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イラク派遣-自衛隊員の〈死〉に思う

 
 他人の生き血を吸うが如き
     ―――「政治家」と「富める者」の志は卑しかりけり!



   先日、NHKの『クローズアップ・現代―――イラク派遣 10年の真実』を観た。番組によると、イラクに派遣された延べ10000名の自衛隊員のうち28名が自殺していたという。また、自殺ばかりではなく、調査が行われた第1次から第8次までの4000名の隊員のうち、常に10%以上、多い時には、20%から30%の隊員がASD(急性ストレス障害)に陥っていたということだ。この自殺数が多いかどうかといえば、日本では、人口1億2千万人のうち毎年約30000人が自殺するというけれど、両者を比較すると、おおよそ、11倍にもなるのだ(東京新聞の報道によれば、14倍以上とのことだ)。この数が少ないはずはあるまい。ところで、戦場に派遣された兵士たちがこうむる精神的ダメージについては、これまでにも、米軍のイラク帰還兵の深刻なPTSD(心的外傷後ストレス障害)の問題(NHK・BSドキュメンタリー『イラク帰還兵――心の闇と闘う』や米軍の自殺者が戦死者を超えているといったワシントン・ポストやガーディアンの報道など、様々な形で報道されて来ている。しかし、 重要なのはこうした事実をどう理解し、どのように対応するかということだろう。

   番組によると、防衛庁は、こうした自殺がイラク派遣と〈直接的な因果関係〉があるかどうかは不明である、という立場なのだそうだ。この話を聞いて、私は、福島県の18歳以下の若者に対する甲状腺検査の結果を思い出した。通常、子供の甲状腺がんは100万人に1〜2人といわれているが、2011〜13年における福島県の検査では、該当する約36万人のうち、一次検査終了者約23万9000人そして2次検査実施者1148人中、甲状腺がん確定数は26人(疑いを含むは59人)だった。つまり、 通常の約50〜100倍ということだ。しかし、「原子力村」の太鼓持ちたちは、影響が出るのは4年後だというそれ自体根拠が定かでないチェルノブイリ発の議論をもとに原発事故との因果関係を否定しながら、他方で、チェルノブイリでは5mSv/年以上で強制避難、1〜5mSv/年でも避難する〈権利〉があり(住居や職場など)様々な保証がなされているにもかかわらず、福島では、20mSv/年までは「平気」だとし、それ以下では避難の権利も認めず、自主避難の人々をほとんど無保証のままに放置しているのだ。これは、水俣病など、日本の公害病の事例とほとんど同じ構図といってよいと思う。イラクの〈戦場〉における状況や原発事故が理由でないとしたら、一体何だというのだ。個人の弱いメンタリティーや福島の特殊な地域性によるとでもいうのか。こうして、太鼓持ちたちは、悲惨な「既成事実」を追認させようとしているのだ。日本の民衆は本当に大切にされていないと感じる。

   また、驚くべきことに、この番組に出演した五百旗前防衛大学校校長は、派遣された自衛隊員たちが直面しただろう過酷な問題点を糊塗するがごとく、「(東南アジアの占領地における)優しい日本の兵隊さんたちは・・・」といった戦中のプロパガンダ映画を想起させるような、派兵正当化論を展開しているのである。五百旗は集団的自衛権容認派すなわちイラクやアフガニスタンなどでの米軍を中心とする多国籍軍との共同行動を容認する立場なのだと想像するが、もしそうであるなら、復興支援ならぬ集団的自衛権行使の〈戦闘〉状態についても同様の論を展開するに違いない。そして、つぎに来るのは、アメリカ同様、『レジリエンス(折れない心)の育て方』ということになるのだ。しかし、大切なのは、「そもそも、日本の若者をそのようなストレスの下に曝すなよ!」ということなのではないか。

