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『風の谷のナウシカ』によせて(6)

『風の谷のナウシカ』によせて(6)
        ―――戦争論と非暴力直接行動




    我〈しもべ〉たる飼い主は、最近どうも腰の調子が良くないらしく、散歩も自転車で行くことが多くなったんだよ。そのおかげで僕はビュンビュン走れて気持ちが良いんだけれどね。ただ、剣道の方はなかなか出来ないらしくて、少し寂しそうだよ。でも、戦争反対の人がどうして剣道なんてやってるんだろうね。矛盾してないかな?まあ、もともと矛盾している人なんだけどね。

    
   さて、『風の谷のナウシカ』の舞台は、「巨神兵」によって世界が焼き払われた「火の七日間戦争」から1000年後の地球です。前者は「人間をしてこの大地の主となした奇蹟の技と力」の象徴=生命工学によって造りだされた究極兵器であリ、後者はそれによって地球環境自体が大きく破壊・汚染された大戦争でした。勿論、私たちは、それらが広島・長崎を起点とし第二次世界戦後の世界を脅かし続けた核兵器と全面核戦争の比喩であろうことは容易に想像がつくことでしょう。

   ところで、『風の谷のナウシカ』が、こうした物語の設定やそのストーリーの面白さだけではなく、まさしく、「戦争論」として興味深く意義ある作品となっているのは、それが単に戦争の悲惨さを描き出すだけではなく、戦争の原因にすらメスを入れ、その克服に向けて悪戦苦闘しているからにほかなりません。先に、ユネスコ憲章前文の「「戦争は人の心の中で生まれるものだから、人の心の中で平和のとりでを築かなければならない」と言う文を引用しましが、それでは、戦争はどのように人の心の中に生まれるのでしょうか。この点に関する探求を物語の登場人物同士のせりふの中から見て行くことにしましょう。

   まず、アニメ版からはじめます。物語の後半部、ナウシカの師ユパは、捕らえられていたクシャナに次のように言います。
「巨神兵を酸の海深くに沈め、本国に帰ってくれぬか。谷に残る兵は少ない。今戦うことはやさしいが、これ以上の犠牲は無意味だ」。
これに対し、クシャナは次のように答えます。
「・・・・もう後戻りはできないのだ。巨大な力を他国が持つ恐怖ゆえに、私はペジテ攻略を命じられた。やつの存在が知られた以上、列国はこの地に大軍をつぎつぎと送り込むだろう。お前たちに残された道は一つしかない。巨神兵を復活させ、列強の干渉を排し、やつと共に生きることだ。・・・・・わが軍がペジテから奪ったように、やつを奪うがよい」と。
 
   このように自分たちと同じ思考方法へと誘うクシャナに対して、ユパはあくまでも「巨神兵は復活させぬ」と応じたのですが、こうしたクシャナの言葉の中に、私たちは、冷戦時代に支配的でなじみ深かった「権力政治観(パワー・ポリティクス)」や「勢力均衡論(バランス・オブ・パワー)」に似たニュアンス感じ取ることができるはずです。前者は、国際政治とは「国益(ナショナル・インタレスト)」をめぐる国家間の権力関係であって、その実現の為には、最終的に「戦争」という手段に訴えることも許される、あるいは、それは権利でさえあるという考え方でした。また、後者は、このような権力政治の中にあっては、「国益」追求と自国の安全保障にとって最終的に頼れるのは軍事力なのであり、「(仮想)敵国」の侵略を阻止し、「平和」を維持するためには、軍事的な「報復力」-「抑止力」に基づく「力の均衡」―――「殴ったら殴り返される」という『恐怖の均衡』―――が不可欠であるとするものでした。両者は、しばしば、ウイルソン的な理想主義に対して、冷厳な国際政治の現実を表すものとして喧伝されていたのです。勿論、それらが際限ない軍備拡張競争を引き起こしたこと、また、勢力均衡の崩壊による世界大戦の勃発など必ずしも戦争の抑止に成功しなかったこと、さらに、世界の「相互依存関係」の深化・発展という現状の中で、国際社会が狭隘な権力政治的関係だけに閉じ込められていたわけではなかったことなど、これらに対する批判的見解も少なくなかったのですが。
 
   ところで、話を『ナウシカ』に戻すなら、先のクシャナ的な考え方に対するナウシカの批判は、腐海の底でナウシカたちに拳銃を突きつけたクシャナに対して、「あなたは何をおびえているの。まるで迷子のキツネリスのように。・・・怖がらないで」という言葉に象徴されるものといえるでしょう。すなわち、ナウシカにとって、戦争と武力への依存は敵に対する『恐怖心』に根差しているのであり、クシャナ的な捉え方とは異なって、そうした〈恐怖心の克服〉こそが戦争抑止の鍵になると考えられていたのだろうと思われます。

   また、アニメ版の中で、ナウシカは、酸の海の岸辺で傷ついた王蟲の子どもに次のように言っています―――「怒らないで 怖がらなくていい、わたしは敵じゃないわ」。この怒りと恐怖に結びついた『敵』と言う概念には、この物語の中で、さらに重要な位置が与えられていると思われます。コミックス版第7巻の「巨神兵」に関する次の描写に注目してみましょう。生まれたばかりの巨神兵がクシャナと遭遇し、クシャナを攻撃しようとする場面です。

ナウシカ 「うっちゃだめ!!わたしのともだちよ」、
巨神兵  「ママノトモダチ・・・? トモダチ・・・」 
       「ママノテキハドコ?」  「ママノタメニ タタカイタイ」 
       「アイツラハママノテキ? コロス?」
ナウシカ 「あの人達も友達よ イイ子ね 敵なんていないの」
巨神兵  「テキイナイ コロセナイ」  「テキドコ? ココイヤダ」
 
   巨神兵は人間によって造られた生きた究極兵器ですが、その幼い頭脳の中に純化されたかたちでインプットされていたのは、「戦争」遂行に適合的な次のようなイデオロギーだったといえるでしょう。それは、友と敵を峻別し、「やつは敵だ。敵は殺せ」と表現される思考方法にほかなりません。ナチスの理論家C・シュミットは、その著書『政治的なものの概念』の中で、有名な「友・敵」理論を展開していますが、彼は敵対と戦争の関係について次のように述べています。「友・敵・闘争という諸概念が現実的な意味を持つのは、それらがとくに、物理的殺りくの現実的可能性とかかわり、そのかかわりをもち続けることによってである。戦争は敵対より生じる。敵対とは、他者の存在そのものの否定だからである。戦争は、敵対の最も極端な実現にほかならない。・・・敵という概念が意味をもち続けるかぎりは、戦争が現実的可能性として存在し続けなければならないのである」。「敵」とは「他者」や「異質者」を意味しますが、ナウシカはこうした考え方に徹底的にこだわり、それを懸命に否定しようとしていたのです。ナウシカはオーマに言います。
「世界を敵と味方だけに分けたらすべてを焼き尽くすことになっちゃうの」と。
   実際、ナウシカは、「敵」に対する「憎悪」によって、「殺りく」(―汚染)の為に生み出された巨神兵にすら、次のような思いを寄せることができたのでした。
「・・・わたしはこの子の死を願っている それなのに母親のふりをして笑顔で励ましたりして」 「わたしの心を見抜いたら どれほど深く傷つくかしら」「自分は生まれてはいけなかったなんて知ったら・・・・」と。

