FC2ブログ

イ・ムジチの『日本の四季』を聴いています

  昨年、大宮のソニックシティにイ・ムジチの60周年記念コンサートを聴きに行ったブログを書きましたが、その時、アンコールされた「赤とんぼ」が大きな反響を呼んだようです。私もその時の感動をよく憶えています。
 
  ところで、あのときの演奏のもとになっていたのは、以前CDで発売されていた『日本の四季』(オーボエ:ハインツ・ホリガー)における編曲だと思います。CD自体は、外国人の友人が帰国する際、日本土産(?)としてあげてしまっので今はないのですが、車で聴く為に、その中の何曲かをカセットに録音していました。それを今久しぶりに取り出して聴いていました。「早春譜」、「城ヶ島の雨」、「この道」、「荒城の月」、「赤とんぼ」、「雪の降る町を」。
  
   「・・・・やばい この情緒(汗)・・・・ 」―――若者だったらこんな風にいうかもしれません。足元で寝ている日本犬のサロさん。君の上目使いもそんな気持ちが表れているみたいだね。
 
  このCDは現在入手できない状態のようですが、フィリップスさん!早急に再発売してください! 私もすぐ買いますから。
スポンサーサイト



『風の谷のナウシカ』によせて(4)

『風の谷のナウシカ』によせて(4)
     ―――「生態学」と「多神教」的世界観(2)



    コミックス版『風の谷のナウシカ』第7巻は、物語のクライマックスを形成し息もつかせぬ展開を見せますが、その中でもとりわけ興味深いのがナウシカと「庭の主」や「墓所の主」との対話です。

    さて、ナウシカは、汚染されていない動植物の原種や音楽・文学などの貯蔵庫を守る〔旧世界の「人間」によってつくられた人造人間=ヒドラである〕「庭の主」に救われます。そして、彼はナウシカに「腐海の秘密」―――「腐海」は「人間」によって汚染された地球を浄化する為に「人間」によって造られたものであること、そして、ナウシカたち『人間』もこの新しい生態系に適応するよう作り変えられた存在であり、浄化が終了した暁には、「腐海」と共に亡びるよう定められている―――を示唆するのです。そして、この「庭の主」が守る「庭」とは、地球の浄化の後に再建されるべき「人間」の造りだした理想的な価値あるものの宝庫、いうなれば、彼岸にある救済の世界(=「希望」)の意味を持たされたものでした。しかし、ナウシカは、その彼岸の理想的世界に留まり神の僕におとしめられる「罠」―――ニーチェ流に言うならば、彼岸の救済への憧れは何よりも主体たる人間にとっての退廃を意味します―――に陥ることなく、さらに「王蟲を培養し、ヒドラを飼い、巨神兵を育てた技」(「その技がある限り、よこしまな者をよびよせ、〈虚無〉が死を吐き出す」)が秘められて在る此岸の「墓所」へと向かうことになるのです。そして、そこで展開されるのが、「墓所の主」との一種の「生命」論であり、「宗教」論でした。

    〔「人間」によって造られた「浄化の神」たる〕「墓所の主」によって主張されたのは、大まか、次のようなものでした。すなわち、「火の七日間戦争」前後の自然環境の壊滅的汚染と人間同士の果てしない対立と闘争という憎悪と絶望の時代に、ある「人間」たちは、争いの裁定者として巨神兵を作って邪悪な〈敵〉を掃討するために世界を焼き、また、こうして汚染された大地を浄化するという理想と使命感から、新しい生態系を創造し、人間や他の動物を作り変え、浄化の後に、(こうした〈創造主〉たる「人間」によって選択された善き性格のみを有する)「人間」を再び〈復元〉しようと試みたのでした。そして、それは「人間」にとっての唯一の「希望」だったと言うのです。しかし、こうした危機に瀕した「人間」たちがそれによって人間と地球の再生を図ろうとした「思想と行動」とは、憎悪と絶望の時代を生み出した「巨大な産業文明」のそれと本質的に同じなのです。これに対してナウシカは、「生命」を操作可能なものと考え、一定の目的の下に、「生命」を造り変え、創り出し、「道具」として利用し、従わせる、こうした「人間」たちの「思想と行動」を「生命への最大の侮辱」として批判するのです。少し長くなりますが、コミックス版未読の方のために、いくつか引用しておきましょう。