   もともと、自衛隊のイラク派遣にせよ、今回の集団的自衛権容認そして憲法「改正」せよ、それらは、結局、アメリカの軍産複合体の利益にすり寄ることによって、自らの〈セコい〉利益を実現しようとする日本の財界・富裕層の「手先」たちの策謀なのだ。勿論、そのことは、日本の一般ピープル、とりわけ、若者や子供たちに犠牲を強いることになるのだが、そんなことは〈卑劣〉な彼らにとっては問題にすらならない。戦争準備を「積極的平和主義」、あるいは、武器輸出を「防衛装備移転」などと言い換える〈子供騙し〉的な言辞を労しつつ、ただ只管、外国の脅威を繰り返し繰り返し刷リ込んで、国民を騙そうとするばかりなのだ。日本国民も本当に舐められたものだ。後者の点については近いうちに論じたいと考えているが、今日は、次の点だけは指摘して筆を置きおきたいと思う。すなわち、若者を海外の戦場に送って〈犠牲〉を強いること、また、必ずや紛争地域の一般民衆に被害をもたらすであろう武器輸出を緩和・推進することによって、自分たちの〈セコい〉利益を実現しようとしている政治家たちや富裕層は、とてつもなく、〈卑劣〉な存在であるということだ。

   前々回のブログで触れた芭蕉の『おくのほそ道』の中には、次のような表現がある。「・・・かれは富めるものなれども、志いやしからず。」すなわち、「通常」、富める者の志は卑しいというのだ。そして、吉田兼好も『徒然草』で「昔より賢き人の富めるは稀れなり」と書いている。最近の世相を観るに、実に、納得しうる見解だ。そして、最近、恥ずべき悪行が次々と露見している、ウソと汚い金にまみれた政治屋や「富裕層」と比較すれば、真っ当に生きている、我々〈一般ピープル〉の道徳的優位は明らかというべきではないか・・・・・我々〈一般ピープル〉は、彼らの偉そうな外見の下に隠されている〈卑劣〉さを、芭蕉や兼行同様、再認識すべきなのだ。

  
 ※ 気が小さいだけかもしれないけれど、サーバントさんは、あんまり悪いことしてないよね。HAHAHAHA〜

僕は、幻想ないから、事実だけ見てるよ〜ん


DSC_1702菜の花
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今年の剣道〈修行〉の目標―――1年ぶりに師匠の稽古を見て

 何故、1時間もの間、

   息切れもせずに、激しい稽古を続けられるのか?
 


   ※ わが〈しもべ〉たる飼い主は、3月の末に、「ねえ、サロさん。我が人生で奇跡的なことが起こったんだよ。なんだと思う?それはね。この私がco-opの福引きで〈一等賞〉が当たったんだよ!お米5kgだよ。」と大喜びでした。4月にはいると、モダン・アート展(東京都美術館)に行って、「やっぱり、〈本物〉は、落ち着いていて、奥深いよねえ。」とさかんに感心してました。そして、もう一つ変なことは、また剣道に出かけたんだよ。僕は、散歩に影響しないかと心配なんだけどね



   4月にはいり、半年ぶりに、防具を着けて剣道の稽古をしました。6ヶ月間、全く運動しなかったわけではありませんが、やはり、下半身の弱体化やバランス感覚の劣化が感じられ、少し不安な面も感じられました。しかし、久しぶりに見た師匠の姿には、学ぶべきことが沢山あったように感じます。今年度は、私の〈剣道修行〉の総括的な意味をも込めて、週一回程度の稽古を予定しているのですが、今日は、それに向けた目標を考えてみました。

   当日、師匠の前には、県名の入ったゼッケンを着用した、全国大会レベルの若い選手たちが並んでいました。そして、180㎝もあろうと思われる大男を相手に稽古をする師匠の姿は、凄い(!) まるで”牛若丸”のようで、とても「アラ還」とは思えないものでした。相手が強ければ強い程、激しく・強く・鋭く対応するのだなあ、と感心して見入っていましたが、それにしても、どうして、あのような「連中」を相手に1時間もの間激しい稽古を続けられるのでしょうか?!それが、これからの私にも関わる重大な疑問として、私の脳裏に浮かんできたのです。

