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合唱曲―――日常からの不可思議な脱出

  今年の夏の家族旅行は―――合唱曲で盛り上がったりして

 
プレミアム・ツイン・ベスト 合唱ベストプレミアム・ツイン・ベスト 合唱ベスト
(オムニバス) 合唱団京都エコー 大田区立東貼付第一小学校 神代混声合唱団 福岡県合唱連盟合唱団 茨城県日立市立台原中学校 西六郷少年少女合唱団 長野県長野市立櫻ヶ丘中学校

EMIミュージックジャパン 2010-06-29
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     今年の夏の家族旅行に、私は、上記のCDと『クラス合唱曲集 ニューヒットコーラス ラベンダー版 第4巻』を持っていきました。長距離走行による眠気覚ましのためだったのですが、それがなかなか評判が良かったのです。理由は、子供たちが中学時代の合唱コンクールなどを懐かしく思い出し、楽しんで歌えたことにあったようです。勿論彼らの持ち込んだ音源はゲーム音楽だったのですが、彼らも合唱の魅力は否定できなかったようです。

     ところで、なぜ私が合唱曲を聴いたりするのかというと、それは、私自身が学生時代から合唱にそれなりの興味関心を持っていたということにあります。あまり口にしたことはないのですが、実は、私は学生時代に合唱サークルに入ろうとしたり、また、短期間ですけれども実際に活動した経験もあるのです。一つ目は、かなり大規模な混声合唱団に入ろうとしたのですが(私の声は「セカンド・テナー」というパートに属するのだそうです)、そのあまりにも”ハイソ”な(あるいは“ブルジョア的”な)雰囲気に違和感を感じて入団を止めたのです。もう一つは、小規模な合唱サークルへの参加で、ほぼ半年間程練習したのですが、「時代」の流れの中で活動を止めることになってしまいました。このように、歌を十分に歌うことはできなかったのですが、なぜか、合唱曲に魅力を感じるところがあったわけです。

     そうした私が再び合唱曲を聴くようになったのは、子供たちの影響によってでした。とりわけ、娘が小学校の頃から合唱のピアノ伴奏をする機会が多かったので、その練習を聞いたり、一緒に歌ったりすることが度々あったのです。一番印象に残っているのは、「明日の空にはばたけるつばさを」で、妻と次男と私が協力して合唱したことを鮮明に記憶しています。また、中学校の卒業式の式歌「旅立ちの日に」の練習も―――勿論、当日のこともですが―――懐かしく思い出されます。その練習のために使ったのが『クラス合唱曲集 ニューヒットコーラス ラベンダー版 Disc4』なのですが、それが今や私のお気に入りの一枚になっているのです。音楽というのは、まさしく再現芸術であり、演奏者によって同じ曲が全く違った印象を与えるのものですが、このDisc4に収録されている演奏はどれもこれも繰り返して聞くにたえる実に素晴らしい演奏だと思います。特にその中でも田舎者たる私を惹き付けているのが、「大地の歌」(詩:谷川健、曲:熊谷賢一、指揮:平松剛一、ピアノ: 奥田和、平松混声合唱団)です。私は、子供たちの合唱祭でよく聴く「大地讃頌」よりもこちらの方が好きです。それにしても、このCDに収録されていた「旅立ちの日に」は、中学生が歌っていたのですね。本当に凄いです!!!

     さて、『プレミアム・ツイン・ベスト 合唱ベスト』の方も大変良い企画です。特にDisc1は、身近で有名な曲が多く、非常に楽しく聴けるアルバムになっています。とりわけ、子供たちに「受けた」のは「マイバラード」で、大変懐かしがっていました。私にとっては、「グリーングリーン」がグッと来ましたし、また、松原混声合唱団の「千の風になって」は同年輩の方々にも是非聴いていただきたいと思う作品です。それにしても、秋川雅史さんはどうしてこの曲をあのように歌うにも聴くにも息苦しく感じる編曲にしたのでしょう。声楽家の「意地」でしょうか。 Disc2も技術的にはこだわりも感じらるのですが、大学生のグリークラブを中心にしたその演奏には、今ひとつ情景を彷彿とさせるような「迫真力」の欠如が感じられるように思われました。そして、子供たちのリクエストは、ヤング101の「怪獣のバラード」でした。

