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千住真理子の〈ストラディバリウス〉を聴いてきた

 緩徐楽章や独奏部でその素晴らしさが光った
  ――それにしても、コバケンはオーケストラを鳴らし過ぎだ!



   ※昨日は、野菜に寒冷紗をかけた後、秋雨の中、大宮のソニックシティで行われた「日本フィルハーモニー交響楽団第103回さいたま定期演奏会」に行ってきた。やはり人気があるのだろう、会場は満員の盛況だった。恥ずかしながら、なかなか成熟できない私は、バッハの若き日の「ヴァイオリン協奏曲」が好きなのだが、その中でも千住真理子のCDを聞くことが多く、彼女のストラディバリウス「デュランティ」を一度は生で聴いてみたいと思っていたのだ。演目は、以下の通り。
  
 メンデルスゾーン ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 
             (ヴァイオリン 千住真理子)
 ドヴォルザーク スラブ舞曲 第1集 第1番
         スラブ舞曲 第2集 第2番
 スメタナ 交響詩「我が祖国」より”モルダウ”
 チャイコフスキー 祝典序曲「1812年」
 アンコール ドボルザーク 「ユーモレスク」第7番

   さて、千住さんの「デュランティ」だが、400年も前に制作された、数億円もするものだという。聴いてみて、確かに、緩徐章や独奏部では「さすが!」と思わせる音色を持っていると思った。ただ、早いテンポやオーケストラとの協奏部では、なにか「荒さ」(?!)と言うか、音量と言うのか、「機能性」になんらかの問題が感じられたようにも思う。やはり、無伴奏で聴くのが一番なのかもしれない。

   後半の小林研一郎=日本フィルの演奏については、指揮者の語りを軸とした「題名のない音楽会」的な趣向で、ちょっと驚いた。会場は8割方が高齢者で―――私もそうなのだが、前を見ると一面に「薄毛」と白髪の光景が広がっていた―――、なにやら老人大学の音楽教室のようでもあった。曲の背景や構造そして指揮上の工夫など、演奏を聴く前の「予習」といった趣の話も多く、興味深くはあったが、演奏会が本当にこれでいいのかとも思った。また、全体として、小林さんは〈大規模のオーケストラ〉を鳴らし過ぎだと感じた。少し暴力的で、押し付けがましくも聞こえるのだ。

   それでは、それぞれの演目に対する若干の感想を記しておく。まず、世の中で最も美しいメロディの一つとも言われる「スラブ舞曲第2集第2番(第10番)」であるが、私個人としては、「次は、こう来てほしい」と思うところでコバケンの男性的な(?)「悲しさ」によって私の期待は見事に裏切られるのだ。私が保守的なのかもしれないが、感性の違いとはなかなか難しいものだ。また、「モルダウ」の演奏についても、ヨーロッパの大河は、台風後の日本の河川のように、あんなに荒れ狂って流れるのかと認識を新たにせざるを得ないと思うほどだ。「1812」は、彼の個性に一番合った曲だとは感じたが、それにしても、「燃え」過ぎでしょう。まず、終曲部のギリシャ正教会の鐘の音が優しく、明瞭に聞こえない。大砲は、「祝砲」ではなくて追撃戦の音だったわけだ。このご時世なので、ナポレオンとツァーリ支配下のロシア人民の「ナショナリズム」については複雑な思いもするが、それにしてもコバケンを「炎のマエストロ」とはよく言ったものだ。ただ、アンコールの弦楽合奏版「ユーモレスク」はよかった。誕生から昇天に至る人間の一生をわかりやすく音楽で表現したというのも面白い。私の昇天は、アーメンとは言わず、幼児に返って、「ユーモレスク」(?)なものになりそうなのだが。

   クラシックのコンサート会場は私には若干違和感を感じさせる場所だ。しかし、生の演奏を聴いて好き勝手なことを感じ、考えることのできる演奏会も悪くない。音楽って本当にいいもんだ!
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「コバケンのチャイ5」を聴いてきました

個性的な演奏だが、私には合わなかった
   ―――11/4大宮ソニックシティ大ホール


   ※日本フィルハーモニー交響楽団 第98回さいたま定期演奏会を聴いてきました。曲目は以下の通りです。
  
  グリーグ ピアノ協奏曲 作品16
   指揮:小林研一郎 ピアノ:仲道郁代
  チャイコフスキー 交響曲第5番 ホ短調 作品64
   指揮:小林研一郎
  アンコール:ブラームス ハンガリー舞曲第1番
   
