピープル」の利害に反して、無理やり実現しようとするため、”公明正大”どころか、嘘と隠蔽、捏造とごまかしに頼る他ないということになってしまっているのだ。いやはや、このような国家の”私物”化は、民主政治にとっては、凄まじく”恥ずかしい”ものと言わなければならない。

   こんなことは、ちょっとした知性があればわかることで、私の知る限りでは、自民党支持者にも、心の奥底では軽蔑しつつ、恥知らずであるが故にその利害を厚顔にもゴリ押し出来るアベを「便利な奴だ」ぐらいに思っている人が結構多いのだ(それがファシズムへの「落とし穴」でもあるのだが)。実際、アベの「信者」になれるなど、彼よりもさらに愚かで恥ずかしい人間でしかありえないだろう。しかし、アベ自公政権は、これから未明にかけて、参院本会議で採決を強行するらしい。こうしたふざけたやり方は、主権者たる国民を代表する国権の最高機関=国会の存在意義そのものを否定するものだと言える。野党は抵抗を続けている。何が出来るのか、どこまで出来るのかはわからない。ただ、テレビで見た限り、山本太郎、森ゆうこ、有田芳生議員らの抵抗は当然過ぎるくらいのものだ。私もブログで声をあげておきたい。

  人の〈生き血〉をすする悪法をごり押しするアベ自公政権よ!
            恥を知れ!



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チェ・スンホ監督『共犯者たち』を観た     ―――韓国における〈報道の自由〉のための闘い

 『記者が黙った 国が壊れた』
        長期保守政権による言論弾圧、 
   主犯は大統領、共犯者は権力におもねる放送人(パンフより)



   先日、Mさんの紹介で東中野のポレポレで上映されている、チェ・スンホ監督の『共犯者たち』を観てきた。Mさんは少年時代新宿区に住んでいたこともあって、当時は富士山も見えたという起伏の多い地形をたどって、高田馬場から東中野まで歩いて行った。東京の紅葉が美しい季節でもあったが、70年前後の東京の「下町」の雰囲気が残っているように感じられた。

   映画の内容は、イ・ミョンバクやパク・クネ政権による言論弾圧、そして、それと「共犯関係」を結んだKBSやMBC上層部の実態を明らかにする”ドキュメンタリー”だった。圧巻だったのは、こうした動きに対して報道の自由を守るため、過酷な弾圧や懐柔を跳ね返して闘うプロデューサーやジャーナリストたちの姿だった。映画館はなんとこのご時世に満席だったのだが、多くの人々が「なぜ韓国の人々は長期保守政権を終わらせることができたのか?」という問の答を求めて来ていたのかもしれない。事実は小説よりも面白い。必見の価値ある作品と思われた。

   アメリカの「ブルーウェーブ」そして韓国の「キャンドル革命」―――米韓の「一般ピープル」の”パワー”は、知れば知るほど衝撃的なものだ。映像を通してではあれ、そうした彼らの姿を目の当たりにすると、日本の「一般ピープル」たる私は、自分(たち)の不甲斐なさに「恥じるしかない」と感じるのだ。また、同時に強く感じるのは、アメリカや韓国には、日本とは比較にならないぐらい多数の”まっとう”な「知識人」・「エリート」が存在しているらしいことだ。日本にも、望月氏や前川氏をはじめ、”まっとう”な「知識人」・「エリート」はいる。しかし、彼らと連帯して闘う「同僚」の数は、米韓に比較して著しく少ないと言えるだろう。さらに、アメリカや韓国の動きの中には、若者や女性たちの圧倒的な存在感がある。しかし、日本の場合には、それは極めて限られたものでしかない。そして、こうした日本の現状が、このどうしようもない〈アベ政治〉の長期化を許しているのだろう。それは、歴史的に形成されてきた日本の「〈政治〉文化」(人権意識、主権者意識等々)の現れという他あるまい。

   実は、こうした現状こそ、私がずっと前から書きたいと思っている「なぜ悪逆非道で”反国民”的なアベ政権が続くのか(6)―――反政治的心情と政治的無関心」のテーマなのだ。しかし、これは大変書きにくいものでもある。というのは、考えれば考えるほど、アベ達への怒りはもちろんなのだが、自分自身をも”嫌”になってしまうからだ。これに対して、このドキュメンタリー映画は、韓国のエリートと民衆が日本の私たちが抱えている「限界」を見事に乗り越えていることを伝えている。いやはや、「嫌韓」どころか、彼らの「直情的なほどの『まっとうさ』」(小熊英二)に「恥じ入る」ばかりなのだ。しかし、恥じ入っていても仕方がない。今度は、私たちが私たちの『まっとうさ』を実現する番なのだろう。

   

サロさん満12歳―――老境に入ってもなお!

