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玉三郎は本当に上手い! 十月大歌舞伎・夜の部を見る

〈至芸〉とはかくなるものを言うのだろう!
   磨き抜かれた芸に見惚れ、役者の心意気に打たれる‼︎



   ※一度は生で見たいと思っていた坂東玉三郎。それが歌舞伎座「芸術祭十月大歌舞伎」夜の部で実現した!そこにおける玉三郎は、予想を大きく超える素晴らしさで、まさしく、「至芸」とはかくなるものを言うのだろうと深く感銘を受けざるを得なかった。

   今回の演目は、以下の通り。
 一、沓手鳥狐城落月(孤城落月) 
     淀の方 玉三郎、豊臣秀頼 七之助、千姫 米吉  
 二、漢人韓文手管始(唐人話)
     十木伝七 鴈治郎、幸才典蔵 芝翫、高尾 七之助 
 三、秋の色種
     玉三郎、梅枝、児太郎

   テレビやシネマ歌舞伎の方が顔の表情がはっきり見えていいことはいいのだが、三次元の空間で立体的に放たれるオーラのようなものはやはり生の公演でなくては味わえないものだ。

   坪内逍遥作の「孤城落月」は、大坂夏の陣の大阪城を舞台に、滅びゆく豊臣家の一族と淀の方の狂気を描いた作品だ。落城寸前に、秀頼の妻で家康の孫である千姫を城外に逃がそうとする動きに対する淀の方の怒りと錯乱、そして、それに対する秀頼や家臣たちの反応、一種の滅びの「美学」とも言えるものだ。淀の方を演じた玉三郎については、少し入れ込みすぎとの評もあるが、私と妻の意見では、淀の方の心情は十分に想像し得る範囲のものであって、その美しからざる〈狂気〉を演じようとした玉三郎の心意気こそ賞賛されるべきだと思った。また、「滅び」に際する秀頼や家臣たちの様々な姿には、何か現代にも通ずるものを感じさせたた。(マエハラ〜!)

   「唐人話」は、江戸時代に実際に起きた事件をもとにつくられた作品で、長崎の遊郭を舞台にした、ある意味で非常にわかりやすい作品だった。男の嫉妬をユーモラスに、また、憎々しげに演じた芝翫は適役であったろう。傾城を演じた七之助と米吉の妖艶さと美しさ(可愛さ)は歌舞伎ならではのものだ。鴈治郎の庶民的な味わいも相変わらずのもので、その存在価値は歌舞伎に不可欠のものの一つと言えると思う。また、唐使のアドリブ「シャンシャン・パンダ」には笑えた。

   だが、私が最も感銘を受けたのは、最後の「秋の色種(いろくさ)」だ。素晴らしい舞台美術(前田剛)と長唄囃子、そして、玉三郎たちの舞踏。いつもはどちらかというと飽きてしまう舞踏なのであるが、悠久たる日本の秋という季節に、覚醒しつつ、溶け込んでしまいそうな感覚に浸ることができた。玉三郎の舞は遠くから見ても圧倒的な存在感と美しさを放つもので、その滑らかで安定した動きには見とれるほかなかった。あれだけの芸を身につけるにはどれほどの修練を必要とするのだろう。それは、まさしく、本物と思われた。
   9日の「スーパー歌舞伎 ワンピース」の舞台で、市川猿之助は骨がはみ出るほどの骨折をしたにもかかわらず声をあげなかったことが評判になっている。また、今回の舞台では、附け打ちの人の真剣な表情も印象的だった。確かに、歌舞伎はこうした人々の努力によって、私たちに感動を与えてくれるのだろう。

   最後に一言。いよ!大和屋〜‼︎

   
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歌舞伎『伊賀越道中双六』を観た

 歌舞伎の醍醐味を集めた感動的〈名演〉!
 ――それにしても、なぜ「仇討ち」が民衆の心をとらえたのだろう?





