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今年を振り返る――本当に〈恥ずかしい〉国になったものだ!

つくづく嫌気がさす〈アベ友〉の政治と経済
   「公平さ」への侮りが日本と日本人の劣化を生み出す



   ※2017年も後3日となった。年末の雑事にかまけているうちに、ブログの方もおろそかになってしまった。ただ、おろそかになったもう一つの理由は、アベだのアキエだの、ヤマグチだのカケだの、サイトウだのといった顔を見る度に吐き気すら覚え、文章にすることさえ汚らわしく感じてしまったからだ。アベとアベ友の政治と経済の有様そしてマスコミのどうしようもないお追従ぶりをみて、私は年末・年始のニュース番組に耐えることができるかどうか正直心配している。昨夜も、比較的真っ当と言われている池上彰の『今年のニュース TOP50』を見たが、あんなもの「公平」でも「公正」でもないだろう。例えば、「忖度」よりも「共謀」というべき「もりかけ問題」について、今のこの時点で、〈疑惑〉の根拠すらはっきり示さないのでは、折衷的一般論以下の代物だと言わなければならないと思う。スポンサーやアベ一味への配慮もあるのだろうが、結局のところ、民主政治の根幹に関わる「もりかけ問題」に頬被りしている河野太郎や野田聖子のNHKニュースにおける露出と同様で、なるほど、このご時世に露出頻度が高い理由も納得できるというものだ。

   ところで、先日、「奥さん」がガソリンスタンドに行くと、「見えないかも知れないけれど、タイヤに亀裂が入っていて、交換しないと危ないですよ」と言われたそうだ。先日、ディーラーの人にその話をしたら、タイヤを見ながら「大丈夫でしょう」と笑っていた。要するに、「日本人」のかなりの数が「詐欺的」行為に対して恥すら感じなくなってしまっているのだ。もちろん、以前から詐欺師は存在した。しかし、アベやアベ友のあのツラっとした表情からして、日本社会には量から質への根本的変化が起こっていると考えざるを得ないのだ。日本社会で、基底的な信頼関係が崩壊しつつある。その先にあるのは、日本社会と日本国民の〈分断〉に他ならない。

   アベやアベ友は、〈真っ当な〉権威をもって権力を行使するといった感覚すら持たない、〈金〉と〈恣意的権力〉を無法かつ無節操なやり方で貪るだけの輩に過ぎないと言える。すなわち、それはもう〈真っ当な〉「能力主義」や「競争主義」ですらなく、せいぜい、「〈世襲〉的特権」や「〈投機〉的幸運」にすがる、底の浅い「成金」や「成り上がり」あるいは無能な「2世・3世」の感覚でしかないように思われる。大体、一人の人間が、生まれながらにして持ちその社会によって育まれた能力に応じて働くことによって得られる対価というものは、その家族を含めて、安心して暮らしていける程度のものにおさまって良いはずなのだ。そして、それ以上の場合は、基本的に、〈真っ当〉あるいは〈適正〉なものではないと考えていい。つまり、通常ありえない巨万の富を手にし、ほくそ笑んでいる輩は、ある時代的・場所的特殊性の下で、剥き出しの暴力で他者から強奪したり、他人の労働力を「ブラック」に搾取したり、国民の血税を「お友達」からこっそり受け取ったり、取れないものを取れると見せかけてボッタクッたりと、ありとあらゆるエゲツない行為の結果という場合が少なくないはずだからだ。もちろん、そうした「悪事」はある種の普遍性を持っているとも言えるが、歴史に残る「偉人」や「善行」がそうした行為とは正反対の方向性を示しているのは、人間社会の共同性や相互依存性がそうした不適切な〈格差〉を「悪事」あるいは「不公平」としてきたのであり、それに居直り、「正当化」することを安易に許さなかったからだと考えられる。しかし、その「前提」が、今や、アベやアベ友によって掘り崩されようとしているのだ。