   しかし、人間が作り出した「戦争の神」たる巨神兵には、さらにもう一つ別の顔(性格)があったのです。それが、「全ての争いに終止符をうつ調停者」-「裁定者」としての性格です。こうした観点で言えば、「火の七日間戦争」とは、シュミット流に表現するなら、「戦争に反対する戦争」-「人類の最終究極戦争」と言うことになります。魯迅は「地獄への道は善意で敷き詰められている」といいましたが、つまり、それが「友・敵」概念に支配されているかぎり、「善意」が巨大な「地獄」を生み出す典型的なかたち―――結局は、戦争を肯定し、戦争の意義さえ認めるもの―――となるのです。そして、こうした発想は決して「1000年」前の時代だけの話ではなく、あのクシャナが「どうしても私達への憎悪を消せぬというのなら攻撃するがよい・・・勝利などどちらの側にもない。ここを血の海にして永劫の憎悪のくり返しに終止符をうつだけだ」と述べながら戦いに臨もうとする心情にも通底すると言っていいでしょう。多くの戦争が、こうした人間の心からも生まれたと言ってよいのです。

  それでは、こうした戦争を生み出す心理的な原因、敵に対する恐怖や憎悪に打ち勝ち、「憎しみと報復の連鎖」を断ち切るにはどうしたらいいのでしょうか。それに一つの答えを与えるのが、宮崎作品にしばしば登場する「非暴力直接行動」といってよいでしょう。それは、共感と相互理解をもとに、いわば敵をも味方にかえる、否、敵・味方の二分法(「友・敵」理論)それ自体を乗り越える「思想と行動」と言ってよいものと思われます。

  ところで、本稿の(3)―――「生態学」と「多神教」的世界観(1)において、アニメ版とコミックス版におけるナウシカの印象の違いが一種の戸惑いを生んでいることに触れました。とりわけ、ラストシーンにおける両者の違い、アニメ版における「非暴力直接行動」とコミックス版における「巨神兵の火の利用」は、確かに人を驚かせるかもしれません。しかし、私には、物語の本質的なテーマや構造という観点からすれば、アニメ版とコミックス版両者には明確な共通性が存在するように思われるのです。そして、このことは、アニメ版の直接的な原作に当たるだろうコミックス版第1,2巻ではけっして殺されることのなかったナウシカの父親ジルが、なぜアニメ版では殺され、怒りに我を忘れたナウシカが多数のトルメキア兵を殺す場面が挿入されねばならなかったのかという疑問にも答えることになるのです。

    すなわち、それは、宮崎氏の「人間」観そのものに関わるものであって、どちらの場合においても、ナウシカは、最初から最後まで、憎悪や怒りや恐怖とは無縁な「天使」や「聖人」の如き存在として描かれてはならなかったのです。実際、「人間」とは、善でもあり悪でもありうる、自らのうちに様々な矛盾-対立を孕む「実在」としてとらえる必要があるはずなのです。これに対して、先に見たような、人間を「善・悪」や「友・敵」といった二項対立的なタイプに分けて捉える人間観すなわち「ステレオ・タイプ」的な人間観は、他者を自分と同じ人間とは見ない差別的な意識を助長するものなのであり、しばしば、ファシズム的心性を表すものとも指摘されてきたのです。そして、私たちの心の中には、平和を求める心と同様に、こうした「戦争への芽」も確実に存在していると言ってよいのではないでしょうか。問題は、わたしたちが、そうした二重性の中で、如何に平和への方向性を確実なものにしていけるのかなのです。戦争も環境破壊もわれわれと同じ人間がやってきたことであり、私たちはこの圧倒的な『現実』を前に、どうすれば諦念と虚無の中で「死」(-戦争と環境破壊)を選択することなく、「生き」て事態を改善していくことが出来るのでしょうか。それは、決してたやすいことではなく、単純で、一面的な認識では、すぐに、重い現実の前に崩れ去ってしまうことになるほかないのです。
   
    また、「憎しみと報復」の連鎖を断ち切るためには、人間同士の共感、相互理解あるいは「友愛」の感情を阻害する「ステレオ・タイプ」的な人間観を克服しなければなりません。たとえば、ガンジーや彼らの仲間たちが行った「非暴力直接行動」は、その歴史的な記録フィルムなどを見ても、〈恐怖心〉を克服する想像を絶するような「強さ」を必要とすることが分かります。そして、自らの〈憎悪〉を克服する為には他者への「慈悲」の心が必要なのですが(ガンジー「サッティヤーグラハ―――魂の力」『真の独立への道』所収などを参照)、そのためには、人間は誤りも犯し、罪も犯す、人間をそうした存在であると見ることができないならば、相手(敵)の中に自分(味方)を見、自分(味方)の中に相手(敵)を見ることもできないといえるでしょう。

    さらに、「非暴力直接行動」は、「受動的」抵抗であっても、決して、消極的でも、無抵抗であるわけでもないことは注意すべきことです。すなわち、非暴力は卑怯者の隠れ蓑であってはならないのであって、「臆病と暴力のうちどちらかを選ばなければならないとすれば、わたしはむしろ暴力を勧める」というガンジーの言葉はよく知られているものです。実際、彼自身、トルストイ農場における自らの生徒への体罰について興味深い記述をなしています(『自叙伝』「49 自己抑制について」参照)。すなわち、蝋山芳郎氏の表現に従えば,「ガンジー自身、人間の義務や人間の生命そのものを非暴力よりも根本的なものと考えた」〔「ガンジーとネルー」、『世界の名著63』〕ということなのです

    こうした観点に立てば、「墓所の主」に対して巨神兵を使ったナウシカの暴力は、まさしく、境界的〔マージナル)なものであったと考えることができるでしょう。しかし、それは、危険なカケであると同時に、やはり「悪」であり、「罪」に他ならないものとしてナウシカに受けとめられていたと言ってよいでしょう。このようにして、ナウシカは、即自的な「理想主義」ではなく、「現実」に鍛えあげられた理想主義者に成長していったといえるのではないでしょうか。

    こうした意味合いにおいて、コミックス版においては、まさしくナウシカではなく(!)、マニの僧正や彼女の師であるユパ・ミラルダによって担われていた「非暴力直接行動」は、その後、現実に鍛え上げられ、「阿修羅」のごとく、優しく強く成長したナウシカによって引き継がれていった、そう構想されていたと考えられないでしょうか。

    昨春、私たちは人間が生み出した「瘴気(しょうき)の渦」が自然と人間を襲うのを目撃しました。人間の手によって引き起こされた「大海嘯(だいかいしょう)」=大津波を前に、私たちは、私たち人間自身の手によって、「しし神の首」を返さなければならない、すなわち、失われた大地との絆を取り戻さなければならないといってよいでしょう。そして、そのためには、「ニヒリズム」の深淵に沈み込み、たとえば、ニーチェのごとき「近代的自我のオバケ」となって自・他の「死」に向かうのではなく、共に「生きる」ことを可能とするような、もっと豊かな「自然観」や「人間観」を獲得していく必要があるのではないでしょうか。宮崎駿氏が私たちに贈ってくれた『風の谷のナウシカ』は、ナウシカの心の旅(オデッセイ)を通して、私たちにそれらを示してくれた新しい「神話」といってよいものだろうと思います。    


    最後に、適当であるかどうかは分かりませんが、西田幾多郎の『善の研究』からいくつか引用して、この稿を閉じたいと思います。

「余の考うるところにては元来絶対的に悪というべきものはない、物はすべてその本来において善である。実在はすなわち善であるといわねばならぬ。」
「悪は実在体系の矛盾衝突より起こるのである。」
「・・・・悪は宇宙を構成する一要素といってよいのである。」
「罪を知らざるものは真に神の愛を知ることは出来ない。」
「罪はにくむべきものである、しかし悔い改められたる罪ほど世に美しいものもない。」


