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イ・ムジチの『四季』―――60周年アニヴァーサリー・大宮

 2011年10月29日(土)、我<しもべ>たる飼い主は、久しぶりに、奥さんと(僕の最大のライバルである)娘さんと三人で、大宮ソニックシティ大ホールで行われたイ・ムジチのコンサートに行って来たという。そして、帰ってくるなり、いかにも満足げな表情で言った。「ねえ、サロさん。君も気の毒だねえ。だって、わんこを泊めてくれるホテルはあっても、わんこを入れてくれるコンサート・ホールはまずないでしょうからねえ。」 な、なに? そ、それは許せない!

 もう35年以上も前になるのだろうか。私は、東京文化会館大ホールで、イ・ムジチの『四季』を聴いている。その時のコンサートマスターはアッカルドで、その印象は、レコードで聴く繊細で優美なアーヨなどの演奏と比べてずいぶん荒削りで力強いな、というものだった。
 そして、今回久々に聴くことになった「結成60周年アニバーサリーツアー」。プログラムは、モーツアルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」と交響曲40番、そして、もちろん、ヴィヴァルディの『四季』。それにしても、イ・ムジチの『四季』は、相変わらず、凄かった。
 時代も変わり、(古楽器などの影響もあってか)テンポはすさまじく速く、その解釈も極めて自由かつ大胆過ぎるようにも感じられたが、この曲にかけるイ・ムジチのメンバーの強ーい想いと集中力、そして、その艶っぽい弦の音色には何度も神経を揺さぶられた(シビレタ)。特に、<夏>の1.Allegro non molto-Allegro と<秋>の1.Allegroは出色で、たとえば、<夏>の1が終わったあと、ライヴの醍醐味でもあろうけれど、客席から「ブラボー」の声がかかり、それに対してソロヴァイオリンのアントニオ・アンセルミが”THANK YOU!"と応じるなど、高揚感と和やかさが融合した素晴らしいステージとなった。アンコールを求める観客の拍手・歓声もすさまじく、予定されていたではあろうが、私の経験では初めての4回-4曲(ロッシーニのボレロ、赤とんぼ、サンタルチア、「ウィリアム・テル」から(?」)が演奏され、われわれも大満足であった。
 さて、私の印象からすれば、今回のイ・ムジチの演奏会は、ライヴ演奏という観点からして、これも35年位前NHKホールで行われたベーム-ウィーン・フィルによるベートーベンの交響曲5番・6番の演奏会に次ぐものだと感じられた。このベーム-VPOの演奏会は、ライヴに燃えたベームとVPOに火をつけられ、体を焦がした観客が発する「ウオー」という言葉にもならないような声が会場全体を包み込む、異様な世界となっていた(ライヴ録音のCDも持っているが、残念ながら、そこまでの臨場感は伝わってこない)。
 私は、必ずしも、コンサート・ホールの雰囲気を好むものではないが、それにしても、出色の生演奏が与える感動は、本当に素晴らしいものだと思う。今日一緒に行った妻と娘の高揚した横顔を見て、「人間に生まれてきて本当によかったね。この感動を経験できないなんて、なんてかわいそうなんだろう。」と改めて思った。 
 サロさん。ごめんよ!!!
 
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剣道・NHK/BS ”SAMURAI SPIRIT(剣道編)” について

 我<しもべ>たる飼い主は、仕事が一段落したらしく、先ほどからコンピューターに向かってなにやら書き物を始めていた。いよいよ、恐れ多いテーマについて書こうということなのかな。よせばいいのに。

 中年から剣道を始めた者にとって、「剣道」あるいは「武道」というものが自分にとってなんであるのか、どのような意味を持つのかは結構重大な問題になります。というのは、時間的、肉体的にもきつく、また、試合をするわけでもなく、高段位を狙うわけでもない、しかし、それにもかかわらず、それが大変魅力的に感じられる時、それとどう向き合っていくのかについて自分自身を納得させる必要が出てくるからなのです。好きだというだけでやれるほど簡単なものではなくなってきているのですよね。というわけで、私などは、剣道自体をやっている時間より、それに関する本を読んだり、考えたりしている時間のほうがずっと多くなってしまったりするのです。
 
