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「成果主義」―――中村氏のノーベル賞受賞によせて

 仕事に対する意識は多様ですが
       ―――赤崎・天野氏との対比において



   物価が高い!実質賃金・可処分所得は確実に減少している!しかし、アベッチの太鼓持ちたちは、性懲りもなく、その背景を注視すれば矛盾の拡大を意味するものでしかない〈数値〉を、しかも,単なる部分的、経過的意味合いしか持たないの〈数値〉を、アホノミクスの「成果」として盛んに宣伝している。しかし,化けの皮はすぐ剝がれるものだ。このブログでもこれまで何度も指摘して来たように、アベノミクスなど、古い混ぜ物の酒を新しいレーベルで再発売したようなもので、その中身は、所詮、一般ピープルの負担にもとづく富裕層の優遇政策(所得移転ー格差拡大)以外のなにものでもないのだ。それにしても、短期間ではあれ、なぜあのような口先だけの御託が通用するのか、それだけは判らないといえる。



   ところで、私は、つくづく、日本の働く人々は大切にされていないと感じます。例えば、昨日見た疲れ顔のバスの運転手さんや非正規の若い郵便配達の人たちがそうです。私たちの日常生活を支えてくれている彼らの生活が人間らしく安心できるものとしてしっかり保証されているとは到底思えないのです。私にとって、醜聞あふれる政治家や浮き草的な株価の変動に一喜一憂している投企家などよりも、彼らの方が何倍も何倍も価値ある存在であるにもかかわらず、です。

   そんなことを感じていた時、赤崎・天野・中村の三氏が青色LEDでノーベル物理学賞を受賞したとのニュースに接しました。私は、田中耕一氏や増川敏英氏の「ファン」でしたから,これらの受賞者たちについても関心を持って新聞やテレビを見ていました。ところが、その中で感じたのは、中村氏と赤堀・天野両氏との間に感じた、仕事への感覚の違いでした。といいますのは、「はやりものをやるのではなく、やりたいことをやりなさい」という赤崎氏の言葉や「私のやったことはビギナーズラック。多くの人の努力があったからこそLEDはここまで来た」という天野氏の言葉は、田中氏や増川氏の時と同じように、何か私の心に響くものがあったのですが、中村氏のそれにはかなり強い違和感を感じてしまったのです。すなわち、中村氏の言葉は,日本と世界の〈働く人々〉を苦しめ、そして、小保方問題に象徴されるように科学の基本的発展・発達を歪めつつある、アメリカ発の「成果主義」のイデオロギーに聞こえてしまったのです。

     彼によれば、彼の追求の原動力は〈怒り〉だったという―――そうか、LEDの製品化はそうしてうまれたのか?! つまり、「日本では誰もが夢をかなえるチャンスを持っていない。差別も多い」のに対して、「米国では研究者が幅広い自由を持ち、努力をすれば何でも出来る。すべての人に夢をかなえるチャンスがある。そこが日本との一番の違いだ。」ということで、日本の若い人々には「米国は、やる気のある、全力で努力する人には最高の場所。若い人はぜひ最低5年は海外に出て、日本の将来を考えて」と語ったのです。しかし、彼が日本の科学的・教育的環境の中でキャリアを形成し、また、日本企業から3億円の研究開発費の提供を受けて〈量産化技術〉の開発に成功したことは再確認しておくべきことでしょう。そして、こうした日本での「成功」を引っさげて中村氏はアメリカの大学で職を得、さらにアメリカ国籍を取得したうえで、今や格差社会の象徴ともいわれるアメリカで、盛んに〈アメリカン・ドリーム〉を持ち上げたのでした。このように見ると、彼のLED技術の実用化への過程で抱いた「怒り」とは、とどのつまり、報奨金2万円とかといった「成果報酬」の問題かあるいは「能力主義」的な待遇の問題であって、結局、そうした〈成功〉を追い求める科学者間の「競争」を事後的に肯定するイデオロギーと結びつくものだったと言えるでしょう。

     勿論,人間の性格や考え方は多様であり、また、行動の動機やそれらへの評価も多様だと思います。ですから、(「有名になりたい」とか「金持ちになりたい」とかいった)〈アメリカン・ドリーム〉も決して全面的に否定されるべきではないと私も考えます―――勿論、それが強い〈副作用〉をもたらす場合には、反省や批判が必要であろうと思いますけれど―――。確かに、報奨金2万円はどうかとも思いますし、また,中村氏のような〈反発〉がなければ、日本企業はそのなかで悪戦苦闘している研究者や技術者の基本的な〈必要〉に対して適切な対応を取らないのかもしれません。しかし、私は、やはり,彼の基本的スタンスには違和感を感じたのです。

