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私にとって「愛国心」とは何か(5)―――同胞愛と国家愛(1)

  同胞愛と国家愛(1)
      ―――「〈開かれた〉ナショナリズム」と「〈閉ざされた〉ナショナリズム」



     前回は、いわゆる「日本人」なるものが、おおまか(というのは、それらはさらに細かく分類できるのだろうから)、南方系の「縄文人」と北方系の「弥生人」と呼ばれる人々の「混合」によって形成されてきただろうことを確認しておきました。そして、そのことは、戦前の「天皇制国家」のイデオロギー=「家族国家」観を政治的に利用したい勢力は別として、動かし難い歴史的「事実」として認められていると言ってよいでしょう。

     また、天皇家(氏族)の出自についても、現在は宮内庁によって封印されている古墳の学術的調査とその公表が実現されれば、その「事実」はさらに明確になっていくはずです。元々、他国の王室を見てもわかるように、皇室と「国民」が同じ血族・部族でなければならないといった「必然性」などないわけで、恐らく、学者ぞろいの天皇家の人々こそ、内心は、その「事実」を明らかにしたいと願っているとすら想像できるのです。

    ところで、こうした「事実」に対して、極めて消極的な姿勢を示す勢力が残存していることも事実です。しかし、その理由は、結局、そうした一部勢力が、天皇家の「神話」を政治的に利用し、自分たちを正統化したいと望んでいるからとしか考えられません。明治維新以降に建立された靖国神社に関連する問題もその典型的な事例で、東条英機らA級戦犯が合祀された1978年以降、昭和天皇が靖国神社への参拝を行わなかったことも、こうした脈略のもとでこそ理解できるのです(http://tamutamu2011.kuronowish.com/tennnoumemo.htm、などを参照)。すなわち、A級戦犯が「昭和殉難者」として合祀されて以降、中曽根康弘元首相など自民党政権の政治家たちは、個人としてではなく、内閣総理大臣など日本国を代表する立場で盛んに「公式参拝」をしようとしたのですが、それは、まさしく、彼らが、A級戦犯が指導した戦前の侵略戦争を、「(戦後)国家」の代表者として「正当化」しようとしたからだと言えましょう。そして、こうした状況の中で、天皇が靖国神社に参拝することは、あの無謀な侵略戦争を愚かしくも無責任に指導し、膨大な犠牲者と「屈辱」を生み出した戦争指導者たちに「日本国民統合の象徴」たる立場で頭を下げ、そのことによって、あの侵略戦争を「正当化」することに利用されてしまうことに他なりません。昭和天皇の戦争責任については別途論じられなければならないとは思いますが、この点については、そうした策謀に不快感を示し、そうした勢力との「共犯」関係に取り込まれることを拒否した昭和天皇の姿勢は、『日本国憲法』下の天皇として、極めて適切なものであったと私には思われるのです。

     さて、先のように、「日本人」ー「日本民族」を縄文人と弥生人の「混合」(ミックスあるいは「ハイブッリッド」)と把握する視角は、それを、沖縄(琉球)やアイヌ民族、そして、朝鮮や中国など当時の東アジア文化圏、また、遥か中国東南部やインドネシアなどの東南アジア文化圏との関係で、さらには、「人類」の始原、そして、遂には、「生命」の根源とのつながりの中で把握する方向性を示すことになるでしょう。このような視角で把握された「民族」は、閉じられた、〈他〉者あるいは〈外〉なるものとの「宿命」的な敵対関係の中でではなく、開かれた、つまり、その差異・多様性を〈自ー他〉あるいは〈内ー外〉を貫通する「つながり」の中で楽しむことのできる存在として、あるいは、固定的なものではなく、変化・変容しさえするものとして認識する、いわば「〈開かれた〉ナショナリズム」とでも表現しうるようなものに結びつくと考えられましょう。それは、共に生きる「世界(家族・地域・国・・・)」の中における「他」者への興味や関心、相互依存や愛情など、いわば、極めて原初的な「隣人愛」から出発した「同胞」意識と言ってもよいものと思われます。例えば、海外旅行に行きたいと思う気持ちのほとんどは、こうした方向性にあることでしょう。

     しかし、「共同的」な意識は、もちろん、こうした方向性にだけ向かうのではありません。すなわち、内向きの、〈閉ざされた〉方向性に向かう傾向性も同時に存在するのです。例えば、親子をはじめとして、「個ー個」そして「個ー集団」との予定的調和はあり得ないでしょうし、さらに、「共同体」内部あるいは「共同体」間での支配ー従属関係に伴う緊張や矛盾に媒介されることによって、その「共同的」な意識は、〈閉ざされた〉方向性に陥る可能性があるのです。とりわけ、近代の「革命」と「戦争」の時代にあっては、権力的な組織体である国家に媒介された「〈閉ざされた〉ナショナリズム」が形成された場合も多かったのも事実だと思われるのです。そして、その最悪の形態は、「民族」間の敵対性を、相手を同じ「人間」と見ない「差別心」―――例えば、DNAにまでその根拠付けを求める固定的・宿命的なレイシズム―――によって根拠づけようとするものです。そのような観点からすると、「日本人」と「朝鮮人」・「韓国人」が、「血族」という観点からすると、共通の「祖先」から発しただろうという「事実」は、きっと、不都合なものなのでしょう。最近のヘイト・スピーチに見られる差別性もこうしたところに根を持つのかもしれません。

