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剣道・達人の教え(7)―剣道だけやっていれば良いわけではない

 
高齢者にとっての「無理」と「がまん」


 ※ 我〈しもべ〉たる飼い主は、昨日,剣道をやりに出かけたよ。帰ってきたときには,左足を少し引きずっていた。はは~ん。またやりましたね、と。でも,夜の散歩には付き合ったので,大丈夫そうで、よかったよかった

     
     昨日の稽古にも我〈師匠〉はいませんでした。ただ,稽古の始めに、日本一になったこともある、Y八段が良い話をしてくれました。おおまか、「我慢は必要だが,無理はしてはいけない」という話です。とりわけ、中年から剣道を始め、「高齢者剣道」の領域に突入している私にとって、非常に含蓄ある話に思われました。

     若干の経験はあったものの、40歳を超えてから道場通いを始めた私にとって、剣道はかなり体に負担をかけるものといってよかったと思います。スポーツは好きで、また、観光登山とはいえ日本百名山の半数程度の登頂は果たしていましたから,スピードと体力に自信が無かったわけではありませんでした。しかし,構えと打突に向かうバランスが悪かったうえに、ついつい夢中になってしまい、左足の親指の下の部分の皮が剥けたり、腰を痛めることもしばしばあったのです。

     そうしたなかで,最低だったと記憶しているのがS六段という人で、この人は、出鼻をとったり,応じたりしてくれるなら問題ないのですが、上から押さえたり、竹刀を払って太刀筋を狂わせたり、要するに、私の体勢を崩して、無理な姿勢に陥れ、腰などに大きな負担を強いたわけなのです。正直、私は、「俺は,健康のために剣道をやろうとしているのだ」と、かなり憤慨したことを憶えています。力の抜き方のコツすら身につけていない中高年に対する懸り稽古が危険なように、無理な姿勢からの懸りと応じは中高年にとって禁物と言ってよいと思うからです。

     そうした中、当時、一見にして私の欠点を見抜いたのでしょう、「ゲスト」できてくれていた東京のN八段という方が、稽古の後声をかけてくれ、私の姿勢について次のようなアドヴァイスをしてくれたのです。その要旨は次のようなものだったと記憶しています。脚立(きゃたつ)が安定するためには脚立の脚(あし)の外側で支えた方が良い,だから、君も足裏の外側(小指の下辺り)に体重を乗せ,そして,踏み切りなさい,と。それからです。私の左足の皮の剥けることがほとんどなくなったのは。このことを,後に,わが師匠に話したところ、彼は首を傾げていましたが(要するに,本来は、足裏の中心、左右全体バランス良くということなのでしょう)、私は、N八段が当時の私にとってそれが最良のアドヴァイスだと判断されたのだろうと思っています。私のふみきりは100メートルのダッシュのそれだったのですから。

     もう一つ、「無理はしない」という点で印象深かったのは、数日前のNHK『クローズアップ現代』で放映された、元ジャイアンツの桑田真澄氏の話です。彼は、高校時代から体格的・体力的に他の選手よりも劣っていたそうなのですが,その彼は、疲れているのにも拘らず無理して練習することは効果がないばかりか逆効果でもあるとして、練習をしない日も作っていたそうなのです。また、彼は、昨年東大野球部のピッチングコーチに就任したのですが、真面目で長時間練習する東大野球部の選手たちに、ただ長く練習すれば良いというわけではないこと,短時間に、意識的・効果的な練習をおこなうべきだと指導・提言もしているというのです。勿論,このことは、体力的に衰えつつある中高年にとって、より一層当てはまることと言ってよいでしょう。

     さて、こうしたことと関連して思い出される、わが〈師匠〉の言葉に、「剣道は、剣道ばかりをやっていれば良いというわけではない」というものがあります。私のような世代にとって「文武両道」という言葉はお馴染みですが、さらに、「武」も剣道なら剣道だけをやっていれば良いというものではない、というのが我師匠の考えなのです。それは,彼の師匠が日本を代表する陸上競技の選手でもあった故らしいのですが、この言葉は、今の私にとっても,非常に意味あることと思われるのです。すなわち、今の私は、確かに、剣道そのものをやるために道場に立つ機会は多くはありません。しかし、好きな剣道は,道場でだけ可能だというわけではないのです。あらゆるところが、剣道につながる道場になりうるのです。焦ることはない。無理することは無い。好きなことを自分のペースでやって行こう。これが,師匠の言葉によって可能となった、現在の私の立ち位置なのです。
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剣道・達人の教え(6)―――丹田について