     例えば、中村氏〈個人〉が多額の報奨金を受け取って彼〈個人〉の夢を実現するよりは、自らが与えられたように、それを、必ずしも成功するとは限らない諸分野で、志を持って地道に研究を続けている科学者に提供した方がより社会の進歩に貢献するとは言えないのでしょうか?すなわち、彼の「成果主義」的な〈夢〉を実現するよりも、真理の探究や人類の福利の増進のために地道に研究に励んでいる科学者の研究と生活を保証することの方がはるかに大切かもしれないのです。

     もっとも科学者たちがこれまでに成し遂げてきた多くの偉大な発明や改良が、中村氏が主張するような動機によってしか実現されてこなかったというなら話は別でしょう。しかし、この点については、話を今回の受賞に限っても、中村氏と、より伝統的な「職人気質」に近い印象を与える赤崎・天野両氏との間には、明らかに大きな違いがあると言って良いのです。また、私の読書経験から言っても、徴税官の父の仕事を楽にするために計算機を考案したパスカルの例をはじめ、中村氏的なるものとは大きく異なる事例はたくさん存在するのです。遠山啓氏は、「人間は本来、真実なるもの、善なるもの、美しいものに対する強い欲求を持っています。それに従ってやられた仕事が、一番大きい独創的な仕事になると思います。」(「競争原理を超えて」、『遠山啓著作集3 序列主義と競争原理』)と述べ、ニュートンやレオナルド・ダ・ヴィンチの例を挙げています。また、アインシュタインは、科学上の諸問題、ことに数学的、哲学的な性質の諸問題をじっくり思索しようとする若者に〈灯台守〉のような仕事を提供できないだろうかと述べていますけれど(「科学と文明」、『晩年に想う』)、分野が異なるとはいえ、これも、中村氏的な発想とは大きく異なっていると言えるでしょう。

     ところで、欧米諸国と比較して、日本企業における経営者側と従業員側の力関係は、圧倒的に前者が強いと言われてきました。従業員は、儒教的な「奉職」意識の影響はもちろんのこと、いわゆる「日本的経営」(終身雇用制・年功序列型賃金・企業内組合)の中での「立身出世」主義や日本型「能力主義」のイデオロギーによって統合され、ひどい場合は「社畜」とまで表現されてきたのでした。こうしたあり方は、経済のグローバル化によって実質的に崩壊してきたのですが、それに伴って、より「近代的」すなわち「アメリカ的」な雇用関係に照応する〈意識〉を導入しようとする動きもあったのです。そして、こうした方向性を基本的に受容するならば、まさしく、中村氏的な考え方は高く評価しうると言えるかもしれません。しかし、私個人について言えば、中村氏的な「成果主義」のイデオロギーは、日本の〈普通の労働者〉をより一層孤立化させ、真に「自由」なものとすることにはならないだろうと考えるのです。なぜなら、そうしたイデオロギーは、(共同)社会における集団的労働の普遍的な性格と矛盾するところが多いからです。

     社会的労働のあり方については、また後日、「応能負担」と関連させながら論じたいと考えていますが、今回は、ほぼ15年程前、3人の日本の経営者から直接聞いた「成果主義」の問題点を紹介しておきたいと思います。彼ら〈経営者〉たちですら次のように話していたのです。すなわち、「成果主義」的人事考課とその賃金体系は、総賃金抑制政策の一環として実施されるもので、客観的な根拠を有しているわけではない。第1に、長期間にわたらざるを得ない仕事とその成果は1年単位で正しく評価などできない。第2に、仕事は色々な意味で集団的に行われるもので、それを個人的に評価することは難しい。第3に、それ故に、こうした「成果主義」的評価は従業員同士の協力関係を損なう可能性が高い。第4に、さらにそれが高ずれば、「犯罪」にまで発展する恐れがある、というものでした。こうした見方は現時点ではもうすでに常識的なものになっているといって良いのですが、森口尚史や小保方晴子問題を目撃した私にとって、その「先見性」には脱帽というしかないのです。

      時間がきました。最後に一言。中村氏が開発した(窒化ガリウムの)「ツーフロー方式」がその後どうなったのか、また、渡米後の彼の研究成果がどうなっているのかについて私は寡聞にしてよく知りませんが、今後も彼の「成果」には大いに期待したいと思っています。それにしても、私のヘッドライトは、(赤崎・天野系あるいは中村系)どちらのLEDなのでしょうか?