   師匠も疲れないはずはないのです。実際、数年前、たまたま稽古相手がいないこともあったのでしょう、大事な試合前の「調整」のために、私が20数本(27本だったと記憶している)の打ち込み稽古の元立ちに立ったことがありました。その時の師匠の凄まじい気迫と終わった後の肩で息をするような様子は、今でも記憶にはっきりと残っています。つまり、師匠も疲れるのです。それでは何故、あのような1時間の稽古が可能なのでしょうか。そして、私は、師匠が1年間私に言い続けたことを思い出したのです。

  「力は入らないんですよ。」
  「楽でしょう?!」
  「脱力が鍵でしょう。」 

   なるほど!宮本武蔵が言うように、人間が重くて長いものを振り回すことは不合理だ。それ故に、扱いにくいものをうまく使いこなすこと、すなわち、無理のない、合理的な剣捌きと体捌きが必要なのだ。つまり、師匠は、そうした技術の修得の上に、無理することなく、あの稽古を行っているに違いないのだ。しかし、このことは、師匠の稽古が消極的であるとか、応じ技専門であるとか言うことでは全くない。逆に、師匠の稽古は、圧倒的に積極的で、アグレッシヴである。ぐいぐい間合をつめて、攻めて行くのである。ところで、この点で思い出されるのが、私が剣道を始めた頃、同じ道場に来ていた、元○○機動隊の隊長(7段)だったというの人の稽古である。年齢は70歳にも達しようかと思われるのだが、真っ直ぐにがんがん攻めてくるのである。そして、中心を取られて間合いを詰められるものだから、逃げるのでなければ(!)、不十分な体勢でも打ちに行かざるを得ない。そして、打っても打っても、間合いを詰められ、結局、最後には追い回されている感じにすらなってしまうのだった。さらに、師匠の場合には、こうした過程の中で、(大袈裟とも感じられるような)強烈な一撃が繰り出されるというわけだ。そして、この安定した攻めは、きっと、ほとんど、疲労を生み出さないものになっているのであろう。

   ということで、今年の目標は、如何に、〈 無理せず、楽に、疲れないで 〉、剣道ができるのかを追求し、また、力を抜きながら、中心をとり、「どうするんですか?!」とがんがん攻めてみたいと考えています。
 
   前回は、稽古が不足しており、恥ずかしくて師匠の前には立てませんでしたが、今年中には、一度ぐらい、お手合わせ願えるよう頑張りたいと思っています。(さて、どうなりますことやら。)

   
修行の道は遠い しかし、路傍のタンポポは美しい

DSC_1705タンポポ

私のこの一曲―――ベートーヴェン交響曲第3番〈英雄〉

    「孤独」な魂が〈類〉と〈普遍〉に出会うとき――― 


     先日、古いノートの最後の余白に、こんなことが書き付けてあった。

   「 生きるとは 命の叫びであるべきだ   
     生きるとは 命に恋する歌であるべきだ
     生きるとは 狂おしく崇高なものを求めること
     生きることとは 心ときめき 踊ること
       あの草花と木々たちと   
       あの純真な眼を持つものたちと
       あの懐かしい人たちと  そして
       こんな命をつないでいく人々と 生きることだ
     生きるとは そんな命を燃やすこと
     生きるとは 生まれ、生き、永遠の命をつなぐ
       一つの命として存在することにほかならない 」

    こんな文を目にして、急に芭蕉の『おくのほそ道』を読みたくなった。芭蕉が旅に求めたものは何だったのだろうか。三日かかって読み直してみた。限りある人の命とこの世の「無常」を意識しながら、彼は、やはり、「千年」変わらない、自然と人の心を求めていたのではないか。そして、そんな彼の生き方こそ、行く先(死に場所)は自分が決める〈旅〉そのものだったに違いない、そんな気がした。ところで、彼の句の中で私の記憶に最も強く残っているものの一つが、 「 荒海や佐渡によこたふ天河 」である。この満天の星空のイメージは、昭和20年代、冬の北海道で見上げた夜空、そして、昭和40年代、初秋の八ヶ岳・美濃戸山荘付近から見上げた手の届きそうな星空など、〈個〉としての私が「普遍」と出会った衝撃的な印象と重なるものなのだ。