 さて、剣道の愛好者の中には、NHK―BSで放送された”SAMURAI SPIRIT日本語版"をご覧になった方も多いと思います。この番組は、NHKによれば、「世界に知られたSAMURAIの精神が、現代の日本武道にどう受け継がれているのか? 日本の武道が目指すものとは何なのか?その秘密を格闘家ニコラス・ペタスとともに探り、現代人が忘れかけている『武士道精神』を見つめ直」すというもので、「柔道編」・「空手編」・「居合道編」・「古武道編」の4作が放送されました。また、YOU TUBEでは、「ミラノ国際スポーツ映像祭」で奨励賞を受賞したという「剣道編(英語版)」も見ることができます。ということで、今回は、私の「武道論」の端緒として、まず、この「剣道編(英語版)」について簡単に見ておきたいと思います。

 この「剣道編」の概略は、まず、ペタス氏が、東海大のTetsuo Yoshimura先生から、剣道の基本や稽古への姿勢・心構え(『礼』など)を学びます。次いで、福島大のTamio Nakamura先生からは、柳生宗矩を転換点とする、殺傷を目的とした刀剣操作術から人格練成・精神修養(とりわけ自己の弱さ、臆病さの克服-『克己』)へとその目的を転換させた、剣道の歴史を学びます。さらに、ニュージーランド出身の名古屋外大Alexander Bennett錬士六段に外国人として剣道をどう捉えたかについてインタビューしますが、それについて、Bennett氏は、稽古相手は敵ではなくて人格向上を目指して協力し合うパートナーであるということ、そして、剣道にとって非常に大切な精神面での成長を『四戒(驚・懼・疑・惑)』の克服として強調します。そして、最後に、Niibori 範士八段が登場して、Hanawa錬士六段やペタス氏自身との稽古の後、『気剣体一致』の重要性やそうした人間修行が「平和」に結びつくであろうこと、そして、剣道修行の到達目標を示すものとして、彼の師たるMoriji Mochida 範士十段のつぎのような言葉を紹介しています。
  
   『 打たずに打たれなさい
      うけずに打たれなさい
       さけずに打たれなさい
      力をぬいて やわらかく
       相手となかよく おだやかに
        姿勢は美しく 匂うがごとき残心を 』

 さて、以上のような剣道のあり方は、相手(『敵』)に勝つために闘い、そして、そうした『競争心』を力の源泉にしてきた格闘家ペタス氏にとっては感慨深いものであったようです。ただ、そうした剣道の(精神的・身体的)修行のすべてが、あの特別な瞬間―――試合場での完璧な『一本(knock out)』にcome in(現れる・収斂する)すると捉えたところに、彼の「武道家」精神があられているといってもよいでしょう。しかし、問題は残っています。すなわち、それは、「武道」を極めようとするものにとっての到達目標・到達点としての、『一本(knock out)』ならぬ『平和』という問題です。そして、この点について、SAMURAI SPIRIT 「居合道編」では、番組の最後に、居合の達人が「抜かない、抜かせない」(?)究極的な姿を見せてくれ、また、「空手編」では、「空手に先手なし」とする沖縄空手の「形」の中にある、使わないことを前提とし、争いを我慢強く避け、平和を希求する、その根本精神を紹介してくれているわけです。

 時間が来てしまいました。それでは、次回も、この点についてもう少し考えて行きたいと思います。

 サロさん、君って本当に私の心を読むね。負けたよ。行きますか?!

 

 

  

僕は「高等哺乳類」(ダーウィン)だ

 

犬格を!


