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運命を共にしたくない人たち―晴耕雨ブログ2017/9

愚かで危険な指導者たちとはサヨナラしよう!
  ―――気がつけば「保守」ばかり。生活者の「道理」は忘れない!



   ※今日は、朝から雨。でも、雨が上がったので、サロさんと散歩に出た。歩きながら考えたことは、つくづく、〈あいつら〉とは運命を共にしたくないものだ、ということだった。

   まず、朝鮮半島情勢から言えば、あのプロレス興行を思わせる米朝日の「3バカトリオ」の威嚇合戦は、ある意味で面白いけれど、国民の命と安全を守るべき一国の政治家としては本当に軽蔑すべきものだ。実は、三者三様、国内に大きな不安材料を抱える身なのであり、あの下品な恫喝となじりあいは、国内向けのパフォーマンスで、国難を怒号することによって国内での権力基盤を強化しようとするものと言って良い。客観的に見れば、米朝は様々に接触しており、軍事的衝突の可能性は極めて少ないのだとは思う。つまり、「北」の金正恩政権が米中露にとって「イスラム過激派」のような位置付けとならない限りは、その武力による打倒はリスクに対してメリットが少なすぎるといえるだろう。そのことは、「北」の長距離ICBMの完成に対しても同様なのだと思う。そして、ここに至って、北朝鮮の核・ミサイル開発の放棄とその体制の保障(米韓合同軍事演習の停止→平和条約締結に向けた協議)という、現時点で最も「平和的」と考えられる解決方法が、ロシアを媒介にした形で模索されているようだ。つまり、中朝関係がよくないので、これからは、「北」がロシアにとってのシリア・アサド政権のようになるかどうかが短期的にはポイントなのかも知れない。

   それにしても、YouTubeで見る限り、フランスのマクロンやドイツのメルケルそして韓国のムンなどの姿勢は、その紛争の平和的解決という指向性において極めて正当かつ常識的なものであって、改めて感心せざるを得ないところだ。それと比べると、3バカトリオの発言ばかりを垂れ流し、真っ当な発言をほとんど報道しないNHKニュースなどを見ていると、いかに日本のマスコミが「日本国憲法」の精神から離れてしまったのかと暗然たる気持になる。また、ほとんど「博打打ち」のような雰囲気を漂わせているアソウ太郎は、「武装難民は射殺」などと、ナチズムに親和的な暴言を繰り返している。九州のアソウ「財閥」は相当悪どい仕事のやり方をしていたのではないか。そして、総じて、アベに連なる自民党内のネオナチ的勢力は、もう公然と「日本国憲法」に対して牙を向くようになっているのだ。

   さて、トランプと同類たる〈ファシスト〉・アベの私利私欲のための衆院解散だが、これがアベ政治の本質を露わにしている「森友・加計問題」を国民の目から隠し、キム・ジョンウンによる核・ミサイル開発と野党の準備不足を好機として、どさくさ紛れにアベ政治総体への「信任」を詐取しようという魂胆であったことは明白なことだ。しかし、どうやら、この手前勝手な思惑は外れて、もうほとんど"ABE IS OVER"といった雰囲気となってきている。もちろん、それは 小池百合子を中心とした「野党」再編の動きによってだ。前原が決断した民進党の分裂・解党→希望の党への合流は、先ほどの党首選の結果からもある程度想定内のことであるし、また、いわゆる「識者」たちからも盛んに提言されていたことだ。そして、このことによって、悪巧みをやりたい放題にやってきたアベ政治への批判票が、東京都知事選の時のように、小池新党に集中する可能性がさらに高くなったといえよう。おそらく、以前から「保守2党」を掲げていた小沢・自由党もこれに乗る可能性が強い。確かに、面白いといえば面白い。個人的にも、あのアベの顔を見なくて済むだけでも精神衛生上良いからだ。しかし、その結集の軸は、〈改憲〉と〈安全保障政策〉なのだそうだ。すなわち、この野党再編によって、日本は「保守」という名の反「日本国憲法」勢力=改憲勢力によって埋め尽くされる可能性があるわけだ。すなわち、その「保守」とは、戦後日本が拠って立ってきた日本国憲法の「平和主義」(少なくとも、集団的自衛権の否認)を否定するものとなる可能性が高い。