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非正規雇用と「負の連鎖」

 
 非正規雇用の若者が陥る「落とし穴」

   ―――労働力商品の売り手か社会的労働の担い手か



   昨日、車を満タンにしたところ、以前は5000円札一枚で済んだのに、6380円という結果だった。アベのインフレ政策と消費税増税によって、私たちの生活は確実に破壊されつつあると実感した。ところが、国民の「多数派」は、平和主義や原発政策は別であるが、アベノミクスと称される安倍内閣の経済政策を「支持」しているらしいのだ。勿論、国民の「多数派」にとって、それは〈実感〉によるというよりも、淡い「期待」に基づくといった方が正解なのだろう。しかし、なぜこんな現実と乖離した捉え方がまかり通ってしまうのだろう。私は、私たちの日常生活の隅々にまでこうした一種の〈転倒〉、一般ピープルにとってマイナスなるものがプラスに表象されてしまうことに対して愕然とすることがある。今回は、それらのうち、「若者と非正規雇用」に関連する事例に簡単に触れてみたいと思う。

   ところで、最近の若者の雇用情勢(非正規雇用の増加、等)や労働環境(ブラック企業、等)については、新聞やネット上で多くの情報を得ることができる。総務省ー統計局や厚生労働省の労働力調査、(独立行政法人)労働政策研究・研修機構の統計資料等はその最も基礎的なデータを提供するものなのだ。しかし、これらをもとに、どのように現状を評価し、対策を考えて行くかはもう一つの問題といってよい。ただ、日本における非正規雇用の増大(2014年3月でも役員を除く雇用者の37.8%が非正規となっている)、とりわけ、若年層における非正規雇用の増大(15歳から24歳では50.9%)及びそのことが生み出す様々な社会問題の深刻さは、余程目先の狭い利益によらない限り、無視することはできないであろう。例えば、少子高齢化の進展によってもたらされる諸問題が指摘されて久しいが、増大する非正規雇用の男性の〈非婚率〉が正規雇用者の2倍にもなっているのは、日本の雇用制度・人事制度の質そのものの変化に起因していることは明白なことだろう。実際、私自身もその具体例を身近に知ることができる一人なのだが、彼らが良き配偶者と巡り会い、長期的な・安定した人生設計を描くことは非常に困難であろうと感じられる。さらに、こうしたことは、恋人と過ごす時間すら持てないような過密な長時間労働を強いられる若い正社員たちにもいえることであり、さらに、家庭を持ったとしても、一緒に夕食もとれない状況が蔓延している日本社会に、そもそも、「よりよき未来」があろうはずはないとさえ考えられるのだ。こうして、彼ら若者が老年に達したときの社会の在り方を想像してみると(「騎馬戦型」から「肩車型」へ)、我々の世代が目前に進行している事態に有効に対処しえないことは、放射性廃棄物の問題と同様、後続の世代に対するの重大な背信行為といってよいのかもしれないのである。

   それでは、どうして若者たちの生活を不安定化させるこうした歪みが生まれたのであろうか。それは、様々な水準の構造的そして制度的諸問題が複合的に作用した結果なのだろうが、中期的な観点からいえば、戦後日本経済の国際競争力を支えたいわゆる「日本的経営」を「新時代」に「適応」させようとした、財界ー政府の人事政策の転換にあったことはいうまでもないだろう。つまり、彼らは、「バブル経済崩壊」の責任を問われても当然といえる立場にあったのだが、そのことにはほおかむりしつつ、企業の利潤回復・利潤追求を、最もお手軽な〈総賃金抑制〉という労働者層に負担を押し付けるやり方で実現しようとしたのだ。具体的には、終身雇用制・年功序列型賃金に対する、雇用の柔軟化と能力(成果)主義型賃金制度の導入である。後者の問題については稿を改めて論じたいと思うが、今回は、極めて鮮烈に記憶している話と最近の見聞を中心に、前者について書き記しておきたい。

   さて、日経連は、1995年、『新時代の「日本的経営」――挑戦すべき方向とその具体策』という報告書で、雇用形態を、(1)長期蓄積能力活用型・(2)高度専門能力開発型・(3)雇用柔軟型の3つに分類した。いうまでもなく、(1)とは、将来の役員層を担うようなエリート層を終身雇用型で雇用するものであり、(2)は、日進月歩の研究・技術者の層をその育成や雇用をアウト・ソーシングする、派遣型を含む〈有期〉雇用の形態であり―――例えば、小保方氏もこれに該当するだろう―――、(3)は、1年契約など、短期で雇用調整が容易ないわゆるアルバイトやパート労働の形態というわけだ。ところで、私の記憶に強烈に残っているのは、この方針が出されたあと、ある政府系の研究員から聞いた話である。その話とは、要するに、求職者や被雇用者側がいくら頑張って良き働き手となったとしても、一定の割合は必ず非正規雇用にならざるをえないということなのだ。なぜなら、雇用者側ー企業側が、被雇用者の一定割合(1/4〜1/3ほど)を非正規社員とすることに決定したからだ。こうして、生涯賃金がすでに正規雇用者の1/4といわれた、一定割合の非正規雇用の存在が、若者たちの努力や客観的能力とは別次元で、構造化されたのであった。勿論、その目標が「労働力の効率的な活用」こと「総人件費抑制」(→利潤増大)にあったことは言うまでもないことなのだ。そして、当時の「口入れ屋」や「太鼓持ち」たちは、こうした方向性を、正規雇用の『社畜』に対する〈自由〉な労働者=フリーターの増大と美化したり、「従業員のニーズに即して多様な選択肢を用意」するとか「従業員の個性と創造的能力を引き出す」ためとか説明して、大宣伝に努めたのであった。

