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衆院選2014―――沖縄知事選に続いて

 沖縄県民の選択と決意に応えたい
  ―――次は対米〈追従〉政権の打倒です
 



   ※ 現在、日本の「イスタブリッシュメント」(=支配層)の「劣化」は極まっているように思われます。その目に余る〈対米追従〉ぶりは、〈面従腹背〉ですらなく、まさしく、自分たちの階層的利害を恥や外聞もなく追い求めるところに根を持ち、そして、その苦悩する同胞や国土の荒廃に対する〈無関心〉ぶりは、一国のリーダーとしてのあるべき姿とは程遠いところにあると言っていいと思います。それは、福島で、沖縄で、そして、私たち「一般ピープル」の生活の隅々で感じられるところです。
          
     ところで、11月16日は静かな日曜日でした。そして、二度目の散歩を済ませて歴史の本を読んでいた午後8時ごろ、ニュース速報が流れました。沖縄県知事選で「翁長さん当選確実」の報でした。正直、胸に迫るものがありました。沖縄県民は、あの威圧的な米軍基地と米国にただひたすら追従する日本政府の金と脅しの政策を跳ね返したのです。2年前の沖縄旅行(http://saromuriki.blog.fc2.com/blog-entry-50.html)の折、公設市場の女性に「オスプレイ 反対してよ!」と言われ「勿論、反対するよ」と答えて以来、私は沖縄について、そして、安保条約と米軍基地についてに考え続けてきましたが、私がほとんど何もできないうちに、沖縄の人々は自らそのあるべき姿を私に示してくれたように感じるのです。

     沖縄知事選の前に、私は、新原昭治『日米「秘密」外交と人民の戦い―――米解禁文書から見る安保体制の裏側』や末浪靖司『9条「解釈改憲」から密約まで 対米従属の正体―――米公文書館からの報告』そして前泊博盛『本当は憲法より大切な日米地位協定入門』や矢部宏治『日本はなぜ「基地」と「原発」をやめられないのか』などを読んでいましたが、その時に感じたのは、沖縄県民(そして日本国民)に押し付けられてきた本当に〈不条理〉な「既成事実」に対する〈人間〉としての怒りでした。国体護持のために「捨て石」とされた沖縄戦、サンフランシスコ講和条約の締結と共に基地の島としてアメリカに差し出された「屈辱の日」、「本土復帰」の際の「密約」等々、こうした歴史を通して沖縄の同胞が受けてきた苦難は、もちろん、私の想像に余りあるものでしょう。しかし、それを我がものとして考え抜いていかない限り、私たち本土の人間の「対米従属」ー米軍基地からの〈解放〉もないというべきでしょう。

   ところで、翁長さんは、国土面積の0・6%の沖縄に全国の74%の米軍専用施設が集中する現状に「日本国民全体で安全保障を考え、負担をしてもらいたい。0・6%の沖縄にこんなに押しつけてはいけませんと申し上げたい」と言いました。周知のように、翁長さんは沖縄〈保守〉の重鎮だった人物です。ということは、日米安保条約とその下における米軍基地の存在を認めていたということを意味します。その彼が、今、「オール沖縄」の声として、普天間基地移転および辺野古移設反対を訴えていることの意味はとてつもなく大きいと言わざるを得ないでしょう。つまり、この声は、たとえ日米安保条約と米軍基地の存在を認めたとしても、現在の「不公平」な現状にはもう我慢がならないということを意味するのです。この感覚は、たとえ一時的に抑えることができるとしても、決して消し去ることはできない性質のものでしょう。さすれば、日米軍事同盟を不可欠のものとし米国との〈集団的自衛権〉の容認から日本を戦争のできる国家に変容させようとしている安倍首相が、彼の地元山口県に普天間基地の全機能を移転するという選択肢もあってしかるべきでしょう。しかし、それはどのような問題を引き起こすのでしょうか。実は、このように、翁長さんは日米安保体制と米軍基地の問題を国民一人一人が考えていくことを求ていると言って良いのです。そして、それは、『日米安保条約』・『日米地位協定』そして〈統治エリート〉たちによって結ばれた数々の〈密約〉から形作られた〈既成事実〉ーーー騒音と犯罪と屈辱等々を、当該の地域住民そして日本国民が受け入れるのか否かという選択にならざるを得ないものなのです。

