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私の音楽の故郷(6)―――アメリカ的生活への「憧憬」(?)

 私はアメリカにすっかり「すり込まれて」しまっていたのか


    私は、パンが大好きで、一日一度パンを食べないと落ち着きません。それは、自国の余剰農産物の処理のため、日本の学校給食に〈あの〉パンと脱脂粉乳を導入し、日本人の食生活を改変しようとしたアメリカ政府による長期的戦略の故に違いありません。さらに、私の好きな音楽の領域においても、American way of life の浸透力はかなりのものであったと思われるのです。

   我家にテレビが入る前、私が耳にする音楽といえば、クラシック音楽を除けば、ほとんどが「日本的」(?)な旋律のものであったように記憶しています。そうそう、幼い頃、私は、「旅順開港約なりて、敵の将軍ステッセル・・・」などという歌まで布団のなかで歌っていたものでした。ところが、テレビが入るや否や、私の音楽生活は大きな変化を被ることになります。一番大きいところで言えば、弘田三枝子や克己しげる、スリーファンキーズといった大層明るく元気な人達が、『素敵な16歳』とか『片目のジャック』とか『涙のムーディー・リヴァー』とか『かわいいベイビー』とか、いわゆるアメリカンポップスのカバー曲を、『シャボン玉ホリデー』や『ザ・ヒットパレード』などの中で、盛んに歌うのを見るようになったことです。私自身はそれらの曲にさほど夢中になったという記憶はないのですが、全く異質な世界を垣間見るような不思議な感覚があったように思います。

   さらに、私に「根深い」印象を与えたのが、アメリカのテレビドラマの主題歌だったような気がします。『ローハイド』とか『ララミー牧場』、『サンセット77』とか『ルート66』とかです。なんと表現すればよいのか難しいところですが、『私のママは世界一』とか『パパは何でも知っている』などのホーム・ドラマにも共通するところの、普通の人々といいましょうか、人民といいましょうか、平民といいましょうか、そうした人々が、非常にかっこよく、プライドを持って生きている、そんな姿が感じられたのです。それに比べると、日本の一般ピープルは、『水戸黄門』などもそうですが、これまた封建的身分秩序の中で何か卑しめられている、そのようなものと感じられたのです。こうしたアメリカ音楽の印象は、悲しくも美しく、壮大で格調高い映画音楽のそれでもありました。『ドクトル・ジバゴ』や『アラビアのロレンス』などはその最も代表なものです。

    ところで、私が意識的に外国の音楽、とりわけ、ポピュラー・ミュージックを聞こうと意識しだしたのは、やはり、英語を勉強しだした中学生以降のことです。英語学習のイデオロギー的機能はその意味でも大変大きいのかもしれません。ところどころ意味も分かり始め、歌詞を調べだしたりした頃です。とりわけ印象に残っている曲をいくつかあげてみると、『悲しき雨音』、『花はどこへいったの』、『木の葉の丘』、『ドナ・ドナ』そして、『悲しき天使』てなところでしょうか。そして、それぞれ、それらの曲と結びついているシーンが記憶に残っているのです。懐かしいものです。

    今思い起こせば、これらの音楽経験はなんだったのでしょう。アメリカの文化侵略的なものだったのでしょうか。それにしても、良きにつけ悪しきにつけ、私の中に、理想化された「アメリカ的生活様式」とそれに照応する意識の影響があることは確かなことです。そして、それらが私を幸せにするかどうかは大いに疑問なのですが、私を「狭隘なナショナリズム」から距離を置かせる上では意味があったろうことは確かなようです。どうでしょうか。 
    
 
青い目ならぬ緑の眼―――これは僕の暗視・集光装置なんだよ



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私の音楽の故郷(5)―――寮時代

 
だっこワンワン―――えっ?うらやましいって

   

 



    今日は、ゆっくりと「熊沢蕃山」でも読もうと思っていたのですが、なにか集中力に欠け文字が追えなかったので、先ほどまでモーツァルトなんかを聴いていました。すると、なぜか、「恥多き」青春時代、とりわけ、寮生時代を思い出しました。
    
