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”不幸”を生み出す職場の現実――『七つの会議』を観て

見え見えな「支配」の基底的構造
 ―――「働くこと」の意味を改めて考えた


   ※このところギターをいじっている。一時は「禁じられた遊び」がかろうじて弾けるようになっていたが、ギターの調子が悪かったので、長い間、屋根裏に放置してあったのだ。しかし、2週間ほど前、楽典の本と一緒に図書館から借りたCD「アルハンブラの想い出」(荘村清志)を聴いて、もう一度ギターをいじりたくなった。そこで、ペグと弦を交換し、(音叉の代わりに使う)クリップ式チューナーまで買って、バネ指にもめげずにw、ギターをいじっている。結構楽しい。

   さて、先週、池井戸潤原作、福澤克雄監督、野村萬斎主演の『七つの会議』を観てきた。この作品は、現在、邦画の観客動員数第1位ということだ。野村萬斎と池井戸作品の「オールスター」がその演技をぶつけ合う様は、流石に見応えがあると感じた。萬斎は、狂言も観たことがあったが、この現代日本にも、彼の演ずるような人物が「このあたりの者でござる」と存在してくれたなら、さぞかし住み良い社会になるだろうと思ったw。また、『昆虫すごいぜ』の(カマキリ)香川照之は本当に貴重な俳優だ。『カイジ』から『ジョン・ラーベ』まで、彼に代わりうる俳優はちょっと想像できない。

   映画の筋について言えば、おそらく、日本の企業社会を経験したことがある人ならほとんど誰もが、「あった、あった!」とか「ある、ある!」とか言って、苦笑したり、あるいは、「鬱になりそう!」と感じたのではないだろうか。そこには、日本の「組織(官・民・軍)」に通底する〈支配ー隷属〉関係とそれを正当化する〈意識〉と〈文化〉の”ひだ”が実感できるといえよう。しかし、我国の歴史と文化には、それに対抗しうる「義」に基づく「企業倫理」や「職業倫理」も明確に存在したのだ。しかし、それを無残にも「おちょくった」のが、アベ政治の内政や外交に典型的にあらわれている、ボッタクリの〈新自由主義〉と究極の恥知らずと言える〈歴史修正主義〉に他ならない。役所広司がニヤついていたが、偽装にしても、隠蔽にしても、忖度にしても、ボスの言い逃れにしても、それはアベとアベ友がやっていることそのものといえるのだ。しかし、この映画自体にも表れているように、見る人は見ているのだ。最近のアベの”強がり”も、トランプのそれと同じで、窮地に立たされているが故の「悪あがき」というしかあるまい。いやはや、とんだ迷惑というものだ。次回は個別的な事案について述べて見たい。

   それにしても、日大アメフトの内田前監督は、自民党や検察や警視庁と”仲の良い”お友達なんでしょうねえ。最近は、つくづく、この日本もしっかり”政権交代”をして”巨悪”を裁いていかなければダメではないかと感じるようになった。善も悪も人間のものだ。そして、暴力も非暴力も自然なものだ。それ故に・・・、甘ちゃんの私の「政治(家)不信」がここまできた。彼らの良識には任せられないのだ。
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チェ・スンホ監督『共犯者たち』を観た     ―――韓国における〈報道の自由〉のための闘い

 『記者が黙った 国が壊れた』
        長期保守政権による言論弾圧、 
   主犯は大統領、共犯者は権力におもねる放送人(パンフより)



   先日、Mさんの紹介で東中野のポレポレで上映されている、チェ・スンホ監督の『共犯者たち』を観てきた。Mさんは少年時代新宿区に住んでいたこともあって、当時は富士山も見えたという起伏の多い地形をたどって、高田馬場から東中野まで歩いて行った。東京の紅葉が美しい季節でもあったが、70年前後の東京の「下町」の雰囲気が残っているように感じられた。

   映画の内容は、イ・ミョンバクやパク・クネ政権による言論弾圧、そして、それと「共犯関係」を結んだKBSやMBC上層部の実態を明らかにする”ドキュメンタリー”だった。圧巻だったのは、こうした動きに対して報道の自由を守るため、過酷な弾圧や懐柔を跳ね返して闘うプロデューサーやジャーナリストたちの姿だった。映画館はなんとこのご時世に満席だったのだが、多くの人々が「なぜ韓国の人々は長期保守政権を終わらせることができたのか?」という問の答を求めて来ていたのかもしれない。事実は小説よりも面白い。必見の価値ある作品と思われた。