   今詳しくは述べませんが、私は、冷戦終結後の日米軍事同盟の強化を国民に向けて正当化してきた、北朝鮮や中国の〈軍事〉的脅威が具体的にどのようなものであるのかについては、冷静に判断する必要があると考えています。たとえば、北のミサイルや不審船、中国との尖閣や赤珊瑚密漁問題などがそうで、それが意味することやそれに対する適切な対処方法は、これまでそうした方向に誘導されてきた、単純な軍備増強によって対処すべきものではない考えています。すなわち、それらは、ただひたすら、米日軍産複合体の利益=〈軍備〉増強を推進するためのプロパガンダに利用されてきたものと言えると思います。また、私は、現行の日米安保条約を廃棄し、日本から米軍基地を撤退させ、日本国憲法9条を〈実現〉すること、すなわち、国連の「集団安全保障」の体制の中における「非武装」=非軍備(常備軍を持たない)を選択する可能性も〈あり〉だと考えています。なぜなら、現在の国際関係の中で世界第3位の経済大国日本を軍事的に侵略・支配することがありうるかどうかを考えると、その可能性は極めて少ないであろうと思われるのです―――それは世界を揺るがす最大級の事件です。また、万が一そのような事態が起ったとしても、それに対して日本国民がとるだろう様々なかたちでの国民的抵抗、そして、国連を中心とする国際的な支援と制裁を信じるからです。このハードルを越えることは、その国家自体の終焉すらを意味することになるではないでしょうか。

   ただ、これから迎えようとしている衆議院議員選挙においては、敗戦の重みを抱きしめながらも戦後の〈復興〉を日米安保体制下の「平和主義」の下で築こうとしてきた「護憲派」の人々とも手を携え、沖縄県民の声にもかかわらず名護市・辺野古への移設を強行しようとしている反民主主義的な安倍政権を打ち破ること、それが今回の選挙の最重要な焦点の一つだと考えられるのです。
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サロ満8歳――今年も元気で引っ張てるよ!

 インフレで、今年は缶詰なんだってさ
   ―――来年は牛肉ブロックで行こうね!




僕はちょっと不満です
DSC_2416今年は缶詰


 ―――サロさん!誕生日おめでとう それにしても、君は相変わらず元気だねえ。私は、今週はちょっと不調だよね。熱は出ないけれど、風邪っぽいからね。でも、君に引っ張られて早歩きしているうちに、また、元気になったりするんだよ。今年は、物価高・可処分所得減少で、缶詰にしました。でも、美味しいだろう!?



紅葉が綺麗だから、まあ、いいか!
DSC_2378紅葉14


   ※ サーヴァントさん!この2週間ぐらいは本ばかり読んでたね。(―――10冊・3000頁ぐらい読んだかな)散歩して、ご飯食べて、本読んで・・・でも、ボール投げでもう少し遊べるといいんだけれどねえ
   ―――予定していたドッグランにも行けなかったね。姉貴も体調不良で、四国行きをキャンセルしたけれど、ドッグランには近いうちに三人で行ってみようね。



木の葉の丘を登ったよ
DSC_2398落ち葉の丘


   ――― 世の中、何故か世知辛くなっているみたいだねえ。先週も、旧友たちと酒を飲んだんだけれど、彼らも以前の「余裕」を無くしているみたいだったよ。今、「旗」振っている人たちが日本を壊しているんだよね。健さんが活躍した時代が懐かしく感じられますよ。
   幸せの黄色い落ち葉、なんちゃって。僕の毛の色も落ち葉に溶け込んでるね



そのうち花も咲きますよ!姉さん座りで待ちましょう。
DSC_2379秋のバラ


   ―――サロさん!来月の14日には衆議院選挙なんだってよ。700億円使ってだよ。それにしても、「志」を感じませんねえ。結局、「原子力村」や「安保村」など〈お友達〉の利益を増進するために、アホノミクス失敗の「底」が見えないうちに、任期をあと4年に伸ばしてしまおうというわけなんでしょう。昨日も、幕末の「士道」の本を読んだけれど、まあ、えらい違いですよ。それにしても、有権者も、2年前に彼らが何て言っていたのか、そして、現在どうなっているのかをしっかり見て判断しなきゃね。そうしないと「自己責任」だって言われてしまいますよ。一般ピープルは勿論だけれども、株価が上がって喜んでいる100万人の人も、日本と日本人が壊れたら終わりですからねえ。はい!