   ここに至って、ノン・エリートで、自分自身の老後や子供達の将来にも不安を抱える「一般ピープル」たる私は、「アベ友政治」へのさよならは大歓迎であるにしても、小池の「劇場型」政治にも距離を取らざるを得ないと感じるのだ。すなわち、私たちにとって今必要なのは、競争型の成長経済でもアメリカとの緊密な軍事的同盟関係でもなく、より公平な、子供達が安心して教育を受け、安心して働き、安心して老後を迎えられる社会であり、そして、そのためにも、自然環境が大切にされ、何より〈平和〉が守られる社会なのだ。まあ、より詳細な選挙公約が出てくるであろうけれど、これまでの市民と「野党」との共闘が指し示してきた目標が後退したり、削り取られたりする中には、私たちの「未来」はないと感じる。小池新党が「保守」と「無党派層」の支持を集めて多数党になることに反対はしない―――今の自民党よりはマシだろう。しかし、「日本国憲法」の基本理念を活かしていこうとする「野党共闘」が三分の一を占めること、それが当面の課題なのだと私は思う。「日本国憲法」の基本理念を実現していくことにしか、日本国民の「未来」はないと考えるからだ。

   さあ、蕎麦を食べてこよう。サロさん、散歩は9時だよ!

    
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千住真理子の〈ストラディバリウス〉を聴いてきた

 緩徐楽章や独奏部でその素晴らしさが光った
  ――それにしても、コバケンはオーケストラを鳴らし過ぎだ!



   ※昨日は、野菜に寒冷紗をかけた後、秋雨の中、大宮のソニックシティで行われた「日本フィルハーモニー交響楽団第103回さいたま定期演奏会」に行ってきた。やはり人気があるのだろう、会場は満員の盛況だった。恥ずかしながら、なかなか成熟できない私は、バッハの若き日の「ヴァイオリン協奏曲」が好きなのだが、その中でも千住真理子のCDを聞くことが多く、彼女のストラディバリウス「デュランティ」を一度は生で聴いてみたいと思っていたのだ。演目は、以下の通り。
  
 メンデルスゾーン ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 
             (ヴァイオリン 千住真理子)
 ドヴォルザーク スラブ舞曲 第1集 第1番
         スラブ舞曲 第2集 第2番
 スメタナ 交響詩「我が祖国」より”モルダウ”
 チャイコフスキー 祝典序曲「1812年」
 アンコール ドボルザーク 「ユーモレスク」第7番

   さて、千住さんの「デュランティ」だが、400年も前に制作された、数億円もするものだという。聴いてみて、確かに、緩徐章や独奏部では「さすが!」と思わせる音色を持っていると思った。ただ、早いテンポやオーケストラとの協奏部では、なにか「荒さ」(?!)と言うか、音量と言うのか、「機能性」になんらかの問題が感じられたようにも思う。やはり、無伴奏で聴くのが一番なのかもしれない。

   後半の小林研一郎=日本フィルの演奏については、指揮者の語りを軸とした「題名のない音楽会」的な趣向で、ちょっと驚いた。会場は8割方が高齢者で―――私もそうなのだが、前を見ると一面に「薄毛」と白髪の光景が広がっていた―――、なにやら老人大学の音楽教室のようでもあった。曲の背景や構造そして指揮上の工夫など、演奏を聴く前の「予習」といった趣の話も多く、興味深くはあったが、演奏会が本当にこれでいいのかとも思った。また、全体として、小林さんは〈大規模のオーケストラ〉を鳴らし過ぎだと感じた。少し暴力的で、押し付けがましくも聞こえるのだ。