     時間の都合上、今回は、この辺で切り上げます。次回は、「ナショナリズム(民族意識・国民意識)」が生まれてくる根拠について、歴史貫通的な側面と歴史的な側面から考えてみたいと思います。その作業は、とりわけ、「〈閉ざされた〉ナショナリズム」を乗り越えていくために必要な作業と考えられるものです。


―――サーバントさんは、長い氷河期に適応して生き抜いてきた種族の子孫らしいって言ってたけれど、それってどうしてわかったの

―――それは、血が濃いんですよ(苦笑)。ところで、「日本犬」の代表のような顔をしているサロさんも、立派な「縄文犬」だよね。DNAのレベルで言うと、私たちも、結構長い付き合いということになるかもしれないよ。


     
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私にとって「愛国心」とは何か(4)―――「日本人」とはなにか(2)

 「日本人」とは何か(2)  縄文人と弥生人
        ――― 要するに、『日本人』と言っても、〈多様〉なのだ!
 

      
     私は、この夏に、青森県の三内丸山遺跡を訪れることができました。この遺跡は縄文時代前期~中期(約5,500~4,000年前)の大規模集落で、私にとっても、まさしく『縄文文化の扉を開く―――三内丸山遺跡から縄文列島へ』(国立歴史民俗博物館編集、2001年)ものでした。そこで展示されていた縄文人たちの遺跡・遺物に接したとき、私はえも言われぬ感動を味わったものです。
     
     ところで、皆さんは、『海上の道』(岩波文庫、1978年)という柳田国男晩年の著作を読んだことがあるでしょうか。この本は、いわゆる「日本人」の起源を探った書で、「遠い昔、日本民族はいかなる経路をたどってこの列島に移り住んだのか。彼らは稲作技術を携えて遥か南方から『海上の道』を北上し、沖縄の島伝いに渡来したのだ・・・」という柳田の仮説が提示されたものです。また、本書の解説の中には、この柳田説の意義について、次のような中村哲氏の見解が紹介されていました。
    「稲作文化を伴う弥生式土器の南限は沖縄の先島には及ばないために、考古学の領域では、北方からの文化南下説を有力にしているが、柳田もそれに正面から反対しているわけではない。しかし、・・・・原日本人の渡来については、沖縄の人と文化が南方とのつながりを持つことに注目して、その論理の延長の上に考えようとする思考がある。・・・・それ(柳田の仮説)は北方からの文化南下説を正面から否定しているわけではないが、あたかもそれは有史以後のことで、原日本人そのものが始原の時代においては南から島づたいに漂いついたもので、その際、途中で離島に残ったものが原沖縄人であるというもののようである。」
     
    ところで、私たちは、昨年、柳田説にも関連する、次のようなニュースに接しました。

    「日本人の遺伝的な系統はアイヌ(北海道)と琉球(沖縄県)が縄文人タイプで、本州・四国・九州は縄文人と弥生系渡来人との混血とみられることが、東京大などのゲノム(全遺伝情報)解析で分かった。約100年前に提唱された「アイヌ沖縄同系説」を裏付ける成果で、1日付の日本人類遺伝学会誌電子版に論文が掲載された。」(http://sankei.jp.msn.com/science/news/121101/scn12110108070000-n1.htmを参照)

    私たちは、小学校の段階から、縄文文化と弥生文化の区別について学んでいましたが、もし、私たちが「日本人」=「列島人」の起源と言う問題を設定するとすれば、上記の記事のように、そこには〈縄文人〉と〈弥生人〉という身体的そして文化的特徴に相違のある二つの「血族」、「部族」の存在を前提とするということになるのです。そして、その両者の関係(混血など)を考えていく中でこそ、私たちは「日本人とは何か」という問への答えを探り当てられるであろうというわけです。

    ところで、私が小学生の頃には、稲作と金属器に象徴される弥生文化を日本列島にもたらした渡来人たちは「帰化人」、すなわち、外国から渡来し「日本人」になった人々と呼ばれていたと記憶しています。しかし、元々、日本列島に住んでいた「(原)日本人」とは「縄文人」だったのであり、柳田説やゲノム分析で判断する限り、彼らは南方から「海上の道」づたいに日本列島に移り住み、九州から北海道までの広い範囲で「縄文文化」を花開かせた人々であったのです。そして、これらの縄文系の「(原)日本人」たちは、朝鮮半島から渡来した弥生系の人々によって、九州では隼人(熊襲)、東北地方では蝦夷(えみし)、北海道ではアイヌなどとよばれることになったというわけです。こうした縄文系の人々については、最近ではNHKの『アテルイ伝』の阿弖流為、そして、(これは創作ですが)『もののけ姫』のアシタカなどのように、その文化をも含めて、大いに注目されることになっていると言ってよいのです。また、かなり前ですが、奥州藤原氏がそのミイラの特徴から蝦夷系であるという報道もありました。そこから推察すると、古代末期から中世にかけ、(桓武平氏、清和源氏といった)棟梁レベルは別ですが、土着の武装した縄文系の人々が地方武士団の形成に関わった可能性は大いに考えられるといってよいでしょう。実際、九州の話になりますが、西郷隆盛や大久保利通などの薩摩藩の下級武士に、薩摩「隼人」といいましょうか、南方縄文系の人々の特徴を感じることができると思うのは私だけではないでしょう。