    さて,私にとっての合唱曲の魅力とはなんなのでしょうか。これも不可思議で、そう簡単には答えられそうにありません。しかし、どうやら、それが持つ一種独特な雰囲気に関係がありそうです。つまり、あの私の感性に直接働きかけてくるような曲想と歌詞の双方が、「一体感」あるいは「共同性」への憧憬とでも言えそうな、あるいは、「人間」の美しい〈理想〉的情景といったようなものを、現実の日常生活から一時的に離れてですが、思い出させてくれる、そんなふうに感じられるのです。私たちは,この世知辛い競争社会の中で、その孤立化効果に曝されながら生きていますけれど、合唱曲は私たちが望んでいるのはこんな状況ではないのだと訴えているようにも思われるのです。確かに,こうした合唱の世界を、虚偽の、欺瞞的世界と受け取ることもできるかもしれません。しかし、それらは、我々が私たちの関係性の中に確実にあるであろう「共同的なもの」を、非日常的な世界の中においてであれ、思い起こさせてくれると言っていいのではないでしょうか。もし,そうした時をすら持たないとすれば、私たちの意識の中における「共同的なもの」は本当に枯れ死んでしまうかもしれません。「君が代」斉唱の強制に見られるような欺瞞的方策によってではなく、皆が個を大切にしながら自然に「共同性」を歌い上げることができる社会、そんな社会を合唱の歌声が私たちに想起させてくれているのかもしれません。



       「国歌」には「さくらさくら」を!


【参考資料】

『クラス合唱曲集 ニューヒットコーラス ラベンダー版』
ディスク:4
1. 明日の空にはばたけるつばさを 日野混声合唱団 
2. 明日にわたれ 神代混声合唱団
3. 君と見た海 平松混声合唱団
4. 新しい世界へ 日野混声合唱団
5. 時の旅人 混声合唱団東京カンマー・コーア 
6. 大地の歌 平松混声合唱団
7. 旅立ちの日に 堺中学校合唱団
8. Yesterday Once More 平松混声合唱団
 (9~16はカラピアノ)


『プレミアム・ツイン・ベスト 合唱ベスト』
ディスク:1
1. あの素晴しい愛をもう一度 茨城県日立市立台原中学校
2. 贈る言葉 小平市立小平第五中学校
3. グリーングリーン 大田区立東貼付第一小学校
4. 信じる (混声合唱とピアノのための「信じる」より) 松原混声合唱団
5. 巣立ちの歌 杉並混声合唱団
6. 千の風になって 松原混声合唱団
7. 空駆ける天馬  新津市立新津第一中学校
8. 大地讃頌 (混声合唱のためのカンタータ「土の歌」より) 杉並混声合唱団
9. 翼をください  西六郷少年少女合唱団
10. 名づけられた葉 コール・フロイント
11. 涙をこえて 神代混声合唱団
12. 野生の馬 長野県長野市立櫻ヶ丘中学校
13. 山のいぶき 調布市立神代中学校
14. マイ バラード 斐川町立斐川西中学校
15. 瑠璃色の地球 福島県立安積女子高等学校合唱部
ディスク:2
1. 流浪の民 合唱団京都エコー
2. 秋の日ぐれ 早稲田大学グリークラブ
3. 上を向いて歩こう 慶応義塾ワグネル・ソサエティー男声合唱団
4. 音戸の舟唄 同志社グリークラブ
5. 風  関西学院グリークラブ
6. かぞえうた 同志社グリークラブ
7. 鴎 (混声合唱組曲「夢みたものは」より) 松原混声合唱団
8. 君といつまでも 関西学院グリークラブ
9. 斎太郎節 関西学院グリークラブ
10. 島原の子守唄 同志社グリークラブ
11. 柴の折戸 (江戸子守唄) 慶応義塾ワグネル・ソサエティー男声合唱団
12. 涙くんさよなら 慶応義塾ワグネル・ソサエティー男声合唱団
13. はるかな友に 関西学院グリークラブ
14. 河口 (混声合唱組曲「筑後川」より) 福岡県合唱連盟合唱団・長崎合唱連盟合唱団
15. 怪獣のバラード ヤング101




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私にとって「愛国心」とは何か(5)―――同胞愛と国家愛(1)

  同胞愛と国家愛(1)
      ―――「〈開かれた〉ナショナリズム」と「〈閉ざされた〉ナショナリズム」



     前回は、いわゆる「日本人」なるものが、おおまか(というのは、それらはさらに細かく分類できるのだろうから)、南方系の「縄文人」と北方系の「弥生人」と呼ばれる人々の「混合」によって形成されてきただろうことを確認しておきました。そして、そのことは、戦前の「天皇制国家」のイデオロギー=「家族国家」観を政治的に利用したい勢力は別として、動かし難い歴史的「事実」として認められていると言ってよいでしょう。

     また、天皇家(氏族)の出自についても、現在は宮内庁によって封印されている古墳の学術的調査とその公表が実現されれば、その「事実」はさらに明確になっていくはずです。元々、他国の王室を見てもわかるように、皇室と「国民」が同じ血族・部族でなければならないといった「必然性」などないわけで、恐らく、学者ぞろいの天皇家の人々こそ、内心は、その「事実」を明らかにしたいと願っているとすら想像できるのです。

