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僕は満6歳

  
誕生日は美味しい

  今日は11月29日、僕の誕生日です。サーバントさんは、「今年の『いい肉』は牛プラス鳥だぞ!」とか言って、大判振る舞いしてくれました。自分で言うのもなんですが、ワンワンも着実におりこうさんになるわけで、サーバントさんとの阿吽の呼吸はもう芸術的ですワン。




ご馳走を前にするとちょっと野性的になっちゃうんだ






 
新しい僕のベッド

  もう一つの誕生プレゼントは、新しい冬用のベッドでした。今使っている座布団の具合が悪かったので、見た瞬間「やった」と思ったよ。すぐ上に乗って、寝てみたけれど、ああ、夜が楽しみだなあ




えっ?散歩?外は雨だよ。寝てる方がいいなあ~




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ロンドンっ子と一万匹のキツネ

           キツネ好きのロンドンっ子について思う


     かなり前になりますが、『ワイルドライフ』(NHK/BSプレミアム)「大都会ロンドン キツネ1万匹 大繁栄の謎に迫る」と言う番組の再放送を見ました。番組の概要については、NHKのホームページ http://www.nhk.or.jp/wildlife/program/p097.html を見てもらうのが一番いいと思いますので、割愛いたします。ただ、ロンドン市民と野生のアカギツネとの関係については、色々と考えさせられることがありました。ここでは、それを書き記しておきたいと思います。
     
     私は、近くにまだ自然らしきものが残る新興住宅街に住んでいます。5,6年前までは、100メートル先の空き地に雲雀が巣を作っており、近くの某河川の「源流」にはカワセミの姿さえ見られました。また、我が家においても、初夏にはたくさんの小さな青蛙が外壁に張り付き、また、庭木にシマヘビが巻きついていたこともありました。野鳥たちも、糞公害を撒き散らしながら、やりたい放題。いやはや、自然の潤いを感じながらも、大変な思いもしていたのです。ところが、「あの大都会のロンドンっ子が、野生のアカギツネと一緒に暮らしている?」それは一種の衝撃でした。
     
     ロンドン・オリンピックの開会式を見るまでもなく,イギリスは最初に産業革命を行った国です。しかし、その産業化とは対照的に、イングリッシュ・ガーデンにしろ、ナショナル・トラストにしろ、彼らの自然なるものへの愛情や自然保護への情熱はどうやら半端なものではなさそうです。実際、ロンドンのキツネたちの住処は、庭造りの好きなロンドンっ子達が作ったイングリッシュ・ガーデンの帯―――まさしく、『グリーン・ベルト』の中なのであり、そして、NHKのHPには、「ある大学が行った意識調査によれば、アンケートに応じた4000世帯のうち、65%が都会のキツネが「好き」と回答。25%が「どちらでもない」で、「嫌い」と答えたのは全体の8%程度だった。」ということなのです。交通事故や糞など、色々不都合なことも数多くあるに違いありません。それにもかかわらず、キツネと共に生きることを選び、そこに幸福感を持ちえている彼らをどう捉えればよいのでしょう。同じ状況が東京にあったとして、東京っ子はどのように反応するのでしょうか。しばし、想像がふくらみます。
 
     答えは分かりません。しかし、ロンドンっ子には、産業化の先頭を走った者が後を振り返り見たときに知ることができる何か、そして、それは今まさに産業化競争真っ只中にいる者には見えない何か、それが見えているのかもしれません。考えさせられるところです。そして、現在の日本人は、そうしたイギリス人に似ているのか、あるいは、あの中国人に似ているのか、どちらなのでしょうか。

2012年 東北の旅―――被災地を思う

  
「浄土庭園」と被災地と


    11月10日(土)~11月12日(月)、私は、友人4人と共に、宮城県と岩手県を旅行して来ました。両県ともわたしには縁のある土地で、とりわけ、三陸海岸については東日本大震災以降訪れる機会をもてませんでしたので、是非にと考えていた場所でした。大まかな旅行目的は、前半が紅葉、後半は被災地を巡るということでしたが、経路は以下のようなものとなりました。
 第一日目:(東北自動車道)―――鳴子峡―間欠泉―鳴子温泉(泊)
 第二日目:鳴子温泉―厳美渓―(平泉)毛越寺―猊鼻渓―陸前高田―
      南三陸町(泊)
 第三日目:南三陸町―雄勝町―仙台―(東北自動車道)



鳴子峡





※ 紅葉には少し時期が遅かったようですが、黄色を中心とした色合いが大変鮮やかでした。眼下に見える散策路は現在工事中で入ることはできませんでしたが、再度訪れる機会があれば、是非歩いてみたい所です。近くにある「間欠泉」もなかなかかわいらしいもので、足湯や露天風呂もあるので、散策の後などには寄ってみたいところでしょうか。


厳美渓





※ 平泉の中尊寺には2度行ったことがありましたが、厳美渓は初めてでした。比較的規模も大きく、家族連れなどが楽しいひと時を過していました。川を挟んでかごで饅頭を注文し、受け取る風景はなかなか趣があるものです。時々晴れ間も見えましたので、紅葉も青空に美しく映えていました。


毛越寺1





※ 世界遺産・毛越(もうつう)寺―――臨池伽藍跡と浄土庭園。読み方が難しく、私は読めませんでした。帰宅してからそのことを妻に話すと、妻は知っていて、笑われてしまいました。私は、寺社を訪れるとおみくじを引く習慣があるのですが、この時は「小吉」でした。「小吉」の積み重ねが「大吉」となるとか友人からからかわれましたが、このところ、「大吉」-「末吉」-「吉」-「小吉」ときています。次は「大吉」でしょう、多分? 


