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社会を実質的に担っているのは?一般ピープル論(3)

 「一般ピープル」とは何か?
     ―――それは「第三身分」(シェイエス)である



   ※昨年末の左ひざの負傷から、健康の大切さが身にしみてわかるようになってきた。体を動かすことが少なくなると、本当に柔軟性の低下が著しい。これはヤバい! 先週の月曜日にも医者から老化を指摘されたが、一昨日も別の医者に「油切れですね」と言われてしまったw。もう身の丈にあった「老人モード」で生活しなければならないということだろう。しかし、先日、テレビで〈葉酸〉の重要性を知ったので、私も自分で育てたブロッコリーなどをせっせと食べて、早く左ひざを回復させ、適度な運動によって筋力と柔軟性の維持に努めようと思っている。しかし、それにしても、本当にこのような時が来るとは(笑)。子供たちよ!よーく心得ておくがよい。人間は歳をとる。私の初めての人生訓だw。


   さて、シェイエスの『第三身分とは何か』は、1789年1月に出されたパンフレットで、当時の「大ベストセラー」となって、フランス大革命(7月4日〜)に大きな影響を与えたと言われている。筆者シェイエスは、第三身分の生まれで、イエズス会の聖職者身分(→修道院長)となったが、第三身分陣営に身を投じて、三部会や国民議会の議員として指導的な役割を演じた人物である。有名な「テニスコートの誓い」を起草し、人権宣言の公布にも大きな影響を与えたとも言われている。

   それでは、本の題名とも重なる、有名な一節を確認しておこう(訳は、拙訳w)。

Qu'est-ce que le Tiers-État ?  Tout.
 第三身分とは何か?・・・全て
Qu'a-t-il jusqu'à présent dans l'ordre politique?  Rien.
 それは政治的秩序の中で現在までいかなるものであったか?・・・無
Que demande-t-il à devenir?  Quelque chose.
 何になることを求めるのか?・・・それがそうである何か(全て)に
       
   これは、フランスの変革を目指したシェイエスが、哲学者としてその目的を明確に示し、また、政治家としてその目的を困難な状況の中で一歩一歩実現していこうとする意志を示したものと言える。当時のフランスは、『旧制度(アンシャン・レジーム)』という、王権と結びついた第一身分(聖職者)と第二身分(貴族)が、領民支配権と様々な特権(免税権や政治的代表権など)を持って、第三身分(農民と市民)を支配する体制だった。こうした中、「ノン・エリート」たる「第三身分」が、特権を享受する「エリート」たちに対して、我々こそが全てであるという力強い宣言を成し得た根拠は何処にあったのか。それが私の注目したところだ。

   シェイエスによれば、国民が存続し、栄えるためには、個人的労働と公職が必要だ。「個人的労働」には、まず、農業、工業、商業という「実利的はたらき」がある。さらに、この他にも、「多くの個人的労働と個々の人に直接役に立ち且つ喜ばれる仕事」が必要で、それは、学問的職業や自由業から「家庭内の仕事」までをも含んでいる。そして、このように、社会を維持するのに必要な労働を担うものこそが「第三身分」なのだ。また、「公職」(これ自体、第三身分の貢納・納税によって成り立っているのだが)には、剣、法服、教会、政治がある。そして、これらの職の20中19までを第三身分出身の者が占めている。しかし、名利伴う地位は特権身分に独占され、彼らによって第三身分は束縛され、抑圧されているのだ。こうした様々な特権を享受している―――物の生産に何一つ協力しないくせに最も良いものを消費できる―――特権身分は、フランス国民、フランスの生活共同体にとって、「異邦人」・「重荷」に過ぎない。それ故に、特権身分がいなくなってもなんら困ることはなく、かえって、自由で生き生きと生活できるというわけだ。つまり、特権身分は、いなくなればかえって健康になる、寄生虫のような存在と認識されたのだ。このように、「第三身分」は、寄生虫的に特権を貪る支配者に対して、国民経済を支える社会的分業の一員(個)としての自覚から、直接生産者としての「矜持」と「国民」的一体感(→「ナショナリズム」)を持つに至ったといってよいと考えられる。