     ところで、「日本人」の起源については、一時、江上波夫氏の「騎馬民族(征服王朝)説」などが話題を呼んだこともありました。しかし、基本的には、先の記事にも明らかなように、紀元前4世紀頃から、大陸(朝鮮半島)の北方弥生系の人々が、九州北部から日本列島全体に広がり、縄文系の人々との『混血』がすすんでいったと考えて良いようです。そして、「最終的に、現代日本人は、平均として、およそ北方弥生系7~8割、南方縄文系2~3割の比率で混血しているというのが、最近の人類学の結論」なのだそうです。我が家でも、どちらかというと、私が弥生系、妻が縄文系と言った趣があり、子供たちもそれぞれ微妙に両者の特徴を分有しているようなのです(笑)。

     そうなりますと、次に問題になるのは、両者の『混合』の有様です。そして、この点については、私の短い人生の中でも、結構面白い話を色々と聞かされていたのです。

     まず第一は、私が埼玉に住み始めた頃、同僚から、埼玉県には高麗(こま)や新座や志木など朝鮮に由来する地名が多く、昔から埼玉県に住んでいる人々の80%には朝鮮系の血が混じっているだろうとの話でした。さらに、それらは高句麗系とか新羅系とかいうことですから、紀元前4世紀からヤマト王権の確立に至る長い過程では、朝鮮系の数多くの部族・氏族が日本列島に渡来したであろうことが推察されるわけです。そして、この弥生系の渡来人の中には、当然、天皇家も含まれるのであって、この点については、大学で歴史を教えていた昭和天皇の弟である三笠宮が、「皇室が朝鮮半島から渡ってきたことは間違いないでしょう」と授業で言っていたという話を、私は学生時代に「友人」から聞いていたのです。このことは、今上天皇の「談話」―――「私自身としては,桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると,続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く,この時以来,日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。また,武寧王の子,聖明王は,日本に仏教を伝えたことで知られております。」(2002年3月)―――の中にも窺われるところです。要するに、その出自が百済系であるのか伽耶(加羅)系であるのかといった議論は別にして、天皇家が弥生系渡来人の系譜に属することは疑いないことと思われます。

     こうした見方については、神話の「ナイーヴ」な受容に基づく『皇国史観』の熱烈な信奉者は別でしょうが、すでに『記紀』の建国神話それ自体の分析の中からもほぼ常識的なものとなっているのです。たとえば、次田真幸氏は、『古事記』上巻の神話を、高天の原神話群・出雲神話群・筑紫神話群の三つに分け、それをもとに、北方系(とりわけ古代朝鮮系)種族と考えられる天孫系氏族(天皇氏族)と、本源的には南方系(とりわけ南西諸島や沖縄との関連が注目される)だが大陸・朝鮮半島との関係も深く農耕及び漁労を経済的基盤とする社会を形成していた出雲系氏族(「国譲り物語」の大国主はとりわけ有名)、そして、九州南部の海人族系氏族(インドネシア系の種族と考えられる隼人族は有名)との関係を論じているのです(次田真幸・全注釈『古事記(下)』、講談社学術文庫、1984年、の「解説」を参照)。すなわち、建国神話のレベルにおいても、日本列島の様々な歴史的時点において、「渡来」系と「土着」系(縄文系あるいは先行の弥生系渡来人)との確執と抗争、妥協と融合が展開されたのであろうことが推察されるのです。

    このことは、3世紀後半以降の「大王」(天皇氏族)を中心とするヤマト王権自体を「新参」の渡来系氏族を〈中心〉とする連合政権と考えることに繋がります。ところで、時代は下りますが、ヤマト王権内部における蘇我氏を代表とする「渡来」系氏族と物部や中臣を代表とする「土着」系氏族との対立はよく知られているところでしょう。それでは、氏は何にせよ「新参」の渡来系氏族が元々使用していた言語とはなんだったのでしょうか。勿論、それは朝鮮系の言語です。すなわち、ヤマト王権内では、「渡来」系の朝鮮系の言語と「土着」系の「ヤマト言葉」が拮抗して使用されていた可能性が高いということなのです。(そして、宗教的には、「渡来」系の仏教と「土着」系の原始宗教(国つ神)の対抗です。)この点に関連して記憶に新しいのは、本木雅弘主演の『聖徳太子』(NHK,2001年)です。いうまでもなく、「聖徳太子」は、百済と縁浅からぬ渡来系の氏族ー蘇我氏の血をひく人物で、蘇我馬子とともに天皇中心の中央集権体制を築いていった人物といわれています。そして、この番組のなかでは、なんと、「もうそろそろ(「朝廷」内で)ヤマト言葉を使いましょう」と言った台詞が出てくるのです。私は、思ったものです。あり得る、あり得ると。つまり、この「ヤマト言葉」なるものがどのように形成されてきたかは不明ですが―――おそらく、南方系の縄文人たちの言語と北方弥生系の〈先行〉渡来人たちの言語との「混合」だったと想像できますが―――、「新参」の渡来系氏族にとっては、「津軽弁」と「薩摩弁」と同様に、始めは意味不明なものだったのではないでしょうか。