   それでは、それぞれの演目に対する若干の感想を記しておく。まず、世の中で最も美しいメロディの一つとも言われる「スラブ舞曲第2集第2番(第10番)」であるが、私個人としては、「次は、こう来てほしい」と思うところでコバケンの男性的な(?)「悲しさ」によって私の期待は見事に裏切られるのだ。私が保守的なのかもしれないが、感性の違いとはなかなか難しいものだ。また、「モルダウ」の演奏についても、ヨーロッパの大河は、台風後の日本の河川のように、あんなに荒れ狂って流れるのかと認識を新たにせざるを得ないと思うほどだ。「1812」は、彼の個性に一番合った曲だとは感じたが、それにしても、「燃え」過ぎでしょう。まず、終曲部のギリシャ正教会の鐘の音が優しく、明瞭に聞こえない。大砲は、「祝砲」ではなくて追撃戦の音だったわけだ。このご時世なので、ナポレオンとツァーリ支配下のロシア人民の「ナショナリズム」については複雑な思いもするが、それにしてもコバケンを「炎のマエストロ」とはよく言ったものだ。ただ、アンコールの弦楽合奏版「ユーモレスク」はよかった。誕生から昇天に至る人間の一生をわかりやすく音楽で表現したというのも面白い。私の昇天は、アーメンとは言わず、幼児に返って、「ユーモレスク」(?)なものになりそうなのだが。

   クラシックのコンサート会場は私には若干違和感を感じさせる場所だ。しかし、生の演奏を聴いて好き勝手なことを感じ、考えることのできる演奏会も悪くない。音楽って本当にいいもんだ!

それでも楽天的な方がいい?!―朝鮮半島情勢について

最大のリスクはトランプとアベということで
 ―――真っ当な感覚なら、両者からの先制攻撃はないでしょう?!



  
   ※昨日はキャベツと白菜を植え付け、今日はレタスの予定だ。農作業の疲れは却って睡眠を浅くする。朝4時半に目が覚めて、気になっていたトランプの国連演説を聞いてしまった。

   トランプ演説の北朝鮮に関する部分は、40分間ほどの演説の前半15分ぐらいのところから約5分ほどで、横田めぐみさんについても言及されたが、あまり切迫感のあるものには感じられなかった。危ないのはベネズエラの方だ。また、全体としての印象は、言葉と現実の乖離が甚だしく、あの手の政治家は恥知らずでなくてはできないのだろうとつくづく感じた。トランプ政権の経済的・軍事的現状に対するフェイク的自画自賛から始まり、国際社会における自らの正当化のために用いた「美辞麗句」は、彼にとってはまさしく双刃の剣である(反トランプ陣営が依拠する)アメリカ建国の理念であったり、戦後のウソにまみれた「冷戦」時代のイデオロギーであったりというわけだ。また、「アメリカファースト」についても、結局、「あなた(他国の指導者)たちも同じでしょう」と、〈ナショナリズム〉の〈無反省〉的な理解に結びつけるといった具合で、〈国際協調主義〉に基づく国連の場における常任理事国に相応しいものとは到底思われない代物だった。最後は、アメリカを再び偉大な国にするためにと、その精神の復興を仰々しく述べた後、"God bless USA!"で締めくくったのだった。私が感じる限りにおいては、トランプこそが差別と武力の誇示によって、主権と安全と繁栄を、人間の尊厳と友愛を、そして、自然と地球環境を危機に陥れているとしか思われないのだ。会場でのパラパラとした拍手も印象的だったが、それもイスラエルやどこかの独裁的国家の「力ある人々」が主だったように思われる。いやはや、言葉の虚しさを感じさせる時間だった。