   さて、前回述べたように、私の「一般ピープル」の原初的なイメージは、このシェイエスの「第三身分」によったものだ。それは、社会を実質的に支えている幅広い〈労働〉の担い手であって、現代的に表現すれば、「ノン・エリートの」という限定はつくが、社会的に有用な財やサービスの生産(「金融経済」に対比される「実体経済」)に費やされる「労働」の担い手と言っていい。そして、私の私的生活史の中においても、そうした素晴らしい「一般ピープル」を多数指摘することができるのである。また、現代における「特権身分」とは何かという問題はさておき、「一般ピープル」の「労働」とパワーは、ストライキはもちろん、閉店・休業、そして、不買運動や納税拒否などを想定すれば、明らかなことだと言えよう。

   ところで、岩波文庫版『第三階級とは何か』(1950年)の訳者である大岩誠氏は、”État”を「階級」と訳した。しかし、この「 Tiers-État(第三身分)」は、農民とその家族、そして、都市のブルジョアとプチ・ブルジョア、さらに、より広範な働く人々を含む概念である。それは、家事労働をまで包み込む射程を持っていたと考えられる。つまり、経済学的規定に結びつく「階級(classe)」概念では、このような広範な人々を捉えきれないと言えるのだ。さらに、そうした「階級」概念では、ニクソンを支え、トランプをも支えている白人〈労働者〉「階級」の政治的・イデオロギー的有様をうまく説明できないであろう―――政治的、イデオロギー的領域の(相対的)自律性?!―――。 すなわち、現在の私たちにとっても、目前にある様々な状況をより適切に理解するには、より幅広い視座から、すなわち、「一般ピープル」的な視座から再考する必要があると考えられるのだ。

   我々にとってさらに大切なことは、シェイエスの「第三身分が全てである」という主張が、儒教的徳治主義―――「民」は国の「基(もとい)」なので大切にしなければならないという(それ自体は貴重な)エリートの「善政」論―――を超える、民主主義の〈本義〉(根本)を示していることである。すなわち、社会を実体的に担う「第三身分」こそが「公職」=公共的領域においても本当の主人公になるのだという主張だ。そして、こうした感覚(センス)は、フランス大革命に先立つ、アメリカ独立革命(1776年)の中で鮮明となったものと考えられる。それを象徴的に示すのが、トマス・ペインの『コモン・センス』だ。次回は、これに触れたいと思う。

   外では大雪が降っている。もう5センチは積もっているだろう。時々、寒冷紗代わりに使っている100均の不織布に積もる雪を払いに行く。夜中の3時まで降り続くというのだから、これは、かなり大変なことになりそうだ。

  
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エリートと一般ピープル――「一般ピープル」論(2)

  「愚か」なのは一体誰なのか?
     ―――「ポピュリズム」論に匂うエリーティズム


   ※この数日、動画で『ガールズ&パンツァー』の戦車隊のテーマ音楽を聞いている。映画『八甲田山』でも歌われている『雪の進軍』は―――「♪ここは何処ぞ皆敵の国」か?侵略戦争に駆り出されたのですねえ!―――は、小さい頃、親から教えられていたので少し懐かしかった。ただ、今回印象深かったのは、『抜刀隊』(→分列行進曲)と『カチューシャ』の二つだ。『カチューシャ』は、日本語訳は付いていなかったが、赤軍兵士の愛唱歌で、若き乙女カチューシャと国境警備に向かった恋人を歌ったロシア版「防人」の歌である。これに対して、『抜刀隊』は、西南戦争の折、薩長藩閥政府によって編成された警視庁白兵戦部隊(官軍)の歌で、のちに編曲されて、あの神宮外苑における学徒出陣の行進曲にもなったものだ。両者の歌詞の違いには改めて驚く他はなかった。さらに、後者のような「忠君愛国」歌が、現在の陸上自衛隊でも使われるようになっているというのだから呆れるほかはない。日本国憲法との関係はもとより、日米地位協定や米軍との指揮権上の問題を考えても、強い違和感を感ぜざるを得なった。否、どちらかというと、「恥ずかしい」とすら感じたのだ。


