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『君の名は』を観て―――あの日あの場所で

 〈運命的〉な出会いへの想像力
      ―――時空を超えた「同胞」への共感から!


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あの日のことを思い出すねえ


   ※昨日、サロさんのご飯を買いにペットショップに行ったら、たくさんのワンちゃんを見かけました。しかし、これまでもそうだったのですが、どのワンちゃんとも目のピントが合わないのです。ところが、10年前、あのペットショップの前を通りかかったサーヴァントとサロさんとの目は本当にガッチリと合って、まさに〈運命的〉なものを感じたのです。そして、翌日から、サロさんは私たちの家族の一員になりました。人生には、このようなこともあるものです。

   先週の日曜日、今話題の新海誠監督作品『君の名は』を観に行きました。若者をターゲットにしたアニメーション映画でしたが、テレビによると、興行収入がなんと歴代第4位(ちなみに、第1位『千と千尋の神隠し』、第2位『タイタニック』、第3位『アナと雪の女王』)なのだそうで、中高年の観客も多いとのことでした。そんなわけで、ミーハーな私も遅ればせながら観に行くことにしました。

   さて、視聴後の感想ですが、前評判通り、その映像の美しさは特筆すべきだと思いました。とりわけ、都市(東京)の風景の描写には感心させられました。『かぐや姫の物語』の淡い色彩表現も印象的でしたが、このアニメ映画の風景描写は、写真のそれよりもはるかに美しく、また、親近感を感じさせるものでした。

   「2nd兄貴」によれば、新海監督は一部のアニメファンにはよく知られた人物だったとのことですが、ここまでメジャーになりうる要素は何だったのでしょうか。もちろん、それは、やはりストーリーそのものが持つ独特な魅力であったろうと思われます。私は、連続ラジオドラマ『君の名は』をかすかに記憶している世代ですが(『宝島』や『一丁目一番地』などは主題歌もはっきり覚えています)、今回のアニメはそれとは全く違った印象を与えるものです。また、男女が入れ替わるという点についても、(性の制約を超えた新しい女性の可能性を感じさせる)『とりかへばや物語』とは勿論のこと、(「らしさ」にこだわらない魅力的な少年・少女の「鏡像段階に於ける自己認識」をテーマとしたという)『おれがあいつであいつがおれで(『転校生』)』とも違ったものです。私が感じたこの映画のストーリーの魅力は、以下のようなものでした。

   「赤い糸で結ばれていた」とは、私たちが一度は耳にした言葉だと思います。男女の〈運命的〉な結びつきへの「感覚(センス)」は、トワ・エ・モワの『或る日突然』のような場合など、様々でしょう。しかし、その最も劇的で心揺さぶられるものは、やはり、突然の邂逅(「ひとめぼれ」)によるそれなのではないでしょうか。それは名も知らぬ〈未知〉の人であるにもかかわらず、どこかで会ったことのあるような〈既視感〉を伴う「感覚」でもあります。おそらく、それは、なんらかの「経験」に基づきながらも、我々の持つ想像力によって紡ぎ出された憧れの〈理想形〉との出会いでもあるのでしょう。こうした〈恋愛〉感情は、人間にとって普遍的なもののように思われます。もちろん、そうした観念は「幻想」であり、人々を悩ませることにもなります。しかし、ごく稀に、そうした「幻想」の中に生き続け、来世にまで持っていける人たちもいるようです。羨ましい限りですね(笑)。

   ところで、この作品のストーリーに独特の個性と「深み」を感じさせるのは、その端緒が、生きていれば5年後に恋人として出会うことになったかもしれない、被災地で亡くなった少女に対する少年の共感と想像力に発しているが故だろうと考えられます。もちろん、この少年は美しい飛騨の自然とそこに生活するまだ見ぬ少女に憧れ、また、少女も同様だったことでしょう。そして、この惹かれ合う〈未知〉の二人の憧れと〈共感〉が、遡及するが如くに、「入れ替わり」を生んだように思われるのです。人間の想像力は、時空を超え、或る時は「縄文時代」に、そして、或る時は「未来社会」にさえ及びます。そして、この「共同性」に対する「感覚(センス)」こそが人類を結びつける「絆」に他ならなのではないでしょうか。
   被災者名簿に名前があった少女が、実は、あの新聞記事のように、その〈結びつき〉の力によって生き残ったのかどうかはわかりません。この点でシナリオに若干の違和感が感じられました。しかし、その〈結びつき〉の「感覚(センス)」と記憶こそが、「災害」を超えて、人々を「生かし続ける」ことになるのだろうと思うのです。切れそうな〈運命〉の糸を紡ぎ続けるのは私たちなのでしょう。