   さて、朝鮮半島の危機についてだが、私の印象では、そんなに差し迫ったものではないように感じられるのだ。そんなに危なければ、株価も上がらないし、アベも花見や解散総選挙などをするはずはない。この「朝鮮半島の危機」は、アメリカの世界戦略に協力するとともに、日本の経済を「戦争経済」化(国民の税金を大量に軍事関係に投入)し、〈アベ友〉の経済的利益を増進させようとする仕掛けに他ならないと思う。そして、その先には、まず、南アジアや西アジアそしてアフリカに投入される「自衛隊」員の犠牲が危惧される。しかし、最初の犠牲者は、おそらく、東アジアー朝鮮半島におけるそれではない。

   朝鮮半島情勢を理解しようとすれば、米・韓・朝・中・露・日の6カ国間の複雑な関係の把握が必要だ。とりわけ、現在の「北」による核兵器とICBMの開発についていえば、いわゆる「イラクやリビアの教訓」―――「北」が核兵器の開発・保持を断念すれば、体制が保証されるというわけではない―――の他に、中朝関係の変化とその背後にある米中関係の緊密化が大きいと思う。一言で言えば、朝鮮戦争の盟友であり、参戦条項を持つ中朝友好協力相互援助条約の締結国である中国に対する信頼感(対米抑止力)の喪失だ。そうした中で、「ならず者(テロ)国家」としてその存在をあくまでも認めず、〈武力による政権打倒〉をも視野に入れているアメリカ、そして、中国を含む国連安保理決議に反しても、これまで主権国家に対する国際法違反の先制攻撃を繰り返してきたアメリカに対して自前で〈抑止力〉としての核を持とうとしている「北」、そんな両者の駆け引きが眼前で展開されているのだ。そこには、まず、現状を〈武力の行使〉なしに収拾しようとするのかどうかという判断、すなわち、〈武力の行使〉なしに朝鮮戦争の終結―――平和条約の締結から南北朝鮮の統一―――へと向けた『対話』を始めるのかどうかという判断があるはずだ。いうまでもなく、国際紛争を〈平和的〉に解決しようとするならば、『対話』が必要ということになるだろう。

   それでは、そうした意味での『対話』の条件として、〈核兵器〉の開発と保持を打ち出してきた北朝鮮にそれを断念させることはできるのだろうか。ここで盛んに論じられているのが、狭い意味での「対話」と「圧力」だ。まず、「対話」についていえば、いうまでもなく、「北」が核兵器の開発・保持を断念すれば、アメリカが現体制の存続を保証するという〈国際的〉な合意と遵守が可能かどうかが鍵となる。しかし、アメリカがハイテク兵器や核兵器による先制使用をすらちらつかせている現状においては、それは非常に難しいと言える。そして、もしそれが可能になるとすれば、それを保証する国連や中露の役割が非常に大きなものとなるはずだ。

   他方、アベなどが盛んに主張する、「圧力」=経済制裁や軍事的威嚇の効果はどうなのだろうか。まず、経済制裁については、これも大変難しい。例えば、ウクライナやシリアなどでの米露間の対立を考えれば、アベとも”仲良し”といわれるウラジミールが、アメリカからロシアにも加えられている「経済制裁」に本気で取り組むとは到底考えられない。このことはもっと親中的な政権を期待していたかもしれない中国についても言えて、自国に深刻なカオスをもたらすであろう現政権の暴発や崩壊を引起こすほどの制裁(石油禁輸)が支持されることはないだろう。

