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私の音楽の故郷―――『ドナウ河のさざ波』

  我<しもべ>たる飼い主は、日曜日の午後、僕が座布団の上で昼寝をしている時、久しぶりに真空管式のアンプとレコード・プレイヤーで『ブラームス交響曲4番』とかいうレコードを聴いてました。サーバントさんは、「ねえ、サロさん。このレコードは、私が高校生のときからのものなんだけれど、去年、中性洗剤で洗ったので、結構いい音だろう?」なんていって、喜んでいました。僕は眠かったので、すぐ寝ちゃいましたけど。

  カール・シューリヒト指揮 バイエルン放送交響楽団、ブームス『交響曲4番』―――これは、高校時代、私がクラシック音楽の中で一番多く聴いたレコードでした。我が家はなぜかコンサート・ホール・ソサエテイというレコードクラブに入っていたことがあって、それもその中の一枚だったのです。非常にあっさりとした表現ではありますが、なぜか人生の秋を感じさせるような音と演奏で、若い頃の私にもとても魅力的な曲に感じられたのでした。
  あれから40年以上たちましたが、ブームスの4番はおそらく300回以上は聞いているでしょう。カセットでよく聞いたトスカニーニ/NBCso、大学院時代のザンデルリンク/ドレスデン・シュターツカペレ、CD時代に入っての、ワルターそしてクライバー,等等。そして、今、我が家にある、ざっと数えて、レコード百数十枚、カセットテープ二、三百本、CD千数百枚・・・これらを前にしてしみじみ思うことは、音楽を聴くことに費やしたこれだけの時間を他のことに振り向けていたらなにが出来たのだろうということです。でも、ただ一つ言えそうなことは、私は本当に音楽が好きだったのだろうな、ということです。ということで、今日は、私の音楽人生の原点らしきものを振り返ってみたいと思います。
  
  自分の音楽の原点らしきもの、それは、勿論、母親の子守唄だったのではないでしょうか。「ねんねんおころり、おころりよ 坊やは良い子だねんねしな・・・」なんという名の子守唄なのでしょうか。でも、その眠りに誘う心地よさを私はよく覚えています。―――ちなみに、我子達には、ブラームスの子守唄に「ららりー、ららりー、おやすみなさい ららりー、ららりー、おやすみなさい お父さんもお母さんも 〇〇ちゃん大好きよ お父さんもお母さんも〇〇ちゃん大好きよ」という歌詞をつけたものを聞かせていました。憶えているかな。
  あと記憶している限り、歌謡曲では、三橋美智也の「夕焼け空は真っ赤っか とんびがくるりと輪を描いた ほーいのほい」とか、島倉千代子でしょうか「東京だよおっかさん」とか、又、「緑の丘の赤い屋根・・・」とか「緑の風もさわやかに・・・」などがかなり古い部類に入ります。そして、私にとって最も衝撃的で、なぜか「妙な気持ち」にさせられたのが、『ドナウ河のさざ波』〔イヴァノヴィッチ作曲)でした。私は、一時、保育所に預けられた事があったのですが、そのとき私は、唯ひたすら保育所にあった蓄音機を夢中になって聞いていたのだそうです。その時の様子は、保育所のO先生が撮ってくれた写真が今も残っているのでわかるのですが、満面笑みで本当にうれしそうです。そして、その後しばらくして私がその保育所に通うのをやめることになった時、母親は、なんと、私の為に蓄音機を買ってくれたのでした。あの「ぜんまい」を巻く感覚、あの鉄の針を交換する感覚、そして、あのクニャッとした「アーム」の感覚は今も忘れません。そして、その蓄音機で聴いた最初のクラシック音楽が『ドナウ河のさざ波』だったというわけなのです。音はけっしてよくはありませんでしたが、さっきYOU-TUBEで聞いたものよりも絶対によかったと思います!(苦笑)
  母親が、当時、相当高価だったろう蓄音機をなぜ買ってくれたのか。それにも、やはり、それなりの歴史が背景にあったようです。母も小さい頃から歌が大好きだったらしいのですが、「上野の音楽学校のピアノ科を一番で出て演奏家として活躍していた従姉がいた」こともあってか、自分も音楽の道に進みたいと思っていたらしいのです。ところが、そのことを祖父に言うと、祖父は従姉のTさんにはドイツ製の白いピアノを買ってやるほどの音楽好きだったにもかかわらず、「お前のように鼻が低くては歌手にはなれない」と認めてくれなかったというのです。ただ、母がけっこう歌がうまかったことは確かで、私が小学校2年の時でしたが、他の町に転住することになって行われた送別会の折、母がたくさんの人たちの前で歌った『帰れソレントへ』は、今でもその様子が目に浮かぶような、素晴らしいものでした。
  ただ、私には音楽家になるような資質がなかったからでしょう、その蓄音機もレコードもその後まもなくして家から姿を消してしまうことになってしまいました。そして、転居後、わが家にあったのは、ちっちゃな「電蓄」のみということになるのです。 
  長くなってしまいました。ということで、「私の音楽の故郷」・『幼児』編は、―――えっ!まだ書く気でいるのか?―――終了ということにします。読んでくださった方、つまらぬ思い出話、申し訳ありませんでした。