    あれから、20年の年月が流れた。そして、日本の雇用情勢は先に触れたようにその「非正規化」の流れを一層強めている。ところで、「労働時間の短縮」を推進しなければならないと考えている私自身は、パートタイム労働や短時間勤務それ自体を否定しているのでは全くない。逆に、そうした働き方が、労働者の諸権利が守られた上で、保証されるべきだと考える立場に私は立っている。つまり、問題なのは、現在の派遣・アルバイト・パート・臨時的任用等の実際の働き方自体の問題性であり、とりわけ、以前であれば当然正規採用とされていい、正規採用を望む約25%の非正規雇労働者をどうするのかということなのだ。彼らを〈処遇〉や〈権利〉における〈格差〉や〈差別〉の構造のなかに放置しておくことは「社会正義」に反することであり、日本社会の未来を危うくすることだと認識するのかどうかという問題なのだ。しかるに、こうした現状に対する当事者自身の認識や姿勢は、必ずしも「明確」なものとはいえないのである。


    過日、私は、アルバイト等、非正規労働に従事する若者たちに、日本の雇用制度について質問してみた。すなわち、いわゆる年功序列型賃金に基づく「正社員」を中心とした〈安定〉した「終身雇用制」的な制度が望ましいのか、あるいは、能力に基づく成果主義的賃金制度やパートタイマーや派遣等多様な労働力を積極的に活用する制度が望ましいのか、である。そして、若者たちの反応は、おおまか、後者への「支持」が優勢という結果となった。この結果はある程度想定内のものともいえた。というのは、経団連主導の大企業にとって、いわゆる「日本的経営」などはすでに過去のものであり、若者たちが「適応」すべき〈現実〉とは明らかに後者となっているからである。また、20年前の成果主義賃金導入の際にも見られた、相対的に〈劣位〉な者の相対的に〈優位〉な者に対する「批判的」な感覚(反感?)―――〈資本〉の利益を極大化するための「規制緩和」を、いわゆる「既得権益」層批判を通じて実現しようとした際に依拠しようした感覚―――のさらなる拡大も考えられたためだ。しかし、かれらの意見をじっくり聞いてみると、彼らの置かれている本当に厳しい現実が見えて来たといっていい。

   そのなかには「君は経営者なの?」と聞いてみたくなるような意見もあったが、その多くは、「能力」の高い限られた「正社員」だけにではなく、様々な「事情」を抱える〈多様な〉「能力」の人々に雇用の門戸を広げてほしいという切なる願いだったのだ。つまり、失業を含めた厳しい雇用情勢(就職難)を前に、〈働きたい〉と思っている人々が多数いるのだから、例え正社員でなくても、労働条件が悪くても、失業するよりもましなのだから、〈パートであろうとアルバイトであろうと派遣であろうと積極的に雇ってほしい〉、ということだったのである。つまり、その多くは、「従業員のニーズに即して多様な選択肢を用意」し、「従業員の個性と創造的能力を引き出す」とかいった、非正規労働を推進した雇用者側の「論理」に包み込まれてしまっているものだったといってよかったのである。そして、雇用者側によって作り出された〈格差〉や〈差別〉の構造に対するこうした〈直接的〉な反応が、「既得権益層」としての正社員の数をさらに減少させ、また、彼ら自身の労働条件をもさらに悪化させていくという悲劇的な「負の連鎖」を生み出してきたと考えざるを得なかったのである。