   1年4ヶ月ぶりに生演奏を聴きました。私はチャイコフスキーの交響曲5番が好きで、いろいろな思い出があります。30年程前にワルシャワに旅行した折、ガイドさんから教会のそばで聞こえてきた曲の名前を聞かれ、「あれはチャイコフスキーの交響曲5番の第○楽章です」と答えたことを覚えています。レコードで一番多く聞いたのはやはりムラビンスキー=レニングラード・フィルの演奏でしょうか。生演奏では渋谷の文化村で聞いた気がするのですが、記憶が定かではありません。ところで、この曲を「チャイ5」と呼ぶのですね。これに「コバケン」がついて「コバケンのチャイ5」です。なかなかいいキャチコピーだとは思います。それでは、この日の演奏会の感想を述べてみたいと思います。

  まず、グリーグのピアノ協奏曲です。この曲は各楽章に非常に親しみやすい旋律を含む名曲ですが、その北欧的な「抒情性」の表出に失敗すると、かえって凡庸な印象を与える場合があるように思われます。そして、今回の演奏は、残念ながら、その抒情性の表出に成功していたとは感じられませんでした。仲道さんのピアノは打鍵も力強く、音量も十分で、技巧的にも不満はなかったといってよいのですが、この曲が醸し出す北欧的な雰囲気の表出には失敗していたと言わざるを得ないように思います。このことは小林研一郎=日本フィルについても感じられ、さらに、ピアノとオーケストラとの関係も、「一期一会」の失敗例のようにさえ感じられました。もちろん、以上は私の個人的な感想で、違った印象を持たれた方もたくさんいたこととは思います。
  
  つぎに、「コバケンのチャイ5」ですが、この演奏についても、いわゆる「ロシア」的な「抒情性」の表出には失敗していたのではないでしょうか。また、その演奏は大変個性的だとは思いましたが、その個性的であることが私にはどうしても「不自然」に感じられてしかたありませんでした。同一楽章の中で不自然にテンポが変わったり、パートの音やバランスなどに妙な違和感を覚えました。なにより、ただ大きな音を鳴らせば、盛り上がったり、シビレたりするというわけではないのです。日フィルも第2楽章をはじめ流石にそのうまさを発揮していましたが、コバケンの「注文」に一生懸命応えようとするあまり、オーケストラ自体が「この曲」の演奏に燃えることができていたかは疑わしいところです。コバケン自身も、一時指揮を放棄し、横顔を観客に向けて恍惚とした表情を見せてみたり(エンターテナー!)、曲が終わった後、「非常に落ち着いた」語り口で今日の演奏はこれまでになかった素晴らしさだった的なことを言っていましたが、あれは私たち聴衆へのサーヴィスなのでしょうね。そして、私自身も、当日の体調や精神状態に問題があった可能性もありますが、今回の演奏で一度も「ほてり」や「シビレ」を体感しなかったのです。ただ、アンコールのハンガリー舞曲第1番だけは文句なしの素晴らしさでした!それが、私にとって、今回の演奏会の唯一の救いでした。

   次回は、千住真理子さんの演奏を聴く予定です。コバケン=日フィルは今度はどのような演奏を披露してくれるのでしょうか。楽しみにしています。


 

「怖い」音楽について―――著作権侵害とやらによる〈再録〉

  音楽は「再現」芸術である!
      ―――「第九」(1942年盤)と「地上の星」

    

   ※昨日、痛い足を引きずりながら山から帰ってくると、私が2013年3月に書いた『「怖い」音楽について―――「第九」(1942年盤)と「地上の星」』という記事が著作権に違反しているということで削除される旨の連絡が入っていました。おそらくその理由は、中島みゆきの「地上の星」の歌詞が引用されていたためであろうと推察されます。ということで、まず、その「著作権侵害」という歌詞の部分を除いて、前掲の記事を再録し、そして、この件についての私見を述べておきたいと思います。お付き合いください。



【再録部分】

   我家で「恐ろしい」話として今でも話題にのぼるものがあります。それは次のような話です。20年ほど前の12月24日、買い物帰りの私と子どもたちは駅を降りて家に向かって歩いていました。すると、私たちの前を前屈みで歩いていた高齢者の方の手から、かなりの数の紙片が当日の強い北風によって、あたかも木枯らしに舞う枯葉のように、次々と吹き飛ばされていったのです。その紙片は、恐らく、競馬か競輪、オートレースか競艇の券だったと思います。当日は、クリスマスイブ。ひょっとすると、彼の家では、奥さんが彼からのお土産(プレゼント)を待っていたかもしれません。夕闇迫るなかでの絶望的な情景。それは子どもたちに強い印象を与えたのです。

