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「沖縄意見広告運動」集会に参加して――6月を振り返って(4)

沖縄の心こそ反戦・平和の礎
 
   うりずんの 雨は血の雨 涙雨
   礎(いしじ)の魂 呼び起こす雨


          詠み人 小嶺基子
    (ジャン・ユンカ−マン監督作品
         『沖縄 うりずんの雨』より)


   3年前の沖縄旅行の際に「オスプレイ 反対してよ!」と声をかけてくれた公設市場のおばさんへの義理立てもあって(?!)、その後の私は、できる得る限り、沖縄に関する報道に目を通し、また、沖縄の基地反対運動にも注目してきました。そして、今、皆さんにも呼びかけたい「辺野古基金」への賛同もそうした気持ちの表れでした。

   ところで、6月23日の沖縄・「慰霊の日」に先立つ6月21日、私は東京の日本教育会館で行われた「第六期沖縄意見広告運動 関東報告集会」に参加してきました。集会は、元国立市長・上原公子さんの司会で始まり、第1部では、元宜野湾市長・伊波洋一さんとヘリ基地反対協議会共同代表・安次富浩さんの報告、第2部では、オーストラリア国立大学名誉教授・ガバン・マコーマックさんの講演「安倍政権と沖縄、そしてアジア」、そして、第3部では、世話人や各賛同団体からの連帯の挨拶がありました。若々しい上原さんには「アジ」られ(!)、ツイッターでおなじみの伊波さんの地道な仕事ぶりには頭が下がり、辺野古で座り込みを続ける活動家の理念型のような安次富さんからは挫けない〈元気と勇気〉をもらいました。また、『空虚な楽園―――戦後日本の再検討』や『転換期の日本へ』などを読んで知っていたガバン・マコーマックさんの日本語による講演では、彼の学者としての、人間としての誠実さを強く印象付けられました。そして、各賛同団体からの数多くの連帯の挨拶を聞いて、この運動の広がりと根の深さを確信する事ができたのでした。

   さて、こうした沖縄との関わりの中で私がつくづく感じるのは、「恒久平和の発信地」(翁長知事)たる沖縄の「こころ」によって、平和を求めてはきたけれど、直接戦争を経験したことのない私自身が支えられ励まされているといった感覚なのです。それは戦争体験者や厳しい現実の中で運動を続けている人々の〈表情〉そのものから与えられるもので、たとえば、映画『沖縄 うりずんの雨』に登場する人々の話と〈表情〉から―――最近のTBS・報道特集「台湾人の元慰安婦」を見た時にも感じたことですが―――、彼らが体験したまごうことなきその〈事実〉とそのことによって奪われ凌辱された一人一人の命と尊厳の〈重み〉を看取する事ができるということなのです。それらは、集団的自衛権容認や安保法制、普天間基地の辺野古への移設などに関連して繰り返された、誠実さのひとかけらも感じさせない安倍の嘘と詭弁と(そんな子供騙しが通用するとでも思っている)無能さ、そして、繰り返す事もはばかられるような、沖縄に対して投げつけられた無知で・差別的で・破廉恥な(安倍の大切なお友達)百田尚樹のデマ―――「冗談だった」で済まそうとするところにまた彼の品格のレベルが表れている!―――等々とは対極をなすものなのです。私は、私たち自身の命と尊厳を守るために、沖縄の心から多くのことを学ぶことができると感じるのです。

   最近の動きを見れば、詐欺的な手法によって、沖縄の心そして日本国憲法の諸原理(平和主義・国民主権・基本的人権)の破壊を目論む安倍政権のまさしく〈憲法違反〉の策謀は、国民多数にとっていよいよ明白となり、はっきりと拒否されつつあるといえます。とりわけ、若い人々の間に生まれている新しい動きは共感するところ大であり、強く期待せざるを得ません。そして、安倍が、世論調査にも明示されたこうした国民多数の意見を無視し、国の根本原理を恣意的に覆そうとするのであれば、彼らはまさしく「民主主義」とは無縁な独裁者かファシストであることを自ら証明することとなるでしょう。今週は、〈憲法違反〉の安保法制を〈強行採決〉しようとする動きを止める事ができるかどうかの山場と言われています。私も、若者たちと一緒に叫ばなければなりません。

   勝手に決めるな!
   主権者なめるな!
   戦争法案 絶対反対!