   ところで、私には、こうした彼らの反応や意見の基底に、直接的には「正社員」になることすら諦めてしまっているような感覚、より根底的には、自らの〈社会的労働〉に対する〈自信〉の欠如のようなものが感じられたといってよい。そして、こうした「負の連鎖」を打ち破り、日本国憲法第27条の「勤労の権利及び義務」を現実のものにしていくためには、〈働く〉ということが私たち一般ピープルにとって何を意味するのかを、〈私たち自身の言葉で〉再認識していく必要があるのではないか感じられたのである。そのことは、また、労働力の商品化や新自由主義的な粗野な「競争原理」や「能力主義」を、事実に即していかに批判していくのかという作業と重なるだろう。これらのことについて、次回以降、もう少し突っ込んで考えていきたいと思う。


   安倍内閣は、またしても、「 国家戦略特区」や「残業代ゼロ」(労働時間規制適用免除)などといった政策を画策している。しかし、アベノミクスの第3の矢(成長戦略)など、結局、巨大な多国籍資本=大企業のボッタクリ的利潤追求のための「規制緩和」路線の繰り返しに過ぎないのだ。竹中などは、相変わらず、「既得権益層」の抵抗などと吹聴しまくっているが、彼らが追求しているのは、所詮、原発再稼働(!)や武器輸出推進(!)と同様、まさしく、巨大な「既得権益層」(=イスタブリッシュメント)の利益そのものに他ならないのだ。「規制緩和」自体は、一つ一つ事実に即して判断していかなければならないが、その多くは一般ピープル多数派の利益に反するものなのである。一般ピープル多数派は、もうそろそろ、こうした仕懸けに気付かなければならない。

アホノミクスに対峙する「一般ピープル」の経済論(1)

 インフレと経済成長論
        ――― 一般ピープルにとってなにかいいことあるのかな?

    今回の参院選の争点は衆参の「ねじれ解消」→「決められる政治」の実現とか言われているようですが、勿論、その前に、安倍政権の〈政治〉・〈経済〉そして〈外交〉政策そのものの是非が問われなければならないことはいうまでもありません。

    国内政治に関していえば、安倍〈デジャアベ〉政権は、基本的人権・国民主権・平和主義という日本国憲法の原理・根幹を否定せんとする、極右的姿勢を鮮明にしています。基本的人権に関しては、自由権・平等権・社会権などに関わる個別的な案件はもちろんのこと、第97条(【基本的人権の本質】この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、おかすことの出来ない永久の権利として信託されたものである。)の全面削除という信じ難いその方向性のなかに、天賦人権論の〈本質〉そのものを否定しようとする安倍政権の本質が現れていると言ってよいでしょう。また、国民主権については、天皇の元首化をはじめ、要するに、一人一人の国民の〈主権者〉としての意識や権限を、明治憲法的な「天皇」観や〈国家主義的〉な「公共性」の観念によって統制しようとする姿勢を露にしています。そして、平和主義に対しては、9条を変え、国防軍と呼ばれる軍隊を組織し、若者たちを海外に派兵し、アメリカなどと協力して本格的な戦闘行為を行えるようにと目論んでいるのです。これらについては、後日、一般ピープルの視点から再度論評する予定ですが、今回のブログでは、マスコミによって相対的に多数の国民が評価ないし期待しているとされる「アベノミクス」について考えておきたいと思います。

     ところで、私は、野田政権の末期、次期政権を窺っていた安倍とそのブレーンがほのめかしていた脱デフレ策に注目していましたが、安倍政権の成立後の2012年12月26日、ツイッターで次のようにつぶやいています。

○ 「アベノミクス」(?)とか言う言葉が使われているようだ。まあ、私から言わせれば、政官財の癒着によって国民から抽出した金を身内にばら撒く古い「自民党政治」と、格差を生み出した新自由主義的な「小泉政治」とのミックスということだ。正確にいうならば、すでに破綻した、そして、今後も失敗を約束されている、「アホノミクス」と呼ぶべきものだ。

     人間考えることは同じで、今流行の「アホノミクス」という言葉を私自身も考えついていたというわけです。私のこうした評価は三本目の矢たる「成長戦略」が示された後の現時点においても基本的に変るところはありません。しかし、この6ヶ月間、マスコミは、アベノミクスへの期待と「成果」を盛んに報じてきたのでした。最初は、株高と円安でした。しかし、株高によって一般ピープルの生活はどうなったというのでしょうか?! また、円安によって、一般ピープルの生活はどうなったというのでしょう?! つまり、一般ピープルの負担に基づかざるを得ない金融緩和と財政出動と言う〈形態〉的操作によって、〈誰〉が利益を得たというのでしょうか。各人は、胸に手を当てて、じっくり考えてみるべきです。確かに自動車をはじめとする一部の輸出関連企業の業績は上昇したのでしょうが、その反面、石油をはじめとする輸入関連商品の価格の高騰によって、一般ピープルの生活は窮地に立たされつつあるのです。