明日も、ご飯食べて、散歩に行こうね
DSC_2386机の下2


   ―――よっしゃ! 楽しくいきましょう‼︎ 私ゃ、良き友や伴侶に恵まれて幸せですよ。でも、今の「旗振り人」は、そうした人々を食いもんにしようとしているとしか思えないよね。次回は、選挙について、一言言わなきゃ。

吉右衛門の「法界坊」を観た!

 日本の民衆にとって「悪」とは何だろうか
    ―――あるいは、「巨悪」と「小悪人」の弁証法(?)―――



     
DSC_0836法界坊2



images法界坊



     ※ かなり前のことになりますが、9月15日、歌舞伎座で『秀山祭九月大歌舞伎』(昼の部)を観てきました。秀山祭とは初代中村吉右衛門(俳名:秀山)の偉業をたたえる恒例の催し物ということですが、今回の演目は、以下の通りでした。

  1、鬼一法眼三略巻(きいちほうげんさんりゃくのまき)菊畑 
     吉岡鬼一法眼:歌六、虎蔵実は源牛若丸:染五郎、
     皆鶴姫:米吉、智恵内実は吉岡鬼三太:松緑

  2、隅田川続俤(すみだがわごにちのおもかげ)法界坊
      法界坊:吉右衛門、おくみ:芝雀、手代要助:錦之助、
     野分姫:児太郎、道具屋甚三:仁左衛門

  3、浄瑠璃 双面水照月(ふたおもてみずにてるつき)
     法界坊の霊/野分姫の霊:吉右衛門、渡し守おしづ:又五郎、
     手代要助実は松若丸:錦之助、おくみ:芝雀


     はじめに、各演目の感想を一言。まず、「菊畑」は、歌舞伎の時代物らしい叙情性が感じられ、染五郎の明快な演技にも大変好感が持てました。「法界坊」は、吉右衛門のアドリブに〈世話物の人気狂言〉というこの演目の性格が滲み出ていると感じると共に、その内容については、「これは一体何なんだ?」という戸惑いに似た奇妙な感覚にもとらわれたのでした。この点については、後でもう少し詳しく述べたいと思います。最後の「双面(ふたおもて)」は、吉右衛門が法界坊の霊と野分姫の霊を演じ分ける〈舞踏〉ということになりますが、私には「評価」が難しいといった印象をもちました。勿論、「見に来て良かった。面白い!」というのが、地下鉄日比谷線の中で私が抱いた感想ということになりますが。
 
     さて、今回の歌舞伎鑑賞の主目的は、〈お馴染み〉吉右衛門の「法界坊」であったわけですが、まずはいつものように、歌舞伎座のホームページからその概要を転記しておきましょう。

   「隅田川続俤(すみだがわごにちのおもかげ)」

 ◆色と欲におぼれた破戒僧の執念を描いた人気狂言
 浅草聖天町に住む願人坊主の法界坊は、釣鐘建立の勧進をして歩いていますが、実は集めた金を道楽や飲み食いに使ってしまう生臭坊主。永楽屋の娘おくみに恋慕していますが、おくみは、手代の要助と恋仲なので、相手にされません。その要助は、実は京の公家吉田家の嫡男松若で、野分姫という許婚がいる身でしたが、重宝「鯉魚の一軸」を紛失したために没落した御家の再興を目指し、姿を変えて機会をうかがっていたのでした。法界坊は要助を陥れようと悪事に加担し追い詰めますが、もとは吉田家の家来筋であった道具屋甚三の機転により、あえなく失敗します。怒りのおさまらない法界坊は、野分姫をも無理やり口説こうとして…。
 悪党ながら、人間味にあふれた法界坊。盗みも人殺しもするものの、美しい娘がいると追い掛け回したりと、どこか憎めない愛嬌があります。