 【追記】 最初に書いたオーディオセットは兄からもらった物なのですが、興味のある方もいらっしゃるかもしれませんので、一応、記しておきます。
      (アンプ) Tri VP-300BD―――組み立てキット 
      (プレイヤー)pioneer PL-70
       (スピーカー)JBL 4312 MkⅡ     でした。
  
  
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剣道・達人の教え(5)―――胴打ち

  我<しもべ>たる飼い主は、この週末は余裕で、今日なんかは、朝いつものように僕と一時間ほどの散歩をしたあと、昼まで寝ていたんだよ。それにはもうひとつ訳があって、どうやら、先日、久しぶりに剣道をやって疲れてもいるようなんだよね。でも、飼い主は、「ねえ、サロさん。剣道をやっている人たちの表情は本当にいいねえ」なんて言ってましたよ。ふーん

  先日、素振りだけでは物足りなくなって、実際の稽古に行ってきました。二、三百名は参加していたでしょうか。そこで、師匠をはじめ、依然から顔見知りのAさんやKさん、そしてTさんたちと久しぶりに話すことが出来ましたが、その時感じたのは、剣道に真剣に取り組んでいる方々の表情は、なんとも、穏やかで、さわやかで、いいものだということでした。私はといえば、このところ精神的に怒りを感じたりすることも多く、自分の表情にはまったく自信がありませんでしたので、ああした表情になれればいいな、とつくづく感じたものです。

  ところで、今回は、言葉は交わしたとはいうものの、実際に師匠と稽古をすることは出来ませんでした。私の目はかなリ衰えていて、面をつけるために眼鏡を外してしまうと、前垂れの名前すらはっきりと確認できないのです。まあ、稽古もちゃんと出来ていないので、それはそれでよかったのかとも思っているのですが。
  さて、稽古に参加して改めて思ったことは、師匠の『胴打ち』のことです。私が言うのもなんなのですが、師匠の『胴打ち』は天下一品だと思うのです。実際の試合で見た、二本の胴打ちも、しっかり体が裁かれており、打ちにしまりがあって、見るものに『おお』と声を出させる見事さがありました。
  私のように、中年から剣道をはじめたものは、第一、胴打ちをきちんと練習したことなどなかったわけで、胴打ちの何たるかをほとんど理解していなかったといってもいいくらいなのです。とりわけ、私には、〔あまり上手ではない?)抜き胴の印象が強かったので、胴といえば、どちらかというと、<引いて切る>、といったイメージが強かったのだと思います。そうした中、師匠に教わったのは、胴も、面や小手と同じように、『打つ』のだということでした。これは基本中の基本で、そのポイントは、打った瞬間の左手の位置―――勿論、まっすぐ中心にある―――にあったわけです。
  さらに、もう一つ印象に残っているのは、その打ちの強さのことです。師匠の先生の胴打ちは、大きく振りかぶらなくても、防具の上から痛みを感じるほどすごかったのだそうで、師匠は、先生のようには出来ないけれどと謙遜しながら、それを実際にやって見せてくれたわけです。  「おっ!」・・・・ 一瞬のうちに、防具の上からでも痛みを感じるような冴えた胴打ち、それはどうすれば可能なのでしょうか!?・・・・ またしても、私は、師匠のお手本から、「なるほど・・・」と思えるようなヒントを得ることが出来たのでした。それは、右手を中心とした左右の手の使い方の動的なバランスとでも言えばいいのだと思いますが、誤解もあるでしょうから、これ以上の詳しい説明は差し控えたいと思います。
  私にとって、胴打ちの稽古をするのは、ますます難しくなるでしょう。でも、「理念型」を手中にした者には、いくらでも工夫が出来るはずです。これからの素振り稽古が楽しみでもあるのです。