毛越寺2





※ 紅葉した木々の間から大泉が池を望みます。この庭園は奥州藤原氏がイメージした「極楽浄土」ということになりますが、確かに、紅葉のこの時期の美しさは格別と感じられました。ただ、そのあまりにも広大で、「人工的な」美しさには、やはり支配層の贅沢さも感じられて、複雑な気持ちにもなりました。中尊寺は、当日大混雑が予想されたので、パスすることにしましたが、中尊寺建立などに使われた金は、南三陸近辺から産出された砂金を持っていき使用したものなのだそうです。 


陸前高田―痛々しい瓦礫の山





※ 多くの犠牲者を出した陸前高田市は、市役所を中心とした広大な地域に津波の爪跡が見られ、未だに多くの瓦礫が残されていました。市役所跡には祭壇が設けられ、人々の冥福を祈る姿が見られました。ただ、この喩えようもない寂寞感は「自然災害」故のことでもあるのでしょうが、そこで懸命に生きていただろう人々のことを考えると、その被害をできるだけ小さなものにできなかったのだろうかという気持ちも同時にわいてきました。政治の力とは、なんなのでしょうか。



「奇跡の一本松」は今





※ 大きな話題となっていた「奇跡の一本松」は、国道から海岸方向に500メートルほど入ったところにありました。現在は保存事業の最中で、写真のような姿になっていました。ただ、その切り株は、人一人ではとても抱えきれないような大変立派なものでした。この木とこの町がこれからどのように再生していくのか、10年後、もし私が元気でいたら、再び訪れてみたいと思ったものです。


南三陸町





※ 今回の旅行の中で一番大きな衝撃を受けたのは、夕闇迫る中、南三陸町に入っていった時の光景です。「一体これは何なんだ?」それが私の正直な気持ちでした。戦後生まれで、いわゆる廃墟というものを見たことがなかった私は、町の4分の3が壊滅したというこの町の惨状は、一年以上たった現在でさえ、想像を絶するものだったのです。勿論、南三陸町だけではなく、マスコミなどではあまり取り上げられていない雄勝町など沿岸部の町々の被害の様子を間近に見ると、自然の中で私たち人間はどう生きるべきなのか、改めて考えさせられたものです


防災対策庁舎





※ 最終日、私たちは、『震災を風化させないための 語り部バス』というものに乗り、約1時間ほど、鴻巣さんという方の話を聞くことができました。とりわけ、防災対策庁舎前で、あの日の放送を聞いていた鴻巣さんから、当時の放送内容から知ることができた遠藤未希さんや課長さんの様子を聞いて、強烈な印象を受けました。実際に震災を体験した彼の言葉には、これから私たちが考え、答えを出して行かねばならない多くの問とヒントがあったように思われます。貴重な体験でした。
  最後に、南三陸町の宿泊場所は、(二階まで波は来たようですが)高台にあったために難を逃れることができた、ホテル観洋というところでした。バブル期に作られたのか外国風の超豪華なホテルでしたが、食事も美味しく、サービスも心細やかなで、旅慣れた私の友人たちも絶賛していました。『語り部バス』もここから出ています。私も、復興支援の為(?!)、お土産を普段の3倍も買って帰ってきました。
  被災者の方々と同時代を生きてきた一人として、今回の震災を忘れないようにしたいと思っています。

サロの「僕はスフィンクス!」

 
僕はスフィンクス

  サーバントさんの奥さんは、このごろ、「サロちゃん、首の毛がスフィンクスのようだね。それじゃモテて困るでしょ。」なんていうんだ。でも、確か、去年まではこうじゃなかったよね。僕も成犬になったのかなあ?




そうだ僕ももうじき6歳だ。―――もう子ども扱いはやめてほしいね!




『風の谷のナウシカ』によせて(6)

『風の谷のナウシカ』によせて(6)
        ―――戦争論と非暴力直接行動




    我〈しもべ〉たる飼い主は、最近どうも腰の調子が良くないらしく、散歩も自転車で行くことが多くなったんだよ。そのおかげで僕はビュンビュン走れて気持ちが良いんだけれどね。ただ、剣道の方はなかなか出来ないらしくて、少し寂しそうだよ。でも、戦争反対の人がどうして剣道なんてやってるんだろうね。矛盾してないかな?まあ、もともと矛盾している人なんだけどね。

    
   さて、『風の谷のナウシカ』の舞台は、「巨神兵」によって世界が焼き払われた「火の七日間戦争」から1000年後の地球です。前者は「人間をしてこの大地の主となした奇蹟の技と力」の象徴=生命工学によって造りだされた究極兵器であリ、後者はそれによって地球環境自体が大きく破壊・汚染された大戦争でした。勿論、私たちは、それらが広島・長崎を起点とし第二次世界戦後の世界を脅かし続けた核兵器と全面核戦争の比喩であろうことは容易に想像がつくことでしょう。

   ところで、『風の谷のナウシカ』が、こうした物語の設定やそのストーリーの面白さだけではなく、まさしく、「戦争論」として興味深く意義ある作品となっているのは、それが単に戦争の悲惨さを描き出すだけではなく、戦争の原因にすらメスを入れ、その克服に向けて悪戦苦闘しているからにほかなりません。先に、ユネスコ憲章前文の「「戦争は人の心の中で生まれるものだから、人の心の中で平和のとりでを築かなければならない」と言う文を引用しましが、それでは、戦争はどのように人の心の中に生まれるのでしょうか。この点に関する探求を物語の登場人物同士のせりふの中から見て行くことにしましょう。

   まず、アニメ版からはじめます。物語の後半部、ナウシカの師ユパは、捕らえられていたクシャナに次のように言います。
「巨神兵を酸の海深くに沈め、本国に帰ってくれぬか。谷に残る兵は少ない。今戦うことはやさしいが、これ以上の犠牲は無意味だ」。
これに対し、クシャナは次のように答えます。
「・・・・もう後戻りはできないのだ。巨大な力を他国が持つ恐怖ゆえに、私はペジテ攻略を命じられた。やつの存在が知られた以上、列国はこの地に大軍をつぎつぎと送り込むだろう。お前たちに残された道は一つしかない。巨神兵を復活させ、列強の干渉を排し、やつと共に生きることだ。・・・・・わが軍がペジテから奪ったように、やつを奪うがよい」と。
 