   それでは、本題に戻ろう。前回述べた「エリート」とは区別される「その他大勢の普通の人々」は、これまでも様々な名称で呼ばれてきている。例えば、東洋的言語世界では「民」であったり「百(の)姓」であったりする。また、西洋的世界では、「デモス」であったり「ピープル」というわけだ。そして、それらは、様々な〈思想〉をもとに、「人民」とか「民衆」、「一般民衆」とか「普通の人々」とかに訳され、さらに現代に至っては、「大衆」とか「群衆」とかいった新しい概念も登場してきた。ただ、注意しておかなければならないのは、これらの言葉の背後には、「エリート」と「ノン・エリート」との間の政治的・経済的・イデオロギー的な支配ー被支配関係、指導ー被指導関係、管理ー被管理関係などへの評価が張り付いているということだ。大まかに言えば、例えば、プラトンの「哲人政治」や孔子の「徳治主義」などに始まる「エリーティズム」と、「民主主義」や「人民主義」などに見られる「反エリーティズム」だ―――ただし、後者にも、様々な階層的な「エリーティズム」が張り付いている場合が多い。もちろん、「ノン・エリート」が「エリート」の支配、指導、管理等に従順に従うべきであるとの考えは、「エリート」によって、様々な宗教的、思想的、理論的形態で語られてきた。例えば、寡頭制支配の鉄則とかメリトクラシイ(「能力主義」)とか民主的・有機的リーダーとかだ。しかし、とりわけ権力的な統治関係における「エリート」と「ノン・エリート」との間には、必ず矛盾と敵対的な関係が孕まらざるを得ず、そこにはそれらを抑制・調整する思想や諸制度が構想されねばならない客観的な条件が存在すると言わなければならないのだ。両者間の予定調和など「エリート」によるレトリックにすぎない。 

   ところで、このところ、「ポピュリズムpopulism」という言葉が盛んに使われている。そして、この言葉についても、それを積極的に評価する事例(いわゆる、左右の「ポピュリスト」)もあるが、多くは「大衆迎合主義」と訳されることが多いところにも見られるように、「大衆」(ー「民衆」)を愚かなものとして否定的に評価する「エリーティズム」の匂いがするものが多い。しかし、アメリカン・グローバリズムの矛盾が生み出したトランプ現象などを「ポピュリズムー衆愚政治」の一形態と捉える最近の風潮は、ファシズムを「衆愚政治」の一形態として捉えるのと同様に、ほとんど意味がないとすら言えよう。実際、ヒットラーを「支えた」のは当時のドイツ財閥であったし、トランプを「支えている」のも結局ウォール街の金融資本と共和党に他ならないからだ。つまり、欲得にまみれて構造的な矛盾を適正に解決し得ず、ファシストにおすがりして既存の〈グローバリズム〉を推進・維持しようとしているのは、既存の支配的「エリート」多数派に他ならない。つまり、トランプを支持する「大衆」(支持勢力)にはグローバリズムの構造的矛盾から発するそれなりの実際的な理由があるのだが、より本質的な目と代替案を持つ「反グローバリズム」運動への対抗上、かれらの不満や不安がファッショ的あるいは権威主義的に統合されるのを消極的にではあっても許さざるを得なかったと考えられるのだ。しかし、「政治」的に結合した「権力ブロック」内部の分派間闘争とはいっても、グローバリズムに口先だけでも異議を唱えることは「愚か」なこととしなければならない。支配的「エリート」層がそこから利益を吸い取る(国際金融取引やパラダイスペーパーも含めた)「グローバリズム経済」は、必然的で不可避な発展方向とされねばならず、それに「感情的」に反発するのは根本的に「愚か」なことだというわけだ。さらに、トランプらの人種主義や排外主義や自国中心主義は、支配的「エリート」層内部の諸分派がこれまでに蒔いてきた種が「異常」に発芽・成育したものと言ったほうが正確とすら言えよう。要するに、「ネオナチ」や「トランプ」や「アベ政治」は、〈アメリカン・グローバリズム〉の矛盾が深化している中での、「新しいファシズム」と表現するのが最も適当だと考えられるのだ。

   それでは、「一般ピープル」とは何なのか?これについての私のイメージは、西洋と日本については若干異なっているが、まず西洋について言えば、次の2冊の本に依っていると言っていい。すなわち、シェイエスの『第三身分とは何か』(私が読んだのは、大岩誠訳の『第三階級とは何か』だが)とトマス・ペインの『コモン・センス』だ。次回は、シェイエスの主張を確認しておきたい。