  後ろ足が回復することを切に願う!
       ―――意欲ある限り、散歩しような!!


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今年のいい肉は鶏の手羽先だったよ


   ※早いものだ。もう師走も2日になってしまった。週一の仕事と二つの趣味と農作業が入ると、思いの外忙しい日々が続く。サロさんの足の方は日増しに悪くなっているようだが、昨夜はどんどん歩いていくので、歩きたいだけ歩かせようと、リードを外して自由に歩行させてみた。すると、これまで慣れ親しんだ散歩コースをいつまでももつれた足で歩いていった。歩きたいということは痛みもないのだろうとついていったら、2時間も歩いてしまった。心配した姉貴と2nd兄貴が車で迎えに来た。午後の11時を過ぎていた。無理したせいか、今日のサロさんの足の具合は良くないようだ。ただ、私もこれまでもそうだったし、これからもそうするだろうから、歩きたいんだったら好きなだけ付き合ってやろうと思っている。ただ、姉貴と兄貴達は、サロさんの姿を見て、お金を出し合って歩行補助車を買ってくれるそうだ。サロさん愛されているね!これで、公園で走れるかもしれないぞ。

   11月29日は、サロさんの誕生日だった。今年の「いい肉」は、関節のことも考えてコラーゲンいっぱいの鶏の手羽先にした。やはり、いつもの食事とは違って、大喜びでパクついていた。しかし、正直いって、サロさんの介護をすることになるとは考えていなかった。ただ、サロの意欲がある限り、なんらかの方法で、散歩を続けたいと思う。もちろん、減量して、炎症が治り、筋肉がついて、もっとスムーズに歩けるようになることを心から願っている。”満12歳”のサロライフが始まったのだ。

   満12歳を迎えたサロさんは、相変わらず食欲もあるし、表情も豊かだ。ただ、後ろ足の調子はかなり良くない。獣医は体重を減らして筋肉をつけろと言っていたが、脊椎変形症と関節炎の両方なのだろう。尻尾が右側に偏り、いわゆる「膝」の関節と股関節がうまく曲がらないようだ。今のところ痛がらないので、なんとか回復の方向に向かってくれることを願うしかないという気持ちだ。そんな状態でも、散歩に行きたいという気持ちは強いようで、声をかけると喜んで準備をし、歩き出すと一生懸命周りの匂いを嗅いだり、「お友達」を探したりしている。あと、思いがけなかったのは、顔見知りの人はもちろんだが、見ず知らずの人たちが声をかけて様子を聞いてきたり、自分が飼っていたワンちゃんの話をしてくれることだ。すれ違いざまはもちろんのこと、姿を見かけてわざわざ家から出て来てくれる人さえある。人間の「同情心」は、ワンちゃんの姿にも強烈に反応するものらしい。改めて、人の世の「温かさ」を感じているところだ。

   これに対して、昨今の世界の政治家たちは、もう本当に「絶望的」というしかないような有様だ。彼らには、おそらく、「同情心」も「人情」も「義」も「理」もありはしないのだろう。「欲望自然主義」にかくも単純に居直ることのできる恥知らずの政治家とそのお友達たち!いやはや、軽蔑するだけではとても足りないので、正直、どうすればいいのか悩んでいる。サロさん!どうすりゃいいと思う?!


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紅葉の散歩道・・・気持ちいいな

入管法を考える(2)――C・ゴーンとコストカット

 焦点は〈働く仲間〉の労働条件
   ――そして、日本人労働者の明日はどうなるのか?!