 >>>>>>>>>>>>>>>>>>>「丹田」あるいは重心のこと<<<<<<<<<<<<<<<<<


    我<しもべ>たる飼い主は,一昨日、7ヶ月ぶりに防具を付けて剣道をしたんだって。防具をつける順番を間違えたり、からだ全体のバランスが崩れたりして、なにしろ不安定だったって言ってました。この頃は、僕と一緒に走ることもあるんだけれど、やっぱり、剣道と走るのとは違うんだねえ。
 
    20年程前、少年剣道クラブに顔を出していた頃、本当に「うまいなあ!」と心から感心する子どもたちがいたものです。「気・剣・体」一致という言葉がありますが、少なくとも「剣」と「体」が調和したあるいは一体化した、実に素晴らしい打突でした。

    これに対して、師匠は、「年をとってから剣道を始めた人はどうしても腕力に頼りがちになってしまう」とよく言っていました。勿論、私のことです。そして、こうした私の欠点を矯正するために師匠が与えてくれたアドバイスは、「腰で攻める」とか、「臍(へそ)で押しながら」とか、「ハラ(丹田)に気を集中させて」といった表現で示されるものだったのです。

    ところで、私が「丹田」と言う言葉を初めて知ったのは、歌の発声練習に関連してでした。腹式呼吸にともなって、まさしく、「丹田」に力を入れ「全身」で発声すると、喉だけで声を出すのとは全く異なった効果が生まれるのです。すなわち、音の深みや透明感、ビブラートの安定感などがそれです。それでは、我師匠が、剣道の領域において、「ハラ」とか「へそ」とか「丹田」とかいった言葉で伝えようとしたのはなんだったのでしょうか。それを、私は、現在、ほぼ次のようなことだろうと捉えています。

    まず、振り出される剣先あるいは剣の打突部位の「支点」(中心)はどこにあるのかといえば、「手」や「腕」にではなく、私の体の中心=重心になければならないのです。そして、例えば、面打ちの場合、師匠が言うように「面は線で打つ」のであれば、体の体幹そして重心の移動が安定かつスムーズに行われることが必須のことになるのです。それ故に、足も弱り、つい手打ちになってしまう高齢者の私に、我敬愛する師匠は、先のような言葉を用いながら、全身をバランスよく使うための体捌(さばき)の基本を、そして、それによって、より速く、鋭いうちが可能となるようなヒントを与えてくれていたのだろう、というわけなのです。

    師匠は、稽古の終わりには、5本でも10本でも「打ち込み」(稽古)をお願いするといいよと言っていました。まさしく、丹田に気を集中させ、安定した体捌(さばき)によって、手と足のバランスの取れた打突を意識的に身につけること、そのことが、子どもの時から剣道を身につけていたわけではない、高齢者の私にとっては非常に重要な課題であったわけなのです。

  
 ―――サロさん。「打ち込み」がある程度しっかり安定して打てるようになると、本当に、身体も楽になったように思うんだ。ところで、君が喜んで我家の廊下をダッシュする時の「体幹」は抜群に安定してるよね。うらやましいよ、全く。
   

剣道・達人の教え(5)―――胴打ち

  我<しもべ>たる飼い主は、この週末は余裕で、今日なんかは、朝いつものように僕と一時間ほどの散歩をしたあと、昼まで寝ていたんだよ。それにはもうひとつ訳があって、どうやら、先日、久しぶりに剣道をやって疲れてもいるようなんだよね。でも、飼い主は、「ねえ、サロさん。剣道をやっている人たちの表情は本当にいいねえ」なんて言ってましたよ。ふーん

  先日、素振りだけでは物足りなくなって、実際の稽古に行ってきました。二、三百名は参加していたでしょうか。そこで、師匠をはじめ、依然から顔見知りのAさんやKさん、そしてTさんたちと久しぶりに話すことが出来ましたが、その時感じたのは、剣道に真剣に取り組んでいる方々の表情は、なんとも、穏やかで、さわやかで、いいものだということでした。私はといえば、このところ精神的に怒りを感じたりすることも多く、自分の表情にはまったく自信がありませんでしたので、ああした表情になれればいいな、とつくづく感じたものです。