   
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衆院選2014―――沖縄知事選に続いて

 沖縄県民の選択と決意に応えたい
  ―――次は対米〈追従〉政権の打倒です
 



   ※ 現在、日本の「イスタブリッシュメント」(=支配層)の「劣化」は極まっているように思われます。その目に余る〈対米追従〉ぶりは、〈面従腹背〉ですらなく、まさしく、自分たちの階層的利害を恥や外聞もなく追い求めるところに根を持ち、そして、その苦悩する同胞や国土の荒廃に対する〈無関心〉ぶりは、一国のリーダーとしてのあるべき姿とは程遠いところにあると言っていいと思います。それは、福島で、沖縄で、そして、私たち「一般ピープル」の生活の隅々で感じられるところです。
          
     ところで、11月16日は静かな日曜日でした。そして、二度目の散歩を済ませて歴史の本を読んでいた午後8時ごろ、ニュース速報が流れました。沖縄県知事選で「翁長さん当選確実」の報でした。正直、胸に迫るものがありました。沖縄県民は、あの威圧的な米軍基地と米国にただひたすら追従する日本政府の金と脅しの政策を跳ね返したのです。2年前の沖縄旅行(http://saromuriki.blog.fc2.com/blog-entry-50.html)の折、公設市場の女性に「オスプレイ 反対してよ!」と言われ「勿論、反対するよ」と答えて以来、私は沖縄について、そして、安保条約と米軍基地についてに考え続けてきましたが、私がほとんど何もできないうちに、沖縄の人々は自らそのあるべき姿を私に示してくれたように感じるのです。

     沖縄知事選の前に、私は、新原昭治『日米「秘密」外交と人民の戦い―――米解禁文書から見る安保体制の裏側』や末浪靖司『9条「解釈改憲」から密約まで 対米従属の正体―――米公文書館からの報告』そして前泊博盛『本当は憲法より大切な日米地位協定入門』や矢部宏治『日本はなぜ「基地」と「原発」をやめられないのか』などを読んでいましたが、その時に感じたのは、沖縄県民(そして日本国民)に押し付けられてきた本当に〈不条理〉な「既成事実」に対する〈人間〉としての怒りでした。国体護持のために「捨て石」とされた沖縄戦、サンフランシスコ講和条約の締結と共に基地の島としてアメリカに差し出された「屈辱の日」、「本土復帰」の際の「密約」等々、こうした歴史を通して沖縄の同胞が受けてきた苦難は、もちろん、私の想像に余りあるものでしょう。しかし、それを我がものとして考え抜いていかない限り、私たち本土の人間の「対米従属」ー米軍基地からの〈解放〉もないというべきでしょう。

   ところで、翁長さんは、国土面積の0・6%の沖縄に全国の74%の米軍専用施設が集中する現状に「日本国民全体で安全保障を考え、負担をしてもらいたい。0・6%の沖縄にこんなに押しつけてはいけませんと申し上げたい」と言いました。周知のように、翁長さんは沖縄〈保守〉の重鎮だった人物です。ということは、日米安保条約とその下における米軍基地の存在を認めていたということを意味します。その彼が、今、「オール沖縄」の声として、普天間基地移転および辺野古移設反対を訴えていることの意味はとてつもなく大きいと言わざるを得ないでしょう。つまり、この声は、たとえ日米安保条約と米軍基地の存在を認めたとしても、現在の「不公平」な現状にはもう我慢がならないということを意味するのです。この感覚は、たとえ一時的に抑えることができるとしても、決して消し去ることはできない性質のものでしょう。さすれば、日米軍事同盟を不可欠のものとし米国との〈集団的自衛権〉の容認から日本を戦争のできる国家に変容させようとしている安倍首相が、彼の地元山口県に普天間基地の全機能を移転するという選択肢もあってしかるべきでしょう。しかし、それはどのような問題を引き起こすのでしょうか。実は、このように、翁長さんは日米安保体制と米軍基地の問題を国民一人一人が考えていくことを求ていると言って良いのです。そして、それは、『日米安保条約』・『日米地位協定』そして〈統治エリート〉たちによって結ばれた数々の〈密約〉から形作られた〈既成事実〉ーーー騒音と犯罪と屈辱等々を、当該の地域住民そして日本国民が受け入れるのか否かという選択にならざるを得ないものなのです。