    ところで、私は音楽が大好きなのですが、その音楽がとてつもなく「恐ろしく」感じられることもあるのです。今日は、そうした中の2つの例を紹介したいと思います。

    まず、最初は、フルトベングラー指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、ブルーノ・キッテル合唱団、ティルラ・ブリーム(ソプラノ)、エリーザベト・ヘンゲン(アルト)、ペーター・アンデルス(テノール)、ルドルフ・ヴァツケ(バス)、1942年録音の、ベートーベン 交響曲第9番ニ短調「合唱」です。とりわけ日本において人気の高いあの「合唱」が、とりわけ、クラシック・ファンなら必ず聴いているであろうフルトベングラー=バイロイト祝祭管弦楽団の演奏で知られるあの「合唱」が、なぜ「恐ろしい」のか? それは、この1942年盤が、第二次世界大戦中、ドイツの各都市が連日のように連合軍の空襲に見舞われ、一般市民はおびえ憔悴しきり、ナチス・ドイツの敗戦の陰が現れ始めた、まさしく「非常体制下の演奏」であったからなのでしょう。出谷啓氏のライナー・ノートにはこうあります。

    第1楽章の猛烈におそいテンポと、再現部のアタマにきかれるティンパニのとどろきわたるような強打、そして再現部の終結あたりからのテンポが徐々に速まってくる劇的な迫力など、素晴らしいかぎりである。第二楽章はまさに気狂い踊りといっていい荒れ方で、いたたまれなくなってくるほどだ。一方第三楽章は、信じられぬほどのおそいテンポでじっくりとうたい上げるが、弦の表情などまるですすり泣きのようにきこえる。そしてフィナーレのコーラスも、断末魔の絶叫をきくようで、思わず肌に粟が生ずるほどの恐ろしさである。オーケストラのみのコーダでは、めまぐるしくテンポが加速されるが、すさまじい迫力で全曲が終わったあと、きき手の心から何かつき物が落ちたような虚脱感を味あわせるのではないだろうか。

    私は、特に、第4楽章の印象が強いのですが、出谷氏の「断末魔の絶叫をきくようで、思わず肌に粟が生ずるほどの恐ろしさ」とは、録音の悪さもあるのですが、言いえて妙だと思います。それは決して何度も聞きたくなる演奏ではありません。逆に、ベートーベンの『第9』が二度とあのように演奏されなくていいように、音楽家たちが二度とあのような演奏をしなくていいようにと、願わずにいられないのです。


    二つ目は、NHKの人気番組『プロジェクトX 挑戦者たち』の主題歌、中島みゆき作詞・作曲の『地上の星』です。『プロジェクトX 』は、戦後日本の、製品開発をはじめとする様々なプロジェクト・チームに参画した「普通の」あるいは「無名の」人々のドキュメンタリー番組(成功物語)でした。それでは、まず、その歌詞を確認しておきましょう。―――ここで、「著作権侵害」という『地上の星』の歌詞が引用されます!

           〈削除〉    

        
    この歌詞のなかに何を感じるかは人それぞれでしょうが、その中に「無名の」・「普通の」働く人々のあり方や思いが表現されているだろうことは言うまでもないでしょう。そして、私などは、この番組の中に、いわゆる「日本的集団主義」の中における、(個的な)「職人気質」の如きものが描かれているように思い、実に興味深く観る事もしばしばあったのです。

    ところで、ある朝のこと、私と息子は、新任研修の行われているある施設の傍を通りかかりました。そして、そこから聞こえてきたのが、新入社員の若者たちが歌う『地上の星』だったのです。その歌声を聞いて、当時高校生だった息子が、「怖え~」とつぶやいたのです。私自身も、その寂寞たるトーンに、1942年盤の「合唱」とは異なるものとはいえ、なにか「肌に粟する」ような恐ろしさを感じたのです。それはなにか絶望感すら漂わせる歌声でした。それは何故だったのでしょうか。