    1968年、私は2食付8000円程だった学生寮に入寮しました。寮にいる時の昼食はインスタント・ラーメンがほとんどの「イン・ラン」生活でしたが、二人部屋で、当時としては恵まれた環境だったと思います。時代は、学園闘争の真っ只中。寮には血だらけになって帰ってくる学生もいれば、寮内に「シケ込んでいる」学生もいました。そんな時代の私の思い出の曲は、とても声には出せない街頭での<あれら>の曲を除けば、深夜放送で流れてくるフォークソングや、なにやらうら悲しいジャンル不明の流行歌です。

    後者の代表は、千賀かほるの『真夜中のギター』や加藤登紀子の『一人寝の子守唄』でしょう。また、前者の代表は、外国のもので言うと、ジョーン・バエズやピーター・ポール&マリー、日本のものでいえば、フォーク・クルセダーズや岡林信康でしょうか。―――ついでに言っておくと、岡林の「飯場、飯場と渡ってく~」(『流れ者』)は、今の私の「愛唱歌」の一つです。

    私は、高校3年生のとき、ラジオ講座を聞くという理由をつけて、北海道で東京の電波を受信できる、SONYソリッド・ステート11という高性能ラジオを手に入れていました。勿論それで聴いていたのは、ブラームスの「大学祝典序曲」だけではなく、「パック・イン・ミュージック」などの深夜放送だったのです。フォーク・クルセダーズの『帰ってきたヨッパライ』や高石友也の『受験生ブルース』などは、笑い声をこらえ、腹を抱えながらイヤホンで聴いていたのを思い出します。あの一種アナーキーな雰囲気が私の学生時代を「狂わせた」のかもしれませんね(苦笑)。
       
    ところで、寮には一つ年上のSさんという先輩がいました。この人はギターを持っていて、大変上手に弾き語りをし、また、自分自身で作詞・作曲もしていました。そんなわけで、彼は、音楽好きの私にもギターの弾き方を教えてくれたり、作曲をしてみるよう勧めてくれたりしたのです。寮の屋上で『真夜中のギター』なんかを練習したことを今でも思い出します。また、彼は、加山雄三の『旅人よ』なども上手でしたが、私も、恥ずかしながら、ちょっとそれに似たフォーク調の曲、そう、「ある朝、君と出会った、冬の公園~」なんて曲を作ったりもしたのです。

    もう一つ思い出すのは、寮というところは本当に色々な人がいるわけで、音楽に関しても、<超絶的な>クラシックギターの調べが聞こえてきたり、本当に<軽妙な>フォークギターが聞こえてきたりしました。そして、そのクラシックギターの<超絶的>技巧の持ち主が、なんと髭面の山男だったりしたのです。

    また、世の中は、和製GSと呼ばれたグループが人気を博していました。その中で特に記憶に残っているのは、ゴールデン・カップスの『長い髪の少女』、そして、ザ・テンプターズの『エメラルドの伝説』です。これらは、当時のメジャー中のメジャーの曲といってよいのでしょうが、今の若者たちが聴くとどんな印象を持つのでしょうか? 私は今でも名曲だと思っているのですが、どんなものでしょう。聞いてみたいものです。

    今日は、サロさんの姉貴は高校時代の同窓生とカラオケかな?でも、この前、それぞれがほとんど知らない歌を歌うんだって言ってたよね。世の中も変わったみたいだね。


 ―――えっ?また、散歩に行きたいわけ?! サロさん、散歩に行くのはけっこう大変なんだよ。でも、そのおかげで、私は生かされているのかもね。サロ様!お犬様!! すべてはあなたのおかげで~す、と。


昨今教育事情(2)―――「駆け込み退職」

                 最後の辱めへの「抵抗」 


    埼玉県の「駆け込み退職」が大々的に報道される前の1月19日、私は知人から次のような話を聞きました。知人の知り合いの60歳の高校教員がやはり1月で辞めることを決断したのですが、その理由が「抵抗のため」だったというのです。「抵抗」? 何への抵抗だったのでしょうか。

    ところで、『東京新聞』(1月28日)の「本音のコラム」の中で、宮子あずさ氏は、「よっぽどのことがあったんだろうな」としながら、次のような鋭い指摘をしています。
    「・・・・七十万円といえば確かに大金。でも、二千万円以上を手にする人が、後ろ指さされてまでしがみつく額だろうか。金額だけでは語れないような、うんざりするような何かが、そこにはあったんじゃないかな。思うに、長く働いた人が仕事を投げ出すのは、「自分が大事にされていない」と思った時ではないだろうか。問題は金額より扱いなんだよ、きっと。三月までのたった二ヶ月が我慢できないくらい嫌な思いをして辞めていくベテラン教師たち。その心の奥が気がかりでならない。」と。