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どうせ僕はお留守番だから


   1月の下旬、尾上菊五郎・菊之助父子他による『しらぬい譚』を観に行った。昨年正月の『小春穏沖津白波―小狐礼三』に感激したので今年もと思ったわけだ。話の筋は、実際にあった筑前黒田家のお家騒動に題をとったもので、菊地家によって滅ぼされた大友家の遺児・若菜姫(尾上菊之助)が土蜘蛛から伝授された〈妖術〉を使って復讐を図るのだが、菊地家の忠臣たちによって阻止されるというものだった。そこで、さあブログを書こうかと思ったのだが、結局、私の「想像力」を膨らませるところが見当たらず、書くのを止めてしまった。もちろん、「化け猫退治」とか、「筋交いの宙乗り」とか、そういった趣向の〈見せ場〉は少なくなかったが、国立劇場の上の方の席から見たせいだろうか(笑)、「おー、すごい!」とまでは思えなかったのだ。

   これに比して、今回の『伊賀越道中双六(いがごえどうちゅうすごろく)』は、これまでに観た公演とも一味違った、名演と思われた。作品紹介のビラには、「歌舞伎で初!読売演劇大賞受賞作 時代を超える人間ドラマの最高峰、待望の再演!」とあったが、確かに、台本は、筋立てが明瞭で、人物描写にも優れ、また、歌舞伎の醍醐味を巧みに組み合わせた、大変充実したものに感じられた。また、舞台美術(大道具・小道具)も素晴らしく、目を十二分に楽しませてくれた。そして、なにより、歌舞伎役者としてのプライドをすら感じさせる、役者諸氏の気合の入った熱演が光っていた!全体的に、密度が濃く、かつ、贅肉のそぎ落とされた名舞台といえるだろうと思う。
 
   とりわけ、〈悪役〉たる沢井股五郎を演じた中村錦之助の演技が目を引いた。それは全体を引き締める上で極めて大きな役割を果たしたと思われる。また、三幕目の尾上菊之助(和田志津馬)と中村米吉(お袖)の絡みは、若手の歌舞伎役者の魅力を遺憾なく発揮したもので、その艶やかさは特筆に値するものと感じた。同様に、奴・助平役の中村又五郎の軽妙な動作と語りは、歌舞伎の楽しさを満喫させてくれるものだった。そして、山場の「岡崎」における中村吉右衛門(唐木政右衛門)・中村雀右衛門(女房お谷)・中村歌六(山田幸兵衛)の演技は、細部に至るまで研ぎ澄まされたその表現力に圧倒され、感心させられた。とりわけ、雀右衛門の演技が光っており、彼の〈女型〉としての素晴らしさがやっと理解できたように思う。最後の「大詰め」も、吉右衛門が稀代の豪傑役としては少し歳をとり過ぎたのかなとの印象もあったが、「仇討ち」のフィナーレ(本懐成就)としては最良・最適の演出と思われた。あれ以上、あっさりしていても、くどくてもいけない!

   ところで、荒木又右衛門の仇討ちは、曽我兄弟や赤穂浪士のそれと共に「日本三大仇討ち」の一つとされている。私もこれで一応全三作に触れたことになる。それにしても、なぜ江戸の庶民はこうした武家の仇討ちに熱狂したのだろうか。「仇討ち」とは、武家身分の者が主に目上の親族を殺され、「上」からの許しを得て実行する行為(「義理」)であるから、江戸の庶民にとっては直接的には関係がないはずのものだ。もちろん、現代に生きる私にとっても、それは「異文化」そのものであり、ましてや、義父の仇討ちのために我が子まで殺してしまうことに「前向き」に共感することなどあり得ないと思う。このように考えてみると、江戸庶民の熱狂は、「悪者」によって愛する者を殺された「復讐心」に対する、「身分」を超えた、「同じ人間」としての共感の故だとも考えられよう。江戸庶民にも「晴らせぬ恨み」がたくさんあったはずだろうからだ。しかし、そのことは、さらに、次のようなことをも意味すると考えられる。すなわち、こうした題材を取り上げるあげることは、武家「身分」の中にもある「悪」をさらけ出すことによって、道義的に優れていることをその正統性の原理とする封建的「身分」制度それ自体を「相対化」し、揺るがすものになるのだ。そして、そのことは、当然、「身分」的な支配従属関係それ自体への〈抵抗や批判〉に結び付いていくことになる。歌舞伎に対する幕府の度重なる統制もそうした視角から理解されることだろう。