   

「一般ピープル」論(1)――パンミンとパンピー

 「一般ピープル」とは何か?―――
    「一般ピープル」の矜持と公共的意識の確立のために


   ※最近は、寒いのと左膝の調子がイマイチだということもあって、外に出ることが億劫になっている。そんなわけで、本を読んだり動画を見たりすることも多かったのだが、これからは、この数年間このブログでしばしば使ってきた「一般ピープル」なる言葉の意味合いを改めて考えてみたいと思っている。今回はその第1回目だ。

   この言葉を使い出したのは、もちろん、〈冗談〉と言うか、〈遊び心〉からだ。それは、そもそも、30年ほど前、誰からだったろうか、恐れ多くも現行の最高額紙幣の肖像にもなっている、日本における天賦人権論(あるいは、「(反中嫌韓)ヘイトスピーチ」)の元祖とも言われている人物に関係する幼稚園に、「政治家」コースと「経済人」コースの他に「パンミン」(一般民衆)コースとか言うのがあると聞いたことがあったこと(本当か?)、さらには、かって「武勇の誉れ」高かった(?)あの「暴走族」仲間で、なにやら「パンピー」(一般ピープル)とか言う言葉が使われているという話を記憶していたことに発している。もちろん、これらの言葉は、「エリート」諸君との対比における、「その他大勢」の「ふつう」の「ノン・エリート」に対する「蔑称」と言って間違いないであろう。そして、我と我が身を振り返り見れば、いうまでもなく、この私は、その「一般民衆」(パンミン)・「一般ピープル」(パンピー)の一人に他ならないということなのだ。

   だが、そうは言っても、「一般ピープル」たる私は、そんなに「自虐的」だったというわけではない。というのは、「てやんでえ!真っ当に働き、真っ当に生きている一般ピープルのどこが悪いんでえ!」といった感覚があったし、また、現在も「サムライ◯◯」などと武士道まがいの言葉が氾濫しているけれども、「一般ピープル」たる私でも、当の「エリート」たる「政治家」先生や「経済人」の皆様方に、「正義」や「道理」や(名誉を重んじる)「品格」などをほとんど感じられなかったからである。そして、そうした傾向は、アベとアベ友がのさばる現状においてほぼ頂点に達していると言って良い(―――これ以上はもうとても我慢できそうにないw)。それ故、アベ政権の成立以降、私は、そうした真逆の気持ちを込めて、あえて、「一般ピープル」という言葉を使うようになったのだ。

   しかし、同時に、我々「一般ピープル」の現状も、けっして楽観できるものではない。なぜなら、かっての町内会の倫理にも劣る「アベ友政治」の実態がここまで明らかにされてきているにもかかわらず、我々「一般ピープル」の反応は鈍すぎるように思われるからだ。さらに、支配的「エリート」の諸分派の「長老」が、このままでは収集がつきそうもないので―――真っ当な感覚ならそりゃそうでしょう!―――「アベ降ろし」の動きを開始すると、世の中、なにやら、そうした動きに期待しなければならないといった雰囲気さえ感じられるのだ。これでは、まるで、「黄門様、おねげえしやすだ」の世界ではないか。本来ならば、我々「一般ピープル」こそが、主権者の「印籠」を突きつけてやらなければならないはずなのだから。

   ということで、これから数回にわたって、この「一般ピープル」と言う言葉に私が込めた意味についてもう少し詳しく書いてみたいと思っている。もちろん、それは、私たち「一般ピープル」の存在自体に対する「矜持」と公共的(ー主権者)意識の確立を目指したものだ。
 

「久石譲 in パリ」を観て考えたこと

朝鮮半島に戦争の足音が近づいている
  ――粗野な戦争観を拒否し、憲法9条の理念を堅持する!