     私にとっては、現在了解可能な同じ言語を用いて共に生活している人々の出自が、縄文系であろうと弥生系であろうと、また、朝鮮系であろうとインドネシア系であろうと、どうでも良いことのように思われます。ただ、私たち「日本人」を、戦前の天皇制を支えた、「血族的・同族的な文化的統一体」といった観念で理解することだけは誤りだとはっきり認識しておく必要があります。柳田民俗学は、そうした偽りの画一化に抗して、日本〈民族〉の「多様性」と「常民」レベルでの〈接触・混合〉を明らかにしようとしたものだと私には感じられるのです。すなわち、日本人とは、「純血種」などではなく、争いながらも和してごちゃごちゃに混じりあった、多様性を有するいわゆる「雑種」(ミックス)なのであり、その「雑種」性の中にこそ、その「特質」あるいは「固有性」が形成されていったといわなければならないのだと思います。このように考えれば、天皇家の「万世一系」(それ自体疑わしいのですが)などは、「日本人」どころか、朝鮮半島からの渡来系氏族(百済系?加羅系?)のY染色体(男系遺伝子)の「純粋」性を維持するということになるのですから、歴史的に形成されてきた「日本人」からますます離れるものとなると言って過言ではないでしょう(→「女性天皇」当然のことです)。

      こうした日本民族の多様性と人民的なレベルでの「統一」=「混合」の有様を認識することは、明治国家によって上から形成された、「過剰同調」をすら要求する画一的な「民族」論=ナショナリズムを否定することになるとともに、国家形成以前の水準において民衆自身が形成・維持してきた多様な「民族」性を再発見し、それを楽しむことに繋がるでしょう。また、その「民族」性とは、多様性の統一としての個性を持つと同時に、国境を越えた開かれた性格のものでもあるはずです。私たちが〈愛する〉「日本人」とは、そうした「民族」だと思われるのです。

     次回の『私にとって「愛国心」とは何か(5)』は、同胞愛と国家愛について考えたいと思います。

私にとって「愛国心」とは何か(3)――「日本人」とは何か(1)

 「日本人」とは何か(1) 「血族的・同族的な文化的統一体」?
         ―――「日本人」はそれほど「均質」な民族なのですか?


 
 ※ わが〈しもべ〉たる飼い主が、真面目顔で言ったよ。「サロさん!福島第一原発の汚染水漏れの状況は本当に深刻だね。原発の再稼働や輸出なんて御託を並べている時じゃないよ。すぐさま全力で日本の土と海、そして、地球の自然と人間を守る対策をとらないとね。「原子力村」のご意向をくんで事故収束宣言を出した奴も許せないが、この緊急事態に、のんびりとゴルフをやり、またまた、型通りの発言でお茶を濁している輩が『愛国心』とはよく言うよ。」――― ウーム、日本は危ないよね。困ったもんだ



     私たちが「愛国心」という場合、その愛する対象としての「国」とは一体何を意味するのでしょうか。勿論、森元首相の様に、この「国」とは、神の子孫たる天皇が建て・統治してきた「神の国」なのであり、それ故に、天皇を愛することが国を愛することなのだというご老人もいるかもしれません。しかし、今日においては、昭和天皇自身が否定した「神話」に基づく(「現人神」とその「赤子」といった)明治憲法的観念を信じる人は多くはないはずです。とすると、この「国」とはどう捉えれば良いのでしょうか。おそらく、それは、「同胞」たる「日本人」の集合体をイメージしたものと言ってよいでしょう。こうして、問題は、いよいよ今回のテーマである「日本人とは何か?」ということになるのです。ところで、私は、学生時代、文化人類学(「日本人」論)の講座を受講したことがありますが、この問題は、到底原稿用紙一枚程度で答えられるような簡単なものではなく、非常に複雑かつ難解なものらしいのです。ということで、今回は、それを学問的に論じるというのではありませんが、私の意識の中に沈殿してきた「日本人」的なるものを〈掘り出してみる〉という作業を試みてみたいと思います。