   ※いやはや、世の中、カルロス・ゴーンの逮捕で大騒ぎだ。彼も「外国人労働者」だとは言わないが、日本で働く外国人の一人だったことは間違いない。”コスト・カッター(「経費削減人」)”としての彼が何をやってきたかはよ〜く記憶している。日本の労働者多数をリストラにかけて、巨万の富を不法に懐にしていたわけだ。しかし、こうしたゴーンのやり方は新自由主義的な手法そのものなのであって、日産の再建がこうしたやり方でしか可能ではなかったと考えている限り、ゴーンを批判する思惑がどこにあるにしても、ゴーン的なるものを乗り越えることはできないのだ。そして、言うまでもなく、現在の入管法「改正」も、日本の経営者と自公政権の”コスト・カッター”的性格が如実に表れたものと考えることができるわけだ。

   家族の一人がアベの記者会見の表情と語り口を見て、「あの人、どう考えてもおかしいよね」と呟いた。おそらく、それは彼の精神状態を察して言ったことなのだろうけれど、私からすれば、”お友達”だけを優遇し、自分がカッコつけたいがためだけに、日本と日本人を破壊して恥じない、信じがたいほど無能で”恥ずかしい”政治屋だということだ。国内では、政・官・財ともに、アベ友のモラルは地に落ち、偽装された「成果」と「やってる感」だけが宙を舞っている。国際的には、トランプにカモられ、プーチンにはオチョクられ、習近平にはノセられ、文在寅にはウトまれ、金正恩にはシカトされ、そして、日本国憲法下で日本国民が積み上げてきたものまでが次々と投げ捨てられていく。こうした中で、「お人好し」の国民は犠牲に供せられ、そして、人心は荒廃していくのだ。ひどいと言う他はない。

   一事が万事で、今回の入管法の「改正」も、本当におぞましいものだ。受け入れ職種やその人数の曖昧さ、外国人労働者の現在の実態把握、彼らを「人間として」受け入れるための態勢、そして、日本人労働者への影響など、ほとんど話にならないような有様だ。とりわけ、技能実習生の実態調査の改竄・捏造は、彼らがなし崩し的に何をやろうとしているのかをはっきりと示しているように思われる。要するに、外国人労働者を現在の労働実態に近い形で大量に利用しようと言うわけだろう。このままでは、悪質ブローカーに”騙されて”連れてこられる場合は別として、まともな労働者なら日本に来ようとは思わなくなる可能性が大きい。そして、彼らがいわゆる「沈め石」となって、わが国の特定業種の労働者の労働条件はさらに引き下げられ、まともな家庭生活をさらに難しいものにし、そのことによって国内における「人手不足」は恒常化し、結局は「移民」化を推進せざるを得ないことになるだろう。

   私は、言語や文化・宗教が「壁」となる可能性を重々理解しているつもりだが、「隣人」あるいは「友人」として、さらには「配偶者」として共に生きていく上で、「国籍」や「民族性」は、根本的には、大した意味を持たないだろうと理解している。国籍や民族が違っても、助けー助けられ、支えー支えられる関係はいくらでもあるし、また、同じ国民・民族であっても、「悪人」も「犯罪者」もいくらでもいるからだ。それ故に、ある国民・民族にとって、その存在が明らかに利益になる場合はもちろんのこと、その存在がとりわけ大きな負担や損害をもたらさない限り、外国人や移民はさほど大きな反対もなく受け入れられてきたと言って良いだろう。しかし、問題はそれが深刻な摩擦や軋轢を生み出す場合だ。

   これまで、外国人労働者や移民が問題視されたのは、仕事を奪われるとか、労働条件の悪化をもたらすなどの雇用問題、健保や公的扶助などの社会保障費負担の問題、治安の悪化や文化的摩擦の問題、参政権の問題などのためだった。これらの論点についてはそれぞれが厳密に検証されなければならないだろうが、例えば、社会保障費の負担の問題については、制度の悪用は論外として、移民が社会を実体的に担い(勤労・納税)、国民がそれを必要とした限りにおいて、同じ国民としての権利を認めるのは当然のことと言うことができるだろう。また、治安の悪化について言えば、最悪なのは奴隷的な労働力として強制的に連れて来られた場合だが、そうした社会に構造化されている抑圧と貧困は、当然のこととして、自暴自棄的な「犯罪」や抵抗・反乱を生み出さざるを得ないのであって、問題の根本的な解決は、そうした抑圧と貧困それ自体の解消にあると言わなければなるまい。ただ、現在のわが国の場合、問題になるのは、国内産業のある特定部門・職種における「人手不足」・「人材不足」・「労働力不足」による外国人労働者の流入ということだ。

