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『ゴジラ』を観る(3)―――科学者の社会的責任

 湯川秀樹さんの思索とも重ねて
       ―――戦後日本民衆の『核と戦争』への想い



   さて、1954年版の『ゴジラ』を味わい深いものにしている大きな理由の一つは、「破壊の限りを尽くすゴジラを倒すには封印していたオキシジェン・デストロイヤーしかないと判断した」芹沢博士の〈苦悩と決断〉です。すなわち、博士は、生命の根幹を支える水中の酸素を瞬時に破壊する「オキシジェン・デストロイヤー」を開発したのですが、核技術が権力者たちによって兵器として利用され,多くの人々が犠牲となり、人類絶滅の危機にまで立ち至ったことから、その技術を自分の頭の中だけに封印しようとしていたのです。しかし、眼前に展開するゴジラによる破壊と殺戮を前に、ついに、その使用を決断するに至ります。しかし、それはあくまでも一度だけであり、ゴジラを倒した後、「オキシジェン・デストロイヤー」の設計図を頭に入れたまま、彼は自らの命を絶つことになるのです。

   さて、こうした芹沢博士の〈苦悩と決断〉をどう捉えたら良いのでしょうか。より徹底した「非暴力主義」の観点からすれば、それは、人々を救うためとはいえ、「水爆」(ゴジラ)にも劣らない「新兵器」の使用に踏み切ったわけですから、結局、「〈戦争〉の論理」に飲み込まれてしまったということになるかもしれません。しかし、私は,必ずしも、そうとは考えないのです。と言いますのは、まず第一に、単純な同一視は危険とはいえ、同様な状況は個人の水準でも類似したかたちで起こりうるわけで,その時の「選択」には,ガンジーすら認めていたように、〈武力行使〉を含む様々な抵抗のかたちがあり得るだろうからです。さらに,この点こそ〈鍵〉と考えられますが、問題の焦点は、あくまでも科学者としての彼の社会的責任意識の問題であって、この点において彼は、「国家権力」による科学技術の悪用に対する〈拒否〉を徹底して貫き通しているのです。そのことのためには自らの命を絶つほか道はなかったのかという問題はあるにせよ―――それほど「国家」の圧力は凄まじいものなのでしょう―――、彼は、まさしく、〈国家〉の「戦争の論理」を拒否しつつ、あくまでも、〈個〉として、同胞のために闘ったということになるのです。

   こうした芹沢博士の〈苦悩と決断〉に接する時、思い浮かべるのは、ヒロシマ・ナガサキ,そして,ビキニの水爆実験を前にした科学者たちの姿です。例えば、ナチス・ドイツに対抗するために原爆開発を急ぐようルーズベルトに提言したアインシュタイン,そして,実際に原爆開発に携わったオッペンハイマーらの「苦悩」は知る人ぞ知るということでしょう。私も、アインシュタインの『晩年に想う』(講談社文庫)を愛読書(複数回読んだという意味で)の一つとしていましたが、核抑止力の一定程度の受容に問題を感じつつも、戦後から冷戦に至る過程において「世界政府」による核の〈国際管理〉を主張したことは、後の『ラッセル・アインシュタイン宣言』(1955年)と共に,世界の「反戦・反核」運動の大きな支えの一つになっていたと思います。また、「われは死となれり,世界の破壊者となれり」とつぶやいたオッペンハイマーの〈悲劇〉的な映像やその後の水爆開発への抵抗などは、彼が国家の「戦争の論理」(ナショナリズムや核抑止論)からけっして自由ではなかったこと(『原子力は誰のものか』中公文庫)を踏まえながらも,一定の時代的雰囲気をつくっていたと考えることができるのです。こうした流れについては、オリバー・ストーンとピーター・カズニック『オリバー・ストーンが語るもう一つのアメリカ史』の第4〜6章を参照されたく思います。そこには、「アメリカン・リベラル」たるヘンリー・ウォレス(商務長官)の核と戦争に対する興味深い言動も記述されています。

   さて、広島と長崎を経験した被爆国日本にとって、ヒロシマ型原爆の1000倍の破壊力を持ったビキニの水爆実験と第五福竜丸の被爆は、まさしく,他人事ではない、大きな衝撃だったに違いありません。このことは、1949年、中間子理論でノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹博士にとっても同様であり、その時の様子は、『湯川秀樹著作集 5 平和への希求』(岩波書店)で知ることが出来ます。