   アメリカの「ブルーウェーブ」そして韓国の「キャンドル革命」―――米韓の「一般ピープル」の”パワー”は、知れば知るほど衝撃的なものだ。映像を通してではあれ、そうした彼らの姿を目の当たりにすると、日本の「一般ピープル」たる私は、自分(たち)の不甲斐なさに「恥じるしかない」と感じるのだ。また、同時に強く感じるのは、アメリカや韓国には、日本とは比較にならないぐらい多数の”まっとう”な「知識人」・「エリート」が存在しているらしいことだ。日本にも、望月氏や前川氏をはじめ、”まっとう”な「知識人」・「エリート」はいる。しかし、彼らと連帯して闘う「同僚」の数は、米韓に比較して著しく少ないと言えるだろう。さらに、アメリカや韓国の動きの中には、若者や女性たちの圧倒的な存在感がある。しかし、日本の場合には、それは極めて限られたものでしかない。そして、こうした日本の現状が、このどうしようもない〈アベ政治〉の長期化を許しているのだろう。それは、歴史的に形成されてきた日本の「〈政治〉文化」(人権意識、主権者意識等々)の現れという他あるまい。

   実は、こうした現状こそ、私がずっと前から書きたいと思っている「なぜ悪逆非道で”反国民”的なアベ政権が続くのか(6)―――反政治的心情と政治的無関心」のテーマなのだ。しかし、これは大変書きにくいものでもある。というのは、考えれば考えるほど、アベ達への怒りはもちろんなのだが、自分自身をも”嫌”になってしまうからだ。これに対して、このドキュメンタリー映画は、韓国のエリートと民衆が日本の私たちが抱えている「限界」を見事に乗り越えていることを伝えている。いやはや、「嫌韓」どころか、彼らの「直情的なほどの『まっとうさ』」(小熊英二)に「恥じ入る」ばかりなのだ。しかし、恥じ入っていても仕方がない。今度は、私たちが私たちの『まっとうさ』を実現する番なのだろう。

   

『ペンタゴン・ペーパーズ』を観た

  アメリカ「人民」の矜持
     ―――「公共」的理念を体現するヒーローとして!


   ※昨日、映画から帰ってテレビをつけてみると、高畑勲氏が亡くなったことが報じられていた。82歳だった。私が一番泣かされた映画は『火垂るの墓』だったし、また、最近見た映画の中で最も印象的な作品は『かぐや姫の物語』だった。私も、彼のように、美しい自然と愛すべき人々を慈しむことのできるような人生を、そして、もっと長生きしたいと思えるような人生を生きなければならないとは思うのだ。しかし、私は、高畑氏と先日自殺した西部氏とのどちらに似ているのだろう。ただ、高畑氏には、衷心よりご冥福をお祈りしたいと思う。

   さて、昨日、私は、「奥さん」と「姉貴」と共に、ステーヴン・スピルバーグ監督作品『ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書』を観てきた。1971年の「ペンタゴン・ペーパーズ」の暴露当時、私はまだ大学生で、ベトナム反戦運動に大きな影響を与えたこの事件についてかなりはっきり記憶している。さらに、『ソフィの選択』のメリル・ストリープと『グリーンマイル』のトム・ハンクスという2大名優の共演は大変魅力的で、数ヶ月前から楽しみにしていた作品だった。見終わった感想も、微妙なニュアンスの把握に難しさも感じたが、アメリカ「人民」の「個」としての矜持が強く感じられ、感動させられる作品だった。