  ところで、今回は、言葉は交わしたとはいうものの、実際に師匠と稽古をすることは出来ませんでした。私の目はかなリ衰えていて、面をつけるために眼鏡を外してしまうと、前垂れの名前すらはっきりと確認できないのです。まあ、稽古もちゃんと出来ていないので、それはそれでよかったのかとも思っているのですが。
  さて、稽古に参加して改めて思ったことは、師匠の『胴打ち』のことです。私が言うのもなんなのですが、師匠の『胴打ち』は天下一品だと思うのです。実際の試合で見た、二本の胴打ちも、しっかり体が裁かれており、打ちにしまりがあって、見るものに『おお』と声を出させる見事さがありました。
  私のように、中年から剣道をはじめたものは、第一、胴打ちをきちんと練習したことなどなかったわけで、胴打ちの何たるかをほとんど理解していなかったといってもいいくらいなのです。とりわけ、私には、〔あまり上手ではない?)抜き胴の印象が強かったので、胴といえば、どちらかというと、<引いて切る>、といったイメージが強かったのだと思います。そうした中、師匠に教わったのは、胴も、面や小手と同じように、『打つ』のだということでした。これは基本中の基本で、そのポイントは、打った瞬間の左手の位置―――勿論、まっすぐ中心にある―――にあったわけです。
  さらに、もう一つ印象に残っているのは、その打ちの強さのことです。師匠の先生の胴打ちは、大きく振りかぶらなくても、防具の上から痛みを感じるほどすごかったのだそうで、師匠は、先生のようには出来ないけれどと謙遜しながら、それを実際にやって見せてくれたわけです。  「おっ!」・・・・ 一瞬のうちに、防具の上からでも痛みを感じるような冴えた胴打ち、それはどうすれば可能なのでしょうか!?・・・・ またしても、私は、師匠のお手本から、「なるほど・・・」と思えるようなヒントを得ることが出来たのでした。それは、右手を中心とした左右の手の使い方の動的なバランスとでも言えばいいのだと思いますが、誤解もあるでしょうから、これ以上の詳しい説明は差し控えたいと思います。
  私にとって、胴打ちの稽古をするのは、ますます難しくなるでしょう。でも、「理念型」を手中にした者には、いくらでも工夫が出来るはずです。これからの素振り稽古が楽しみでもあるのです。

  次回は、一ヵ月後かな。体調を整えて、今度は、娘と参加してみようかな。サロさんとは無理だからねえ。

剣道・達人の教え(4)―――「脱力」とスピード

  我〈しもべ〉たる飼い主は、最近、僕の冬毛がたくさん抜けるものだから、「柴犬と言うのは、縄文時代から日本の山岳地帯に住む猟犬だったというけれど、本当に日本の季節に敏感だねえ。もう春なんだねえ」などと言いながら、指先やコロコロで僕の毛を抜くんだ。でも、あんまり無理に抜かないでよ。まだ、寒いんだから。

  1年ほど前、我師匠は、知り合いの剣道八段の人と一緒に稽古をするので私も来ないかと誘ってくれた。八段同士の稽古を見られるなどということはそうあることではないので、大喜びで参加させてもらうことにした。そして、それは、勿論、「大当たり」だった。
  稽古は合計1時間程だったと記憶しているが、それは、いわゆる試合と言うよりも、何かを確かめ合うといった風情のものといってよかったと思う。単純化していえば、攻めて相手を崩し、ここぞというところで、渾身の一撃を繰り出すということであったが、それを見て私が受けた強い印象とは、その柔らかさとスピードである。
  まず、「柔らかさ」についてであるが、それは、言い換えれば、千変万化の状況変化に対する「反応速度」の問題であって、たとえば、中心の攻め合いにおいてすばやく反応して体勢を崩さない、つまり、「崩れない」ということだ。「スキがない」とは、要はそういうことなのであって、繰り返しになるが、こうした素早く安定した反応を生み出すものが「柔らかさ」なのだと思う。このことは、八段の人と竹刀をあわせてみると強く感じることができるもので、そのずば抜けた「柔らかさ」・「反応速度」こそ彼らの最大の特徴ではないかと私は思っている。
  二つ目は「スピード」である。八段といえば年齢的には若くないわけで―――お二人は60代前半と50代後半である―――、若者たちと比べるとそのスピードは一見遅いと感じることさえあるだろう。ところが、間近で見てみると、「ホホー!」と思うほど早いのである。つまり、足裁きにしても、打ちに伴う身体の移動にしても、確実に、若い人よりも早そうなのである。身体は衰えているはずなのに、それはなぜなのだろうか? 私の見たところ、その秘密は、すべて、「脱力」-「自然体」からの「一拍子」(!)の動きというところにあると思われる。つまり、大げさな前ぶりや「えいやっ!」といった「溜め」もなく、始点から終点まで、無駄な動きがないまま、「スーッ」と身体が動いているのである。これは大発見だったと思う。
  そして、この二つとも、やはり、「脱力」が鍵になっている。それが、現時点における、私の理解だ。