  次回は、一ヵ月後かな。体調を整えて、今度は、娘と参加してみようかな。サロさんとは無理だからねえ。

SARO-MURIKU 「つぶやき」選集(6)

           5月―――なぜか、私は怒ってました。

〇君は、今、年上のマルチーズのHappyちゃんに夢中のようだが、私は声を大にして叫びたい!―――「柴犬の誇りはどこへ行った」と。まったく、もう。

〇今朝の散歩は「嵐」の中(こりゃあ、異常じゃない?)。そして、相棒のサーバントさんは、左足を引きずっていた。昨日、若い人たちと2時間休みなしで剣道の稽古をしたんだそうだ。運動もいいが、やっぱり、歳相応にやってもらわないと、僕も引っ張るので疲れちゃうわけよね

〇while doing jobs of everyday life ,holidays have disappeared like thunders just now. i did not feel tedious, completely

〇時間とは、生きているという感覚-自己意識に他ならないよな。そして、時間が貴重に感じられてきているということは、残された命がカウントダウン状態ということだろう。「時は金なり」なんて、ある種の若造のたわごとだね。

〇ギリシャの総選挙で与党が敗北した。先日nhk-bsで『嘆きのギリシャ』と言うドキュメンタリー番組を見たが、国家を食い物にした挙句に、その財政赤字負担を国民に転嫁するが如き勢力には、EUからの離脱と国家の民間企業並みの倒産を突きつけてやることが必要かもよ。―――その後のスペインもそうだが、これらの国々の状況を根本的に解決しうる変革が必要なのでしょう。問題解決をグローバリズムの枠内に閉じ込めることは、負担を『弱者』に押し付け、格差を一層拡大することにしかならないと思いますが。

〇フランスでオランドが勝った。国際金融資本は利潤確保のための政治的条件を失う可能性に敏感に反応しているようだが、最大の危機は「市場」とか「国際社会」とかいう言葉に人々が容易に統合されなくなっていることだろう。―――わけもわからないような貨幣が、実体経済の規模の数倍も存在し、その投機的操作によって、実体経済(生産された諸価値の分配)を支配する〔ボッタクル)。お天道様はそんなの永くお許しにはなりませんよ。

〇犬も歩けば棒にあたる サーバントが職場に行けば、信じられないような仕事を振られる―――まあ、名は体を表すわけで。あ~あ。

〇 オゾン層破壊の原因物質であったフロンの規制がなぜ遅れたのか。なぜ、わかっているけどやめられなかったのか。そして、その遅れがどれだけこれからの世界を苦しめることになるのか。共通の利害を前に、直近の私的利害に支配されたままでいることは、道義的にも許されないことと思うが、如何か。―――声高に、原発を再稼動しなければ、コチトラおマンマの食い上げだとおっしゃる方もいるようですが、あなたが儲けるために、放射性物質をばら撒かれることを認めるわけにはいきませんね。

〇今、ある土地に関して非当事者が「愛国心」を叫んでいるとすれば、 まず、沖縄の「同胞」の〈辛苦〉に対してどのような姿勢をとっていたかをみる必要があるでしょう。でなければ、とても信用できません。―――非政治的人間の一私見

〇(リツイート)結構なお手前じゃなかった抹茶味―――なぜか私も抹茶味に弱いが、良くあることです。

〇(リツイート)if I had a star / I would let it fall / and grant people's wishes ―――日本人の作ですが、外国人がたくさんリツイートしてましたね。こういうのが〈コミュニカティヴ〉って言うんですかね。

〇昨日-金環食、今日-東京スカイツリー、連日、日本列島は大騒ぎ!だったのかな?―――私もミーハーやってましたが、金環食のワッカは本当に「金柑」色だった!東京スカイツリーの高さも、『武蔵』たあ、 洒落てやすよね。

〇『未解決事件――オオム真理教』をみた。悲惨で、おぞましい事件だった。テレビで地下鉄サリン事件の速報を見ているとき、同僚が「だれがやったと思う?』と聞いたので、私は「オオムだろう」と答えた。ということは、私にもそれなりの情報が入っていたわけだ。防ぐことは出来なかったのだろうか?