「一言『犬』とは無礼じゃない?!」



(枯れ)すすき


「僕はわび・さびもわかる。」



高等哺乳類


「おりこうさんのワンワンだい。」

僕の秋

 

コスモス畑で


「さわやかな朝。元気が出るね!」



稲の波


「黄金色がなんともいえないね。」



満足・満足


「明日はススキを見に行こう。」

僕は音楽が好きだ

 
僕は音楽が好きだ


「僕用のステレオで聴くと、うっとり。」



最高でしょう!


「僕はレコードよりもCDの方が好きなのさ。」



あとはゆっくり


「イノシシのように寝るだけさ。」

My Servant's Voice

 
My Servant's Voice


「サロさん。元気でやっとるかね。もう少しで帰るからね。」



つまんない

「なんだい。かまってくれないわけ。」 



やった!


 「やっぱ、こうこなくっちゃね。」

剣道・なぜこんな私が始めたのか

 今日、我が<しもべ>たる飼い主は、午前中買い物に行っただけで、山に行くわけでもなく、午後、素振りをしただけで「体育の日」を終わらすつもりのようだぞ。疲れているんでしょうかね。でも、なにやら書いてたな

 前回のブログで、「この振りならば、“ストン”と切れるかもしれない」などという恐ろしい表現を使ったが、師匠によると日本刀の切れ味というものはすさまじいもので、刃筋が正しければ、刀の重さだけでもかなりのものがストンと切れてしまうものらしい。しかし、私は人をストンと切りたいがために剣道をやっているわけではもちろんありません。では、なぜ、私のようなものが剣道をやることになったのか?今回はそのことを振り返ってみたいと思います。
 私は、子供の頃チャンバラが大好きで、また、高校の体育でも少し剣道をやっていましたので、剣道そのものに対する抵抗感はあまりなかったと思います。しかし、時代劇のような仮想的世界は別ですが、実際の剣道に対してはやはり戦争や果し合いなど血なまぐさい人殺しのイメージとの重なりが強かったことも事実です。とりわけ、私の若いころには、戦前の戦争と軍刀との結びつきのイメージが強く―――たとえば、「百人切り競争」(それにしても、あれはいわゆる白兵戦の中での話ではないですよね)とか大陸で人を何人切ってきたかなどという話には強い抵抗感があって、剣道をやろうなどという気持ちはほとんどありませんでした。
 ところが、18年ほど前、息子が年上の子に憧れて剣道を始めるようになってから、事態は変わります。よくある話のとおり、子供の送り迎えをしていた私にも子供と一緒に剣道をやらないかという誘いがありどうしようかと悩んでいた時、ちょうどその頃近くにいた新進気鋭の剣道七段の人に相談する機会に恵まれたのでした。そして、その時、彼の話に感動し、得心することがなかったならば、私が剣道をすることはなかったろうと思います。
 その時、彼が私に教えてくれたのは―――表現は若干違ったかもしれませんが―――、次の二つのことでした。まず一つ目は、剣道の「礼」とは、「人間同士の相互的尊重を表したものだ」ということでした。それまでの私は、剣道の「礼」を封建的身分関係―上下関係と強く結びついた儀礼的なものと理解していたのですが、彼の話から、「ああ、『礼』とは、<自由で平等な>諸個人間の相互的な尊重ととらえればいいんだ」つまり普遍的で実体的なものなのだと、得心したわけなのでした。二つ目は、剣道の「合理性」についてでした。たとえば、剣道の基礎を教えてくれる際、「竹刀を振るときは、やり投げの槍を一番遠くまで飛ばすように、つまり、円の半径を最大にして、最後に軽く握ってやる―――つまり、突然その半径を短くしてやるわけですよね―――と、剣先に鞭の先ような効果が生まれる・・・」といったように、あたかも力学を教えているかのような彼の論理性には「爽やかさ」さえ感じたといってもよいでしょう。こうして、それまで私が剣道に対して抱いていた極端な根性主義や精神主義といった印象も拭い去られ、私の剣道生活が始まることになったのでした。
 さて、もう時間がなくなってきましたので、私の「武道」に対する考えは次回論じたいと思います。

 サロさん、ほっといて悪かったね。そろそろ、ご飯かな。「お犬様」だねえ!