   「原子力の脅威から人類が自己を守るという目的は,他のどの目的よりも上位におかれるべきではなかろうか。・・・私は科学者であるがゆえに,原子力対人類という問題を,より真剣に考えるべき責任を感じる。」(「原子力と人類の転機」、1954年3月)
   「科学の応用が人類に感謝される成果を生み出すのか,あるいは反対に人類の恐怖の対象となるのか,科学の本街道からの分かれ道が天国への道になるか地獄への道になるか,科学者として人間として,私は何度も反省をくりかえしているのである。」(「原子力問題と科学の本質」、1954年)
   「科学が現代社会において,一部の人々のための力ではなくして,万人のための力となり,さらに,力であるよりも前に、万人を幸福にする知恵の一環となるように努力することを,我々は断念してはならない。」(「科学は力か知恵か」,1954年)

   湯川博士は、その後、1955年の『ラッセル・アインシュタイン宣言』に名前を連ね,さらに、バグウオッシュ会議や科学者京都会議(第1回〜第5回)の活動を通して、日本国憲法の平和主義に基づきながら、「反戦・反核」の思想と理論を一層深化させていったと言えるでしょう。こうした成果を,私たちは、『核時代を超える――平和の創造を目指した――』(湯川秀樹・朝永振一郎・坂田昌一編著、岩波新書)で読むことが出来ますが、とりわけ、そこで展開された「核抑止論」ー「権力政治」批判は、現在もその意義を失っていないと私は考えています。この点については,後日、〈一般ピープル〉の言葉で論じたいと思います。

   最後に、1954年版の『ゴジラ』の芹沢博士の決断は,一人の〈一般ピープル〉の立場からも、非常に貴いもののように私は感じます。なぜなら、それは、「生き残る(つもりの)者たちの論理」ではなく、ヒロシマで,ナガサキで、ビキニで被爆した「普通の人々」あるいはこれから被爆するであろう「普通の人々」の立場に立ってこそなし得るものと感じるからです。そして、それこそ、〈科学者〉としての〈人間〉としての、彼の責任の果たし方でもあったのです。それは,国家の「正義の自衛戦争」といった単純なイデオロギーを許さないものであり、ビキニの水爆実験の全的否定、全ての核兵器廃絶へのメッセージであったと考えられるのです。

    

   
9.23 さようなら原発 全国大集会(亀戸中央公園)
 
DSC_0844923集会



   ※ 昨年娘と登った御嶽山が噴火しました。テレビで、立ち上がる噴煙と降り注ぐ火山灰を見て、ビキニ水爆実験での「死の灰」を思い出しました。その時,第五福竜丸だけではなく、近辺にいた沢山の漁船が被爆したのですが、「国家」はそのことを隠蔽したのです。放射能と国家、その本質を私たちは忘れてはなりません。
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スコットランド〈独立〉住民投票に思う

 あなたたちに『主権者』の姿を見た!
     ―――世界の「〈民〉主主義者」は手をつなごう。


   この一週間,スコットランド独立住民投票(レファレンダム)の結果がどうなるか、〈ワクワク〉して見ていました。結果は、投票率(16歳以上の住民)84.6%、賛成44.65%に対して反対55.25%で、独立は否決されました。内心独立を支持していた私は、結果に若干失望もしたのですが、それにも倍して、今回の住民投票に「〈民〉主主義」の大きな可能性を感じたのです。

   さて、その最も大きな意義は、何と言っても、85%を超える住民がスコットランドの将来(福祉・教育・軍事等ー「国のかたち」)について真剣に考え、その決定に直接的に参加したことでしょう。また、こうした『憲法制定』的行為が平和裡に行われたことも非常に大きな意味を持つと言えます。
   ところで、先の投票結果について、NHKなどの日本の報道機関は「10%の大差」と報道していますが、アメリカのPBCニュース・アワーなどをみると、〈僅差〉と捉えられていました。私も「過半数に5.35%」が大差とは到底思われませんでした。こうした報道姿勢は何故なのでしょうか。また、日本の報道機関においては、こうした住民投票自体に対して、『混乱』・『不安定化』といったマイナスのイメージを抱かせるような表現が多く見られました。こうした傾向の中には、〈一般ピープル〉の直接的な政治参加(レファレンダム)に対する、代議制民主主義の『虚構』の上で権力を行使したい政治的エリート層の警戒心・恐怖心が感じとられた様に思われます。勿論,こうした傾向は、様々な抵抗運動自体を生み出す矛盾(格差・不平等・危険等)を解決しないまま『現状』を維持したい、イスタブリッシュメントの〈利害〉に繋がっているのでしょう。