    彼らは、新任研修の中で、まさしく、「地上の星」たれとこの歌を歌わされていたのです。しかし、その時の彼らの精神状況は決して良好なものとは感じられませんでした。確かに、一定割合の非正規雇用が常態化した今の日本において、彼らは正社員の肩書きを手に入れた「恵まれた」若者たちなのかもしれません。だが、あの研修のあとに何が待ち受けていると彼らは感じていたのでしょうか。一時、いわゆる「日本的経営」の良好なパフォーマンスが外国の研究者や企業に注目された時期がありました。実は、『プロジェクトX 』が取材の対象にしていたのはこの頃までの日本企業といってよいでしょう。しかし、この頃の日本企業には、また、「社畜」・「過労死」などといった言葉が存在する状況も生まれていたのです。そして、私自身は、熊沢誠さんの仕事などを通して、「実体経済」を担う職業人としての「職業倫理」やそうした職業人たちの「共同」意識が、「社畜」化や「過労死」を生み出した企業や資本の論理を乗り越える可能性はないのだろうか、などと考えていたのでした(汗)。

    勿論、その後の展開は、「上」はヘッドハンティング、「下」はフリーターに象徴される、新自由主義路線の導入による「日本的経営」の蚕食でした。そうした中で、フリーターなどは、「社畜」・「過労死」に対抗する「フリー・アルバイター」とまでもちあげられながら、低賃金の不安定労働力として使い捨てにされ、これに対して、正規雇用の若者たちは、先の新任研修に垣間見ることが出来るように、相変わらず、「社畜」・「過労死」路線の受容を強いられているようなのです。最近の「ブラック企業」といった造語もその辺の事情を表したものなのでしょう。そして、私は思います。フリーターのあの給料では安定した結婚生活は無理だろうなと、また、「運良く」正規雇用になったとしても、あの相も変わらぬ長時間労働では、結婚できたとしても、配偶者との真っ当な時間の共有すら無理なのではないかと。そんな状況を想像させる『地上の星』だったのです。

   ベートーベンの「第9」も『時代』や『ファイト』を歌った中島みゆきの『地上の星』も、それを聴きそして歌い・演奏するシチュエーションによって全く違って聞こえるものなのです。音楽とは、まさしく、それが〈再現〉される時に「意味」を放つ芸術なのだ、と強く思うのです。


―――ねえ、サロさん。今の日本の状況を墨子さんなら何と言うだろうね。
―――「僕知らんわ」って。自分たちで考えろってさ

【再録部分】終了



   さて、以上のような記事が「著作権侵害」で削除されたわけですが、私にとっては「ナンジャラホイ!」という感じなのです。つまり、私は、いわば、「喜びの歌」や「希望の歌」がそれが「再現」される状況や歌う人々によって全く異なった印象を与える例として2つの曲を取り上げたのです。そして、もちろん、私は、『地上の星』を自分の曲(詩)として剽窃したわけでもなく、中島みゆきの「歌」それ自体を載せたわけでもなく、そのことによってなんらかの経済的利益を得たのでもないのです(笑)。逆に、そうした私の経験を語る上で、『地上の星』の歌詞を、出典を明らかにした上で、できるだけ忠実に提示するべく〈引用〉したのです。これはなにかを〈表現〉しようとする場合の最も基本的な「仁義」と言うべきものだと私は考えていました。

   ところで、なぜ、歌詞を乗せると「著作権侵害」になるのでしょうか。それは、おそらく、その歌詞を見てしまうとCDが売れないとかの〈経済的損失〉が生じるからというのが原因だろうと考えられます。しかし、私の感覚から言えば、それは、逆に、作品の「宣伝」にこそなれ、そんなことで作者に経済的な不利益を与えるなど到底考えられないことです。例えば、YouTubeを見ていますと(時には、コマーシャルさえ付いた)様々な曲や作品がアップされています。そして、私などは、ブルーハーツの曲を聴いて、中古ですがCDを三枚も買ってしまったくらいです。また、私が自分の作品を発表したとします。その時、私が期待するのは、〈剽窃〉されるのは別でしょうが、どれだけ多くの人々がその作品を読んでくれたのか、どれだけ正確に読んでくれたかということが最大の関心事となるのです。さらに言えば、それによって学位を取得するといった場合は「倫理的」な問題も生じるのでしょうが、〈公に発表されている〉文章や楽曲をどのように利用しようと自由なのではないでしょうか。例えば、学生が夏休みの課題を図書館やネットで調べてレポートを書くことなど何の問題もないことでしょう。また、YouTube上で、誰かがカラオケで『地上の星』を歌っているとします、それは著作権違反なのでしょうか?また、私が多くの友人の前で得意の口笛で『地上の星』を吹いて聞かせた場合、それは著作権違反なのでしょうか?要するに、偽ものや海賊版を作って私利を図るといったような場合は別でしょうが、多くの〈文化〉的な作品については、歴史的にもそうであったように(「写本」など今日では「著作権違反」となるでしょうが、そんな場合、人類の文化はどうなっていたのでしょうか)、より多くの人々によって共有されることこそが肝要なのだと思うのです。