〇知りたいこと、わかりたいことがいっぱいだ。今は、in-put、in-put、in-put!!! out-put にはなかなか手が回りません。

〇(リツイート)年々に増え忘れ物独り言

〇同じ村のどじょう 大飯原発ー再稼動?―――「♪電力は余ってる♪」これが真実でしょう。おそらくね。

〇この夏は 原発なしで 過したい スリッパ履いて クールビズ―――そして、再生可能エネルギーの開発に全力を尽くして、グリーンニューディールぐらいやってみろよ。まったく、もう。


〇不自然に小沢一郎をハブるので 『日本改造計画』を読んでみました。 なるほど、伝統的な権力エスタブリッシュメントの琴線に触れそうなことが書いてあります。でも、それは常識的な議論の範囲内でしょう。小沢をスケープゴートにして『消費税』なんて、やっぱり、おかしいですよね。―――野田さん!私、民主党に、そんなこと頼んだ覚えはないんだけれどね。「政治生命をかける」とかいっているけれど、ドサクサ紛れに色々やろうなんて、汚いんじゃないですか。解散して、もう一度、国民の声を聞けばいいんですよ。何しろ、公約違反の民主党と言うのは客観的な事実だ。思い知るがいい!

『風の谷のナウシカ』によせて(1)

     『風の谷のナウシカ』によせて(1)
             ―――新しい神話的世界の創造


        その者 青き衣をまといて
        金色の野に降り立つべし
        失われし大地との絆を結び
        ついに人々を青き清浄の地に導かん 
                  (風の谷の伝承より)

 我〈しもべ〉たる飼い主は、なにやら、宮崎駿さんのファンらしく、特に、『風の谷のナウシカ』と『もののけ姫』が大のお気に入りらしい。特に『風の谷のナウシカ』なんかは、もう50回以上も観ているらしいんだよ。ちょっと滑稽な感じもするね。 

 先日、テレビで『風の谷のナウシカ』が放映されたそうです。若い人たちはどんな印象を持ったのでしょう。私はといえば、東日本大震災そして福島第一原子力発電所の事故後、久しぶりに、アニメ版の『風の谷のナウシカ』が観たくなり、昨年の暮、新たにDVDを購入して、じっくりと見ることになりました。そして、その時強烈に感じた、宮崎駿氏の「時代」との格闘に思いをはせながら、さらに、アニメージュ・コミックス版『風の谷のナウシカ』全7巻も、一気に再読してしまったのでした―――アニメ版とアニメージュ・コミックス判との相違については色々議論されているようですが、私は両者に基本的な差異はないと理解しています。この点については、次回以降、稿を改めて論じたいと思います。
   
  
 ♪ らん らんらら らんらんらーん らんららら らーん ♪

 あなたも、『風の谷のナウシカ』を観た後、誰かが、ナウシカの幼い頃の回想シーンで流れるこのメロディーを口ずさんでいるのを見かけたことがあるのではないでしょうか。恥ずかしながら、私も、このメロディーを口ずさみながら、このなんとも魅力的なヒロインとの一体感に浸たったりするのです。この物語は、「腐海の秘密」を明らかにすることを通して、人間の「新しい」生き方を指し示すことが出来たナウシカの心の旅(オデッセイ)を表現したものともいえるでしょうが、このメロディーが流れる中、『(王蟲の幼虫を)殺さないで!』と叫ぶ幼い日のナウシカの心の在り様こそ、その後のナウシカに、人々が恐れ嫌う腐海の植物たちと「遊ばせ」、王蟲をはじめとする虫たちと心を通わせ、又、怒りに我を忘れ多くの人々を殺すことになりながらも、ついには『敵』をも含む人々の心を掴むことを可能にさせたものだったに違いありません。

  さて、私が本稿で強調しておきたいのは、宮崎氏が、われわれの『主体』に強く訴えかけ私たちの生き方にすら大きな影響を与える、極めて魅力的な「人間」像の創造に成功していると言うことです。人間は「理性」的な存在でありますが、それにも増して「感性」的な存在であるといってよいでしょう。このことは科学的、合理的な認識の度合いが格段に強まっているように思われる近・現代においても変わることはないはずです。そして、日常生活における行動は勿論のこと、緊急時の人間の行動に対しても、最も大きな影響を及ぼすのは、こうした「感性」的水準にまで溶け込んだ人間観、社会観、自然観に他ならないと思われるのです。それは、「人間」や「社会」とはどのようなものか、「自然」とは人間にとっていかなるものかといった問いに対する、いわば、原初的で、感覚的で、総体的な観方であって、それをここでは一応「神話的なもの」と呼んでおくことにしたいと思います。勿論、いわゆる『神話的』なるものは、「権力者」の在り方を倫理的に正当化するといった性格が強く、これに対して、「民話」や「説話」がいわゆる「常民」の生き方・在り方を伝えてきたといった傾向を認めることが出来るのですが、ここでは、一応、両者を含めて『神話的なもの』と呼んでおきたいと思います。そして、こういった意味において、ナウシカは、まさしく、人間の原初的な在り様に関わる、『神話』的な魅力を持つ人物であると言っていいと思うのです。

