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「趣味の世界」とは何だろうか?

  流行(はやり)とは異なる自分固有の世界! 
    ―――この世界は「好き・嫌い」から出発することも有りだ



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僕の趣味はボーッともの思いにふけることかな


   ※一昨日は、テレビで『妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)・吉野川』を見た。これは『伊賀越道中双六』の作者でもある近松半二の「義太夫狂言」(人形浄瑠璃の作品を歌舞伎化したもの)で、「蘇我入鹿」の横暴によってその仲を引き裂かれようとしていた久我之助(市川染五郎)と雛鳥(尾上菊之助)が、入鹿の横暴を拒絶し、相手の生存を願いながらそれぞれ自害することになるわけなのだが、そうした最愛の我が子らの想いを理解しつつも、彼らを〈介錯〉せざるをえなかった大判事家の父親(中村吉右衛門)と太宰家の母親(坂東玉三郎)の悲劇が描かれた作品だった。そこには、こうした成り行きを《宿業》と受け止める「諦念」も語られているが、しかし、その涙の中には、強欲な権力者と武家社会の秩序に対する怒りと批判がはっきりと表出されていたと思う。そして、『妹背山婦女庭訓』四段目終幕においては、その入鹿が鎌足によって「成敗」されることになるわけだ。(「共謀罪」とは、こうした権力者に対する庶民の〈気持ち〉をも取り締まろうとするものなのだろうな。)

   さて、私の若い頃には、自分が歌舞伎中継に夢中になって見入っているなど想像もつかないことだった。もちろん、私は、教養のために、無理をして歌舞伎を見ているわけではない。今の私には、「今日用」も「今日行く」もないのであって、少数の例外的なことを除けば、好きなことだけをやり、嫌なことをやる必要などほとんどないからだ。すなわち、私が何かをやるかやらないかの判断基準は、純粋に個人的な「好き・嫌い」といって良いくらいなのだ。もちろん、他人様の迷惑になることをやってはいけないし、逆に、私がそうすることによって他者が喜ぶことを期待してということもあるだろう。また、単純に狭い範囲でのお付き合いということもあるかもしれない。ただ、どんなに流行っていようが、自分がやりたくないことはやりたくないのであり、反対に、他人様にとっては何の意味もないことでも、自分がやりたいことはやりたいのである。こうしたことは、ある意味で「どうでも良い」ともいえる「趣味の世界」においてこそ、はっきり感じられることだ。そして、そうであるからこそ、「ああ、なるほど、これが私なのか!」と改めて気づかされることもある。つまり、さしたる理由もなくそれを楽しんでいる私こそ、代替の利かない私自身に他ならないというわけだ。それ故にこそ、こうした「趣味の世界」においてすら、他律的に、嫌々ながら付き合わされたり、単に流行に流されているだけでは、極めて悲惨で虚しく感じられることもあるように思う。こうした意味において、個人がその「趣味の世界」で〈かけがえのない独立した人格としての尊厳〉を意識化することは極めて重要なことのように思われる。そして、そうした諸個人こそが、相互に尊重し合うことが出来ると言って良いのではないだろうか。自分の趣味を大切にすることは、自分自身を大切にすることであり、同時に、他者を尊重することにも繋がるのだ。

   ということで、最近の私の趣味を振り返りみると、昨日は、一昨年からやっている、レクリエーション農園の契約を更新してきた。昨年2区画に拡張したのだが、葦に敗北して挫折し、今年は1区画とした。サロさんのオヤツ(さつまいも)と野菜作りの楽しみのためだが、無理してはいけない。また、読書は、4つの図書館と付き合いがあり、現在も5冊の本を借り、また、3冊の本をリクエストしている。この読書も、以前は仕事の一環でもあったわけだが、現在はなんらかの目的や義務感のためではないので、単純に本を読んで考えることが好きなんだろうと思う。これに対して、音楽の方は、今週はまだ1枚のCDも聞いていない。エクセルでディスコグラフィーを作りながら聞いているせいもあって(要するに、好きな曲を聴くというよりも、持っているソフトを1枚ずつ聴き直しているので)、かえって純粋に楽しめていないのかもしれない。ちなみに、ディスコグラフィーは、3月27日時点で509だが、まだ、半分にも満たない。〈妙な(つまらぬ)〉目標や義務感はよくないようだ。子供の時分や仕事を持っていた頃、休みの日には何もしないで昼まで寝ているのが一番幸せと感じたことがあったけれど、考えてみれば、居眠りだって立派な「趣味」と言っても良いわけなのだろう。そして、番犬や警察犬や盲導犬のように特別な「仕事」をしているわけではないサロさんを見ていると、ほとんど「趣味」だらけの生活のようにも見える。しかし、よく考えると、私の散歩に付き合って私の健康を維持したり、色々なことをやってくれているようだ。サロさんは偉い!


