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4.28―――沖縄・「屈辱の日」を思う。

 
同胞を「売って」何が「主権回復」なのか。



    安倍内閣がその本性を露骨にあらわしながら、なにやら「主権回復」の記念式典とやらを画策している。ところで、大学に入学した1968年から1972年(5月15日)に至る私の〈個人〉的意識からすれば、「4月28日」とは、アメリカの施政権下にあった同胞たる沖縄の人々がアメリカの支配から「解放」され、「本土」に復帰することを求める日に他なりませんでした。なぜなら、サンフランシスコ講和条約が発効した1952年のこの日から、沖縄は、「本土」から切り離されて、米軍の軍政下に置かれ、現在にもつながる重い基地負担を強いられることになったからです。ですから、この日は、けっして「主権回復の日」などであろうはずはなく、国民を無謀な侵略戦争に駆り立てておきながら、敗戦後には、対米追従に変身したあの戦争指導者たち、まさしく、彼らたちによって仕切られていた『祖国』に裏切られた、「屈辱の日」に他ならなかったのです。実際、アベッチのおじいさんである岸信介ら戦争指導者たちは、同胞たる沖縄を差別し、犠牲にする一方で、これを機に、アメリカから「公職追放」を解除され、また、最近明らかになったように、CIAから秘密資金の提供を受けながら、懸命にアメリカに奉仕したのでした。

    ところで、私がどうしても受け容れることが出来ないのは、同胞に犠牲を強いるこうした構造を生み出しておきながら、この日を「主権回復の日」などと、恥ずかし気もなく美化できる精神構造そのものです。沖縄を切り離してどうして本当の「主権回復」といえるのか。さらにいうならば、そもそも、「行政協定(地位協定)」などという「不平等条約」を受け容れたまま、どうして「主権回復」などと胸を張って言えるのでしょうか。結局、アベッチは、自分の爺さんのやったことを美化ないし正当化しようとしているだけであって―――そのための記念日なのではないか―――、そこには、「日本人としての矜持」すらも感じ取ることが出来ないといって良いのです。喩えるなら、それは、自らの悪行によって多大な借金をつくり社会から相手にされなくなった親が、これまでにも散々苦労をかけてきた子どもたちを借金のかたとして外国に働きに出し、そのことによって負債を免れることになったのですが、なんと、この親は、そうした子どもたちの苦労をも尻目に、ただひたすら、借金がなくなって行為能力者として認められることになったとはしゃぎ喜んでいるようなものといえるでしょう。こういうのを恥知らずというのではないでしょうかか。

    要するに、沖縄の〈現実〉を見るとき、「4月28日」とは、沖縄県民だけのことではなく、日本「国民」全体の「屈辱の日」と捉えなくてはならないはずのものなのです。そして、そのことは、戦前・戦後のわが国の政治の「陰」の部分をしっかりと見つめることであり、また、「人間」―――その多くは様々な原因によって「弱者」たらざるを得なくなった人々なのだが―――を「差別」して恥じることのない、これまでの我国「権力〈エリート〉」多数派の感性と精神構造をしっかりと見抜き、批判していくことでもあると思うのです。彼らは、口先ではなんとでも言う。そして、その言に実がないことに恥じることもないのです。


私は「主権回復の日」を受け容れません!


 
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私の3・11(断章)―――信じうるもの

 
震災と原発事故の中における「一般ピープル」と『エリート』
  



    2011年の3月11日、あの日の地震と(テレビに映し出された)大津波の有様は、今も記憶に新しいところです。私はあの時職場にいたのですが、確かに、私が経験した地震の中でも突出して激しいものでした(震度5)。机や棚からは物が崩れ落ち、建物の一部には亀裂が走り、天井板が外れて落ちるところもありました。外の地面に敷かれたコンクリートには地割れさえ見られました。埼玉でもこの有様でしたから、東北地方での状況は想像を絶するものだったと思います。

    ところで、私の職場の人々を見たかぎり、その反応にはなるほどと思わせる個性が表れてはいたものの、全体としては、あの緊急事態においても皆が実に冷静に行動しているなと感じさせるものでした。ただ、電話が通じませんでしたから、家族の安否を案ずる表情に強い戸惑いが見られたことは記憶しています。私も、わが家と仙台の兄に連絡しようとしたのですが、携帯、公衆電話ともに全く用をなさず、サロさんのことも含めて、ずい分心配したものです。