   ※新年早々、アベやトランプの「アホ」らしいニュースを次から次へと聞かされていると、市井の「一般ピープル」としてどうすりゃいいのかと本当に頭を悩ませてしまう。ロシア疑惑や暴露本の出版などで窮地に追い込まれているトランプにとって、北朝鮮への先制攻撃は垂涎のシナリオであろう。また、お友達の経済的利益を実現し、また、爺さんの犯罪的行為の正当化とその夢の実現を目論むアベッチは、ナチスの手法に学びつつ、北朝鮮の脅威を最大限に煽って、軍備拡張と改憲になりふり構わず突っ走っている。合理的に考えれば絶対あってはならないことなのだが、トランプとアベのリスクが、平昌オリンピック後に現実化する可能性も無くはない情勢になっているのだ。まあ、乾パンと水ぐらいは準備しておこうか。

   そんな状況の中、昨日、「久石譲 in パリ 宮崎駿監督作品演奏会」を観た。実は、年末にも一度見たのだが、何か一層複雑な気持ちに囚われてしまった。とりわけ、パリの大人たちが歌う「君をのせて」(『天空の城ラピュタ』)は、現代世界の続く〈悲しみ〉と平和への願いが感じられ、涙なしには聞けない思いがした。さらに、『風の谷のナウシカ』や『もののけ姫』のテーマを聞きながら、宮崎駿のメッセージに触発されながら書いた多くのブログのことを思い出した。例えば、「『風の谷のナウシカ』によせて(6)―――戦争論と非暴力直接行動」(http://saromuriki.blog.fc2.com/blog-entry-68.html)だ。それらは、戦争と平和そして「憲法9条」、さらには、「武」の心と「平和主義」との関係を考察しようとしたものだったが、今、最悪のトランプ政権とアベ政権の下で、事態(日本の戦争国家化と眼前に迫る戦争の危機)がここまで切迫してしまったことに対して、暗澹たる思いがしたのだ。

   朝鮮半島におけるムン・ジェイン政権とキム・ジョンウン政権との関係が今後どうなるのか、さらには、朝鮮半島の「一般ピープル」が根本的にどのような方向性を選択するのか、それこそが最大のポイントなはずである。しかし、それに米中露日が複雑に絡み合う現状には、大国の権力者が、国民を幻想的な「国益」や「国難」でたぶらかしながら、他国に干渉・介入している典型的な姿を見ることができると思う。そして、現在、トランプの〈政治的〉利益と産軍複合体の経済的利益の実現のために、朝鮮半島の危機を昨年のシリア空爆の事例のように処理できる―――すなわち、プーチン政権とアサド政権との関係(=ロシアの権益)をトランプが承認し続けることを前提に、アメリカの〈限定的〉な攻撃にシリア・ロシアが反撃しない―――といった思惑の下で、まさしく「限定的な空爆」が実行される可能性が高まっているようだ。しかし、金正恩政権とアサド政権は違うし、また、金正恩政権と習近平政権との関係はアサド政権とプーチン政権との関係とも違っている。さらに、これにロシアの米中に対する地政学的な利害まで絡んでいるのだ。ただ、トランプの空爆に対する中国の黙認が、朝鮮半島北部における親中的な政権の樹立に対するトランプの容認を意味するとすれば、たとえ金正恩がトランプの「限定的」な攻撃に反撃しなかったとしても、その後の金政権の崩壊は必然といってよいことになる。(つまり、必ず反撃する。)それ故に、もし金正恩が反撃しないとすれば、それはトランプが核武装した金政権をこっそりと承認し、見かけだけでもいいから限定的に攻撃させてくれといって話をつける以外ないといった可能性すらあるかもしれない。どちらにしても、朝鮮半島におけるそうした手前勝手な思惑は、〈掛け金〉を決めないで行うギャンブルのようなもので、その不確定な掛け金を支払わされることになる日韓の「一般ピープル」にとっては、とんでもない代物だと言わざるを得ない。とりわけ、〈在韓〉米軍への反撃のリスクを極小化し、また、その他の諸々の事情を考慮すれば、〈在日〉米軍基地からの攻撃がトランプにとって最も好都合ということになるのではないか。そして、それに対してアベがNOと言えるはずはない以上、日本の「一般ピープル」にとって最悪の事態さえ想定されるのだ。