  お二人の稽古の後、私も、客人とほんの短時間ではあるが稽古をさせてもらった。初一手、やはり、手の内柔らかく、強烈な小手が来た―――まあ、忘れられないでしょうね。そして、稽古の後、アドヴァイスをいただこうとしたら、(人それぞれ流派や考え方が違うので)まずは、師匠一人の話を聞いていたほうがいい、ということだった。なるほど、まずは「守」なわけですね。う~む!深そうだぞ。


剣道・達人の教え(3)―――「手足ばらばら」

  我飼い主は、今日、散歩の時、久しぶりに僕と一緒にダッシュしたよ。やっと、腰の調子も落ち着いてきたみたいだね。仕事の方も一段落付きそうなので、そろそろ、剣道を再開しそうだぞ。でも、まだまだ心配だな。 

  我師匠は、ある時、「結局、如何に力がぬけるかがポイントですね」と言ったことがあった。「脱力」である。しかし、それは、けっして、打ちの弱さを意味するのではない。問題は、脱力と強い打ちがどうすれば両立できるのかということにほかならない。
  以前、私は、「剣道・達人の教え(1)―――力はいらないんですよ」で、自分の体と竹刀を如何にスムーズにバランスよく使うのかという点に触れたが、そのことについて、体の各部位や体の動きの諸過程を区分けして論じるとすれば、私の簡単なメモ書きだけでも、数十項目にも及ぶことになるだろう。そこで、今回は、まず始めとして、「手と足の連動」について簡単に確認しておくことにしたい。
  
  基本打ちの練習を始めて、まず、師匠に指摘されたのは、「肩に力が入っている」だった。しかし、私は体型的に「いかり肩」の方なので、「これは生まれつきで、決して、力を入れているわけじゃないんですよ。」と内心では思っていた。ところが、これも後で気がついたのだが、自分では力を入れていないつもりでも、実は、やはり、腕の重みを肩の筋肉で支えていたのであった。これでは、「脱力」とはいえず、自然ですばやい反応は出来ない道理であったのだ。
  次に指摘されたのが、「手足ばらばら」である。これも、最初は何のことなのか要領を得なかったのだが、稽古の過程で理解できるようになったのは次のようなことだった。つまり、それは、単に、右足で「バン」と強く踏み込みながら打てということではない―――それは中高年の私にとっては非常につらく、危険なことでもあった。そうではなく、師匠が言いたかったのは、その踏み込む「力」をうまく竹刀に乗っけろということらしいのである。師匠によると、この踏み込む「力」というのは、軽そうに見える場合でも、数百キログラム(4、500kg?)にも及ぶのだそうで、その力を身体全体をうまく連動させて伝えてやれば、とてつもなく強い打ちとなるというわけだ。こうして、脱力と強い打ちが両立できるということになるのである。それでは、どうやって身体全体を「連動」させるのか、それが問題であるが、その「教え」については、又、別の機会にということにしたいと思う。
  さて、次回は、その前に、八段の先生同士の稽古の様子をじっくり見学させてもらった経験から、「脱力」とスピードとの関連について、感想を記す予定です。  
  それにしても、我教士・八段の話は説得力があったなあ!

プロフィール

SARO MURIKI

Author:SARO MURIKI
おりこうさんのワンワンです。年齢は、2018年11月現在満12歳です。見てのとおりの柴ですが血統書はありません。性別はオスで、飼い主には、朝夕、45分ずつ2回の散歩を義務付けているVIP犬、正確に言うと、VIDです。文句あっか?!

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