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『忘れられた 戦後補償』を観て―――一般ピープルに犠牲を押し付けて恥じぬ卑怯者たちの群れ

こういうのって、“卑怯”って言うんじゃないか!
 ―――「ともあれ失政の責任をとるわけでもなく、数々の疑惑を説明するわけでもなく、再び病気を理由に首相はやめる」(『東京新聞』、8月29日、「こちら特報部」、デスクメモ)


   アベの辞任発表後の新聞で最も興味深かったのは、三木義一さんが、アベの辞任とカワイ夫妻の買収事件とを関連させ、「立花隆氏の著書によれば、安倍氏の祖父の岸信介氏は、ロッキード事件で検察との話し合いで政界を引退したと言われている。辞任の背景にこうした事情が絡んでいなければよいが」とコメントしていたことだ。検察との取引?確かに、この裁判の成り行きはアベ政治を終焉させるための一つの重要な条件となる。日本の司法が本当に憲法と国民のために(権力者のためにではなく)働きうるのかをしっかりと注視していかなければならない。また、辞任を表明したアベは、任期中の”改憲”を実現できなかったわけだが、極右・ネトウヨ向けの「レガシー」として、「敵基地攻撃能力の保有」(→先制攻撃の容認)を置き土産にしようと画策している。これまでのアベの選挙では「北風」が大きな役割を果たしたが、今回は本命の「南風」にも期待して、次の総選挙での争点の一つにしようとしている。私たちは、喫緊のコロナ対策はもちろんだが、アベ友勢力の安全保障政策が私たちと私たちの大切な人々を守るものではないことをしっかりと見定めなければならない。こうした面でも、宿題だった『忘れられた 戦後補償』(NHKスペシャル)は学ぶところが大変多いと感じる。

   先の戦争で日本人は310万人の死者を出したが、そのうちの80万は国家総動員体制のなかで様々な形で戦争に協力した民間人だった。しかし、これまでの日本国家(政治家・官僚)はこうした民間被害者への補償をできるだけサボろうとしてきた。とりわけ、空襲被害者などには未だになんらの補償もなされていない。ところが、戦前、日本と三国同盟を結んでいたドイツとイタリアでは、軍人と民間人との区別なく、市民一人ひとりに補償する政策が選択されてきていたのだ。恥ずかしいことに、私は、この歳になるまで、こうした事実を意識することはほとんどなかった。知らないということは恐ろしいことだ。

   だが、戦前の日本には、軍人恩給だけではなく、総力戦に協力した民間人被害者に対する補償制度も存在していた(「戦時災害保護法」)。しかし、敗戦後、GHQはこれらを軍国主義復活の温床になるものとして廃止し、全般的な社会保障制度によって対応するものとした。これに対して、日本国家(政治家・官僚)は、主権回復後、軍人・軍属への補償を極力復活・強化する一方、民間人への補償は、限定的な「救済措置」は別として、一貫して抑制・否認する政策を採ってきたのだった。それでは、共に国策に協力し、犠牲を負った人々に対するこうした日本国家の対応の違いは何に起因したのだろうか。この番組では、前者に関しては、戦後に復権した旧軍人勢力や板垣正・日本遺族会事務局長(あの板垣征四郎の息子)らの「組織力」に言及している。板垣正によれば、国家存立の基礎は国のために死も辞さぬ精神であり、そうした犠牲的精神・献身的精神をこそ讃えたかったというわけだ。こうした考えから、恩給額には位階によって大きな差が設けられ、また、民間人犠牲者は軽視されることになったとも考えられる。つまり、戦後の「軍人恩給」などの復活・強化は、総力戦を組織し、その挙句、無残な敗戦を招いた日本国家が全ての戦争犠牲者に対して責任を負うというのではなく、逆に、戦前の日本国家(天皇ー軍人・官僚・政治家)が引き起こした非道で無謀な戦争を擁護・正当化する手段としての意味合いが強かったと言わざるを得ない。(私に言わせれば、一般の軍人犠牲者は当時の怪しげな国策への協力の故にではなく、そのことによって受けた犠牲の故に補償されるべきなのだ。)