     まず、日本語を母国語とし、日本国籍をもつ〈私〉がこの「日本人」という観念を考えた時に気付くのは、それが「アメリカ人」という観念とはかなり違ったものに感じられるということです。つまり、移民の国そして人種の坩堝といわれるアメリカ合衆国を構成する「アメリカ人」という観念は、アメリカ合衆国大統領が黒人のオバマであることに象徴されるように、アメリカ合衆国の「国籍」をもつ―――すなわち、同じ法的な権利・義務関係の中で生きる―――人々とか、合衆国憲法の「理念」を共有する人々とかいったイメージを与えます。これに対して、「日本人」と言った場合には、これは、たとえば、漢民族の中国とか朝鮮民族の韓国とかと同様なのですが、要するに、「日本〈民族〉」といったイメージが極めて強いのです。このように推論していくと、日本における「愛国心」とは、日本〈民族〉を愛するということになるのではないでしょうか。勿論、現実の日本国は「多〈民族〉国家」なのであって、これを森元首相のように「単一〈民族〉国家」とすることは、現実に共に生きている少数〈民族〉の存在と権利を無視ないし軽視することになりますので、非常に危険な「落とし穴」になることに注意しておかなければなりません。これは、歴史的に特殊な、近代「国民国家(ネーション・ステート)」の問題性に関わり、「日本人」=日本〈民族〉と「日本人」=日本〈国民〉という二つの観念の区別と関連を解くことにも重なるのですが―――この点についてはまた日を改めて論じたいと思います―――、しかし、とにかく、日本における圧倒的多数の〈日本民族〉の一員だろう私にとっては、逆に、こうした点をしっかり自覚しておくことは極めて重要なこと思われるのです。

     ところで、この「日本人」=〈日本民族〉なる観念は、それ自体として、何やら、とてつもなく「均質」的な意味合いを含むように感じられるのですが、如何でしょうか。勿論、私たち「日本人」は、その日常生活の中で、その「隣人」たちを、「均質」的どころか、利害の相克も含めた様々な意味合いにおいて、極めて「多様な」存在として意識しているのだと思います。しかし、日頃自らを「日本人」などと意識しているわけでもない私たちも、他人種や他民族との接触や対比においては、自らが極めて「均質」な〈日本民族〉の一員であるという印象を持ってしまっているのではないでしょうか。例えば、私の狭い個人的な経験でも、髪や目の色の違う白系ロシア人の少女、口の周りに入れ墨をしたアイヌの老婦人、皮膚と口の中の色が全く違う黒色人種の青年男性など、当時の私の生活の中では極めて稀であった『外』との接触は、私を、『内』なる「日本人」ー〈日本民族〉の一員であるという自己意識あるいは帰属意識に導いていっただろうことは確かなことのように思われます。―――勿論、そうした接触・対比が〈民族〉的な意味あいでの「日本人」という観念に直接結びつく必然性があるわけではないので、当時、すでに、私の頭の中には、様々な媒体を通じて、『日本人』という観念が注入されていたのだろうことも確かだと思われるのですが。

     それでは、このように「多人種」・「他民族」と対比されるところの「日本人」=〈日本民族〉とは、どのようなものとしてイメージされるのでしょうか。それを思いつくままあげていくならば、私にとって「日本人」とは、まず、黄色人種であるなどの身体的特徴を共有し―――映画『十戒』などを見る限り「ユダヤ人」には、白人もいれば黒人もいるのですね―――、そして、日本語で考えたり意思を疏通しあったりする人々の集団といえると思います。モンゴロイドで日本語をネイティヴと同様に話す「外国人」を、私は「日本人」と区別できないでしょう。また、地理的には〈日本列島〉に居住し、文化的には、初詣や七五三などの神社に関わる信仰や年中行事、除夜の鐘・葬式・お盆などといった仏教に関わる信仰や年中行事、そして、神話や昔話、俳句や川柳、源氏物語や平家物語、茶の湯や歌舞伎、服装や歌謡など、また、最近の季節的行事でいえば、盆踊りや花火大会を共に楽しむといった、「国民」的な文化を共有する人々ということにもなるでしょう。さらに、これは「日本人」=〈国民〉といったより近代的な観念に近いと思われますが、基本的には日本国家によって法的・軍事的に統括された一定の領域内で暮らし、また、そうした「国民」的な再生産圏の中で相互に依存しあい、そこに生まれる共通利害(「国益」)の中で生活することによって歴史的に育まれてきただろう〈一体感・親近感〉を共有する集団、といったイメージになるでしょうか。 
      
      ところで、勿論、先日訪れた三内丸山遺跡に暮らした縄文時代の人々や室町時代の農民たちは、このような「日本人」としての意識を持っていたとは到底言えないことでしょう。すなわち、「国民」の圧倒的多数が、自分が『日本人』であると意識することになったのは、やはり、歴史的には、『外圧』によって引き起こされた、幕末から明治維新にかけての近代的中央集権国家の形成過程ということになるのだろうと思います。つまり、大和朝廷以降の〈支配層〉の中にはその対「外」的な関係からうまれた何らかの「国家」的な意識の継承性はあったでしょうが、現実的には極めて多様であった被支配層としての『一般ピープル』が「日本人」=〈日本民族〉の一員としての意識をもつに至ったのは、やはり、明治政府による「国民」意識の政策的形成過程によってだろうことは確かなことのように思われます。そして、こうした歴史的形成過程の中でつくられてきた「日本人」=〈日本民族〉のイメージが、『大日本帝国憲法』や『教育勅語』で示されてきたような、天皇家の「神話」に基づく、すなわち、天照大神を皇祖とする天皇家を宗家とした「血族的・同族的な文化的統一体」というのものだったといえます(臣民=国民)。そして、それは、まさしく、「均質性」を強調し、権力に〈同調〉しないものを『非国民』として差別・迫害した戦前の政治的イデオロギーの基盤となったものでした。実は、こうした歴史的経過の中で作り出されてきた〈日本民族〉の観念の残滓が私に影響を与え、先ほどいったような「均質」性を感じさせる基盤をつくってきたのだろうと思われるのです。