  ところで、歌舞伎そしてこの作品の素晴らしいところは、その人物描写が多面的なことだ。それは、現在でもしばしば見られる、単純な「善・悪(神・悪魔)」二分法による「勧善懲悪」なのではない。少なくとも、そこには、「義理」の重層的な把握と「人情」の多面的な把握がある。例えば、お谷は政右衛門との関係で父親から勘当されるような人物であり、また、弟・志津馬も事件の発端を作った廓狂いの親不孝者で、そして、目的のために、お志津をたらし込み、助平から手紙を盗んでいる。また、お志津も、許嫁(股五郎)がありながら志津馬に恋をし、彼のために、助平から通行手形を盗み、また、関所破りまで手伝うのだ。お袖の父親・幸兵衛は苗字帯刀を許された農民なのだが、結果として、味方である沢井家を裏切ることになっている。そして、政右衛門だけは武士としての「義理」を貫いて、妻を突き放し、我が子をまで殺すことになるが、しかし、そこには、妻子への情愛という「人情」からする涙があって、決して、その行為に「前向き」な共感を誘うといったものではないと考えられる。逆に、その涙には、「身分」こそ違うが、支配層(武士や高利貸し資本など)による過酷な収奪のため、妻子を犠牲(身売り・間引きなど)にしなければならない庶民の悲しみが「投影」されていると考える方が自然だろう。そこには、「心中」ものにも見られる、切ない「現世」を批判的に捉え返す、江戸庶民の「人間」らしい生き方への願望が感じとられるのだ。このように解してこそ、この作品の「時代を超える人間ドラマ」としての意義を理解しうると考えられる。

   サロさん!日本の政治の〈質〉は、急速に劣化し、見るも無残な状況を呈しているね。
   ということで、『RAIMEI』でも聴こうか。「汚れても輝ける それがそう未来だ」・・・なるほど、「宿命」と思われる「闇」を切り裂いていく中にこそ、私たちの自由と人間らしい生活があるんだろうから。

芸術祭十月大歌舞伎―中村芝翫襲名披露(昼の部)を観た

 江戸庶民の「反権力」の心意気
    ―――河竹黙阿弥の名作を芝翫が演じる



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さあ、どんな舞台が?高まる期待!


   ※10月19日(水)、歌舞伎座で「芸術祭十月大歌舞伎―中村芝翫襲名披露」(昼の部)を見てきました。いつものように、あらかじめ演目と配役とみどころを「歌舞伎美人」をもとに整理しておくと以下の通りです。
   
一、初帆上成駒宝船(ほあげていおうたからぶね)
   橋彦 国生改め橋之助
   福彦 宗生改め福之助
   歌彦 宜生改め歌之助
 ◆山口 晃・寛徳山人作の襲名を寿ぐ祝儀の新作舞踊。成駒屋ゆかりの詞章で三兄弟が舞を舞う晴れやかな一幕。
   
二、女暫(おんなしばらく)
   巴御前 七之助
   舞台番松吉 松緑、他
 ◆女方ならではの趣向でみせる荒事の様式美:源平の合戦で功を立てた蒲冠者範頼が、家臣らを引き連れ北野天満宮へ詣でると、居合わせた清水冠者義高らは、権勢を誇る範頼の暴挙をたしなめます。怒った範頼は、成田五郎らに命じ、義高らの命を奪おうとします。そのとき、「しばらく」の声をかけて現れたのは、巴御前。女ながら武勇に優れた巴御前は、義高らを救い、紛失していた名刀倶利伽羅丸を取り戻します。そして範頼の仕丁を成敗すると、急にしおらしい姿を見せ、恥じらいながら去って行くのでした。歌舞伎十八番の『暫』を女方が演じる華やかな舞台。