   私が大きな感銘を受けたスピルバーグの作品に『アミスタッド』(1997年)があるが、それは、奴隷貿易が行われていた当時のアメリカで、黒人奴隷の解放のために闘ったアメリカ白人(弁護士と政治家)の物語である。困難な状況の中でも、建国の理念を我がものとしつつ、ごく当然のことのように粘り強く闘う彼らの姿は眩しいほどだった。また、今回の『ペンタゴン・ペーパーズ』は、「合衆国憲法」修正第1条(言論・報道の自由など)の精神を〈体現〉し、「報道の自由は報道によってしか実現できない」と、強大な国家権力に抵抗するリスクを負いながら、人民のため、国家の最高機密の紙上への掲載を決断・実行した『ワシントンポスト』紙の女性社主と編集主幹の物語だ。アメリカには、こうした「理念」を勇気を持って貫く、強い「個」(「ヒーロー」たち)が少なからず存在し、それがアメリカの〈公共〉的世界を作り出してきたといってよいのだと思う。そして、こうしたことこそが、例えば、トランプ政権下、「銃規制」を求めて広範に活動する高校生たちの動きの基底となり、彼らの表情に「アメリカ人民」としての〈矜持〉を浮かび上がらせているのだと思う。

  もちろん、ニクソンやジョンソンだけではなく、ケネディもマクナマラも国民に「嘘」をつく権力者に他ならなかった。しかし、そうであっても、ベトナムへの軍事介入を推し進めたケネディは、その後、ベトナムからの米軍の撤退を考えていたのであろうし(『JFK』)、また、のちに、あのトンキン湾事件の真相を含む『回顧録』を書いたマクナマラは、後日の検証のために、ベトナム戦争関連の記録をまとめるよう指示していたのだった。そして、そうした研究員の一人こそ、「ペンタゴン・ペーパーズ」をリークした、エルズバーグに他ならない。つまり、ベトナム戦争の誤りに気づいたアメリカ「エリート」の一部の動きが、アメリカ「人民」に真実を伝えることになったこの事件の基を準備していたということになるのだ。もちろん、アメリカ人はエルズバーグやキャサリンやベンのような人物ばかりではない。そして、さらに、彼らとて「聖人」というわけではない。しかし、アメリカの「公共」的世界には、自浄作用を働かせることが出来る「制度」と「文化」、そして、なによりも、権力に対峙する「人民」とそれと有機的に結びついた「知識人」・「エリート」が存在していると言えるのだ。トランプ政権の樹立を機に、スピルバーグによって製作されたこの映画も、その表れの一つに違いない!

   また、この映画を見ながら、私は、これは私たち日本人のために作られたのではないかという錯覚さえ覚えた。もちろん、それは、モリ・カケをはじめ、これまであきらかにされてきたアベ政権と官僚機構による情報の隠蔽・捏造・改竄の有様がその背景にあるからだろう。そして、真実の解明をことごとくサボタージュしてきた挙句、次から次へと明らかになってくる事実を前に、その醜い〈反国民〉的本性を晒しているのは、「アベ友」ばかりなのではない。今、眼前の「アベゲート」をしっかりと批判できない連中は、アベと同じ穴の狢に他ならない。私たちは、アベであろうが、トランプであろうが、プーチンであろうが、習近平であろうが、キム・ジョンウンであろうが、政治権力の独裁的・専制的な行使を許してはならないのだ。『ペンタゴン・ペーパーズ』が提起している問題は私たちにとって極めて身近で深刻なものと言えるのだ。

   私がこのブログを書き始めた時、「奥さん」と「姉貴」は、早速、借りてきた『大統領の陰謀』を観ていた。私は、今、『シンドラーのリスト』のシンドラーや『プライベート・ライアン』のミラー大尉のことを考え始めている。政治や権力者に翻弄されながら、「一般ピープル」はどのようにその「志」を貫き、生きていくことができるのか。難しい!しかも、人生は一度しかないのだ。

花とワンワン
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『Thunderbolt Fantasy 東離劍遊紀 』考

  「武侠」ファンタジーの傑作
      ―――”渋い”セリフがなんとも言えない!