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卓球のラバーを張り替えてみた

 変えること、変わることは悪いことではない!
   ―――私の卓球のラバーと籠池理事長




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僕だって随分変わったでしょう
成長したってことかい


   ※稀勢の里が照ノ富士との本割りと優勝決定戦に勝って、逆転優勝を果たした。へ〜っ!あの稀勢の里が!人間は変わるものなのだ!そういえば、アベ信者だった籠池理事長も、「自分」自身を貫くためだろうか、「アベお友達集団」から抜け出して、変身したよな。ということは、最近色々考え込んで「自嘲気味」の私も、案外すんなりとこの閉塞感から抜け出し、変わることができるのかも知れない。まずは、色々やってみることが必要なのかもしれぬ。
   
   昨年の10月から始めた卓球であるが、最近、かえって下手になってきたような気がしていた。感覚だけで打っていたはじめの頃は、不格好ではあったものの、結構それなりの結果が出ていたのだ。ところが、その後、本(DVD付き)を購入して、フォームを改造したり、色々な試行錯誤を繰り返したりしているうちに、厚い「壁」にぶち当たってしまったのだ。そんな状況をなんとかしようと、先週、「1st兄貴」から譲り受けたラケットのラバー(マークV)を貼り変えてみることにした。それは15年以上も前のものだったので、かなりの経年劣化が考えられたのである。何を貼ろうかと2週間程悩んだが、思い切って、水谷隼も使っているという「テナジー80」にすることにした。かなり高価なものだったが、最安値(5000円)のものを入手し、自分で貼ってみることにした。結果は驚くべきものだった!まず、スピードが全然違う。ゴムとは思えない金属音と共に今まで経験したことのないようなスピードですっ飛んでいくのだ。また、回転がよくかかり、今までだとイージーボールになっていた返球が、かなり変化して、相手のミスを誘うことになる。いやはや、感動してしまった。このラバーに慣れていけば、自分の技量は2倍以上にもなるのではないか?剣道の竹刀選びにも細心の注意を払ったが、卓球のラバーの選択も大きな違いをもたらすようだ。次は、ラケットも考えてみたいと思っている。変えてみることは悪くないようだ。