     ところで、このイメージから私が連想するものに、映画『不滅の恋・ベートーヴェン』の1シーンがある。この映画は、ベートヴェンの「不滅の恋人」は誰か(アントーニア・ブレンターノ?)といった点に関心が集まったのだが、私の記憶に残っているのは、若きベートヴェンが、草原に寝転び、一人見上げている満天の星々の情景なのである。この満天の星々と〈交感〉しあっているベートーヴェンの姿こそ、私にとって、彼の多くの作品の中に感取できる重要なイメージに他ならない。そして、交響曲第9番〈合唱〉とともに、こうした印象の最も強いものが、交響曲第3番〈英雄〉なのである。

     この曲にまつわる思い出は多い。ラジオから流れてきた 格調高く始まり、圧倒的な迫力で締め括られる、フルトベングラー=VPOの演奏に接した時の驚きは、凄まじいものだった。又、私が東京で初めて聴くことができた本格的な演奏会のプログラムは、サバリッシュ指揮・アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の〈エロイカ〉だったはずである。東京文化会館の最上階の席から、谷底を見下ろすように見た、その激しい動きを今でも思い出す。ついでに言うと、ミーハーの私は、演奏会後、サバリッシュにサインをもらいに行き、握手をして、「ダンケ・シェーン!」ぐらいは言って来たのだった。また、私がブロムシュテットのものをよく聴くようになったのも、ドレスデン国立管弦楽団との〈エロイカ〉を聴いてからのことだ。今は、古楽器によるガーディナー指揮=オルケストル・レヴォリュスョネル・エ・ロマンティク( ARCHIV,1993 )のものを聴くことが多いが、今日は、是非紹介したいもう一つの演奏がある。
     それは、リスト編曲による、シプリアン・カツァリス演奏のピアノ版(TELDEC,1985)だ。大規模なオーケストラによる演奏の雄大さや美しさとは質を異にするけれど、これは、実に「面白い」演奏なのだ。どんな感じかというと、まさしく、一人の「英雄」的なピアニスト個人が、「普遍」的なベートヴェンの最高傑作の一つを我がものにしようと、その深淵な〈何か〉と真正面から取っ組み合っている、そんな感じなのだ。それは、グレン・グールドの同じリスト編曲による交響曲第6番〈田園〉のピアノ版とは趣を大きく異にするものだ―――この曲をカツァリスも演奏しているが、グールドの曲自体を楽しむような穏やかなタッチがより心地よく感じる。確かに、ベートヴェンの〈エロイカ〉は、その〈生真面目さ〉や〈熱さ〉故に、少し剣呑だと感じるところもあるが、自分自身の人生を誰のものでもない自分自身の人生としたいと願う〈一般ピープル〉にとって、松尾芭蕉の『おくのほそ道』が与えてくれるのと同様の〈何か〉を感じさせてくれるように思われるのである。      
    今、ピアノ版の終楽章を聴いているが、「よく頑張ったね!ご苦労様!」と声をかけてやりたくなった。


    ※ こんなことを書きながら、私が昨日から一生懸命考えていることは、これからボールペンは何を買おうかということだ。私は、現在、職場で提供された、三菱 uni LaknockとJETSTREAMを使っているのだが、確かに書きにくくはないものの、やはり、「三菱」なのである。自分で購入するわけにはいかない。書き心地が最高なのは、体験上、PILOTのAcroball だ。ところが、昨日、私は、ホームセンターで、Acroballがなかったために、PILOTの HI・TEC・C COLETO・3を〈奮発して〉購入してしまったのである。HI・TECも悪くない。しかし・・・さて、どうすればいいのか。暫く悩もう。

     

ちょっと「英雄」的なサロさん

DSC_1704今年の春は





プロフィール

SARO MURIKI

Author:SARO MURIKI
おりこうさんのワンワンです。年齢は、2019年11月現在満13歳です。見てのとおりの柴ですが血統書はありません。性別はオスで、飼い主には、朝夕、45分ずつ2回の散歩を義務付けているVIP犬、正確に言うと、VIDです。文句あっか?!

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