   ところで、UK(グレートブリテン=北アイルランド連合王国)のなかで私が行ってみたかったのは、イングランドの湖水地方とスコットランドでした。また、ケルト系の文化や歴史、そして、スコットランドが持つ映画『ブラス』(地理的にはイングランドですが)に見られるような〈社会的雰囲気〉にも関心がありました。今回の独立住民投票はこうした地域における広範な普通の人々による運動だったわけですから、関心を持たざるを得なかったのは当然のことでした。しかし、私がその「独立派」に共感したのは、その〈民族主義〉の故ではありませんでした。それは、「独立賛成」派が主張していた「〈北欧〉福祉国家」路線や「非核」政策の故だったのです。それらは私が近未来的に志向すべきだと考えていた方向性ですが、私が考えるに,スコットランドの「独立賛成」派の人々は、イングランドの現状を考えるとそうした政策をUK全体で近未来的に実現するのは困難なので、その実現のためには「分離独立」が最短の道である、そう判断したのだろうと思われるのです。それがこの運動に「民族主義」的様相をもたらすことになった理由だと思われます。また、そうした方向性の中で示された、地域(民族)的な「分離・独立」とEU(「地域統合」)への参加という絶妙なコンビネーションは、将来の世界を考える上でも極めて示唆に富むものであったと考えられます。すなわち、自治権の拡大と緩やかな地域的統合(連合)という方向性は、個人の社会の中における在り方(自立と共生)にも通ずる、これからの重要な価値観であると思われるのです。

   ところで、こうした〈きわどい〉状況の中で、日本のマスコミ主流が見せた姿勢は極めて興味深いものでした。要するに,彼らが発したメッセージとは、結局、〈現状〉を変更しようとするものへの否定的なメッセージに他ならなかったといってよいのです。たとえば、イギリス政府は自治権の拡大などの「アメ」と同時にポンドを使用させないなどの「恫喝」をも駆使しましたが、こうした状況の中で、独立がもたらす〈経済〉的「不安定・不利益」を強調することは,現状を支配している新自由主義的な経済的編成、すなわち、そこから大きな利益を得ている「富裕層」の利益を擁護することになったわけなのです。また、核ミサイルを装備した原子力潜水艦の基地の移転についても、独立したスコットランドが非核化政策をとると、他の地域への移転は引き受け手が無く難しいので(笑)、イギリスの核武装の維持が困難となり,イギリスの国際的威信の低下や国際的な軍事的均衡が崩れることが心配される、といった報道がなされたわけなのです。NATO勢力内部におけるイギリスの原潜4隻に装備された核弾頭の重要性がどの程度のものなのかはわかりませんが、こうした議論は、明らかに、〈現状〉を作り出しているイスタブリッシュメントの〈核均衡理論〉の肯定の上に立っていると言わなければならないでしょう。とりわけ、こうした論評が、ヒロシマ・ナガサキの被爆体験そして平和憲法と非核三原則を有する日本のマスコミによって垂れ流されることは、もう,〈醜悪〉と感じる他はなかったのです。

   私は,最近以前にもまして,日本の〈普通の人々〉は大切にされていないなと感じています。そして、その主要な部分は、新自由主義経済と国際的な権力政治から派生するものだと捉えています。しかし、こうしたなか、私たちが〈主権者〉として考え、答を出していかなければならないことを、スコットランドの人々は、独立に向けた住民投票の中で提示し、問うてくれたといってよいと思うのです。世界の、自分たちのことは自分たちで決めたいと考えている〈一般ピープル〉にとって、これは極めて貴重な経験となることでしょう。次は,私たち,日本に住む者の番かも知れません。
   


サロの秋2014 + 我家の白い家守

 
 いやはや! 秋めいてきたねー


   ※我が〈しもべ〉たる飼い主は,読書の秋らしく,一日中本を読んでいます。一昨日などは、朝,新聞の広告を見て、「何だこの医者は?」とか言って、早速図書館に行って本を借り,その日のうちに読んでしまったようです。矢作直樹とかいう人の『死ぬことが怖くなくなるたったひとつの方法』と『天皇』の2冊ですが、「ああ、ネットで買わなくって良かった。」とホットしていました。そして,昨日は、僕の方を見ながらこんな歌を歌い、長ーい散歩に連れて行ってくれました。


  ごはんを食わんとや生まれけむ
   散歩をせんとや生まれけん
    戯るサロの声聞けば 我が身さえこそ揺るがるれ
  はははー



えっ?!もうないの?!