    ところで、こうした「事実」に対して、極めて消極的な姿勢を示す勢力が残存していることも事実です。しかし、その理由は、結局、そうした一部勢力が、天皇家の「神話」を政治的に利用し、自分たちを正統化したいと望んでいるからとしか考えられません。明治維新以降に建立された靖国神社に関連する問題もその典型的な事例で、東条英機らA級戦犯が合祀された1978年以降、昭和天皇が靖国神社への参拝を行わなかったことも、こうした脈略のもとでこそ理解できるのです(http://tamutamu2011.kuronowish.com/tennnoumemo.htm、などを参照)。すなわち、A級戦犯が「昭和殉難者」として合祀されて以降、中曽根康弘元首相など自民党政権の政治家たちは、個人としてではなく、内閣総理大臣など日本国を代表する立場で盛んに「公式参拝」をしようとしたのですが、それは、まさしく、彼らが、A級戦犯が指導した戦前の侵略戦争を、「(戦後)国家」の代表者として「正当化」しようとしたからだと言えましょう。そして、こうした状況の中で、天皇が靖国神社に参拝することは、あの無謀な侵略戦争を愚かしくも無責任に指導し、膨大な犠牲者と「屈辱」を生み出した戦争指導者たちに「日本国民統合の象徴」たる立場で頭を下げ、そのことによって、あの侵略戦争を「正当化」することに利用されてしまうことに他なりません。昭和天皇の戦争責任については別途論じられなければならないとは思いますが、この点については、そうした策謀に不快感を示し、そうした勢力との「共犯」関係に取り込まれることを拒否した昭和天皇の姿勢は、『日本国憲法』下の天皇として、極めて適切なものであったと私には思われるのです。

     さて、先のように、「日本人」ー「日本民族」を縄文人と弥生人の「混合」(ミックスあるいは「ハイブッリッド」)と把握する視角は、それを、沖縄(琉球)やアイヌ民族、そして、朝鮮や中国など当時の東アジア文化圏、また、遥か中国東南部やインドネシアなどの東南アジア文化圏との関係で、さらには、「人類」の始原、そして、遂には、「生命」の根源とのつながりの中で把握する方向性を示すことになるでしょう。このような視角で把握された「民族」は、閉じられた、〈他〉者あるいは〈外〉なるものとの「宿命」的な敵対関係の中でではなく、開かれた、つまり、その差異・多様性を〈自ー他〉あるいは〈内ー外〉を貫通する「つながり」の中で楽しむことのできる存在として、あるいは、固定的なものではなく、変化・変容しさえするものとして認識する、いわば「〈開かれた〉ナショナリズム」とでも表現しうるようなものに結びつくと考えられましょう。それは、共に生きる「世界(家族・地域・国・・・)」の中における「他」者への興味や関心、相互依存や愛情など、いわば、極めて原初的な「隣人愛」から出発した「同胞」意識と言ってもよいものと思われます。例えば、海外旅行に行きたいと思う気持ちのほとんどは、こうした方向性にあることでしょう。

     しかし、「共同的」な意識は、もちろん、こうした方向性にだけ向かうのではありません。すなわち、内向きの、〈閉ざされた〉方向性に向かう傾向性も同時に存在するのです。例えば、親子をはじめとして、「個ー個」そして「個ー集団」との予定的調和はあり得ないでしょうし、さらに、「共同体」内部あるいは「共同体」間での支配ー従属関係に伴う緊張や矛盾に媒介されることによって、その「共同的」な意識は、〈閉ざされた〉方向性に陥る可能性があるのです。とりわけ、近代の「革命」と「戦争」の時代にあっては、権力的な組織体である国家に媒介された「〈閉ざされた〉ナショナリズム」が形成された場合も多かったのも事実だと思われるのです。そして、その最悪の形態は、「民族」間の敵対性を、相手を同じ「人間」と見ない「差別心」―――例えば、DNAにまでその根拠付けを求める固定的・宿命的なレイシズム―――によって根拠づけようとするものです。そのような観点からすると、「日本人」と「朝鮮人」・「韓国人」が、「血族」という観点からすると、共通の「祖先」から発しただろうという「事実」は、きっと、不都合なものなのでしょう。最近のヘイト・スピーチに見られる差別性もこうしたところに根を持つのかもしれません。

     時間の都合上、今回は、この辺で切り上げます。次回は、「ナショナリズム(民族意識・国民意識)」が生まれてくる根拠について、歴史貫通的な側面と歴史的な側面から考えてみたいと思います。その作業は、とりわけ、「〈閉ざされた〉ナショナリズム」を乗り越えていくために必要な作業と考えられるものです。