     しかし、この「血族的・同族的な文化的統一体」といった観念は、決して歴史的な「事実」なのではなく、日本列島に多様に存在した血族的・文化的な実在を、暴力的そしてイデオロギー的な破壊・強制・同化を通してその画一的な〈形態〉の中に統合し、形成されていったものだということなのです。つまり、私たちには、こうした「均質」なものとして把握された〈日本民族〉という観念それ自体の虚偽性を認識していく必要があり、また、逆を言えば、「日本人」=〈日本民族〉の〈多様性〉を正しく認識し、かつ、その〈多様性の統一〉を「血族的・同族的な文化的統一体」といった天皇制的イデオロギーによってではなく、如何に科学的に把握していくのか、そのことが求められているといえるでしょう。

     そして、そうした探求は、私の短い人生の中でも、様々な形で着実に進められてきました。今回は、もうすでにかなり長くなっていますので詳述はしませんが、皆さんもすでに良くご存知だろう、「縄文人と弥生人」の問題、「日本列島と朝鮮半島の関係」の問題などは、まさしく、「日本人とは何か?」という私の疑問に答えるヒントがたくさんつめこまれているものなのです。次回は、これらの問題について触れてみたいと思います。
     

     

私にとっての「愛国心」とはなにか(2)―――「同胞」考

 
  開かれた「同朋愛」は偏狭な「ナショナリズム」を超える
 
 ――同胞を使い捨てにして「領土・領海・領空を守る」などという輩は愛国者ではない。

     
     安倍首相は、長崎国際テレビ番組のインタビュー(12日収録、15日放送)で、「われわれは9条を改正し、その(自衛隊)存在と役割を明記していく。これがむしろ正しい姿だろう」と述べ、今回の参院選で今まで封印してきた、憲法9条〈改悪〉への野望をあからさまにするに至っています。
     また、7月16日の東京新聞朝刊によれば、石破自民党幹事長は、現行自衛隊法では、隊員が上官の命令に従わない場合、最高でも懲役7年が限度であるということから、「国防軍」の創設が実現した暁には、日本国憲法では禁止されている特別裁判所の一つ「軍法会議」にあたる、「審判所」設置の必要性に関して、次の様に述べている。

 「『これは国家の独立を守るためだ。出動せよ』と言われたときに、いや行くと死ぬかもしれないし、行きたくないなと思う人がいないという保障はどこにもない。だから(国防軍になったときに)それに従えと。それに従わなければ、その国における最高刑に死刑があるなら死刑。無期懲役なら無期懲役。懲役三百年なら三百年。そんな目に遭うぐらいなら、出動命令に従おうっていう。人を信じないとかいわれるけれども、やはり人間性の本質から目を背けてはいけない。」

    現行の自衛隊は「国の独立」を守るために出動するのではないと認識しているのかどうかは分からないが、現在、問題の焦点となっているのが、アメリカが要求する「国際貢献」、すなわち、海外における米軍との集団的自衛権の行使であることを考えれば、具体的には、たとえば、日米軍事同盟に基づきアフガニスタンで「国防軍」が戦闘行為にはいった時、「上官の命令」に従わなければ、現行の刑法では死刑が最高刑であるのだから、「死刑」にするというわけだ。さらに具体的に言えば、青年期にキャンディーズの〈追っかけ〉をしていた(→https://twitter.com/kinokuniyanet/status/357705297126621184/photo/1 )〈軍事オタク〉が内閣総理大臣=国防軍の最高司令官になったとして、そんな輩が、私の子供たちに人を殺すよう命令し、私の子供たちがそれを拒否すれば、〈死刑〉というわけだ。ふざけるな

     今日、ジブリの『熱風』(2013年7月号特集「憲法改正」)で、宮崎駿や高畑勲の論稿をを読みました(→http://www.ghibli.jp/docs/0718kenpo.pdf)。ところで、私には、「私にとって〈愛国心〉とは何か」を書くという宿題があったのですが、参院選を前にした安倍や石破の言動を前にし、また、年上の宮崎さんや鈴木さんや高畑さんの、まさしく、そうした「流れ」に逆らう抵抗を見るにつけ、私も不十分ながら自らの問題意識の一端でも書き残しておきたいと思い、推敲不足ではありますが、アップしておきたいと思います。お付き合いください。