   ☆9月、職場で時々話すアメリカ人女性から、今年の夏のインド旅行のお土産として、10ルピー紙幣をもらいました。肖像に使われているのはガンジーで、私がガンジーの「ファン」らしいことを見透かしたように、「これ見て、楽しんでね」などと言いながら渡してくれたのです。話はその後、『ゼルダの伝説』(使われているお金はルピーでしたね)の方に行ってしまいましたが、後で、核武装してパキスタンと対峙している今のインドのことを考えると、一種の違和感も感じたものでした。勿論、「社会主義市場経済」の人民元の肖像も毛沢東ですから、そんなもんだとも思うのですが、きっとガンジーも毛沢東も草葉の陰で頭を抱えて悩んでいるだろうなと想像もするのです。
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『風の谷のナウシカ』によせて(5)

   『風の谷のナウシカ』によせて(5)
      ―――「生態学」と「多神教」的世界観(3)




    それでは、ナウシカが「墓所の主」との対話の中で用いた「無」―――「闇」・「虚無」もほぼ同様な意味を持つものと言ってよいでしょう―――の意味するだろうところのものを、西田幾太郎の諸説をとおして考えてみることにしましょう。ただ、その前にひとつ確認しておかねばならないことは、本稿で用いられている「多神教」という概念は、ギリシャ的神々をも含む多神教一般を指すのではなく、あくまでも、ユダヤ・キリスト教的「唯一神」と対比されるところのナウシカ的「神々」の謂いであり、そして、西田的な「無」の思想をここで取り上げるのは、それが、必ずしも「仏教」だけではなく、そうしたナウシカ的「神々」をも〈響導〉するだろう一種の普遍的な「生命」論・「世界」観を持つ思想と考えられるからに他なりません。

    さて、ナウシカと「墓所の主」との対話において、私たちは、「無」という言葉がほとんど価値的に相反する意味合いにおいて使われていることに気づきます。まず、「墓所の主」にとっての「無」とは、まさしく「有」の否定であり、神や希望などが否定される、負の意味合いを持つ言葉に他なりません。それに対して、ナウシカの「無」は、その中から「生命」や「希望」が発する「源(みなもと)」といったプラスの意味合いすら持つものとして使われているのです。ナウシカのこのような発想はどうして可能なのでしょうか。それに一定の解答を与えるのが、東洋的な「無」の思想です。

 ところで、こうした東洋的な「無」の思想に関して、極めて示唆的な哲学的考察を行ったのが西田幾太郎です。彼は、ギリシャ文化とキリスト教文化を二つの根として持つ西洋文化に共通する(形のあるものを実在と考える)「有の論理」―――これについて西田はヘーゲルを批判しながら、「やはり何か一つ見る、一つ見るということはやはり自分の外に見るということであって、これはまた或る意味からいえば一つの有の立場で見る。やはり何か主語的に見る、有の立場で見るということだ」と表現しています―――に対して、東洋的な(見えない、聞こえないものに「実在」を感じる)〈無の論理〉を対置し、そのより普遍的な性格を強調しようとした哲学者であったと言ってよいでしょう。 西田は、「仏教の根本の考えというのは、無ということをいつも根底として、そうして全て世界を考えると言うことではないか」と述べていますが、それは、彼の参禅の経験から得た、神的なるものや個別的生命に対する彼自身の感覚に裏打ちされたものだろうといわれています。そして、(恥ずかしながら)私自身も、剣道で黙想を行うときや、山に登って森の中にたたずみ、ふと空を仰ぎ見た時などに感じる感覚―――いうなれば、「無我」の境地、あるいは、「彼我」渾然となった〈関係性〉の中に在る感覚、あるいは、五感には感じられないけれど、渾然一体となったモノや命や精神に貫通して在る「力」の感覚―――を全く理解出来ないわけでもないように思うのです。そして、こうした彼の「純粋経験」・「知的直感」をもとに構築されていったのが、「神はまったく無である」といった認識であり、また、神が生命の源であるならば、全ての「生命」の根底に「神」の存在を感取することができるといった汎神論的な認識であったといえましょう。ただ、彼の論理は、無即有=「一即多」=「絶対相反するものの自己同一」=「絶対無」といったように、極めて思弁的、観念的であり、理解が難しいのですが、西洋的な「神」や「生命」の把握との対比において、彼の論理をもう少し検討しておく必要があります。

    ところで、私がまだ20代の頃、我が家にユダヤ・キリスト教関係の方が布教に来られ、お話を伺う機会がありました。その時、私が「あなたはどうして神の存在を信じることが出来るのですか」と質問すると、その答は、「ここに本がありますよね。どうしてあると思いますか。それは誰かが作ったからですよね。では、どうして世界があると思いますか。誰かが創ったはずですよね。その創られた方が神様です。」というものでした。当時、私自身も、西洋思想の中心にあるのは「主体(-客体)」の問題設定だと考えていましたので、この擬人化された神の議論は非常に興味深く感じたものでした。

    そして、西田も、このような人間的思惟の習慣である因果律に基づいて宇宙全体を説明しようとし、その原因を神とする考え方を批判しています。「因果律に基づいてこの世界の原因を神である」とするならば、「或るものはこの世に偶然に存在するものではなくしていちいち意味を持ったものである。すなわち或る一定の目的に向かって組織せられたものである」と言うことになる。「しかるにもし宇宙に勧善懲悪の大主催者がなかったならば、われわれの道徳は無意義なものになる・・・」。勿論、こうした議論は、「神が死んだ」近代西洋の此岸の「闇」を突くものといってよいでしょう。これに対して、西田は、「余は神を宇宙の外に超越せる造物主とはみずして、直ちにこの実在の根柢と考えるのである」とします。そして、そうした認識の根底には次のような認識がありました。少し長いのですが、引用しておきましょう。
  「・・・われわれが自然と名づけているところのものも、精神といっているところのものも、まったく種類をことにした二種の実在ではない。つまり同一実在を見る見方の相違によって起こる区別である。自然を深く理解せば、その根柢において精神的統一を認めなければならず、また完全なる真の精神とは自然と合一した精神でなければならぬ。すなわち宇宙はただひとつの実在のみ存在するのである。しかしてこの唯一実在はかっていったように、一方において無限の対立衝突であるとともに、一方においては無限の統一である。一言にていえば独立自全なる無限の活動である。この無限なる活動の根本をばわれわれはこれを神と名づけるのである。神とは決してこの実在の外に超越せるものではない、実在の根柢が直ちに神である、主観客観の区別を没し、精神と自然を合一したものが神である」。
   
   こうして、西田は、神を「宇宙の内面的統一力」、「宇宙の統一者であり実在の根柢」と規定するのですが、また、「これといって肯定すべきものすなわち捕捉すべきものは神ではない、もしこれといって捕捉すべき者ならばすでに有限であって、宇宙を統一する無限の作用をなすことはできないのである。この点より見て神はまったく無である」との認識を示します。そして、更に「神が無始無終原因なくして存在すると言うならば、この世界もなにゆえにそのように存在することは出来ないのか」とも述べます。すなわち、彼は、個々独立した「実在」とそれらが織り成す弁証法的「関係」の凝集性・統一性を維持している力を神を捉えたのです。(「無限なる力―無限なる実在の統一力」「絶対無限なる神」)
  