    この文章に接したとき、私はすぐにあの「抵抗」という言葉を思い出しました。そして、彼らはどんなことで「いやな思い」をしたのだろう、また、どんなところで「自分が大事にされていない」と感じたのだろう、と考えてしまいました。同時に、このことは、狭く教員の世界についてだけではなく、日本の労働環境全体にも通底していることなのではないかとも考えたのです。

    昨日の朝刊で、東大文Ⅰ(→法学部)の志願者が、昨今の「高級官僚」批判によってなのでしょうか、減少しているという記事を目にしました。それとは話のレベルが大きく異なりますが、私の身近な情報によれば、教育実習も済ませ教員免許がとれるにもかかわらず、教員採用試験の受験自体を止めてしまった学生もかなりいるらしいのです。比較的良好な環境で学校教育を受けてきただろう若者たちにとって、現在の公教育の現状は将来への希望を託すにはかなり難しいものに映っているようです。未来がもし教育にかかっているとすると、これはわが国にとってかなり危うい状況といってよいのではないでしょうか。

    実際、現役の教師たちもかなりの数が定年前に退職しています(全国で年に1万2000人ほど、これは、全体の2%ほどで、定年退職者数の1/2にも達する数字らしい―――http://nctu.blog28.fc2.com/blog-entry-253.htmを参照)。また、2011年度、うつ病などの精神疾患によって休職した教員の数は、全国の小中高などで5274人(全病気休職者8544人の62%)にのぼるというのです。ということは、休職や中途退職に至らないまでも、精神的に大きなストレスを抱えながら働いている教員は膨大な数に達すると想像してよいでしょう。    

    その原因は何なのか。おそらく、直接的な原因は、昨今の教育環境の「変化」への対応の難しさにあると考えることができるでしょう。たとえば、「学級崩壊」などに現れる子どもたちの「変化」、また、いわゆる「モンスター-ペアレンツ」などの保護者の「変化」、地域や「国家・社会」などからの多様化する要求、そして、いわゆる「雑用」の増加による多忙化や成果主義的評価に示される管理職や同僚との関係(職場環境)の変化、等です。しかし、「変化」や「難しさ」はいつの時代にもどこの職場においてもありうることでしょう。要は、教師たちが、胸を張って自らの自主性・主体性をかけて問題解決に取り組むことが出来る具体的な諸条件の整備がなされているのかどうか、「自治体」や「保護者」が問題の困難さを理解し、協力して問題解決に当たる姿勢を持っているのかどうか、といった問題なのではないでしょうか。

    例えば、公立の小学校には何が期待されているのか。知徳体の基礎的な力なのか私立中に合格できる学力なのか、かなり広範な「自由」なのか社会的な「規律」なのか。「学級崩壊」や「学力の低下」の問題にしても、、受験勉強は進学塾でやり学校では遊び騒いでいる子どももいるというし、「自主性」の故か席にも着かず話も聞かず辺りかまわず走り回っている子どもいるといいます。親も、入試問題を教えず『予習シリーズ』が解けない教員を馬鹿にし、また、自主的な「良い子」を「体罰」なしで「説得」できないと教員を非難する。確実に存在する学力の差も、家庭環境などの環境的な要因もあれば、学習障害をはじめとするいわば先天的な要因もあることでしょう。高校では当たり前となった学校間格差や同じ学校でも形成されるコース間の格差など、問題を解決するにはどのような対策が必要なのか、千変万化の具体的状況に対して、どう対応すればいいのか。考えただけでも、頭が痛くなりそうです。

