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2014衆院選・雑感(2)ーー無党派・棄権層の動向

 サーヴァント・ムリキの衆院選・総括(2)
  ―――もう〈既得権益〉支配層の〈権威〉は風前の灯





   ※ ネットというのは便利なもので、過日、南沙織を検索していたら、彼女の最近の写真と彼女が普天間飛行場について「あの危ない飛行場がなぜいまだにあるのか。移設先が辺野古の海というのもだめです」と強調したという記事を目にしました(http://xn--vekw70ybyi.com/minamisaori.html)。流石、沙織様です。また、『あさイチ』でレポーターをやっていた篠山輝信君がなんと南沙織の次男であることも知りました。「面白いやつだな」と以前から好感を持っていましたから、彼は、誰かさんと違って、「親の七光り」ではないなと思った次第です。

   さて、〈無党派〉一般ピープルたる私が選挙で投票するということは、ある意味で、より〈政策〉や候補者・政党に対する〈期待感や感じ方〉に左右されると言えます。ところで、今回の衆院選挙では、初めから、低投票率―――すなわち、〈無党派〉層の膨大な〈棄権〉―――が予想され、強固な〈地盤〉や〈組織〉を持った政党が有利であるとされてきました。例えば、経営者団体、農協、郵便局、医師会、労働組合、宗教団体、地方の保守的な議員の後援会などです。実際、蓋を開けてみてもそのことは見事に実証され、地域的な差異はあるでしょうが、例えば、民主党が対抗馬を立てなかったある小選挙区では、観劇会やワインで有名になった自民党の二世議員が71%の得票を得て圧勝し、ウチワを配った前〈法務〉大臣の当選とともに、日本の政治風土が「健在」であることを見事に印象付けました。逆に、亀井静香氏や小沢一郎氏などの無所属や小政党の候補者の当選は、単なる〈地盤〉という表現だけでは言い尽くすことのできない「何か」が看取されたように思われます。また、巨大な宗教団体を票田とする公明党はコンスタントな集票能力を示すとともに、小選挙区における自民党との選挙協力を組織的にやってのけたと考えられます。すなわち、小選挙区で自民党候補者に投票した48%のうち約13%は公明党支持層の票であって、自民党は比較第1党ではありえても公明党の協力なしには約3分の1の票を集め得るに過ぎなかったいえます。また、公明党は、集団的自衛権の行使(海外派兵)に従来からの警察的な「武器使用制限」のタガをはめようとしたり、消費税への「軽減税率」の適用を提唱したりしてより幅広い支持を集めたと言えましょうが、それらがアベッチの「戦争のできる国家」を作るという野望や反〈福祉国家〉的な新自由主義路線を抑制しうるものなのか、あるいは、その促進を単に隠蔽するものでしかないのかはもう直ぐ判明することになるでしょう。特に、〈海外〉における米軍との共同行動を認めた以上、そこにおける「一発の銃声」が引き起こすと想定されるすべての事態に彼らは責任を持たねばならないと思います。
   
   ところで、現在の日本社会は、(既得権益)支配層の「管理」や「思想」的統制が強化され、その結果として、選挙(「与党の圧勝」)を媒介とした彼らの〈国家権力〉の掌握度も強化されていると見えるかもしれません。しかし、日常生活総体の有様をより詳細に見ていくともう少し複雑な様相が見えてくるのです。すなわち、盤石のように見えるイスタブリッシュメントの支配にも確実に地殻変動が起こっているということです。このことの確かな現れが、いわゆる「無党派(棄権)層」の増大―自民党の得票数の減少と、2009年の政権交代、そして、その後の民主党に対する国民の反応と言えると思います。

   さて、日常的な企業社会やその他の諸組織における支配層の〈管理・統制〉力は、「成果主義」や「競争主義」などのイデオロギーの〈流布〉とともに、少なくとも外見上は強化されているように見えます。しかし、多くの一般ピープルにとって、それらは、「正当」なものとして積極的に受け止められているというよりは、〈面従腹背〉程度のレベルで受容されていると私には感じられるのです。なぜなら、バブル崩壊以後の経済状況においては、支配層の責任に帰せられるべきことが一般ピープルの負担に転化され、また、一般ピープルのさらなる犠牲によって支配層が肥え太るという最悪の様相を呈してきたからです。そして、弱い立場にある多くの一般ピープルは、推し進められる雇用の不安定化(「日本的経営」の破壊)を前に、それを〈不本意ながら〉も受け入れざるをえなかったのです。こうした支配層と一般ピープルのより深いレベルでの利害の対立は、決して口先だけで糊塗できるものではありません。それ故にこそ、こうした支配層の利害をを追認あるは促進してきた「自民党」的なるものへの人々の〈基本的〉な信頼感は、まさしく眼前に展開する「現実」を前に、急速に失われていったと考えられるのです。
   また、こうした事態を媒介したのはアメリカ的な「能力主義」や「競争主義」のイデオロギーでしたから、人々は意識の上でも「私(わたくし)化・孤立化」せざるを得ず、いわゆる「公共」的なるものへの関心や「共同体」的なるものへの「忠誠」心を失っていかざるを得なかったと言えます。さらに、こうした方向性や支配的イデオロギーに対抗べき野党や労働組合などの〈思想〉的弱体化は、「自己責任」論や公的「社会保障」体制への攻撃を許した限りにおいて、人々の「政治」への期待感を希薄化させていったと考えられます。こうして、一般ピープルの支配層(自民党)に対する「距離感」あるいは「忌避感」と「政治的無関心」あるいは「無党派」化の深まりによって、膨大な「無党派・棄権層」が生まれたと私には感じられるのです。そして、このことは、支配層が批判勢力の凝集化を阻止するための〈孤立化〉には成功したものの、「思想」的・「政治」的な〈統合〉には失敗しているということを意味します。というよりも、支配層は、もう日常的な実生活の水準で〈民衆〉を大切にする「余裕」などなく、そうした選択肢を「諦めて」、切り捨てる覚悟をしていると言った方が正しいのかもしれません。それ故にこそ、基底的な日常生活における信頼感や支持の回復ではなく、幻想的な「愛国心」の強調や「秘密保護法」的な抑圧(ー管理・統制の強化)を必要としていると言えるでしょう。