     さて、この「法界坊」が江戸庶民の人気を得ていただろうことは、その笑いを誘う〈わかりやすさ〉からも容易に想像できます。ただ、問題なのは、なぜこの〈盗みも人殺し〉もする「悪党」が「人間味あふれた」、「どこか憎めない愛嬌」を持つ人物として演じられなければならないのかです。皆さんはどう考えるでしょうか?
     ところで、Wikipediaによりますと、法界坊には托鉢しながら勧進を行っていた『穎玄(えいげん)』というモデルがいたらしく、そうしたところから想像すると、この演目は、この穎玄の「実像」を暴き出し、その欺瞞性を痛烈に批判=〈笑い飛ばす〉といった趣向が隠されていたのかも知れません。江戸時代の町人層の僧侶に対する批判の強烈さはかなりのものであり(家永三郎『日本道徳思想史』第8章「町人の道徳思想」などを参照)、オリジナルな法界坊はもっともっとおぞましい姿で演じられ可能性も考えられるでしょう。しかし、同時に、当時の民衆が、「双面」で演じられたように、法界坊を〈人間〉の二面性の一面を表すものとして、より切実には、自らを、実際の生活の中で〈盗みも人殺しもする〉存在、あるいは、〈しなければ生きていけない〉存在として捉え、自嘲気味に彼に共感を寄せていた可能性も考えられるのです。また、一般に、古今東西の民衆にとって「悪党」とは一種のヒーローであって、歌舞伎の「白浪五人男」もそうでしょうし、現代日本では、『ラピュタ』の女海賊ドーラや『ワンピース』などにもそうした傾向を見ることができるでしょう。もちろん、しばしば〈盗みと殺し〉の被害者となった民衆の心の痛みは容易に想像しうるわけで、こうした民衆の「悪党」に対する矛盾した意識をどう理解すれば良いのか、それが問題なわけです。

     ところで、「悪党」という言葉を『広辞苑』で引いてみると次のように記されています。「鎌倉中期から末期にかけて、幕府体制や荘園制的秩序に反抗した武装集団。もともと悪党は、山賊、海賊、夜討ち、強盗など悪者一般の意味であるが、13世紀中頃から史料上にみえ始める悪党は、惣領制の解体と貨幣経済の進展という新しい動きの中で生まれ出た歴史的存在である」。『太平記』で有名なあの「忠臣」・楠木正成が、こうした「悪党」と呼ばれる存在であったことはかなり知られていることでしょう。つまり、こうした場合の「悪」とは、ある「体制」や「秩序」に対する〈異端〉を意味し、また、「悪党」には、そうした「体制」の権威や秩序には囚われない〈痛快〉な行動様式をとる武装(暴力)集団といったニュアンスも含まれていたと思われます―――私の高校時代の先生が『悪源太』の「悪」とは〈強い〉という意味だと言っていたことを記憶しています。とすると、ある支配的な「体制」の欺瞞性や非人間性が明らかになってきた場合、その「悪」が一定の「正当性」を持ち、虐げられてきた人々の心を掴むといったことは大いにあり得たと考えることができるでしょう。実際、普遍的な哲学的・宗教的観点から考察された「善悪」の水準とは別に、いわゆる一般的な「善悪」の観念が、歴史的・文化的・「階級」的な性格を有していただろうことは疑いないところです。例えば、「殺人」に関して言えば、現在、安楽死や尊厳死について議論されていますが、江戸時代では「切腹」(自殺?)や「仇討ち」(殺人)は法的な義務(善)であったわけですし、また、「盗み」について言えば、その「体制」自体が「征服の権利(ライト・オブ・コンクエスト)」つまり「巨大な盗み」によって成立し、さらに、その「体制」の維持が、年貢や冥加金をはじめ、極めて階級的意味で恣意的な「経済」外的強制(暴力)によって成り立っていた場合もあるわけです。つまり、封建的身分制社会のように、「巨大な殺しと盗み」が一定の社会的秩序を形成し、それを暴力装置とイデオロギー装置が維持・正当化するといった中では、被支配層を構成する民衆が、そうした社会的秩序への抵抗の感情を「悪」とか「アウト・ロー」への共感といった形で表現した場合があっただろうことは容易に想像することができるのです。ただ、ここで注意しておかなければならないのは、そうしたいわば「巨悪」とこの芝居に登場する〈盗みも人殺し〉もする法界坊のような「小悪人」(悪人・悪漢)と民衆との関係ということになります。