   

   ※サロさんとの散歩から帰ってきた。関東の冬空は本当にきれいだ。ところで、バイクにも乗れるようになったので、先日、シネマ歌舞伎『め組の喧嘩』(「平成中村座」における2012年の公演)を見てきた。故中村勘三郎の辰五郎をはじめとする大写しにされた歌舞伎役者の表情と観客と一体となった歌舞伎小屋の熱気が印象的な作品だった。〈町火消し〉と武家をバックとする〈力士〉との喧嘩を描いたものであったが、火消しの親方とその妻そして鳶衆の「儒教」的倫理の内面化の有様が大変興味深かった。「匹夫の勇」などと揶揄する声も聞こえてきそうだが、終幕近くの町奉行と寺社奉行の権威に基づく「収め(あずけ)」は「ご愛嬌」として、「一般ピープル」が「元気」であることは悪いことではないだろう(中江兆民「人民の元気」)。そこには醜悪な「巨悪」への批判的視点の萌芽も感じられるからだ。


   ところで、一昨日、「2nd兄貴」が、豊洲に、新作『Thunderbolt Fantasy 生死一劍』を見に行ってきた。かなり面白かったらしい。そこで、私は、前作『Thunderbolt Fantasy 東離劍遊紀 』(全13話)の方を振り返ってみることにしたい。この作品は、台湾の人形劇「布袋劇」と日本の脚本家・虚淵玄(うろぶちげん)らが共同制作したもので、その革新的な映像と内容は、T.M.Revolutionの主題歌「RAIMEI」(作詞・井上秋緒、作曲・浅倉大介)とともに、老輩たる私にも大変興味深く感じられるものだった。とりわけ、キャラの設定とそのセリフが「渋い」!2回見ただけなので正確さには欠けると思うが、私が感じたエッセンスを書き留めておくことにする。

   さて、この作品には「武侠人形劇」とか「武侠ファンタジー」と言う「副題」が付いている。この〈武侠〉とは、強きをくじき、弱きを助けることをたてまえとする人物のことで、唐代に成立したおなじみ『水滸伝』などは「〈武侠〉小説」と呼ばれるわけだ。また、〈武侠〉の日本における「一般ピープル」版が「町奴」であり、先に取り上げた『め組の喧嘩』は、江戸末期の町火消し(「を組」)、侠客ー町奴の「新門辰五郎」をモデルにしたものと考えられる。もちろん、『東離劍遊紀』の〈武侠〉たちは「剣客」なのであるが、そこには、私の興味をそそる、ちょいと「屈折」した「哲学」が語られている。 

   物語の概略は割愛するが、それは、かっての〈大戦争〉を封じ込め封印されていた「天刑劍」を「最強の剣」として奪い取ろうとする蔑天骸(ベツテンガイ)に対し、護印師の一族で「義」をもってそれを護り抜こうとする丹翡(タンヒ )をたまたま助けることになった「大盗賊」凜雪鴉(リンセツア)と「刃無鋒」殤不患(ショウフカン)の二人が、それぞれの思惑から彼らと同行することになった「剣客商売」の狩雲霄(シュウンショウ)・「武勇の名声」に憧れる若き捲殘雲(ケンサンウン)・殺し屋で冷酷非常な「剣鬼」殺無生(セツムショウ)・冥界生まれの「妖人」刑亥(ケイガイ )らと共に凄まじい武闘を繰り広げる、奇想天外なファンタジーである。ただ、ここでは、彼らが交わす会話の中に現れている、「剣」や「武」に対する「思想」に焦点を当ててみたい。
      
   さて、物語の登場人物の中で、「剣」や「武」について最も平凡で単純な議論を展開しているのは、武芸によって現世的利益を求め卑怯な手口も厭わない狩雲霄であり、また、武芸の「栄光」をただ只管追い求める捲殘雲だ。ただし、捲殘雲は後に丹翡や殤不患との関わりの中で「義」に目覚めていくことになる。しかし、このファンタジーの中でとりわけ興味深いのは、「剣」や「武」に信仰的な〈幻想〉を抱いている殺無生や蔑天骸、そして、それらに対して人としての〈限界〉や〈優位〉を自覚している凜雪鴉や殤不患である。

   殺無生は、「剣の道は必然性の探求」であるとし、唯只管「強いものが勝つ」といった「運命」の観念にとらわれて、自分をも含めた人の〈生死〉に対する人間らしい感覚を欠いた「サイコパス」的人物だ(「いかれてやがる」)。また、蔑天骸は、「剣」とは「力の証」・「生死を分かつ絶対的真実を形にしたもの」と捉え、富も栄華も権力もこの「滅びの力」の前には泡沫に過ぎないとする「〈暴力〉至上主義者」だ。また、彼にとって早さこそが剣技の極意であり、自らを「無双の強さ」に到達したものとして、周囲にその「覇者の気風」を撒き散らしている。