三、お染 久松 浮塒鷗(うきねのともどり)
   女猿曳 菊之助
   お染 児太郎
   久松 松也
 ◆身分違いの恋を描いたお染久松ものの舞踊:浅草の大店のひとり娘のお染は、親の決めた縁談が嫌で家を飛び出し、隅田川の土手までやって来ます。その後を恋仲の丁稚の久松が追いかけて来て、家に戻るようさとしますが、お染は聞き入れません。そこを通りかかった女猿曳は、二人が噂のお染と久松であろうと察すると歌祭文に事をよせ意見をします。そして二人の気を引き立てようと万歳の様子をみせ、その場を後にします。しかし、二人は別れることができず、心中の覚悟を決め去っていきます。華やかで情感豊かな清元が、お染久松の心情と女猿曳の軽妙な味わいを盛り立てる。 
 
四、極付 幡随長兵衛(きわめつきばんずいちょうべえ)
 「公平法問諍」
   幡随院長兵衛 橋之助改め芝翫
   女房お時 雀右衛門
   水野十郎左衛門 菊五郎、他
 ◆男伊達の潔さと江戸の心意気:大勢の芝居見物客で賑わう江戸村山座の舞台に、旗本水野十郎左衛門の家臣が乱入して騒ぎ出します。これを止めた幡随院長兵衛の様子を見ていた水野十郎左衛門が、長兵衛を呼び止めます。そこへ長兵衛の子分の極楽十三、雷重五郎、神田弥吉が駆け出して来て、一触即発となりますが、長兵衛がその場を収めます。後日、水野の屋敷に呼ばれた長兵衛は、この誘いが水野の企みだと悟りながら、出向くことを決意します。案じる女房子どもに別れを告げて、長兵衛は水野邸へ一人で乗り込み…。町奴の長兵衛と旗本の水野の対決を鮮やかに描いた河竹黙阿弥の名作。


 ※ さて、橋之助の八代目芝翫襲名のことは『東京新聞』のコラムで知っていましたが、3月の雀右衛門の襲名披露に続いてこの公演を見ることができ、大変幸運であったと思います。それでは、若干の感想を述べておきます。

   まず、三人の息子たちによる舞踏『初帆上成駒宝船』についてですが、私には、西洋のクラシックバレエや社交ダンスなどとは全く異なる、その庶民的な身のこなしとその若々しさが大変好ましく思われました。また、今回一緒に行った「姉貴」によれば、指先の表現力など、やはり長男〜次男〜三男と、その「うまさ」(熟練度)の度合いには違いがあるようだとのことでした。私は身体の移動やバランスに注目していたわけですが、人によって見るところが違うものです。要するに、いろいろ楽しめるということです。

   つぎに、『女暫』ですが、これは、「勝者」=頼朝の家来範頼の驕り高ぶった暴挙に対して、「敗者」=義仲の息子清水冠者義高と巴御前が〈反撃〉するという、いわゆる「判官贔屓」の如き筋立てになっています。ただ、私が歌舞伎を見ていつも感じるのは、そうした〈反撃〉が、単なる敗者・弱者の「怨恨(ルサンチマン)」からというのではなく、たとえ一見支配階層からの借り物に見えるとしても、しっかりとした「倫理」的《怒り》にもとづいていることなのです。今風に言えば、「エスタブリッシュメント」の支配に抵抗する「一般ピープル」の〈原理〉(何が奪われ、何が不公平であるのか)が明確に示されているということです。 
   それにしても、七之助はいいですねえ。セリフも動作もアドリブも。楽しいことはいいことです。