DSC_2162ご飯3




秋の散歩も気持ちいい!案山子さんもいるしね

DSC_2146案山子




僕の毛の色もますます〈シバ〉色になって来たね。

DSC_2144秋の日のサロ




初秋の公園―――僕ぁ、広い所が好きだよ

DSC_2152初秋の公園




でも、家の中で遊ぶのもいいもんだよ

DSC_2017戯れるサロ




そして、我家には、白い〈家守(ヤモリ)〉もいるんだよ

DSC_2141家守


安心だね!!!




   

『ゴジラ』を観る(2)―『GODZILLA ゴジラ』批判

 ”ゴジラ”とは何なのか?
       ―――戦後日本民衆の『核と戦争』への想い



   ※前回、今年7月に封切られた『GODZILLA ゴジラ』について触れてしまいましたので、ブログの続きはこれを観てからの方が良いと思っていました。そして、先日、やっとそれを観ることが出来ました。感想は、特撮の迫力などでは十分楽しめたとは思いますが、〈予告編〉で感じた通り、「おいおい!それってアリかよ?!」とか 「謙さん,出演するのには相当勇気がいたでしょうねえ?!」とかいったものでした。勿論、娯楽映画としての〈面白さ〉を考える時、過度にそのメッセージ性に拘泥することは不適切であろうと思います。実際,我家にも『ウルトラマン』のファンが沢山いて、ウルトラ・ヒーローのビデオや主題歌のカセット、そして、数十体のフィギアであふれかえっていたのを思い出します。また、私自身も,今、テレビで観るものといえば、『必殺仕事人』や『大江戸捜査網』、『長七郎江戸日記』などといったものですから、五十歩百歩という他ありません。しかし、1954年版の『ゴジラ』に感動した〈日本〉の一般ピープルの一人として,是非、言っておかなければならないことがあるのです。(以下、若干、「ネタバレ」注意。)

   結論から言いますと、この映画は、アメリカ映画によくあるいわゆる〈パニック〉映画としては良くできている方だとは思いますが、物語がどのように構成され、どのように展開し,そして,そのことが意味する社会的「メッセージ」とは何かという観点からすると、1954年版『ゴジラ』が示した「反戦」・「反核」といったメッセージとはほぼ正反対の性格を持っているといってよいと思われるのです。それは、2000年代の日本のゴジラ・シリーズよりは「罪」が軽いといえるでしょうが、「リスペクト・ジャパン」(日本おける興行的宣伝文句でしょう)どころか、明らかに,〈本来〉の1954年版『ゴジラ』を〈コケ〉にしていると言わなければならないのです。

   まず第一に、日本のゴジラは、「水爆大怪獣」すなわち(第5福竜丸事件を想起させる)アメリカの水爆実験によって〈叩き起こされ〉、〈変異〉した古生代の恐竜であって、この人間の手によってつくり出された〈生命〉を持つ「小型核戦力」が東京を襲うのです。その恐怖は、日本の一般ピープルにとって、戦時中の〈ほとんど為す術もない〉都市への大空襲、そして、広島・長崎への核攻撃を想起させるものであったに違いありません。それは,まさしく,日本に対する「第4の核攻撃」であったと言いうるでしょう。
   これに対して、アメリカ版の『GODZILLA』では、あのビキニでの「水爆実験」は、甦った古生代の「原子怪獣」であるゴジラから人類を守るために行われた核攻撃だったということになっているのです。すなわち、核実験に触発されたものであれ、「原子怪獣」は〈自然〉に存在したものなのであり、また、アメリカの水爆実験あるいは核攻撃は、人間を守るためだったと正当化されているのです。

   さらに、原子炉を持ち放射能熱線を操る「原子怪獣」(「核兵器」)たるゴジラは、アメリカ版においては、いわば、人類あるいは正義の味方であって、悪役の「原子怪獣」ムートーを滅ぼす「救世主」とされているのです。ゴジラが「都市」を破壊するのはムートーとの戦いにおいてだけであり、「破壊神」はムートーであって、ゴジラではありません。そこには極めて単純な二分法がみられますが、これに対して、日本のゴジラにはもっと複雑な要素を見いだすことが出来ます。すなわち、都市を破壊し尽くすゴジラですが,それは,ある意味で人間の行為による犠牲者に他ならないゴジラの「逆襲」、あるいは、人間によってつくり出された恐怖の「ブロウバック(逆流・しっぺがえし)」であって、そこには、現代文明への警告・警鐘をも読み取ることが出来るのです。しかし,アメリカ版にはこうしたニュアンスはほとんど感じられません。また、日本のゴジラにも、なんらかの恐怖に起因するだろう、巨大な力への憧れや破壊衝動を満足させるものがあったことも事実でしょうが、しかし、そこには、後のシリーズでより明確に見られる、「命」あるゴジラの生物としての(優しさ)という「救い」も感取することが出来たのです。しかし、アメリカ版には、こうした「命」への重層的な把握を感じることは出来ません。