   このように自分たちと同じ思考方法へと誘うクシャナに対して、ユパはあくまでも「巨神兵は復活させぬ」と応じたのですが、こうしたクシャナの言葉の中に、私たちは、冷戦時代に支配的でなじみ深かった「権力政治観(パワー・ポリティクス)」や「勢力均衡論(バランス・オブ・パワー)」に似たニュアンス感じ取ることができるはずです。前者は、国際政治とは「国益(ナショナル・インタレスト)」をめぐる国家間の権力関係であって、その実現の為には、最終的に「戦争」という手段に訴えることも許される、あるいは、それは権利でさえあるという考え方でした。また、後者は、このような権力政治の中にあっては、「国益」追求と自国の安全保障にとって最終的に頼れるのは軍事力なのであり、「(仮想)敵国」の侵略を阻止し、「平和」を維持するためには、軍事的な「報復力」-「抑止力」に基づく「力の均衡」―――「殴ったら殴り返される」という『恐怖の均衡』―――が不可欠であるとするものでした。両者は、しばしば、ウイルソン的な理想主義に対して、冷厳な国際政治の現実を表すものとして喧伝されていたのです。勿論、それらが際限ない軍備拡張競争を引き起こしたこと、また、勢力均衡の崩壊による世界大戦の勃発など必ずしも戦争の抑止に成功しなかったこと、さらに、世界の「相互依存関係」の深化・発展という現状の中で、国際社会が狭隘な権力政治的関係だけに閉じ込められていたわけではなかったことなど、これらに対する批判的見解も少なくなかったのですが。
 
   ところで、話を『ナウシカ』に戻すなら、先のクシャナ的な考え方に対するナウシカの批判は、腐海の底でナウシカたちに拳銃を突きつけたクシャナに対して、「あなたは何をおびえているの。まるで迷子のキツネリスのように。・・・怖がらないで」という言葉に象徴されるものといえるでしょう。すなわち、ナウシカにとって、戦争と武力への依存は敵に対する『恐怖心』に根差しているのであり、クシャナ的な捉え方とは異なって、そうした〈恐怖心の克服〉こそが戦争抑止の鍵になると考えられていたのだろうと思われます。

   また、アニメ版の中で、ナウシカは、酸の海の岸辺で傷ついた王蟲の子どもに次のように言っています―――「怒らないで 怖がらなくていい、わたしは敵じゃないわ」。この怒りと恐怖に結びついた『敵』と言う概念には、この物語の中で、さらに重要な位置が与えられていると思われます。コミックス版第7巻の「巨神兵」に関する次の描写に注目してみましょう。生まれたばかりの巨神兵がクシャナと遭遇し、クシャナを攻撃しようとする場面です。

ナウシカ 「うっちゃだめ!!わたしのともだちよ」、
巨神兵  「ママノトモダチ・・・? トモダチ・・・」 
       「ママノテキハドコ?」  「ママノタメニ タタカイタイ」 
       「アイツラハママノテキ? コロス?」
ナウシカ 「あの人達も友達よ イイ子ね 敵なんていないの」
巨神兵  「テキイナイ コロセナイ」  「テキドコ? ココイヤダ」
 
   巨神兵は人間によって造られた生きた究極兵器ですが、その幼い頭脳の中に純化されたかたちでインプットされていたのは、「戦争」遂行に適合的な次のようなイデオロギーだったといえるでしょう。それは、友と敵を峻別し、「やつは敵だ。敵は殺せ」と表現される思考方法にほかなりません。ナチスの理論家C・シュミットは、その著書『政治的なものの概念』の中で、有名な「友・敵」理論を展開していますが、彼は敵対と戦争の関係について次のように述べています。「友・敵・闘争という諸概念が現実的な意味を持つのは、それらがとくに、物理的殺りくの現実的可能性とかかわり、そのかかわりをもち続けることによってである。戦争は敵対より生じる。敵対とは、他者の存在そのものの否定だからである。戦争は、敵対の最も極端な実現にほかならない。・・・敵という概念が意味をもち続けるかぎりは、戦争が現実的可能性として存在し続けなければならないのである」。「敵」とは「他者」や「異質者」を意味しますが、ナウシカはこうした考え方に徹底的にこだわり、それを懸命に否定しようとしていたのです。ナウシカはオーマに言います。
「世界を敵と味方だけに分けたらすべてを焼き尽くすことになっちゃうの」と。
   実際、ナウシカは、「敵」に対する「憎悪」によって、「殺りく」(―汚染)の為に生み出された巨神兵にすら、次のような思いを寄せることができたのでした。
「・・・わたしはこの子の死を願っている それなのに母親のふりをして笑顔で励ましたりして」 「わたしの心を見抜いたら どれほど深く傷つくかしら」「自分は生まれてはいけなかったなんて知ったら・・・・」と。

   しかし、人間が作り出した「戦争の神」たる巨神兵には、さらにもう一つ別の顔(性格)があったのです。それが、「全ての争いに終止符をうつ調停者」-「裁定者」としての性格です。こうした観点で言えば、「火の七日間戦争」とは、シュミット流に表現するなら、「戦争に反対する戦争」-「人類の最終究極戦争」と言うことになります。魯迅は「地獄への道は善意で敷き詰められている」といいましたが、つまり、それが「友・敵」概念に支配されているかぎり、「善意」が巨大な「地獄」を生み出す典型的なかたち―――結局は、戦争を肯定し、戦争の意義さえ認めるもの―――となるのです。そして、こうした発想は決して「1000年」前の時代だけの話ではなく、あのクシャナが「どうしても私達への憎悪を消せぬというのなら攻撃するがよい・・・勝利などどちらの側にもない。ここを血の海にして永劫の憎悪のくり返しに終止符をうつだけだ」と述べながら戦いに臨もうとする心情にも通底すると言っていいでしょう。多くの戦争が、こうした人間の心からも生まれたと言ってよいのです。