―――サーバントさんは、長い氷河期に適応して生き抜いてきた種族の子孫らしいって言ってたけれど、それってどうしてわかったの

―――それは、血が濃いんですよ(苦笑)。ところで、「日本犬」の代表のような顔をしているサロさんも、立派な「縄文犬」だよね。DNAのレベルで言うと、私たちも、結構長い付き合いということになるかもしれないよ。


     

私にとって「愛国心」とは何か(4)―――「日本人」とはなにか(2)

 「日本人」とは何か(2)  縄文人と弥生人
        ――― 要するに、『日本人』と言っても、〈多様〉なのだ!
 

      
     私は、この夏に、青森県の三内丸山遺跡を訪れることができました。この遺跡は縄文時代前期~中期(約5,500~4,000年前)の大規模集落で、私にとっても、まさしく『縄文文化の扉を開く―――三内丸山遺跡から縄文列島へ』(国立歴史民俗博物館編集、2001年)ものでした。そこで展示されていた縄文人たちの遺跡・遺物に接したとき、私はえも言われぬ感動を味わったものです。
     
     ところで、皆さんは、『海上の道』(岩波文庫、1978年)という柳田国男晩年の著作を読んだことがあるでしょうか。この本は、いわゆる「日本人」の起源を探った書で、「遠い昔、日本民族はいかなる経路をたどってこの列島に移り住んだのか。彼らは稲作技術を携えて遥か南方から『海上の道』を北上し、沖縄の島伝いに渡来したのだ・・・」という柳田の仮説が提示されたものです。また、本書の解説の中には、この柳田説の意義について、次のような中村哲氏の見解が紹介されていました。
    「稲作文化を伴う弥生式土器の南限は沖縄の先島には及ばないために、考古学の領域では、北方からの文化南下説を有力にしているが、柳田もそれに正面から反対しているわけではない。しかし、・・・・原日本人の渡来については、沖縄の人と文化が南方とのつながりを持つことに注目して、その論理の延長の上に考えようとする思考がある。・・・・それ(柳田の仮説)は北方からの文化南下説を正面から否定しているわけではないが、あたかもそれは有史以後のことで、原日本人そのものが始原の時代においては南から島づたいに漂いついたもので、その際、途中で離島に残ったものが原沖縄人であるというもののようである。」
     
    ところで、私たちは、昨年、柳田説にも関連する、次のようなニュースに接しました。

    「日本人の遺伝的な系統はアイヌ(北海道)と琉球(沖縄県)が縄文人タイプで、本州・四国・九州は縄文人と弥生系渡来人との混血とみられることが、東京大などのゲノム(全遺伝情報)解析で分かった。約100年前に提唱された「アイヌ沖縄同系説」を裏付ける成果で、1日付の日本人類遺伝学会誌電子版に論文が掲載された。」(http://sankei.jp.msn.com/science/news/121101/scn12110108070000-n1.htmを参照)

    私たちは、小学校の段階から、縄文文化と弥生文化の区別について学んでいましたが、もし、私たちが「日本人」=「列島人」の起源と言う問題を設定するとすれば、上記の記事のように、そこには〈縄文人〉と〈弥生人〉という身体的そして文化的特徴に相違のある二つの「血族」、「部族」の存在を前提とするということになるのです。そして、その両者の関係(混血など)を考えていく中でこそ、私たちは「日本人とは何か」という問への答えを探り当てられるであろうというわけです。

    ところで、私が小学生の頃には、稲作と金属器に象徴される弥生文化を日本列島にもたらした渡来人たちは「帰化人」、すなわち、外国から渡来し「日本人」になった人々と呼ばれていたと記憶しています。しかし、元々、日本列島に住んでいた「(原)日本人」とは「縄文人」だったのであり、柳田説やゲノム分析で判断する限り、彼らは南方から「海上の道」づたいに日本列島に移り住み、九州から北海道までの広い範囲で「縄文文化」を花開かせた人々であったのです。そして、これらの縄文系の「(原)日本人」たちは、朝鮮半島から渡来した弥生系の人々によって、九州では隼人(熊襲)、東北地方では蝦夷(えみし)、北海道ではアイヌなどとよばれることになったというわけです。こうした縄文系の人々については、最近ではNHKの『アテルイ伝』の阿弖流為、そして、(これは創作ですが)『もののけ姫』のアシタカなどのように、その文化をも含めて、大いに注目されることになっていると言ってよいのです。また、かなり前ですが、奥州藤原氏がそのミイラの特徴から蝦夷系であるという報道もありました。そこから推察すると、古代末期から中世にかけ、(桓武平氏、清和源氏といった)棟梁レベルは別ですが、土着の武装した縄文系の人々が地方武士団の形成に関わった可能性は大いに考えられるといってよいでしょう。実際、九州の話になりますが、西郷隆盛や大久保利通などの薩摩藩の下級武士に、薩摩「隼人」といいましょうか、南方縄文系の人々の特徴を感じることができると思うのは私だけではないでしょう。