   それでは、西田にとって、個別的な「実在」であるところの「生命」はどのように捉えられるのでしょうか。西田は言います。「小さきわれわれの胸の中にも無限の力が潜んでいる。すなわち無限なる実在の統一力が潜んでいる」。また、「本当の個物というものはやはり自分に絶対無限と言う意味をもったものでなくてはならぬと思う」そして「生きたものは皆無限の対立を含んでいる。すなわち無限の変化を生ずる能力を持ったものである」と。こうして、「実在」たる個別的生命は、本来的に、主体的、能動的なものとして把握されることになるのです。
    さらに、「生命というものはどこまでも一般的のものに還元することは出来ない」、「一般からの限定と言うことを離れて生命というものは考えられない・・・・生命というものを考えるときには必ず死ということが考えられなくてはならない、死ということが一つの要素である。生命というものを考える一つの条件である」と、生と死の弁証法的統一としての個別的「生命」という認識も示しています。このように、西田は、自然の中の多様な個別的な「生命」の根底に「神」の存在を知的直感によって捉えたわけであり、こうして、それぞれの命は、人格化された「主体=創造者」の「客体=被造物」ではなく、それ自体、自己発展の契機を内に持つ絶対的独立の存在として把握されることになるわけです。この点でとりわけ興味深いのは、西田が、「ヘーゲル哲学というものを徹底的に考えるとやはり個々のわれわれの個人的自己、一々の個人的自己の絶対独立性、真のわれわれ個人の自由というものはやはり考えられないことになる。ヘーゲルの自由と言うのはやはり個人の自由でなしにひとつの絶対精神の自由であって個人そのものの自由ではない」と、ヘーゲルを含む西洋的思想が「多なるものの個々独立性」、「個々多性」を否定していることを批判していることです。

    以上、西田幾多郎の生命と神に関する理論を概観してきましたが、それらはナウシカの言葉を理解するうえで重要なヒントを与えていると考えてもよいでしょう。また、西田の議論は神の存在を前提としていますので、私のようなその存在を信じることの出来ない者には一種の違和感も与えるのですが、ただ、彼の議論は人間の認識が深化・発展していく道筋としてはかなり妥当性を持つのではないかと考えられるのです。たとえば、彼は、「世界というものは絶対ない、無である。しかし無であるということそれがすなわちわれわれの個物を成りたたしめるところの意味をもっている本当の世界である」と述べていますが、そこには、いわば、関係論的、構造主義的アプローチとの親和性を感じさせるものがあると思います。つまり、彼は、世界を弁証法的・関係論的に把握した上で、それを成りたたせている統一力、凝集力、「潜勢力」を「神」として把握しているといってよいわけで、彼の「神」の探求は、まさしく、世界を構成している諸〈存在〉間の(弁証法的な)関係の中に働いている、見えない、聞こえない、すなわち人間の五感によっては把握できない構造や法則性の探求と重なることが出来るといえると思うのです。

   それでは、最後に、本稿で「多神教」的世界観と一応呼んだ、ナウシカ的生命観・世界観の意義について述べておきたいと思います。

   まず、それは、「自然との共生」を志向する原初的感覚としての意義を持つでしょう。もともと、この物語の中で展開されている「一神教」的自然観と「多神教」的自然観の対立とは、近代主義的な自然観と生態学的な自然観の対立の比喩として用いられていると考えられるのですが、まさしく、ナウシカ的「多神教」―――アニミズムといっていいかも知れません―――は、仏教哲学とは抽象の水準を異にするとはいえ、東洋的な「無」の世界観の原初的形態といってよいものだと考えられます。つまり、自然を一神教的な神の被造物と見るのではなく、その多元的な「実在」(生命)の根底に、姿なき、声なき「潜勢力」を感じるとる、すなわち、「神」を〈見る〉といったものです。そのことは、自らもそこから生まれ、その一部である自然を「尊崇」の対象として「尊重」し、その中で生きていくという意識を覚醒させることにつながっていると考えられるでしょう。これは、日本的自然観といわれてきたものそのものといえるのではないでしょうか。

   第二に、全ての「生命」が「無」(神)を共有し、「無」(神)を内在化させているといった世界観からは、「生命」の本質的対等性=平等・その絶対的独立性=多様性・その発展の無限の可能性といった、極めてポジティブな視点が可能となります。万物の創造主であり、全知・全能の神を措定する「一神教」の問題設定にあっては、神の「下」の平等であったり、神の「僕」であったり、神の代理人であったりと、様々な表現は可能なのですが、結局、「主-僕」という根本的な枠組みは変わらず、最悪の場合には、創られた「生命」を道具的に操作・利用する一種の「エリーティズム」すら必然化するといってよいかもしれません。これに対して、ナウシカの、創られた人工的な生命にすら愛を感じ共に生きようとする視点からは、その場で共に生きている『いのち』の絶対性―――序列化されたり道具視されたりしない―――に寄り沿うこと、いわば「ナロードニキ」的生き方が選択されるということになるのです。

   第三に、ここで展開されている「多神教」的世界観は、決して単なる空想的な性格のものではなく、極めて現代的な科学理論を基礎に展開されているだろうこと、少なくとも、それらと強い親和性を有しているということは確認しておくべきことです。たとえば、それは、地球における「生命」の体系、その中における絶妙な相互依存と均衡の関係を明らかにしようとしたカーソン的「生態学」との親和性が高く、主体-客体という二項対立的な問題設定や狭い限られた範囲内での因果関係を機械的に把握するといった近代主義的な方法よりも、厳密な科学的言説ではないとしても、より『真実』に近いと考えることが出来るでしょう。また、「多神教」(アニミズム)を遅れた原始的な思考方法とするユダヤ・キリスト教的位置づけは、様々な文化の中に「同質」な構造や関係をみる、レヴィ・ストロースらの構造主義的人類学の成果(多文化主義)を知っているわれわれにとっては、かえって、遅れたものとさえいえるでしょう。日常的なイデオロギーの水準において、どちらが、より『真実』に近いのか。そのことこそが問われなければないといってよいのです。

  最後に、物語の主人公=ナウシカは、「太古」の自然への復帰をめざす復古的なロマン主義者でもないし、空想的な理想郷を目指すユートピア主義者でもないことを確認しておく必要があります。こうした性格は『もののけ姫』におけるエボシ御前への評価や『たたらば』に残るアシタカの中により明確に見ることができるのですが、ナウシカ自身もメーベ(小型エンジン付グライダー)やガンシップを操る時代の人であるわけです。そして、ナウシカは、時代と場所を共有する愛する人々と共に、「人間の汚したたそがれの世界」の中で生きていくことを選択するのです。すなわち、ナウシカの立場とは、歴史的な現在と言う時代と場において、自然の本質を理解しつつそれとの共生を模索し実現していこうとする立場だと理解できるでしょう。こうした姿勢をなんと呼べばいいのか。西田幾太郎は「世界が自分自身のうちに矛盾を含んでおって、自分自身が動いていく、こういう世界というものは普通、creationといっている」と述べています。それを参考にして言えば、「創造的自然主義」とでも呼べばいいのでしょうか。それを中途半端なもの、妥協的なものと見るか、まさしく、歴史的・弁証法的なものと見るかは意見の分かれるところでしょう。しかし、私は、その「中途半端さ」を理解し、肯首しうるものと考える立場にあります。

  相も変わらず、推敲不足で、まとまりのない長大なブログ記事になってしまいました。もう少し、まとまった時間が出来たときに、修正したいと考えています。
  次回は、「『風の谷のナウシカ』によせて(最終回)―――戦争論と非暴力直接行動」の予定です。

 
  

『風の谷のナウシカ』によせて(4)

『風の谷のナウシカ』によせて(4)
     ―――「生態学」と「多神教」的世界観(2)



    コミックス版『風の谷のナウシカ』第7巻は、物語のクライマックスを形成し息もつかせぬ展開を見せますが、その中でもとりわけ興味深いのがナウシカと「庭の主」や「墓所の主」との対話です。