   今詳しくは述べませんが、私は、冷戦終結後の日米軍事同盟の強化を国民に向けて正当化してきた、北朝鮮や中国の〈軍事〉的脅威が具体的にどのようなものであるのかについては、冷静に判断する必要があると考えています。たとえば、北のミサイルや不審船、中国との尖閣や赤珊瑚密漁問題などがそうで、それが意味することやそれに対する適切な対処方法は、これまでそうした方向に誘導されてきた、単純な軍備増強によって対処すべきものではない考えています。すなわち、それらは、ただひたすら、米日軍産複合体の利益=〈軍備〉増強を推進するためのプロパガンダに利用されてきたものと言えると思います。また、私は、現行の日米安保条約を廃棄し、日本から米軍基地を撤退させ、日本国憲法9条を〈実現〉すること、すなわち、国連の「集団安全保障」の体制の中における「非武装」=非軍備(常備軍を持たない)を選択する可能性も〈あり〉だと考えています。なぜなら、現在の国際関係の中で世界第3位の経済大国日本を軍事的に侵略・支配することがありうるかどうかを考えると、その可能性は極めて少ないであろうと思われるのです―――それは世界を揺るがす最大級の事件です。また、万が一そのような事態が起ったとしても、それに対して日本国民がとるだろう様々なかたちでの国民的抵抗、そして、国連を中心とする国際的な支援と制裁を信じるからです。このハードルを越えることは、その国家自体の終焉すらを意味することになるではないでしょうか。

   ただ、これから迎えようとしている衆議院議員選挙においては、敗戦の重みを抱きしめながらも戦後の〈復興〉を日米安保体制下の「平和主義」の下で築こうとしてきた「護憲派」の人々とも手を携え、沖縄県民の声にもかかわらず名護市・辺野古への移設を強行しようとしている反民主主義的な安倍政権を打ち破ること、それが今回の選挙の最重要な焦点の一つだと考えられるのです。

さいたま市公民館の「俳句掲載拒否」問題を考える

      「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」

  
     先月14日、安倍政権は、特定秘密保護法の運用基準を閣議決定し、同法は12月10日に施行されることになりました。主権者たる国民の「知る権利」を侵害する暴挙がまた一つ強行されたのです。時の政府が何が「国家秘密」であるかを決定し、それを客観的に〈チェック〉する第三者機関が存在せず、そうした中で、時の政府にとっては不都合な真実にアクセスしようとする者に重罰を課そうというのです。「沖縄密約」のような国家の基本的なあり方を左右する重要な事実が闇から闇に葬り去られてしまう可能性がさらに高まったのです。しかし、その最も深刻な影響は、重い刑罰を前にした、国民の側の〈自主規制〉だという意見もあります。主権者たる国民を〈物言わぬ〉被統治者に貶めようというわけです。まるで、封建時代のように。

     ところで、さいたま市大宮区の三橋公民館で毎月開かれていた俳句教室では、会員が互選で選んだ一句が毎月公民館の「月報」に掲載されていましたが、今年の6月、冒頭「九条」の一句が、「公民館が政治的に中立でないと誤解される恐れがある」として、掲載を拒否される事件が起こりました。この問題については、『東京新聞』や『埼玉新聞』などで詳しく報道されているのですが、全国的にはあまり知られていないとも思われますので、簡単に紹介しておきたいと思います。