草津温泉旅行



                草津よいとこ    草津白根のお花畑と大宴会

剣道・達人の教え(1)―――力はいらないんですよ

 我<しもべ>たる飼い主は、稽古をしていないと、やはり剣道について書くのは気が引けるし、感覚も鈍るのだそうで、長い間悶々としてましたが、何とか時間を見つけて書きつけたのが次の文なんだって。

 今でもはっきりと覚えているが、私が初めて師匠の稽古を見て強く印象づけられたのは、「おお、竹刀が振れている!あれが本当の刀なら切れているよな。」というものだった。 “当てている”とか“置きにいっている”とかいう表現を聞くことがあるが、師匠の「振り」はそれとは全く異なっていて、見た目にはものすごいスピード感や力強さを感じさせるものではないが、「脱力」と「手の内」というのだろうか、自然でスムーズな体の移動から鋭く“ポン(トン)”と打ってくる。しかし、この“ポン(トン)”はけっして軽いものではなくて、その一瞬に集中する打ちの強さは、面では防具の特徴からかあまり気づかないが、小手と胴(特に胴)の時にはっきりと体験することができる―――これは打たれてみないとわからないですよね。
 さて、1年間で65回を越えた稽古の最後に師匠が教えてくれたのは「素振り」の仕方であった。これは、剣友会や剣道クラブに入っていない高齢者の私が末永く剣道を続けていけるようにという配慮からでもあると思う。そして、この時師匠が強調したのが、「力はいらないんですよ」ということなのである。たとえば、この時は、素振り用の太い木刀を使ったが、実際、左手の位置に注意しながら天を突くようにスッと振りかぶると木刀の重みをほとんど感じないのである。長くて重いものを非力な者がうまく振るためには「業」・“コツ”が必要であることは以前より理解していたが、木刀を正しく握り(“クソ握り”はだめ)、スッと構えて、大きく踏み出しながら振り、その反動を利用して左足をひきつけて元の構えに戻る、この素振りの一連の動作の中で、両手・両足・肩・膝・肘等々を如何に使うかのアドバイスを受けながら、それを実際やってみると、実に“スムーズ”な振りが可能であるように思われるのである。実は、一つ一つのことはこれまでもずっと教えられてきたことだったのだが、いわば「木刀の重さを利用しつつ、自分の身体を如何にバランスよく使うか」ということを、一連の素振りの動作のなかに凝縮して再確認させられていたわけだ。
 そして、そのことは、高齢者たる私のためだけではないことが、以前兄からもらった居合い用の模擬刀を使って素振りを行ったときに判明する。すなわち、以前の私の素振りと師匠が教えてくれた素振りでは音の有無と音自体の質が違うのである。つまり、「ああ、この振りならば、“ストン”と切れるかもしれない」という感じなのだ。そして、そのとき、まさしく(!)「力はいらないんですよ」ね。
 さて、竹刀と体を如何に使うかということについての貴重な(!)「達人の教え」については、また、私の稽古が再開されたときに、小出しに書いていきたいと思います。
 また、その前に、NHK-BSで放映された「SAMURAI SPIRIT」にも触れながら、「武道」について、読み、考えた私見を書いてみる予定ですので、また、お付き合いください。

 サロさん、散歩に行こうか?
 

 
プロフィール

SARO MURIKI

Author:SARO MURIKI
おりこうさんのワンワンです。年齢は、2019年11月現在満13歳です。見てのとおりの柴ですが血統書はありません。性別はオスで、飼い主には、朝夕、45分ずつ2回の散歩を義務付けているVIP犬、正確に言うと、VIDです。文句あっか?!

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