   これに対して、凜雪鴉は、「剣の道」は極まれば「真理」に通ずるとしながらも、その「道」がたどり着く先は「山の頂などはなく、無辺の海原のようなもの、極めるほどに果てが見えなくなる」ものであって、「無双の強さ」など幻想だとする。そして、蔑天骸を上回るほどの技量に到達しながらも、「剣の道」の奥深さを侮らないが故に、その探求に〈飽きて〉、それを放棄したと言う。また、彼の魂の愉悦は、人を欺き、踊らせ、陥れて遊ぶことにあるのであって、もし彼が修めた「剣(殺人剣)」の「正道」を貫けば「邪道」を絶ってしまうことになり、それでは、彼にとって最も面白い「狡猾で野心家の、誰よりも自分が強くて賢いと思っている」悪党をからかって遊ぶことが出来なくなってしまうとも言う。確かに、人に屈辱と絶望を与えて喜ぶ凜雪鴉は屈折した「ど外道」と言ってよいだろう。しかし、彼は、決して「弱い者いじめ」なのではなく、思い上がった悪党(「強き」)を挫く、「義賊」の「愉快犯」的な一変種(人間としての限界ー挫折を見つめているが故に?決して「軽い」性格ではないのであるが)と言って良いだろう。そして、巨悪がのさばるご時世にあっては、こうしたキャラクターが我々「一般ピープル」にとって比較的受け入れやすい存在になるとも言えるのだ。

   最後に殤不患であるが、彼は、斜に構えてはいるものの、極めて自省的かつ謙虚で、また、義と人情に厚い人物として描かれている。また、彼の生き方には、闘いに際して「俺が選んで俺が切る」とか、「正しくあろうとしたことは悔やむんじゃない」とかいった言葉に表れているように、「真理」や「本質」に対する「信仰」的確信とは異なる、個(主体)としての「実存的選択」の意識が強く窺われるように思われる。そして、彼が選び取っていった「剣」と「武」に関わる生き方とは次のようなものであった。まず、彼は、刀剣など所詮道具に過ぎず、結局それを持つ人間次第だと言ってのける。まさしく、彼の「人間の主体性」への基底的な信頼感の表れと言えるだろう。しかし、「剣」は、〈人心を惑わし天下を乱す〉厄介な代物でもある。確かに、「剣」は「強さ」や「支配力」や「勝つ」ことへの人間の「思い」を肥大化させ、また、そうした力能を象徴する物神崇拝的対象となって、人々の心を惑わし、戦いを引き起こす原因にもなるからだ。そこで、彼は、故郷「西幽」を回って、そうした魔剣・妖剣・聖剣・邪剣36振りを集めて、それを捨ててしまおうとしたのであった。また、「武」について、彼は次のように言う。「人を斬るのが難儀なのは、当然だろ?。どこまで技を極めようとな、剣を振るうのが軽々しく簡単になちゃいけねえよ。だが、俺ぐらい性根が俗物になると、常に自分を戒めているのも面倒なんでな、いっそ刃の付いた剣なんぞ持ち歩かないほうが良い」。こうして、彼は剣に見せかけた木刀を腰に流浪の旅を続けたのである(「刃無鋒」)。

   私は、少々剣道をかじったことがあり、これまでも、このブログで「『SAMURAI SPIRIT』考」なる記事を書いたことがあった。つまり、私自身も、人間にとって「剣」や「武」は何を意味するのかを考えてきたわけだ。もちろん、「剣(刀)」は一つの道具(手段)であり、問題はそれを扱う人間の「思想」(目的)であるということは一般論としては言えよう。しかし、原子力も同じだが、それが人間を殺傷する〈桁外れ〉の能力を持つ以上、それを通常の道具と同じように安易に考えてしまうことはできない。銃砲刀剣類や軍事装備ー兵器に対する規制・削減・廃絶が考えられなければならない理由もそこにある。また、そうした「武器」を用いることは、まさしく、「武士道」のようなより突っ込んだ思想の形成を必然化させたとも言い得るのだ。こうした意味において、この物語の中で展開されるキャラクター間の会話は、そうした問題を再考する上で大変興味深い素材を提供してくれていると言って良いと思う。