    まず、私などは、この俳句に読まれた情景を想像すれば、ある個人がこうした歌を読むことはごく自然なことのように感じられるのですが、いかがでしょうか。現代俳句の第一人者とも言われている金子兜太さんも、『埼玉新聞』の8月17日版で、次のように述べています。
   「作者はデモに好意を持ったが、熱く共感したわけではないと私は受け取る。感受性の強い人なら普通のことで、どうしてこの句が問題なのか、ぜひ教えて欲しい。結果として政治的な意味をお役人がもたせたのは、ご自身がご時世に過剰反応しただけ。作者としては当たり前の感銘を詠んだ句で、お役人に拡大解釈され、嫌な思いをしてお気の毒」。
   「今回は一庶民の一つの句をやり玉に挙げて大げさな問題にした。こんな拡大解釈のようなことがお役人だけではなく社会で行われることになったら、『この句は政府に反対する句だから駄目』などと、一つの句が潰される事態になりかねない。有名な俳人だけではなく一般の人も萎縮して俳句を作らなくなる。俳句を作る人の日常を脅かすもので、スケールは小さいが根深い問題だ」。

      この句の作者は、「私の人生や経験、思いを一方的に否定されたように感じた。一市民のささやかな句に反応して排除するなんて、その方が恐ろしい」と嘆いたそうだ。金子兜太さんは「お役人が拡大解釈した実に野暮で文化的に貧しい話」と言ったそうですが、私は、こうした「野暮で文化的に貧しい話」は、日本の政治家や官吏にしばしば見られる一般的な傾向であるようにも思われるのです。それはどうしてなのかと言いますと、彼らは、それ自体擬制的なものでしかない「公」的なるものにすがりつき、何より、実態としての国民一人一人の〈多様性〉と〈自立性〉を認識できていないのです。つまり、彼らは、「主権者は国民の一人一人だ」ということがわかっていないのです。国民一人一人が主権者であるということは、「〈私(朕)〉は『国家』なり」ということではなく、〈多様〉で〈自立〉した国民一人一人が〈集合〉的に「国家」という集団を形成しているということであって、それゆえに、国家や時の政府が、〈一応〉「法」に基づいて排他的強制力の保持を許されているとしても、同じく「法」に基づいて、そうした〈多様〉で〈自立〉した国民一人一人の基本的人権を毀損するような〈恣意〉的な権力の行使は禁じられなければならない、ということなのです。

    ところで、この句の掲載を拒否した引間正巳三橋公民館長は、7月3日の『公民館便りへの俳句不掲載について』でその理由を次のように説明しています。すなわち、「社会教育法」第23条第2項の、公民館は「特定の政党の利害に関する事業を行い、又は公私の選挙に関し、特定の候補者を支持すること」をしてはならないこと、また、「さいたま市広告掲載基準」第4条(1)、「国内世論が大きく分かれているもの」の広告掲載は行わない、ということを根拠に、「このようなことから、俳句の中の『九条守れ』というフレーズは、憲法を見直そうという動きが活発化している中、公民館の考えであるという誤解を招く可能性があるため、掲載をご遠慮いただくものです。」としています。また、所管するさいたま市の稲葉康久教育長も、「月報は公民館の責任と権限に基づいて発行している。世論を二分している内容の作品はそぐわない。」と述べています。