   つぎに『お染 久松 浮塒鷗』についてです。私は今年の正月に観た『小狐礼三』で菊之助のファンになりましたが、今回の女猿曳役の舞踏については少し難しく感じました。清元に合わせたその踊りの「良さ」は私には理解不能と思われました。ただし、作品としての『お染 久松』については、やはり、「人情」からする封建的身分制や性差別に対する「批判」が読み取れるといえるでしょう。日本社会の「冷たさ」の象徴とも言える「間引き」や「姥捨」の伝承に接した時も、私たちはそこに「人情」から発する「涙」を感じることができるでしょう。そして、そこに「涙」が感じられる限りにおいて、私たちはそうした状況を改善していくことができるのです。そうした意味において、『お染 久松』の(涙の)物語は、「両性の合意に基づいてのみ成立する婚姻」(「両性の本質的平等」)を準備したとも言えるではないでしょうか。

  最後は『極付 幡随長兵衛』です。ところで、夜の部の『一谷嫩軍記 熊谷陣屋』も大変評判が良かったとのことですが、私にとっては、歌舞伎の「反権力」性という面において、『幡随長兵衛』の方がプログラムの一貫性という意味でより良かったのではないかと感じています。すなわち、当時の歌舞伎のストーリーの背後には、7代目市川團十郎の江戸追放や芝居小屋の江戸郊外への移設など、当時の幕府(武士)の政策への批判があったろうと推察されますが、河竹黙阿弥によってこの作品の中で描き出されているのは、まさしく、「きたない」やり口の旗本奴(=武士)に対する町奴長兵衛の、仲間や江戸の人々のことを思う「倫理」的ー「道義」的優越性に他ならないと言えましょう。封建的身分制はその倫理的正統性をもはや失っていたのです。
  また、山場においてセリフが少し不明瞭に聞こえることを除いて、私には、YouTubeで観た萬屋錦之介と片岡仁左衛門の『幡随長兵衛』よりも、今回の芝翫と菊五郎のものの方が歌舞伎の「様式性」(ここでは、ロマンチック過ぎない)という点で勝っていたように感じられました。時代物や荒事などにおける8代目芝翫のこれからの活躍に大いに期待したいと思います。



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今日は奮発して木挽町辨松の弁当を

  ※普段はコンビニで買ったパンやおにぎりで済ますのですが、今回は、歌舞伎座前の木挽町辧松の弁当を奮発しました。確かに、美味い!量は足りないですが(苦笑)。


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芝翫襲名の祝幕

  ※歌舞伎座では、毎回、緞帳の紹介を楽しみにしていましたが、このような「祝幕」は初めてでした。立派なものです。それにしても、このように大きな幕をどのようにして作るのでしょうか。


五代目中村雀右衛門襲名披露・三月大歌舞伎を観た!

 男が演じる女方の様式化された「芸」の難しさ
    ―――それにしても、菊之助には〈華〉がある!



   ※春野菜の植え付けが始まっています。ジャガイモ2種類とキャベツとブロッコリー、そして、ネギは終わりました。これからは、土を耕し、畝起こしをしたところに種を蒔いていく予定です。ただ、今日は、気温が低く、雨上がりで土が重いため、作業は明日以降にします。ということで、今回は、先日観に行った、歌舞伎について報告しておきたいと思います。

  中村芝雀改め
  五代目中村雀右衛門襲名披露 三月大歌舞伎 (歌舞伎座)
  (夜の部)
   一、双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)角力場
       橋之助、菊之助、高麗蔵、他
   二、五代目中村雀右衛門襲名披露 口上(こうじょう)
       藤十郎、菊五郎、吉右衛門、他      
   三、祇園祭礼信仰記(ぎおんさいれいしんこうき)金閣寺
       雀右衛門、幸四郎、仁左衛門、他
   四、関三奴(せきさんやっこ)
       鴈治郎、勘九郎、松緑