    さて、ナウシカは、汚染されていない動植物の原種や音楽・文学などの貯蔵庫を守る〔旧世界の「人間」によってつくられた人造人間=ヒドラである〕「庭の主」に救われます。そして、彼はナウシカに「腐海の秘密」―――「腐海」は「人間」によって汚染された地球を浄化する為に「人間」によって造られたものであること、そして、ナウシカたち『人間』もこの新しい生態系に適応するよう作り変えられた存在であり、浄化が終了した暁には、「腐海」と共に亡びるよう定められている―――を示唆するのです。そして、この「庭の主」が守る「庭」とは、地球の浄化の後に再建されるべき「人間」の造りだした理想的な価値あるものの宝庫、いうなれば、彼岸にある救済の世界(=「希望」)の意味を持たされたものでした。しかし、ナウシカは、その彼岸の理想的世界に留まり神の僕におとしめられる「罠」―――ニーチェ流に言うならば、彼岸の救済への憧れは何よりも主体たる人間にとっての退廃を意味します―――に陥ることなく、さらに「王蟲を培養し、ヒドラを飼い、巨神兵を育てた技」(「その技がある限り、よこしまな者をよびよせ、〈虚無〉が死を吐き出す」)が秘められて在る此岸の「墓所」へと向かうことになるのです。そして、そこで展開されるのが、「墓所の主」との一種の「生命」論であり、「宗教」論でした。

    〔「人間」によって造られた「浄化の神」たる〕「墓所の主」によって主張されたのは、大まか、次のようなものでした。すなわち、「火の七日間戦争」前後の自然環境の壊滅的汚染と人間同士の果てしない対立と闘争という憎悪と絶望の時代に、ある「人間」たちは、争いの裁定者として巨神兵を作って邪悪な〈敵〉を掃討するために世界を焼き、また、こうして汚染された大地を浄化するという理想と使命感から、新しい生態系を創造し、人間や他の動物を作り変え、浄化の後に、(こうした〈創造主〉たる「人間」によって選択された善き性格のみを有する)「人間」を再び〈復元〉しようと試みたのでした。そして、それは「人間」にとっての唯一の「希望」だったと言うのです。しかし、こうした危機に瀕した「人間」たちがそれによって人間と地球の再生を図ろうとした「思想と行動」とは、憎悪と絶望の時代を生み出した「巨大な産業文明」のそれと本質的に同じなのです。これに対してナウシカは、「生命」を操作可能なものと考え、一定の目的の下に、「生命」を造り変え、創り出し、「道具」として利用し、従わせる、こうした「人間」たちの「思想と行動」を「生命への最大の侮辱」として批判するのです。少し長くなりますが、コミックス版未読の方のために、いくつか引用しておきましょう。

    「墓所の主」がナウシカたちに「浄化」=世界の再建への「協力」を求めたとき、ナウシカは叫びます。
 「なぜ真実を語らない 汚染した大地と生物を すべてとりかえる計画なのだと!!」
 「お前は 亡ぼす予定の者達まであざむくつもりか!!」
 
    そして、その「生命」論を展開します。
 「私達の体が人工で作り変えられていても 私たちの生命は私達のものだ 生命は生命の力で生きている」
 「生きることは変わることだ 王蟲も粘菌も 草木も人間も変わって行くだろう腐海と共に生きるだろう」
  ―――こうした観点は、他の箇所においても、次のような記述で見られます。
 「目的のある生態系、その存在そのものが「生命」の本質にそぐわない」
 「生命はどんなに小さくても外なる宇宙を内なる宇宙にもつのです。粘菌の変異体にすら心があります。」
 「どんな惨めな生命であっても、生命はそれ自体の力によって生きています。
 この星では生命はそれ自体奇蹟なのです」               
 「世界の再建を計画したものたちがあの巨大な粘菌や王蟲たちの行動を全て予定していたというのでしょうか」

 このように、ナウシカにとって「生命」とは、操作できるものでも、されるべきものでもない、絶対・個別的な「実在」(-「主体」)であって、その具体的-総体的な矛盾・対立関係の中で生き、そして、変化していくものと捉えられていたといってよいでしょう。
 
  さて、こうした問答の中で、ナウシカは、「墓所の主」に言います。
 「神というわけだ。お前は千年の昔たくさんつくられた神の中のひとつなんだ。」
 ―――すなわち、ナウシカは、「墓所の主」を旧世界の「人間」が作り出した、いわば、疎外体としての「神」=「浄化の神」と捉えます。勿論、そこには、彼岸の平和と清浄、そして、此岸の戦争と汚濁という二項対立的な把握とその欺瞞的な使い分けに対する批判があるのです。

 そして、ナウシカはつづけます。
 「絶望の時代に理想と使命感からお前がつくられたことは疑わない」 しかし、
「その人達はなぜ気づかなかったのだろう 清浄と汚濁こそ生命だということに」
「苦しみや悲劇やおろかさは清浄な世界でもなくなりはしない それは人間の一部だから・・・」、「だからこそ、苦界にあっても喜びや輝きもまたあるのに」と。
 ―――ここに、ナウシカによる「生命」の弁証法的把握、すなわち、対立物の統一的、具体的・総体的な把握が見られます。また、他の場所においても、次のような記述が見られます。
 ・「森はひとつの聖なる生命体」〔セルム〕
 ・「個にして全、全にして個・・・ある偉大な王蟲が教えてくれました。」

  これに対して、「墓所の主」は、
   「お前にはみだらな闇のにおいがする」
    「人類は私なしには亡びる。」
 ナウシカ 「それはこの星がきめること」
 墓所の主 「虚無だ。それは虚無だ。」
 ナウシカ 「王蟲のいたわりと友愛は虚無の深遠から生まれた」
 墓所の主 「お前は危険な闇だ。生命は光だ。」
 ナウシカ 「ちがう いのちは闇の中の瞬く光だ」
      「全ては闇から生まれ、闇に帰る」 
 墓所の主 「お前は悪魔として記憶されることになるぞ 希望の光を破壊した張本人として」
 これに対してナウシカは。
     「かまわぬ そなたが光なら 光などいらぬ」 
    「強大な墓や下僕などなくても 私たちは世界の美しさと残酷さを知ることが出来る」そして
      「私たちの神は一枚の葉や一匹の蟲にすら宿っているからだ」と。


  さて、このような教理問答のごとき対話の中から、私たちはなにを読み取るべきなのでしょうか。


   まず、第一に押さえておくべきことは、この「墓所の主」が、明らかに、近代西洋思想の基底のひとつを成すユダヤ―キリスト教的伝統における「唯一神」、すなわち、「万物の創造主」であり「全知・全能」の神というイメージを持っていることです。そして、そのことは、宮崎氏が「墓所の主」とそれを自らの姿に似せてつくった旧世界の「人間」たちの、「生命」に対する道具主義的な見方(そして、「生命」を単純な二項対立的な枠組みで把握する思考方法)の背後に、西洋的な「一神教」的世界観の構造を見ていただろうことを意味すると思われます。

   そして、そうした「神」である「墓所の主」は、ナウシカの考え方を「闇」そして「虚無」と攻撃しますが、それは、あくまでも、「一神教」的な問題設定の中で述べられているものと理解されなければなりません。すなわち、汚染されていない理想的「生命」の再生は、「一神教」的な神の「光」の中にあるのであって、それを否定することは、「死」を、「光」ならぬ「闇」を、「希望」ならぬ「絶望」―「虚無」を、「神の僕」ならぬ「悪魔の使い」の成せる業を意味することになります。そして、こうした枠組みの中における「墓所の主」とナウシカの対決は、一見、「神」と「無神論者」(ニヒリスト)との対決のようにも見えます。しかし、宮崎氏が創作の過程でニーチェの思想を意識していただろうことは間違いないにせよ、この対立の構図におけるナウシカの「闇」や「無」や「虚無」といった用語をニーチェ的な「無」や「虚無」と同一視し、ナウシカがニーチェ的な「能動的ニヒリズム」の立場に立っていると考えることは誤りであるといえるでしょう。なぜなら、ニーチェは、近代的な「ニヒリズム」―――近代西欧におけるキリスト教的の神の死(「神は死んだ」あるいは近代人による「神殺し」)はそれまで神から与えられてきた人間存在の意味と価値を失わせた―――を徹底させ(「永劫回帰」の思想)、それを主体的・能動的に克服しようとした(「超人」・「権力への意志」の)思想家として知られているのですが、ナウシカの考え方はそれと真っ向から対立するものと考えられるからです。