     それにしても、冒頭の一句が、特定の政党の利害に関する事業に関係するとか、なんらかの〈広告〉に類するものに関係するなどいう判断がどうして出てきたのでしょうか。金子兜太さんが指摘するように、その判断が極めて恣意的(時勢に過剰反応した拡大解釈)なものだということは間違い無いことでしょう。そして、もし俳句の会の互選によって選ばれたこの句が、「政治的」であり「月報」に掲載すべきではないとの判断が行政の「責任・権限」に基づいてなされたとするなら、まさしく、行政による〈言論統制〉ということになってしまうのではないでしょうか。
     また、JT生命誌研究館館長の中村桂子さんは、「公民館とはまさに地域の人々が集まり考えを述べ合う場ではないだろうか。世論が分かれる大事な問題だからこそ、意見を述べる場にするところではないだろうか。そもそもこの句は、素直に情景を描写しているものであり、なぜこれを掲載できないのかわからない」(『東京新聞》7月8日夕刊)と述べていますが、まさしく公民館の「責任」とは、〈多様〉で〈自立〉した「主権者」の公共的討論と集合的〈意思〉の形成を保障すべきものであって、意見の違いを隠そうなどというのは、国民一人一人の「主権者」としてのあり方を否定するものに他ならないと言えるでしょう。
     それにしても、この句について、なぜ「世論を二分している内容の作品はそぐわない。」などという「飛躍」した判断が行われることになったのでしょうか。先に紹介した中村桂子さんは、「ここで行われたのは行政の勝手な自主規制である。地方自治体としてやってはならないことだ。税金は市民が納入しているのに上の方だけを見ている姿勢は許されない。・・・市民に最も近いところが自主規制した時に社会はどうなるか、考えるだに恐ろしい。身近な所こそ重要であることを再確認したい」と述べています。要するに、お役人達が、時の政権(安倍政権)の意向を敏感に感じ、極めて「政治的」に「自主規制」したということなのでしょう―――ただ、私は、地域の一部党派からかなり日常的に圧力があるのではないかと想像しているのですが―――。しかし、その「自主規制」とは、国民から〈公共性〉を奪い取り、時の政権に無批判的に追従する存在に貶めようとする行為なのです。

     特定秘密保護法の制定に見られるような、国民に対するある意味で「鎮圧主義」的な政策は、実は、こうした「自主規制」の動きをその最も望ましい効果として期待しているのだろうと考えられます。しかし、私たちは、後継の世代のためにも、〈物言わぬ〉被統治者に貶められてはならないのです。

     「主権者の 〈誇り〉貫け 5−7−5」(S.ムリキ)


 ※ もう一つ、歌心が・・・・

DSC_2193皆既月食

  サロは無視 秋の夜空に 皆既月食 (10月8日――お粗末!


  ―――サーバントさん! 散歩の途中で急に立ち止まらないで欲し
     いんだけど
  ―――君だけには言われたくないね

 

「ガイドライン」改訂に思う――勝手に決めるなよ

 主権者は我々だ!勝手に決めるんじゃない!! 
  ――大体,君たちは「国民」を代表しているのかね?!



   時事問題について色々な感想を持ったとしても,それをすぐブログに書けるというものではありません。とりわけ、衝撃度が強いもの程そうだといえます。「〈政府の解釈変更〉による集団的自衛権の容認」などもその典型でした。怒り心頭! 言葉にもなりません。しかし、先週8日の「日米防衛協力のための指針」再改訂に向けた中間報告を読み,やはり、黙っているわけにはいかないとPCに向かうことにしました。

   今回の再改訂の眼目は,自衛隊が、世界中のあらゆるところで、「切れ目のない形で」米軍と共同行動をとることです。そして、テロ対策の「後方支援」であろうとシーレーン防衛(日本の軍産複合体の目的はこれと兵器の生産と輸出だろう)であろうと、そうした共同行動の中で武力衝突が発生すれば、すぐさま、(集団的)〈自衛〉権の名の下に戦闘行動を正当化する、とまあそんなシナリオが見え見えなのです。その危険性は〈超〉現実的なものです。実際、「専守防衛」から「海外派兵」への転換は、たまたま死者を出さなかったイラクの自衛隊もそうだったのですが、日本の若者が他国の民衆と〈兵器〉を携えて「殺しー殺される」関係(=戦争)に入ることを意味せざるを得ないのです。すなわち、今回のガイドライン再改訂への動きは、まさしく、日米両〈政府〉による日本国憲法「平和主義」の根底的な破壊、すなわち、基地や戦費の提供だけではなく、日本の若者が米軍の盾となり駒となって海外で血を流すことへと日本を導くものなのです。