     ところで、「日本人」の起源については、一時、江上波夫氏の「騎馬民族(征服王朝)説」などが話題を呼んだこともありました。しかし、基本的には、先の記事にも明らかなように、紀元前4世紀頃から、大陸(朝鮮半島)の北方弥生系の人々が、九州北部から日本列島全体に広がり、縄文系の人々との『混血』がすすんでいったと考えて良いようです。そして、「最終的に、現代日本人は、平均として、およそ北方弥生系7~8割、南方縄文系2~3割の比率で混血しているというのが、最近の人類学の結論」なのだそうです。我が家でも、どちらかというと、私が弥生系、妻が縄文系と言った趣があり、子供たちもそれぞれ微妙に両者の特徴を分有しているようなのです(笑)。

     そうなりますと、次に問題になるのは、両者の『混合』の有様です。そして、この点については、私の短い人生の中でも、結構面白い話を色々と聞かされていたのです。

     まず第一は、私が埼玉に住み始めた頃、同僚から、埼玉県には高麗(こま)や新座や志木など朝鮮に由来する地名が多く、昔から埼玉県に住んでいる人々の80%には朝鮮系の血が混じっているだろうとの話でした。さらに、それらは高句麗系とか新羅系とかいうことですから、紀元前4世紀からヤマト王権の確立に至る長い過程では、朝鮮系の数多くの部族・氏族が日本列島に渡来したであろうことが推察されるわけです。そして、この弥生系の渡来人の中には、当然、天皇家も含まれるのであって、この点については、大学で歴史を教えていた昭和天皇の弟である三笠宮が、「皇室が朝鮮半島から渡ってきたことは間違いないでしょう」と授業で言っていたという話を、私は学生時代に「友人」から聞いていたのです。このことは、今上天皇の「談話」―――「私自身としては,桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると,続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く,この時以来,日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。また,武寧王の子,聖明王は,日本に仏教を伝えたことで知られております。」(2002年3月)―――の中にも窺われるところです。要するに、その出自が百済系であるのか伽耶(加羅)系であるのかといった議論は別にして、天皇家が弥生系渡来人の系譜に属することは疑いないことと思われます。

     こうした見方については、神話の「ナイーヴ」な受容に基づく『皇国史観』の熱烈な信奉者は別でしょうが、すでに『記紀』の建国神話それ自体の分析の中からもほぼ常識的なものとなっているのです。たとえば、次田真幸氏は、『古事記』上巻の神話を、高天の原神話群・出雲神話群・筑紫神話群の三つに分け、それをもとに、北方系(とりわけ古代朝鮮系)種族と考えられる天孫系氏族(天皇氏族)と、本源的には南方系(とりわけ南西諸島や沖縄との関連が注目される)だが大陸・朝鮮半島との関係も深く農耕及び漁労を経済的基盤とする社会を形成していた出雲系氏族(「国譲り物語」の大国主はとりわけ有名)、そして、九州南部の海人族系氏族(インドネシア系の種族と考えられる隼人族は有名)との関係を論じているのです(次田真幸・全注釈『古事記(下)』、講談社学術文庫、1984年、の「解説」を参照)。すなわち、建国神話のレベルにおいても、日本列島の様々な歴史的時点において、「渡来」系と「土着」系(縄文系あるいは先行の弥生系渡来人)との確執と抗争、妥協と融合が展開されたのであろうことが推察されるのです。