   ところが、こうした膨大な「無党派・棄権層」が〈政治〉的シーンに登場する場合もあります。もちろん、その時には〈投票率〉が上がるのですが、そうした場合には、ほとんど、非自民の野党が議席を伸ばし、これまで自民党と結合してきた〈イスタブリッシュメント〉の支配を揺るがすことになるのです。その典型が2009年の総選挙で、投票率は今回よりも17%も多い69.3%に達し、民主党が政権を獲得することになったのです。すなわち、今の自民党は、実質的な支持層を減少させているのであって、「敵失」によるか(2012年)、膨大な民衆の無関心を作り出して低投票率に期待するか(2014年)以外に、選挙に勝てそうにないということになっているのです。今回の解散・総選挙もそうした〈現実〉への彼らの恐怖心の現れとも言えるでしょう。つまり、現在の自民党政治は、表面の皮だけは硬化させようとしているが、中身はゼラチン状のままのケーキみたいなものであり、基本的な〈信頼〉の上に成立しているものではないのです。

   ところが、他方、あの民主党は・・・・


 ―――相変わらず『るろうに剣心』のアニメを見続け、さらに、コミック版全28巻も手に入れて読み始めると、とても、ブログが書けません。でも、年末の家の片付けをやりながら、なんとか「選挙の総括」だけは年内に終わらせたいと思っています。

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2014衆院選・雑感(1)ーー民意との乖離


サーヴァント・ムリキの衆院選・総括(1)
  ――この政治的情勢は一体何を意味するのか?


  
   ※ この静かで(沈滞した)、虚ろな(希望を感じさせない)雰囲気は何なのでしょうか。松健の『忠臣蔵』(テレビ朝日)を見て迎えたあの「討ち入り」の日=〈衆院選〉から、まだ10日しかたっていないのです。それは、吉良上野介が赤穂義士を「返り討ち」にし、多くの民衆が横目でそれを〈チラッ〉と見て〈シラッ〉と通り過ぎていった、そんな感じでしょうか。もちろん、沖縄での結果や共産党の議席増など、今後の「可能性」を示唆するいくつかの動きも垣間見ることができるのですが、全国的レベルで言えば、やはり、日本の政治家たちに対する軽蔑の念の増幅、そして、日本の政治社会の「劣化」を強く感じざるを得ないというところでしょう。ただ、そんなことを言っていても仕方がありませんから、〈こうした現在の政治状況は何を意味しているのか〉、それをしっかり考えて行かなければならない、そういうことだろうと思います。しかし、そんなことを考えながら、私は、この一週間、和月伸宏のアニメ『るろうに剣心』(1〜67)を20分×67=22時間も見続けていたのです―――この作品については、後日、全編を見終わった後で、感想を書こうと思っています。今日までブログが書けなかったのは単にそのためでした(汗)。

   さて、誰かが「アベノタメの解散」とか言っていましたが、この〈どっちらけ〉の総選挙は、「戦後レジームからの脱却」(「憲法改正」)を策する三世議員のお坊っちゃまが、一般民衆の生活不安を尻目に、我々の税金約700億円を使って、自らの政権の4年間の〈延命〉を図った代物だった、と言って良いでしょう。そして、マスコミの予想がこんなに当たった選挙も珍しいかもしれませんが、彼の目論見は、永田町の水準においては、見事に「バッチリ決まった!」ということになったのです。しかし、「レーガノミクス」とサッチャーの「この道しかない」を真似し、さらに、麻生の「(誰も気がつかない)今のうちに」を実践したようなこの選挙は、日本社会を分裂−崩壊させる新自由主義的格差拡大とその姑息な手法により掘り崩されつつある政治への信頼感の喪失をさらに加速することになりそうです。