   最後に、軍事的な「圧力」であるが、これは、あくまでも、「権力政治」の論理に従って動くアメリカの〈軍事的選択〉の帰趨にかかっている。まず、前提となるのが、自滅を意味する「北」の先制攻撃は「死なば諸共」的な状況にならない限りあり得ないということである。また、「北」に対してアメリカが〈核〉による先制攻撃を行うことは、隣国の韓国・中国・ロシアが許すはずがない。すると、あり得るのは〈ハイテク兵器〉などを使った先制的な奇襲攻撃で、反撃の間も無く北朝鮮を制圧するというものだ。しかし、イラクなどと違って、その成功可能性は賭けるに値するほどのものではないらしい。最悪の場合は、ソウルや東京が「火の海」になるからだ。つまり、彼らお得意の「権力政治」の論理に従っても、合理的に考えれば、〈軍事的選択肢〉は威嚇以上のものにはなり得ないのだ。そもそも、現在の核大国が、その特権を保持するために核兵器の拡散を禁止しようとしても、その依拠する「権力政治」の論理からすれば、その拡散を防ぐことは極めて困難だ。実際、アベが対中包囲網形成のために握手しようとするインド、また、誰一人その保持を疑うことはないだろうイスラエル、さらに、「北」の脅威に対する抑止力として〈核武装〉を堂々と主張している我国の「権力政治」信奉者たちなど、その欺瞞的な二重基準の有様こそがそのことを証明している。〈核抑止力〉が戦争を防ぐというなら、北朝鮮だけではなく、すべての国が核武装すれば良いことになってしまうだろう。

    要するに、必要なのは「権力政治」の論理そのものとその過去・現在・未来に対する批判的想像力なのだ。そして、その基本的方向性は、世界の多数の国々によって国連で採択された「核兵器禁止条約」などに見ることができる。詳しくは述べないが、「権力政治」観や「核抑止力」論に一般ピープルにとっての未来などないのだ。確かに、北朝鮮の核武装は人類の、生命全体に対する脅威に他ならない。しかし、だからと言って、実際に核兵器を広島と長崎で用い、しかも、そのことを正当化し続けているアメリカのトランプが、相変わらずその核の使用で他国をおどろおどろしく脅していることに道理があろうはずはない。本当に核拡散の防止と核廃絶を望むのなら、自らも率先してその削減と廃棄を推進するぐらいの度量があっても良いはずなのだ。トランプとそれに追従するアベの言動はまさにその真逆と言って良い。

   ただ、合理的に考えるならば、現在の朝鮮半島情勢はアベたちが騒いでいるよりも緊迫したものではない。もし、アメリカが武力を行使したり、あるいは、偶発的にでも武力衝突が発生することを許してしまえば、東アジア全体が耐え難い苦難に見舞われるからだ。しかし、こうした人間の理性への信頼は楽観的すぎると笑われるかもしれない。ただ、恐怖心に操られて、一部の悪どい人間の「利益」(権力欲や金儲け)に奉仕することになってしまうよりは、楽天的にものごとをとらえ、未知の可能性を模索する方が一人の人間として納得できるのではないだろうか。まさしく、日本国憲法9条の実現をだ。

  

〈米国の戦争〉に巻き込まれ、〈標的〉となる日本

武力による威嚇と戦争に向かうアベ政権
 ――日本国民はいつ海外での先制攻撃や核抑止力を認めたのか?!



   ※「2nd兄貴」の入院・手術で先週は大変だった。「本当に気の毒だ!」という思いに心が塞ぐ。それと比べるとサロさんは本当に「はは、呑気だね!」という感じだ。ただ、サロさんの〈呑気さ〉は本物の呑気さで、人間どもの嘘くさくて、阿呆らしい〈喧騒〉よりもはるかに真っ当に感じられるのだ。

   世情は、「北」の〈抑止力〉としての核兵器とICBM、そして、それに対抗する〈抑止力〉としての軍備増強と核武装論で賑わっている。それに伴い、アベ政権の支持率はいつものように上昇し、改憲路線も勢い付いたうえ、膨大な国費を要する衆院解散が手前勝手な都合で計画されているとも言われている。それにしても、こんなにも利用価値の高い「北」を崩壊させようなどとはアベもトランプも考えてはいないだろうけれど―――彼らとて、「北」からの一定の「挑発」(報復力の誇示)はあるにしても、〈先制攻撃〉などは想定していないだろう―――、それでも、もしトランプやアベが、中露をも含む東アジア全体の「破局」を「掛け金」として〈先制攻撃〉を選択あるいは支持するとすれば、そんな輩に核の発射ボタンや国の安全保障を委ねた我々「一般ピープル」は、深く反省しつつも、ただただ、「🎵あきらめましょう、あきらめましょう」と成り行きを甘受する他なくなるのだ。