   これに対して、120万人の民間人死者と1200万人以上の引揚者を出したドイツでは、1950年の西ドイツ「連邦授護法」で、国は全ての戦争被害者に対して責任があるとされ、被害に応じた補償がなされることになった。また、民間人死者15万人のイタリアにあっても、1978年の「戦争年金に関する諸規則の統一法典」で、軍人と民間人との区別のない補償が法制化されている。そして、こうした政策の背後には、「個人の被害に国が向き合うことは民主主義の基礎をなすものです。国家が引き起こした戦争で被害を受けた個人に補償することは、国家と市民の間の約束です。第二次世界大戦は総力戦で、軍人だけではなく、多くの民間人が戦闘に巻き込まれ亡くなりました。軍人と民間人の間に差があるとは考えられなかったのです。」(ゴシュラー教授)という考えがあった。

   では、日本における先に見たような「軍民格差」はどのような理由で生み出されてきたのか。この番組の優れた点は、この点をその政策決定に携わった官僚や政治家の直接的な証言から明らかにしていることだ。その証言については色々な見方が可能だろう。しかし、その要点は、戦争被害は国民一人一人が受忍すべきものであり、また、法律上、国家に補償義務はない、というものだ。彼らは「テクノクラート」とか「パワーエリート」とか呼ばれる「専門家」たちであったわけだが、私に言わせれば、日本国憲法の下、このような欺瞞的な理屈がなぜ通用したのかと驚くほかはない代物だ。

   まず、国家の「法的責任」云々について言えば、日本国憲法がそうした補償を否定するはずはなく、そうでなければ、なぜ「軍人恩給」は可能だったというのか。要するに、必要ならば独伊のように法律を作れば(あるいは「復活」すれば)良いだけの話だったろう。さらに、そこで持ち出された、「一億総懺悔」にも通じる「一億総受忍」なる詐欺まがいの言説は、結局彼らが何者であったのかを教えてくれるようにすら思われる。少し長くなるが、話を聞いてみよう。

   「国を挙げて国民全体がこの戦争に取り組んだことが事実で、別にそれで国民全体に責任があるという意味ではありませんけれども、国を挙げて総力戦でやって、戦争に負けて、無条件降伏をやった、そうゆうことですから、国民等しく受忍をね、受忍という言葉をよく使いますけれど、やはり我慢して耐え忍んで、再建を、復興を個人個人でそれを基本にして頑張ってもらいたい。本当に気の毒で気の毒だけれども、自力で頑張ってくださいと言うしかなかった。」(禿河徹映)

   さらに、「パンドラの箱を開けるようなことになっちゃ困る。交付金をやるようなことになりますと、やっぱり、広島の原爆で死んだのが何万とおるわけですね。そういう人は何も受けていない。やっぱりよこせと言うような議論が出てくる。」(河野一之)

   こうした理屈は、大蔵省や厚生省などの官僚によって、敗戦後から高度経済成長期そして経済大国化した1980年代に至っても、繰り返されたものだ。ここに見られるポイントは、大きく分けて三つだ。

   その一つは、戦前の戦争指導勢力の決定的な責任を曖昧化し、その責任を国民一人一人に拡散・転嫁していることだ(「一億総懺悔」)。一体、誰が、「一君万民」の擬制の下で「天皇陛下万歳」の音頭を取りつつ私欲・権勢欲に溺れ、杜撰な情勢分析のまま非道で無謀な侵略戦争を拡大させ、全国民を総力戦に巻き込み(国家総動員体制)、そして、戦争終結への責任ある展望もないまま、「神州不滅」とか「神風が吹く」とかのフェイクをかましつつ「本土決戦・一億玉砕」を叫び、その挙句、結局、天皇の「聖断」による無条件降伏に至らしめたというのか。おまけに、そんな戦争指導者たちは、確かに俺たちは号令をかけた、でも一般国民もそれを信じ乗ってきたわけだから、君達が損害を受けたからといって俺たちだけが悪いわけではなく、俺たちだけに責任を負わせるのはおかしい、と言うわけだ。しかし、まさしく、「民族」と「国体」を危機に落としめたこのような輩の議論は、(全てを「天皇陛下のため」と喧伝された)昭和天皇の立場からも、無責任極まりないものと映ったことだろう。