    さて、職場での対応が一区切りついた後、私は帰宅することになりましたが、その帰宅途中で見た光景は、本当に私を驚かせるものでした。停電で信号機は止まっていたのですが、片側2車線と一車線の渋滞した交差点で、ドライバーたちは、交通整理をする警官がいないにもかかわらず、なんと自主的に交互に一時停止を繰り返しながら「流れ」を作り出していたのでした。私は、これには本当に感動してしまいました。
    また、原発事故以降の物不足の中、スーパーなどでの人々の行動は、焦りもあっただろうと想像されるのですが、実に立派なもので、私の周りの人々は、整然と並び、年配者の私に親切にさえしてくれたのです。その姿には、苦難を共にする隣人への優しさのようなものが強く感じられました。勿論、私の経験は、被害もさほど大きくなく、余裕のある地域での話しなのですが、「阪神・淡路大震災」のときによく指摘されていた、被災地の人々の助け合いの姿の片鱗らしきものに接したように感じました。そして、日本の「一般ピープル」は、基本的に、〈信頼できる!〉と再認識したのでした。


    さて、家に帰ると、我家は物が少し落ちたぐらいでほとんど被害はありませんでした。しかし、くり返し放送される津波の様子に心を奪われながら、住所から判断して被災した可能性が高かった仙台の兄のことが心配でなりませんでした。郡山の方は、夜には、家の中はめちゃくちゃだということですが、皆が無事であることが分かり安心しました。また、関東近辺の友人たちの様子も次第に分かってきましたが、やはり、かなりの被害がでているようでした。

    こうした中で感じたことは、マスコミの報道というのは私たちが具体的に知りたいことについてはほとんど有効性を持たないということでした。唯一の情報源はインターネットで、例えば、仙台市宮城野区福田町、七北田川付近の様子を知りたいときは、ネットの検索によって、「一般ピープル」からの情報に頼る以外になかったのです。ただ、少し後になりましたが、グーグル・アースで被災後の地域の様子を見ること出来たことにはビックリしました。電話は通じないままでしたが、確かに、近くの駐車場では車が流された痕跡があったものの、兄の家自体ははっきりと写っていたのです。実際に、電話で連絡が取れたのは16日でしたが、家の中はめちゃめちゃで水も入りましたが、壊されることにはならなかったのです。

    さて、福島の原発事故に関連してですが、この事故に至るまでの政府・東電への不信感は勿論なのですが、事故後の対応についても、本当に(!)、彼らは信用できないと強く思ったものです。彼らがその時何を言い、何をやったのか、私たちはけっして忘れてはいけないと思います。ここでそれらを再確認していくことはしませんが、私の直接的経験から、次のことだけは書き残しておきたいと思います。

    12日の朝から、私たちは、津波の被害とともに、水素爆発を起こした福島原発の様子に釘付けとなりました。しかし、テレビ、新聞で報道される内容については、私の知人たちの間では「信用できない」とか「事実は隠されてるよな」といった評価が大半でした。―――例えば、13日には、私も次のようなメールを送っています。「チェルノブイリの時を思い出しますね。原発については、財界と政府はうそばかりで、報道各局も本当にその性格・特色を出してます。防毒マスクをつけた『特殊部隊員』が動いている福島県では、郡山の一般市民も放射線検査を受けることになるようです。われわれはモルモットではないちゅうに!」

    そして、こうした評価は、つぎつぎと正しいことが明らかになりました。とりわけ、私が許せないと感じているのは、水素爆発後の放射性物質の流れや汚染された冷却水の流れについて、政府・東電が極力隠蔽しようとし、情報を操作したことです。実際、私たちは、まさしく、日本の政府・東電からではなく、ドイツ(?)から発信されたWEB上の情報でそれを知ったのでした。そして、私自身、そうした情報によって埼玉県では海からの風が吹く時が危ないと知り、ガソリンが無かったので車ではなくバイクを使用することになった15日には、防御用のビニール製雨合羽を着て通勤したのでした―――ただし、ドジな事に、マスクを忘れてしまったのですが。しかし、もっと悲惨なのは、福島の人々です。もし、スピーディーの情報がしっかり伝えられていれば、無用な被爆をどれだけ防げたでしょうか。たとえば、猛烈な放射能が降り注いでいたとき、郡山の人々は、水を手に入れるために外で行列を作っていたらしいのです。最近NHKを辞めた堀潤さんの話もこれに関連します。