   15日は、早朝から、『ひよっこ』も見ることができず、北のICBMのニュースで食傷気味となった。大体、もし「北」が日本(横須賀や沖縄など)を攻撃するというのなら、あんなに飛距離の長いものは必要としない。これまでのものでも十分に「危険」なのだ。ましてや、中国やロシアに至っては言わずもがなのことで、問題はあくまでも相手を〈敵〉とするかどうかによるのだ。また、日本の「上空」を飛ばしたと盛んに叫んでいるが、そこは軍事偵察衛星が頻繁に飛び交っている「宇宙空間」の話だ。アベは事態を完全に把握しているというが、Jアラートなるものが、ただ只管子供達に〈恐怖〉を植え付けるために鳴り響く。馬鹿馬鹿しかったのは埼玉県の上尾でさえ電車が止められたことだ。ナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』という本を思い出すが、要は、アベが「北」の核・ミサイル開発に〈便乗〉して、日本を「軍事国家」への道に引きずり込もうと国民を操作しているのだ。

    ところで、9月3日、「 沖縄の闘いを支援する講演と映画の集い」に行ってきた。内容は、沖縄からの報告として、①「土木専門家から見た辺野古新基地・高江ヘリパッドの問題点」(奥間政則さん)と②「不当弾圧を打ち破る辺野古・高江の闘い」(山城博治さん)、そして、三上智恵監督の『標的の島―風かたか』の上映、そして最後に、特別発言「沖縄・南西諸島における米日軍備強化の実態」(前田哲男さん)があった。当日も、沖縄における新基地建設が如何に無謀に、暴力的に推し進められているのかに愕然としたが、数日後(9日)、NHKスペシャル『スクープドキュメント 沖縄と核』を見て、一層その感が強くなった。いやはや、「平和国家」日本も、沖縄の〈犠牲〉と日米支配層の〈欺瞞〉の上に成り立っていたということだ。そして、現在も、辺野古で、高江で、石垣で、宮古で、与那国で、新しい基地建設の「風」が吹き荒れ、日米の支配層によって極東における軍事的拠点と位置付けられた沖縄の島々が、またまた、「敵国」の〈標的〉として、鉄と核の「暴風」に曝されようとしているのだ。しかし、こうした「風」から子供たちを、同胞を守ろうとする沖縄の人々の闘いは、沖縄の歴史的体験に裏打ちされた世代を繋ぐ〈道理〉そのものなのであって、彼らの「明るさ」はそれ故のことなのだろうと映画を見て考えさせられた。

   しかし、〈標的〉にされつつあるのは沖縄だけではない。これまでも日米の支配層によって様々な形で画策されてきた〈軍事〉的一体化は、今回の「北」の核・ミサイル開発を契機に、一挙に、公然と推し進められるに至っている。自衛隊が〈先制攻撃〉を選択肢の一つとするアメリカ〈核〉戦略の要たるB1爆撃機やカール・ビンソンなどの空母と行動を共にすることは、〈米朝〉開戦時には、日本列島が〈標的〉にされることを公然と認めたことを意味する。こうしたことは、「専守防衛」路線の下では、基本的にはありえないことだった。しかし、アベ自公政権は、立憲主義に反する恣意的な憲法解釈によって、「集団的自衛権」の容認を閣議決定し、〈違憲〉の安保法制を成立させて、「専守防衛」路線を掘り崩してしまったのだ。ただ、そうした過程の中にあっても、彼らが出来うる限り隠そうとしてきたのが、その「本音」たる「権力政治」観とその行き着く先としての「核武装」論だったといえる。もちろん、日本国憲法の〈平和主義〉の対極にあるこうした考え方こそ、広島・長崎をはじめとする膨大な〈一般ピープル〉の犠牲者を生み出した戦前の日米の権力主義者たち、そして、その末裔たちの思想に他ならない。ところが、日本の権力主義者たちは、彼らと同じ思想を持つ「北」の権力主義者たちによる核・ミサイルの開発に〈便乗〉し、国民の恐怖心を煽りながら、その〈無反省〉的な「権力政治」観の言いたい放題的状況を作り出し、さらに、日本国憲法を最終的に葬り去ろうと企んでいるのだ。