   実は、過日、『曽我物語』(全10卷)を読み終えたところだったので、(昼の部)の「寿曽我対面(ことぶきそがたいめん)」も観たかったのですが、今回は(夜の部)だけということにしました。ただ、(夜の部)には「五代目中村雀右衛門襲名披露 口上」があり、歌舞伎の華やかさを大いに堪能できました。「口上」では、主役の雀右衛門が予想以上の艶やかさで、声にもハリがあり、素晴らしい襲名披露だったと思います。また、仁左衛門の先代のエピソードを織り交ぜた巧妙な語りをはじめ、インフルエンザだったらしい菊五郎や午前の部だけに出演している吉右衛門も含めた歌舞伎役者総勢19名の口上を聞くことができ、私にとって、初めての、貴重な体験となりました。

   さて、最初の「角力場」についてですが、これは、男同士の義理の立て合い・意地の張り合い(達引)をコミカルに描いた演目で、江戸時代の庶民の「正義感」が奈辺にあったかを窺い知ることのできる興味深い内容でした。また、山崎屋与五郎の濡髪長五郎に対する「ファン心理」は、森の石松の「寿司喰いねえ」をも想起させる、なんとも微笑ましいもので、隣席の若い女性も満面の笑みで楽しんでいました。それにしても、放駒長吉と山崎屋与五郎という全く異なるキャラクターをそれぞれ実に見事に演じ分けた菊之助は、本当に〈華〉のある、素晴らしい歌舞伎役者だと思いました。

   次に「金閣寺」ですが、これは「哀しくも美しい絢爛な時代物の名作」として、次のように紹介されています。
   「謀反を企む松永大膳は、将軍足利義輝を殺害し、その母の慶寿院を金閣寺の二階に幽閉しています。共に幽閉している雪姫に思いを寄せる大膳は、夫の狩野之介直信に代わり金閣の天井に龍を描くように迫ります。そこへ此下東吉が現れ、大膳の家臣になることを願い出ます。一方、手本がなければ龍を描くことができないと断る雪姫。大膳は、雪姫を桜の木に縛りつけると、直信の処刑を命じます。悲嘆にくれる雪姫が、降りしきる桜の花びらをかき集め、爪先で鼠を描くと…。」(『歌舞伎美人』より)
   この雪舟の孫娘である雪姫こそが、「三姫(さんひめ)」と呼ばれる女方の大役の一つであり、今回、五代目雀右衛門が初めて挑戦する役どころとなったものです。とりわけ、手を縛られながら演じる「爪先鼠(つまさきねずみ)」は最大の見どころとされています(―――これは、雪舟の少年時代の逸話を膨らませたものですよね!)。ところで、私はこれを見て、男が演じる女方の、様式化された「芸」の〈難しさ〉を改めて感じさせられる思いでした。といいますのは、雀右衛門が演じる雪姫は、その女性を表現する〈様式美〉によって、高い気品と熟練を感じさせはするのですが、やはり、男が演じているという感が強く、女性と見まごうような玉三郎や七之助の演技とは「異質」なものを感じてしまったからです。彼の芸の〈質〉を決定するのはあくまでもその〈様式美〉なのだと思いますが、そのことをより深く、明確に感じ取るには私の「歌舞伎経験」は浅すぎるのだろうなと感じざるを得なかったのです。
   また、松永大膳を演じた幸四郎について言えば、昨年暮れの『東海道四谷怪談』における与右衛門に続いて、雪姫の「仇役」そして「色悪」といった役柄を演じ、まさしく、悪役の「魅力」を振りまいていました。実は、前回の与右衛門役については、かなり年齢的な不安を感じたのですが、今回は、声も明瞭で、一安心というところでした。やはり、幸四郎と菊五郎―――二人共もう73歳でしょうか―――には、もっともっと頑張ってもらいたいと思います。
   ところで、現在私は「一般ピープルにとって〈仇討ち〉とはなにか?」と言うテーマを考えています。この点に関連し、今回の演目における雪姫と此下東吉こと真柴久吉の「仇討ち」についての対話は、大変興味深いものがありました。この点については、近いうちに考えをまとめることができればと考えています。