   今日は、歌舞伎『しらぬい譚』を観てきました。そして、27日からは、オリバー・ストーン監督作品の『スノーデン』が封切られます。期待しています。(1月24日記)

   

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下諏訪旅行―――〈御柱〉を訪ねて

 異文化間の闘争と和解
  ―――日本列島における〈縄文文化〉と〈弥生文化〉を考える



   ※今年の第1回家族旅行は、下諏訪の諏訪大社下社「春宮」・「秋宮」に決りました。決めたのは「奥さん」と「姉貴」ですが、サーヴァントも大賛成でした。と言いますのは、昨年、『古代史ミステリー 御柱〜最後の縄文王国』と言うテレビ番組を観て、一度は行ってみたいと考えていたからです。ところで、私は、これまで何度か触れてきたように、柳田民俗学を踏まえた神島二郎の政治学(主著としては『近代日本の精神構造』)に少なからぬ興味と関心を抱いてきました。それは、私自身がその一員である日本の〈一般ピープル〉の「姿」を省察する上で不可欠の一視点のように思われたからです。そして、その中で、とりわけ興味深く感じていたのが「馴化」ー「馴成」という概念でした。こうした観点からすると、諏訪大社の〈御柱〉のあり方は、私たち「日本人の発想」を読み解く一つの重要な鍵だと感じられたのでした。以下、1泊2日の下諏訪旅行を振り返ります。



【一日目】

雪の諏訪大社下社秋宮で

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 ※下諏訪駅を降りると、先ほどから降り出していた雪が1〜2センチほど積もっていました。駅前にある長野冬季オリンピクの時に建てられたという〈御柱〉を見た後、期待に胸を膨らませながら「下社秋宮」に向かいました。諏訪大社とは、4箇所(上社本宮・上社前宮・下社春宮・下社秋宮)のお宮から成る神社です。それは「諏訪明神」を祀るものですが、その「社」をそれぞれ4本の〈御柱〉が「守って」いるのです。いうまでもなく、問題はそれが何を意味するかです。
   写真の背後にあるのは「神楽殿」で、両脇の狛犬は青銅製では日本一の大きさといわれています。こりゃ、サロさん勝てないわ!


秋宮一之御柱
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 ※〈御柱〉は、〈奥山から里に下って神となる〉樅の巨木で、寅年と申年ごとに「建て替え」られます。その時に行われるのが、あの「木落し」で有名な「御柱祭」です。
  ところで、先に取り上げたNHKの『古代史ミステリー 御柱』によれば、諏訪地方は、BC10世紀以降日本列島に入ってきた稲作文明を自主的に拒否し、森の恵みと共に暮らす(狩猟・採集の)「最後の縄文王国」でした。また、そこには、聖なる場所に巨木を立てることによって山と森の神(精霊)たる「御左口神(ミシャクジ)」を祀り、相互の結束を確かめ、生きる力を得る信仰があったと考えられるのです。ところが、BC3世紀ごろ、この地域に稲作文明が持ち込まれます。そして、それを持ち込んだのが、出雲において「高天原」系に最後まで抵抗し、戦いに敗れてこの地方に逃げてきた、(あの『古事記』の「国譲り」神話で有名な)大国主命の息子「建御名方(タケミナカタ)命」だったのです。そして、この「シカを殺して田畑を拓く」タケミナカタに対抗した縄文系の人々の指導者が「洩矢(モレヤ)」でした。ただ、その争いの結果として、両者の間には〈微妙な〉「和解」と「共生」の関係が生まれたのです。そして、そうした「融和」の宗教上の表れが、勝者たるタケミナカタはこの地方の縄文系の神たるミシャクジの存在を許容し、また、モレヤは外来のタケミナカタの神を祀り、神事を司るということだったと考えられます。それが諏訪明神(タケミナカタ)を祀る諏訪大社の「御柱」に表れているのです。(以上私の「読み込み」も含めて)
   二つの「文化(文明)」間の争いはいつもこうした形で収束するというわけではないでしょう。そうした意味において、諏訪に稲作(弥生文明)を導入したのが、高天原系に最後まで抵抗した出雲系のタケミナカタだったことには何か大きな意味があったのかもしれません。また、諏訪明神(タケミナカタ)のご神体は御山や一位や杉の御神木でもともと社殿はなかったといいますから、そもそも、高天原系に国を譲ったといわれる出雲系の人々とはどのような人々だったのでしょうか。海から渡ってきた先住の稲作農耕民だったのでしょうか、あるいは、諏訪の人々と同じように、農耕を受け入れた縄文系の人々だったのでしょうか?
   それにしても、ここに見られるような「融和」の意義については、「個」的水準ではもちろんのこと、「文化」論的にも「評価」は様々だと思います。しかし、口先だけで「和解」や「寛容」を唱える、アベやアソウの「競争原理主義」や「ぼったくり主義」などと比較すれば、はるかに検討に値する深さを持っているように感じるのです。
   