   ところで、変わるといえば、森友学園の籠池泰典理事長の「変身」も大変注目すべきことだった。おそらく、〈明治憲法ー教育勅語〉体制を〈実践〉していた森友学園を〈持ち上げ〉、〈支援〉していたアベ・松井勢力が、問題発覚後、手のひらを返したように森友学園だけを悪者にして保身に走ったため、〈明治憲法ー教育勅語〉体制を声高に主張する市井の「顕現」右翼としては許せなかったのだろう。ある意味で、真っ当な感覚だ。それにしても、先週の国会での籠池理事長の「証言」は、日本の政治システムの基本構造を明らかにする上で極めて意義あるものだったといえる。すなわち、それは「安倍晋三記念小学校」問題の背後にある《政ー官ー「お友達」》関係の有り様を白日のもとに晒すことになったからだ。私もそうだったが、普通の人々の多くは、籠池氏の証言を極めて信憑性の高いものとして受け取ったことだろう。もし権力側が、例えば、100万円の寄付について反論しようとするならば、少なくとも、彼と同等の〈証人喚問〉で対抗しなければならない。それ以外は全てごまかしである。〈証人喚問〉となれば、より細部に渡るまでの検討がなされ、さらなる〈証拠〉や〈証言〉が出てくることになるだろう。ただ、昭恵夫人を媒介とした官僚による森友学園に対する異常な対応と優遇、そして、国有地の格安の払い下げは、あの〈2枚のファックス〉でも十分に可視化されていると言えるのだ。アベや政府は、焦点をずらすことによって目くらまし的言辞を弄そうとしているけれど、普通の国語力があれば、その欺瞞性はすぐ理解できる程度のものだ。また、同様のことは、大阪府による許認可についても言えて、「ハシゴをかけてあげた」松井知事をはじめ、追及を怠らなければ、より明瞭な事実が次々と明らかになるだろう。個人的な感覚では、これからの焦点は、「辞任」した酒井康生元顧問弁護士とアベ夫人付の元職員谷査恵子氏の〈証人喚問〉だろう。そして、そうした中において、さらに、金額の異なる三種類の契約書がどのような経過で作成されたかも明らかになるのではなかろうか。とにかく、2人が「雲隠れ」したり、「証言ができなくなってしまう」ことがないように祈りたい。
   それにつけても、もし豊中市議木村真氏の追及や真っ当なマス・メディアやジャーナリストの活躍がなければ、嘘八百のアベ一族、公僕どころか権力の「使いっぱ」として働き甘い蜜を吸い続ける高級官僚、そして、現代の「政商」たる「お友達」の有り様も闇に閉ざされたままだったことを再確認しておかねければならない。そして、元総理夫人は、何事もなく、「安倍晋三記念小学校」の名誉校長におさまることになったのだ。

歌舞伎『伊賀越道中双六』を観た

 歌舞伎の醍醐味を集めた感動的〈名演〉!
 ――それにしても、なぜ「仇討ち」が民衆の心をとらえたのだろう?





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どうせ僕はお留守番だから


   1月の下旬、尾上菊五郎・菊之助父子他による『しらぬい譚』を観に行った。昨年正月の『小春穏沖津白波―小狐礼三』に感激したので今年もと思ったわけだ。話の筋は、実際にあった筑前黒田家のお家騒動に題をとったもので、菊地家によって滅ぼされた大友家の遺児・若菜姫(尾上菊之助)が土蜘蛛から伝授された〈妖術〉を使って復讐を図るのだが、菊地家の忠臣たちによって阻止されるというものだった。そこで、さあブログを書こうかと思ったのだが、結局、私の「想像力」を膨らませるところが見当たらず、書くのを止めてしまった。もちろん、「化け猫退治」とか、「筋交いの宙乗り」とか、そういった趣向の〈見せ場〉は少なくなかったが、国立劇場の上の方の席から見たせいだろうか(笑)、「おー、すごい!」とまでは思えなかったのだ。

   これに比して、今回の『伊賀越道中双六(いがごえどうちゅうすごろく)』は、これまでに観た公演とも一味違った、名演と思われた。作品紹介のビラには、「歌舞伎で初!読売演劇大賞受賞作 時代を超える人間ドラマの最高峰、待望の再演!」とあったが、確かに、台本は、筋立てが明瞭で、人物描写にも優れ、また、歌舞伎の醍醐味を巧みに組み合わせた、大変充実したものに感じられた。また、舞台美術(大道具・小道具)も素晴らしく、目を十二分に楽しませてくれた。そして、なにより、歌舞伎役者としてのプライドをすら感じさせる、役者諸氏の気合の入った熱演が光っていた!全体的に、密度が濃く、かつ、贅肉のそぎ落とされた名舞台といえるだろうと思う。
 
   とりわけ、〈悪役〉たる沢井股五郎を演じた中村錦之助の演技が目を引いた。それは全体を引き締める上で極めて大きな役割を果たしたと思われる。また、三幕目の尾上菊之助(和田志津馬)と中村米吉(お袖)の絡みは、若手の歌舞伎役者の魅力を遺憾なく発揮したもので、その艶やかさは特筆に値するものと感じた。同様に、奴・助平役の中村又五郎の軽妙な動作と語りは、歌舞伎の楽しさを満喫させてくれるものだった。そして、山場の「岡崎」における中村吉右衛門(唐木政右衛門)・中村雀右衛門(女房お谷)・中村歌六(山田幸兵衛)の演技は、細部に至るまで研ぎ澄まされたその表現力に圧倒され、感心させられた。とりわけ、雀右衛門の演技が光っており、彼の〈女型〉としての素晴らしさがやっと理解できたように思う。最後の「大詰め」も、吉右衛門が稀代の豪傑役としては少し歳をとり過ぎたのかなとの印象もあったが、「仇討ち」のフィナーレ(本懐成就)としては最良・最適の演出と思われた。あれ以上、あっさりしていても、くどくてもいけない!