 まず、ニーチェの「永劫回帰」の思想―――「人生は、そのあるがままの姿において、意味もなく、目標もなく、無への終曲音(フィナーレ)もなく、しかも、不可避的に回帰する。すなわち永劫回帰。これがニヒリズムの極限の姿である。すなわち無(意味なきもの)の永遠!」(『力への意志』)―――は、彼岸の喪失による此岸たる人生の「無意味」を徹底的に自覚することを意味します。これに対して、ナウシカの思想は、そうした此岸の(死をも吐き出す)「虚無」(無意味)を否定するものに他ならないからです。すなわち、「一神教」的な問題設定の中には「主と僕」、「主体と客体」、「光と闇」、「希望と虚無」、「清浄と汚濁」、「彼岸と此岸」といった二項対立的な思考の型があり、さらに、彼岸の「希望」を語りながら此岸の「虚無」、すなわち、客体としての「生命」の操作や神を否定するものの殺戮を許すといった宗教的疎外の構造すらあったのですが、ナウシカにとっては、「一神教」的な神が死に、「彼岸」が喪失したからといって、「生命」が意味を失うわけでは全くないのです。なぜなら、「一神教」的な神から意味や希望を与えられなくても、此岸の「生命」そのもののなかに「神」や「希望」を見出すことが出来るからです。
 
 また、ニーチェ的な「虚無」の克服とは、要するに、神に代わって〈存在〉に意味や価値を与える人間の強靭な「意志」―――たとえそれが此岸の「意味なきもの」に対する運命愛的な全面肯定であろうと―――、人間の「主体」としての自立を意味するものでしょう。しかし、それは、あくまでも、「一神教」的な問題設定、すなわち、「主体」(-「客体」)の問題設定を継承するものといってよいのです。「旧世界の人間」たちは、「裁定の神」(=巨神兵)や「浄化の神」(=墓所の主)さえ作ったのですが(「人間が神を創ったとき、神が死んだ」)、それは、人間が「神」になった、すなわち、人間がユダヤ・キリスト教的な「神」=「全知全能」、「万物の創造主」たる神になった、と捉えることも出来るのです。こうして、「神」となった「人間」は、客体としての「生命」をも道具的に操作することが可能になったのです。
 
   さて、こうした「一神教」的な問題設定とは異なるナウシカの思想とはなんなのでしょうか。ナウシカの「闇」、「無」、「虚無」とはなにを意味するのでしょうか。いうまでもなく,それは東洋的世界観における「無」の思想に他ならないと思われます。それは、「無」の中に「神」・「希望」を見出す思想であり、その象徴的表現が、
「王蟲のいたわりと友愛は虚無の深遠から生まれた」 そして、
「私たちの神は一枚の葉や一匹の蟲にすら宿っているからだ」 です。

   それは、まさしく、「アニミズム」、「多神教」の世界です。そして、こうした世界は、アニメ版『ナウシカ』の中では、土俗的な「風の谷の伝承」といった形で、『もののけ姫』の中では、ナゴの神、乙事主、しし神、木霊(こだま)、モロ、デイタラボッチといった神々のかたちでより可視的に表現されていました。そして、こうした観点は、宮崎氏が日本民族学の中から掴み出したものだろうと考えられるものです。たとえば、デイタラボッチは明らかに柳田民俗学の影響でしょうし、また、物語の中で重要な役割を演じている新しい生態系=菌類の森たる「腐海」が、生態系を護るために神社合祀令反対闘争を闘った日本民族学者の一人、南方熊楠の粘菌研究をヒントとしているだろうと思われるところにも窺えます。
   ところで、筆者がこうした「多神教」的世界の背後にさらにあると考えているのが、西田幾多郎の「無」あるいは「絶対無」の思想です。西田は「幾千年来われらの祖先のはぐくみきたった東洋文化の根柢には、形なきものの形を見、声なきものの声を聞くといったようなものがひそんでいるのではなかろうか」と述べ、いわゆる〈弁証法的な実在の論理〉の構築を試みています。そして、そこには、この物語の中でナウシカが展開している「生命」や「神」についての思想、それと共通する数多くの視点を見出すことが出来ると考えられるのです。興味がある方は、西田幾多郎の『善の研究』第二編「実在」や『現実の世界の論理的構造』などを実際に手にとって参照いただければと思います。ただ、本稿においても、以下、必要と思われる限りにおいて、若干のコメントを試みたいと思います。

   又又、長くなってしまいました。次回は、西田哲学からの若干の引用と「多神教」的世界観の意義について論ずる予定です。

『風の谷のナウシカ』によせて3)

  『風の谷のナウシカ』によせて(3)
      ―――「生態学」と「多神教」的世界観(1)




    先日、iPS細胞を開発した山中伸弥氏がノーベル医学・生理学賞を受賞しました。ニュースは、一種愛国主義的雰囲気をも漂わせながら、このバイオテクノロジーの一大成果を大々的に報じています。しかし、数十年前に脚光を浴びた原子力技術(とりわけ、原子力発電)がそうであったように、それは本当に人類にとってよきことなのでしょうか。勿論、「バイオハザード」の心配はもはや絵空事ではなくなっています。また、医療技術について言えば、既に、臓器移植技術に関する倫理的な諸問題、そして「南北格差」や「臓器売買」などの経済的利権に絡まる諸問題など、様々に指摘されているのです。しかし、持病を抱える私自身、医療技術の進歩に恩恵を受け、又その更なる進歩に期待するところ少なくありません。しかし、それはあくまで慎重にも慎重を重ねたものでなければならないと思っています。少なくとも、「あの頃の日本には、一人の生態学者もいなかったのか」と言う溜息が出ないようにしなければならないでしょう。ということで、読書と仕事で一時中断していた本稿を、早急に完成することにしました。ご一読くだされば幸いです。


    前回のブログでは、第二次大戦後の時代状況、とりわけ、環境と戦争の問題について、思いつくまま述べてきました。そして、そうした時代状況との格闘の結果として生み出されたと考えられる『風の谷のナウシカ』が、そのアニメージュ‐コミックス版が1982~1994年に、そして、アニメーション映画版が1984年に発表されたのです。ところで、かなりの人たちが、アニメ版とコミックス版との「違い」に戸惑ったり、違和感を感じたりしたようです。しかし、私は両者の間に本質的な相違はないだろうと考えています。両者に相違があるといっても、映画化のための「簡略化」であり、また、担い手や役割すら異なっている場合でも、物語の「本質的な」テーマや「構造」には、明確な共通性が存在すると思われます―――勿論、ほぼ同様なテーマを取り扱い、宮崎氏の自然観や歴史観の一定の総括と考えられる『もののけ姫』(1997年)においては、「近代」と言う時代に対する価値判断やそこにおける「〈人間化〉された自然」に対する捉え方などが、より整理され、より解りやすくに表現されていると考えられますが。

   私が宮崎氏の作品に触れて感じる彼の基本的「視角」の特徴は、まず第一に、問題を自分の問題として捉えようとしていることです。私の若い頃に「我内なる○○」といった表現がありましたが、宮崎氏の場合においても、自然環境の破壊や戦争と平和の問題を(その「種子」をもふくめて)自分自身の中に発見し、対象化して考えると言う姿勢が明瞭であると感じられます。そして第二は、それとも密接に関連するのですが、例えば自然と人間、善と悪、敵と味方などといった、単純な二分法や二元論をとらないこと、換言すれば、弁証法的といっていいアプローチをとっていることです。そのことによって、対立するもの双方に貫いてある問題を捉え、その解決(止揚)の方向性を探る、といった性格を持つことになるのです。それでは、こうしたアプローチがどのようにあられているのか、まず「環境問題」から見ていくことにしましょう。