  それでは、こうした戦争を生み出す心理的な原因、敵に対する恐怖や憎悪に打ち勝ち、「憎しみと報復の連鎖」を断ち切るにはどうしたらいいのでしょうか。それに一つの答えを与えるのが、宮崎作品にしばしば登場する「非暴力直接行動」といってよいでしょう。それは、共感と相互理解をもとに、いわば敵をも味方にかえる、否、敵・味方の二分法(「友・敵」理論)それ自体を乗り越える「思想と行動」と言ってよいものと思われます。

  ところで、本稿の(3)―――「生態学」と「多神教」的世界観(1)において、アニメ版とコミックス版におけるナウシカの印象の違いが一種の戸惑いを生んでいることに触れました。とりわけ、ラストシーンにおける両者の違い、アニメ版における「非暴力直接行動」とコミックス版における「巨神兵の火の利用」は、確かに人を驚かせるかもしれません。しかし、私には、物語の本質的なテーマや構造という観点からすれば、アニメ版とコミックス版両者には明確な共通性が存在するように思われるのです。そして、このことは、アニメ版の直接的な原作に当たるだろうコミックス版第1,2巻ではけっして殺されることのなかったナウシカの父親ジルが、なぜアニメ版では殺され、怒りに我を忘れたナウシカが多数のトルメキア兵を殺す場面が挿入されねばならなかったのかという疑問にも答えることになるのです。

    すなわち、それは、宮崎氏の「人間」観そのものに関わるものであって、どちらの場合においても、ナウシカは、最初から最後まで、憎悪や怒りや恐怖とは無縁な「天使」や「聖人」の如き存在として描かれてはならなかったのです。実際、「人間」とは、善でもあり悪でもありうる、自らのうちに様々な矛盾-対立を孕む「実在」としてとらえる必要があるはずなのです。これに対して、先に見たような、人間を「善・悪」や「友・敵」といった二項対立的なタイプに分けて捉える人間観すなわち「ステレオ・タイプ」的な人間観は、他者を自分と同じ人間とは見ない差別的な意識を助長するものなのであり、しばしば、ファシズム的心性を表すものとも指摘されてきたのです。そして、私たちの心の中には、平和を求める心と同様に、こうした「戦争への芽」も確実に存在していると言ってよいのではないでしょうか。問題は、わたしたちが、そうした二重性の中で、如何に平和への方向性を確実なものにしていけるのかなのです。戦争も環境破壊もわれわれと同じ人間がやってきたことであり、私たちはこの圧倒的な『現実』を前に、どうすれば諦念と虚無の中で「死」(-戦争と環境破壊)を選択することなく、「生き」て事態を改善していくことが出来るのでしょうか。それは、決してたやすいことではなく、単純で、一面的な認識では、すぐに、重い現実の前に崩れ去ってしまうことになるほかないのです。
   
    また、「憎しみと報復」の連鎖を断ち切るためには、人間同士の共感、相互理解あるいは「友愛」の感情を阻害する「ステレオ・タイプ」的な人間観を克服しなければなりません。たとえば、ガンジーや彼らの仲間たちが行った「非暴力直接行動」は、その歴史的な記録フィルムなどを見ても、〈恐怖心〉を克服する想像を絶するような「強さ」を必要とすることが分かります。そして、自らの〈憎悪〉を克服する為には他者への「慈悲」の心が必要なのですが(ガンジー「サッティヤーグラハ―――魂の力」『真の独立への道』所収などを参照)、そのためには、人間は誤りも犯し、罪も犯す、人間をそうした存在であると見ることができないならば、相手(敵)の中に自分(味方)を見、自分(味方)の中に相手(敵)を見ることもできないといえるでしょう。

    さらに、「非暴力直接行動」は、「受動的」抵抗であっても、決して、消極的でも、無抵抗であるわけでもないことは注意すべきことです。すなわち、非暴力は卑怯者の隠れ蓑であってはならないのであって、「臆病と暴力のうちどちらかを選ばなければならないとすれば、わたしはむしろ暴力を勧める」というガンジーの言葉はよく知られているものです。実際、彼自身、トルストイ農場における自らの生徒への体罰について興味深い記述をなしています(『自叙伝』「49 自己抑制について」参照)。すなわち、蝋山芳郎氏の表現に従えば,「ガンジー自身、人間の義務や人間の生命そのものを非暴力よりも根本的なものと考えた」〔「ガンジーとネルー」、『世界の名著63』〕ということなのです

    こうした観点に立てば、「墓所の主」に対して巨神兵を使ったナウシカの暴力は、まさしく、境界的〔マージナル)なものであったと考えることができるでしょう。しかし、それは、危険なカケであると同時に、やはり「悪」であり、「罪」に他ならないものとしてナウシカに受けとめられていたと言ってよいでしょう。このようにして、ナウシカは、即自的な「理想主義」ではなく、「現実」に鍛えあげられた理想主義者に成長していったといえるのではないでしょうか。

    こうした意味合いにおいて、コミックス版においては、まさしくナウシカではなく(!)、マニの僧正や彼女の師であるユパ・ミラルダによって担われていた「非暴力直接行動」は、その後、現実に鍛え上げられ、「阿修羅」のごとく、優しく強く成長したナウシカによって引き継がれていった、そう構想されていたと考えられないでしょうか。

    昨春、私たちは人間が生み出した「瘴気(しょうき)の渦」が自然と人間を襲うのを目撃しました。人間の手によって引き起こされた「大海嘯(だいかいしょう)」=大津波を前に、私たちは、私たち人間自身の手によって、「しし神の首」を返さなければならない、すなわち、失われた大地との絆を取り戻さなければならないといってよいでしょう。そして、そのためには、「ニヒリズム」の深淵に沈み込み、たとえば、ニーチェのごとき「近代的自我のオバケ」となって自・他の「死」に向かうのではなく、共に「生きる」ことを可能とするような、もっと豊かな「自然観」や「人間観」を獲得していく必要があるのではないでしょうか。宮崎駿氏が私たちに贈ってくれた『風の谷のナウシカ』は、ナウシカの心の旅(オデッセイ)を通して、私たちにそれらを示してくれた新しい「神話」といってよいものだろうと思います。    