    ところが、このように学校教育に対して両立しがたい様々な要求が突きつけられているにもかかわらず、こうした解決困難な状況の責任を教員の「指導力」にのみ押し付け、都合のいいときには(心にもなく)「聖職」などと持ち上げつつ、悪戦苦闘を余儀なくされている教員を様々な手段によって辱める、そんな状況があったのではないでしょうか。私が想像するに、今回の事態は、まさしく、そうした状況の中で行われた最後の「踏み絵」、定年退職時に仕組まれた最後の辱めだったのではないでしょうか。つまり、総人件費抑制政策の正当化のため仕組まれた「一般」公務員に対する「賃金カット」を、偽りの「聖職」論の脅しによって、飲み込ませようというわけだ。民間大企業に就職した級友たちを横目に見ながら、教職というライフスタイルを選択したこの世代。(「本来」ならば)きっと生徒たちと共に卒業式を迎えたかったに違いありません。しかし、こんな理不尽な『踏み絵』踏んでなるものか―――そんな『抵抗』があったのではないでしょうか。同時に、思い悩んだ末「踏み絵」を踏まざるを得なかった教師たちの「悔しい」想い、それもけっして忘れてはならないことだろうと思うのです。

    教師たちは、教育問題の複雑化、困難化の進展を前に、甚だしい「攻撃」に曝されてきたといってよいでしょう。たとえば、いわゆる「日教組」問題などがそうですが、卒業式など学校行事における「日の丸・君が代」の強制、管理職の権限強化、そして、成果主義的な教員評価など、教育の現場に、おそらく政治的な動機から、支配―服従関係が持ち込まれていったと思います。その結果として、卒業式が素晴らしいものになったとか、学校の教育力が増したとか、教員同士の協力体制が強化されたといったことがあれば良いことなのかもしれませんが、そんな話はほとんど聞いたことがありません。

    そればかりではありません。もともと、「聖職」という言葉がどういう意味なのかは分かりませんが、いわゆる、教師には、自立的な「職人」的イメージ、換言すれば、教育の専門家としての自己意識のようなものがありそうです。これに対して、あの橋下徹大阪市長は、生徒に教員を評価させ、給与に反映させるといった方向性をさえ打ち出していたというのです。勿論、教師も人間であって、問題教師もいるし、多くの欠点もあるはずです。しかし、ごく一般的な教員にとって、そうした方向性が意味すること、それが生み出す効果とはどのようなものなのでしょう。たとえば、CPゲームより「面白い」授業をすることは難しいと思いますが、授業中にゲームをしていた生徒を教員が注意をしたとします。これに対して、生徒は「先生の授業は面白くない。分からない。アンケートに1付けるとくからね。みんなもそうだろ。」という。それでも、ほっておけない教員がCPを取り上げようとする。これに対して、「ア、暴力だ。体罰ジャン。」となる。さて、この教員は、校長は、教育委員会はどうするのでしょう。こうしたことが想定されるとして、あなたは学校の先生になりたい、あるいは、やっていられると思うでしょうか?
       
    この間の、テレビ、新聞での報道もまさしく教師たちは晒し者だ。NHKのアナウンサーが堂々と退職金2400万で云々とか騒いでいるので、それでは、それを決めた県議やそれを報道したNHKアナウンサーの退職金をnetで調べようとしても、記載がなかったり、「プライヴァシーなので・・・」とか書いてあったりする。そもそも、この不況と財政赤字の責任はどこにあるのでしょうか。私は、理不尽な公務員批判―――この場合は、ノン・エリートの公務員を念頭においていますが―――の目的は、基本的には民間の「ダウンサイジング」すなわち民間労働者の現状(リストラ、賃金カット、過重労働、非正規雇用の増加等々)やその更なる劣悪化を正統化しようとするものだと捉えています。その意味で、被支配層多数派の不満を支配層にではなく被支配層の少数派へ転化しようとした江戸時代の分断支配に似ていると思います。それにしても、給与の一部とも考えられる退職金をこんなに簡単にカットされて良いものなのでしょうか。こんな調子だと、公的年金だってどうなってしまうのでしょう。掛け金を請求されている若者たちにしても、40年後に適正な年金を受け取ることが出来ると考えることが出来るのでしょうか。

    総じて、今の日本社会の基本的トーンは、「元気」の素であろう「自律・自尊」とは程遠いものとなってしまっており、「一般国民」は、それ自体確たる「根拠」があるとは思えない、規格化され・数値化された序列的枠組みの中で分断・孤立化され、「人間としての尊厳」を否定された「歯車」・「使用人」・「小役人」として処遇され、そして、統合されている、そんな有様が目に浮かぶのです。そして、このような世の中は、昔風の言葉で言えば義理も人情も道理もない、「うんざりする」ようなものになり果てており、とても元気が出る状態ではない、と言っていいのではないでしょうか。
    最低、生きていくための「面従腹背」?―――しかし、そうした組織や社会に未来はあるのでしょうか。



『犬はあなたをこう見ている』を読んで

  
サロさん!愛しておりま~す!