    このことは、3世紀後半以降の「大王」(天皇氏族)を中心とするヤマト王権自体を「新参」の渡来系氏族を〈中心〉とする連合政権と考えることに繋がります。ところで、時代は下りますが、ヤマト王権内部における蘇我氏を代表とする「渡来」系氏族と物部や中臣を代表とする「土着」系氏族との対立はよく知られているところでしょう。それでは、氏は何にせよ「新参」の渡来系氏族が元々使用していた言語とはなんだったのでしょうか。勿論、それは朝鮮系の言語です。すなわち、ヤマト王権内では、「渡来」系の朝鮮系の言語と「土着」系の「ヤマト言葉」が拮抗して使用されていた可能性が高いということなのです。(そして、宗教的には、「渡来」系の仏教と「土着」系の原始宗教(国つ神)の対抗です。)この点に関連して記憶に新しいのは、本木雅弘主演の『聖徳太子』(NHK,2001年)です。いうまでもなく、「聖徳太子」は、百済と縁浅からぬ渡来系の氏族ー蘇我氏の血をひく人物で、蘇我馬子とともに天皇中心の中央集権体制を築いていった人物といわれています。そして、この番組のなかでは、なんと、「もうそろそろ(「朝廷」内で)ヤマト言葉を使いましょう」と言った台詞が出てくるのです。私は、思ったものです。あり得る、あり得ると。つまり、この「ヤマト言葉」なるものがどのように形成されてきたかは不明ですが―――おそらく、南方系の縄文人たちの言語と北方弥生系の〈先行〉渡来人たちの言語との「混合」だったと想像できますが―――、「新参」の渡来系氏族にとっては、「津軽弁」と「薩摩弁」と同様に、始めは意味不明なものだったのではないでしょうか。

     私にとっては、現在了解可能な同じ言語を用いて共に生活している人々の出自が、縄文系であろうと弥生系であろうと、また、朝鮮系であろうとインドネシア系であろうと、どうでも良いことのように思われます。ただ、私たち「日本人」を、戦前の天皇制を支えた、「血族的・同族的な文化的統一体」といった観念で理解することだけは誤りだとはっきり認識しておく必要があります。柳田民俗学は、そうした偽りの画一化に抗して、日本〈民族〉の「多様性」と「常民」レベルでの〈接触・混合〉を明らかにしようとしたものだと私には感じられるのです。すなわち、日本人とは、「純血種」などではなく、争いながらも和してごちゃごちゃに混じりあった、多様性を有するいわゆる「雑種」(ミックス)なのであり、その「雑種」性の中にこそ、その「特質」あるいは「固有性」が形成されていったといわなければならないのだと思います。このように考えれば、天皇家の「万世一系」(それ自体疑わしいのですが)などは、「日本人」どころか、朝鮮半島からの渡来系氏族(百済系?加羅系?)のY染色体(男系遺伝子)の「純粋」性を維持するということになるのですから、歴史的に形成されてきた「日本人」からますます離れるものとなると言って過言ではないでしょう(→「女性天皇」当然のことです)。

      こうした日本民族の多様性と人民的なレベルでの「統一」=「混合」の有様を認識することは、明治国家によって上から形成された、「過剰同調」をすら要求する画一的な「民族」論=ナショナリズムを否定することになるとともに、国家形成以前の水準において民衆自身が形成・維持してきた多様な「民族」性を再発見し、それを楽しむことに繋がるでしょう。また、その「民族」性とは、多様性の統一としての個性を持つと同時に、国境を越えた開かれた性格のものでもあるはずです。私たちが〈愛する〉「日本人」とは、そうした「民族」だと思われるのです。

     次回の『私にとって「愛国心」とは何か(5)』は、同胞愛と国家愛について考えたいと思います。

僕の夏 2013―――今年の夏はおかしいぞ?!

  2013年 8月 ―――

  
おや?サロさん 色っぽいねえ





       ※ 散歩かい? 外は暑いよ でも、行ってみますか


   

まずは威風堂々出発だい





  
    ※ 僕から散歩とご飯を除くと何が残るかな。そりゃ、サーヴァントさんでしょう!ナンチャッテ。Ha,Ha,ha



ところが、すぐ給水ということに






    ※僕らの種族にとって不都合なのは、ニャンコと違って鎖骨がないことと(だから、猫パンチができないんだ)、人間と違って前足が自由に動かないことなんだよね。ねえ、早く、蛇口をまわしてよ。 




きれいな花もあるけれど





※ とにかく、暑い




    ※これは古代蓮なんだよ。 埼玉県には遺跡が多く、埼玉(さきたま)古墳群の傍には大きな古代ハスが咲いているところもあるのさ。




それにしても 僕は、もうだめだ





 ※ 土だと少し穴を掘ってそこで休むんだけれど、コンクリートじゃねえ。
  でも、ここは日陰で、風が少し通るよ。 





そして、 家の中ではこの通り

  

 

    ※ 全身毛だらけなもんで、何しろ蒸れるんですよね。あと、夜になっても、道が熱かったり、花火の音がうるさかったりするんで、今年の夏初めて、夜の散歩を拒否したんだよ。家族全員が、ビックリしたんだ。病気じゃないかって、 Ha,Ha,ha


僕が散歩拒否なんて、信じられますか 



 

SARO-MURIKI「つぶやき」選集(20)――シリア情勢はどうなるか

 2013年8月  このところの「異常気象」ーーーたまらないね! 

  


でも、アベやアソの政治を見れば

そりゃー、お天道様だって 怒りますよ!