  それにしても,このような憲法をないがしろにする行為が、なぜこうも堂々ととまかり通ってしまうのでしょうか。勿論、それは,戦後日本の再軍備化の過程、そして、基地と金だけではなく、“show the flag"とか"boots on the ground"とか言って軍事的貢献を求めて来たアメリカのこれまでの政策を知るならば,容易に理解できるとはいえます。(『追記』参照)。そして、こうした観点からする最近の労作としては,孫崎享氏の『戦後史の正体 1945ー2012 』(創元社)があげられるでしょう。この本は、彼自身の外交官としての経験をもとに、日本の戦後史をアメリカからの圧力対する「自主路線」と「追従路線」とのせめぎ合いという観点から分析—総合したユニークなもので,同氏の『日本の国境問題――尖閣・竹島・北方領土』(ちくま新書)と共に、現在の日本の状況が必要とする、必読文献であると思われます。ただし、それは,「権力エリート」(政治家・官僚)の視点からのものであって、そのアメリカからの「自主」の意味することが、「国益」ならぬ「国民」(=「一般ピープル」)の利益の視点からみて何なのかが再検討されるべきだと考えられます。例えば、彼が評価する岸信介の「自主」路線の意味とは何か、です。なぜなら、戦前の大日本帝国も「自主」的であったろうし、現在の「北朝鮮」—朝鮮民主主義人民共和国も「自主」的であろうからです。また、この本に対するもう一つの不満は、その検察批判や学会批判はかなり鋭いのですが、やはり、アメリカの軍産複合体の「圧力」に〈共鳴〉・〈連動〉する、あるいは、そのアメリカへの「追従」から「利益」を得る日本国内の反「一般ピープル」的な勢力への批判的観点が弱いことです。そうした勢力の動きは、CIAの暗躍だけでは説明できない「重み」を持っていると考えられるのです。

   今私が感じているのは、眼前の状況が戦後の米日軍事同盟の強化を策する「既成事実」の積み重ねの一つの帰結であり、さらにいえば、それは〈政府の解釈変更〉による「なし崩し」的な〈個別的〉自衛権容認と地続きだろうということです。「権力エリート」たちは、主権者たる国民に本質的な情報を隠したまま、国民の〈正統的な代表者〉であるとの擬制の下で、本来ならば主権者たる国民が行うべき国家の運命を左右する〈選択〉を詐取し、「権力の恣意的な行使」を行って来たといってよいのです。確かに、そうした過程の中で形作られて来た日米安保体制下の「平和主義」――その鍵的概念は「専守防衛」であって、集団的自衛権を行使するための海外派兵を禁じていました――によって,日本は戦後69年間,直接的な戦死者を出さずに済んだというのは事実です。なぜなら、海外へ派兵しない限り,侵略がなければ死者は出ないからです。そして、こうした「実態」を、左右の「権力エリート」をはじめ「国民」の多数派が〈容認〉していたのだろうとは思います。しかし、1991年の湾岸戦争及び2003年のイラク戦争を契機に自衛隊の海外派遣が始まり、〈集団的自衛権〉禁止の「外堀」は埋められ、そして、なんと、今回の〈政府の解釈変更〉と「ガイドライン」再改訂によって、「内堀」どころか「本丸」をも崩壊させられる事態に陥っているのです。

   私は、戦後日本の「平和主義」=憲法9条の存続を支えて来たのは、一部の「権力エリート」たちの努力やその影響力を認めはするものの、基本的には、〈国家〉や〈戦争〉の本質を肌で知り,それを語り伝え、一部の〈軍産複合体〉の利益のために戦争へ動員されることを拒否してきた、日本の「一般ピープル」であったと思います。そして、その状況は現時点においても同じであり、種々の世論調査においても、集団的自衛権反対・憲法9条支持は過半数から6割強に及ぶのです―――直近のNHKの調査(8月)でも,9条改正賛成28%、反対41%となっています。というわけで,現時点においても、安倍政権は、欺瞞的な〈目くらまし〉と策謀を駆使しつつ,勝手に解釈を変更し、内実をごまかし続ける他ないという有様なのです。恥ずべき奴らです。

   そして,我々「一般ピープル」も、我々自身の「安全保障」のために、これまでの〈欺瞞〉を正視し、私たちを〈戦争〉の体制に包み込もうとしている米日〈軍産複合体〉の策謀に対抗していかなければなりません。このような重要な問題を、〈詐欺まがいの多数派〉政党やあんな低劣な議員どもに任せることなどは出来ないのです。ちなみに、自民党が圧倒的多数を占める現在の国会を生み出した、2012年衆議院議員選挙と2013年参議院議員選挙の結果を見ておきましょう。裁判所が「違憲状態」と判決を出した選挙であったことは勿論、以下に見るような〈選挙制度自体の問題性〉をも私たちは認識すべきなのです。大体,君たちは正しく「国民」を代表しているのかね?!勝手に決めるんじゃないよ!!