   今月は月初めから、映画を3本も見てしまった。『め組の喧嘩』と『GODZILLA怪獣惑星』と『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』だ。『め組の喧嘩』についてはすでに前回書いたが、『GODZILLA』や『スター・ウォーズ』についても、アベやアベ友と比較すると、はるかに深く考えられていそうに思えるところが怖い。『GODZILLA怪獣惑星』は、極めて単純な「復讐劇」に終わっているように見えるけれど、確かに、複数の〈伏線〉―――例えば、人間が本当に地球をそして人間自身を取り戻すためには、ゴジラを生み出した人と自然との関係や恐らくメトフィエス的なものをも超えなければならないとか―――が看取できるように思われる。また、日本的あるいは東洋的な「思想」を下敷きにしていると考えられる『スター・ウォーズ』には、人間を不幸に陥れる思想や行為への批判的視点―――例えば、武器を売って儲けた商人たちが遊ぶカジノへの批判とか人間の「暗黒面」や「自爆攻撃」をいかに超えるかといった―――が読み取れるように思う。これに対して、アベやアベ友の底の浅い粗野な「能力主義」や「競争主義」や「世襲主義」は、人間の幸福感をいびつなものにし、人と社会と自然を破壊し、自己肯定感を低下させて、自殺をさえ多発させていると言って良いのだ。

   師走の年の瀬には、宝くじ売り場に列をなす人々や有馬記念に熱狂した人がいた。私も、もはや無尽講は存在しないので、海外旅行に行くには宝くじに当たる必要があると考え、久しぶりにバラで3000円買ってみた。また、馬券は買ったことはないが、サブちゃんのキタサンブラックがどうなるのかとテレビ中継も見てみた。こうしたことが、アベとアベ友が我々「一般ピープル」に刷り込もうとしている「〈投機〉的幸運」の観念―――それは(合理的に考えて)「根拠レス」という意味合いで、アベとアベ友の「支配」を正当化する―――と重なるのだろうと感じながらではあったが。大相撲も、アベとアベ友へのマスキング効果を狙ってのことだろう異常な報道が続いた上、いつの間にか白鵬のエルボースマッシュと貴乃花の国粋主義のどちらを選ぶかといった阿呆らしい仕掛けとなってしまっている。まあ、今年は、まともな年ではなかった。でも、また陽は昇るのだ。来年は、海外旅行はまあいいとして、近場の温泉やハイキングで大いに楽しみたいと思う。

  
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『Thunderbolt Fantasy 東離劍遊紀 』考

  「武侠」ファンタジーの傑作
      ―――”渋い”セリフがなんとも言えない!

   

   ※サロさんとの散歩から帰ってきた。関東の冬空は本当にきれいだ。ところで、バイクにも乗れるようになったので、先日、シネマ歌舞伎『め組の喧嘩』(「平成中村座」における2012年の公演)を見てきた。故中村勘三郎の辰五郎をはじめとする大写しにされた歌舞伎役者の表情と観客と一体となった歌舞伎小屋の熱気が印象的な作品だった。〈町火消し〉と武家をバックとする〈力士〉との喧嘩を描いたものであったが、火消しの親方とその妻そして鳶衆の「儒教」的倫理の内面化の有様が大変興味深かった。「匹夫の勇」などと揶揄する声も聞こえてきそうだが、終幕近くの町奉行と寺社奉行の権威に基づく「収め(あずけ)」は「ご愛嬌」として、「一般ピープル」が「元気」であることは悪いことではないだろう(中江兆民「人民の元気」)。そこには醜悪な「巨悪」への批判的視点の萌芽も感じられるからだ。


   ところで、一昨日、「2nd兄貴」が、豊洲に、新作『Thunderbolt Fantasy 生死一劍』を見に行ってきた。かなり面白かったらしい。そこで、私は、前作『Thunderbolt Fantasy 東離劍遊紀 』(全13話)の方を振り返ってみることにしたい。この作品は、台湾の人形劇「布袋劇」と日本の脚本家・虚淵玄(うろぶちげん)らが共同制作したもので、その革新的な映像と内容は、T.M.Revolutionの主題歌「RAIMEI」(作詞・井上秋緒、作曲・浅倉大介)とともに、老輩たる私にも大変興味深く感じられるものだった。とりわけ、キャラの設定とそのセリフが「渋い」!2回見ただけなので正確さには欠けると思うが、私が感じたエッセンスを書き留めておくことにする。