   それでは、前政権と〈約束〉したはずの議員定数の是正すら真っ当に行われずに実施された、今回の選挙結果はどうだったのでしょうか。―――ちなみに、これまでの判例によると最大2.30倍が〈違憲状態〉でしたが、今回も、「0増5減」のままで、「一票の格差」は最大2.13倍という高い数値を示したのでした。

 ◯投票率―――戦後最低 52.66%
 ◯得票率と獲得議席数(議席定数に対する割合)
    【小選挙区】                
  自民  48.10→222(75.25)  
  民主  22.51→ 38(12.88)     
  維新   8.16→ 11( 3.72)       
  公明   1.45→ 9( 3.05)    
  共産   13.30→ 1( 0.33)        
  次世代  1.79→ 2( 0.67)      
  生活   0.97→ 2( 0.67)    
  社民    0.79→ 1( 0.33)    
  無所属  2.85→ 9( 3.05)        
        計 295 
    【比例代表】     
  自民  33.11→68(37.78) 
  民主  18.33→35(19.44)  
  維新  15.72→30(16.67)   
  公明  13.71→26(14.44) 
  共産  11.37→20(11.11)   
  次世代  2.65→ 0
  生活   1.93→ 0  
  社民   2.46→ 1( 0.56) 
         計 180

   「一体誰が自民党に投票しているの?」―――これは私の生活圏の中でしばしば交わされる会話です。もちろん、私の生活圏は限られた狭いものですが、こうした統計数字を見ていると、私たちの実感がさほど間違っていないことがわかります。つまり、比例代表区において自民党に投票した人は有権者の17%、小選挙区においても25%でしかないからです。また、確かに、景気対策や公共事業などへの政府の積極的関与に期待する雰囲気はないわけではありませんが、だからと言って、アベノミクスによる景気回復を実感していると言っている人など少なくとも私の周りにはいません。さらに、これが消費税原発憲法9条基地問題などになると、もう明らかに形勢は逆転するのです。この点で、マスコミの調査結果と私の生活実感とはほぼ一致するのです。しかし、です。こうした日常生活の「公共圏」で多数派を占めている「民意」は、永田町−国家機構には反映されず、逆転してしまうのです。すなわち、52.66%という民主主義にとって危機的な低投票率を前提として、小選挙区では得票率49.55%の自公が78.3%の議席を占め、また、比例代表区では46.82%の自公が52.22%の議席を占め、こうして、自公は総議席475議席中325議席(68.5%)を獲得して「与党の圧勝」となり、「民意」はいつの間にか闇に葬り去られ、相変わらず「世の中は変わらない(良くならない)」と感じさせられてしまうことになるのです。

   ということで、問題は、こうした民主政治の機能不全あるいは危機がどうして生まれてくるのかを明らかにし、それに対して私たち一般ピープル(「民」)はどう対応すべきなのかを考えることです。私などは、単純に、「アベッチが、我々一般ピープルのことなんか本気で大切に考えているわきゃないじゃないか!〈お友達〉の利害をマキャベリスト(権謀術数)的に実現しようと、嘘はつくは(原発・・・)、ハッタリはかますは(アベノミクスの成果・・・)、目くらましのゴマカシは連発するはで(秘密保護法、集団的自衛権、武器輸出、労働、社会福祉・・・)、まあ、騙される方が悪いといえば悪いんで、騙されないようにしないとね!」で済ませてしまいがちなのですが―――それはそれで限りなく真実に近いとは思っていますが―――、問題をもう少し構造的に考えておく必要もあるでしょう。そういった意味では、「代議制」や「選挙制度」、「政治的無関心」や一般ピープルの「政治参加」などについての考察も不可欠ということになります。ただ、それらについては、今は一応、学者先生たちに任せておくことにして、次回以降のブログでは、今回の選挙で私が悩んだ、「現行の選挙制度の下で私たちの選択はどうなされるべきなのか?」ということと、今回の選挙において極めて注目すべきだと考えられる「沖縄」の選択および「共産党」の議席増について私見を述べてみたいと思っています。


   ※ 先週の18日にサロさんが家から「脱走」してしまいました。私は交通事故に会うのではないかと心配してすぐクロス・カブで探しに行ったのですが、全然見つかりません。焦りながら家に戻ってくると、下の張り紙がしてありました。

DSC_0987いたよ!


   私とほぼ同時に車で探しに出かけたお母さんと姉貴が、家からほぼ1kmほど離れたところをルンルン歩いているサロさんを発見して声をかけると、喜んで車に乗ってきたというのです。脱走したサロさんを、連続して2回、ほぼ〈直線的〉な移動で発見した姉貴とサロさんとの間にはなにかテレパシーでも通じているのでしょうか。それにしても、奇跡的な生還が続いています。

私の音楽のふるさと(7)―――女性アイドル歌手編

〈癒し〉の懐かしのメロディ
    ――私は南沙織のファンだった?!