   ※ 原発にしろ、消費税にしろ、TPPにしろ、こんなに明々白々なのにどうして多くの人はそれを許しているんだろう。そこで、私は、『生きる』の左卜全風につぶやく。「どうも わからない・・・」 歳をとってくると感覚も鈍るのだろうと思って、女房に聞いてみた。すると、「自分に累が及ばないと思っている限り、得した方が良いと思っているんじゃない」と。う~む。でも、「特別警戒警報」が出た時は遅いんだよね。このままだと、日本は、日本のイスタブリッシュメントがしがみつく原発と海外派兵と多国籍資本の利益ために滅びるしかないことになるのではないか。サロさん!そりゃ、まずいよ。

 「日本の政治は、もうアカン!」に対する予想される反応―――
安倍内閣総理大臣:「アジャべー!」
麻生財務大臣:「アッソー!」 
      どちらも、座布団2枚とっちゃうレベルで・・・”もう絶対” アカン!!

【追記】 アベッチについては、国際的には、本当にもう(エノケン風に)「あじゃぱー」でしょう。真の信頼関係と呼びうるものなどもうどこの国とも絶対に無理ですね。ひまがあったら、もう一度、「安倍の〈デジャアベ〉政権(1)(2)(3)」を見ていただければと思います。
(1)アホノミクス  http://sarochan.dtiblog.com/blog-entry-92.html
(2)ジコチュウ・御坊ちゃま外交 http://sarochan.dtiblog.com/blog-entry-94.html 
(3)ダイヤモンド安保構想  http://sarochan.dtiblog.com/blog-entry-95.html
     アソ太郎については、彼が推薦する『はだしのゲン』を是非読んでいただければと思います!ただ、私が推察するに、彼はちゃんと読んでないんじゃないですか。とりわけ、5巻~10巻は。もし、ちゃんと読んでいて推薦するというのであれば、私は彼を見直してしまいますよ。いわば、麻生財閥の自己否定ですからね。

山本太郎ネガティヴ・キャンペーンが現実化してましたね。離婚報道に対する記者会見を見ましたが、読売にしても、新潮にしても、高い給料とって、エリートぶって、やってることはこんなことか。見え透いていますね。山本は、マスゴミの実態まで見せてくれる。あんたは、えらい!!!

【追記】 私は、〈ゴシップ〉報道のすべてを否定するわけではありませんが、もしそれをマスコミがやるとしたら、最低、ワケも分からないファンや信者がたくさんいる権力保持者に対してでしょう。つまり、「偽りの仮面」を剥ぐということかな。でも、政治家=公人にはプライバシーはないとはいいますが、今回の山本太郎の場合などは、明らかに、原発推進勢力が仕掛けた、「軽佻浮薄な大衆」に対するネガティヴ・キャンペーンですよね。しかし、山本太郎の支持者はもう少し自立的で主体的な人々が多かったと思います。残念でしたね。『化けの皮』が剥がれたのはあなたたちの方でした。

今、話題の『はだしのゲン』の中に出てくる、 「イヌアッチケー」って言うゲンの言葉おぼえてますか?!特に、最近、 NHKニュースを見るだびに、心で叫んでしまいます。

【追記】サロさんなんて怒ってしまいそうな言葉ですが、本当に、「大本営発表」ですからね。私は若い頃には受信料を払っていませんでしたが、この20年ぐらいは払っています。なぜかというと、大変優れた特集番組やドキュメンタリー番組も見られたからです。この点は、いまも一応いえると思います。しかし、ニュースはいけません。あれは、完全に権力(イスタブリッシュメント)の「イヌ」です。犬にも色々いますけれどね。

チェルノヴィリの悲劇がペレストロイカ(グラスノスチ)を生み、そして、ノーメンクラツーラの支配を終焉に導いた。しかし、今、1945年の戦争処理を彷彿とさせるような、フクシマの状況に唖然とせざるを得ない。フクシマの「責任」を問うことなしに、被害者の救済も汚染への抜本的対策も不可能。

【追記】冷戦を終結させたのはゴルバチョフに間違いないが、その彼をペレストロイカに導いたのはチェルノヴィリの原発事故であったらしい。原発事故に対する対応をみて、当時のソ連の支配層を形成した官僚機構の改革なくしてソ連の再生はないと判断した、と。今の日本でいえば、自分たちのセコい利益のために被害を一般ピープルに押し付け、嘘をつきまくって自己保身を図っている「原子力村」と「シロアリ」を退治しなければ日本の再生はない、ということでしょう。しかし、日本の場合、政府自身がよりも悪質な原発政策を推進した張本人たちでしたから、一般ピープル自身がその政府の頭をすげ替えるか、せめて原発廃棄に向けた「共同戦線」が組めるかどうか、それが鍵となるということでしょう。