   さて、この作品には「武侠人形劇」とか「武侠ファンタジー」と言う「副題」が付いている。この〈武侠〉とは、強きをくじき、弱きを助けることをたてまえとする人物のことで、唐代に成立したおなじみ『水滸伝』などは「〈武侠〉小説」と呼ばれるわけだ。また、〈武侠〉の日本における「一般ピープル」版が「町奴」であり、先に取り上げた『め組の喧嘩』は、江戸末期の町火消し(「を組」)、侠客ー町奴の「新門辰五郎」をモデルにしたものと考えられる。もちろん、『東離劍遊紀』の〈武侠〉たちは「剣客」なのであるが、そこには、私の興味をそそる、ちょいと「屈折」した「哲学」が語られている。 

   物語の概略は割愛するが、それは、かっての〈大戦争〉を封じ込め封印されていた「天刑劍」を「最強の剣」として奪い取ろうとする蔑天骸(ベツテンガイ)に対し、護印師の一族で「義」をもってそれを護り抜こうとする丹翡(タンヒ )をたまたま助けることになった「大盗賊」凜雪鴉(リンセツア)と「刃無鋒」殤不患(ショウフカン)の二人が、それぞれの思惑から彼らと同行することになった「剣客商売」の狩雲霄(シュウンショウ)・「武勇の名声」に憧れる若き捲殘雲(ケンサンウン)・殺し屋で冷酷非常な「剣鬼」殺無生(セツムショウ)・冥界生まれの「妖人」刑亥(ケイガイ )らと共に凄まじい武闘を繰り広げる、奇想天外なファンタジーである。ただ、ここでは、彼らが交わす会話の中に現れている、「剣」や「武」に対する「思想」に焦点を当ててみたい。
      
   さて、物語の登場人物の中で、「剣」や「武」について最も平凡で単純な議論を展開しているのは、武芸によって現世的利益を求め卑怯な手口も厭わない狩雲霄であり、また、武芸の「栄光」をただ只管追い求める捲殘雲だ。ただし、捲殘雲は後に丹翡や殤不患との関わりの中で「義」に目覚めていくことになる。しかし、このファンタジーの中でとりわけ興味深いのは、「剣」や「武」に信仰的な〈幻想〉を抱いている殺無生や蔑天骸、そして、それらに対して人としての〈限界〉や〈優位〉を自覚している凜雪鴉や殤不患である。

   殺無生は、「剣の道は必然性の探求」であるとし、唯只管「強いものが勝つ」といった「運命」の観念にとらわれて、自分をも含めた人の〈生死〉に対する人間らしい感覚を欠いた「サイコパス」的人物だ(「いかれてやがる」)。また、蔑天骸は、「剣」とは「力の証」・「生死を分かつ絶対的真実を形にしたもの」と捉え、富も栄華も権力もこの「滅びの力」の前には泡沫に過ぎないとする「〈暴力〉至上主義者」だ。また、彼にとって早さこそが剣技の極意であり、自らを「無双の強さ」に到達したものとして、周囲にその「覇者の気風」を撒き散らしている。

   これに対して、凜雪鴉は、「剣の道」は極まれば「真理」に通ずるとしながらも、その「道」がたどり着く先は「山の頂などはなく、無辺の海原のようなもの、極めるほどに果てが見えなくなる」ものであって、「無双の強さ」など幻想だとする。そして、蔑天骸を上回るほどの技量に到達しながらも、「剣の道」の奥深さを侮らないが故に、その探求に〈飽きて〉、それを放棄したと言う。また、彼の魂の愉悦は、人を欺き、踊らせ、陥れて遊ぶことにあるのであって、もし彼が修めた「剣(殺人剣)」の「正道」を貫けば「邪道」を絶ってしまうことになり、それでは、彼にとって最も面白い「狡猾で野心家の、誰よりも自分が強くて賢いと思っている」悪党をからかって遊ぶことが出来なくなってしまうとも言う。確かに、人に屈辱と絶望を与えて喜ぶ凜雪鴉は屈折した「ど外道」と言ってよいだろう。しかし、彼は、決して「弱い者いじめ」なのではなく、思い上がった悪党(「強き」)を挫く、「義賊」の「愉快犯」的な一変種(人間としての限界ー挫折を見つめているが故に?決して「軽い」性格ではないのであるが)と言って良いだろう。そして、巨悪がのさばるご時世にあっては、こうしたキャラクターが我々「一般ピープル」にとって比較的受け入れやすい存在になるとも言えるのだ。