   最後に、今回の私の場合については、個人的に大きな違和感を感じたとだけは言っておきたいと思います。ただ、作詞者である中島みゆきさんがどう考えるかはわかりませんが、まあ、削除したいという人がいるらしいので仕方がないでしょう。しかし、これからは歌の歌詞だとかなんだとかには一切関わらないようにしたいと思っています。全く、馬鹿馬鹿しいことですから!‼︎!




      

2月の「楽」―文化編

人形浄瑠璃とダ・ヴィンチ展
 ―――「芸」と「術」の極致。そして、東京スカイツリー



   ※サロさんとの散歩の時間が増えています。それにしても、サロさんはいつになったら引っ張るのをやめるのでしょう。体力的にまだまだ負けています(汗)。ところで、家にいてもパソコンさえあれば飽きることはありませんが、しかし、舞台にしても、美術にしても、景観にしても、やはり、実物は〈迫真力〉が違うのです。今月は、文楽とダ・ヴィンチ展、そして、東京スカイツリーに行きましたが、どれもその〈迫力〉に圧倒される思いでした。


☆ 文楽公演 『靭猿(うつぼざる)』
       『信州川中島合戦』 輝虎配膳の段・直江屋敷の段 
                     (国立劇場・小劇場)


  ※近松門左衛門の作品を直に見たいと思い、国立劇場・2月文楽公演(第1部)に行ってきました。席も大変良かったのですが、義太夫と三味線の音そして人形たちの動きを大いに楽しみました。人形浄瑠璃の世界に一層引き込まれそうです。ところで、今回とりわけ強く感じたのは、近松の「〈人情〉優位の世界観」だったと思います。これを、単に、「情にほだされて改心する」陳腐なものと解するかどうかは、また、「思想的」な問題というべきでしょうが。

   まず、『靭猿』ですが、これはもともと狂言の演目でしたが、近松が『松風村雨束帯鏡』五段目の劇中劇として取り上げたものとのことです。話は、「我儘」な大名が自分の靭(矢の携帯ケース)を作るために猿曳の猿を殺して差し出すよう命じたので、猿曳は止むなく可愛がっていた猿を「安楽死」(?)させようと杖で急所を打とうとしたところ、猿はその杖を取ってこれまで教えられてきたように舟を漕ぐ真似をしたので、その姿を見た大名が「ヤイ畜生でさへ物を知って嘆くに、殿が物の哀れを知らぬといふは鬼畜木石に劣った、命を助けた、早や早や連れて帰れ」と言って、猿の命を助けるというものです。
   また、『信州川中島合戦』は、以前、歌舞伎で「輝虎配膳の段」を見ていましたが、今回、「直江屋敷の段」も通して見ることによって、新しい見方を獲得できたように思います。まず、印象に残ったのは、この2つの段を通して、「悪者」は一人も登場しないということです。そして、登場人物は、上杉と武田方に分かれ、その敵対的(仇)関係の中で「義理」に縛られつつ争うことになるのですが、親子や夫婦間の愛情、とりわけ、母の子に対する愛情、子の母に対する愛情、そして、それに対する他者の「共感」を仲立ちとして、そうした敵対的関係をある意味で乗り越え、相互的な理解と融和の可能性を示すことになるのです。「短慮高慢」な輝虎が、何故無礼な勘助の母を許し、また、勘助とその妻お勝を国に返し、そして、信玄に「塩」まで贈ったのか。いうまでもなく、それは、「人情」の原初的あらわれである「親子」の情愛に対する〈共感〉(惻隠・憐憫の情)からに他ならなかったということでしょう。実際、敵・味方、あるいは、種族や身分の異なるもの同士の相互的な理解と融和は、そうした感情抜きにしては成立し難いのではないでしょうか。また、今回の作品を見ることによって、『国姓爺合戦』などに見られる忠義のためには自分の子供をも犠牲にするといった設定は、封建的忠誠心を賛美するためのものなのでは決してなく、そうした最も原初的な情愛すらも否定する「武家」道徳のおぞましさや非人間性を際立たせるためのものであったに違いないと確信することができたのです。