    いやはや、翻訳者か編集者かどちらかは分かりませんが、本の題名(『犬はあなたをこう見ている』)にすっかりやられてしまいました。原題は”DOG SENSE"(『犬の感覚』?)で、内容は和名とは全く似て非なるものでした。これは、恋に夢中な若者が恋人にどう思われているだろうと思い悩む切ない気持ちにも似た、愛犬家の心をくすぐる巧妙な表現で、もしこれが『犬の感覚』だったら、この本自体を手に取ることもなかったかもしれません。ただ、読後の印象は「読んでよかった」、読む前よりも愛犬サロに対する愛情が深まったと感じているので、まあ、題名にも感謝というところでしょうか。

   さて、内容についてですが、まず第一にあげたいのは、そこで紹介されている実験の面白さです。私は犬好きのダーウィンの本(『人類の起源』などに見られる彼の愛情あふれる観察)が大好きでしたが、ジョン・ブラッドショー自身のものは勿論のこと、歴代の研究者たちが取り組んだ<生真面目な>仕事振りは、実に、ほほ笑ましく感じられました。とりわけ、第9章「においの世界」における臭覚の分析などは出色で、犬に対する愛情(尊敬)なしにはありえないと思ったほどです。

   また、しばしば人間と犬との関係を引き裂く原因ともなる、「分離不安」をはじめとする様々な犬の問題行動を科学の立場から解明しようとするその切り口にも、私は犬に対する強い愛情を感じました。勿論、科学ですから、そうした感情を抑制しつつの作業となるわけでしょうが、これまでの「常識」や「学説」を覆す新たな〈視角〉を獲得する上で、そうした愛情も大きく寄与したのではないでしょうか。

   そして、そうした行動科学、心理学の成果の上に築かれた新たな「犬観」(!)とそれを踏まえた「しつけ」や「つきあい」方の提示には、学ぶべきところが多かったと思います。何か違和感を感じながらも私の中にもあった「狼に似た支配欲」といった「常識」、あるいは、私のサロに対する過度の「擬人化」に対しても、貴重な反省の契機を与えてくれたと思います。

   ―――ねえ、サロさん!私は時々「君も頭がないねえ」なんて言ってたけれど、君は3秒前のことは意識から消えるんですってねえ。

   え?! 誰がそんなこと言ってるのかな? 研究が足りないんじゃないの
    


   

昨今教育事情について(1)―――「体罰」

             問題は 「自律・自尊」 ではないのか?



    このところ、「教育]とりわけ「学校教育」のことに話が及ぶと、ろくな話はありません。[いじめ」、「体罰」、「学力低下」、「就職難」等々、ウンザリすることが実に多い。未来を語る上で、子どもたちの教育こそが最大のポイントであることは古今東西変わることはないはずなのですが、どうも最近の学校は「生徒たち」そして「先生たち」共に「元気」が出ない状況に陥っているようです。 そして、これはどうやら学校だけの話ではなさそうで、おそらく、一部のエリート層は別なのでしょうが、「一般国民」全体に浸透している傾向といっていいのかもしれません。一体全体、どうしてこんなことになったのか。そして、それを克服する道は何処に見出されるのか。そんなことを考えながら、まずは、自ら経験したことを思い出しながら、「体罰」の問題について考えてみたいと思います。

    現在、「体罰」の問題は、大阪市立桜宮高校の事件を直接的な契機としていることもあって、主に、「スポーツ」における指導上の問題として議論されているといってよいでしょう。そして、この「スポーツ指導上の問題」についていえば、決着はもうついたといっていいのだろうと思います。あの桑田真澄氏の説得力ある見解を否定できる人はまずいそうにありません。(http://www.asahi.com/edu/articles/TKY201301110314.htmlなどを参照してください)。そして、そのことは、昨日のわが川内優輝選手の活躍をはじめ、国の内外の具体的状況(結果)を見ても反論の余地はなさそうです。ただ、私たちがここでなさねばならないことは、桑田氏が、「絶対に仕返しをされない」という上下関係の構図で起きるのが体罰であること、そして、「体罰」は「子どもの自立を妨げ、成長の芽を摘みかねない」と極めて簡潔かつ正確に指摘した構造そのものを、日本の学校教育のより広い意味合いにおいて理解し、考えることであろうと思うのです。