DSC_0835仰向けサロ

   ※僕も癒されたよ〜ん


   ※ 衆議院選投票日の前日(12月13日)、私は友人と大宮で「忘年会」をやり、帰りがけに〈カラオケ〉に立ち寄りました。この日は、友人が北海道旅行から帰った後だったこともあって北海道ものが中心でしたが、たまたま大阪ものに変わった時、私は欧陽菲菲の『雨の御堂筋』(1971年)を歌ってみることになったのです。そして、その時、強烈に頭に浮かんできたのが、同じベンチャーズが作曲した奥村チヨの歌でした。その後私は、民主党の枝野氏が大宮駅頭で最後の演説をしている横を通り過ぎながら「もう日本は行くところまで行くしかないのかねえ」などという友人の声を聞き流しながら、家に帰ったらすぐその歌を聞いてみようと家路を急いだのでした。それから、翌日の衆院選の投開票を重たい気分で受け止めた後今日まで、私はほとんど音楽漬けの日々を過ごしているのです。衆院選については近いうちに私なりの総括を試みたいと考えていますが、今日は、この数日間聴きに聴いた、70〜80年代の女性アイドル歌手について書いてみたいと思います。

   ところで、先の奥村チヨの歌は『北国の青い空』(1967年)でした。私の中学時代にはいわゆるエレキブームが起こり、中学校の文化祭でも〈ちょいと〉「元気の良い」諸君がベンチャーズの『パイプライン』などをテケテケテケとステージ上でやっていたのですが、そのベンチャーズが日本をイメージして作曲した曲がなかなか良かったのです。先の『雨の御堂筋』もそうでしたし、渚ゆう子がカバーし、私の京都のイメージを決定づけた『京都の恋』(1970年)や『京都慕情』(1970年)もそうでした。今回も、ベンチャーズの演奏をきいてみましたが、実に実に懐かしいものでした。ところで、私もボーイッシュな欧陽菲菲が好きでしたし、奥村チヨの独特な風貌も印象に残っています。ただ、私の世代には◯大中退の◯◯さんのように熱烈な奥村チヨファンも多かったのですが、私の〈アイドル〉はちょっと違うタイプだったのです。

   さて、1971〜2年、私はよく徹夜で本を読んでいました。そして、その頃、「起き抜け歌謡曲」という番組だったと記憶していますが、毎朝5時頃、南沙織の『17歳』(1971年)がラジオから流れてきたのです。当時の私は「もう少し勉強しなければならないなあ」などと考えていたのですが、この曲は、あの頃の私を捉えていた〈どんより〉とした雰囲気を打ち消してくれる明るさを持っていたのです。私にはアイドル歌手のコンサートに行ったりレコードを買ったりする習慣はありませんでしたが、その後も、ラジオやテレビで、彼女の『潮風のメロディー』(1971年)や『純潔』(1972年)などを楽しみに聞いていたことを思い出します。今振り返りみると、そのあまりの若々しさに、ちょっと気恥ずかしい気がしないわけでもありません。ただ、今回改めて聴き直してみて、この歳でもさほど違和感なく聴くことのできる『色づく街』(1973年)が、私の一番のお気に入りの曲だったと言えると思います。この曲のリズム感は大変心地よく、かなりの名曲だと私は思っています。このように、いわゆるアイドル歌手の中で私が誰のファンだったのかというと、おそらく、南沙織だったといえるでしょう。世の「サオリスト」たちには、「半端モン」と抗議されるでしょうけれど。
   
   ただ、私が南沙織だけのファンだったかというとそうではありません。とりわけ、対話形式の歌詞で、田舎育ちの私を魅了した、『木綿のハンカチーフ』(1975年)の太田裕美は、私に鮮烈なインパクトを与えました。彼女の『赤いハイヒール』(1976年)や『しあわせ未満』(1977年)そして『九月の雨』(1977年)などもよく聞いたものです。また、岩崎宏美の歌声にも惹かれました。ほぼ永遠の名曲といえるでしょう『思秋期』(1977年)はもちろんのこと、『ロマンス』(1975年)や『シンデレラハネムーン』(1978年)なども〈なかなか!〉と思ったものです。また、久保田早紀の『異邦人』(1979年)も、実に個性的な印象を与える名曲だと思いました。

   こう考えてきますと、アイドル女性歌手という観点からすると、「Tさんは小泉今日子!」といったように人それぞれであるわけなのですが、私の場合はどうやら筒美京平系の「アイドル路線」に乗せられていたようです。それは、山口百恵・松田聖子・中森明菜といった路線とは若干性格を異にしているように思われます。また、付け加えるに、最近、『あまちゃん』の『潮騒のメモリー』で円熟した歌唱力をみせた薬師丸ひろ子の『時代』(2013年ライヴ)は、若い頃のそれと比較して、「歳をとることも悪くない!」と思わせてくれる実に素晴らしいものでした。ということで、私は、ロシア民謡の「すずらん」という曲が好きだったのですが、どうやら、〈少し屈折〉した〈清純派〉が好みだったようです。サロさんは、どうだい?