《2012年衆院選》(投票率 59%) 
 自民党の比例代表区での得票率28% 
    ―→ 57/180議席:議席獲得率 31.7
 自民党候補者(+公明党?)の小選挙区での得票率43
    ―→ 237/300議席:議席獲得率 79
  ☆政党支持率でいえば、全有権者の16.5%の得票で、294/480 
    全議席(小選挙区+比例代表区)の61.2%を獲得している。
 
《2013年参院選》(投票率 52%)
 自民党の比例代表区での得票率34.6% 
    ―→ 18/48議席:議席獲得率 37.5
 自民党の選挙区での得票率 42.7% 
    ―→47/73議席:議席獲得率 64.4
  ☆政党支持率でいえば、全有権者の18%の得票で、65/121 
    全議席(選挙区+比例代表区)の53.7%を獲得している。


  比例代表制にしましょうよ! そうすれば、自民党の政策を支持した100人のうちの17人の意思で衆議院の60%を超える議席が占められ、60%前後の、9条支持、原発再稼働反対、消費税反対の世論を無視することなど出来ないのですから!!

  そして、もう一度,歌ってやるのだ。「おまはんらが儲けるために,わしらを殺すのけ!」と

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都知事選・後の日本―――日本全国に波浪注意報!

 無内容な大言壮語がまかり通り(!?)
  
     この前よりももっとひどい大雪になったりして



         
「小人が国を治めるならば、災害があいついで起こる。」(『大学』)   

DSC_1343大雪をかき分け

   しかし、ぼくは負けないのだ



   東京都知事選が終わった。結果は、大方の予想通り、舛添要一が当選した。そして、私は、このようして日本社会は次第に「衰退」していくのだろうな、と感じてしまうのだ。東京新聞によれば、村上達也・東海村前村長は、「東京都民は目先の経済だけを追い、歴史的な過ちを犯した」、「都民は東京電力福島第一原発事故を忘れ、平和憲法の精神を壊そうとする安倍政権を支持した。東京が日本をだめにしていく」と述べたそうだ。日本の実体経済を口先だけのレトリックで崩壊に導きつつある日本国−内閣総理大臣、そして、まさしく、主権者たる国民に問うことも無しに、政府の解釈変更によって既成事実をでっち上げ、集団的自衛権容認から憲法改正へと突っ走ろうとする日本国−首相、そうした現状を見るにつけ、村上氏の悲壮な想いはよく理解できるところだ。
   しかし、福島第一原発事故以後、あの安倍政権を生み出した日本、そして、400万票の猪瀬知事を生み出した東京の有様を考えるならば、現在の事態は必ずしも悪い方へばかり行っているとはいえないだろう。

   「大勝・大勝』と騒いでいるが、もう一度、今回の選挙結果を確認しておこう。投票率は46.1%だった。
      舛添要一    2、112、979票 (43.4%)
      宇都宮健児     982,594票 (20.2%)
      細川護煕      956,063票 (19.6%)
      田母神俊雄     610、856票 (12.5%)

   この四候補者で、全体の、全体の95.7%を占めているわけだが、ここで確認しておかなければならないのは、当選した舛添氏は政権与党の自公とは「一定」の距離を置く「他党」の人間であったということだ。すなわち、国会で「圧倒的多数」(!)の議席を誇るはずの自民党が、首都東京において独自の候補者をたてられず、自らが除名した候補者におすがりしたのだ。さらに、自民党は、アベッチと基本的歴史認識を共有していると盛んにラブコールを送る田母神を推すことができなかった。勝ち馬に乗れないからだ。要は、安倍政権への国民の支持など、実は、選挙制度と民主党政権の腰砕け、そして、つまらぬ「大言壮語」に目を眩まされている日本の「一般ピープル」多数派の現状によって成り立っている程度のものでしかないことを、彼ら自身、よ〜く知っているということなのだ。