   最後の「関三奴」は舞踏でしたが、リラックスして楽しむことができました。舞踏といえば、三津五郎の「喜撰法師」や三津五郎と勘九郎の「団子売」などを思い出しますが、あの独特の動作には、当時の一般ピープルの〈文化〉を強く感じさせられます。それにしても、酔っ払ってもいるわけなのですが、あの軽妙なリズムと絶妙なバランスは難しいですよね。鴈治郎も勘九郎も松緑も、いい味を出していたと思います。

   最後に、今回の3階席は、前後の間隔が狭くて窮屈でしたが、「京屋!」とか屋号を叫ぶおじいさんやそれを真似する外国人などが居て、なかなか面白いところでした。今度は、1000円の幕見席で見てみましょうか?! 

『小狐礼三』を観る―――一般ピープルの矜持!

   歌舞伎の様式美が美しい!
      ―――心をとらえる〈歌舞伎〉役者・菊之助



新春にふさわしい〈晴れやかさ〉
子狐礼三

1月13日 河竹黙阿弥=作『通し狂言 小春穏沖津白浪―小狐礼三―』
                (国立劇場・大劇場)      

  天下の大盗賊・日本駄右衛門、妖艶で大胆不敵の女盗賊・船玉
  お才、狐の妖術を操る美男の盗賊・小狐礼三の活躍。歌舞伎の
  醍醐味に溢れた趣向で魅せる、明るく楽しい初芝居!
   
      尾上菊五郎   日本駄右衛門
      中村時蔵    船玉お才  
      尾上菊之助   小狐礼三  


   ※正直言えば、年が改まっても、「おめでたい」気分には全くなれない世情です。時代劇を見ていると、幕藩体制などとっくに崩壊していただろう程たくさんの偉いさん達が「成敗」されていますが、今の世の中ときたら、「巨悪」ともいえないような「悪人」どもの見え透いた〈悪行〉が、お仲間の「よみうり」などに守られながら、大手を振ってまかり通っているといった有様なのです。こんな世情ですから、呑気に歌舞伎見物でもないのでしょうが、逆に、幕末江戸庶民の心意気を感じ取ることも悪くはないのではないでしょうか。

   幕が開くとすぐに、花道に白狐が登場します。おお、サロさんよりもスリムだぜ!それが第一印象です。それにしても、『義経千本桜』の源九郎狐もそうですが、色が白いんですよね。伏見稲荷の白狐に関係があるのでしょうか。

   さて、この公演を観たいと思った動機は、尾上菊五郎ー菊之助父子を直接見てみたいというものでした。結果は、大満足!とりわけ感心したのは、歌舞伎らしい「様式美」溢れる演技と「一般ピープルの矜持」の表出です。また、華やかな趣向(けれん)も、俗受けを狙ったいやらしい誇張や不自然さは感じられず、実に爽やかな輝きを放っていました。「よう菊之助!あんたは藤純子の息子でなくてもえらい!」とか「菊五郎さん、良かったねえ。これからが楽しみだ!」などと声をかけたくなりました。

   ところで、今回の演目は、「河竹黙阿弥生誕二百年」を記念して行われた「白浪物」の一つです。「白浪物」とは、盗賊が主人公の作品で、当時の江戸庶民から絶大な人気を博したといわれています。ただ、『小狐礼三』は、「胡蝶の香合」の紛失をめぐる大名・月本家のお家騒動を背景とする時代物の性格も有し、月本家の元家臣である日本駄右衛門とその仲間たち(船玉お才、子狐礼三)による「敵討ち」という性格もあって、いわゆる「白浪物」という面では、庶民生活の機微やユスリやタカリなどの場面を多くもつ『白浪五人男』や『三人吉三』などよりもマイルド(?)な性格のものになっていると言えるでしょう。しかし、主人公はあくまでも盗賊達です。

   それでは、なぜ歌舞伎に白浪物なのでしょうか?この問題を明らかにするためには、当時の時代的背景や作者=河竹黙阿弥の個人的資質など、より詳細な検討が必要のようです。ただ、そうした作業は私の手に余りますので、ここでは、当時の江戸庶民がこれらの主人公達をどのように見ただろうかを、私なりに想像してみることにします。