    「墓所の主」がナウシカたちに「浄化」=世界の再建への「協力」を求めたとき、ナウシカは叫びます。
 「なぜ真実を語らない 汚染した大地と生物を すべてとりかえる計画なのだと!!」
 「お前は 亡ぼす予定の者達まであざむくつもりか!!」
 
    そして、その「生命」論を展開します。
 「私達の体が人工で作り変えられていても 私たちの生命は私達のものだ 生命は生命の力で生きている」
 「生きることは変わることだ 王蟲も粘菌も 草木も人間も変わって行くだろう腐海と共に生きるだろう」
  ―――こうした観点は、他の箇所においても、次のような記述で見られます。
 「目的のある生態系、その存在そのものが「生命」の本質にそぐわない」
 「生命はどんなに小さくても外なる宇宙を内なる宇宙にもつのです。粘菌の変異体にすら心があります。」
 「どんな惨めな生命であっても、生命はそれ自体の力によって生きています。
 この星では生命はそれ自体奇蹟なのです」               
 「世界の再建を計画したものたちがあの巨大な粘菌や王蟲たちの行動を全て予定していたというのでしょうか」

 このように、ナウシカにとって「生命」とは、操作できるものでも、されるべきものでもない、絶対・個別的な「実在」(-「主体」)であって、その具体的-総体的な矛盾・対立関係の中で生き、そして、変化していくものと捉えられていたといってよいでしょう。
 
  さて、こうした問答の中で、ナウシカは、「墓所の主」に言います。
 「神というわけだ。お前は千年の昔たくさんつくられた神の中のひとつなんだ。」
 ―――すなわち、ナウシカは、「墓所の主」を旧世界の「人間」が作り出した、いわば、疎外体としての「神」=「浄化の神」と捉えます。勿論、そこには、彼岸の平和と清浄、そして、此岸の戦争と汚濁という二項対立的な把握とその欺瞞的な使い分けに対する批判があるのです。

 そして、ナウシカはつづけます。
 「絶望の時代に理想と使命感からお前がつくられたことは疑わない」 しかし、
「その人達はなぜ気づかなかったのだろう 清浄と汚濁こそ生命だということに」
「苦しみや悲劇やおろかさは清浄な世界でもなくなりはしない それは人間の一部だから・・・」、「だからこそ、苦界にあっても喜びや輝きもまたあるのに」と。
 ―――ここに、ナウシカによる「生命」の弁証法的把握、すなわち、対立物の統一的、具体的・総体的な把握が見られます。また、他の場所においても、次のような記述が見られます。
 ・「森はひとつの聖なる生命体」〔セルム〕
 ・「個にして全、全にして個・・・ある偉大な王蟲が教えてくれました。」

  これに対して、「墓所の主」は、
   「お前にはみだらな闇のにおいがする」
    「人類は私なしには亡びる。」
 ナウシカ 「それはこの星がきめること」
 墓所の主 「虚無だ。それは虚無だ。」
 ナウシカ 「王蟲のいたわりと友愛は虚無の深遠から生まれた」
 墓所の主 「お前は危険な闇だ。生命は光だ。」
 ナウシカ 「ちがう いのちは闇の中の瞬く光だ」
      「全ては闇から生まれ、闇に帰る」 
 墓所の主 「お前は悪魔として記憶されることになるぞ 希望の光を破壊した張本人として」
 これに対してナウシカは。
     「かまわぬ そなたが光なら 光などいらぬ」 
    「強大な墓や下僕などなくても 私たちは世界の美しさと残酷さを知ることが出来る」そして
      「私たちの神は一枚の葉や一匹の蟲にすら宿っているからだ」と。