   それにしても、日本国憲法の下、日本がアメリカ軍の〈盾〉となり〈槍〉となりますというようなことをよくのうのうと言えるものだ。アベは、あのトランプの口汚い発言に乗っかりながら、その「全ての選択肢がテーブルの上にあることを言葉と行動で示す」姿勢を高く評価すると宣っている。つまり、憲法9条の「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という規定に真っ向から対立する、「軍事的選択肢」すなわち〈先制的な武力攻撃〉をすら評価・支持すると言っているのだ。もちろん、湾岸戦争やイラク戦争の例もあるが、そこには、戦争協力を求めるアメリカの対日圧力への戸惑いや「抵抗」も見られたと言って良い。しかし、アベ政権は違う。小野寺は、「存立危機事態」とか「重要影響事態」とか極めて恣意的な認定の可能性のある安保関連法に基づき、「北」のグァム島周辺への中距離弾道ミサイルへの迎撃可能性や、さらには、米軍の「北」に対する軍事的攻撃を支援する可能性をすら示唆したのだ。実際、米イージス艦に対する給油も含め、自衛隊と米軍との共同行動が一層あからさまになっている。すなわち、アベ政権は〈戦争〉を準備しているのだ。

   さらに気恥ずかしいのが、「虎の威を借る狐」ではないが、世界最強といわれる米軍との〈軍事〉的一体化を背景に、思わせぶりに「(言うことを聞かないと)明るい未来はない」などと、武力による〈制圧〉をさえほのめかす(「武力による威嚇」)に至っていることだ。こうしたことは、今までの日本政府の発言にはなかったことだろう。また、最近のニュースや論評を見ていて感じるのだが、唯一の被爆国であり、核兵器の禁止・廃絶を求めてきた日本の国民が、いつ、アメリカの〈核〉抑止力を認めたというのだ。つまり、我々日本国民は、核兵器の先制使用はもちろんその報復使用すら認めた覚えはないのだ。そのことは、「非核三原則」が国民にとって何を意味したのか考えれば明らかなことだ。それを認めてきたのは、国民に隠しながらアメリカと「密約」を結び、アメリカの「権力政治」に追従してきた、戦後アメリカの「権力政治」によって命を助けられた日本の戦争指導者とその末裔たちに他ならない。いよいよ、国民に対する〈ウソ〉をまで正当化しようというのだろう。さらに、これまでの言動から見て、アベたちの「本音」は、究極の無差別攻撃=「絶対悪」に他ならない核兵器の保有、核武装にある。しかも、核武装は、「核抑止力」による戦争の防止にあるというのでもなく、逆に、とりわけ米・露・中ー核大国に見られるように、核保有国を除く国々に対する「戦争の自由」をすら意味するのだ。

   長くなったので、次回、朝鮮半島の「危機」の現実性、そして、それに対する「対話」と「圧力」(経済制裁・軍事行動)が意味すること、さらに、反人民的な「権力政治」観に対する批判的見解ついて書き加えたいと思う。  