   最後に殤不患であるが、彼は、斜に構えてはいるものの、極めて自省的かつ謙虚で、また、義と人情に厚い人物として描かれている。また、彼の生き方には、闘いに際して「俺が選んで俺が切る」とか、「正しくあろうとしたことは悔やむんじゃない」とかいった言葉に表れているように、「真理」や「本質」に対する「信仰」的確信とは異なる、個(主体)としての「実存的選択」の意識が強く窺われるように思われる。そして、彼が選び取っていった「剣」と「武」に関わる生き方とは次のようなものであった。まず、彼は、刀剣など所詮道具に過ぎず、結局それを持つ人間次第だと言ってのける。まさしく、彼の「人間の主体性」への基底的な信頼感の表れと言えるだろう。しかし、「剣」は、〈人心を惑わし天下を乱す〉厄介な代物でもある。確かに、「剣」は「強さ」や「支配力」や「勝つ」ことへの人間の「思い」を肥大化させ、また、そうした力能を象徴する物神崇拝的対象となって、人々の心を惑わし、戦いを引き起こす原因にもなるからだ。そこで、彼は、故郷「西幽」を回って、そうした魔剣・妖剣・聖剣・邪剣36振りを集めて、それを捨ててしまおうとしたのであった。また、「武」について、彼は次のように言う。「人を斬るのが難儀なのは、当然だろ?。どこまで技を極めようとな、剣を振るうのが軽々しく簡単になちゃいけねえよ。だが、俺ぐらい性根が俗物になると、常に自分を戒めているのも面倒なんでな、いっそ刃の付いた剣なんぞ持ち歩かないほうが良い」。こうして、彼は剣に見せかけた木刀を腰に流浪の旅を続けたのである(「刃無鋒」)。

   私は、少々剣道をかじったことがあり、これまでも、このブログで「『SAMURAI SPIRIT』考」なる記事を書いたことがあった。つまり、私自身も、人間にとって「剣」や「武」は何を意味するのかを考えてきたわけだ。もちろん、「剣(刀)」は一つの道具(手段)であり、問題はそれを扱う人間の「思想」(目的)であるということは一般論としては言えよう。しかし、原子力も同じだが、それが人間を殺傷する〈桁外れ〉の能力を持つ以上、それを通常の道具と同じように安易に考えてしまうことはできない。銃砲刀剣類や軍事装備ー兵器に対する規制・削減・廃絶が考えられなければならない理由もそこにある。また、そうした「武器」を用いることは、まさしく、「武士道」のようなより突っ込んだ思想の形成を必然化させたとも言い得るのだ。こうした意味において、この物語の中で展開されるキャラクター間の会話は、そうした問題を再考する上で大変興味深い素材を提供してくれていると言って良いと思う。

   最後に、私は、こうした物語の展開の中に、「道教」的あるいは「老子」的な思想―――さらに言えば、東洋的な虚無(相対)主義(荘子など)をも突き抜けるなんらかの思想―――が看取できるのではないかと考えている。実際、作者の筆名〈虚淵玄(うろぶちげん)〉にもそれを読み取ることができるのではないか。つまり、「玄」(根源的な道)は「(空)虚」にして「(深)淵」、これは「老子」の思想に他ならないからだ(例えば、蜂屋邦夫著『図解雑学 老子』参照)。実は、私も、私自身の考え方を、東洋的な思想の流れの中で、「義理と人情と平和主義」などとふざけて表現したことがあった。いうまでもなく、「義理と人情」は〈孔子〉(儒教)的概念である一方、「平和主義」は、トルストイやガンジーの思想にも継承された、〈老子〉的なそれと近似したものと言えるのである。また、「武士道」との関連でいえば、この物語の殤不患=「刃無鋒」は、まさしく、「武」を捨てきれなかったとはいえ、〈無刀〉・〈活人剣〉の思想に接近した人物と理解して良いのだと思う。娯楽作品にはいろいろな楽しみ方があるが、表現者たる虚淵玄にこうした「思想」性があったとしても少しもおかしくはないだろう。