   ところで、今回は、〈お笑いもの〉もたくさん見ました。綾小路きみまろとか、コロッケとか、昨年「さようなら原発講演会」で〈生〉で見た、ザ・ニュースペーパーの「原発を東京湾に造らなかったのは万が一の事を考えて」などです。まあ、今の日本の政治状況は、笑い飛ばしてしまわなければストレスばかりがたまるといった代物ですからねえ。また、改めて、忌野清志郎の『サマータイムブルース』や『ラヴ・ミー・テンダー 』なども聴き、彼の「偉大さ」を再認識したところです。というわけで、今日は最後に、清志郎の『ラヴ・ミー・テンダー 』の一節を引用し、筆を置きたいと思います。

  巧みな言葉で一般庶民を
  ダマそうとしても
  ほんの少しバレてる
  その黒い腹

  ナニやってんだ 偉そうに
  oh, my darling, i love you
  ダマされちゃいけねえ

   

「衆院選2014」―――投票に行ってきます!

「選挙に行きますか?人間やめますか?」
  ―――アベ政権の2年間を審判する


  

   ※ 先週の『サンデー・モーニング』で、姜尚中氏は、「選挙行きますか?それとも、人間やめますか?」という表現で、今回の衆院選の持つ重要性を強調していました。もちろん、こうした発言を支えているのは、選挙後の4年間の日本政治への深い懸念であるに違いありません。実際、今回の選挙の焦点は、伊東光晴さんがアベノミクスの「第4の矢」と表現した安倍政権の「戦後レジームからの脱却」路線、すなわち、日本を〈海外〉で「戦争のできる国家」へと変え、軍備を増強し、武器輸出で儲けることのできる国家体制へと導くことを許すかどうかという深刻な選択とならざるを得ないと考えられるのです。安倍政権の主要な目標は、〈国民の経済的福利の増進〉なのではさらさらなく、アベノミクスなる〈目くらまし〉的な経済政策で国民を惑わし、第4の矢を放とうという心算であることは明らかだと私は思っています。  

   ところで、アベノミクスなるものは、社会を支えている「一般ピープル」の生活という観点からすれば、その〈失敗〉は明らかであり、時間がたてばたつほど白日の下に晒されることになるでしょう。2週間ほど前の『報道ステーション』でも、消費税を10%に引き上げる2017年までに景気は回復するのかという司会者の質問に、自民党と公明党の党首はYesと答えられなかったのです。そうでしょう。しかし、それにもかかわらず、「この道しかない」ので〈信じてね〉、というわけなのです。

   伊東光晴さんによれば、そもそも、アベノミクスの「第1の矢は飛んでいない」、「第2の矢は折れている」、「第3の矢は音だけの鏑矢?」なのだそうで、アベノミクス自体が「まやかし」なのです。私自身も、2年前からこのブログで、失敗を運命付けられている「アホノミクス」を批判してきましたが、今日も投票に行く前に、もう一度、この点を確認してから出かけたいと思います。

   第1の矢―――大胆な金融(緩和)政策について。

 「鈔銭出でて明衰え、鈔銭盛にして明滅ぶ。(紙幣が出だして明朝は衰え始め、その紙幣が多くなって明朝は滅びた。」(佐藤一斎『言志後録』41)〈「インフレ起こされ〈民〉滅ぶ」

  アナクロニズム(時代錯誤)をもじった「アベクロ(安倍・黒田)ニズム」という造語もあるのですが、日銀・黒田が市場に大量の通貨を供給しインフレ(通貨膨張による物価高)を引き起こすことによって、一般ピープルたる私に良いことなんかあるわけないのです。最近の私は、買い物に行くたびに、物価上昇の激しさに衝撃を受けています。そして、そのことは、同時に、私の多くはない預金の実質的目減りをも意味しているのです。もちろん、この金融緩和によって株価が上がったと喜んでいる人もいるでしょうが、伊藤さんの言うように、実はその原因たるやマネーゲームに走る外国資金の流入によるものであって、日本の実体経済の強化によって引き起こされているものではないらしいのです。それでは、円安の方はどうなのでしょうか。これも、円安によって引き起こされた輸入品価格の上昇によって、私たち一般ピープルの生活はまさしく直撃を受けています。もちろん、一部の輸出関連企業は、為替差益で(例えば、海外で生産した商品を売って得た外貨を日本国内で円に変え)利益を得て、社内留保を増大させていますが、これも国内の実体経済の充実につながっているわけではありません。大体、経済の基本的諸条件(ファンダメンタルズ)の観点からして、どうして、円安が好ましいなどという意見が幅を効かせることができるのでしょうか!
   結論的に言うと、インフレターゲット2%などという安倍政権の「第1の矢」は、一般ピープルの〈実質賃金や預金〉を目減りさせることによって、すなわち、膨大な一般ピープルの犠牲によって、一部の人々が利益を得るというものなのです。そして、そのことをごまかし、正当化しようとするのが、新自由主義の「トリクルダウン理論」という似非理論ですが、その実態は本場アメリカを見れば明らかなことであり、要するに、いくら待っても、アメリカのよう(一部の超富裕化・中間層の没落・貧困層の増大)になってしまうだけなのです。アホらしい!!!