    最後に、適当であるかどうかは分かりませんが、西田幾多郎の『善の研究』からいくつか引用して、この稿を閉じたいと思います。

「余の考うるところにては元来絶対的に悪というべきものはない、物はすべてその本来において善である。実在はすなわち善であるといわねばならぬ。」
「悪は実在体系の矛盾衝突より起こるのである。」
「・・・・悪は宇宙を構成する一要素といってよいのである。」
「罪を知らざるものは真に神の愛を知ることは出来ない。」
「罪はにくむべきものである、しかし悔い改められたる罪ほど世に美しいものもない。」


   ☆9月、職場で時々話すアメリカ人女性から、今年の夏のインド旅行のお土産として、10ルピー紙幣をもらいました。肖像に使われているのはガンジーで、私がガンジーの「ファン」らしいことを見透かしたように、「これ見て、楽しんでね」などと言いながら渡してくれたのです。話はその後、『ゼルダの伝説』(使われているお金はルピーでしたね)の方に行ってしまいましたが、後で、核武装してパキスタンと対峙している今のインドのことを考えると、一種の違和感も感じたものでした。勿論、「社会主義市場経済」の人民元の肖像も毛沢東ですから、そんなもんだとも思うのですが、きっとガンジーも毛沢東も草葉の陰で頭を抱えて悩んでいるだろうなと想像もするのです。

『風の谷のナウシカ』によせて(5)

   『風の谷のナウシカ』によせて(5)
      ―――「生態学」と「多神教」的世界観(3)




    それでは、ナウシカが「墓所の主」との対話の中で用いた「無」―――「闇」・「虚無」もほぼ同様な意味を持つものと言ってよいでしょう―――の意味するだろうところのものを、西田幾太郎の諸説をとおして考えてみることにしましょう。ただ、その前にひとつ確認しておかねばならないことは、本稿で用いられている「多神教」という概念は、ギリシャ的神々をも含む多神教一般を指すのではなく、あくまでも、ユダヤ・キリスト教的「唯一神」と対比されるところのナウシカ的「神々」の謂いであり、そして、西田的な「無」の思想をここで取り上げるのは、それが、必ずしも「仏教」だけではなく、そうしたナウシカ的「神々」をも〈響導〉するだろう一種の普遍的な「生命」論・「世界」観を持つ思想と考えられるからに他なりません。

    さて、ナウシカと「墓所の主」との対話において、私たちは、「無」という言葉がほとんど価値的に相反する意味合いにおいて使われていることに気づきます。まず、「墓所の主」にとっての「無」とは、まさしく「有」の否定であり、神や希望などが否定される、負の意味合いを持つ言葉に他なりません。それに対して、ナウシカの「無」は、その中から「生命」や「希望」が発する「源(みなもと)」といったプラスの意味合いすら持つものとして使われているのです。ナウシカのこのような発想はどうして可能なのでしょうか。それに一定の解答を与えるのが、東洋的な「無」の思想です。

 ところで、こうした東洋的な「無」の思想に関して、極めて示唆的な哲学的考察を行ったのが西田幾太郎です。彼は、ギリシャ文化とキリスト教文化を二つの根として持つ西洋文化に共通する(形のあるものを実在と考える)「有の論理」―――これについて西田はヘーゲルを批判しながら、「やはり何か一つ見る、一つ見るということはやはり自分の外に見るということであって、これはまた或る意味からいえば一つの有の立場で見る。やはり何か主語的に見る、有の立場で見るということだ」と表現しています―――に対して、東洋的な(見えない、聞こえないものに「実在」を感じる)〈無の論理〉を対置し、そのより普遍的な性格を強調しようとした哲学者であったと言ってよいでしょう。 西田は、「仏教の根本の考えというのは、無ということをいつも根底として、そうして全て世界を考えると言うことではないか」と述べていますが、それは、彼の参禅の経験から得た、神的なるものや個別的生命に対する彼自身の感覚に裏打ちされたものだろうといわれています。そして、(恥ずかしながら)私自身も、剣道で黙想を行うときや、山に登って森の中にたたずみ、ふと空を仰ぎ見た時などに感じる感覚―――いうなれば、「無我」の境地、あるいは、「彼我」渾然となった〈関係性〉の中に在る感覚、あるいは、五感には感じられないけれど、渾然一体となったモノや命や精神に貫通して在る「力」の感覚―――を全く理解出来ないわけでもないように思うのです。そして、こうした彼の「純粋経験」・「知的直感」をもとに構築されていったのが、「神はまったく無である」といった認識であり、また、神が生命の源であるならば、全ての「生命」の根底に「神」の存在を感取することができるといった汎神論的な認識であったといえましょう。ただ、彼の論理は、無即有=「一即多」=「絶対相反するものの自己同一」=「絶対無」といったように、極めて思弁的、観念的であり、理解が難しいのですが、西洋的な「神」や「生命」の把握との対比において、彼の論理をもう少し検討しておく必要があります。

    ところで、私がまだ20代の頃、我が家にユダヤ・キリスト教関係の方が布教に来られ、お話を伺う機会がありました。その時、私が「あなたはどうして神の存在を信じることが出来るのですか」と質問すると、その答は、「ここに本がありますよね。どうしてあると思いますか。それは誰かが作ったからですよね。では、どうして世界があると思いますか。誰かが創ったはずですよね。その創られた方が神様です。」というものでした。当時、私自身も、西洋思想の中心にあるのは「主体(-客体)」の問題設定だと考えていましたので、この擬人化された神の議論は非常に興味深く感じたものでした。