   まず言えることは、この盗賊達はとにかく「かっこいい」のです。一般的に歌舞伎の時代物で感じられるのは、その悲劇性をも含めた、武士の「かっこよさ」に対する庶民の〈憧れ〉でしょう。しかし、同時に、今回の月本家のお家騒動に対しても見られるように、それとは真逆の〈軽蔑心〉―――侍と言ったってなんだあの〈不忠〉と〈えげつなさ〉は!―――も読み取ることができるのです。とはいっても、そう感じる庶民の生活それ自体は、やはり「かっこよく」生きることの難しい過酷なものであって、また、彼ら自身、そうした現状を払いのけるだけの〈強さ〉の欠如も意識せざるを得なかったことでしょう。そうした中で、同じ庶民たる「白浪」たちが、そうした〈弱さ〉を克服し、「かっこよく」生きる様は、痛快に感じられたに違いありません。その格好良さは、三幕第三場「隅田堤の場」における三人三様の名セリフに極まるのですが、彼らは、たとえそれが盗賊という「悪事」を働くものだったとしても、自らの境遇に泣き寝入りしない〈強さ〉を持ち、そして、自らの価値観(〈義理と人情〉を大切にして生きる)にプライドを持ち―――その最高の形態は日本駄右衛門のような「義賊」のそれです―――、そして、最後には、自らの価値観に殉じ、『平家物語』や『曽我物語』の武士たちのように華々しくそして潔く身を処する覚悟をも示すのです。さらに、『小狐礼三』では、そうした生き方に「理解」を示す武士たちによって、三人は「見逃され」、初春の大団円となるのです。

   私は、こうした物語の展開の中に窺われる江戸庶民の感覚は、決して悪くはないと感じるのです。つまり、それは、封建的道徳や一部の宗教的思惟の中に見られる権威主義的盲従やズブズブの現状肯定とは異なる〈批判精神〉を持ち、さらに、単純な勧善懲悪とはいえない、底辺で生活する人々に対する〈多面的な人間把握(=寛容性)〉をも合わせ持っていると感じるからです。そうした感覚は、私たちの世代で言えば、管理社会や拝金主義、戦争や貧困などに抗して歌われたフォークソングやロック・ミュージックの歌い手たちにも似たような性格を見ることができるでしょう。もちろん、そうした中には、社会問題の基底に迫る視覚を持たず、金や名誉を手に入れてしまうと、一転して現行秩序の正当化に手を貸すといった「醜態」を晒す例もあるのですが、社会的な矛盾や不安に晒されている「一般ピープル」にとって、彼らは大変魅力的なキャラクターに感じられるといって良いと思います。

   今私たちが必要としているのは、社会を実体的に支える普通の人々が、胸を張って、人間らしい生活を営むことができる社会を実現していくことです。そのためには、普通の人々と有機的に結合したエリートも必要でしょうが、そうした〈一般ピープル〉自身の自覚と行動こそが最も重要なことと思います。こうした点において、文楽や歌舞伎の時代の普通の人々の思想や行動には、反省的にではありますが、学ぶべき点が多々あるように思われるのです。今年も、できるだけたくさん、歌舞伎や文楽を見てみたいと思います。

   
  ―――それにしても、芝居に出てきた白狐は可愛かったよねえ。サロさんも、白柴で、もう少し痩せていれば、あの白狐くんに似てるかもね。でも、性格はポンポコ狸かなあ


白狐?なんだいそりゃあ
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プロフィール

SARO MURIKI

Author:SARO MURIKI
おりこうさんのワンワンです。年齢は、2018年11月現在満12歳です。見てのとおりの柴ですが血統書はありません。性別はオスで、飼い主には、朝夕、45分ずつ2回の散歩を義務付けているVIP犬、正確に言うと、VIDです。文句あっか?!

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