   第2の矢―――機動的な財政出動(公共事業)について

 「物其の所を得るを盛と為し、物其の所を失うを衰と為す。天下人有りて人なく、財有りて財無し。これを衰世と謂う(物が、その適当なところを得れば盛となり、その適当な所を失えば衰える。天下に多くの有能の人がいても、そのところを得ていなければ有用な人がいないのと同じであるし、金があっても、それが適当な所にあるのでなければ、金がないのと同じである。このような世を衰えた世というのである。)」(佐藤一斎『言志後録』63)〈「〈民〉に金なけりゃ意味がない」

   さて、日本の財政赤字(借金)は、今や、中央と地方を合わせると1000兆円を越えると言われており、ネット上の「財政赤字カウンター」なるものを見ると、その凄まじさに息をのむほどです。「国債は税金の先取りである」とは高校時代に教わったことですが、最近の新自由主義の下での課税の累進性の緩和=大衆課税の強化という趨勢の下では、その負担は次世代の「一般ピープル」の肩に重くのしかかっていると言って良いでしょう。
   ところで、私が教えられてきたケインズ主義(修正資本主義)の経済学では、資本主義経済に宿命的な景気変動に対して政府が行う公共事業などの財政政策は景気対策としても極めて重要な意味を持つものでした。ということになると、景気回復(ーデフレ脱却)のために実施されるアベノミクスの〈機動的な財政出動〉も正当化されるのでしょうか。私は、それについても、大きな疑念を持っています。と言いますのは、これまでも、日本の財政赤字は、国家による産業育成や社会資本整備そして社会福祉の充実のためだけではなく、〈お友達へのバラマキ〉や〈シロアリ〉飼育のために必要以上に膨らんだと批判されてきましたが、アベノミクスによる公共事業も、こうした疑念を一向に払拭していないのです。あいかわらず、一般ピープルからの課税と次世代の一般ピープルの負担に基づきながら、〈お友達へのバラマキ〉が継続されているだけなのではないでしょうか。それも、一方で、一般ピープルの生活の質に大きな影響を与える社会的共通資本や社会福祉を切り詰めながら!です。
   さらに、私が勉強した景気回復に向けたケインズ経済学の鍵的な媒介論理は、あくまでも、〈完全雇用〉の実現による〈有効需要〉の増大でした。しかし、アベノミクスはこれとは全く逆の方向を向いているとしか思われないのです。その労働政策や社会福祉政策は、膨大な働く一般ピープルの雇用を不安定化し、賃金を抑制し、その生活保障を切り詰めるばかりです。これについては、公表されている不安定雇用の増大と実質賃金の低下だけではなく、私たちの生活実感それ自体がそれをはっきり証明しているといってよいでしょう。これで、どうして、消費が拡大し、景気が回復するというのでしょうか。要するに、安倍政権の経済政策は、一般ピープルの負担に基づいて、かれらの〈お友達〉に金を回しているだけなのです。しかし、〈民〉に金が回らなければ、安定した経済的福利など実現不可能なのです。


   第3の矢―――民間投資を喚起する成長戦略

   時間がなくなってきたのでもうやめますが、これも、相変わらず、新自由主義の「民間活力・規制緩和」路線です。おまけに、「原子力村」の利害におもねる原発の再稼動、軍需産業を「死の商人」へと格上げする武器輸出の解禁、誰のためかはわかりませんがカジノ設置等々というわけですから、私の「理解」を大きく超える代物と言わねばなりません。まずは、自然エネルギーの開発・推進、平和的な産業の育成、地域的経済圏の再建等々、人々が安心して暮らしていける経済の仕組みをこそ探求すべきでしょう。

   ―――ああ、師走だなあ! サロさん! 選挙に行ってくるよ!
   

    「破局―――この道しかなかった」となりませんように
            

秘密保護法を廃止せよ!―――紙上でデモに参加する

「秘密」は民主主義を破壊する
  ―――人権は権力を抑制することによって守られる


   
  ※ この一週間、予定外の仕事が入り、その間に「特定秘密保護法」が施行されてしまいました。新聞には、この悪法に反対する首相官邸前での市民の抗議行動が報道されています。私も、体調が良く、仕事がなければ出かけて行きたかったのですが、今回はこのブログ上でデモに参加したいと思います。

    「戦争の最初の犠牲者は真実」(『東京新聞」2月10日)―――「特定秘密保護法」の内容については新聞等で詳しく報道されていますが、簡単に要約すれば、この法律によって、国家権力機関は、「国の安全保障に著しい支障をあたえる」とされる〈膨大な領域にわたる〉情報を十分なチェック体制もないまま〈恣意〉的に「秘密」に指定し、それにアクセスしようとしたり、それを国民に知らせようとする者を厳罰(公務員などによる漏洩なら最高懲役10年、市民や記者などによる唆し・煽り・共謀などなら最高懲役5年)に処すことによって、主権者たる国民の「知る権利」を侵害し、権力の一層の〈恣意〉的行使に道を開くものと危惧される、ということです。とりわけ、この法律は、安倍政権の〈閣議による〉集団的自衛権容認、、すなわち、戦後日本の「専守防衛」という安全保障政策を大転換させる、海外での米軍との共同行動ー戦闘行動を可能とする「戦争のできる国家」づくりの一環として位置づけられるものであって、これからの日本にとって極めて大きな影響を与えるものと考えられるのです。