 

【二日目】

甲州道中と中山道の合流点ー「錦の湯」前で

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 ※秋宮近くの宿で一泊した後、「すわのね」のオルゴールを聞いてから、旧中山道を通って「春宮」に向かいました。写真は、甲州道中と中山道が合流した下諏訪宿「錦の湯」の前です。「錦の湯」は、先にも述べたタケミナカタのお妃に縁のある温泉で、昨年亡くなった永六輔さんの書いた石碑もありました。



旧中山道の宿場町を歩く
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 ※旧中山道沿いには本陣跡を始め、大小様々な宿屋があります。その風情にはなんとも言えない趣があります。宿といえば、私たちが泊まった宿の割り箸の袋に「あざみの歌」と「信濃の国」の歌が印刷されていました。「信濃の国」はその美しい自然の中で優れた文化と人材を生み出してきた信州人の思いが表現されたもので、大変興味深く感じました。また、「姉貴」が「あざみの歌」ってどんな歌と聞くので、歌詞を見てみるとなんとメロディーが浮かんできました。おそらく、何十年もの間一度も歌ったことはなかったはずです。歌の力はすごいと再確認しました。これも良い思い出になりました。また、この地は、『平家物語』第7巻の「実盛」で斉藤別棟実盛と〈一騎打ち〉を演じた木曽義仲の家来、手塚別棟金刺光盛の所領だったとのことです。木曽源氏の人気が感じられました。



諏訪大社下社春宮・左右片拝殿
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 ※「秋宮」から「春宮」まではゆっくり徒歩で35分ほどでした。「春宮」にも本殿はなく、正面に神楽殿、そして、その奥に写真の幣拝殿と片拝殿あります。さらに奥には宝殿があり、また、その奥にそびえる杉の木が御神木なのだそうです。つまり、私たちは、「山の神」・「森の神」となった「建御名方(タケミナカタ)命」に参拝しているということになります。境内には樹齢数百年にもなろうという欅などの巨木が立ち並び、壮観でした。この後、「万治の石仏」に向かいましたが、その途中にある御柱を建てたミニチュアのような社がなんとも可愛らしく思えました。



「よろずおさまりますように」―万治の石仏
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 ※もう一度見てみたいという仏像の顔はそうあるものではありません。しかし、岡本太郎さんも「推薦」したという「万治の石仏」はそうした仏像の一つです。なにしろ、その個性的な姿は本当に印象的です。とりわけ、その顔は、なんとも言えない優しさを湛えながらも、私たちのすぐ側にいそうな人物のそれなのです。近くにあった解説文を読むと、「『南無阿弥陀仏』と唱えれば、現世でこの身このまま成仏できると説き、民衆に即身成仏による仏としての自覚を与えた。これは今までに例のない念仏思想で、『仏頭授受』を伝えるものと言われている。」とありました。要するに、「即身成仏」の姿なのですねえ。



諏訪湖の冬姿
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 ※「万治の石仏」からは、参詣道を下り、途中で「ハッピーしもすわ丼」(840円)を食べ、諏訪湖畔に向かいました。諏訪湖を間近に見ることは初めてでしたが、中央道のサーヴィスエリアから見る姿とは違って、雪の湖岸に水鳥が遊ぶその姿は大変優雅に感じられました。また、以前テレビドラマで見た武田勝頼やその母「諏訪御前」のことも思い出されましたが、彼らの見た諏訪湖はどのような姿だったのでしょう。実は、この写真の中央に富士が見えるはずなのです。この時も、本当に微かではありましたが、その姿を認めることができました。