     つまり、まず第一に、江戸時代の民衆が、鼠小僧とか石川五右衛門などに見られるように、「巨悪」への勇気ある反逆・挑戦(「悪」)に喝采を送ったと考えることはできるでしょう。さらに、江戸時代の仏教が、切実な民衆的基盤を有していた「鎌倉仏教」とは異なって、寺請制度に典型的に見られるような封建的支配秩序を下支えする役割を果たしていたことから、都市の町人層はこうした僧侶たちへの批判(軽蔑)意識を、とりわけ、目の前の「破戒僧」(=法界坊)に対して向けていたとも考えられるでしょう。ところが、同時に、民衆は、この「破戒僧」(=法界坊)にたいして、「人間味あふれた」・「どこか憎めない愛嬌」をもつ人物として共感もしていたらしいということなのです。繰り返しになりますが、それは何を意味するのでしょうか。

     もう十分に長くなってしまったのでもう止めますが、そうした傾向性の中に、違いや異質なるものを一つの「システム」の中に包摂する特殊日本的文化の基底的特性(心情と論理)が読み取れるのだろうと私は考えているのです。その詳細についてはまたの機会に論じたいと思いますが、今回は、その「人情味」や(ある意味での)「包容力」を〈是〉としながらも、そうした庶民の「小悪人」への共感が「巨悪」を容認・正当化する経路へと導かれ、巨悪への批判が隠されてしまう場合があることは指摘しておかねばならないでしょう。私は、中村吉右衛門が演じるところの「人情味」溢れる『鬼平犯科帳』の「ファン」でもありますが、その中で極めて興味深いと感じるのは、若かりし頃「盗賊」の一味に加わろうとした経験もある長谷川平蔵と元「盗賊」である「密偵」たちとの濃密な関係です。そこに見られるのは「アウト・ロー」(無法者)の「体制」への統合ですが、両者を結びつけているのは、「殺さず、犯さず、貧しいものからは奪わず」といった、いわば「義賊」のイデオロギーなのです。それがまた私の気持ちを引きつけるわけなのですが、しかし、よく考えてみると、平蔵たちがそのために働いていた当時の幕藩体制が「殺さず、犯さず、貧しいものからは奪わず」を実践していたなどと言ったら、もう笑い話ということになってしまうでしょう。

     「一人殺せば悪党。100万人殺せば英雄。One murder makes a villain. Millions a hero. 」とはチャップリンの『殺人狂時代』の中での言葉ですが、私たちは「小悪人」たち一人一人の〈違い〉を明確にするとともに、「小悪人」と「巨悪」とを一緒くたにごちゃごちゃに論じることには警戒しなければならないと思います。「一億総懺悔」はもうまっぴらですから。


 ※ なにやら、12月14日に解散ー総選挙とやらの報道で賑わっていますが、本当にバカバカしい!「解散権は総理が持っている」とか、茅場町でも神保町でもなく・・・・阿呆らしくて思い出せもしない◯◯町の政治屋さんたちが言っていますが、要するに、自らの欺瞞そのものでしかない政治がバレそうになったので、なんとか「目眩まし」のために解散しようというのでしょう。先日私の学生時代の先生が勧めてくれたので読んでみたのですが、アベノミクスの基本的性格など、とうに、(真っ当なリベラルである老ケインジアン)伊東光晴の『アベノミクス批判―――四本の矢を折る』(岩波書店)によっても、極めて明瞭に暴かれてしまっていると言って良いのです。時間がないので要約もしませんが、要するに、真実は結局覆い隠すことはできないのです。あとは、国民の一人一人が、自らの真の利益に沿った投票行動を行うことでしょう。安倍の経済政策と集団的自衛権の行使・原発再稼働(=巨大な「盗み」と「殺人」)が、再び、日本と日本人にもっと大きな「災難」もたらすことがないように!です。