    ところで、私は、中学1年のとき、そうした体罰の「標的」になった経験があるのです。私たちが属したクラスの担任はTという国語の教員でしたが、このTの暴力は半端なものではありませんでした。(年度初めに家に遊びに来いといわれその時見せられた写真から判断すると)陸軍の将校上がりらしいこの教員は、宿題忘れから始まって、ありとあらゆる理由をつけては「体罰」を繰り返していました。理由は忘れましたが、クラス全員が長い竹の指示棒のようなもので頭をたたかれたことも記憶しています。

    そして、クラス中で一番多く殴られたのが、恥ずかしながら、この私だったのです。「○○!65回目!」とか、カウントされながらの「体罰」でした。理由?なぜでしょう?反抗的だったのでしょうか。なつかなかったからでしょうか?分かりません。理由はなんだったにせよ、中学3年生の時、自習監督に来たTが、教卓の前に立つや否や、最後列に座っていた私に向かって、「○○!俺が来て悪かったな!」と、歪んだ顔つきで凄んだことを憶えています。いやはや!

   ところで、このクラスでは、担任の「体罰」が影響したかもしれない生徒間の暴力事件で、2人が血を流しています。まず、Bという生徒がSという生徒の頭を鉛筆で突き刺し、あたりが血だらけになりました。さらの、このSという生徒は、彼を注意した私を技術家庭用の太い直定規で突然殴ることになります。その時、Tは、頭から血を流している私を病院にも行かせず、放課後自分ひとりで病院に行った私は、左側頭部を3針縫うことになったのです。その時、医者は「君のクラスはこれで2度目だよね。担任がやってるんじゃないの」と私に尋ねたことを憶えています。本当に、どうなっていたのでしょうね?

    ただし、彼が「○○一家」と書いたとハッピを着て登校し、教員を殴るような生徒に「体罰」を行ったという話は一度も聞いたことがない。そのことは付け加えておかねばならないでしょう。なぜか?きっと「信頼関係」がなかったからなのでしょうね(笑)。

    さらにもう一つ、この教員について思い出すことは、授業のとき、北原白秋の「白鳥の歌」に自ら曲をつけたといって、得意気に朗々と歌って聞かせたことです(白鳥は 悲しからずや、空の青、海の青にも、染まず漂う)。私は、本来性格が素直なものですから(?)、「へ~、たいしたものだ」と感心もしたのでした。しかし、私が高校生になったある日、ラジオからその歌と極めてよく似た曲が聞こえてくることになるのです(笑)。

    
    桑田真澄氏は、「私自身は体罰に愛を感じたことは一度もありません」と述べていますが、私も全く同感です。私たちは、サディストでもマゾヒストでもありませんから、あんなものに愛を感じるはずはないのです。そもそも、「体罰」が、指導という名を借りた「一方的な暴力」であるかぎり、それは、自己の支配欲を満足させたり、自己の優位に陶酔したり、「有能」な教員であるという評判を得るために生徒を支配し、利用しようといった動機がほとんどであろうと私は想像します。

    また、Tが典型的にそうであったように、「体罰」とやらには、軍隊教育の影響も強いように思われます。すなわち、その目的は、なにしろ、強力な支配ー服従関係を形成して、命令に唯ひたすら従わせようというわけです。つまり、その究極的な目的は、暴力を主要な手段としながら、生徒たちを、「力」に盲従し「権威」に拝跪するところの、奴隷や羊のように「素直」で従順な「良い子」を育てるというわけです。しかし、そこには、本来的な意味での「自律性」も「自己の尊厳への自覚」もないでしょう。(無論、昔から、支配層においては、個を卑しめ、自尊の観念を損なう安易な「体罰」などは戒められていたはずなのですが。)
    こうした観点から言うと、現在ダンマリを決め込んでいる、戸塚ヨットスクールを「支援する会」の会長で、体罰礼賛の石原慎太郎
(http://101.dtiblog.com/admin.php?mode=editor&process=load&eno=98などを参照)や彼のお友達の橋下徹の言動などは、基本的にこの線で理解できると思われます。とりわけ、首長の立場にあって「体罰」を推奨するが如き発言を繰り返していた橋下が、悲惨な犠牲者がうまれるや、一転、「正義」の味方に変身し(おいおい、自分の責任はどうしたんだい!)、「学校」攻撃に転じ、自分の恣意的な判断を教育の現場に押し付けようとする、それは、結局は、先に言ったような「支配ー服従関係」を教育の世界に持ち込み、教員を従わせ、生徒を従わせたいという彼の基本的意図を明瞭に示すものといってよいでしょう。(彼の言説の姑息なテクニックについては、http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=261912&g=121204などをご参照ください。)