     
     前回の『私にとって「愛国心」とはなにか(1)』で、私は、近頃やかましい「愛国心」とやらについて、主に〈個〉的な水準から批判しておきました。こうした地点から、彼らの〈利己的〉な司令官ぶりを見れば、余程のお人好しでない限り、その言葉を単純に信じることはないだろうとは思います。ところが、考えてみると、私の中にも、「愛国心」と水準を同じくするような意識があるのです。すなわち、私の中には、〈個〉的な水準だけではなく、〈集団〉的な水準、つまり、夫婦であったり、親子であったり、兄弟であったり、同郷者であったり、同窓生であったり、同国人であったり、同じ人類、そして、同じ地球上の生き物であったりすることへの〈共同〉的意識、生死、利害あるいは運命を共にする、いわば、「愛」と表現しうるような、〈共同〉性の意識もあるのです。

     勿論、こうした個と個、個と集団、そして、集団と集団との〈共同〉的な意識や関係も予定調和的なものではあり得ず、必ず、矛盾・軋轢・対立などが不可避的に存在しますから、それらは何らかの形で「調整」、「統合」、あるいは、「分離」などが図られなければならないと考えられます。こうした点については、また、後日、稿を改めて論じたいと思いますが、今回、特に問題にしておきたいのは、こうした〈共同意識〉の領域における、(1)親子、兄弟、友人、あるいは、隣人といった直接的関係を持つ人々との間の共同意識と、(2)より広範囲な、例えば、その多くは「民族」国家として歴史的に形成されてきた、近代「国民国家」の共同意識=「ナショナリズム」、この両者の関係についてです。いうまでもなく、この両者を直接結びつけるものはないのであり、必ず、媒介の論理あるいは仕懸けが必要なのです。

     ところで、ここで注意しておかなければならないのは、おそらく、私たちの中には、そうした「ナショナリズム」とは必ずしも一致するものではありませんが、しかし、その〈基底〉をなすがごとき共同性の意識が存在するだろうということです。それは、同じ言語や習慣、宗教や文化といったものを共有する者同士の感情あるいはそれへの〈帰属〉意識であり、あるいは、また、同じ風土や自然や生活圏(市場圏あるいは再生産圏)を共有する者同士としての感情あるいはそれへの〈帰属〉意識と言ってよいだろうものです。こうした意識を、今は、仮に、社会における「同胞」意識と呼んでおきます。しかし、こうした意識は、家族愛などの身近な人々との共同意識と同じ様に、いわゆる、政治的すなわち排他的な支配ー従属関係の下に統合された「ナショナリズム」=「愛国心」とは性格を異にするものだと私は思うのです。すなわち、こうした「同胞」愛は、政治的な「愛国心」とは〈切断〉されて在るのです。しかるに、私たちの親の世代の多くは、戦前の「国家」主義な侵略戦争に動員された際、既存の「国家」=政府のために戦うことが、家族や隣人そして「同胞」のために戦うことだというレトリックや宣伝に包み込まれ、その本質を見誤ってしまったのだと思うのです。

     こうした国家主義的な「ナショナリズム」=「愛国心」の包摂・統合のメカニズムについては稿を改めたいと思いますが、今回は、「同胞」に平気で嘘をつき、また、「同胞」を死刑にすると脅かしながら、「同胞」の命と生活を「道具」として利用する〈戦争への動員〉が、一方では、国家的な敵対関係を故意に強調しながら、また、他方では、極めて原初的な身近な人々に対する愛情や社会の「実体」的な相互依存関係を基盤に必然的に生まれるだろう「同胞」意識を利用しつつ行われるということに、万全の注意が必要であると確認しておきたいと思います。しかし、また、開かれた同朋愛(家族愛や同胞愛・・・)は、両者の違いを認識している限りにおいて、そうした偏狭な「ナショナリズム」を批判し、超えることができるであろうことも確かだと思うのです。

     日本国憲法の「平和主義」を護り、実現しましょう!

 
     次回は、「日本人」あるいは「日本民族」とはなんなのか、という点について述べる予定です。
  


 

私にとって『愛国心』とは何か(1)―――一般ピープルの視点から

 ※ 我〈しもべ〉たる飼い主は、「ねえ,サロさん。私にとって、『わんわん』のサロさんと他の『人間』様とどっちが大切なんでしょうねえ」なんて言うんだよ。何の話だ?


  「政治」的愛国心の〈幻想〉性 ―――具体的に考えればすぐ分かることなのだが


     若い頃、自分にとって他の「命」とは何なのだと考えたあげく、近くの魚屋さんから「活カレイ」を買ってきて,自分で「料理」をして食べたことがありました。さらに、他の人間の「命」にも思いをはせた時、考えれば考えるほど,自分の「ヒューマニズム」なんていい加減なものだと思ったものです。しかし、他方では,近しい存在に感じる「愛」らしきものは確かなような気がしていました。こうして、私は、「博愛衆に及ぼす」といったタイプの人間ではなかったということもあって、いつも、「命」に対する混沌とした〈二重性〉の中で生きてきたような気がします。