   しかし、そもそも、「人手不足」・「人材不足」などとまことしやかに宣っているが、そうした現状は何故に引き起こされたのか。「国民経済」にとって最重要な農業を始め、介護や福祉、建設や製造業など、結局、新自由主義とグローバリズムの矛盾がより増幅された形で国民に押し付けられることになったが故と言うべきなのではないのか。今回の法案も、外国人労働者を都合よく使おうとするものだが、その都合とは一体誰の都合で、そのツケは誰が払うことになるのか。私の個人的な経験と関心から、この問題を「介護」に限定して考えてみたい。

   15年ほど前だったと思う。高齢化による介護問題が喫緊の課題となってきた中で、日本でも〈民営化〉の波が押し寄せ、介護施設の建設ラッシュが起こっていた。そして、現在では、もうほとんどが民営化されていると言って良いくらいだ。当時、母が介護施設を利用していたことから、私は介護施設を訪れる機会が多くなっていた。私の経験で言うと、大手の専門業者以外、経営は医者や医療法人によるものが多かった。そして、そこで働く人たちには、こんなに優しく熱心な人がいるのかと感激する一方で、とても許せないと感じる輩もいた。また、施設による対応の差も大きかったように感じられる。そんな中で、私は介護施設で働いた二人の青年と個人的な接触があった。一人は大手の介護会社の新入社員で、もう一人は、(2級)ヘルパーとして老人ホームに派遣された経験がある人だった。その時の話から受けた印象は、少なくとも当時の介護業界は”ブラック”だったと言うことだ。その低賃金と過重労働は、とても、ゆとりと誇りを持って働けると言った感じではなく、本当に気の毒と思わざるを得なかった。そして、そこには労働者派遣法の影響がみられると考えたことも記憶している。

   当時の私は北欧の例を頭に入れていたので、誰もがお世話になるであろう介護などの仕事は地方自治体などの”公的”な規制のもとで行われるべきだと考えていた。記憶に間違いがなければ、スウェーデンなどでは、地方自治体の(準)公務員がその多くを担っていたはずだ。これに対して、日本においては、新自由主義の流れの中で、社会保障費の増加=税負担の増加を問題視し、”民間活力”の利用といった観点から、こうした”公的”な領域においても盛んに民営化が推し進められていたのだった。ただ、税負担の〈不当〉な増加といっても、それは主にボッタクリの高額所得者の視点からのことであって、また、”民間活力”の利用といっても、それは一部の資産家の金儲けのために”公的”な領域を提供するといったことを意味したといってよいのだ。確かに、利潤獲得のための競争が「サービス」の向上をもたらす場合もあったかもしれない。しかし、それは、結局、誰もがお世話になるであろう”公的”な領域で、その利用者を「お客様」として祭り上げ、最悪の場合には、”カスタマー・ハラスメント”すら生み出すような関係性へと変質させていったと言って良いのだ。さらに、どのような仕事であっても、それが社会的に必要とされる仕事ならば、まともに暮らせる収入が保障されるべきだと考えるが(そうした規制が必要だ!)、しかし、民営化によって、そこでの労働条件が単に労働力市場の需給関係によって決まるようになれば、当然、大きな格差や変動をもたらさざるを得ないことになる。ただ、そうした関係性の中にあっても、「人手不足」になれば、当然、給料や労働条件の改善がもたらされるはずなのだが、強欲で傲慢で不実な経営者たちは、より大きな儲けを実現するために様々な手段―――リストラ・格差賃金・残業代カット・労働密度の強化など―――を考え出し、政治家の手を借りてそれを実現しようとさえしたわけなのだ。いうまでもなく、その典型的な事例が労働者派遣法であり、そして、今回の入管法の「改正」も、需給関係を利益増大のために政治的に操作し、低賃金体制を維持しようとしていると考えて間違いあるまい。