    そして、西田も、このような人間的思惟の習慣である因果律に基づいて宇宙全体を説明しようとし、その原因を神とする考え方を批判しています。「因果律に基づいてこの世界の原因を神である」とするならば、「或るものはこの世に偶然に存在するものではなくしていちいち意味を持ったものである。すなわち或る一定の目的に向かって組織せられたものである」と言うことになる。「しかるにもし宇宙に勧善懲悪の大主催者がなかったならば、われわれの道徳は無意義なものになる・・・」。勿論、こうした議論は、「神が死んだ」近代西洋の此岸の「闇」を突くものといってよいでしょう。これに対して、西田は、「余は神を宇宙の外に超越せる造物主とはみずして、直ちにこの実在の根柢と考えるのである」とします。そして、そうした認識の根底には次のような認識がありました。少し長いのですが、引用しておきましょう。
  「・・・われわれが自然と名づけているところのものも、精神といっているところのものも、まったく種類をことにした二種の実在ではない。つまり同一実在を見る見方の相違によって起こる区別である。自然を深く理解せば、その根柢において精神的統一を認めなければならず、また完全なる真の精神とは自然と合一した精神でなければならぬ。すなわち宇宙はただひとつの実在のみ存在するのである。しかしてこの唯一実在はかっていったように、一方において無限の対立衝突であるとともに、一方においては無限の統一である。一言にていえば独立自全なる無限の活動である。この無限なる活動の根本をばわれわれはこれを神と名づけるのである。神とは決してこの実在の外に超越せるものではない、実在の根柢が直ちに神である、主観客観の区別を没し、精神と自然を合一したものが神である」。
   
   こうして、西田は、神を「宇宙の内面的統一力」、「宇宙の統一者であり実在の根柢」と規定するのですが、また、「これといって肯定すべきものすなわち捕捉すべきものは神ではない、もしこれといって捕捉すべき者ならばすでに有限であって、宇宙を統一する無限の作用をなすことはできないのである。この点より見て神はまったく無である」との認識を示します。そして、更に「神が無始無終原因なくして存在すると言うならば、この世界もなにゆえにそのように存在することは出来ないのか」とも述べます。すなわち、彼は、個々独立した「実在」とそれらが織り成す弁証法的「関係」の凝集性・統一性を維持している力を神を捉えたのです。(「無限なる力―無限なる実在の統一力」「絶対無限なる神」)
  
   それでは、西田にとって、個別的な「実在」であるところの「生命」はどのように捉えられるのでしょうか。西田は言います。「小さきわれわれの胸の中にも無限の力が潜んでいる。すなわち無限なる実在の統一力が潜んでいる」。また、「本当の個物というものはやはり自分に絶対無限と言う意味をもったものでなくてはならぬと思う」そして「生きたものは皆無限の対立を含んでいる。すなわち無限の変化を生ずる能力を持ったものである」と。こうして、「実在」たる個別的生命は、本来的に、主体的、能動的なものとして把握されることになるのです。
    さらに、「生命というものはどこまでも一般的のものに還元することは出来ない」、「一般からの限定と言うことを離れて生命というものは考えられない・・・・生命というものを考えるときには必ず死ということが考えられなくてはならない、死ということが一つの要素である。生命というものを考える一つの条件である」と、生と死の弁証法的統一としての個別的「生命」という認識も示しています。このように、西田は、自然の中の多様な個別的な「生命」の根底に「神」の存在を知的直感によって捉えたわけであり、こうして、それぞれの命は、人格化された「主体=創造者」の「客体=被造物」ではなく、それ自体、自己発展の契機を内に持つ絶対的独立の存在として把握されることになるわけです。この点でとりわけ興味深いのは、西田が、「ヘーゲル哲学というものを徹底的に考えるとやはり個々のわれわれの個人的自己、一々の個人的自己の絶対独立性、真のわれわれ個人の自由というものはやはり考えられないことになる。ヘーゲルの自由と言うのはやはり個人の自由でなしにひとつの絶対精神の自由であって個人そのものの自由ではない」と、ヘーゲルを含む西洋的思想が「多なるものの個々独立性」、「個々多性」を否定していることを批判していることです。

    以上、西田幾多郎の生命と神に関する理論を概観してきましたが、それらはナウシカの言葉を理解するうえで重要なヒントを与えていると考えてもよいでしょう。また、西田の議論は神の存在を前提としていますので、私のようなその存在を信じることの出来ない者には一種の違和感も与えるのですが、ただ、彼の議論は人間の認識が深化・発展していく道筋としてはかなり妥当性を持つのではないかと考えられるのです。たとえば、彼は、「世界というものは絶対ない、無である。しかし無であるということそれがすなわちわれわれの個物を成りたたしめるところの意味をもっている本当の世界である」と述べていますが、そこには、いわば、関係論的、構造主義的アプローチとの親和性を感じさせるものがあると思います。つまり、彼は、世界を弁証法的・関係論的に把握した上で、それを成りたたせている統一力、凝集力、「潜勢力」を「神」として把握しているといってよいわけで、彼の「神」の探求は、まさしく、世界を構成している諸〈存在〉間の(弁証法的な)関係の中に働いている、見えない、聞こえない、すなわち人間の五感によっては把握できない構造や法則性の探求と重なることが出来るといえると思うのです。

   それでは、最後に、本稿で「多神教」的世界観と一応呼んだ、ナウシカ的生命観・世界観の意義について述べておきたいと思います。

   まず、それは、「自然との共生」を志向する原初的感覚としての意義を持つでしょう。もともと、この物語の中で展開されている「一神教」的自然観と「多神教」的自然観の対立とは、近代主義的な自然観と生態学的な自然観の対立の比喩として用いられていると考えられるのですが、まさしく、ナウシカ的「多神教」―――アニミズムといっていいかも知れません―――は、仏教哲学とは抽象の水準を異にするとはいえ、東洋的な「無」の世界観の原初的形態といってよいものだと考えられます。つまり、自然を一神教的な神の被造物と見るのではなく、その多元的な「実在」(生命)の根底に、姿なき、声なき「潜勢力」を感じるとる、すなわち、「神」を〈見る〉といったものです。そのことは、自らもそこから生まれ、その一部である自然を「尊崇」の対象として「尊重」し、その中で生きていくという意識を覚醒させることにつながっていると考えられるでしょう。これは、日本的自然観といわれてきたものそのものといえるのではないでしょうか。