さいたま市公民館の「俳句掲載拒否」問題を考える

      「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」

  
     先月14日、安倍政権は、特定秘密保護法の運用基準を閣議決定し、同法は12月10日に施行されることになりました。主権者たる国民の「知る権利」を侵害する暴挙がまた一つ強行されたのです。時の政府が何が「国家秘密」であるかを決定し、それを客観的に〈チェック〉する第三者機関が存在せず、そうした中で、時の政府にとっては不都合な真実にアクセスしようとする者に重罰を課そうというのです。「沖縄密約」のような国家の基本的なあり方を左右する重要な事実が闇から闇に葬り去られてしまう可能性がさらに高まったのです。しかし、その最も深刻な影響は、重い刑罰を前にした、国民の側の〈自主規制〉だという意見もあります。主権者たる国民を〈物言わぬ〉被統治者に貶めようというわけです。まるで、封建時代のように。

     ところで、さいたま市大宮区の三橋公民館で毎月開かれていた俳句教室では、会員が互選で選んだ一句が毎月公民館の「月報」に掲載されていましたが、今年の6月、冒頭「九条」の一句が、「公民館が政治的に中立でないと誤解される恐れがある」として、掲載を拒否される事件が起こりました。この問題については、『東京新聞』や『埼玉新聞』などで詳しく報道されているのですが、全国的にはあまり知られていないとも思われますので、簡単に紹介しておきたいと思います。

    まず、私などは、この俳句に読まれた情景を想像すれば、ある個人がこうした歌を読むことはごく自然なことのように感じられるのですが、いかがでしょうか。現代俳句の第一人者とも言われている金子兜太さんも、『埼玉新聞』の8月17日版で、次のように述べています。
   「作者はデモに好意を持ったが、熱く共感したわけではないと私は受け取る。感受性の強い人なら普通のことで、どうしてこの句が問題なのか、ぜひ教えて欲しい。結果として政治的な意味をお役人がもたせたのは、ご自身がご時世に過剰反応しただけ。作者としては当たり前の感銘を詠んだ句で、お役人に拡大解釈され、嫌な思いをしてお気の毒」。
   「今回は一庶民の一つの句をやり玉に挙げて大げさな問題にした。こんな拡大解釈のようなことがお役人だけではなく社会で行われることになったら、『この句は政府に反対する句だから駄目』などと、一つの句が潰される事態になりかねない。有名な俳人だけではなく一般の人も萎縮して俳句を作らなくなる。俳句を作る人の日常を脅かすもので、スケールは小さいが根深い問題だ」。

      この句の作者は、「私の人生や経験、思いを一方的に否定されたように感じた。一市民のささやかな句に反応して排除するなんて、その方が恐ろしい」と嘆いたそうだ。金子兜太さんは「お役人が拡大解釈した実に野暮で文化的に貧しい話」と言ったそうですが、私は、こうした「野暮で文化的に貧しい話」は、日本の政治家や官吏にしばしば見られる一般的な傾向であるようにも思われるのです。それはどうしてなのかと言いますと、彼らは、それ自体擬制的なものでしかない「公」的なるものにすがりつき、何より、実態としての国民一人一人の〈多様性〉と〈自立性〉を認識できていないのです。つまり、彼らは、「主権者は国民の一人一人だ」ということがわかっていないのです。国民一人一人が主権者であるということは、「〈私(朕)〉は『国家』なり」ということではなく、〈多様〉で〈自立〉した国民一人一人が〈集合〉的に「国家」という集団を形成しているということであって、それゆえに、国家や時の政府が、〈一応〉「法」に基づいて排他的強制力の保持を許されているとしても、同じく「法」に基づいて、そうした〈多様〉で〈自立〉した国民一人一人の基本的人権を毀損するような〈恣意〉的な権力の行使は禁じられなければならない、ということなのです。