   以上のように、今回の入管法の「改正」は、道義を忘れた日本の経営者たちが目論む、総賃金抑制策の”外国人労働者”版であって、ある特定の業種・職種における低賃金労働力の利用を”構造”化しようとするものだといって良いだろう。そして、そのことによってもたらされるのは、あの労働者派遣法が日本社会の質に与えた少子化をはじめとする悪影響にも比すべきもの、否、それをすら超える悪質なものとなる可能性が大なのである。それでは、どうすべきなのであろうか。それは、日本の全ての産業を総体的に見直す中で考えなければならないが、まずやらなければならないのは、社会が必要とする労働に従事する全ての働く仲間(学生アルバイトやシルバー人材も含めた)にまともな生活ができる〈最低賃金〉を保障することだ。そして、それが強欲な経営者にとって割りが合わないものというのなら、地方自治体などの公的機関が直接関与する他はないだろう。そして、それが社会にとって必要なものである限り、それに必要な費用は”公正”な課税によって賄う他はあるまい。それは諸個人の必要に応えるものであるのはもちろん、”人間社会”の存立のための費用でもあるからだ。介護などは、その典型的な例というべきだろう。

   出かけなければならないので、今回はこの辺で。サロさん!待っててくれ!
 

入管法を考える(1)―――大谷翔平と外国人労働者

 社会を支える、同じ〈働く仲間〉か?
  それとも、人手不足を補う単なる〈安価な労働力〉か?



   ※大谷翔平が新人賞をとった。本当に、たいしたものだ!先日も、NHKスペシャル『メジャーリーガー大谷翔平〜自ら語る挑戦の一年』を見たが、恵まれた才能を最大限開花させようと真っ向精進している彼の姿には感服せざるを得ないものがあった。私にとって特に興味深かったのは、彼がアストロズのバーランダー投手の投球を「品のある球」と表現し、いくら払っても経験する価値があると語っていたことだった。すぐ頭に浮かんだのは、トランプやアベの政治は「品のある」ものかということだったが(W)、それはさておき、今回は、大谷選手もその一人に他ならない「外国人労働者」の問題を、今国会最大の焦点である「入管法」との関連で考えてみたい。

   さて、大谷選手は、彼の「野球道」からして「品のある球」と表現しうるものをメジャーリーグの中で体感できたのだが、それが可能だったのは、メジャーリーグ関係者とファンたちがそうした彼を暖かく迎え入れたが故のことだろう。アメリカには、人種や宗教などに関係なく、誰もが何事かに「挑戦」でき、努力次第・能力次第で「成功」でき、そして、そうしたことをお互いに認め合う「アメリカン・ドリーム」が存在するというわけだ。それこそが、「移民」によって発展し、支えられている国アメリカの自由と機会平等の理想主義に他ならない。もちろん、それには「陰」の部分が存在し、WAPSによる先住民や黒人、アジア人や異教徒たちへの差別や迫害が存在したことは言うまでもない。しかし、『アミスタッド』のアメリカ―――すなわち、差別や迫害に抵抗する少数派の人々だけではなく、多数派の白人の中にもアメリカの理想主義を追求する人々が存在した―――は、その「陰」を次第に打ち払い、現代のアメリカ社会においても、その理想主義は草の根レベルで生きていると言っても間違いないだろう。それこそがオバマを大統領に押し上げ、また、冷酷な奴隷貿易商やKKKを思わせるトランプに対する今回の中間選挙で示された「反撃力」の基だと考えられる。日系の移民たち、そして、イチローや松井たちは、どう感じているのだろうか。そして、こうした観点で、今国会の最大の焦点となった入管法の「改正」を見るとどうなるのだろうか。日本で働き、生活している外国人たちはどのように感じているのか。 