  さて、このような教理問答のごとき対話の中から、私たちはなにを読み取るべきなのでしょうか。


   まず、第一に押さえておくべきことは、この「墓所の主」が、明らかに、近代西洋思想の基底のひとつを成すユダヤ―キリスト教的伝統における「唯一神」、すなわち、「万物の創造主」であり「全知・全能」の神というイメージを持っていることです。そして、そのことは、宮崎氏が「墓所の主」とそれを自らの姿に似せてつくった旧世界の「人間」たちの、「生命」に対する道具主義的な見方(そして、「生命」を単純な二項対立的な枠組みで把握する思考方法)の背後に、西洋的な「一神教」的世界観の構造を見ていただろうことを意味すると思われます。

   そして、そうした「神」である「墓所の主」は、ナウシカの考え方を「闇」そして「虚無」と攻撃しますが、それは、あくまでも、「一神教」的な問題設定の中で述べられているものと理解されなければなりません。すなわち、汚染されていない理想的「生命」の再生は、「一神教」的な神の「光」の中にあるのであって、それを否定することは、「死」を、「光」ならぬ「闇」を、「希望」ならぬ「絶望」―「虚無」を、「神の僕」ならぬ「悪魔の使い」の成せる業を意味することになります。そして、こうした枠組みの中における「墓所の主」とナウシカの対決は、一見、「神」と「無神論者」(ニヒリスト)との対決のようにも見えます。しかし、宮崎氏が創作の過程でニーチェの思想を意識していただろうことは間違いないにせよ、この対立の構図におけるナウシカの「闇」や「無」や「虚無」といった用語をニーチェ的な「無」や「虚無」と同一視し、ナウシカがニーチェ的な「能動的ニヒリズム」の立場に立っていると考えることは誤りであるといえるでしょう。なぜなら、ニーチェは、近代的な「ニヒリズム」―――近代西欧におけるキリスト教的の神の死(「神は死んだ」あるいは近代人による「神殺し」)はそれまで神から与えられてきた人間存在の意味と価値を失わせた―――を徹底させ(「永劫回帰」の思想)、それを主体的・能動的に克服しようとした(「超人」・「権力への意志」の)思想家として知られているのですが、ナウシカの考え方はそれと真っ向から対立するものと考えられるからです。

 まず、ニーチェの「永劫回帰」の思想―――「人生は、そのあるがままの姿において、意味もなく、目標もなく、無への終曲音(フィナーレ)もなく、しかも、不可避的に回帰する。すなわち永劫回帰。これがニヒリズムの極限の姿である。すなわち無(意味なきもの)の永遠!」(『力への意志』)―――は、彼岸の喪失による此岸たる人生の「無意味」を徹底的に自覚することを意味します。これに対して、ナウシカの思想は、そうした此岸の(死をも吐き出す)「虚無」(無意味)を否定するものに他ならないからです。すなわち、「一神教」的な問題設定の中には「主と僕」、「主体と客体」、「光と闇」、「希望と虚無」、「清浄と汚濁」、「彼岸と此岸」といった二項対立的な思考の型があり、さらに、彼岸の「希望」を語りながら此岸の「虚無」、すなわち、客体としての「生命」の操作や神を否定するものの殺戮を許すといった宗教的疎外の構造すらあったのですが、ナウシカにとっては、「一神教」的な神が死に、「彼岸」が喪失したからといって、「生命」が意味を失うわけでは全くないのです。なぜなら、「一神教」的な神から意味や希望を与えられなくても、此岸の「生命」そのもののなかに「神」や「希望」を見出すことが出来るからです。
 
 また、ニーチェ的な「虚無」の克服とは、要するに、神に代わって〈存在〉に意味や価値を与える人間の強靭な「意志」―――たとえそれが此岸の「意味なきもの」に対する運命愛的な全面肯定であろうと―――、人間の「主体」としての自立を意味するものでしょう。しかし、それは、あくまでも、「一神教」的な問題設定、すなわち、「主体」(-「客体」)の問題設定を継承するものといってよいのです。「旧世界の人間」たちは、「裁定の神」(=巨神兵)や「浄化の神」(=墓所の主)さえ作ったのですが(「人間が神を創ったとき、神が死んだ」)、それは、人間が「神」になった、すなわち、人間がユダヤ・キリスト教的な「神」=「全知全能」、「万物の創造主」たる神になった、と捉えることも出来るのです。こうして、「神」となった「人間」は、客体としての「生命」をも道具的に操作することが可能になったのです。
 