   第二に、全ての「生命」が「無」(神)を共有し、「無」(神)を内在化させているといった世界観からは、「生命」の本質的対等性=平等・その絶対的独立性=多様性・その発展の無限の可能性といった、極めてポジティブな視点が可能となります。万物の創造主であり、全知・全能の神を措定する「一神教」の問題設定にあっては、神の「下」の平等であったり、神の「僕」であったり、神の代理人であったりと、様々な表現は可能なのですが、結局、「主-僕」という根本的な枠組みは変わらず、最悪の場合には、創られた「生命」を道具的に操作・利用する一種の「エリーティズム」すら必然化するといってよいかもしれません。これに対して、ナウシカの、創られた人工的な生命にすら愛を感じ共に生きようとする視点からは、その場で共に生きている『いのち』の絶対性―――序列化されたり道具視されたりしない―――に寄り沿うこと、いわば「ナロードニキ」的生き方が選択されるということになるのです。

   第三に、ここで展開されている「多神教」的世界観は、決して単なる空想的な性格のものではなく、極めて現代的な科学理論を基礎に展開されているだろうこと、少なくとも、それらと強い親和性を有しているということは確認しておくべきことです。たとえば、それは、地球における「生命」の体系、その中における絶妙な相互依存と均衡の関係を明らかにしようとしたカーソン的「生態学」との親和性が高く、主体-客体という二項対立的な問題設定や狭い限られた範囲内での因果関係を機械的に把握するといった近代主義的な方法よりも、厳密な科学的言説ではないとしても、より『真実』に近いと考えることが出来るでしょう。また、「多神教」(アニミズム)を遅れた原始的な思考方法とするユダヤ・キリスト教的位置づけは、様々な文化の中に「同質」な構造や関係をみる、レヴィ・ストロースらの構造主義的人類学の成果(多文化主義)を知っているわれわれにとっては、かえって、遅れたものとさえいえるでしょう。日常的なイデオロギーの水準において、どちらが、より『真実』に近いのか。そのことこそが問われなければないといってよいのです。

  最後に、物語の主人公=ナウシカは、「太古」の自然への復帰をめざす復古的なロマン主義者でもないし、空想的な理想郷を目指すユートピア主義者でもないことを確認しておく必要があります。こうした性格は『もののけ姫』におけるエボシ御前への評価や『たたらば』に残るアシタカの中により明確に見ることができるのですが、ナウシカ自身もメーベ(小型エンジン付グライダー)やガンシップを操る時代の人であるわけです。そして、ナウシカは、時代と場所を共有する愛する人々と共に、「人間の汚したたそがれの世界」の中で生きていくことを選択するのです。すなわち、ナウシカの立場とは、歴史的な現在と言う時代と場において、自然の本質を理解しつつそれとの共生を模索し実現していこうとする立場だと理解できるでしょう。こうした姿勢をなんと呼べばいいのか。西田幾太郎は「世界が自分自身のうちに矛盾を含んでおって、自分自身が動いていく、こういう世界というものは普通、creationといっている」と述べています。それを参考にして言えば、「創造的自然主義」とでも呼べばいいのでしょうか。それを中途半端なもの、妥協的なものと見るか、まさしく、歴史的・弁証法的なものと見るかは意見の分かれるところでしょう。しかし、私は、その「中途半端さ」を理解し、肯首しうるものと考える立場にあります。

  相も変わらず、推敲不足で、まとまりのない長大なブログ記事になってしまいました。もう少し、まとまった時間が出来たときに、修正したいと考えています。
  次回は、「『風の谷のナウシカ』によせて(最終回)―――戦争論と非暴力直接行動」の予定です。

 
  

SAROーMURIKI「つぶやき」選集(11)

 2012年10月―――「絶望」に向かって日本は進むのか?


○ 我 つぶやく故に 我あり―――こうしてつぶやくことによって、自分自身が分かってくる。つぶやきは本音です。

○ 「魚釣島」と「釣魚島」―――日本か中国のどちらかが真似したんでしょうね。それとも琉球の人が名づけたのかな。誰か知ってる人はいないでしょうか。

○ NHK総合の「おはよう日本」を見ていたら、アメリカ大統領選のつまらぬニュースが長い長い!まあ、何かを意図してのことだろうけれど、本当に、日本はアメリカの属国という感じですね。

○ 若者を中心とした高失業率あるいは不安定雇用の状況。わが「経済理論」からすると、資本が実体経済を統括するシステムは、もはや、働く意欲と能力を持つ人々を社会全体の経済的福利の向上のために生かすことはできないことを示している。それは、資本の利益が経済全体のバランスを撹乱するからだ。労働市場の原理(労働力の商品化)はもはや正当性をもちえない。

○ 国家の財政危機:わが「経済理論」からすると、国家の借金は、資本蓄積(政府の産業振興策)と体制の正当化(市場の失敗と格差の是正など)のために必要な資金を、本来ならば「税」として徴収すべき『富裕な人々』から「借金」と言うかたちで借り受け、その元本と利息分の返済を『大衆』に転化しようとすることだ。『富裕な人々』にとって、〈安全有利〉な国債(―国家の借金)は過剰な資金の運用にとっては悪いはずはない。ただ、国家が破産してそれが不良債権化しては困るというだけだ。まずは、「応能負担」の原則を原理的に再確認すべきだろう。

○ IMF(-「国際金融資本連盟」?)は日本における女性労働力の利用を日本の経済成長と国家の財政危機を解決する鍵のようにいっている。しかし、スウェーデンやオランダならいざ知らず、今の日本の状況では、圧倒的な差別・格差を前提に、女性労働力をさらに搾り取り、人間と家族の崩壊をさらに加速させるだけに終わってしまうことになるだろう。まずは、(男もそうだが)労働条件の大幅な改善を先行させなければならない。
―――大体、今の理不尽な雇用状況を前に、なにをいっているのだ。馬鹿馬鹿しい。それとも、無能な男をくびにして、その代わりに有能な女に換えたほうが資本にとって有利だよとでも言いたいのかな。