   ところで、これまでの日本の歴史を〈統治するもの〉と〈統治されるもの〉との関係という観点で振り返ってみると、そこには、やはり、反あるいは非「民主主義的」な「秘密主義」の強い傾向を認めないわけにはいかないでしょう。もちろん、特定の時代における「権力エリート」に対する「一般ピープル(ノン・エリート)」の立場からの評価は様々であり得ます。例えば、封建的身分制社会の中とはいえ、目安箱の大岡越前や天明の飢饉対策の松平定信は評価できる、などです。しかし、「権力エリート」の内部にしばしば見られる「選良主義(エリーティズム)」の最悪の形態は、社会を支える「一般ピープル」の利益を犠牲にして恥ないことはもちろん、いわゆる、「一般ピープル」を社会の「公」的領域から実質的に排除し、操作の対象とする「秘密主義」と固く結びついていたと言えるでしょう。とりわけ、近代以降の、明治政府の「専制」政治や「15年戦争」へと雪崩をうった「天皇制国家」の支配体制にみられた政・官・軍の〈権力主義者〉たちの「秘密主義」は、日本の「一般ピープル」に多大な犠牲を強いたということができます。しかも、彼ら「選良」の多数派は、「そのつもりはなかった」・「仕方がなかった」・「この道しかなかった」などと愚劣な〈言い訳〉に終始しつつ、その歴史的〈過程〉とその〈結果〉の中に見られる〈無能〉と〈無責任〉を私たち「一般ピープル」の前に晒したのでした。

   しかし、戦後の私たちは、戦前のそうした経験を十分に生かしてきれていないように思われます。と言いますのは、現在、私たちは、アメリカの〈解禁機密文書〉によって、「サンフランシスコ講和条約」・「日米安保条約」・「日米行政協定」締結時、砂川事件訴訟時、新安保条約締結時、沖縄返還交渉時、そして、相模原米タン輸送阻止闘争時などにおける日米両政府間の秘密交渉や〈密約〉を知ることができ、また、そこで、国民の生活と命に関わる重大な問題が、一部の官僚や政治家により、国民の目も意志も届かない、しかも、アメリカの手の影に覆われた密室で決められていった有様を知ることができるにもかかわらず(吉田敏浩+新原昭治、末浪靖司の『検証 法治国家崩壊――砂川事件と日米密約交渉』創元社などを参照)、こうした〈主権者〉たる国民を愚弄する政府・官僚機構の「秘密主義」をその後の政治過程においても許してきてしまっているからです。今回の選挙公約にすらなかった「特定秘密保護法」のドサクサ紛れの制定と施行も、〈無能〉・〈無責任〉な「選良主義」者―――真っ当な「エリート」ならあんなやり方はしないでしょう―――に自由裁量権を与えるのか、あるいは、国民の〈主権者〉としての権利と人権を守るのかどうかという根本的な問題でもあったはずなのです。しかし、間違いを正すのに遅すぎるということはないでしょう。この馬鹿げた政治状況においても、私たちは、ニヒリズムに陥ることなく、声をあげ続けるほかはないのです。

  日本を戦争に引きずり込む、天下の悪法「特定秘密保護法」を廃止しよう!
    
   

「クイズ――赤い帽子・白い帽子」〜全ては疑いうる

「囚人のジレンマ」応用バージョン
   ―――囚人Bが人を信頼できない場合


   ※ 我が〈しもべ〉たる飼い主は、最近、夜ニュースを見るとストレスが溜まるのでネットを見ていたらあるクイズを見つけたんだって。僕は答えはBでしょと言ったんだけど、サーバントさんはDかみんなだと言い張るんですよ。困ったもんだ
   ―――ネットで「赤い帽子・白い帽子」というのを見つけました。実によくできたクイズで感心したのですが、サロさんとは意見が合いません。サロさんって「忠実なわんわん」ではないようです。


   クイズはこういうものでした。

dsc00090.jpg


クイズ「自分の帽子の色が分かるのは、一体だれ?」

前提条件
・4人の死刑囚(ABCD)は、赤or白のどちらかの帽子をかぶらされており、赤の帽子をかぶっているのはAとC。白の帽子をかぶっているのはBとD
・帽子の数は赤2つ、白2つ。4人の死刑囚とも、このことを知っている。また、誰がどの位置にいるのかも全員知っている
・4人は後ろを振り向いてはならず、少しでも動いたら射殺される
・Bは目の前にいるAの帽子の色を見ることができ、CはAとBの帽子の色を見ることができる。AとDは誰の帽子の色も見ることができない
・自分がかぶっている帽子の色を言い当てることができたら、全員釈放される
・しゃべっていいのは、自分の帽子の色が分かった時だけ。もし自分が言った答えが間違いだったら、全員射殺される