   さて、こうした「一神教」的な問題設定とは異なるナウシカの思想とはなんなのでしょうか。ナウシカの「闇」、「無」、「虚無」とはなにを意味するのでしょうか。いうまでもなく,それは東洋的世界観における「無」の思想に他ならないと思われます。それは、「無」の中に「神」・「希望」を見出す思想であり、その象徴的表現が、
「王蟲のいたわりと友愛は虚無の深遠から生まれた」 そして、
「私たちの神は一枚の葉や一匹の蟲にすら宿っているからだ」 です。

   それは、まさしく、「アニミズム」、「多神教」の世界です。そして、こうした世界は、アニメ版『ナウシカ』の中では、土俗的な「風の谷の伝承」といった形で、『もののけ姫』の中では、ナゴの神、乙事主、しし神、木霊(こだま)、モロ、デイタラボッチといった神々のかたちでより可視的に表現されていました。そして、こうした観点は、宮崎氏が日本民族学の中から掴み出したものだろうと考えられるものです。たとえば、デイタラボッチは明らかに柳田民俗学の影響でしょうし、また、物語の中で重要な役割を演じている新しい生態系=菌類の森たる「腐海」が、生態系を護るために神社合祀令反対闘争を闘った日本民族学者の一人、南方熊楠の粘菌研究をヒントとしているだろうと思われるところにも窺えます。
   ところで、筆者がこうした「多神教」的世界の背後にさらにあると考えているのが、西田幾多郎の「無」あるいは「絶対無」の思想です。西田は「幾千年来われらの祖先のはぐくみきたった東洋文化の根柢には、形なきものの形を見、声なきものの声を聞くといったようなものがひそんでいるのではなかろうか」と述べ、いわゆる〈弁証法的な実在の論理〉の構築を試みています。そして、そこには、この物語の中でナウシカが展開している「生命」や「神」についての思想、それと共通する数多くの視点を見出すことが出来ると考えられるのです。興味がある方は、西田幾多郎の『善の研究』第二編「実在」や『現実の世界の論理的構造』などを実際に手にとって参照いただければと思います。ただ、本稿においても、以下、必要と思われる限りにおいて、若干のコメントを試みたいと思います。

   又又、長くなってしまいました。次回は、西田哲学からの若干の引用と「多神教」的世界観の意義について論ずる予定です。

『風の谷のナウシカ』によせて3)

  『風の谷のナウシカ』によせて(3)
      ―――「生態学」と「多神教」的世界観(1)




    先日、iPS細胞を開発した山中伸弥氏がノーベル医学・生理学賞を受賞しました。ニュースは、一種愛国主義的雰囲気をも漂わせながら、このバイオテクノロジーの一大成果を大々的に報じています。しかし、数十年前に脚光を浴びた原子力技術(とりわけ、原子力発電)がそうであったように、それは本当に人類にとってよきことなのでしょうか。勿論、「バイオハザード」の心配はもはや絵空事ではなくなっています。また、医療技術について言えば、既に、臓器移植技術に関する倫理的な諸問題、そして「南北格差」や「臓器売買」などの経済的利権に絡まる諸問題など、様々に指摘されているのです。しかし、持病を抱える私自身、医療技術の進歩に恩恵を受け、又その更なる進歩に期待するところ少なくありません。しかし、それはあくまで慎重にも慎重を重ねたものでなければならないと思っています。少なくとも、「あの頃の日本には、一人の生態学者もいなかったのか」と言う溜息が出ないようにしなければならないでしょう。ということで、読書と仕事で一時中断していた本稿を、早急に完成することにしました。ご一読くだされば幸いです。