    それにしても、あの直後の計画停電にしても(清志朗の「電力は余ってる」は本当でしたね)、そして、最近の再稼動への動きにしても、はっきり言いますが、日本の「イスタブリッシュメント」を構成する(カッコつきの!)『エリート』たちは、結局、「一般ピープル」の生活を犠牲にして、自分たちの「身内」たる企業を助けようと懸命になっているということです。つまり、彼らは、基本的に、〈信用してはいけない!〉ということなのです。

    時間もきましたのでこの辺で止めておきますが、最後に、昔懐かしい、岡林信康の歌の一節を引用しておきましょう。
  
     
「おまはんらが儲けるために、わしらを殺すのけ!」






―――サーバントさんが言ったよ。「サロさん。最近、NHKを『犬HK』なんていう人がいるらしいよ。どう思う?」・・・・・僕は、あんな大越みたいな太鼓持ちと、人類のベストフレンドたる僕たちを一緒にしてほしくないと強く思った。僕は、ひどく傷ついちゃいました


春は花―――僕は鼻!

   2013年 4月 ―――春の匂いは最高だね  


  
菜の花ロード




 ※菜の花の香りがとてもいいよ。土手の小さな草花たちも最高
   


疾走・ジョギングロード





 ※僕は自転車には負けないよ 午後、サーバントさんと姉貴が12キロジョギングしてきたよ。 


怪しい影が





 ※ 街中の歩道なんだけれど、僕の横に変な影が写ってますねえ。




これはいい匂い!―――うっとり[emoji:d-24]





※黄色と白と紫の菜の花のコンビネーション。いい趣味してますねえ。



えっ?もう行っちゃうわけ





 ※ でも、今日はもう、50分は遊んでるから仕方が無いかな。
   しかし、



いつもの公園で一休みしてからだね

  

 

 ※ タンポポのそばで一休み。草むらの中で寝るのが一番気持ちがいい。マダニになんか負けないのさ。 


 

NHKBS歴史館『天明の飢饉 災害復興が日本を変えた』を観る

 
エリートの「経世済民」論と「民衆」観


 ※ 数日前、家族が録画してくれていたこの番組を観ることができました。東日本大震災とその後の「復興」の有様を目の当たりにしてきた私にとって、天明の大飢饉の後に実行された松平定信の「寛政の改革」を再考するこの番組は、非常に新鮮かつ興味深い視点を与えてくれたと感じています。まだ、観ていない方には、是非、お勧めしたいと思います。(NHKのニュースは最低ですが!)

   それでは、はじめに、NHKによる番組概要を紹介しておきましょう。 

    江戸時代、90万人以上が犠牲になった天明の飢饉(ききん)。被害が大きかったのが東北地方。人口が半分になった藩もあり、国家存亡の危機だった。どうしたら復興できるか。手腕を振るったのが老中・松平定信。幕府の財政優先の政治を大転換させ、初めて人々のための政治を行ったのだ。食糧備蓄を奨励し、貧しい家には子どもの養育費を支給した。地域の復興が国の成長につながると、変革を進めた時代の物語。  

    ところで、私の記憶によれば、定信の「寛政の改革」とは、「商品経済」の進展によって引き起こされた幕府の財政危機を、「商品経済」に〈適応〉することによって解決しようとした田沼意次に対して、古い「重農主義」的な諸政策によって対応しようとした、「反動的」性格のものであったとの説が一般的だったように思われます。そして、その質素・倹約主義は、「白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき」という有名な狂歌にみられるように、一般庶民にとってもあまり人気のあったものではなく、結局、短期間のうちに失敗に終わったというわけです。しかし、この番組は、そうした従来(?)の評価とは異なり、それを、当時、各藩からの評価も高く、民衆からの支持も厚かった、偉大な改革として再評価しようとしているのです。
    
    まず、白河藩主であった松平定信についていうならば、彼は、眼前の「天明の飢饉」を、「天災」としてではなく「人災」と捉え、「民」を守るために、大胆で画期的な政策を次々に実行し、その後の発展の基礎を築いた政治家として把握されています。ところで、私たちは、「天明の飢饉」といえばすぐ浅間山の噴火を思い浮かべ、それは自然災害であったとの印象を強く持っているのではないでしょうか。ところが、当時の東北地方は、西日本と比較しても、粟や稗の生産によって、冷害にも強く、人口支持力の高い地域だったというのです。ところが、「商品経済の進展」と「幕府の財政危機」への対応から、この地方の農産物は商品(換金)作物としての米に転換・特化され、また、財政危機への対応から収奪も強化されて、食糧備蓄もなおざりにされてしまっていたのでした。まさしく、「天明の飢饉」は、こうしたことの結果として起こったのです。現在、私たちは、福島第一原発の事故の後、それを「天災」として片付けることによって責任を回避しようとする姑息な動きを目撃してきましたが、そうした動きと比較すると、定信の卓見は見事という他ないのではないでしょうか。

    そして、そうした把握の上で定信は、まさしく領民の餓死という危機に素早く対応して、全国から米を買い付け、富農・豪商から義捐金を集め、また、米価を強制的に引き下げ、米の備蓄を促進し、さらに、「間引き」を禁止するだけではなく育児のための奨励金さえ支給して人口の減少を食い止め、その後の人口増加への基礎を築いたのでした。また、老中になってからも、白河藩での経験を生かした(試験によく出題されるような)諸政策を次々に打ち出すとともに、幕府直轄地の代官には大幅な権限の委譲を行って、地方の実情に適した政治を行わせたというのです。

    さて、以上のような定信の政治から、私たちは、私たち自身の時代の諸問題を解決するうえでの、示唆的なヒントの数々を得ることができると考えられます。
    まず、第一は、政治観の革新です。すなわち、定信は、政治を「民生」(民を守る政治)へと転換させ、おそらく当時の「支配的諸階層」の抵抗をも抑えて、民衆のために食料を確保し、餓死者を一人も出さないことに成功したのでした。これに対して私たちは、現在の政治家たちが本当に「民」のために尽力しているのかと、深く考えさせられてしまうのです。
    第二は、特権的富裕層に相応の負担を求めたことです(所得の再配分)。それは、このところ我国において顕著であった高額所得者への優遇政策(累進制の緩和)―大衆課税の強化(消費増税)などを考えると、ため息さえ出るような政策ではないでしょうか。
    第三は、人間の生存にとって最も基本的な生産物である食料を商品経済の論理に野放図に委ねなかったことです。現在政府によって推し進められているTPP(環太平洋パートナーシップ協定)は、社会関係(人間関係)の全般的「商品経済」化を推し進め、日本社会の性格を大きく変えることになるかもしれないといわれています。そして、そうした流れの中で最も危惧されているものの一つが「食料自給率」の問題です。TPP推進の流れの中にあって、「天明の飢饉」は、私たちにとって全く無縁のことだとはいえなくなってしまう恐れがあるのです。
    第四は、定信の子育て支援策です。わが国においても「子ども手当て」などの問題が議論されてきましたが、人口の一定水準の維持は、社会の維持・発展にとって極めて重要なものといわれています。少子化に向かう我国にとって、定信の政策は示唆するところ大であると思われます。
    最後は、地方自治の強化です。私たちの生活や福祉の具体的な向上を考えるとき、その根底的な基盤は、言うまでもなく、身近な「地方」・「地域」にあります。そうしたことをしっかり見据え、地方政治の財源や権限を強化していくことの意義は、今日の日本にとっても、限りなく大きなことといえるでしょう。

    さて、このように考えてくると、そうした政策を実行した松平定信は実に有能な政治家であったといってよいのかもしれません。しかし、私は、なぜかこの番組のトーンに、拭いがたい違和感も感じるのです。その違和感とは、それが、結局のところは、政治的エリートの「経世済民」論―「善政」期待論に終わっているのではないか、ということに他なりません。勿論、定信の政治を、未曾有の大飢饉によって激化した民衆の一揆・打ちこわしに恐れをなした封建的支配者がその支配体制維持のために救貧的政策を行わざるをえなかっただけのことだと、単純に切り捨ててしまうことは誤りでしょうし、実際、一定の歴史的状況の下では、そうした政治家・官僚の登場・存在は、けっして悪いことではないし、かえって、望ましいことだとさえいえるかもしれません。しかし、封建的支配者の「善政」論は、儒教を中心とした中国の古典では勿論のこと、我国における『水戸黄門』や『大岡越前』などの「時代劇」でもお馴染みのものに過ぎないのです。

    さらに、この違和感を一層強めるのがその「民衆」観の貧困さです。この番組に登場するる「民衆」は、(嬰児殺しとしての)間引きを支配者によって禁止される存在として、「暴徒」として一揆・打ちこわしに走る存在として、あるいは、「善政」をしく支配者によって教化され、彼らを慕い、仰ぐ存在として、きわめて矮小化された存在として語られているように思われます。それは、まさしく、「黄門さま、おねげえしやすだ」の世界の民衆に他なりません。こうした「民衆」観の当否は別に論じられねばなりませんが―――私たちは、歴史学の成果からもっと積極的な「民衆」像を得ることが出来ます―――少なくとも、それは、民主政治における『人民』・『国民』の姿ではありえないのです。

    すなわち、3・11後の世界に生きる私たちが松平定信を学び直すことの意味は非常に大きいとしても、こうした『民衆』観のもとにあっては、結局、有能なエリート官僚や政治家を「待望」するといった議論にしかならないのです。有能さを自認していた自称「エリート」たちが如何に無能で、民衆に敵対的なものであったのか、そのことは、とりわけ、バブル崩壊後の日本の政治的・経済的状況の中で、そして、福島第一原発事故などによって明らかになっていると私は思います。ですから、これからの日本において本当に求められるのは、たとえば、強力な権限を持った有能な「代官」に教え導かれる「地方自治」なのではなく、まさしく、「民衆」自身による「地方自治」でなければならないのではないでしょうか。『エリート』(括弧つきの!!!)による「民衆」の「力」の抽出・収奪を許さないこと、それこそ、真の民主政治の確立にとって、その根幹にかかわることだと私は考えるのです。


―――野球には、『サムライ・ジャパン』などというキャッチフレーズがありますが、私は、野球選手を「(強い)戦士」にたとえ、かつ、それを封建的・身分制的なエリート主義の臭気漂う『サムライ』と表現することに、とてつもなく、軽薄なものを感じてしまうのです。いかがなものでしょうか。そのうち、大相撲は『サムライ・レスリング』とか言うようになるのでしょうか。まあ、野球ファンには、『水戸黄門』ファンや『大岡越前』ファンが多いのかもしれませんね。

SAROーMURIKI「つぶやき」選集(15)

  2013年 3月

「一般ピープル」としてこの国の「政治・経済」を見つめる 



○春闘――大企業のボーナスが「アップ」・「満額回答」とか。あの安倍thin三による要請も影響したというが、これは日本の支配層による、参院選向けの「買収工作」と言っていいだろう。。アベノミクスの経済的効果などとは笑わせるぜ。そのうち、化けの皮が剥がれる。回る寿司屋はガラガラだ。

    ―――薄っぺらなパフォーマンスとそれを大々的に報じるマスコミ。ただ、冷静に身の回りを見つめてみれば、事態の本質は見えてくるものだ。問題は、私たちが自分自身をどう認識しているかだ。ただ、同じ人間であるにもかかわらず、アメリカ人や朝鮮人が「ああ」生きていることを本人たちは「当たり前」のことと思っているのでしょうから、安倍氏を支持する人たちについても、ことは簡単ではないのでしょうけれど。

○あの3.11から2年が過ぎた。去年の秋に東北の被災地を見てきたが、復興バブルなどではない、真に住民(一般ピープル)の視点にたった再建がなされることに期待したい。また、原発事故によって汚染された地域の人々のことを考えると胸が痛む。この事故を無かった事なんかにしてはいけない。

    ―――色々調べれば調べるほど事態は深刻だ。それにしても、原発のリスクを交通事故のリスクと並べ、したり顔で語っていた女性評論家がいたよな。本当に、おばかさんです。田中正造の「(うそつき)学士」の話を思い出した。

○一票の格差(不平等)について―――違憲・無効判決が出ましたが、私は、基本的に、「代議制度」は信用しないことにしました。まあ、「完全」比例代表制が最低限の線でしょうが、それよりも、一般ピープルが投票の時のほかは「奴隷」という状況をなくすことが最も大切です。

    ―――今日(4月1日)の東京新聞に、「野球の発祥の地が日本だった」とか、「シュワルツネッガーが日本の選挙に出る」とかの『記事』が載っていた。しかし、もしシュワルツネッガーが参院選に出馬すれば当選するだろうなあなどと本気で思ってしまう私が、心底、怖いです。それにしても、日本の政治状況は「毎日がエイプリル・フール」 気をつけましょう。