車窓からの富士――甲府付近
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 ※諏訪湖からははっきり富士を見ることはできませんでしたが、帰りの車中で姿を現した厳冬期の富士は、やはり、この旅を締めくくるに不可欠のもののように感じられました。富士は本当にいい山ですねえ‼︎





徒然なるままに「睦月」―――2017年1月

トランプの「我儘爺さん」の如き醜さにウンザリ!
 ―――サロさんはシニアだが、頑固でも愛嬌があるよね‼︎




バカバカしい時には寝るに限るよ
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   ※2017年も半月が過ぎました。1年の24分の1ですね(苦笑)。こんな風に感じてしまうのも、きっと歳をとったせいなのでしょう。ところで、新聞によりますと、日本老年学会は「高齢者」の定義を現在の65歳から75歳にに引き上げるよう提言したのだそうです。これに従いますと、私などは、突然、「准高齢者」に〈格下げ〉になります。しかし、こうした〈呼び名〉だけを変えることの意図については疑念を持たざるを得ないと感じます。昨夜テレビで、デーヴィッド・ジーマン指揮ーN響「シューマン交響曲第3番〈ライン〉」を聴きましたが、このジーマンさんは80歳で、その若々しさは驚くほどでした。私の周りにも80歳を過ぎて益々元気な人がいます。他方、70歳を待たずに衰え、亡くなる人も少なくないのです。要は、個人差の問題です。そして、「高齢者」であろうと「准高齢者」であろうと、その社会参加(就労)や社会貢献は、あくまでも、「死ぬまで働かされる」ことであってはならず、また、現在の働く世代を苦しめる、「ブラック」とまで称せられる日本の労働環境を維持・補完するものではあってはならないと思います。このことは、健康保険や老齢年金の問題にも関わりますが、これらの点については、後日ゆっくり論じてみたいと考えています。

   それにしても、アベの顔を見るだけでもウンザリしていたのに、年の初めから、トランプとそれに擦り寄る日本の似非エリートたちの醜い姿を見せつけられては、ホトホト嫌気がさしてきます。トランプの表情は、アソウにも似た、傲慢な「お坊ちゃん」に「わがまま爺さん」の図々しさが加わったような、実に醜いものに感じます。「トランプは任期4年を全うできない」(www.huffingtonpost.jp/2016/11/11/story_n_12920374.html)とマイケル・ムーアが予想しているそうですが、しばらくは〈辛抱〉の日々が続きそうです―――〈辛抱〉といえば、私は先日『逆転裁判1』をクリアしたのですが、ゲームに行き詰まるとすぐブツブツ言うということで、なんとゲーム機器を回収されてしまいました。歳のせいで〈辛抱〉ができなくなったのかもしれません。それにしても、今時の若い人たちは本当に「穏やか」だと感じます(苦笑)。
   
   ところで、アベにしてもトランプにしても、その政治的手法は「権力政治」の「ズッコケ型」とでもいうべき情けない代物です。ここで詳しく解説などしませんが、例えば、マキャベリの『君主論』や『ディスコルシ(「ローマ史」論)』そしてナチスの台頭を目の前に著されたメリアムの『政治権力』などを思い起こせば、それらが、「権力政治」(あるいは、「リアル・ポリティクス」)の粗野で低レベルな適用でしかなく、情勢を一層混沌としたものにする、末期的症状を呈するものとさえ言えると思います。もちろん、「歴史は繰り返す」と言いますし、また、「一般ピープル」が「分断」され「堕落」させられている限りにおいては、決して油断することはできません。しかし、多国籍資本とまさしく国家が主導する〈グローバリズム〉が生み出す矛盾は、アベにもトランプにも解決することなどできないのです。また同時に、トランプらの勢力を「ポピュリズム(大衆迎合主義)」という概念で位置づけ、「イスタブリッシュメント」が主導する〈グローバリズム〉に対峙させている限りにおいては、それが生み出す矛盾(国内的・国際的格差)を基本的に解決することなどできません。すなわち、その矛盾に対する現時点における可能な〈国家〉的レベルでの対応は、国際金融資本と多国籍(超国籍)企業に対する〈規制〉であり、国内における北欧社会民主主義的な再編成だろうと思われます。さらに、その〈社会〉的レベルにおける対応は、様々な地域的・共同的な政治(自治体行政)や経済(協同組合等々)の編成ということになるでしょう。そして、こうした方向性への現実的な担い手は、例えば、アメリカにおける「サンダース陣営」、そして、日本における「野党共闘」ということになるのかもしれません。私たちには眼前の矛盾に対応する現実的な選択が突きつけられているのです。
   