一週間前、「『はだしのゲンはピカドンを忘れない』を読む」というブログ記事を書きました。日本人自身が「戦争責任」を明らかにしていくこと、それが彼の主張の鍵でした。フクシマの事故責任を明らかにしていくこと、それが今を生きる私たちの責任です。

【追記】今日(9月1日)、日比谷公会堂で行われた「9・1さようなら原発講演会」を聴いてきました。小出裕章さんや落合恵子さん、そして、ザ・ニュースペーパーという漫才(漫談)の安倍や小泉のマネなど、実に興味深い内容でした。そこで感じたことは、日本という国は、本当に、一般ピープルの生活と意見が大切にされていないな、というものでした。しかし、そのことは、一般ピープル自身が主権者としての自覚を持ってその役割を果たしていないから、ともいえるでしょう。それにしても、どうして、あのような見え透いた、手前勝手な「言訳」や「理屈」がまかり通ってしまうのでしょう。「どうも わからない・・・」

さっきコープで買い物をしてきたが、確実に物価が上がっている。感覚的には15%ぐらいに感じる。この夏入れたガソリン最高値162円。あべ!良くやってくれてるよな。倍返しじゃ済まないんじゃないか。
「負けるはずのない」戦争に負け、「起こるはずのない」原発事故が起こり、「上がるはず」のロケットが上がらず、そして、「上がるはずの」景気も、一般庶民にとっては無縁なことでしょう。上がるのは、消費税率だけ。諦めるんですね、自公支持の「一般ピープル」の皆さん。 

【追記】世論調査(産経&FNN)では、「景気回復を実感していない」と答えた人は79.6%、「アベノミクスの先行きに不安を感じている」と答えた人はは61.9%にのぼっているそうです。私の身の回りを見ても、これは当然の反応でしょう。それにしても、一般ピープルにとって、インフレは大変なことですよ。私も、ひしひしと感じてきています。しかし、不況(デフレ)克服=「インフレ」(通貨膨張)政策なんて、誰がいったのでしょうね。失業の問題もそうですが、大体、日本国内の生産〈能力〉自体が落ちているわけではないでしょう! 逆に、政府・多国籍資本が、製造業や農業を典型に、国内産業を没落させようとしているとは思いますけれど。要は、現在の経済的な「仕組み」と「理屈」が間違っているのですよ。このことについては、もう少し時間ができてから、論じます。


臭い!臭すぎる!!米英仏のシリアへの軍事行動。ベトナムのトンキン湾事件。イラクの大量破壊兵器。そして、シリアの化学兵器、となるのか。国連調査団の結論を待つが、デッチアゲの臭いが強くする。
お前らがシリアの一般ピープルのために戦争するなんて誰が信じるか。隣を見てみろ。ぶつ、ぶつ・・・・

【追記】 まず、シリア政府によって化学兵器が使われたかどうかについて、アメリカは「自信を持っている」というだけではなくて、きちんとその証拠を出してみれば良いのです。イラクの時も国連の調査団は大量破壊兵器の存在を否定していたのですからね。今も、反体制派によるサウジアラビアから提供されたものの誤操作説とか、アルカイダへの提供説など、マスコミでは報道されない真逆の説もあるのですから(たとえば、http://linkis.com/blog.shinobi.jp/3GVS、などを参照)。また、複雑な中東情勢(イスラエル)のためだけではなく、戦争経済に浸っているアメリカの軍産複合体の利害も何しろ大きいといわれています(兵器を定期的に消費しなくては商売が上がったりとなる)。イラクにせよ、リビアにせよ、エジプトにせよ、「子供を殺したのを許せるのか」とかいった言説で軍事介入を正当化しようとしてますが、まずは、そうした戦争屋たちの二枚舌や口車に乗らないことが大切です。それにしても、ドイツを始め、イギリス、アメリカの国民や議会は凄いよなあ。たとえ限定的なものであっても、政府の戦争行動を止める力があるのだから。それと比較して、もし集団的自衛権の解釈変更や9条改変がなされた場合、日本国民に「政府の行為」を抑制し、コントロールする力があるのだろうか。アベの無節操な対米追従を許さない力を残しているのだろうか。他人事ではなく、自らが問われています。
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SARO MURIKI

Author:SARO MURIKI
おりこうさんのワンワンです。年齢は、2018年11月現在満12歳です。見てのとおりの柴ですが血統書はありません。性別はオスで、飼い主には、朝夕、45分ずつ2回の散歩を義務付けているVIP犬、正確に言うと、VIDです。文句あっか?!

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