   最後に、私は、こうした物語の展開の中に、「道教」的あるいは「老子」的な思想―――さらに言えば、東洋的な虚無(相対)主義(荘子など)をも突き抜けるなんらかの思想―――が看取できるのではないかと考えている。実際、作者の筆名〈虚淵玄(うろぶちげん)〉にもそれを読み取ることができるのではないか。つまり、「玄」(根源的な道)は「(空)虚」にして「(深)淵」、これは「老子」の思想に他ならないからだ(例えば、蜂屋邦夫著『図解雑学 老子』参照)。実は、私も、私自身の考え方を、東洋的な思想の流れの中で、「義理と人情と平和主義」などとふざけて表現したことがあった。いうまでもなく、「義理と人情」は〈孔子〉(儒教)的概念である一方、「平和主義」は、トルストイやガンジーの思想にも継承された、〈老子〉的なそれと近似したものと言えるのである。また、「武士道」との関連でいえば、この物語の殤不患=「刃無鋒」は、まさしく、「武」を捨てきれなかったとはいえ、〈無刀〉・〈活人剣〉の思想に接近した人物と理解して良いのだと思う。娯楽作品にはいろいろな楽しみ方があるが、表現者たる虚淵玄にこうした「思想」性があったとしても少しもおかしくはないだろう。

   さて、明日は、もし晴れれば、虚淵が脚本を担当した『GODZILLA 怪獣惑星』でも観に行ってみようかと思う。さて、どんな作品だろうか。

オリバー・ストーンの『スノーデン』を観てきました

〈監視国家〉と人間の自由の核たる〈プライバシー〉
   ――権力の濫用と暴走に抵抗するアメリカの市民たち 



   ※先ほどテレビを見ていたら、トランプとアベが抱き合っていました。本当に気持ちが悪い‼️ いくら「似た者同士」とはいえ、あの〈節操〉の無さは、まあ「恥」と表現する他は無いでしょう。それにしても、合衆国の理念・憲法に反するトランプの暴走に対して敢然と立ち上がっているアメリカの「エリート」と「市民」はやはり大したものだと思います。それに対して、トランプにも劣らないアベの〈暴走〉を許している日本の「エリート」と「国民」は一体どうなっているのでしょう。これからも、「日米同盟の強化」と言う名の下に、アベ「買弁」勢力による軍事的・経済的な〈対米従属〉が推し進められていくのでしょう。つくづく情けなく思います。

   さて、先日、前から楽しみにしていたオリバー・ストーン監督の『スノーデン』を観てきました。この作品は、元CIA(中央情報局)及びNSA(国家安全保障局)職員だったエドワード・ジョセフ・スノーデンが、アメリカ国内はもちろん世界全体にまで張り巡らされた、NSA・CIAによる大規模監視の実態を〈内部告発〉した事実に基づいたものです。この〈内部告発〉については、映画にも登場し、この件に直接関わったグレン・グリーンウォルトの著書『暴露 スノーデンが私に託したファイル』やローラ・ポイトラスの映画『シチズンフォー スノーデンの暴露』、そして、NHK/BS世界のドキュメンタリー『NSA国家安全保障局の内幕』(全3回)などで詳しく知ることができます。グレン・グリーンウォルトの本は、憲法と市民権専門の弁護士であった彼の本領が遺憾無く発揮されたもので、とりわけ、第4章「監視の害悪」はこの問題を考える上で大変参考になるものです。また、ローラ・ポイトラスのドキュメンタリーは、まさしく、スノーデンの「暴露」の過程を直接撮影したもので、スノーデン本人の人柄を感じとる上でも極めて貴重な記録といえましょう(本物のリンジーも写っています)。また、BS世界のドキュメンタリーの『NSA国家安全保障局の内幕』も、より長いスパンで問題が掘り下げられており、これからも再放送されると思われますので、未見の方には是非お勧めしたいと思います。