   ところで、荒木又右衛門の仇討ちは、曽我兄弟や赤穂浪士のそれと共に「日本三大仇討ち」の一つとされている。私もこれで一応全三作に触れたことになる。それにしても、なぜ江戸の庶民はこうした武家の仇討ちに熱狂したのだろうか。「仇討ち」とは、武家身分の者が主に目上の親族を殺され、「上」からの許しを得て実行する行為(「義理」)であるから、江戸の庶民にとっては直接的には関係がないはずのものだ。もちろん、現代に生きる私にとっても、それは「異文化」そのものであり、ましてや、義父の仇討ちのために我が子まで殺してしまうことに「前向き」に共感することなどあり得ないと思う。このように考えてみると、江戸庶民の熱狂は、「悪者」によって愛する者を殺された「復讐心」に対する、「身分」を超えた、「同じ人間」としての共感の故だとも考えられよう。江戸庶民にも「晴らせぬ恨み」がたくさんあったはずだろうからだ。しかし、そのことは、さらに、次のようなことをも意味すると考えられる。すなわち、こうした題材を取り上げるあげることは、武家「身分」の中にもある「悪」をさらけ出すことによって、道義的に優れていることをその正統性の原理とする封建的「身分」制度それ自体を「相対化」し、揺るがすものになるのだ。そして、そのことは、当然、「身分」的な支配従属関係それ自体への〈抵抗や批判〉に結び付いていくことになる。歌舞伎に対する幕府の度重なる統制もそうした視角から理解されることだろう。

  ところで、歌舞伎そしてこの作品の素晴らしいところは、その人物描写が多面的なことだ。それは、現在でもしばしば見られる、単純な「善・悪(神・悪魔)」二分法による「勧善懲悪」なのではない。少なくとも、そこには、「義理」の重層的な把握と「人情」の多面的な把握がある。例えば、お谷は政右衛門との関係で父親から勘当されるような人物であり、また、弟・志津馬も事件の発端を作った廓狂いの親不孝者で、そして、目的のために、お志津をたらし込み、助平から手紙を盗んでいる。また、お志津も、許嫁(股五郎)がありながら志津馬に恋をし、彼のために、助平から通行手形を盗み、また、関所破りまで手伝うのだ。お袖の父親・幸兵衛は苗字帯刀を許された農民なのだが、結果として、味方である沢井家を裏切ることになっている。そして、政右衛門だけは武士としての「義理」を貫いて、妻を突き放し、我が子をまで殺すことになるが、しかし、そこには、妻子への情愛という「人情」からする涙があって、決して、その行為に「前向き」な共感を誘うといったものではないと考えられる。逆に、その涙には、「身分」こそ違うが、支配層(武士や高利貸し資本など)による過酷な収奪のため、妻子を犠牲(身売り・間引きなど)にしなければならない庶民の悲しみが「投影」されていると考える方が自然だろう。そこには、「心中」ものにも見られる、切ない「現世」を批判的に捉え返す、江戸庶民の「人間」らしい生き方への願望が感じとられるのだ。このように解してこそ、この作品の「時代を超える人間ドラマ」としての意義を理解しうると考えられる。

   サロさん!日本の政治の〈質〉は、急速に劣化し、見るも無残な状況を呈しているね。
   ということで、『RAIMEI』でも聴こうか。「汚れても輝ける それがそう未来だ」・・・なるほど、「宿命」と思われる「闇」を切り裂いていく中にこそ、私たちの自由と人間らしい生活があるんだろうから。

徒然なるままに「弥生」―――2017年3月

 命をあらためる春は来る!
   ――真っ当な若者たちが人間らしく生きていける世の中を!
        