     また、最近、アベッチは、〈雇用増大〉や〈景気上昇〉に関連する具体的な数字を挙げながら、景気は「良くなっている、良くなっている」と、我々を言いくるめようとしています。しかし、このアベッチの言葉に真実はあるのでしょうか。勿論、最近のある調査では、逆に、80%を超える人々がアベッチの主張する〈景気上昇〉に対して「実感がない」と答えているのです(「実感がある」は12.6%)。これはどうしたことなのでしょうか。

     まず、数字というものはそのまま信じてはいけないということなのですが、こうした数字によって示された〈雇用増大〉について、共産党の志位委員長は次のように述べています。
  「フジテレビの党首討論会。安倍さんは、雇用を昨年比で60万増やしたといつも自慢します。私は、増えたのは非正規雇用で116万人。正社員は47万減っていると指摘しました。正社員から非正規社員の置き換えがおこっているのが現実です。 人間の使い捨てをもっとひどくするのがアベノミクスです。」 (ツイッターより)   
     私も、時々、総務省統計局のHP(http://www.stat.go.jp/index.htm)を覗きますが、たとえば、その「労働力調査(基本集計) 平成25年(2013年)5月分 (2013年6月28日公表)」の一部だけを見れば、アベッチの主張を裏付ける数字を発見できます。しかし、雇用形態の〈推移〉をより詳細に見ると(つまり、5月速報値と「詳細集計・年齢階級・雇用形態別雇用者数ー全国」のH.24年4~6月における非正規労働者数を比較すると、1891-1775=116万となります)、志位委員長のような指摘が可能となるのです。どちらにしても、正規労働者が47万人減少し、生涯賃金がほぼ正規労働者の4分の1と言われている非正規労働者が激増しているわけですから、我々一般ピープルが雇用情勢に明るい展望を感じるわけがないのです。
     また、「日銀短観」(6月)―――私自身は、イスタブリッシュメントの仲間内による参院選向けプロパガンダでしかないと思っているのですが―――でも、数字上は、大企業を中心とする業績の上昇傾向を見ることが出来ます。しかし、そもそも、数値で示された経済成長率に一喜一憂するなど、イスタブリッシュメントの「ヘゲモニー」に屈するだけの話で、経済学の常識から言っても、ほとんど、そのまま信じるに足りないものなのです。たとえば、実体的根拠なしに、通貨供給量の増加(量的緩和)によってインフレが引き起こされた場合、取引量に変化がなければ、それだけで、数値上、経済成長率は上がるのです。(→アベノミクスの「成果」?)一般ピープルにとって、それは一体何を意味するというのでしょうか。(→たとえば、一般ピープルの乏しい所得と資産の実質的目減りです!)
    さらに、分配の問題があります(分配の「公平性」については後日論ずる予定です)。どこの国にも、富裕層こそが経済成長を牽引すると主張しつつ、人為的に作り出された貧困や経済的格差を正当化する輩が存在するものですが、この点こそ、一般ピープルの生活の質を決定する大きな要因となるのです。最近話題の(200兆円を超すと言われる)「企業の内部留保」の問題もこうした分配の問題に関連するのです。また、人口の1%が全体の40%の富を支配するアメリカとか、人口の0.02%が全体の70%の富を支配する中国とかが話題となっていますが、こうした国における数値上の〈経済成長〉が一般ピープルにとって何を意味するのかは、具体的に、じっくり検証すべきことです。つまり、単純な数字上の経済成長など、一般ピープルの生活にとって直接〈良きこと〉などではないのです。
    さらに、こうした経済成長優先の経済政策が、これまで、いかに日本人の生活を悲惨で、貧しいものにしたかも重大な点です。安倍自民党は、「ブラック企業」として勇名を馳せているワタミの元会長・渡邉美樹を党公認としていますが、安倍自民党の経済政策の「理念型」の一つがワタミにあることは忘れてはならないことです。ツイッターで見つけた、渡邉美樹の「名言」を一つ紹介しておきます。
    「なぜリストラされるのか。それは能力がないから、努力が足りないからです。つまり、「テレビを観ている暇があったら勉強しよう」ということです。勉強すれば、絶対にリストラなんか受けません。リストラされるのは、リストラされる側の責任なのです。」
   