   それでは、今回のオリバー・ストーン監督作品について、私自身の感想を幾つか述べておきます。

   まず、第1に、この作品が国家権力の闇に光を与えた(「彼らが恐れるのは光です」)スノーデンに対するオリバー・ストーン監督の共感に支えられているだろうことはもちろんですが、これは、あくまでも、興行用の作品として作られたものです。そして、こうした観点から考えても、私には、オスカーをとった『プラトーン』や『7月4日に生まれて』、そして、『JFK』や新自由主義的な(国際)金融資本の不条理を巧みに描いた『ウォール街』や『ウォール・ストリート』よりもはるかに感動的で、彼の最高傑作なのではないかと感じられるのです。主人公であるスノーデンの視点から構成されるヒッチコックばりのスリルとサスペンスに満ちた展開、そして、「ヒーロー」としてのスノーデンの人格や思想に対する抑制され考え抜かれた表現、そして、「十年来の恋人」リンジーとの緊張感あふれる関係等々、2時間が大変短く感じられる作品でした。
      
   第2は、日本に関連する興味深い指摘です。政府はNSAやCIAによる大量監視体制(「全てを収集する」)をテロ対策を名目にして正当化しようとするわけですが、実際は、テロ対策としての効果などほとんどないに等しいと指摘されるものなのです。これに対して、実際に行われているのは、その大部分が、国内の「政敵」や外国に対する外交的・経済的な目的にのための諜報活動です。そうした例の一つとして映画で取り上げられているのが、Xkeyscoreを用いた個人情報の収集やマルウェア(悪意ある不正ソフトウェアやプログラム)によるハッキング行為です。映画では、スノーデンに「日本の通信システムの次にインフラも乗っ取り、密かにマルウェアを送電網やダム、病院にも仕掛け、もし日本が同盟国でなくなった日には、日本は終わりだ」と語らせています。この点について、来日したオリバー・ストーン監督は、1月18日の記者会見で、「スノーデン自身から僕が聞いたのは、米国が日本中を監視したいと申し出たが、日本の諜報機関が”それは違法であるし、倫理的にもいかがなものか”ということで拒否した。しかし、構わず監視した。そして、同盟国でなくなった途端にインフラをすべて落とすように民間のインフラにマルウェア(不正プログラム)が仕込んであるというふうなことです」と述べています。(この点については、「IWJ Independent Web Journal」
:http://iwj.co.jp/wj/open/archives/357253や「デイリー新潮」:http://www.dailyshincho.jp/article/2017/02020557/?all=1、などの関連記事を参照してください。)こうしたアメリカの「同盟国」にも向けられた「サイバー攻撃」の動きに対して、少なくとも2009〜2010年の民主党政権は抵抗したようですが、その後成立したアベ「買弁」政権は、自らの集団的利益の実現のために、アメリカの世界支配の目論見に無批判的に盲従し、自国民の基本的人権を売り渡そうとしてきたのです。「特定秘密保護法」の強行採決や「共謀罪」成立への策謀はそのことを明確に示すものです。ただ、いくらすり寄っても、一心同体の「ファイブアイズ(米英加豪新)には入れてもらえないのです。本当に、本当に恥ずかしいことです。
  
   最後に、どうしても考えざるを得ないのが、良心に従い、恵まれたキャリアや生活を犠牲にしてまでも、人間の自由を守るために行動するスノーデンのような「強い個」がどうしてアメリカに次々と出現するのかということです。日本の場合には、「強い個」というと、主に武士身分に浸透した儒教的倫理の影響といった事例を見ることが多いように思われますが(本当か?)、アメリカの場合は、やはり、「普通の人々」にまで浸透した自由・平等・独立といった価値意識(「独立自尊」?)が強く感じられるといえるでしょう。それにしても、国民に対する全般的な監視体制(「プライバシーの侵害」)による管理主義的な誘導・操作の効果(従順さを生み出す権力への同調圧力)は、日本においては、いっそう深刻な意味を持っているよう考えられます。話を戦後に限ってみても、長い間の「管理主義教育」や企業による「能力主義的管理」に慣らされてきた日本民衆は、それに対抗する〈生きた人間〉としての〈潜勢力〉を反省的に自覚することができるのでしょうか。私たち日本民衆の一人一人に問われていることのように思われます。

プロフィール

SARO MURIKI

Author:SARO MURIKI
おりこうさんのワンワンです。年齢は、2018年11月現在満12歳です。見てのとおりの柴ですが血統書はありません。性別はオスで、飼い主には、朝夕、45分ずつ2回の散歩を義務付けているVIP犬、正確に言うと、VIDです。文句あっか?!

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