  ゲームの機器を貸してもらえなくなったからというわけではありませんが、急にブログが書きたくなりました。この他にも、諏訪大社への家族旅行やアニメ映画『君の名は』の視聴など、書いてみたいことはたくさんあります。その節は、また、お付き合いください。

民の力で「逆転」を勝ち取りましょう!

  謹賀新年 2017
      ―――本年が真っ当な年でありますように!



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今年もよろしくね サロ・ムリキ


   皆様はどのように新年を迎えられたでしょうか。私は、27日から大晦日にかけて左側頭部の頭痛に悩まされ、2つの病院でCTまで撮って処方された薬が全然効かず、31日の夜に買った市販の頭痛薬に救われて―――凄まじい効き目でした―――、やっと穏やかな「新春」を迎えることができました。また、1st兄貴に勧められ、姉貴からソフトを、2nd兄貴から任天堂3DSを借りて16日から始めた『逆転裁判6』を、元旦の午前2時にクリアすることができました。今年は、人生で初めて、コンピュター・ゲームで年を越したわけです。いったいどんな年になるのでしょう。
   皆様の、今年一年のご多幸をお祈りします。   
                    サーヴァント・ムリキ


   さて、『逆転裁判6』は、成歩堂法律事務所の弁護士たちが依頼人の「冤罪」(濡れ衣)を晴らし、真犯人を突き止めていくというロールプレイイング・ゲームです。これまで私は『ドクター・マリオ』系のゲームが好きだったので―――20年程前、24レベルまでしかないHiをさらに2回連続してクリアしてハマってしまいました―――、Macの『プリンス・オブ・ペルシャ』以外は、こうした種類はやっていませんでした。第5話(+特別編)まであるのですが、印象的だったのは、その「反権力的」(?)なキャラの設定とセリフです。とりわけ、沖縄をはじめ、この国の今の司法の有様を考えると、感慨深く感じられました。

   それにしても、最高裁をはじめとする現在の司法の主流は、いくら憲法上、内閣が最高裁長官を〈指名〉し、その他の最高裁裁判官を〈任命〉することになっているとはいえ、あまりにも、自民党長期政権そして現在のアベ政権に盲従していると言わなければならないでしょう。そもそも、現在のアベ政権は、「インガ」(『逆転裁判6』のキャラ)ではなくて、アメリカに従属し、一般ピープルの命と生活を犠牲することによって身内とお友達の利益を貪ることに恥じることのない「清木政治」の如き輩の集合体というほかなく、そして、現在の司法は、「クーデタ」によって法を勝手に書き換える「ガラン」の様に、憲法を恣意的に解釈し違憲の戦争法などを強行採決したアベ長期政権の言いなりという有様なのです。これからの「違憲訴訟」で最高裁は憲法学者多数が違憲とする案件にどう対応するというのでしょうか。また、甘利の「不起訴」や数々の「国策捜査」を見るにつけ、今の日本には「御剣怜侍」のような権力に靡くことのない検事も消え失せたようです。もちろん、司法には、憲法上の法的理念を実現し、その自律性を発揮しうる可能性があると信じたいとは思います。しかし、今の司法には、まさしく、「ドゥルク・サードマディ」や「王泥喜法介」たちが追求した「革命」が必要なのだといえましょう。それにしても、彼奴らが連発する「愚民ども」は、いつ「真実」に目覚めるのでしょうか。

 「龍は屈せず」とか―――民の力で「逆転」を勝ち取りたいものです

   

プロフィール

SARO MURIKI

Author:SARO MURIKI
おりこうさんのワンワンです。年齢は、2018年11月現在満12歳です。見てのとおりの柴ですが血統書はありません。性別はオスで、飼い主には、朝夕、45分ずつ2回の散歩を義務付けているVIP犬、正確に言うと、VIDです。文句あっか?!

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