  ナウシカのこうした性格は、アニメージュ・コミックス版第1巻の巻末にある『ナウシカのこと』と言う宮崎氏自身の文章の中にも看取できる事です。宮崎氏によれば、ナウシカは、ギリシャの叙事詩『オデュッセイア』に登場するバイアキアの王女ナウシカ〔とりわけ、バーナード・エヴスリンの『ギリシャ神話小事典』でえがかれたところの)と『堤中納言物語』〔文中には『今昔物語』とありますが、このような誤りは「創作活動」にとってはほぼ無視していいものです)のなかに出てくる「虫愛ずる姫君」の二人の生き方に触発されつつ、生み出されたものです。ここで、その創作の過程を想像することは極めて興味深いことではありますが、最も重要なのは、それが、単なるアナロジーといった水準をはるかに越えて、現代的課題に直面している私たちの「主体」に強く訴えかける、まさしく、現代そして未来の社会における「神話」的力を持った作品となっていることです。ジョージ・ルーカスが『スター・ウォーズ』で「現代の神話」を創り出そうとしたというのは有名な話ですが、こうした観点からいうと、『風の谷のナウシカ』は、20世紀後半のファンタジーの世界において、『スター・ウォーズ』と対極をなすところの、一つの「神話的世界」を創り出した最高傑作と言ってよいと思うのです。
   
   勿論、宮崎氏が創造した『神話』は、決して、いわゆる、復古主義的なものでも、非合理的なものでも、非歴史的なものでもありません。宮崎氏の創作の背景には、明らかに、私たちが生きた20世紀後半の時代状況との格闘があり、そして、それを対象とした最先端の理論があったといえると思います。その点については、又、稿を改めて論じて行きたいと思いますが、ここで確認しておきたいことは次のようなことです。すなわち、私たちは、一般的に、いわば「感性過多」の日本的伝統の中で「科学的認識」の重要性を強調されてきたのですが、他方、私たちが生きる現実の世界では、地球環境と人間社会の危機の進展の中で、明らかに、〔似非)「科学主義」の「神話」や粗野な「権力政治」的「神話」が幅を利かせ、私たちの日常生活の感覚・意識に大きな影響及ぼしてきたということです。そうであるからこそ、私たちは、日常生活の「生きる」レベルにおいて、目の前にあるこうした粗野な『神話』に対抗できる、現在の危機の克服と未来社会の創造に向けた新たな『神話』を必要としたのだと思うのです。それを提供してくれたものこそ『風の谷のナウシカ』に他なりません。
  
   現在、50基ある日本の原発は全て運転を停止しています。今この時、「福島」後のわれわれが、『風の谷のナウシカ』の“メタファー”の中から、これからの人間と自然との関係、そして、それを決定付けるわれわれ自身の生き方・関係性を構想し、実生活の中でそれを実現していくことが出来るならば、「福島」の、そして、「世界」の再生に向けた大きな力になると感じるのですが、いかがでしょうか。


  【追伸】ずい分長い間ブログを更新していませんでした。実は、上に書いた文章はもう一ヶ月程前に草稿が完成していました。ただ、他の読書に夢中になっていたり、また、本稿のその後の展開にも考えるところがあって、アップするのを控えていました。ただ、満足できる『風の谷のナウシカ』論など、到底短い時間内では書ききれるわけもないので、いくつかに分割して載せることにしました。まずは、私の素直な感想文として読んでいただければと思っています。
プロフィール

SARO MURIKI

Author:SARO MURIKI
おりこうさんのワンワンです。年齢は、2019年11月現在満13歳です。見てのとおりの柴ですが血統書はありません。性別はオスで、飼い主には、朝夕、45分ずつ2回の散歩を義務付けているVIP犬、正確に言うと、VIDです。文句あっか?!

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