中村哲講演会を聞いて

  命の水と蘇る緑の大地
    ――「平和をつくること」と憲法9条



   ※先月の25日、埼玉会館大ホールで開かれた「ペシャワール会 中村哲医師講演会」に行ってきた。中村哲さんについては、ETV特集『武器ではなく命の水を』などでご存知の方も多いと思う。私が中村さんの活動を知ったのは2001年のニューヨーク同時多発テロの年で、『医者 井戸を掘る』と言う本を読んだ後、『ペシャワール会報』を読むようになった。あれから16年、少額の寄付のほかは特別なことはしてこなかったが、今回初めて中村さんの肉声を聞くことができた。彼は「あと10年も経てば、私は呆けているか、死んでいるだろう」とサラッと言ってのけていたが、もう70歳を超えていた。

   講演会には満席の1450名の方々が集まっていた。筆記用具を忘れたので講演内容については詳述できないが、特に印象に残っているのは、干ばつで砂漠化していたアフガニスタンの大地が、中村さんたちの支援する用水路の建設によって〈緑の大地〉に生まれ変わっている情景だ。写真やテレビの画面では見たことがあったが、大画面の迫力に、会場全体にも「お〜!」という声が溢れた。そこには、確かに、「平和」が感じられたのだ。アフガニスタンの農民にとって何より大切なのは「ふるさとで、家族と一緒に、飢えずに暮らすこと」だ。そのために不可欠なのが「水」であり「緑」であり、「農業の復興」に他ならない。そこに、「医者」が井戸を掘り、用水路をを建設し、「緑の大地」を復活させねばならない根拠があった。そして、そうした「平和な生活」のための行動を実際に担ったのは、政治的立場を超えたアフガンニスタンの人々だったのであり、それを妨げようとする人々は存在のしようもなかったのだ。しかし、戦乱の中で、そうしたことを可能にしたものこそ、中村さんのアフガン人の「文化」と「主体性」を重んずる姿勢と武力での問題解決を禁じた日本国憲法の平和主義に対するアフガン人の「信用・信頼」だったと言える。

   それにしても―――とりわけ質疑応答の中で強く感じられたのだが―――、中村さんの人柄には考えさせられるところが多かった。様々な困難や様々な想いがあったことだろう。しかし、それらを乗り越えさせたのは、〈真っ当に〉生きようと共に立ち上がったアフガンの「一般ピープル」に対する〈同じ人間〉としての「仁義」だったようだ。その決して雄弁ではない佇まいには、人をして信頼せしめる、強さと誠実さが感じられるのだ。

   中村さんの生き方には、日本国憲法の平和主義の一つの具現化された姿を見ることができる。しかし、昨今の世界と日本には、「権力政治」家どもが推進する、〈武力〉による威嚇と戦争が満ち溢れている。私たち〈真っ当に〉生きようとする「一般ピープル」はどちら選択すべきなのか。
   ところで、中村さんたちの事業にかかった費用は25億円だったという。これに対して、今回の朝鮮半島の緊張激化を理由にアベ政権が導入しようとしている―――〈5年後〉の運用を目指し、しかも、その効果も定かではない―――「イージスアショア」は、800億円×2の1600億円だ。中東で、アフガンで、世界の紛争地域で、どれだけの金と人命が費やされたことだろうか。そのことによって、その地域における「一般ピープル」の命と生活はどうなったというのか。結論は明らかだ!希望は中村さんの生き方に、日本国憲法の平和主義にあるのだ。

   次回は、映画『標的の島 風かたか』を見た感想から、この間の朝鮮半島危機について考えてみたい。


プロフィール

SARO MURIKI'S FATHER

Author:SARO MURIKI'S FATHER
おりこうさんのワンワン、サロ・ムリキ(2006〜2023)の遺志を継ぐブログです。サロさんは、放射能と戦争と弱い者いじめとぼったくり屋が大嫌いで、「市民と野党の共闘」を私と一緒に応援していました。人と自然を大切にし、普通の民衆が生き生きと生活できる世界を目指します。さあ、理想と意欲に燃えて再出発だい! 2023年8月24日

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