    さて、近・現代における人間による自然の収奪-汚染-破壊は、まさしく、「豊かさ」を求める多くの人々にとって、ごく当たり前のこと、いわば、歴史的必然として受け止められてきたと言ってよいでしょう。そして、巨大な産業文明を支え、こうした環境破壊を生み出したてきたのが、近代西欧に発する自然観に他ならなかったことは言うまでもありません。今でこそ、自然環境の破壊に対する危機感や反省は多くの人々が共有するところとなりましたが、しかし、その基底にあった近代的自然観にたいする根源的な把握と反省は十分と言えたのでしょうか。
    
    一般的に、近代的自然観とは、自然と人間を対立するものと捉え、自然を人間によって「支配」・「征服」されるべき対象として捉える観方をさすものと言ってよいでしょう。そして、それは、たとえば貴重な森林の破壊をともなう乱開発や、巨大な生産力を生み出す科学技術の安易で無原則的な礼賛など、現在においてもわれわれのすぐ身近にある観方に他なりません。ところで、こうしたある意味で極めて単純な自然観に対し、科学の立場から明確な批判を展開したのが「生態系」の理論でした。それは、これも単純化していうならば、人間も自然の一部であり、「草木の死は人間の死である」という事実に気づかせてくれたものだったわけですが、こうした捉え方が日常生活の中である程度大きな力を持つようになったのはそれほど昔のことではなかったといえるのです。そして、こうした理論の日本における普及とって極めて大きな力となったのが、レイチェル・カーソンの『沈黙の春―――生と死の妙薬』であったと私は考えています。そこで展開されていたのは、地球の長い歴史の中で造り出された、生命と環境との、そして、生命同士の、二元的対立ならぬ、絶妙な「均衡」であり、「相関関係」であり、「相互依存関係」でした。目の前にある環境・生命は、人間が勝手に扱ってしまうことが許されない、絶妙なバランスの上に存在していたのです。それゆえにこそ、人工の化学物質や放射線そして生命工学などによる生命(遺伝子)への破壊と操作は厳しく批判され、警鐘が打ち鳴らされていたのです。そして、こうした理論は、同時に、地球の生態系の中で生まれ存在している「奇跡としての命」の尊重という、いわば倫理的な思想にまで「高められていた」と言っていいのです。いうまでもなく、ナウシカによる「腐海の秘密の発見」とは、こうした「生態系(そして自然の自浄作用)」の発見を、巧みな比喩によって描き出そうとしたものと言ってよいのです。
    
    さて、以上のような概観から、『風の谷のナウシカ』にみられる思想的対立の構図は、「近代主義」的自然観とカーソン的「生態学」のそれといってよいと思われます。アニメ版の『ナウシカ』においては、それは次のような比喩によって語られていました。すなわち、「火の七日間戦争」によって破壊され汚染された自然を前に、前者は、(その破壊と汚染そのものを引き起こした)「生命工学」によって創りだされた「生きた核兵器」たる「巨神兵」を復活させること、すなわち、「人間をしてこの世の主となした奇跡の技と力」を復活させることによって、腐海を焼き払い、それによって「自然」に対する人間の「支配」を再び取り戻そうとする考え方であり、そして、後者は、「腐海に手を出してはならぬ、」という『風の谷の伝承』や「腐海とともに生きる」といった言葉に象徴される「自然との共生」を志向する考え方、いうなれば、「生態学」的自然観の「原初的」形態といっていいだろう考え方です。また、コミックス版においては、この対立は、汚染された自然の浄化や混沌とした争いの裁定といった一種の「理想主義」的形態を装いながら、結局、命をつくりかえ、「生態系」すらつくりかえた「人間」の被造物(ヒドラ)=「墓所の主」や「庭の主」とナウシカとの対決として描かれているのです。すなわち、ここで確認しておくべきことは、宮崎氏の主要なポレミーク(論争)の対象は、究極的には「生命工学」を頂点とするような、「全般的操作可能性」を信じる「近代主義」的な技術とイデオロギーであるということです。そして、アニメ版においては、このコミックス版における「墓の主」や「庭の主」の役割を演じていたのはクシャナと敵対していたペジテなのですが、彼らもナウシカに「結局あなたたちも同じよ」と指弾されているのです。勿論、こうした設定の背後には、近代主義的な技術とイデオロギーを資本主義と共有しつつ、自然環境の破壊と核開発競争に邁進していた中ソを初めとする「現存社会主義」に対する宮崎氏の批判的視点をも感じることが出来るでしょう。

   ところで、そうした対比の中で、『風の谷のナウシカ』のファンタジーとしての面白さをさらに高めているのが、それをいわば「一神教」の神と「多神教」の神との対立というかたちで表現しているところであり、さらに、その「多神教」的な見方の基盤としておさえられているのが「日本的」あるいは「東洋的」といってよいだろう自然観ないし宗教観だということなのです。それでは、この点を、コミックス版『ナウシカ』の中で、手短に見ていくことにしましょう。
   

   あまりにも長くなりましたので、ここで一区切り付けつけます。

    

『風の谷のナウシカ』によせて(2)

     『風の谷のナウシカ』によせて(2)
        ―――地球環境と戦争を考える


        
 我〈しもべ〉たる飼い主は、つい最近、こうの史代さん原作の『夕凪の街・桜の国』と言う映画を観て、いたく感動したみたいでした。見終わった後、『ねえ、サロさん。君も戦(いくさ)世に生まれなくてよかったねえ。君なんか、赤犬の肉はおいしいと言われていたというから、鍋かなんかにされて食べられてしまったかもしれないねえ。」なんていうんだよ。う~む!戦争反対 

     ユーラシア大陸の西のはずれに発生した産業文明は
     数百年のうちに全世界に広まり
     巨大産業社会を形成するに至った
     大地の富をうばいとり大気をけがし
     生命体をも意のままに造り変える巨大産業文明は
     1000年後に絶頂期に達し
     やがて急激な衰退を向かえることになった
     「火の七日間」と呼ばれる戦争によって
     都市部は有毒ガスをまき散らして崩壊し
     複雑高度化した技術体系は失われ
     地表のほとんどは不毛の地と化したのである
     その産業文明は再建されることなく
     永いたそがれの時代を人類は生きることになった
    (アニメージュ‐コミックス版『風の谷のナウシカ』第1巻)

     巨大産業文明が崩壊してから1000年
     錆とセラミック片におおわれた荒れた大地に
     くさった海・・・腐海(ふかい)と呼ばれる有毒の瘴気を
     発する菌類の森がひろがり
     衰退した人間の生存をおびやかしていた
      (アニメ版『風の谷のナウシカ』冒頭)


   物語とりわけファンタジーを理解するうえで、そこで用いられている「ひゆ」を読み解いていくことは大きな意味を持つと言えるでしょう。「多すぎる火」、「巨神兵」、「火の七日間戦争」、「汚された土」、「腐海(そして、腐海の植物)」、「王蟲」、「森と水」、「腐海の底のチコの芽」等々。そして、こうした『ナウシカ』の舞台と時代背景を考えるとき、私たちは、宮崎駿氏の「時代」との格闘を強く感じ取ることが出来るでしょう。それは、「地球環境」と「戦争」の問題と要約できるでしょうが、これらは、21世紀の現在にあっても、われわれ人類がその解決に苦闘しているところの問題に他なりません。さらに、団塊の世代の一員としての私にとって、1941年生まれの宮崎氏は私よりもはるかに自覚的に戦後世界を生きたのだろうと思いつつも、彼が格闘した「時代」は、同時に私が生きてきた時代であったように感じるのです。さて、それはどのような時代であったのか。