     過労死、ストレス、パワハラ・・・、〈経済成長〉を求めて死ぬまで働かされることを「理念型」とする日本の労働現場の悲惨さを、私たちは再度振り返り見る必要があります。経済活動が、一般ピープルの〈経済的福利〉の増進と切り離された時、それは「虚偽」の世界へと転落するのです。また、経済活動が(人間もその中の一部に他ならない)自然環境を破壊し、自然との調和的関係から外れた時、それは又その本来的な意義を失うのです。経済成長は、こうした視角に基づいて規制・調整されなければなりません。こういう視点に立ったとき、アベッチの原発に対する姿勢などは、既得権益の擁護にのみ走った、全く「未来」のないものと見えます。総じて、彼の「成長戦略」が空虚なものに感じられるのは、要するに、一般ピープルの人生を幸せなものにするとは考えられないからです。(勿論、彼らが統括する秩序の中における1%の支配層として、既得権益と支配権をわがもの顔に行使することに「幸せ」を感じるというのであれば別でしょうが。)

    実は、私自身は、ケインズ主義的政策(ケインズ主義的福祉国家)への「一定」の評価の上に立っている―――すなわち、本源的・実質的な経済的「合理性」に基づいて、資本主義的な市場経済の「矛盾」(あるいは「市場の失敗」)に対応するためには、たとえその結果として国家の「財政危機」がもたらされるとしても、政府による蓄積と正統化機能(あるいは、「資源配分・所得再分配・景気調整機能」)は必然化せざるを得ないと考える―――のですが、安倍政権が目指しているものはと言えば、真っ当なケインズ主義的な「公共投資」政策とは到底言えないものであり、また、その「金融緩和」策は、とても実体経済の回復につながる「呼び水」的な可能性を孕むものですらなく、ただただ、一般ピープルの負担に基づき、一時的に、一部の大企業と資産家のビジネスチャンスを生み出すだけのものとしかいえないと思うのです。
     同じ金融緩和策と言っても、あのバブル期においては、日本の実体経済は非常に堅調だったのであり、たとえば、対米黒字は未曾有の水準にあったのです。すなわち、当時の政府・日銀及び国内金融資本の共同謀議たる金融緩和政策は、実質的な好景気を背景に行われたのでした―――勿論、その欲の皮の突っ張ったマネーゲームによって、本来ならば、国民生活の質的な向上を実現しうるはずだった国民の勤労によって生み出された果実は、泡の如く吹き飛ばされてしまったのですが。それと比較すると、現在の状況は全く異なっています。すなわち、例の「異次元」の金融緩和ーインフレ政策は、実体経済の裏付けなど全くない、究極のインフレ政策であり、ただただ、名目上の経済成長を生み出すものにすぎないのです―――それは、一見、不況脱出を目指すポリシーミックスの一変種の様にも見えるのですが、元々、「その副作用を心配する」などと言って済む水準の代物ではないのです。そして、その根っからのマネーゲーム性によって、かろうじて帳簿上は存在し続けているわが〈一般ピープル〉の資産・資金さえも、マジで(!)、一部の金融資本あるいは国外の金融資本に移転させられてしまうことになる可能性が大であると考えられるのです。

     またまた、長くなってしまいました。もう止めます。なにしろ、我々一般ピープルは、自分の生活に即しつつ、自分の頭で「アホノミクス」を評価しなければならないのだと思います。御用エコノミストの甘言に乗せられてはいけません。竹中! 気持ち悪いぞ! まだ言うか! 

 ――― サーバントさんは、僕が地面の近くで生活しているからって心配しているんだけれど、僕の鼻でも放射能は分かんないんだよね。関東地方も汚されているんだって

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アルカイダとグローバリズム

        「市場原理主義」への批判的視点を忘れてはいけない


    我〈しもべ〉たる飼い主は、日曜日の午後、なんと僕を置き去りにして、ジョギングに出かけてしまいました。なにやら、心身を鍛えておかなければならないんだそうで、強風の中、片道6キロ―往復12キロ走ってきたんだって。何があったんだろうね


    アルジェリアにおけるいわゆる「人質事件」がテレビや新聞で報道されています。こうした微妙な国際事件があったときには、私は、出来るだけ、外国の新聞にも目を通すようにしてきました。とりわけ、私が信頼しているのは、WEB上の『Guardian Unlimited』(イギリス)です。非常にサックリとしたその報道姿勢と、日本の報道機関では得られなかった情報や日本の報道機関が意図的に触れないようなことも書かれていることが多いからです。たとえば、今回の事件でいえば、北米訛りのあるテロリストによる日本人殺害の様子や、また、日本のテレビや新聞では今回ほとんどふれられていない、麻生大臣の高齢者医療に対する発言(このことについては、後日、取り上げたいと思っています)なども大々的に報道されているのです。

    ところで、多くの犠牲者を出した今回の悲惨な事件に対して私が考えたことは、おそらく、皆さんもそうだろうと思いますが、「なぜこのような事件が起きたのか」、そして、「どうしたらこのような事件が再び起きないようにすることが出来るのか」、ということでした。そして、それらに対する日本のマスコミの報道はどのようなものであったのでしょうか。また、今回の事件に対する政府のこれまでの対応とこれからの対策はどのようなものだったのでしょうか。満足のいく答えは提供されたのでしょうか?私にはそうは思えないのです。

    私の受けた印象から言えば、マスコミの基本的論調は(勿論、全てと言うわけではありません!が)「卑劣な人質事件」ということであり、政府の対策は、結局、海外での自衛隊による武器使用の拡大ということだったと思われます。これで、こうした「テロ事件」を防ぎ、根絶できるのでしょうか?