    前回のブログでは、第二次大戦後の時代状況、とりわけ、環境と戦争の問題について、思いつくまま述べてきました。そして、そうした時代状況との格闘の結果として生み出されたと考えられる『風の谷のナウシカ』が、そのアニメージュ‐コミックス版が1982~1994年に、そして、アニメーション映画版が1984年に発表されたのです。ところで、かなりの人たちが、アニメ版とコミックス版との「違い」に戸惑ったり、違和感を感じたりしたようです。しかし、私は両者の間に本質的な相違はないだろうと考えています。両者に相違があるといっても、映画化のための「簡略化」であり、また、担い手や役割すら異なっている場合でも、物語の「本質的な」テーマや「構造」には、明確な共通性が存在すると思われます―――勿論、ほぼ同様なテーマを取り扱い、宮崎氏の自然観や歴史観の一定の総括と考えられる『もののけ姫』(1997年)においては、「近代」と言う時代に対する価値判断やそこにおける「〈人間化〉された自然」に対する捉え方などが、より整理され、より解りやすくに表現されていると考えられますが。

   私が宮崎氏の作品に触れて感じる彼の基本的「視角」の特徴は、まず第一に、問題を自分の問題として捉えようとしていることです。私の若い頃に「我内なる○○」といった表現がありましたが、宮崎氏の場合においても、自然環境の破壊や戦争と平和の問題を(その「種子」をもふくめて)自分自身の中に発見し、対象化して考えると言う姿勢が明瞭であると感じられます。そして第二は、それとも密接に関連するのですが、例えば自然と人間、善と悪、敵と味方などといった、単純な二分法や二元論をとらないこと、換言すれば、弁証法的といっていいアプローチをとっていることです。そのことによって、対立するもの双方に貫いてある問題を捉え、その解決(止揚)の方向性を探る、といった性格を持つことになるのです。それでは、こうしたアプローチがどのようにあられているのか、まず「環境問題」から見ていくことにしましょう。

    さて、近・現代における人間による自然の収奪-汚染-破壊は、まさしく、「豊かさ」を求める多くの人々にとって、ごく当たり前のこと、いわば、歴史的必然として受け止められてきたと言ってよいでしょう。そして、巨大な産業文明を支え、こうした環境破壊を生み出したてきたのが、近代西欧に発する自然観に他ならなかったことは言うまでもありません。今でこそ、自然環境の破壊に対する危機感や反省は多くの人々が共有するところとなりましたが、しかし、その基底にあった近代的自然観にたいする根源的な把握と反省は十分と言えたのでしょうか。
    
    一般的に、近代的自然観とは、自然と人間を対立するものと捉え、自然を人間によって「支配」・「征服」されるべき対象として捉える観方をさすものと言ってよいでしょう。そして、それは、たとえば貴重な森林の破壊をともなう乱開発や、巨大な生産力を生み出す科学技術の安易で無原則的な礼賛など、現在においてもわれわれのすぐ身近にある観方に他なりません。ところで、こうしたある意味で極めて単純な自然観に対し、科学の立場から明確な批判を展開したのが「生態系」の理論でした。それは、これも単純化していうならば、人間も自然の一部であり、「草木の死は人間の死である」という事実に気づかせてくれたものだったわけですが、こうした捉え方が日常生活の中である程度大きな力を持つようになったのはそれほど昔のことではなかったといえるのです。そして、こうした理論の日本における普及とって極めて大きな力となったのが、レイチェル・カーソンの『沈黙の春―――生と死の妙薬』であったと私は考えています。そこで展開されていたのは、地球の長い歴史の中で造り出された、生命と環境との、そして、生命同士の、二元的対立ならぬ、絶妙な「均衡」であり、「相関関係」であり、「相互依存関係」でした。目の前にある環境・生命は、人間が勝手に扱ってしまうことが許されない、絶妙なバランスの上に存在していたのです。それゆえにこそ、人工の化学物質や放射線そして生命工学などによる生命(遺伝子)への破壊と操作は厳しく批判され、警鐘が打ち鳴らされていたのです。そして、こうした理論は、同時に、地球の生態系の中で生まれ存在している「奇跡としての命」の尊重という、いわば倫理的な思想にまで「高められていた」と言っていいのです。いうまでもなく、ナウシカによる「腐海の秘密の発見」とは、こうした「生態系(そして自然の自浄作用)」の発見を、巧みな比喩によって描き出そうとしたものと言ってよいのです。
    