   さらに悪質と思われるのが、二つ目の、「一億総受忍」の中身だ。そもそも、日本が「大和民族」の「共同体国家」あるいは「家族国家」と言うのならば、その「国家」が遂行した戦争の犠牲に対して、「国家」あるいは「国民一人一人」がその犠牲者に対してできうる限りの補償を行うのが筋というものだろう(共同的な公的補償)。ところが、戦前の戦争指導者たちとその後継者たちは、「国民一人一人」に無限の犠牲を命令・強制しながら、軍関係者には靖国合祀と軍人恩給を提供する一方で、「国民一人一人」(実際には、空襲なのでの民間人犠牲者)には、「一人一人の受忍・我慢」を強いたのだ。私たちは、「鬼畜米英の敵性言語」“one for all, all for one”という言葉を知っているが、私たちが目にしたのは、恥知らずな棄民政策に他ならない。番組にも登場するように、「自助」を強いられ、力尽きて倒れた人々、困窮の果てに呻吟した人々がどれほどいたことか。それは弱者に負担を押し付ける「緊縮財政」の一種だろうが、もしこれらの民間人の方々の犠牲の上に戦後の復興と経済成長が成されたとすれば―――私はそんなことはないと思うが(!)―――、その間に見られたこうした政策決定者たちと民間人被害者との間にあった生活の質の差は決して公平と言えないだろう。そして、我々の親の世代と我々の世代は、こうした欺瞞を許してきてしまったのだ。

   三つ目は、さらに悍ましい、補償を求める人々への「敵意」に似た感情だ。それは、イタリア国家が示した「国家が持つべき(戦争被害者に対する)感謝の念や連帯の意」とは程遠い代物だ。補償を要求する人々は「やっぱりよこせと言うような」存在でしかない。かっての戦争指導勢力とその末裔にとって、国民への補償を認めることは彼らの戦争(=敗戦)責任を認めることでもあり、あらゆる法的あるいは超法規的理由を用いて避けねばならないものであったのではないか。そして、そうした彼らの姿勢は、戦争被害者の要求を「不当」なものとし、それ故、彼らに対する暴言や攻撃―――「国家の責任にして金をせびろうとする乞食根性」だの「欲張り婆さん、今更何をいっている。そんなに金が欲しいのか」など―――を助長ないし黙認することになったのだと思われる。この手の人々が実際何を手にし、誰に煽られていたかは想像の範囲内だが、これも戦後と「国家総動員体制」との“非切断”の一つ側面だったと思われる。

    『忘れられた 戦後補償』は、日本の戦後補償のあり方、そして、国家の戦争責任とは何なのかを改めて考える機会を与えてくれた。とりわけ、同じ敗戦国だったドイツとイタリアの事例は、日本の「国家(似非)エリート」の反「人民ー国民」性を対比的に浮かび上がらせてくれた。現在、私たちは先に挙げた戦前の戦争指導者の末裔たちと対面している。私たちには、再び、私たちをその権益や権勢に奉仕させ、私たちにとって無意味な戦争に動員しようとする「国家(似非)エリート」たちの「仕掛け」に流されない理性と感性が必要となってきている。
 
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”不幸”を生み出す職場の現実――『七つの会議』を観て

見え見えな「支配」の基底的構造
 ―――「働くこと」の意味を改めて考えた


   ※このところギターをいじっている。一時は「禁じられた遊び」がかろうじて弾けるようになっていたが、ギターの調子が悪かったので、長い間、屋根裏に放置してあったのだ。しかし、2週間ほど前、楽典の本と一緒に図書館から借りたCD「アルハンブラの想い出」(荘村清志)を聴いて、もう一度ギターをいじりたくなった。そこで、ペグと弦を交換し、(音叉の代わりに使う)クリップ式チューナーまで買って、バネ指にもめげずにw、ギターをいじっている。結構楽しい。

   さて、先週、池井戸潤原作、福澤克雄監督、野村萬斎主演の『七つの会議』を観てきた。この作品は、現在、邦画の観客動員数第1位ということだ。野村萬斎と池井戸作品の「オールスター」がその演技をぶつけ合う様は、流石に見応えがあると感じた。萬斎は、狂言も観たことがあったが、この現代日本にも、彼の演ずるような人物が「このあたりの者でござる」と存在してくれたなら、さぞかし住み良い社会になるだろうと思ったw。また、『昆虫すごいぜ』の(カマキリ)香川照之は本当に貴重な俳優だ。『カイジ』から『ジョン・ラーベ』まで、彼に代わりうる俳優はちょっと想像できない。

   映画の筋について言えば、おそらく、日本の企業社会を経験したことがある人ならほとんど誰もが、「あった、あった!」とか「ある、ある!」とか言って、苦笑したり、あるいは、「鬱になりそう!」と感じたのではないだろうか。そこには、日本の「組織(官・民・軍)」に通底する〈支配ー隷属〉関係とそれを正当化する〈意識〉と〈文化〉の”ひだ”が実感できるといえよう。しかし、我国の歴史と文化には、それに対抗しうる「義」に基づく「企業倫理」や「職業倫理」も明確に存在したのだ。しかし、それを無残にも「おちょくった」のが、アベ政治の内政や外交に典型的にあらわれている、ボッタクリの〈新自由主義〉と究極の恥知らずと言える〈歴史修正主義〉に他ならない。役所広司がニヤついていたが、偽装にしても、隠蔽にしても、忖度にしても、ボスの言い逃れにしても、それはアベとアベ友がやっていることそのものといえるのだ。しかし、この映画自体にも表れているように、見る人は見ているのだ。最近のアベの”強がり”も、トランプのそれと同じで、窮地に立たされているが故の「悪あがき」というしかあるまい。いやはや、とんだ迷惑というものだ。次回は個別的な事案について述べて見たい。

   それにしても、日大アメフトの内田前監督は、自民党や検察や警視庁と”仲の良い”お友達なんでしょうねえ。最近は、つくづく、この日本もしっかり”政権交代”をして”巨悪”を裁いていかなければダメではないかと感じるようになった。善も悪も人間のものだ。そして、暴力も非暴力も自然なものだ。それ故に・・・、甘ちゃんの私の「政治(家)不信」がここまできた。彼らの良識には任せられないのだ。

チェ・スンホ監督『共犯者たち』を観た     ―――韓国における〈報道の自由〉のための闘い

 『記者が黙った 国が壊れた』
        長期保守政権による言論弾圧、 
   主犯は大統領、共犯者は権力におもねる放送人(パンフより)



   先日、Mさんの紹介で東中野のポレポレで上映されている、チェ・スンホ監督の『共犯者たち』を観てきた。Mさんは少年時代新宿区に住んでいたこともあって、当時は富士山も見えたという起伏の多い地形をたどって、高田馬場から東中野まで歩いて行った。東京の紅葉が美しい季節でもあったが、70年前後の東京の「下町」の雰囲気が残っているように感じられた。

   映画の内容は、イ・ミョンバクやパク・クネ政権による言論弾圧、そして、それと「共犯関係」を結んだKBSやMBC上層部の実態を明らかにする”ドキュメンタリー”だった。圧巻だったのは、こうした動きに対して報道の自由を守るため、過酷な弾圧や懐柔を跳ね返して闘うプロデューサーやジャーナリストたちの姿だった。映画館はなんとこのご時世に満席だったのだが、多くの人々が「なぜ韓国の人々は長期保守政権を終わらせることができたのか?」という問の答を求めて来ていたのかもしれない。事実は小説よりも面白い。必見の価値ある作品と思われた。

   アメリカの「ブルーウェーブ」そして韓国の「キャンドル革命」―――米韓の「一般ピープル」の”パワー”は、知れば知るほど衝撃的なものだ。映像を通してではあれ、そうした彼らの姿を目の当たりにすると、日本の「一般ピープル」たる私は、自分(たち)の不甲斐なさに「恥じるしかない」と感じるのだ。また、同時に強く感じるのは、アメリカや韓国には、日本とは比較にならないぐらい多数の”まっとう”な「知識人」・「エリート」が存在しているらしいことだ。日本にも、望月氏や前川氏をはじめ、”まっとう”な「知識人」・「エリート」はいる。しかし、彼らと連帯して闘う「同僚」の数は、米韓に比較して著しく少ないと言えるだろう。さらに、アメリカや韓国の動きの中には、若者や女性たちの圧倒的な存在感がある。しかし、日本の場合には、それは極めて限られたものでしかない。そして、こうした日本の現状が、このどうしようもない〈アベ政治〉の長期化を許しているのだろう。それは、歴史的に形成されてきた日本の「〈政治〉文化」(人権意識、主権者意識等々)の現れという他あるまい。

   実は、こうした現状こそ、私がずっと前から書きたいと思っている「なぜ悪逆非道で”反国民”的なアベ政権が続くのか(6)―――反政治的心情と政治的無関心」のテーマなのだ。しかし、これは大変書きにくいものでもある。というのは、考えれば考えるほど、アベ達への怒りはもちろんなのだが、自分自身をも”嫌”になってしまうからだ。これに対して、このドキュメンタリー映画は、韓国のエリートと民衆が日本の私たちが抱えている「限界」を見事に乗り越えていることを伝えている。いやはや、「嫌韓」どころか、彼らの「直情的なほどの『まっとうさ』」(小熊英二)に「恥じ入る」ばかりなのだ。しかし、恥じ入っていても仕方がない。今度は、私たちが私たちの『まっとうさ』を実現する番なのだろう。

   

『ペンタゴン・ペーパーズ』を観た

  アメリカ「人民」の矜持
     ―――「公共」的理念を体現するヒーローとして!


   ※昨日、映画から帰ってテレビをつけてみると、高畑勲氏が亡くなったことが報じられていた。82歳だった。私が一番泣かされた映画は『火垂るの墓』だったし、また、最近見た映画の中で最も印象的な作品は『かぐや姫の物語』だった。私も、彼のように、美しい自然と愛すべき人々を慈しむことのできるような人生を、そして、もっと長生きしたいと思えるような人生を生きなければならないとは思うのだ。しかし、私は、高畑氏と先日自殺した西部氏とのどちらに似ているのだろう。ただ、高畑氏には、衷心よりご冥福をお祈りしたいと思う。

   さて、昨日、私は、「奥さん」と「姉貴」と共に、ステーヴン・スピルバーグ監督作品『ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書』を観てきた。1971年の「ペンタゴン・ペーパーズ」の暴露当時、私はまだ大学生で、ベトナム反戦運動に大きな影響を与えたこの事件についてかなりはっきり記憶している。さらに、『ソフィの選択』のメリル・ストリープと『グリーンマイル』のトム・ハンクスという2大名優の共演は大変魅力的で、数ヶ月前から楽しみにしていた作品だった。見終わった感想も、微妙なニュアンスの把握に難しさも感じたが、アメリカ「人民」の「個」としての矜持が強く感じられ、感動させられる作品だった。

   私が大きな感銘を受けたスピルバーグの作品に『アミスタッド』(1997年)があるが、それは、奴隷貿易が行われていた当時のアメリカで、黒人奴隷の解放のために闘ったアメリカ白人(弁護士と政治家)の物語である。困難な状況の中でも、建国の理念を我がものとしつつ、ごく当然のことのように粘り強く闘う彼らの姿は眩しいほどだった。また、今回の『ペンタゴン・ペーパーズ』は、「合衆国憲法」修正第1条(言論・報道の自由など)の精神を〈体現〉し、「報道の自由は報道によってしか実現できない」と、強大な国家権力に抵抗するリスクを負いながら、人民のため、国家の最高機密の紙上への掲載を決断・実行した『ワシントンポスト』紙の女性社主と編集主幹の物語だ。アメリカには、こうした「理念」を勇気を持って貫く、強い「個」(「ヒーロー」たち)が少なからず存在し、それがアメリカの〈公共〉的世界を作り出してきたといってよいのだと思う。そして、こうしたことこそが、例えば、トランプ政権下、「銃規制」を求めて広範に活動する高校生たちの動きの基底となり、彼らの表情に「アメリカ人民」としての〈矜持〉を浮かび上がらせているのだと思う。

  もちろん、ニクソンやジョンソンだけではなく、ケネディもマクナマラも国民に「嘘」をつく権力者に他ならなかった。しかし、そうであっても、ベトナムへの軍事介入を推し進めたケネディは、その後、ベトナムからの米軍の撤退を考えていたのであろうし(『JFK』)、また、のちに、あのトンキン湾事件の真相を含む『回顧録』を書いたマクナマラは、後日の検証のために、ベトナム戦争関連の記録をまとめるよう指示していたのだった。そして、そうした研究員の一人こそ、「ペンタゴン・ペーパーズ」をリークした、エルズバーグに他ならない。つまり、ベトナム戦争の誤りに気づいたアメリカ「エリート」の一部の動きが、アメリカ「人民」に真実を伝えることになったこの事件の基を準備していたということになるのだ。もちろん、アメリカ人はエルズバーグやキャサリンやベンのような人物ばかりではない。そして、さらに、彼らとて「聖人」というわけではない。しかし、アメリカの「公共」的世界には、自浄作用を働かせることが出来る「制度」と「文化」、そして、なによりも、権力に対峙する「人民」とそれと有機的に結びついた「知識人」・「エリート」が存在していると言えるのだ。トランプ政権の樹立を機に、スピルバーグによって製作されたこの映画も、その表れの一つに違いない!

   また、この映画を見ながら、私は、これは私たち日本人のために作られたのではないかという錯覚さえ覚えた。もちろん、それは、モリ・カケをはじめ、これまであきらかにされてきたアベ政権と官僚機構による情報の隠蔽・捏造・改竄の有様がその背景にあるからだろう。そして、真実の解明をことごとくサボタージュしてきた挙句、次から次へと明らかになってくる事実を前に、その醜い〈反国民〉的本性を晒しているのは、「アベ友」ばかりなのではない。今、眼前の「アベゲート」をしっかりと批判できない連中は、アベと同じ穴の狢に他ならない。私たちは、アベであろうが、トランプであろうが、プーチンであろうが、習近平であろうが、キム・ジョンウンであろうが、政治権力の独裁的・専制的な行使を許してはならないのだ。『ペンタゴン・ペーパーズ』が提起している問題は私たちにとって極めて身近で深刻なものと言えるのだ。

   私がこのブログを書き始めた時、「奥さん」と「姉貴」は、早速、借りてきた『大統領の陰謀』を観ていた。私は、今、『シンドラーのリスト』のシンドラーや『プライベート・ライアン』のミラー大尉のことを考え始めている。政治や権力者に翻弄されながら、「一般ピープル」はどのようにその「志」を貫き、生きていくことができるのか。難しい!しかも、人生は一度しかないのだ。

花とワンワン
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『Thunderbolt Fantasy 東離劍遊紀 』考

  「武侠」ファンタジーの傑作
      ―――”渋い”セリフがなんとも言えない!

   

   ※サロさんとの散歩から帰ってきた。関東の冬空は本当にきれいだ。ところで、バイクにも乗れるようになったので、先日、シネマ歌舞伎『め組の喧嘩』(「平成中村座」における2012年の公演)を見てきた。故中村勘三郎の辰五郎をはじめとする大写しにされた歌舞伎役者の表情と観客と一体となった歌舞伎小屋の熱気が印象的な作品だった。〈町火消し〉と武家をバックとする〈力士〉との喧嘩を描いたものであったが、火消しの親方とその妻そして鳶衆の「儒教」的倫理の内面化の有様が大変興味深かった。「匹夫の勇」などと揶揄する声も聞こえてきそうだが、終幕近くの町奉行と寺社奉行の権威に基づく「収め(あずけ)」は「ご愛嬌」として、「一般ピープル」が「元気」であることは悪いことではないだろう(中江兆民「人民の元気」)。そこには醜悪な「巨悪」への批判的視点の萌芽も感じられるからだ。


   ところで、一昨日、「2nd兄貴」が、豊洲に、新作『Thunderbolt Fantasy 生死一劍』を見に行ってきた。かなり面白かったらしい。そこで、私は、前作『Thunderbolt Fantasy 東離劍遊紀 』(全13話)の方を振り返ってみることにしたい。この作品は、台湾の人形劇「布袋劇」と日本の脚本家・虚淵玄(うろぶちげん)らが共同制作したもので、その革新的な映像と内容は、T.M.Revolutionの主題歌「RAIMEI」(作詞・井上秋緒、作曲・浅倉大介)とともに、老輩たる私にも大変興味深く感じられるものだった。とりわけ、キャラの設定とそのセリフが「渋い」!2回見ただけなので正確さには欠けると思うが、私が感じたエッセンスを書き留めておくことにする。

   さて、この作品には「武侠人形劇」とか「武侠ファンタジー」と言う「副題」が付いている。この〈武侠〉とは、強きをくじき、弱きを助けることをたてまえとする人物のことで、唐代に成立したおなじみ『水滸伝』などは「〈武侠〉小説」と呼ばれるわけだ。また、〈武侠〉の日本における「一般ピープル」版が「町奴」であり、先に取り上げた『め組の喧嘩』は、江戸末期の町火消し(「を組」)、侠客ー町奴の「新門辰五郎」をモデルにしたものと考えられる。もちろん、『東離劍遊紀』の〈武侠〉たちは「剣客」なのであるが、そこには、私の興味をそそる、ちょいと「屈折」した「哲学」が語られている。 

   物語の概略は割愛するが、それは、かっての〈大戦争〉を封じ込め封印されていた「天刑劍」を「最強の剣」として奪い取ろうとする蔑天骸(ベツテンガイ)に対し、護印師の一族で「義」をもってそれを護り抜こうとする丹翡(タンヒ )をたまたま助けることになった「大盗賊」凜雪鴉(リンセツア)と「刃無鋒」殤不患(ショウフカン)の二人が、それぞれの思惑から彼らと同行することになった「剣客商売」の狩雲霄(シュウンショウ)・「武勇の名声」に憧れる若き捲殘雲(ケンサンウン)・殺し屋で冷酷非常な「剣鬼」殺無生(セツムショウ)・冥界生まれの「妖人」刑亥(ケイガイ )らと共に凄まじい武闘を繰り広げる、奇想天外なファンタジーである。ただ、ここでは、彼らが交わす会話の中に現れている、「剣」や「武」に対する「思想」に焦点を当ててみたい。
      
   さて、物語の登場人物の中で、「剣」や「武」について最も平凡で単純な議論を展開しているのは、武芸によって現世的利益を求め卑怯な手口も厭わない狩雲霄であり、また、武芸の「栄光」をただ只管追い求める捲殘雲だ。ただし、捲殘雲は後に丹翡や殤不患との関わりの中で「義」に目覚めていくことになる。しかし、このファンタジーの中でとりわけ興味深いのは、「剣」や「武」に信仰的な〈幻想〉を抱いている殺無生や蔑天骸、そして、それらに対して人としての〈限界〉や〈優位〉を自覚している凜雪鴉や殤不患である。

   殺無生は、「剣の道は必然性の探求」であるとし、唯只管「強いものが勝つ」といった「運命」の観念にとらわれて、自分をも含めた人の〈生死〉に対する人間らしい感覚を欠いた「サイコパス」的人物だ(「いかれてやがる」)。また、蔑天骸は、「剣」とは「力の証」・「生死を分かつ絶対的真実を形にしたもの」と捉え、富も栄華も権力もこの「滅びの力」の前には泡沫に過ぎないとする「〈暴力〉至上主義者」だ。また、彼にとって早さこそが剣技の極意であり、自らを「無双の強さ」に到達したものとして、周囲にその「覇者の気風」を撒き散らしている。

   これに対して、凜雪鴉は、「剣の道」は極まれば「真理」に通ずるとしながらも、その「道」がたどり着く先は「山の頂などはなく、無辺の海原のようなもの、極めるほどに果てが見えなくなる」ものであって、「無双の強さ」など幻想だとする。そして、蔑天骸を上回るほどの技量に到達しながらも、「剣の道」の奥深さを侮らないが故に、その探求に〈飽きて〉、それを放棄したと言う。また、彼の魂の愉悦は、人を欺き、踊らせ、陥れて遊ぶことにあるのであって、もし彼が修めた「剣(殺人剣)」の「正道」を貫けば「邪道」を絶ってしまうことになり、それでは、彼にとって最も面白い「狡猾で野心家の、誰よりも自分が強くて賢いと思っている」悪党をからかって遊ぶことが出来なくなってしまうとも言う。確かに、人に屈辱と絶望を与えて喜ぶ凜雪鴉は屈折した「ど外道」と言ってよいだろう。しかし、彼は、決して「弱い者いじめ」なのではなく、思い上がった悪党(「強き」)を挫く、「義賊」の「愉快犯」的な一変種(人間としての限界ー挫折を見つめているが故に?決して「軽い」性格ではないのであるが)と言って良いだろう。そして、巨悪がのさばるご時世にあっては、こうしたキャラクターが我々「一般ピープル」にとって比較的受け入れやすい存在になるとも言えるのだ。

   最後に殤不患であるが、彼は、斜に構えてはいるものの、極めて自省的かつ謙虚で、また、義と人情に厚い人物として描かれている。また、彼の生き方には、闘いに際して「俺が選んで俺が切る」とか、「正しくあろうとしたことは悔やむんじゃない」とかいった言葉に表れているように、「真理」や「本質」に対する「信仰」的確信とは異なる、個(主体)としての「実存的選択」の意識が強く窺われるように思われる。そして、彼が選び取っていった「剣」と「武」に関わる生き方とは次のようなものであった。まず、彼は、刀剣など所詮道具に過ぎず、結局それを持つ人間次第だと言ってのける。まさしく、彼の「人間の主体性」への基底的な信頼感の表れと言えるだろう。しかし、「剣」は、〈人心を惑わし天下を乱す〉厄介な代物でもある。確かに、「剣」は「強さ」や「支配力」や「勝つ」ことへの人間の「思い」を肥大化させ、また、そうした力能を象徴する物神崇拝的対象となって、人々の心を惑わし、戦いを引き起こす原因にもなるからだ。そこで、彼は、故郷「西幽」を回って、そうした魔剣・妖剣・聖剣・邪剣36振りを集めて、それを捨ててしまおうとしたのであった。また、「武」について、彼は次のように言う。「人を斬るのが難儀なのは、当然だろ?。どこまで技を極めようとな、剣を振るうのが軽々しく簡単になちゃいけねえよ。だが、俺ぐらい性根が俗物になると、常に自分を戒めているのも面倒なんでな、いっそ刃の付いた剣なんぞ持ち歩かないほうが良い」。こうして、彼は剣に見せかけた木刀を腰に流浪の旅を続けたのである(「刃無鋒」)。

   私は、少々剣道をかじったことがあり、これまでも、このブログで「『SAMURAI SPIRIT』考」なる記事を書いたことがあった。つまり、私自身も、人間にとって「剣」や「武」は何を意味するのかを考えてきたわけだ。もちろん、「剣(刀)」は一つの道具(手段)であり、問題はそれを扱う人間の「思想」(目的)であるということは一般論としては言えよう。しかし、原子力も同じだが、それが人間を殺傷する〈桁外れ〉の能力を持つ以上、それを通常の道具と同じように安易に考えてしまうことはできない。銃砲刀剣類や軍事装備ー兵器に対する規制・削減・廃絶が考えられなければならない理由もそこにある。また、そうした「武器」を用いることは、まさしく、「武士道」のようなより突っ込んだ思想の形成を必然化させたとも言い得るのだ。こうした意味において、この物語の中で展開されるキャラクター間の会話は、そうした問題を再考する上で大変興味深い素材を提供してくれていると言って良いと思う。

   最後に、私は、こうした物語の展開の中に、「道教」的あるいは「老子」的な思想―――さらに言えば、東洋的な虚無(相対)主義(荘子など)をも突き抜けるなんらかの思想―――が看取できるのではないかと考えている。実際、作者の筆名〈虚淵玄(うろぶちげん)〉にもそれを読み取ることができるのではないか。つまり、「玄」(根源的な道)は「(空)虚」にして「(深)淵」、これは「老子」の思想に他ならないからだ(例えば、蜂屋邦夫著『図解雑学 老子』参照)。実は、私も、私自身の考え方を、東洋的な思想の流れの中で、「義理と人情と平和主義」などとふざけて表現したことがあった。いうまでもなく、「義理と人情」は〈孔子〉(儒教)的概念である一方、「平和主義」は、トルストイやガンジーの思想にも継承された、〈老子〉的なそれと近似したものと言えるのである。また、「武士道」との関連でいえば、この物語の殤不患=「刃無鋒」は、まさしく、「武」を捨てきれなかったとはいえ、〈無刀〉・〈活人剣〉の思想に接近した人物と理解して良いのだと思う。娯楽作品にはいろいろな楽しみ方があるが、表現者たる虚淵玄にこうした「思想」性があったとしても少しもおかしくはないだろう。

   さて、明日は、もし晴れれば、虚淵が脚本を担当した『GODZILLA 怪獣惑星』でも観に行ってみようかと思う。さて、どんな作品だろうか。

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SARO MURIKI

Author:SARO MURIKI
おりこうさんのワンワンです。年齢は、2019年11月現在満13歳です。見てのとおりの柴ですが血統書はありません。性別はオスで、飼い主には、朝夕、45分ずつ2回の散歩を義務付けているVIP犬、正確に言うと、VIDです。文句あっか?!

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