    長くなったので今日はこの辺で終わりにしますが、私の高校までの経験では、T以外は、本当に熱心で誠実な先生が多かったことは言っておかねばなりません。(その思い出話などは、また、別の機会にと思います。)
    また、もう一つ、言っておかねばならないことは、子どもたちの成長にとって、(制止、促し、注意喚起等々をも含めた)直接的な物理的強制力は絶対に否定されるべきことなのかという問題です。自分の子ども時代を振り返り見ても、子どもはけっして無垢なものではないし、暴力的でもあり、意地悪でもあることもまた真実でしょう。それ故に、そうした人間が、自らの「わがまま」を規制し、相互的に尊重し合うようになるためには、やはり、それなりの過程を必要とするように思われるのです。このことは、親としての子育てにとっても大きな問題ですし、非礼や「人間の尊厳」の侵害に対抗する、あるいは、人権の尊重のための「暴力」はありうるのかといった問にもつながるものです。以前、私が『風の谷のナウシカによせて(6)』で触れた、ガンジーのトルストイ農場における『体罰』などもこれに関連するでしょう。しかし、それは、基本的に対等な「人間」同士の、主体をかけた実力行使ということになるでしょうから、今回論じた「体罰」とは性質を大きく異にするものといっていいだろうと思うのですけれど。
 

    それでは、明日の大雪に備えて、車にチェーンを着けに行きます。
    次回昨今教育事情(2)は「駆け込み退職」について考えてみます。
    

僕の節分―――鬼退治

 2013年 2月3日 ―――今日は節分なのだ 


  
なんだこやつは?―――鬼は外!




  


※   今日は、別府大分毎日マラソンで、我「市民ランナー」・川内優輝選手が、中本健太郎選手との激しい競り合いを制して優勝し、我が家は大いに盛り上がりました!それに刺激されて、私も、往復12kmのジョギングを三週連続で敢行することになってしまいました。でも、走るたびに体が軽くなって、10分ぐらいづつ記録が短縮されるのです。走ることはけっこう楽しい!それが私の走ることへのインセンティヴになっています。そして、「体罰」とは全く相容れそうもない川内選手の勝利は、それ自体で、スポーツにおける体罰の「無理」を証明しているといってよいでしょう。 次回は、私の「体罰」体験談を予定しています。

2013 今年の冬は

 2013年 1月 ―――今年も雪が降ったよ 


  
雪ってきれいだね―――1月14日の大雪に次いで、二度目です





   

並木がかっこいいね





※公園の葉を落とした並木がきれいだよ。あと、「花札」のあの絵は冬の朝日なんだね。 



僕のスタンプもカッコいいでしょう―――





※ 肉球が気持ちいいでも、今日の雪はすぐ融けてしまいそうだね。残念。




今年の雪像





※ これは、14日に姉貴がつくった雪像だよ。今年のは、足が横を向いているスフィンクスだよ。 



綿入れを着た姉貴と





※ 姉貴も綿入れを着て暖かそうだけど、僕の冬毛の方がずっと暖かいのさ!!



    
アップで失礼

  

  


※ 一月ももう終わりました。サーバントさんも、昨日、仕事の10分の4が終わったそうで、今日からは、また少し、本を読んだり、ブログを書いたりできそうです。よかったね



プロフィール

SARO MURIKI

Author:SARO MURIKI
おりこうさんのワンワンです。年齢は、2019年11月現在満13歳です。見てのとおりの柴ですが血統書はありません。性別はオスで、飼い主には、朝夕、45分ずつ2回の散歩を義務付けているVIP犬、正確に言うと、VIDです。文句あっか?!

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