   さて、明日は、もし晴れれば、虚淵が脚本を担当した『GODZILLA 怪獣惑星』でも観に行ってみようかと思う。さて、どんな作品だろうか。

永田町を見て―――〈ゲス〉の政治家と〈茶坊主〉官僚

    日本を〈汚辱〉して、「美しい国」か!

   
   ※特別国会が閉幕した。それにしても、こんな阿呆らしい「政治」を見ることになるとは・・・日本に「未来」はないのではないか?「主権者」ではあるが、市井に生きる「一般ピープル」の一人でしかない私は、今、かなり「危うい」精神状況にある。いうまでもなく、「日本(人)の政治」に対する根底的な「信頼感」の喪失だ。


   永田町の有様見ていると、日本の〈ゲス〉な政治家先生たちと〈茶坊主〉官僚たちの言動にはほとほと呆れる他はないと感じる。疲れるので一々は書かないが―――東京新聞とかリテラとか日刊ゲンダイなど、「真っ当な」メディの記事を読んで下さい―――、次から次へと出てくる無知で、下品で、差別的で、私欲にまみれたアホらしい言辞、そして、それらを取り繕おうとする見え透いた妄言。それらは、最早、とっくに限度を超えた代物になっていると言わざるを得ない。そして、ああした阿呆らしいウソや言い訳が通る国が「文化国家」や「道義国家」であるはずはないであろう。あの人たちは絶対に「どこか」がおかしい!あるいは、壊れているに違いない!とにかく、短慮・浅薄なアベやアホ太郎をトップにして、私欲と保身に目が眩んだサガワだのオオタだの小賢しい「茶坊主」がのさばっている「日本」は、もう「死ぬ」しかないのではないか。それも、広範な国民に信じられないような〈負の遺産〉をどっさりと残してだ。

   ところで、昨日、アメリカ映画『スポットライト』(T・マッカシー監督、2015年)を見た。内容は、カソリック司祭による性的虐待とそれを組織的に隠蔽しようとした強力なカソリック教会に戦いを挑む『ボストン・グローブ』紙・「スポットライト」チームの〈事実に基づく〉話だ。考えさせられたのは、アメリカの「知識人」には「思想」と「胆力」が備わった人物が多数存在していたということだ。現在も、あのトランプに堂々と対抗しているアメリカの「知識人」・「エリート」を見ると、この「思想」と「胆力」の重みをつくづくと感じる。もちろん、日本にもそうした強い〈個〉は存在した。例えば、磯田道史氏の『日本人の叡智』に登場する99人の日本人を見れば、その〈個〉の「思想」と「胆力」は、アメリカの「知識人」にヒケを取るものでは決してないはずだ。しかし、現在の日本を見る限り、そうして「日本人」を発見することは大変難しいように思われる。何しろ、「大勢」がアベやアソウやサガワやオオタであり、そして、結局彼らを「容認」し、決して、正面から批判することのないカメレオンのような輩が多数だからだ。アベは、日本を〈汚辱〉しつつ「美しい国」を唱えているが、本心、心にやましいところはないのだろうか。もちろん、そんなことすら感じない〈精神構造〉なのだろうけれど。いやはや、とんでもない輩が政治を牛耳るようになってしまったものだ。

   日本の「一般ピープル」はこの危機を超えられるのだろうか?

   
プロフィール

SARO MURIKI

Author:SARO MURIKI
おりこうさんのワンワンです。年齢は、2018年11月現在満12歳です。見てのとおりの柴ですが血統書はありません。性別はオスで、飼い主には、朝夕、45分ずつ2回の散歩を義務付けているVIP犬、正確に言うと、VIDです。文句あっか?!

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