   また、「核」・「放射性物質」に対する描写についても、日米の両者では大きな相違があるように思われます。すなわち、アメリカ版の冒頭、日本にある原子力発電所で大きな〈爆発〉「事故」が起こるのですが、アメリカの会社が管理していたためでしょうか、なんとそこでは、放射能が原発内に封じ込められたということになっているのです。また、物語の最終場面において、メガトン級の核爆弾がサンフランシスコ湾からさほど離れていない洋上で爆発するのですが、地上にはほとんど影響が無いように描かれているのです。実は,日本の2000年代バージョンでも、ゴジラの放射能が突然魔法のように消えると言う設定があり失笑せざるを得なかったのですが、アメリカ版もほとんどこの線上にあるのです。こうした描写と核爆発及び放射能の影響に対して厳しい認識を示した1954年版とではどちらが真実に近いのでしょうか。答は明らかです。要するに、アメリカ版は、通常の事故と原発事故、通常兵器と核兵器との違いを質的なものではなく量的なものと印象づける効果を持つと考えられるのです。
   さらに、日本の場合には、ゴジラという「脅威」に対してもあくまで核攻撃を行わないというスタンスが存在していました。こうした点については、1984年版における小林桂樹演ずるところの首相がゴジラへの核攻撃という米ソの要求に対して「非核原則」を貫こうとした姿勢に明確に示されていると言えるでしょう。これに対し,アメリカ版『GODZILLA』では、父親がヒロシマの犠牲者である芹沢博士に核兵器の使用を〈控えめに〉反対させはしますが、市民を守るためという理由で核攻撃に突き進むのです。さらに言えば、芹沢博士のいわば「天敵同士を闘わせる」という一見〈没価値〉的な「均衡(バランス)理論」も、実際には、「原子怪獣」同士を闘わせるということであって、結果として、ムートーが滅びゴジラが生き残るということは、あたかも核戦争に勝者が存在するとでもイメージさせたいのかと勘ぐってしまうのです。

   最後に、ゴジラに対する「武力攻撃」についてですが、日本版では、政府が災害対策本部を設置し撃退作戦を開始しますが、(創設された)自衛隊のどのような攻撃もゴジラには通用しません。このことは、1984年版でも同様であって、要するに、自衛隊はゴジラに対して全く役立たなかったわけです。ここには,〈武力〉のむなしさや戦争を忌避するとりわけ一般民衆の気持ちが表されていたと考えても良いのではないでしょうか。こうしたことに対して日本の2000年代バージョンは〈不満〉を述べており、自衛隊を活躍させたり,若者に「自衛隊に入ってゴジラと闘いたい」と言わせたりしているのです。しかし、ゴジラとはいわば核兵器なのであって、これに戦いを挑ませることは、自国の兵士たちを核実験の爆心地付近に配置したり、突入させたりした、米・中・ソの権力保持者どもと同じことになるのです。そして、アメリカ版は、家族愛を根拠として、そうした行動を賛美しようとしているわけなのです。

   このように、アメリカ版の『GODZILLA ゴジラ』は、「核兵器も放射能も、〈特別に〉怖いものでないよ!」とか、「戦争や武力行使は家族を守るための〈英雄〉的行為にほかならない!」とか、そう言ったメッセージを振りまいているのです。つまり、この作品は、スリーマイル島原発事故にもかかわらず原発を稼働し続け,新設すらしようとしているアメリカ、また、原爆投下による広島・長崎での無差別殺戮にもかかわらず、相変わらず世界中に核兵器の〈実戦配備〉を続け、又,湾岸地域で実際に劣化ウラン弾を使用しているアメリカ、そんなアメリカの体制に順応する作品に仕上がっていると言わなければならないのです。

   時間がなくなりました。次回は、1954年版『ゴジラ』において、ゴジラを倒すには封印していたオキシジェン・デストロイヤーしかないと判断する芹沢博士の苦悩について考えてみたいと思います。   

プロフィール

SARO MURIKI

Author:SARO MURIKI
おりこうさんのワンワンです。年齢は、2018年11月現在満12歳です。見てのとおりの柴ですが血統書はありません。性別はオスで、飼い主には、朝夕、45分ずつ2回の散歩を義務付けているVIP犬、正確に言うと、VIDです。文句あっか?!

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