☆ 『レオナルド・ダ・ヴィンチ─天才の挑戦』展(江戸東京博物館)

『糸巻きの聖母』が素晴らしい!
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  ※私は、レオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』を見たことがありますが、正直言って、それほど感激することはありませんでした。そもそも、私自身、絵や写真のモデルに〈心惹かれる〉ことはほとんどなかったように思います。しかし、『糸巻きの聖母』は例外です。これは素晴らしいです。かって、この絵の所有者は長期間の移動の際にはこの絵を持ち歩いたそうですが(NHK・総合『城から消えたダ・ヴィンチ「糸巻きの聖母」の数奇な旅』を参照)、その気持ちがわかるような気がします。また、ダ・ヴィンチの絵を描く力は群を抜いていたようで、彼の弟子たちが同様の絵を描き、会場にも展示されていたのですが、その水準は全く異なっているように思われました。

天才というのはやはり「おかしい」!
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  ※ダ・ヴィンチ展のもう一つの柱は、『鳥の飛翔に関する手稿』です。これは、彼の空を飛びたいという願いに基づいたもので、そのために鳥の飛翔を徹底的に研究しようとしたのでした。また、人物の描写においても、その探求は人体構造の解明からまさしくその解剖にまで及んでおり、なるほど、「天才」とはこういうものなのかと、その「異常」な〈集中力〉に唖然とせざるを得ないほどでした。きっと「天才」というのは「大変」なのに違いありません。


☆ 東京スカイツリー・天望デッキ(350m)と天望回廊(450m)

東京タワーが低い(天望デッキから)
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  ※ダ・ヴィンチ展を見終わった後、私はまだ東京スカイツリーに登ったことがなかったので、隅田川を北上しながら歩いて向かうことにしました。スカイツリーからの展望は想像以上で、遠くの山々まではっきり見ることはできませんでしたが、関東平野を見渡す360度の大展望でした。ただし、天望回廊までの3000円超は痛いですよね。でも、天望デッキとの100mの差は大きいと感じました。

隅田川と荒川沿いの街並み(天望回廊から)
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  ※私の次の「大江戸散歩」は、こちらの方向、王子・千住・柴又といったところを予定しています。とりわけ、隅田川と(旧)江戸川との間は、明暦の大火後、「両国(武蔵ー下総)橋」が架けられて以降発展した場所となります。スカイツリーから見ると、西側には高層ビルが林立し、東側には低層の民家が密集しているのがわかります。また、スカイツリーの眼下に見える運動場(グランド)には蟻より小さく見える人影がかなりのスピードで移動している様子が見られ、地上に暮らしている人間たちの力強さも感じることができました。

夕闇迫る富士山と新都心方面(天望回廊から)
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  ※展望回廊からの眺めは素晴らしものでした。とりわけ、日没の太陽の光を背に受けて姿を現した富士山の姿にはしばし見入ってしまいました。富士には2回登っていますが、望遠レンズを使えば、頂上から、スカイツリーや都庁舎そして東京ドームなども見ることができるでしょう。今年も、また、富士を真近かに見る旅に出たいと思います。

人生の「応援歌」――ブルーハーツと「すきま風」

生きる意志(「愛」)の優しさと美しさ
   ―――タナトスを打ち破るエロスの輝き




   ※我が〈僕〉たる飼い主は、今年の四月から「きょうよう(今日用)」も「きょういく(今日行く)」もほとんど無くなり、「サロさん!やりたい放題だよ!」なんて大喜び。このところ、漫画を読んだり、変な音楽を聴いてばかりいます。僕にとっても、散歩の時間が長くなったのでラッキーなんだけどね

   

   
   先週は、井上雄彦の『バガボンド』(〜37卷)を読み終え、YouTubeで、「すきま風」やブルーハーツを聴きまくっていました。きっかけは、「姉貴」が吉川英治の『宮本武蔵』を読んで『バガボンド』もということになったので、私も途中まで読んでいたものをもう一度最初からというわけです。また、音楽については、時代劇の『東山の金さん』(杉良太郎)の主題歌を聞くところから始まって、推薦動画のブルーハーツにはまり込んでしまったのです。