   ところで、田舎者の私にとっては、これまでの東京都民の選択の結果は信じられないようなものであって、都民は、相対的にではあるが、余程「豊かさ」に〈居直った〉「鈍感」な人が多いのではないかと感じていたものだった。実際、前回の都議選と都知事選の結果は、次のようなものだった。

  2013【都議選】    議席  得票率(%) ――投票率 43.5%       
     自民      59  (36.0)
     公明      23  (14,1)
     共産      17  (13.6)
     民主      15  (15.2)
     みんな      4  ( 6.9)
     生活ネット    3  ( 2.1)
     維新       2  ( 8.3)
     社民       0  ( 0.3)
     生活       0  ( 0.2)

   2012【知事選】     得票数    得票率(%)――投票率 62.6%  
      猪瀬直樹     4,338,936    (65.3)
       宇都宮健児    968,960    (14.6)
      松沢成文      621,278    ( 9.4)
      笹川堯       179,180    ( 2.7)

   まず、注目すべきは、前回の都知事選であの猪瀬に向かった65%、400万票はどこに、どのような理由で流れたのかということだ。また、今回と同様に低投票率だった前回の都議選での自公み維(36−14−7−8)の65%はどうなったのだろうか。このように考えると、まず、舛添は自公の基礎票50%をまとめることができず43%に終わっている。また、「カッコマン」が好きらしい東京都民の圧倒的支持を集めていたあの石原慎太郎(維新)が応援していた田母神も12.5%を獲得はしているが、これも維新と自民の残りの基礎票をまとめあげているわけでもないということだ。こうして、実のところ、約10%もの人々が現在の自公政権支持から離脱しつつあったということになるのだ。すなわち、今回の投票動向から考えると、やはり、東京都にも、最近の地方自治体選挙に見られるような流れが確実に起きつつあるように思われる。そして、こうした流れを加速させているのは、いうまでもなく、人々の「脱原発」、「福祉」そして「平和主義」への意思であるはずだ。
   こうしたなかで、特に注目されたのは、まず、宇都宮氏の健闘で、低投票率にも拘らず、前回よりも得票実数を増加させ、得票率も6%増の20%に達している―――私は、そのほとんどは民主支持層からの移行だと考えるが。ただ、私は宇都宮氏を支持はするものの、しかし、宇都宮氏に「脱原発」候補が一本化されたとしても、自民支持層からの10%の移行はなかったように思われる。それは、やはり、細川氏の「功績」であり、勿論、そのことには小泉氏の党派を超えた連合への決断もあったのだと思う。私は、今、細川氏に一本化されればよかったとまではいわないが、以前にも言ったように、当面の政策を共有する〈無党派〉の統一候補が立てられない限り、風雲急を告げる現時点において、安倍政権に対抗する「一般ピープル」の勝利はないのではないかと考えている。職業的政治家諸氏の英断に期待したいものだ。

   又、長くなってしまったのでこの辺で切り上げるが、経済にせよ、国際政治にせよ、安倍内閣は、いわば、「軽」自動車がエンジン全開で走っているようなもので(舛添も彼と一緒にはしてほしくないと思っていることだろう)、すでにもう相当な〈ビビリ〉が発生しているといってよい。そして、自損事故寸前の「軽」に何がおこるのか、そこが最も怖いところといっていいのだ。何しろ、アベッチには一刻も早くご退陣願うことが、今の日本に災いをもたらさない最良の道であることに間違いはない。おお、また大雪注意報が! 「アホノミクス」がまた・・・・
   
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SARO MURIKI

Author:SARO MURIKI
おりこうさんのワンワンです。年齢は、2019年11月現在満13歳です。見てのとおりの柴ですが血統書はありません。性別はオスで、飼い主には、朝夕、45分ずつ2回の散歩を義務付けているVIP犬、正確に言うと、VIDです。文句あっか?!

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