    ところで、この句の掲載を拒否した引間正巳三橋公民館長は、7月3日の『公民館便りへの俳句不掲載について』でその理由を次のように説明しています。すなわち、「社会教育法」第23条第2項の、公民館は「特定の政党の利害に関する事業を行い、又は公私の選挙に関し、特定の候補者を支持すること」をしてはならないこと、また、「さいたま市広告掲載基準」第4条(1)、「国内世論が大きく分かれているもの」の広告掲載は行わない、ということを根拠に、「このようなことから、俳句の中の『九条守れ』というフレーズは、憲法を見直そうという動きが活発化している中、公民館の考えであるという誤解を招く可能性があるため、掲載をご遠慮いただくものです。」としています。また、所管するさいたま市の稲葉康久教育長も、「月報は公民館の責任と権限に基づいて発行している。世論を二分している内容の作品はそぐわない。」と述べています。

     それにしても、冒頭の一句が、特定の政党の利害に関する事業に関係するとか、なんらかの〈広告〉に類するものに関係するなどいう判断がどうして出てきたのでしょうか。金子兜太さんが指摘するように、その判断が極めて恣意的(時勢に過剰反応した拡大解釈)なものだということは間違い無いことでしょう。そして、もし俳句の会の互選によって選ばれたこの句が、「政治的」であり「月報」に掲載すべきではないとの判断が行政の「責任・権限」に基づいてなされたとするなら、まさしく、行政による〈言論統制〉ということになってしまうのではないでしょうか。
     また、JT生命誌研究館館長の中村桂子さんは、「公民館とはまさに地域の人々が集まり考えを述べ合う場ではないだろうか。世論が分かれる大事な問題だからこそ、意見を述べる場にするところではないだろうか。そもそもこの句は、素直に情景を描写しているものであり、なぜこれを掲載できないのかわからない」(『東京新聞》7月8日夕刊)と述べていますが、まさしく公民館の「責任」とは、〈多様〉で〈自立〉した「主権者」の公共的討論と集合的〈意思〉の形成を保障すべきものであって、意見の違いを隠そうなどというのは、国民一人一人の「主権者」としてのあり方を否定するものに他ならないと言えるでしょう。
     それにしても、この句について、なぜ「世論を二分している内容の作品はそぐわない。」などという「飛躍」した判断が行われることになったのでしょうか。先に紹介した中村桂子さんは、「ここで行われたのは行政の勝手な自主規制である。地方自治体としてやってはならないことだ。税金は市民が納入しているのに上の方だけを見ている姿勢は許されない。・・・市民に最も近いところが自主規制した時に社会はどうなるか、考えるだに恐ろしい。身近な所こそ重要であることを再確認したい」と述べています。要するに、お役人達が、時の政権(安倍政権)の意向を敏感に感じ、極めて「政治的」に「自主規制」したということなのでしょう―――ただ、私は、地域の一部党派からかなり日常的に圧力があるのではないかと想像しているのですが―――。しかし、その「自主規制」とは、国民から〈公共性〉を奪い取り、時の政権に無批判的に追従する存在に貶めようとする行為なのです。

     特定秘密保護法の制定に見られるような、国民に対するある意味で「鎮圧主義」的な政策は、実は、こうした「自主規制」の動きをその最も望ましい効果として期待しているのだろうと考えられます。しかし、私たちは、後継の世代のためにも、〈物言わぬ〉被統治者に貶められてはならないのです。

     「主権者の 〈誇り〉貫け 5−7−5」(S.ムリキ)


 ※ もう一つ、歌心が・・・・

DSC_2193皆既月食

  サロは無視 秋の夜空に 皆既月食 (10月8日――お粗末!


  ―――サーバントさん! 散歩の途中で急に立ち止まらないで欲し
     いんだけど
  ―――君だけには言われたくないね

 
プロフィール

SARO MURIKI

Author:SARO MURIKI
おりこうさんのワンワンです。年齢は、2018年11月現在満12歳です。見てのとおりの柴ですが血統書はありません。性別はオスで、飼い主には、朝夕、45分ずつ2回の散歩を義務付けているVIP犬、正確に言うと、VIDです。文句あっか?!

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