  それにしても、この三つ、なんとも「統一性」(?)がありません。しかし、わたし自身、この歳(「アラ環」)になっても、人格的な統一性どころか、自分自身の矛盾した性格や感情に唖然とするしかないというのが実情なのです。自分が楽観的性格なのか悲観的性格なのかも判然としませんし、また、この年齢になってはじめて、心底から〈叫んだり〉・〈吠えたり〉する気持ちが実感として理解できるようになったりもしているのです(実際、車の中で叫んだりしていますw)。学生時代、フロイトの「無意識」やフロムの「無意識の意識化」などに興味を持ったことがありましたが、わたしの心の奥底にはフロイト言うところの〈エロス〉と〈タナトス〉(攻撃や自己破壊に向かう死への欲動)双方が存在し、それらが「愛」や「トラウマ」などといった心的「経験」と現在自分が置かれている現状を媒介として様々な影響を意識に及ぼしているのかもしれません。とにかく、人間の感情というのは厄介なものです。

   ところで、困難な局面や否定的な状況に直面した時、私たちはしばしばつぶれてしまいそうな気持ちを音楽によって救われた経験があるだろうと思います。ある時は、明るい水前寺清子の『365歩のマーチ』や心が湧き立つようなバーンスタイン=ニューヨーク・フィルのマーチ(『ワシントン・ポスト』や『忠誠』や『雷神』など)などもいいでしょう。しかし、もっと「深刻」な時には、そんな「能天気」な曲はとても耳にしてはいられないと感じます。そんな時には、チャイコフスキーの『悲愴』やモーツァルトの『協奏交響曲』の方が悲しみを「浄化」してくれるのです。「否定(涙・叫び)」を媒介とした〈乗り越え〉とでも言うのでしょうか。今回はまった『すきま風』やブルーハーツも、その演歌ヴァージョン、ロックヴァージュントと言えるのかもしれません。


   まず、『すきま風』(作詞:いではく/作曲:遠藤実)ですが、杉良太郎のほか、舟木一夫、美空ひばり、森昌子、北原みれいなど、多くの歌手がカバーしている「名曲」と言って良いと思います。個人的には、本家の〈味わい〉はもちろんのこと、八代亜紀の〈情感の豊かさ〉、そして、藤圭子の〈歌のうまさ〉には脱帽してしまいました。遠藤の曲は「不器用さ」を感じさせる作りとなっており(だから、かえって歌うのは難しそう)、それがまたいいのです!そして、なんといっても、この歌が人の心を強く惹きつけるのは、いではくの詩の力にあるのだろうと思います。一部だけ引用しておきます。

 人を愛して 人はこころひらき
 傷ついて すきま風 知るだろう・・・
 
 夢を追いかけ 夢にこころとられ
 つまずいて すきま風 見るだろう・・・ 

 「♪いいさそれでも 生きてさえいれば」、いつか〈やさしさ・ほほえみ・しあわせ〉にめぐりあえる。いやはや、励まされますねえ!この曲は、日本歌謡の〈湿っぽい〉優しさの一つの到達点のように思われます。


   さて、次は、THE BLUE HEARTSです。彼らのデビューは30年前の1985年。活動期間は10年間ですから、それはちょうど日本の経済大国化(→「バブル経済」)からバブル崩壊期に重なっています。そして、さすがに私も『リンダリンダ』は聴いたことがありましたし、名曲『青空』がNHKーTVで放映された時のことも記憶に残っていました。ただ、今回、YouTubeで彼らのライブの様子を初めて見、また、YouTubeで聴ける歌をほとんど聴くことができ、認識を新たにしました。カエルのように飛び跳ねながら歌うことのできる強靭な循環器系と幅広い人々の心をとらえることのできるキャラを持った甲本ヒロト、そして、私が理解できる限りにおいて、極めて高い音楽性を持つと思われるマーシーこと真島昌利。なにしろ、この10日間、私はほとんど飽きることがありませんでした。

   ブルーハーツの楽曲は、甲本ヒロトあるいは真島昌利が作詞・作曲したものを甲本が歌ったもの、そして、真島昌利が作詞・作曲したものを真島自身が歌ったものに大別できます。前者の代表が以下の各曲で、甲本の詩の機知に富む「大衆性」と彼の歌唱力によってメジャーたり得たと思われます。