   ところで、これまでの私の人生において、「外国人労働者」(とその家族)はどのように受け止められてきたのだろうか。そもそも、私の幼い頃には、外人といえば、アメリカの軍人と宣教師だけだった。そして、大学時代や職業生活を通して私が接したのは英米豪など英語圏の人々で、彼らの「自由度」や「労働環境」は日本人と比較して決して悪いものではなかったと感じられた。しかし、問題は、日系人を含むアジアや中南米などからの「出稼ぎ」労働者たちだ。そして、経済の国際化が進展する1980年代半ば以降、観光ビザで入国し、不法に残留して、飲食店や建設業などで働く外国人たちが大きな話題となってきた。個人的に記憶に残っているのは、80年代後半のある年、外国人による悪質な暴行事件のデマが流れ、なぜかその件についてテレビ局から取材を受けたことだ。また、90年代の初頭、遊びに行ったキャンプ場でイラン人から「シャチョウ!」と呼ばれ、雇ってくれないかと話しかけられたこともあった。彼の話によると、イスラム革命によって弾圧され、国に帰れないということだった。2000年代になると、私が住んでいた街中の小さな工場や店でも外国人労働者らしい人々を見ることが多くなった。もちろん、そのほとんどがいわゆる「単純労働」で、研修生や技能実習生であった場合もあるかもしれないが、ほとんどが不法就労だったろうと思われる。その時感じたのは、要するに、この問題のポイントは日本には「雇う人がいる」―――私の周りでは、構造不況業種や3K労働など、働き手も後継者も見出し難い、小規模企業が多かった―――ということ、そして、”一定期間”それが半ば公然と黙認されているのだろうということだった。そして、2010年代に入ると、農業分野も含めてこうした傾向はさらに強まり、また、日系人を含む外国人と日本人配偶者との間で生まれた子供達が急増したと感じられた。

   こうした中、私が読んだ本の中でとりわけ記憶に残っているのは、『じぱんぐ〜日本を目指す外国人労働者』(1989年、毎日新聞社)と『仲間じゃないか、外国人労働者〜取り組みの現場から』(1990年、明石書店)だ。〈豊かな〉日本を目指す外国人労働者と国内で〈安価な労働力〉を求める日本企業の利害が一致する中、欺瞞的としか言いようのない「非合法」下で引き起こされる様々な問題、とりわけ、外国人労働者の「人権」問題は当時から深刻なものだったのだ。そして、現在、介護やホテルなどでの深刻な「人手不足」そして「技能実習生」の過酷な労働実態や失踪が報告される中、国会での入管法の「改正」が急がれているわけだ。この法案の目的は、より多くの外国人労働者を、より長期的に雇用しようというのだろうが、問題なのは、〈国民経済〉と〈国民国家〉という枠組みの下で、〈外国人労働者〉あるいは〈移民〉を受け入れるということ自体が持つ問題性であり、また、その受け入れ方の具体的な質の問題に他ならない。そのことは、世界各国で、それぞれの時代的背景の下で、多様な形をとった。アメリカでも、イギリスでも、フランスでも、ドイツでも、そして、日本においても同様だ。そして、そこにみられる根本的な相違点は、〈外国人労働者〉あるいは〈移民〉を、社会を実体的に支える、同じ働く仲間として受け入れるのか、あるいは、最悪の場合は「奴隷」として、安くコキ使い、必要がなくなったらポイ捨てにして利用するのか、ということなのだ。そして、どちらの場合でも、現在のアメリカやヨーロッパでも問題化しているように、「解決」を要する多くの諸問題が発生せざるを得ないと理解すべきということだ。とにかく、慎重な熟考が求められる。

   〈国民経済〉と〈国民国家〉という基本的な枠組みの下では、全ての「外国人労働者」が大谷のように受け容れられわけではないだろう。しかし、「労働力」の移動が不可避であるのなら、〈外国人労働者〉あるいは〈移民〉と元々の〈国民〉が、同じ社会の中で共に人間らしく暮らし、無用な軋轢に晒されなくても済むシステムや方策が見出さなければならないはずだ。次回は、それについてもう少し考えてみたい。

プロフィール

SARO MURIKI

Author:SARO MURIKI
おりこうさんのワンワンです。年齢は、2018年11月現在満12歳です。見てのとおりの柴ですが血統書はありません。性別はオスで、飼い主には、朝夕、45分ずつ2回の散歩を義務付けているVIP犬、正確に言うと、VIDです。文句あっか?!

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