    さて、以上のような概観から、『風の谷のナウシカ』にみられる思想的対立の構図は、「近代主義」的自然観とカーソン的「生態学」のそれといってよいと思われます。アニメ版の『ナウシカ』においては、それは次のような比喩によって語られていました。すなわち、「火の七日間戦争」によって破壊され汚染された自然を前に、前者は、(その破壊と汚染そのものを引き起こした)「生命工学」によって創りだされた「生きた核兵器」たる「巨神兵」を復活させること、すなわち、「人間をしてこの世の主となした奇跡の技と力」を復活させることによって、腐海を焼き払い、それによって「自然」に対する人間の「支配」を再び取り戻そうとする考え方であり、そして、後者は、「腐海に手を出してはならぬ、」という『風の谷の伝承』や「腐海とともに生きる」といった言葉に象徴される「自然との共生」を志向する考え方、いうなれば、「生態学」的自然観の「原初的」形態といっていいだろう考え方です。また、コミックス版においては、この対立は、汚染された自然の浄化や混沌とした争いの裁定といった一種の「理想主義」的形態を装いながら、結局、命をつくりかえ、「生態系」すらつくりかえた「人間」の被造物(ヒドラ)=「墓所の主」や「庭の主」とナウシカとの対決として描かれているのです。すなわち、ここで確認しておくべきことは、宮崎氏の主要なポレミーク(論争)の対象は、究極的には「生命工学」を頂点とするような、「全般的操作可能性」を信じる「近代主義」的な技術とイデオロギーであるということです。そして、アニメ版においては、このコミックス版における「墓の主」や「庭の主」の役割を演じていたのはクシャナと敵対していたペジテなのですが、彼らもナウシカに「結局あなたたちも同じよ」と指弾されているのです。勿論、こうした設定の背後には、近代主義的な技術とイデオロギーを資本主義と共有しつつ、自然環境の破壊と核開発競争に邁進していた中ソを初めとする「現存社会主義」に対する宮崎氏の批判的視点をも感じることが出来るでしょう。

   ところで、そうした対比の中で、『風の谷のナウシカ』のファンタジーとしての面白さをさらに高めているのが、それをいわば「一神教」の神と「多神教」の神との対立というかたちで表現しているところであり、さらに、その「多神教」的な見方の基盤としておさえられているのが「日本的」あるいは「東洋的」といってよいだろう自然観ないし宗教観だということなのです。それでは、この点を、コミックス版『ナウシカ』の中で、手短に見ていくことにしましょう。
   

   あまりにも長くなりましたので、ここで一区切り付けつけます。

    

僕の「小さい秋見つけた」

 
 
ねえ散歩に行きましょうよ―――僕が〈しもべ〉でいいからさ







さあ、秋空の下へ出かけるぞ
            ―――なに?キツネに似てるって







コスモス見っけ―――いいじゃない






運動会もやってるし―――これも秋の風物詩だね





 


稲刈りも終わって―――ちょっと失礼しま~す

 






 初秋の散歩道―――これっていつか見た風景だね






 満足・満足―――最高だね





  サーバントさんは、今なにやらブツブツ言いながら、一生懸命本を読んでいます。ナウシカ論の続編ももう少しだと言ってます。それよりも、散歩なんだけどなあ。困ったもんだ。
プロフィール

SARO MURIKI

Author:SARO MURIKI
おりこうさんのワンワンです。年齢は、2018年11月現在満12歳です。見てのとおりの柴ですが血統書はありません。性別はオスで、飼い主には、朝夕、45分ずつ2回の散歩を義務付けているVIP犬、正確に言うと、VIDです。文句あっか?!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
ワン・クリック・エリア
おもしろかったらクリックしてね!
にほんブログ村 犬ブログ 柴犬へ
にほんブログ村 にほんブログ村 格闘技ブログ 剣道へ
にほんブログ村 にほんブログ村 政治ブログ 平和へ
にほんブログ村
リンク
QRコード
QR
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる