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私にとって『愛国心』とは何か(1)―――一般ピープルの視点から

 ※ 我〈しもべ〉たる飼い主は、「ねえ,サロさん。私にとって、『わんわん』のサロさんと他の『人間』様とどっちが大切なんでしょうねえ」なんて言うんだよ。何の話だ?


  「政治」的愛国心の〈幻想〉性 ―――具体的に考えればすぐ分かることなのだが


     若い頃、自分にとって他の「命」とは何なのだと考えたあげく、近くの魚屋さんから「活カレイ」を買ってきて,自分で「料理」をして食べたことがありました。さらに、他の人間の「命」にも思いをはせた時、考えれば考えるほど,自分の「ヒューマニズム」なんていい加減なものだと思ったものです。しかし、他方では,近しい存在に感じる「愛」らしきものは確かなような気がしていました。こうして、私は、「博愛衆に及ぼす」といったタイプの人間ではなかったということもあって、いつも、「命」に対する混沌とした〈二重性〉の中で生きてきたような気がします。

     ところで、最近、「愛国心」とか「ナショナリズム(国民意識・民族意識?)」とかを煽る言動が目立ちます。しかし、私にとって、そのほとんどは,「美しい国」とか「美しい日本人」などと声高に叫びながらも、実際には、同胞を差別し,利用し、収奪する「政治」的な人間たちの操る「象徴」にしか感じられないのです。それは、美しいどころか,最近話題の「ヘイトスピーチ」に典型的に見られるように、強きに媚び弱きに差別的なその性格から、嫌悪感すら呼び起こすものと言ってよいのです。

     しかし、一般的に言うと、近代「主権国家」の「国民」意識たる「ナショナリズム」は、近代の市民革命や反植民地・独立闘争などで,いわゆる「進歩的」な役割を果たしたと肯定的に評価されることも多々あったのです。なぜなら、それは、封建的王家や植民地本国(外敵)に対抗して、「国民」の一体感や共同性の意識を高める上で重要な働きをなしたからです。ただ、私は、「国民的なるもの」の〈客観的〉な基盤についての検討は不可欠だと考えてはいるものの、いわゆる「ナショナリズム」の「権力政治」的性格については、常に厳重な警戒が必要であると考える一人です。

     つまり、国民間・民族間の「敵愾心」を煽るところの「権力政治」的愛国心は,その国家間・民族間の関係が政治的・経済的・社会的「支配-従属関係」(差別的な関係)として形成・維持されているような場合は、ある程度、客観的な根拠を持つということができるかもしれません。しかし、実際は、そうした関係は、(恐らく常に)そう単純な対抗関係に還元できるものではなく、帝国主義時代の植民地支配や戦後日本の米軍による「間接統治」、そして、目の前に展開するアメリカン・グローバリズム下での諸関係などをみても明らかなように、極めて複雑で錯綜した性格が見られるといってよいのです。つまり、もともと、そうした複雑な関係を、単純なステレオタイプ的な視角で捉えること自体が〈幻想的〉なのです。

     そうしたなかで、国民間・民族間の「敵愾心」を一方的に煽る行為は、そうした「敵愾心」を生み出すところの対立関係を〈合理的に〉解決していこうとする努力をではなく、かえって、その関係を固定的、不可避的なものとして捉え、その対立・衝突を力で解決する方向に国民を導くことになるのです。そして、さらに重要なのは、それが、一方で、〈国民〉の一体性や共同性を強調しつつ、他方では、〈外敵〉に対してだけではなく,国内においても、自らに批判的な勢力を〈敵〉=〈非国民〉として抑圧・弾圧しようとする意図をあからさまに示す傾向が強いことです。しばしば、国内的な分裂と支持基盤の弱体化に直面した政権が、国民の目を〈外敵〉に向けさせ、「愛国心」を強調したりするのはこうした性格の一面を表わしているといってよいでしょう。
     
     勿論、外国や多民族に対して一方的な「敵愾心」を煽る思考法は、一般ピープルの日常生活の意識からしても無理があると思われます。例えば、同じ「日本人」といっても、私たちを傷つけ、危害を加える人間もいますし、「外国人」であっても、大変親切で,私たちの命を救ってくれる人さえいるからです。私の狭い人生経験の中でも、あの「日本人」たちは私の大切なものを傷つけ奪ったけれど,あの外国籍の人たちは,私を勇気づけ助けてくれたといった経験は、少ないながら、確実にあるのです。つまり,日常生活のなかで通常の接触や交流がある限り、日本人は○○で,××人は△△だ,といった固定的な考え方は、話としては面白いところはあるものの、具体的・個別的に考えるならば、〈幻想〉にすぎないことは容易に理解されるでしょう。「好き・嫌い」という観点からいっても、「国際結婚」をする人もいれば,外国人のタレントやアスリートに夢中な人もいるからです。

     ただ、問題なのは、こうした「政治」的愛国心に微妙に共鳴するところの「愛国心らしきもの」が私のなかにあり、それを彼らが利用しようとしていること、歴史的にいえば、そうした偏狭な「政治」的愛国心が、一定の集団的な「共同性」・「一体性」の形成・糾合に成功しているらしいところにあります。このことに対する明確な自覚と反省的視点を欠いては、またぞろ、そうした偏狭な意識の蔓延を許してしまうことになるでしょう。次回には,この点について考えたことを述べたいと思います。


  ※ どこかの本で読んだのですが、船が沈没寸前で、怖がる乗客を船から避難させなければなりません。その時,なんといえば良いでしょうか。(私の記憶によれば・・・・)
     フランス人に対して、「飛び込んじゃだめだ」
     ドイツ人に対して、「法律で飛び込むように定められています」
     アメリカ人に対して、「飛び込めばヒーローになれるよ」
    そして、
     日本人に対して、「みんな飛び込んでますよ」

    さて,あなたは,「何人」型ですか。”ナショナル・アイデンティティ”が問われますね。
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63回モダンアート展・N響ソニックシティ・オープン25周年記念公演

 ※ 我〈しもべ〉たる飼い主は、連休は旅行にも行きませんでしたが、4月には、美術展と演奏会には行ってきたんだね。まあ、それぐらいの「贅沢」は許してやろうかな。散歩にも付き合ってるしね。



☆ 第63回 モダンアート展  4月12日(金) 東京都美術館

     新装なった東京都美術館で行われたモダンアート展に行ってきました。このところ毎年素晴らしい美術の世界に触れることができ、私としては、かなり幸せな気持ちになっています。作品の前に立つだけで、その作品が放つ、情熱と申しましょうか、迫力と申しましょうか、それに打たれてしばし見入ってしまうのです。勿論、出来上がっている作品が「美しかったり」、「面白かったり」しなければ、それに惹かれることはないでしょうが、同時に、何だこの細かさは、なんだこの集中力はという、他の「世界」にも共通して感じられる感動もあるのです。例えば、一枚の作品に、渾身の学術論文一本と同様なものを感じるといったことです。
     また、素人の感想でしかありませんが、今年の作品、とりわけ「会員」諸氏の作品は、時間や空間の「流れ」や「厚み」を感じさせる作品が多く、さらに、なにか異常な執念さえも感じさせる作品が多かったように思います。そして、その根っこには、2011年の大地震と大津波、そして、福島の原発事故があるのではないか、それが私の印象でした。人間は、その「存在」の故に、「悲劇」を体験せざるを得ないのかも知れませんが、同時にそこには、人間の「強さ」も表出されるのだ、そんな気がしたのです。


☆ N響 ソニックシティ・オープン25周年記念特別公演  
         4月29日(月) 大宮 ソニックシティ大ホール

     ラフマニノフ
       ピアノ協奏曲第2番 ハ短調 作品18
     チャイコフスキー 
       交響曲第5番 ホ単調 作品64 

            指 揮: 小泉 和裕
            ピアノ: 上原 彩子
            管弦楽: NHK交響楽団  


     この日、本当は、他にもすべきことがあったと思うのですが、半年前に購入したチケットを捨てるわけにも行かず、ソニックシティに向かいました。少し後ろめたい気もしながら、でも、私はやはり体の中にあのしびれを感じながら、目一杯音楽を楽しんだのでした。
     上原さんのピアノは、2002年のチャイコフスキー国際コンクールで一位なった年に、テレビでその迫力のある音を聞いて以来、一度は生で聞きたいと思ってい ました。また、チャイコフスキーの5番は、30年ほど前、東欧革命前のポーランドを訪れた際、ワルシャワのある教会に向かう途中にこの曲が流れており、同行の人に曲名はと聞かれ答えたのをはっきり憶えている、思い出の曲です。

     上原さんの演奏は、予想通り、ピアニストというのは肉体労働だよな、と思わせる力感あふれるものでした。1楽章目には何度か不安定な音が聞こえたり(?)、指揮者・オーケストラとの相性もどうなのかなという感じもあったのですが、終楽章ではまさに協奏曲の魅力をたっぷり味わうことができました。そう,残り少ない人生の中で、もう一度聴きに行ってもいいな、と思わせる演奏だったと言って良いでしょう。

     交響曲5番の方は、小泉氏の指揮も生では初めてだったということもあるのでしょうが、レコードやCDで慣れ親しんだ2種類のムラヴィンスキー=レニングラード・フィルの演奏(1960年盤と1983年盤)とはかなり違って、都会的というか、現代的というか、アクセントやコントラストが「きつい」と申しましょうか、第一印象からすると、ダンス音楽を聴いているような感覚になったものです。また,第4楽章などは、スコアを書き変えてあるのではないかなどと感じさせるほどの、個性的な演奏だったと思います。勿論,それがだめだと言っているわけではなく、この演奏なら,現代の我々にとって,いつでも気軽に楽しめるよな、という印象 なのです。指揮者もオーケストラも,元気いっぱい,ノリノリで、アンコール曲もチャイコフスキーのポロネーズでしたが、今回の演奏会の性格からして、実に適切な選曲だったと思います。

     N響については、前に座っていた女性が「管楽器がよく鳴っていた」と言ったのを耳にしましたが、私も同感でした。オーケストラの編成にもよるのでしょうが、一時は弦に比べて弱さが囁かれていた日本の管も、体格は相変わらず違うものの、私には十分満足のいくものでした。

     なんちゃって! まあ、みんな私の勝手な思い込みですが、それにしても、「今」聴いているムラヴィンスキーの1983年盤とはえらい違いです。ワルシャワの街にも似合わないでしょうね。でも、楽しい演奏でした。


 (バラ園の続き)僕は黄色のバラがよく似合う? 






 一休み。これからは毛皮がつらい季節だね  




     

歴史認識と従軍慰安婦問題について(再掲)

 ※ 現在、アメリカの議会と政府が、アベ政権の歴史認識問題について危惧を示していると報道されています。しかし、私は、外国に言われる前に、日本国民自身が自国の歴史に対してしっかりとした意見を持つべきだと思っています。その意味で、私がアベ政権発足当時(1月15日)に書いたブログ記事を再度掲載させていただきたいと思います。近いうちに、「私にとってナショナリズムとは何か」をテーマに考えをまとめたいと思っていますが、その基底にあるのが、戦前の歴史を「一般ピープル」としてどう捉えるかという視点です。重複してしまいますが、お読みいただければ幸いです。


「侵略戦争」への反省無き、
            
             「ジコチュウ」・お坊ちゃま外交  


     ・・・・・現在、とりわけ安倍政権に感じているのは、国際関係での〈危うさ〉です。アメリカとの関係、中国・韓国そして北朝鮮との関係、そして、他のアジア諸国やヨーロッパ諸国との関係はどうなるのでしょう。

(中略)


     ところが、わが〈デジャアベ〉政権に感じられるのは、こうした「品格」とはもうほとんど正反対のものなのです。とりわけ、私が心配しているのは、「従軍慰安婦」問題などで、その恥知らずな醜さを世界に曝し、軽蔑されていくことです。

    さて、領土(尖閣・竹島・北方領土)問題において顕在化した中国や韓国などとの対立を如何に解決していくかは、国家としての日本にとって、非常に重要な問題であることは間違いないでしょう。ただ、その時、極めて重要となるのが、問題解決に取り組む基本的なスタンスです。そして、この間、アジア諸国との間における問題の「現実的な」解決にとっていつも障害となってきたのが、いわゆる「歴史認識」問題や「従軍慰安婦」問題でした。そして、今後、これらの問題に対する明確な「清算」が行われなければ、すなわち、日本が真に平和国家としての信頼と尊敬を勝ち得ることが出来なければ、問題の未来志向的な解決は不可能と言っていいでしょう。もちろん、こうした方向での努力の現われが「村山談話」であり、「河野談話」であったのです。

    ところが、こうした方向性に対する「障害」が再び頭をもたげています。すなわち、〈戦前の「政治」と「戦争」は正しかったんだ〉と、なんとしてでも主張したがる勢力すなわちアベッチたちの勢力です(二度と見たくなかったが、déjà-vu 「デジャヴ」)。いうまでもなく、アベッチのおじいさんは、「互恵」的どころか、超・利己的「国益」追求によってアジア諸国を侵略し、その挙句米英などと衝突するに至るや、「鬼畜米英」を叫びながら、「戦陣訓」の下で多くの日本人を死地に追いやった戦争指導者の一人でした。しかし、敗戦後、彼らは、まさしく米ソ冷戦のおかげといっていいでしょうが、「アメリカ追従」に〈変節〉することによって、「復権」を許されたのでした。そして、こうした流れのなかで、彼らは、この戦争で犠牲となった全ての一般ピープルに対する責任を、少なくともアメリカによっては、免除されるが如き形になった(と、少なくとも思いたい)のです。しかし、アジアの諸国にとって、そして、冷戦後のアメリカにとっても、そうは行かないのです。
    
   ところで、私からすれば、戦前の戦争を正当化する必要性などどこにあるのでしょうか。否、全くないといっていいと思われます。アベッチのおじいさんたちよって指導された戦争の有様は、多くの歴史学の成果はもちろんのこと、とりわけこの十数年の間に、沈黙を破った多くの戦争経験者によって証言され、戦争を経験していない世代にも明確になりつつあります。実際、私たち一般ピープルは、ヒトラーやムッソリーニのお友達であった、これらの戦争指導者たちをなぜ擁護しなければならないというのでしょうか。逆に、ドイツやイタリアの一般ピープルのようにそれをしっかり反省し、未来に向けて、信頼を獲得していくということのほうがはるかに重要なのではないでしょうか。それでこそ、胸を張って、主張すべきことを主張できるというものです。要するに、戦前の戦争の正当化などは、結局、彼ら戦争指導者たちとその末裔たちの自己正当化のためなのだといって過言ではないのです。

   さらに、恥ずべきなのは、そうした、戦争の正当化の一環でしょうが、「従軍慰安婦」問題に関してわざわざ「強制は無かった」などという閣議決定をする姑息な対応です。そもそも、アベッチやそのお友達の橋下がいうように、「従軍慰安婦」問題を「強制があったかなかったか」(つまり、道を歩いていて突然拉致されて、云々)といったような議論にすりかえるのは、結局、その前提としてある植民地的収奪や、世界的にも類例を見ないと評される軍管理下での「あのおぞましい」慰安所の存在を正当化することになるだけなのです。それは、あの世界恐慌下、わが同胞たる農村から身売りされた娘たちに対して、かわいそうだけれど『同意』のもとだったからなどといってそれを正当化する、悪徳高利貸やデバガメたちの論理と同質なのであり、そうしたシステムに対して激しい怒りを燃やした青年将校たちの水準にもはるかに及ばない恥ずべき言い逃れといわなければならないでしょう。こうして、アベッチや橋下の主張によって、「日本人」の心性が、江戸時代の「女衒(ぜげん)・口入(くちいれ)屋のたぐい」と揶揄されたようなものと受け取られるとすれば、日本国民末代までの恥と言うべきです。―――さらに、もう一つ言っておけば、こうした批判に対して、「みんなやってることなのに、どうして日本だけ責められなければならないんだ。それが悔しい」などという手合いも一部自称「エリート」の中に存在するようですが、それこそ、そうした下劣な行為それ自体をも正当化する、恥の上塗り的言説といわなければなりません。 こうした言説の下で、如何に多くの「一般ピープル」が泣かされてきたことか。(『必殺仕事人』の世界でしょう。)
    冷戦後のアメリカ、とりわけ、オバマ政権は、こうした主張をする国を、「恥ずべきやつら」とは思っても、決して、「尊重すべき」同盟国とは考えないでしょう。―――沖縄の同胞の苦難に対しても、意を決して問題の解決に取り組むといったことの無いこれまでの対応を考えると、「結局奴らは同胞沖縄を見殺しにするのさ」ぐらいに思われているのではないでしょうか。
 
(中略)
  
    時間が無いので、暫定的結論: アベッチの外交は、その「品位」の無さ故に、諸外国の信頼を獲得して真の友好関係を築くことは出来そうにありません。さらに、挙句の果ては、その結果生み出される孤立化を取り繕おうと、徹底的に「追従的」あるいは「屈辱的」な対応をとらざるをえなくなるのではないでしょうか。そして、それは、広範な国民に膨大な負担・犠牲-「負の遺産」を残すことになるでしょう。大言壮語していた、尖閣・竹島(「「ノーだ」政権時代とどう違うのだ)。そして、任期中に解決すると豪語する拉致問題、そして、沖縄。彼が示す、その真の「国益」とは到底思えない、幼い「自己中心的」なスタンスが、国際社会で通用することはないでしょう。また、病気になるしかないかもしれません。



  ―――お読みいただき、ありがとうございました。最後に、サロさんの写真を貼付いたします。今朝の、写真です。

  
 今朝のバラ園は気持ちよかったよ 





 友達もたくさんいたしね 




領土問題と「一般ピープル」―――国家の核心的利益?

   「領土」をめぐる紛争
           ―――幻想的な「国益」や「愛国主義的熱狂」



    最近のテレビ報道を見ていると、彼らは本気で、「国民」を〈戦争〉に向かわせようとしていると思わざるをえません。とりわけ、NHKなどを観ていると、何しろ、「領土問題」、「中国の脅威」、「北朝鮮の脅威」を〈過度〉かつ〈一方的〉に垂れ流し、視聴者の意識をあの愚かしい「権力政治」的枠組みの中に導き、アメリカとの「集団的自衛権」の行使と憲法改定(戦争の出来る国家)へと誘導しようとしていることは明らかです。

    しかも、それが危機的な水準に達しようとしていると思われるのは、それが、国民の「理性」にではなく、まさしく、「感情」に訴えようとしているところに見ることができます。以前から、エリート主義的な操作主義者たちは、「愚かな大衆」に対して、嘘であろうと、後からこっそり「訂正」しておくことにするにせよ、何しろ、ある一定の「印象」を植え付けることを最重要の課題と考えてきたと言っていいのです。(ハイカラな言葉で言えば、「イメージ戦略」)最近、笑ってしまったのは、どちらかというと童顔でかわいらしい声の中国女性報道官の 定例会見に「通訳」(?)の声が重さねられたのですが、それがなんともドスの利いた声で、また、北朝鮮の女性アナウンサーのような憎々しげな話し方をするのです。要するに、この放送局=NHKは、話の内容ではなくて、一定のイメージを大衆に刷り込もうとしているのです。あれは視聴者を馬鹿にしてますよね。

    私は、勿論、中華人民共和国〈政府〉や「北朝鮮」(朝鮮民主主義人民共和国)〈政府〉の主張を支持しているわけではありません。しかし、同時に、現在の日本〈政府〉とマスコミが示している方向性も明らかに誤っていると思うのです。「北朝鮮」との関係についてはまた別の機会にと考えていますので、今回は、ロシア、韓国、中国との間に見られる「領土」問題に関する私の意見を述べてみたいと思います。

    さて、教科書的に言うならば、「国家」と呼ばれる人間集団あるいは組織は、「国民」・「領域」・「主権」という三要素からなり、また、その「領域」は、「領土」・「領海」・「領空」に区分されます。そして、「領土」とは「領域」の土地の部分をさすのですが、「領海」・「領空」は、領海「12海里」というように、「領土」を基準に設定されますから、最も基本的なものと言えるわけです。そして、これらの三要素間の関係を簡単に表わすならば、「国民」が構成する「国家」は、それが領有する空間ー「領域」に、「主権」と呼ばれる、他の国家から「独立」した、排他的な「統治権」を及ぼす、というわけです。領土問題に対して、それを国家の核心的利益に関わる問題であると喧伝し、国家を構成するとされる国民の「愛国心」を煽り、領土獲得・防衛に向けた戦争に動員しようとする思考の枠組みはこのようなものであろうと思われます。だが、問題は、いうまでもなく、この「国民」なるものと「主権」なるものとの具体的関係であり、また、問題となっている領土と個別的な「国民」との具体的関係なのです。何やら、怪しげな政治勢力が、いわば「地球市民」的なものを「共同幻想」と呼んだようですが、実は彼らが最も価値をおいているらしい「国家」こそ「共同幻想」に基づいているものかもしれないのです。

    ところで、昨日の新聞で、中国共産党機関紙『人民日報』が尖閣諸島絡みで、琉球(沖縄)の帰属権問題に踏み込んだという記事を目にしました。要するに、琉球(沖縄)は中国の領土だという主張です。しかし、こうした沖縄の「住民」の存在を無視した、「国家」主義的権力者の物言いこそが、過度の単純化は禁物であるにせよ、ほとんどすべての領土問題・領土紛争の根底にあるのではないかと私は考えているのです。例えば、私が沖縄県民だとしたら、自分たちの頭越しに、北京の政府と東京の政府が自分たちの住んでいる空間を俺のものだと言い争っているわけですから、「ふざけるな!」と言うに違いありません。戦前の朝鮮半島をめぐる日清、日露の争いもそうで、もし私が朝鮮の「一般ピープル」だったとすれば、「お前ら何を勝手なことを言っているんだ!」と頭にきたことでしょう。こうしたことは、北方領土についてもいえて、元々アイヌ民族が生活の場としていた北海道・樺太・千島列島などに、遠いモスクワや東京(江戸)の政府が勝手に国境線を引き、民族を分断したり、強制移住させたりしたわけなのです。もし私が・・・・

    私がこのようなことを考えるようになったきっかけは、私の記憶に間違いがなければ、あの『最後の授業』で有名な、フランスとドイツの国境沿いにあるアルザス・ロレーヌ地方の人々の話です。そこは、元々、様々な民族が混住し、異なった民族間の結婚も当たり前で、バイリンガル、トリプルリンガルも珍しくない地域だったといいます。しかし、そこに産出する地下資源などをめぐってフランス政府とドイツ政府がその地域を奪い合い、住民に対してそれぞれの国家への同化政策を押しつけようとしたのでした。そして、そうした動きに対して、地域の人々は独立闘争も含めた抵抗を行ったといいます。全くもっともなことです。つまり、「一般ピープル」にとって、「国家主権」などという擬制的な概念に行き着く、国家主義的な統合など、迷惑千万なことなのです。

    韓国による、あの本来的には無人島である、竹島の領有権の主張と『実効支配』とは、そうした国家主義的な性格が非常に強く現れたもののように思われます。しかし、あの岩の小島の領有をめぐり、軍事的手段で『実効支配』を奪取するという選択肢は、ロシアとの北方四島の場合と同じようにあり得ないでしょうから、様々な外交的手段や経済協力、そして、何よりも、民間交流などを通して解決への道筋を探る以外に方法はないということでしょう。尖閣諸島の場合などは、さらに明瞭で、日中両政府による尖閣の帰属問題についてのやり取りの一方、日台漁業協定締結の動きなどを見るにつけ、私たちは、周辺海域でこれまで交流を続けてきた沖縄と台湾の漁民・住民の意見にこそ、真剣に耳を傾ける時であると思うのです。(沖縄 石垣と台湾 宜蘭漁民の交流会、などを参照)

    なにしろ、他国の侵略的、国家主義的な行為についての批判的視点を欠いてはいけませんが、同時に、それと同質の、安倍政権が振りまく、幻想的な『国益』や『愛国主義的熱狂』に取り込まれないこと、それが、今、「一般ピープル」にとって最も大切なことだと感じるのです。なぜなら、「一般ピープル」にとっての〈核心〉的利益とは、「領土」や「領土」をめぐって相争い勝利を得ることなのではなく、一人一人の命と生活であり、平和に生きる権利だからです。



つつじの季節




平和が一番―――そうだよね




  

SAROーMURIKI「つぶやき」選集(16) 

  2013年4月―――日本の政治的・経済的「情景」が三文芝居化してきました。

 ※ わが〈しもべ〉たる飼い主は、この二日ほど、本の整理と庭仕事で一日中働いていました。ということで、「ねえ、サロさん。領土問題は次にして、連休のブログはこの〈つぶやき〉で終わりだね」と言ってました。あんまり真面目に働くんで、別人の様で僕はちょっと変な感じがしました。


○ 沖縄基地問題について安倍とルース駐日米大使。俺たちの言うこと(辺野古沿岸部への移設)を聞けば、他のところはいつか(2022年度または『その後』)に返してあげるよと。「核持ち込み密約」の佐藤の甥っ子らしいやり口ということでしょう。日米権力者の綿密な連携による、日本国民への目くらまし。
 【追加】―――ほとんど何も変わらないにもかかわらず(0.7%、時期不明)、大げさに、かつ、得意気にパフォーマンスする。いやはや、小泉劇場の演出家のやりそうなことです。柳の下にどじょうは二匹となるのかな?

○ 安倍と主要な巨大報道機関が長時間の話し合いを持ったとのことだが、最近の各テレビ局の報道内容(用語や順番)の酷似していること。私は、戦争への道に警鐘を鳴らしつづけた石橋湛山の評論集を読んで感激したことがあるが、今のマスコミは、『リベラル』ですら絶対に無い!と確信しましたよ。 
 【追加】―――随分前ですが、複数のアメリカの青年たちが、マスコミの話になると「プロパガンダ!」なんて、馬鹿にした表情で言っていたことを思い出します。私などは性格が甘いものですから、日本のマスコミについてはそれなりに信頼していた部分もあったのですが、今は、やっと、その言葉の意味がわかってきたような気がします。

○ 風呂に入ったら、『バブル』という言葉を思い出した。黒田の『異次元の金融緩和』で、株屋や関連企業はフィーバーしているらしい。そりゃそうだ。最終的に国民の負担となる貨幣の過剰供給で奴等が儲けるわけだから。そして、「一般ピープル」はインフレとその後の増税で乏しい資産を吸い取られ苦しむのだ。
 【追加】―――いわゆる「貨幣供給量」を2倍にするんですか?まあ、正気の沙汰ではありませんよね。公共事業にしても、国債にしても、結局、「一般ピープル」の税負担ですぜ。もちろん、株主は株価が上がる訳で儲けるのでしょうし、また、資金を持っている連中は、インフレで手持ちの預貯金が減価する前に投資しておかなければ損をしてしまうことになるので投資を加速せざるを得ないのでしょうが、そうして株に誘導された資金は、円安の結果、外国人にごっそり買いたたかれてOUTということになる、ということですね。「一般」投資家の皆さん、お気の毒様。でも、さらに悲惨なのは、物価高だけ引き受けることになる「一般ピープル」です。

○ マスコミは、なにやら、アベノミクスの『危険性』とやらも仄めかしているが、「国民」全体に共通する中性的なリスクなどはないのだ。現代の社会政策は、立場によって利害が異なるのだ。一般ピープルにそれを気づかさせないことが最大の眼目。特権階層は、転んでも、「何か」を掴むのさ。
 【追加】―――「受領は倒るるところに土をも掴め」(『今昔物語』)と学校で習いましたが、まあ、日本の特権階層も似たようなもので、実直に生きている「一般ピープル」の生活を動揺させながら、「あぶく銭」を掠め取ろうというのだろう。『擬制資本』などという言葉もあるが、まったく、今のマネーゲームてのは実体的根拠のない幻想の世界の中でのお話ですよ。掴んだつもりが、毒キノコ、ということもありますが。

○ 原子力規制委員会が、特別点検すれば「40年廃炉」を「最長20年延長」だって?ということは、 彼らは、本気で再稼動を策しているということだ。深刻な事故と汚染を前にして、何を根拠に今こうした事を行うのか。あの「天下り」もそうだが、結局、お仲間の既得権益の擁護のためでしかないだろう。
 【追加】―――アベッチが中東諸国で原発を盛んに売り込もうとしているらしい。まあ、どこの国(とりわけ、独裁国家)にも「一般ピープル」を危険にさらしながら原発で儲けようとする輩はいるわけですが、まあ、冗談と言ってはいられない状況ですね。

○ どこのチャンネルを回しても、アナウンサーは必ず「挑発的言動を繰り返す北朝鮮は・・・」という枕詞で始める。ありゃ、確かに、全世界でそして絶え間なく、ミサイル発射実験や軍事訓練を繰り返している「戦争中毒」のアメリカとその同盟国のあり様をカモフラージュしようとしているだよね。つるんで!
 【追加】―――この枕詞、本当にすごいですよ。完璧に報道統制が行われていることを示していますよね。それは、「挑発」が一方的に行われていると印象づけようとしているが、米韓軍事演習は勿論、何やら,ピョンヤンの上空を米軍のステルス戦闘機が急降下と急上昇を繰り返したなんて話もあって(http://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20130407/frn1304071023001-n1.htm)、まあ、きな臭い限りではあります。トンキン湾事件やイラク戦争を始め、でっち上げさえ限りなくあるのですから。

○ それにしても、アホノミクスやTPP参加や原発再稼動やらを考えると、このある意味で「日本再生の好機」をまさしく「底なしの危機」に変えてしまう、あの嘘をつくことにためらう事の無い恥知らずの政治家たちの有様は、悲劇としか言いようがないよな。
 【追加】―――どうしたら、あのようにニコニコしながら、嘘八百を並べられるのでしょう。私の親の世代なら、「地獄で閻魔様に舌を抜かれてしまうよ」って言うところでは。もちろん、彼らは、本心、神様や仏様なんて信じてはいないでしょうから、気にもしてないのでしょうけれどね。

○ ふと、「奇跡の一本松」のことを思い出した。地元の人の考えはよく知らないが、テレビで見るかぎり、どう見てもあの枝は本物には見えないよな。また、今こそ自然と人間の関係を問い直す時で、やはり、あの場所には、ああした人工的なものではなく、本物の苗木を一本植えるべきだったと思う。
 【追加】―――それにしても、あそこは低い。防潮堤や護岸工事も必要だろうけれど、基本は、自然の「法則」と調和し、それを尊重しなければならないということだろう。あそこは、人間の「力」を見せつけるところではあるまい。苗木の成長とともに生きるところに未来があるのではないでしょうか。

○ なにやら「天下の大勢」がアホノミクスの受容や改憲に向かっているみたいな報道が多いのですが、私はそうは思わない。山口二郎先生も、今、日本は「ええじゃないか」だといってますが、私の生活実感からすれば、そんなことは無い。悪乗りしたお坊ちゃんと共感しあえる人はせいぜい15%!でしょう。
 【追加】―――私は、基本的に、現在の日本の「一般ピープル」は信じられる、あるいは、信じたいと思っています。そして、少なくとも、私の周りの人々は、アベノミクスで踊ってなんかはいません。連休の過ごし方も、私には、いつもより穏やかであったとさえ感じられるのです。違憲状態下の選挙、しかも、たかだか有権者の15%程度の得票で鬼の首でもとったような顔をしているけれど、4年前の総選挙を思い出すべきでしょう。

○ 今の日本政治の混迷は、本来ならば、「一般ピープル」の命と生活を守るはずだった政治家さんたちが、ずっこけて、日本政治の「黒幕」たる米日の巨大多国籍資本の「ふんどし担ぎ」たちと本気で対決し、明確な対案を示す自信を失っていることにあると思う。
 【追加】―――なにしろ、自民党は民主党が悪かった・信用できないと、ことあるごとに強調していますが、それは「可能な選択肢」としての民主党さえを押え込めば政権を維持できると考えているからなのでしょう。勿論、私たちも、腰砕けの民主党の「改心」を望まない訳ではありませんが、それよりも、たとえ少数であっても、勇気を持って「イスタブリッシュメント」の抵抗に立ち向い、「一般ピープル」の利益を増進するため闘う諸勢力の結集に期待したいと思います。要するに、腰が砕けているのですよ。

○ 勿論、私たち「一般ピープル」も「ふんどし担ぎ」に目を眩まされてはなりません。たとえば、私たちの命と生活を支える、保育労働や介護労働を「成長産業」などと、まさしく、企業の「利潤の増加」といった観点で論じる安倍を許しておいては、とんでもないことになるでしょう。
 【追加】―――あのつまらぬ、薄っぺらな台詞がなにか私たちに「幸福」をもたらすなどということは金輪際ありません。金持ちは別でしょうが、そこで働く人々にとっても、そこでサービスを受ける人々にとっても、こうした「商品経済化」の意味することはすでに経験済みのことだと言っていいのです。

○ また、女性の社会進出を、国内総生産のフローとしての増加やその結果としての税収入の増加につながるといった「視点」から論じる安倍なんかを許していては、女性労働力収奪の強化、さらに、男性労働者の低賃金化と労働強化、そして、その結果としての、家庭崩壊を推進することになってしまうだろう。
 【追加】―――男性労働者についても同じことなのですが、人間労働を企業の利潤増大や経済成長、税収の増加などと言う観点で捉え、扱っているところにこそ、若者の失業を始めとする様々な問題が生まれてくる根拠があるのです。経済観・労働観が貧困化しているのですよ。

○ 国際金融資本の太鼓持ちそのものである、OECDグリア事務総長は、盛んに安倍政権に「日本売り」をけしかけている。なぜ、競争相手たる彼らが歪んだ顔つきをしながら、アホノミクスの継続を求めるのか。それは、一般ピープルの負担(資産および税負担)によるインフレと株高、そして、円安で富を掠め取れるからだ。
 【追加】―――小泉・竹中路線の時もそうだったが、国債金融資本の〈同伴者〉たちによる「日本売り」はとどまることを知らない。それが、〈歴史的現在〉において景気回復につながるなどということがなぜ言えるのか、ぜひ分かるように教えてもらいたいものだ。景気が悪いのは溜め込んだ金を使わないからだというのなら、なぜ金を使わないのか説明してからにしてほしい。また、実体経済に全然照応してはいない多量の通貨量をさらに増やしてものを買わせようということらしいけれど、それって、借金を増やさせようという言う話ですよね。その借金の返済のめどは立っているのですか。デフレ脱却というけれど、通貨量を増やしてインフレ(物価高)にもっていって、誰が得をするというのかな。

○ どうせ、あの人達は自滅しますよ。間違いない!勿論、自滅の際に炎を被らせられてはかなわないので準備もしておかなければならないが、本当に手の付けようが無いね。あのアホぶりは!!さあ、寝よう。
 【追加】―――マスコミは必死だね。あとは、一般ピープルがそのプロパガンダを見抜けるかどうかです。

「昭和の日」に考えたこと―――主権者と天皇

 4・28 「主権回復の日」式典
          ―――「日の丸・君が代」の次は「天皇陛下万歳」ってわけか!



    『昭和の日』(昭和天皇の誕生日)の4月29日、「東京新聞』に昨日の「主権回復の日」の式典において、「天皇陛下万歳」の三唱が行われたという記事が載っていた。それを読んで、結局、彼らにとっての「主権の回復」とは、大日本帝国憲法・教育勅語体制下における「天皇主権」・「天皇崇拝」への回帰願望にほかならないのだなあと強く感じました。そして、彼らの言う「愛国心」(国を愛する心)も、これまた、同胞たる「日本国民」に対する愛情なのではなくて、「天皇」への愛情なのだとつくづく考えさせられてしまったのです。また、この式典は政府主催なのですから、これからは、学校現場で君が代を歌っているかどうかをチェックされたように、「天皇陛下万歳」と唱和しているかどうかが監視されるということになるのでしょうか。まるで、戦前ですね。

    天皇を担ぎ(政治的に利用して)、自らに「高い」価値を付与したり、政敵を抑圧したり、自分の意見と異なる者の口を塞ごうとしたりすることは、これまでの日本の歴史の中でよく見かけられたことかもしれません。大勢を前に、「天皇陛下・・・・万歳」とかけ声をかけ、人々をわが意のままに従わせようとしている輩の顔が見えるようです。しかし、こうした時代錯誤的な政治手法が、日本国憲法下の「主権者」たる国民に対して有効性を持ちえるのでしょうか。

    ところで、「国民主権」とは、「君主権」に対するところの「民主」政治の基本的原則の一つです。そして、「国民主権」を掲げる日本国憲法の「象徴天皇制」とは、大日本帝国憲法の「天皇主権」に対して、基本的人権の「主体」そして「主権者」たる一人一人の「国民」の「総意」に基づくものとして規定されているのです。すなわち、それは、一人一人の国民がこの国のあり方を決定する力=主権を有していることを相互に承認し合ったうえで、その一人一人の国民の意思が、一定の民主的プロセスを通して、「総意」という一種の擬製的表現で表わされることになったといってよいでしょう。ただ、実際のところは、象徴天皇制に反対の国民がいたことも当たり前のことなのであって、そうした意見・思想の相違にも関わらず、一人一人の国民がその国の「姿」について、自らの意見に基づきその決定に参加できるということこそが、国民主権の鍵ということになるのだと思います。

     そして、このことを一番明瞭に示しているのが、王室に対する敬愛の念が強いといわれているイギリスだと考えられます(もちろん、イギリスに留学した経験のある私の先生によれば、イギリスは、その中に民族的出自さえ窺われる、階級社会なので、その敬愛の念についても一概にはいえないのでしょうが)。例えば、近代民主政が確立されていく17世紀イギリスの市民革命期における、スチュアート朝と「市民」ー「国民」との関係を見れば、「国民主権」とは何なのかということが具体的に見えてくるように思われるのです。つまり、私の記憶によれば、イギリスの「市民」ー「国民」は、王の圧政に抵抗し、王制を打倒して共和制に移行するのですが、クロムウェルの死後には、王制を復活させます。しかし、この王がまた専制的性格を強めたとき、「市民」ー「国民」はまたもやこの王を追放し、自分たちの考えに近い、「君臨すれども統治せず」と表現される「非政治的存在」としての王を擁立することになるのです。こうした一連の過程を見るならば、王あるいは王制の存在を決定したのは、いうまでもなく、「主権者」としての「市民」ー「国民」であったのであり、そして、その王の存在は、何らかの神話に依拠し、神聖にして侵さすべからざるが如き存在として把握されていたのではなかったということがわかります。
     ですから、現在のイギリスにおいても、王制の可否についてさえ、一人一人の「主権者」たる「国民」が、自らの意見を自由に表明するということになるのです。これが、いわば、「国民主権」下の「君主制」というものなのではないでしょうか。

     これに対して、現在「天皇陛下万歳」を叫ばせようとしている人々は、公秩序への批判を封じる明治憲法下の天皇の権威を利用し、自らが「玉」を握ることによって、自分たちに都合の悪い「国民」の中における利害や意見の相違・対立を隠蔽・抑圧しようとしているのだといって間違いないと思います。(このことは、次回触れようと考えている「外敵」の脅威の強調とともに最も注意すべきことです。)
     ところで、私たち「一般ピープル」が自らを「主権者」として意識できる機会は、現在の政治システムの中では、きわめて少ないといってよいでしょう。逆に、私たちは、(擬製的的に抽象化された)「主権」の現実的行使を担う政府ー「統治権」者の「支配の対象」に貶められているといって過言ではないでしょう。それ故にこそ、私たち一人一人は、自らの人生の主人公であると同時に、透明で合理的な政治過程に「主権者」(共同的決定権者)として相互的に関係しあわなければならないということなのだと思います。そして、その際に最も根本的なのが、一人一人の「思想・表現の自由」を相互に承認しあうことであることはいうまでもないことでしょう。要するに、「主権者」とは、「天皇陛下万歳」を拒否したり、当たり前のように、天皇制それ自体を疑うことができる存在であるということなのです。
 
     さて、4月29日「昭和の日」(旧「みどりの日」)・・・・この元号を冠した国民の祝日は、 私たち「主権者」の人生を君主(天皇)の在位期間に従って区切ってしまうという問題性もさることながら、とりわけ、あの侵略戦争の最高責任者であった昭和天皇、そして、あの「屈辱の日」と密接に関連する『沖縄メッセージ』(たとえば、池田香代子ブログなどを参照)を発した昭和天皇の在位期間(「時代」)を、丸ごと一まとめにして祝うということになるのであって、私は、やはり、大きな抵抗感を持たざるを得ないように思います。その背後には、そうした歴史を正当化しようとする何らかの政治的意図があるといわざるを得ないでしょう。政治権力を志向し、自らの利益のために天皇制を利用しようとする輩の存在をわすれず、そして、天皇一家の人々の本当の幸せも考え―――正直、気の毒な気もする―――、私たち「主権者」は、天皇制についてもう一度しっかり考える必要があると思うのです。


 ※ PCの再設定などでブログの更新が遅れました。今日は「憲法記念日」です。改憲の話が盛んに出されていますが、次回(明日?)は、領土問題や中国・北朝鮮の脅威の問題について述べてみたいと考えています。


    
プロフィール

SARO MURIKI

Author:SARO MURIKI
おりこうさんのワンワンです。年齢は、2018年11月現在満12歳です。見てのとおりの柴ですが血統書はありません。性別はオスで、飼い主には、朝夕、45分ずつ2回の散歩を義務付けているVIP犬、正確に言うと、VIDです。文句あっか?!

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