 

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僕願う春の弥生に良き世をば


   ※少々体調がすぐれませんでしたが、サロさんと散歩をし、本を読み、歌舞伎などを観に行ったりするうちに回復してきたようです。そして、春は確実にやってきます。今日は、最近の読書について書きます。

   図書館通いの中で、また、幾つかの面白い本に出会いました。『杉浦日向子と笑いの様式』(田中裕子・佐高信)や『鳥の物語』(中勘助)などです。
   前者については、とりわけ、杉浦の「桜は明日の希望の花なんですよ」という短文に心惹かれました。この10年、桜の花には私の母の死という辛い思い出が結びついていましたが―――10年前の3月に亡くなった母の最後の句は「花見する 空一面の桜色 心に残るうれしさ残る」でした―――、これからは、杉浦の言うように、「希望を込めて見上げる花」にしていきたいと改めて思うのです。また、杉浦と田中裕子そして佐高信の対談も大変興味深く、特に、佐高と〈江戸庶民の笑い〉について語った「出世すごろく地獄図」や田中と〈江戸の隠居文化〉について語った「低成長時代を生きる」などは、隠居生活に入っている私にはぴったりの内容でした。
   『鳥の物語』は、私が『銀の匙』、『犬』に次いで読んだ中勘助の3冊目の本でした。これは、戦中から戦後にかけて中が書き連ねた、〈鳥〉の視点から語られた「大人のための童話」集で、私たち人間にもっともっと「真っ当に」(アベ的な意味ではなく「美しく」)生きてみたいと思わせる作品でした。中は『漱石先生と私』で、自分を「人間嫌い」だと言っていますが、『犬』にしても『鳥』にしても、私たち人間の在り方に対してなにか反省を迫るものがあるようです。いやはや・・・
   他に、安丸良夫の『現代日本思想論』も読みました。「懐かしい」思想家たちがたくさん登場する大変興味深い評論集です。彼の主著『日本の近代化と民衆思想』の中における「通俗道徳」という概念には若干の違和感も覚えていたのですが、「あとがき」にまで溢れる、「現代」という時代と切り結ぼうとする彼の真摯な姿勢には、「学者」の〈処世術〉を超えた熱い想いが感じられました。また、『丸山眞男講義録』を踏まえた第5章の「丸山思想史学と思惟様式論」は、私自身が自らを考えていく上でも、大変参考になるものでした。 

   さて、話を現在の日本の状況に転ずれば、政治や経済を私物化し、「お友達」のセコ過ぎる利害を臆面もなく貪るわが国「エスタブリッシュメント」の腐臭ぷんぷんたる姿が、白日の下に晒されつつあります。まさしく、森友学園の「校庭」からは、埋められた生活ゴミだけではなく、ドロドロした〈嘘〉や〈金〉や〈驕り〉が次々と顔を出しているのです。私たちは、「リテラ」や「日刊ゲンダイ」や「赤旗」などの信頼できるメディアを通して、〈事実〉を知ることができます。しかし、アベと会食を繰り返すマスコミ主流は、なんとか視点をずらしたり、あるいは、籠池たちだけに「罪」をなすりつけて、〈アベ隠し〉を図ろうとしているようです。そして、もしこのようなアベ政治が続くならば、日本の教育は多かれ少なかれ森友学園(塚本幼稚園)化されてしまうだろうこと、そして、日本の政治は、アベの「お友達」の富と権力のために、ツラっと国民に嘘を言い、真実を歪め知らせず、批判するものには暴力をすら振るう、国民多数の意志と幸せに反する独裁的なものになってしまうだろうことを忘れてはなりません。その結果、国民多数の生活と命は軽んじられ、私たち老人の老後はもちろん、これから幸せな生活が保障されるべき若者たちの教育・労働・家庭等々は、無残にも犠牲に供せられてしまうことになるでしょう。少なくとも、北欧福祉国家の現状と比較しようではありませんか。今の日本の政治的方向性が改められなければ、私たちの将来に「春」は望めないことでしょう。
プロフィール

SARO MURIKI

Author:SARO MURIKI
おりこうさんのワンワンです。年齢は、2018年11月現在満12歳です。見てのとおりの柴ですが血統書はありません。性別はオスで、飼い主には、朝夕、45分ずつ2回の散歩を義務付けているVIP犬、正確に言うと、VIDです。文句あっか?!

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