    つまり、私は、やはり、考えてしまうのです。彼ら「テロリスト」あるいは「ジハード(聖戦)主義者」は、9・11や「自爆」攻撃に端的に見られるように、自らの生命をかけて戦っているのです。なぜそんなことが出来るのでしょうか。彼らは、社会的病質者なのでしょうか、狂人なのでしょうか。その答えは、神風特攻隊の青年たちがそうであったように(アルカイダのゲリラ戦学校は「カミカゼ・キャンプ」と呼ばれていたらしい。ライト『倒壊する巨塔』参照)、おそらく、ノーです。彼らは、真面目な、信心深い青年たちであった可能性が高いのではないでしょうか。そんな彼らが、あのような、一種捨て身の命を賭けた戦いを行う理由はなんなのでしょうか。そして、愚直な私の脳で考えるに、その理由は、強制された場合を除いて、2,3しかないのではないでしょうか。すなわち、(1)想像を絶するような屈辱感、(2)家族や友人・知人を守るため、あるいは、彼らの恨みを晴らすため、です。そして、そうしたことが彼らに起こったとすれば、それが何によってもたらされたかはほぼ想像がつくのです。すなわち、「新帝国主義」とも呼ばれているらしい、「市場原理主義」(グローバリズム)によって正当化された、中東・北アフリカ地域に対する経済的「進出」とそれによってもたらされた生活破壊や貧困、その権益擁護のための、無差別の空爆や地上戦を含む軍事的介入、そして、それに抵抗する勢力に対する徹底した弾圧や拷問(ユーイン・キャメロンの拷問方法などについてはN・クライン『ショック・ドクトリン』を参照)などです。 つまり、そうした経験の中で、死んでもいい、武器を取っても晴らしたいと思う恨みがつくられてきたとしか考えられないのではないでしょうか。そして、こうした認識が正しいのなら、その原因を除去するには、たとえば国際貿易の構造についていうならば、中東・北アフリカ諸国の(一部権力者だけではなく)一般の人々が納得し受け入れることができるような適正な関係を形成する以外に根本的な解決方法はないだろうと思うのです。

   しかし、現在、これらの地域には、私には想像もつかないような、複雑で危険な武力的な対立関係があるようです。例えば、現在のアルジェリア政府は、選挙で選ばれた政権をクーデターで倒し、その後、過酷な弾圧を繰り返してきた政権らしい。そして、今回の事件では、この独裁政権に守られて仕事をしてきた日本人が、テロリスト掃討を第一義と考えるそのアルジェリア政府軍自体の攻撃によって殺害された可能性も高いということなのです。そして、フランス政府も、こうした地域における自国の権益をイスラム過激派から守るために、そうしたアルジェリア軍の行動を支持さえしているようです。(「テロリストとは交渉も、取引もしない」とするアメリカのクリントンなども、基本的に同じ考えだろう。)すなわち、(平和憲法を持った)日本人のこれらの地域での経済活動に対する評価は高かったといわれていましたが、その貯金もあの湾岸・イラク戦争ですでに使い果たし、そこで働く日本人は、イスラム過激派からはアルジェリア政府に協力する敵として攻撃され、さらに、そのアルジェリア政府によっても、フランスその他の政府によっても、自国の利害のために、保護されることはなかったということなのです。

   こうして、一般ピープルたる私は自問することになります。たとえば、息子が会社からアルジェリアでアルジェリア軍によって守られながらする仕事に行けといわれたら、彼はどうすればいいのだろうと。また、息子がそうした企業で働く人々を守るため、〈武器を携え〉、命がけの「ジハード主義者」と戦うためにアルジェリアへ行けと言われたらどうすればいいのだろうと。

   おそらく、私なら言うのではないでしょうか。他の道があるだろうと。



    
プロフィール

SARO MURIKI

Author:SARO MURIKI
おりこうさんのワンワンです。年齢は、2018年11月現在満12歳です。見てのとおりの柴ですが血統書はありません。性別はオスで、飼い主には、朝夕、45分ずつ2回の散歩を義務付けているVIP犬、正確に言うと、VIDです。文句あっか?!

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