     ところで、最近、「愛国心」とか「ナショナリズム(国民意識・民族意識?)」とかを煽る言動が目立ちます。しかし、私にとって、そのほとんどは,「美しい国」とか「美しい日本人」などと声高に叫びながらも、実際には、同胞を差別し,利用し、収奪する「政治」的な人間たちの操る「象徴」にしか感じられないのです。それは、美しいどころか,最近話題の「ヘイトスピーチ」に典型的に見られるように、強きに媚び弱きに差別的なその性格から、嫌悪感すら呼び起こすものと言ってよいのです。

     しかし、一般的に言うと、近代「主権国家」の「国民」意識たる「ナショナリズム」は、近代の市民革命や反植民地・独立闘争などで,いわゆる「進歩的」な役割を果たしたと肯定的に評価されることも多々あったのです。なぜなら、それは、封建的王家や植民地本国(外敵)に対抗して、「国民」の一体感や共同性の意識を高める上で重要な働きをなしたからです。ただ、私は、「国民的なるもの」の〈客観的〉な基盤についての検討は不可欠だと考えてはいるものの、いわゆる「ナショナリズム」の「権力政治」的性格については、常に厳重な警戒が必要であると考える一人です。

     つまり、国民間・民族間の「敵愾心」を煽るところの「権力政治」的愛国心は,その国家間・民族間の関係が政治的・経済的・社会的「支配-従属関係」(差別的な関係)として形成・維持されているような場合は、ある程度、客観的な根拠を持つということができるかもしれません。しかし、実際は、そうした関係は、(恐らく常に)そう単純な対抗関係に還元できるものではなく、帝国主義時代の植民地支配や戦後日本の米軍による「間接統治」、そして、目の前に展開するアメリカン・グローバリズム下での諸関係などをみても明らかなように、極めて複雑で錯綜した性格が見られるといってよいのです。つまり、もともと、そうした複雑な関係を、単純なステレオタイプ的な視角で捉えること自体が〈幻想的〉なのです。

     そうしたなかで、国民間・民族間の「敵愾心」を一方的に煽る行為は、そうした「敵愾心」を生み出すところの対立関係を〈合理的に〉解決していこうとする努力をではなく、かえって、その関係を固定的、不可避的なものとして捉え、その対立・衝突を力で解決する方向に国民を導くことになるのです。そして、さらに重要なのは、それが、一方で、〈国民〉の一体性や共同性を強調しつつ、他方では、〈外敵〉に対してだけではなく,国内においても、自らに批判的な勢力を〈敵〉=〈非国民〉として抑圧・弾圧しようとする意図をあからさまに示す傾向が強いことです。しばしば、国内的な分裂と支持基盤の弱体化に直面した政権が、国民の目を〈外敵〉に向けさせ、「愛国心」を強調したりするのはこうした性格の一面を表わしているといってよいでしょう。
     
     勿論、外国や多民族に対して一方的な「敵愾心」を煽る思考法は、一般ピープルの日常生活の意識からしても無理があると思われます。例えば、同じ「日本人」といっても、私たちを傷つけ、危害を加える人間もいますし、「外国人」であっても、大変親切で,私たちの命を救ってくれる人さえいるからです。私の狭い人生経験の中でも、あの「日本人」たちは私の大切なものを傷つけ奪ったけれど,あの外国籍の人たちは,私を勇気づけ助けてくれたといった経験は、少ないながら、確実にあるのです。つまり,日常生活のなかで通常の接触や交流がある限り、日本人は○○で,××人は△△だ,といった固定的な考え方は、話としては面白いところはあるものの、具体的・個別的に考えるならば、〈幻想〉にすぎないことは容易に理解されるでしょう。「好き・嫌い」という観点からいっても、「国際結婚」をする人もいれば,外国人のタレントやアスリートに夢中な人もいるからです。

     ただ、問題なのは、こうした「政治」的愛国心に微妙に共鳴するところの「愛国心らしきもの」が私のなかにあり、それを彼らが利用しようとしていること、歴史的にいえば、そうした偏狭な「政治」的愛国心が、一定の集団的な「共同性」・「一体性」の形成・糾合に成功しているらしいところにあります。このことに対する明確な自覚と反省的視点を欠いては、またぞろ、そうした偏狭な意識の蔓延を許してしまうことになるでしょう。次回には,この点について考えたことを述べたいと思います。


  ※ どこかの本で読んだのですが、船が沈没寸前で、怖がる乗客を船から避難させなければなりません。その時,なんといえば良いでしょうか。(私の記憶によれば・・・・)
     フランス人に対して、「飛び込んじゃだめだ」
     ドイツ人に対して、「法律で飛び込むように定められています」
     アメリカ人に対して、「飛び込めばヒーローになれるよ」
    そして、
     日本人に対して、「みんな飛び込んでますよ」

    さて,あなたは,「何人」型ですか。”ナショナル・アイデンティティ”が問われますね。
プロフィール

SARO MURIKI

Author:SARO MURIKI
おりこうさんのワンワンです。年齢は、2018年11月現在満12歳です。見てのとおりの柴ですが血統書はありません。性別はオスで、飼い主には、朝夕、45分ずつ2回の散歩を義務付けているVIP犬、正確に言うと、VIDです。文句あっか?!

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