○私も身につまされることがありますが、金によって、尊厳ある生活を売り渡さなければ生きていけない状況に追い込まれること、それが一番しんどいことです。出来れば、「独立」したいですよね。

    ―――矛盾を押し付けられる人々こそが、それこそ、〈本物〉の「イスタブリッシュメント」の『既得権益』を支える〈既成事実〉をそのままにして、金で解決する「ルート」に追いやられる。もうどうしようもないでしょう。それしかしょうがないじゃないか、と。ところで、ホリエモンが出所しましたね。(同情するなら金をくれ)金がすべてだ、何でも買える、か。本当ですか。

○「マスゴミ」―――初めて使ったかな―――が、イスタブリッシュメントとつるんで、盛んに景気の浮揚について報道しているが、冗談じゃない。私の周りじゃ、全くその気配はないですよ。逆に、値上げの兆しばかりではないか。一般ピープルの生活の視点に立てば、あんなのみんなプロパガンダだ。

    ―――なにしろ、参議院選挙までですよね。アベッチさん。でも、さっきまで、テレビスクランブルを観てましたが、まあ、よくも、まあ、あんな話が通用しているものです。しかし、日本の権力者というのは本当に責任取らないですよね。というより、「一般ピープル」がお人よしなんだろうね。

○ スポーツ選手も気の毒なことだ。政治家に利用されて、ナショナリズムの宣伝隊だ。野球だって大リーグに行ってるじゃありませんか。オリンピックだって、この際、外国に行って試合をやったほうが、面白くて、思い出に残るんじゃないの(?)。

    ―――長島と松井が国民栄誉賞なんですって。好きな人は好きなんでしょうけれど。ただ、イチローじゃないところが、なにか、ズレてるようにも思う。「渡辺ーごみ売り」路線は、もう駄目でしょう?!

○「敵の敵は味方」と言うこともあるが、本当に「敵の敵」なのかも問題でしょうに。維新と選挙協力しようなんて民主党は、本当に、どうしようもありませんね。イギリス労働党だってそんなことはやらないでしょう。ギデンズだって「恥知らず」ではありませんでしたよ。

    ―――古今東西の政治的『妥協』の様々な形態は理解しうることはあっても、いくらなんでも、ハシズムとはありえないでしょう。否、民主党は同じ体質なのかな。ギデンズについてはいつかきちんと論じなければならないと思いますが―――市場主義とグローバリズムの「受容」―――、一応フォローしているかぎりでは、彼なりの自立的思考と原則は感じられますよね。それに比べて、民主党は・・・・・

○「権力政治」の最も典型的なモデル国家のひとつが朝鮮民主主義人民共和国だ。アメリカさんは、余裕があるので、若干スマートな装いを凝らしているが、それに最も近い存在です。イラク戦争他、例に事欠きません。こんなパワーゲームに翻弄されないことです。

    ――キム王朝と戦争国家アメリカ。どちらも世界の平和を志向する勢力には本当に迷惑です。憲法9条の基本的な論理を再確認したいものです。

○私は、この状況の中で、安倍政権の欺瞞的目くらまし政策に積極的に協力している企業については、本当に『不買』に走るつもりです。金持ちじゃないですから消費の額は少ないですが、少なくとも、私らの生活を破壊しようと企んでいる人々の利益になるようなことはいたしません。

    ―――でも、だんだん「化けの皮」が剥がれてきましたね。楽観は禁物ですが、一人でも多くの「一般ピープル」が、「イスタブリッシュメント」のプロパガンダに惑わされず、生活のレベルで政治・経済を見れば、結果はでてくると思うのですが。

○三月も終わってしまう。さあ、明日から、また生きるために、お仕事をしよう。さて、寝るか。

    ―――と。 寒い。 明日も、雨か。 狂ってるねえ。  
プロフィール

SARO MURIKI

Author:SARO MURIKI
おりこうさんのワンワンです。年齢は、2018年11月現在満12歳です。見てのとおりの柴ですが血統書はありません。性別はオスで、飼い主には、朝夕、45分ずつ2回の散歩を義務付けているVIP犬、正確に言うと、VIDです。文句あっか?!

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