 (1)人にやさしく 1987(作詞・作曲: 甲本ヒロト)
 (2)リンダリンダ 1987(作詞・作曲: 甲本ヒロト)
 (3)TRAIN-TRAIN 1988(作詞・作曲:真島昌利)
 (4)青空 1989(作詞・作曲:真島昌利)
 (5)情熱の薔薇  1990 (作詞・作曲: 甲本ヒロト)
 (6)1000のバイオリン 1993(作詞・作曲:真島昌利)

   (1)は「気が狂いそう」から始まり、「人は誰でもくじけそうになるもの」、そして、「がんばれ」と歌う、いわばロック版の「応援歌」でしょうか。(2)は「ドブネズミみたいに美しくなりたい」から始まり、「ドブネズミみたいに誰よりも優しく ドブネズミみたいに何よりも暖かく」と〈愛〉を歌い上げます。(3)は、若者達や混声3部の合唱曲にもなっているもので、「見えない自由が欲しくて 見えない銃を撃ちまくる 本当の声を聞かせておくれよ」とか「世界中のどんな記念日より あなたが生きている今日はどんなに素晴らしいだろう」という印象的なフレーズがあります。(4)は、NHK版が出色で、ヒロトの物憂さとバックコーラスのマッシーの叫びが融合した「名曲」です。(5)は、いろいろな疑問に対する「答えはきっと奥の方 心のずっと奥の方 涙はそこからやってくる 心のずっと奥の方」そして「花瓶に水をやりましょう 心のずっと奥の方」と歌います。(6)は、「台無しにした昨日は帳消し」にして、これから「楽しいことをたくさんしたい 面白いことをたくさんしたい」と!実にいいですねえ(w)。さらに、金子飛鳥 編曲による弦楽合奏版の『1001のヴァイオリン』がまたいいのです!

   このほかにも、甲本の歌った『未来は僕らの手の中』、『TOO MUCH PAIN』、『すてごま』、『東京ゾンビ(ロシアン・ルーレット)』、『爆弾が落っこちる時』、『終わらない歌』、『ロクデナシ』、『英雄に憧れて』なども大変興味深いものです。ただ、甲本の歌も良いのですが、私は〈魂の叫び〉のような真島の詩と歌声がとても気に入っています。とりわけ、お気に入りは以下の3曲です。

 (7)チェインギャング 1987(作詞・作曲:真島昌利)
 (8)平成のブルース 1989(作詞・作曲:真島昌利)
 (9)俺は俺の死を死にたい 1993(作詞・作曲:真島昌利)

   (7)は、真島の自らを省みる力の迫力そしてそれを踏まえた前向きな姿勢が際立った作品ではないでしょうか。「世界が歪んでいるのは僕の仕業かもしれない」、「一人ぼっちが怖いからハンパに成長してきた」、そして、「生きているっていうことはカッコ悪いかもしれない 死んでしまうことはとてもみじめなことだろう だから親愛なる人よ そのあいだにほんの少し人を愛するってことを しっかりつかまえるんだ」ときます。う〜む。(8)は、実に機知に富んだ川柳のような曲で、「名誉白人」の「平成」の世がまだまだ続いているなと思わせる軽妙な曲です。また、「強行採決問答無用さ 強行採決いつでもそうだろう 問答無用で君たちクビだ」 同感!はははのはーっ!(9)は、「おれは俺の死を死にたい 誰かの無知や偏見で俺は死にたくないんだ 誰かの傲慢のせいでおれは死にたくないんだ」と自己の生と死への「自己決定権」を主張し、若いにもかかわらず「いつか俺はジジイになる 時間は立ち止まりはしない」と相変わらず自分をしっかりと見つめています。幼少期の読書体験や文学的素養も感じさせます。暇があったら是非聴いてみてください。

   それにしても、30年前「未来は僕らの手の中」と歌った彼らももう50歳を超えています。彼らは、私とは違って、「惑わず」・「天命を知る」ことができているのでしょうか。それとも、「いつまでたってもおんなじ事ばかり いつまでたってもなんにも変わらねぇ いつまでたってもイライラするばかり」(『平成のブルース』)なのでしょうか。


プロフィール

SARO MURIKI

Author:SARO MURIKI
おりこうさんのワンワンです。年齢は、2019年11月現在満13歳です。見てのとおりの柴ですが血統書はありません。性別はオスで、飼い主には、朝夕、45分ずつ2回の散歩を義務付けているVIP犬、正確に言うと、VIDです。文句あっか?!

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