○ 西欧における国家の財政破綻について:わが「経済理論」からすると、IMFが押し付けようとしている財政再建策とは、国際金融資本がIMF体制下で膨張させ続けてきた通貨-資金を無理やりに貸し付け、バブルを発生させて甘い汁を吸った挙句、そのバブルが崩壊した後には、その元本と利息分を一般国民の犠牲によって回収せんとする収奪的政策に他ならない。一般国民に、どのような、主導的責任があったと言うのだろうか。知らなかったのが悪いとか、そういう指導者や企業にだまされたのが悪いと言うのならわかりますが。―――日本のバブル崩壊後の不良債権処理の多くが、収奪的な低預金金利(と手数料)など、一般民衆の犠牲によってなされたことを思い出す。だが、ヨーロッパの民衆は日本の民衆ほどお人よしではないだろう。


○沖縄の米兵による暴行事件・・・・なんといえばいいのか。つくづく思う。戦前、鬼畜米英を唱え、敗戦後、アメリカ「追従」にコロリと転換し、権力の座に居座り続けた人もいましたが、日本の真の「独立」と「尊厳」はどうなっているのだ。「自虐」とか何とか言っている人ほど、日米安保べったりで、この屈辱に頬かむりしている人が多いように思われる。

○ (リツイート)「今回のパソコンウィルス事件で見えてきたのは、日本の警察と検察は心底怖いという事 だろう。メールを送ったとされた四件が全て逮捕、有罪となり、二件は詳細な「自白」をしている。やってないのに具体的に語れるという恐怖。特定の地域の警察がそうしたのではなく、日本各地の警察が同じ事をした恐怖」――― 「冤罪」がここまで〈広範〉にでっち上げられているとは思いませんでしたよね(汗)。 

○ (リツイート)「やりたい放題をやっているのは橋下徹の方だろうが。新聞記者の吊し上げもそうだし、市職のアカ狩りもそうだ。君が代の口元チェックもそうだ。権力を利用し、マスコミを使い、市民の税金を使って。佐野眞一の批判は単に週刊誌6ページの筆誅のみ。訴訟ができないと言うのなら、それこそ選挙で問え。」――― まったく、彼のやり方は人権無視と言ってよかったと思います。

○ (リツイート)「橋下氏ツイ開始。佐野氏と朝日への粘着。やはりそうだ。本当に彼が自分の出自についての言及を「差別」と捉えて怒っているのなら、最初に報道した文春や新潮の時に怒っているはず。かれはカードとして「人権」と「差別」を使っている。最低だ。」―――なるほど、カードとしてですか。私なんか、野中さんなんて立派な人物だと思ってましたよ。

○ 化けの皮は次々と剥げるもの。石原東京都知事、福島第一原発を視察して、人間がせっかく開発した技術を放り出すのは適切ではないそうだ。まあ、彼の場合は、核廃絶どころか、原爆の技術も積極利用というわけですよね。

○ またまた化けの皮!橋下維新は原発輸出OKだそうな。輸出先の人々の命と健康はどうでもいいのかな?命と健康、それは最も重要な人権でしょうが。そして、こうした姿勢ははそのまま国内政策にも適用されることになるのです。

○ 都知事を辞任し、新党結成へ:石原さん、息子がだめだったんですから、親父もだめでしょう。国政に関わるので、イスタブリッシュメント向けに原発OKというわけですね。そのうち、又、中国がどうのこうのといいながら、アメリカにおべっかを使うことになるのでしょう。日本という国は本当に軽いですね。(大体、作家としてから、たいしたことなかったですよ。)

○ 時々、NHK-BSで外国のニュースを見ることがありますが、非常にサックリしている印象を受けます。同じニュースを日本のニュース番組で見ると、日本のマスコミが如何に意識的に味付けしようとしているかが分かります。日本のマスコミはよほど強い「使命感」を持っているのでしょうね。それにしても、われわれ国民ももう少し自立しなければならないでしょう。

○ 石原さん、「保守」勢力の結集ですか?保守勢力じゃない勢力なんて、どこの政党をさすんですか?本質的な政策の相違なんてないんじゃないですか。要するに、一般国民の「保守」離れ―――民自公のどれも駄目―――に対して、目くらまし的な選択肢をひとつ付け加えようということなんでしょう。
政策なんて大したことじゃないなんて元気なこといってますが、少なくとも、消費税、原発、TPP,そして、沖縄問題(オスプレイ、米軍基地など)ぐらい、しっかり意見表明してもらいたいものだ。それにしても、野坂昭如さんが同じ様なこと言っていたと思うのですが、石原さんて、なぜか、「弱虫が強がっている」ように見えてしまうのですけれど、いかがなものでしょう。


※ けっこう「忙しく」生活していて、あまり、つぶやくことも出来ませんでしたが、それにしても、日本の政治経済の状況は良くないように思われます。「政界」の改憲派の人々よ。あなたたちは色々言うけれども、あなたたちの「力」がこれだけ強まったのだから、世の中良くなっているはずなのではないですか。でも、今の日本に展望が見えないのは、実は、あなたたちのような人たちが大きな顔が出来ているからなのではないでしょうか。いやはや、あなたたちを見ていると、日本は「絶望」に向かって進んでいるようにさえ思えてしまう今日この頃です。勿論、「絶望」なんてしませんけれど。ねえ、サロさん。
プロフィール

SARO MURIKI

Author:SARO MURIKI
おりこうさんのワンワンです。年齢は、2018年11月現在満12歳です。見てのとおりの柴ですが血統書はありません。性別はオスで、飼い主には、朝夕、45分ずつ2回の散歩を義務付けているVIP犬、正確に言うと、VIDです。文句あっか?!

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