    私の記憶がはっきりしてくるのは1955年ごろからですが―――私は、1954年の洞爺丸台風や第五福竜丸事件なども覚えています―――、私は、ラジオやテレビそして『少年朝日年鑑』などを通して、当時の大事件や時代の変化を感じ取っていたように思います。とりわけ、1960年以降は、日本のエネルギー構造の転換(炭鉱の閉山)や米ソ冷戦の激化、そして、ベトナム戦争(「ベトナム特需」?)なども身近に感じていました。そして、大学に入学した1968年以降は、公害などの環境問題、そして、ベトナム戦争を中心とする戦争と平和の問題は私の主要な関心の対象になっていったと思います。

    たとえば、地球環境問題について、1972年、私は、それがどれだけ意識的なものであったかは別にして、ローマクラブの『成長の限界』を読んでいます。また、同年、スウェーデンのストックホルムで開かれた国連人間環境会議において提唱された「かけがえのない地球」というスローガンが近代西欧に発する自然観に転換点を画するもののごとくマスコミによって報じられていたことも記憶しています。そして、こうした地球環境問題への関心を基礎付けてきたのは、やはり、レイチェル・カーソンの『沈黙の春―――生と死の妙薬』(1962年)であったろうと思います。そこに記されていた「生命は、私たちの理解を超える奇蹟である」と言う言葉にも示される地球上に存在する全ての『生命』に対するの優しいまなざし、(DDTや核物質のような)人工物質による自然の汚染と破壊への警告、(今最先端ともてはやされている)「生命工学(バイオテクノロジー)」に対するの批判的視座、そして、そこで展開されていた新鮮な感動すら与えた『生態学』は、日本における「近代」的自然観への反省と自然保護運動に大きな影響を与えたはずです。こうして、たとえそれが底の浅いものであったとしても、私自身の日常生活にすら、自然を破壊し汚染することによって得られる「豊かさ」への反省が徐々に浸透していったと言うことが出来るように思われるのです。
    勿論、戦後日本は、水俣病をはじめとする未曾有の公害に苦しみ、反公害闘争も激しく戦われました。私自身も、東京のあのすさまじいスモッグと大気汚染、そして、六価クロムの被害などを思い出します。そして、こうした公害被害者を中心とする人々の運動によってこそ、「公害先進国」と呼ばれたあの日本の状態が、相対的なものであれ、改善されてきたのだと私は確信しています。こうした中、日本における最初の公害反対闘争といわれた足尾鉱毒事件の田中正造への関心が高まり、また、いわゆる「西欧的」自然観に対する「日本的」自然観なるものへの関心も高まっていきました。柳田国男や南方熊楠への関心はその中の最も優れたものだったということができ、自然環境問題への関心の裾野を大きく広げていったと思われます。
    また、日本は広島・長崎の被爆を経験したのですが、戦後、正力松太郎らのイシュタブリッシュメントによって、「原子力の平和利用」を掛け声に、原発が「国策」として推進されていきました。こうした流れの中、手塚治虫の『鉄腕アトム』(そして、ウランちゃん)の熱心な読者であり視聴者でもあった私は、当時すでに指摘されていた原発事故への危惧感を抱きつつも、そうした流れを基本的に受容していたというのも事実でした。しかし、1979年のスリーマイル島、そして、1986年のチェルノブイリの原発事故を同時代人として経験することを通して、また、今は亡き高木仁三郎さんらの仕事を通して、私は原子力・原発に対する批判的な意識を獲得していったのです。当時、私はすでに中年の域に達していたのですが、今は亡き忌野清志朗作詞の『サマータイムブルース』(RCサクセション『カバーズ』所収)は、私が最も好んで聞く音楽の一つになっていました。

     
     ところで、1945年の第2次大戦の終結から1991年のソ連邦の解体に至る「戦後世界」の構図は、東西問題と(より根源的なものであったと考えられる)南北問題という二つの基本軸によって構成されていたといっていいでしょう。しかし、実際、われわれの中でより大きな位置を占めたのは、米ソ間の「冷戦」とその「代理戦争」(朝鮮戦争・ベトナム戦争などの「熱戦」)、そして、キューバ危機に見られたような米ソ間の全面核戦争の恐怖でした。ところで、戦後5年間、日本国憲法の下で〈非武装〉をつづけていた日本は、1950年の朝鮮戦争を契機に、アメリカ政府の『許可』によって、再軍備化が進められていきました。こうして、米ソの冷戦構造に組み込まれた「日米安保体制(米軍・自衛隊―専守防衛・軽武装)」と「日本国憲法(非戦・非武装)」との確執が構造化されたわけです。そして、60年安保、70年安保、そして、ベトナム反戦等々、多くの人々が反戦運動に立ち上がり、その中で苦悩・疲弊しつつも、改憲をもくろむ勢力を一定程度抑制してきたいうことが出来るでしょう。しかし、現在、私たちは、1989年のゴルバチョフの決断による実質的な冷戦構造の終焉、そして、1990年の湾岸戦争に始まる「地域紛争」の一層の激化という状況の中にあって、日本国憲法の「改正」(「自衛隊の海外派兵」・「戦争のできる国家」)に向かう強まりつつある動きに直面しているのです。要するに、私たちの、戦争に反対し平和を求める行動は必ずしも成功していたわけではないのです。そもそも、私たちが対峙してきた戦争の「本質」とはなんだったのでしょうか。それを真に乗り越えるには、どうすればよかったのでしょうか。私たちは、今、こうした問に対する答を真に我がものとしていかねばならない時点に立っているといってよいでしょう。
   さて、先にふれた1972年の国連人間環境会議において、後に暗殺されてしまうことになるスウェーデンのパルメ首相は、ベトナム戦争におけるアメリカの枯葉剤の使用などを批判しつつ、「戦争こそ最大の環境破壊である」と述べました。(最も大きな火力と生命に有害な物質を兵器として用いる)戦争と自然環境との関係をこれほど簡潔・明瞭に表現したものはないでしょう―――それゆえに、自然環境の保全を求めるものは戦争をも許してはならないのです。そして、こうした観点は、1980年代に至り、カール・セーガンらの「核の冬」の理論(1983年)―――NHKスペシャル『核戦争後の地球』(地球炎上・核の冬)(1984年)―――となって、私たちに再び突きつけられたのです。人類を20回も全滅させうると言われた核兵器の存在とその使用は、いかなる理由によっても許されるべきものではなく、人類と核兵器との共存はありえず、核兵器の廃絶は人類の宿願となったのです。しかし、問題は、それをどのように実現していくのかと言うことに他なりません。
   1945年11月に制定された『ユネスコ憲章』(前文・冒頭)には、「戦争は人の心の中で生まれるものだから、人の心の中で平和のとりでを築かなければならない」と言う、あまりにも有名な言葉があります。しかし、私たちは、この平和のとりでの構築に成功しているでしょうか。私たちの心の中には、戦争と核兵器が存在し、再生産されていないのでしょうか。宮崎氏は、それをラディカルに問うているように思われます。


   又、長話をしてしまいました。それでは、次回(『風の谷のナウシカ』によせて(3)―――非暴力直接行動と「多神教」的世界観)は、宮崎氏が、こうした諸問題にどのような視角から取り組み、どのような解決の方向性を示唆しているのか、私なりに考えてみたいと思います。

 
プロフィール

SARO MURIKI

Author:SARO MURIKI
おりこうさんのワンワンです。年齢は、2018年11月現在満12歳です。見てのとおりの柴ですが血統書はありません。性別はオスで、飼い主には、朝夕、45分ずつ2回の散歩を義務付けているVIP犬、正確に言うと、VIDです。文句あっか?!

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