さあ、どうだろうか? 自分の帽子の色を言い当てられるのは、一体誰なのだろうか? ぜひみなさんも考えてほしい。もし分かった場合は「次へ」ボタンをクリックし、答えをチェックだ!
画像:RocketNews24
次へ ≫  答えは【続きを読む】を参照
カテゴリー 国内 (クイズ • 帽子 • 死刑囚)

   このクイズに対して、我がサロさんは、答えは「B」だと言います。しかし、サーバントは、こうしたクイズの場合、ある種の「固定観念」が前提となっていると思うのです。クイズの答えは「B」なのですが、その場合、Bは他の人間(C)も自分と同じような数的処理や論理的思考をするものだという仮定と信頼(思い込み)が前提となっているのです。つまり、実際に自分の目で確認することができない場合には、こうした仮定と信頼がなければ、たとえ全員釈放というご褒美があっても、間違えれば〈即〉全員射殺というリスクをわざわざ選択することはないとも考えられます。(あるいは、死刑囚はみんな50%の確率にかけて手をあげるかもしれません。)
   ところで、数学者A・W・タッカーの「囚人のディレンマ」という話があります。すなわち、逮捕されたらお互いに黙秘しようと約束しあったAとBが、共同で同一の犯罪を犯して逮捕され、別々の独房で取り調べ受けています。そして、この二人には、次の4つの可能性が示されます。第一は、両者とも約束を守って最後まで黙秘すれば、証拠不十分で二人とも釈放される(+5)。第二は、どちらも自白して有罪となり投獄される(−5)。第三・四は、AとBのそれぞれが、一方が約束を破って自白し釈放されて賞金をもらい(+10)、他方が約束を守って黙秘し罰を加重される(ー10)、というものです。これは、次のような表で表されます。

             B 黙秘       B 自白
      A 黙秘 ( 5、 5)  (ー10、 10)
      A 自白 ( 10、ー10)  ( ー5、ー5)

   さて、問題は、こうした場合、AとBとはどのような行動をとるのが最も「賢明」であり「現実的」かということです。これに対して、ゲームの理論の「ミニマックス」的行動原理に基づけば、相手がこちらを裏切ってこちらの利益に反する行動をとる可能性があると想定する場合には、一方が黙秘し他方が自白した場合に黙秘した方に起こりうる事態は−10であるのに比べ、双方が自白した場合に起こりうる事態は−5に過ぎないので、二人とも約束を破って自白するのが双方にとって「賢明」・「合理的」であるということになる。簡単に言うと、相手が自分を裏切る可能性を想定すれば、どうせ裏切られるなら、こちらも裏切ってしまった方がましだ、と考えるわけです。すなわち、この問題のポイントは、〈相手を信頼できるか否か〉ということになるのです。ですから、「赤い帽子・白い帽子」のクイズのBさんも、同様な〈価値判断〉によって左右され、Cを信頼できない場合には、手を上げずに、「即射殺」のリスクを避ける方が賢明であると考えることもできるのです。

  ところで、そうした場合においても、このクイズに答(自分の帽子の色がわかる人)が存在するとするならば―――勿論、その場合には、このクイズの前提条件(壁があるので、「Bは目の前にいるAの帽子の色を見ることができ、CはAとBの帽子の色を見ることができる。AとDは誰の帽子の色も見ることができない。」)に反することにはなりますが、―――確信を持って手を挙げられること、すなわち、自分自身で他の三人の帽子の色を見ることができるのでなければなりません。つまり、あの平面図にある「壁」がその〈見ること〉を妨げていないと考えるほかはないでしょう。例えば、あの壁が立体的には5㎝位しか突き出ていないとか、壁の素材がすりガラスであるとか、壁に窓が開いているとか、鏡であるとか、マジックミラーであるとかです。こうした場合、すりガラスであればCとD、鏡の面がDに向いたマジックミラーの場合もCとD、鏡がABCに向いたマジックミラーの場合は全員、片面の鏡の場合はDだけかABC、両面の鏡の場合は全員などということになるでしょう。詭弁ですかね(苦笑)。



DSC_2374ヘムヘム

   
   ―――ということで、サーバントは、答『B』に抵抗するのですが、サロさんはヘムヘムヘムとただ笑っているだけなのです。私だって、健さんや文太兄いのファンですから、「B」でもいいとは思うんですよ。う〜む、サロめ‼︎

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プロフィール

SARO MURIKI

Author:SARO MURIKI
おりこうさんのワンワンです。年齢は、2018年11月現在満12歳です。見てのとおりの柴ですが血統書はありません。性別はオスで、飼い主には、朝夕、45分ずつ2回の散歩を義務付けているVIP犬、正確に言うと、VIDです。文句あっか?!

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