   繰り返しになるが、トランプやアベ、そして、彼らの「お友達たち」の政治的・経済的利害からすれば、戦争経済(軍備増強と戦争そのもの)は垂涎のご馳走なのだ。それでは、このような戦争策動に対して、〈主権者〉ではあるが、日常生活を送る「一般ピープル」たる私たちは、今この時点で、何ができ、何をしなければならないのだろうか。答は、アメリカとの集団的自衛権の行使を全世界で可能にしようと目論むアベたちに対抗する、「非武装」を追求する論者と軍事力の行使を個別的自衛権の行使に限定する「専守防衛」論者との〈連合〉に支持を表明することだ。両者は、強欲で粗野な権力政治観に対して、武力行使を否定ないし制限する〈理念〉=「9条」の精神を共有するものなのであり、私の問題意識からすれば、それは「無刀」を理想とする「武士道」の平和主義と思想的・宗教的な「非暴力直接行動」の「平和主義」との連合といっても良いかもしれないものだ。そして、現在、戈を止める「武」を捨てることはできないにしても、その行使を〈極小化〉する努力―――例えば、国連の集団安全保障体制の中での「常備軍」の廃止―――の中にしか、人々の安全と平和を増進する道はないのではないかと考えるのだ。しかし、最後に、「武」を捨てきれない私自身への自戒も込めて、次の言葉を再度引用しておきたい。   

 非暴力は臆病を隠すベールではない。
 それは、勇者の最高の美徳である。
 非暴力を行使するには、剣をふるう以上の勇気が必要なのだ。
 だから、武術家が非暴力の担い手になるのは、理にかなったこと。
 非暴力とは、
 暴力に対して十分に反撃できる力を持つことでもあるのだから。
             (『ガンディー魂の言葉』036)  

謹賀新年 2018年1月2日―――今年は「実直」に!


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   今年の干支は僕の「戌」今年も元気に引っ張るぞ
                       サロ・ムリキ

   おみくじは「凶」「自重」して「自制」に努めます
                     サーヴァント・ムリキ


   ※皆さんは、どのように新年を迎えただろうか。さて、今日は「事始め」ということで、今回のブログは、ムリキ一家の年末年始を記録しておくことにしたい。

   大晦日には、初雪が降った。前日に外回りの掃除をしておいて正解だった。午前中には風呂場の掃除、午後にはしめ縄と鏡餅をセットしてサーヴァントの新年への準備は終わる。その後は、サーヴァントの2017年の総括と2018年への展望だ。2017年は左膝のケガなどもあったので、2018年は「心身ともに健康な一年に」ということになった。ただ、サロさんには、もっと優しく、もっと大切にしてあげたいと思う。私の調子に一番影響を受けるのはサロさんなのだから。夕食後は、クラシック・ハイライトと紅白を適当に眺めつつ過ごした。その中では、桑田佳祐の「若い広場」(『ひよっこ』の主題歌)が一番印象に残っている。全曲を聴いたのは初めてだったが、宮本信子の”一言”も含めて、私たちの世代の感覚をよく表現していると感じた。

   元旦には、雑煮とおせち料理を食べた。柚湯もそうだが、こうした恒例の家庭的な「年中行事」がこの歳になると妙にしみじみと感じられたりする。ただ、5人プラスサロさんのこうした生活もいつまで続くのか?!
   元旦の空は見事に晴れ上がっていた。昼近くになって、サロさんと近くの神社に行ってみた。長い行列ができていて、サロさんがおとなしく待つのはとても無理なので、御神籤だけを引いて帰ってきた。見事に「凶」だった。人生で2度目の「10%あるいは33%」。昨年末に「辞世より、まず自省して、自制する」という歌を作っていたのだが、ありがたい忠告として、自重し、自己コントロールに努めたいと思う。
   夜は、『風雲児たち〜蘭学革命編』を観た。『解体新書』の翻訳・出版に至る前野良沢と杉田玄白らの関係を描いた、原作・みなもと太郎、脚本・三谷幸喜の時代劇だ。商品経済が進展していく鎖国日本における「日本人」の様々な「思い」がうまく描かれていたと思う。それにしても、新自由主義のイデオロギーとは全く違うよな。

   今日、2日は「事始め」。以前は、「書き初め」をしたり、「初売り」があるので買い物に行ったりしたことを思い出す。このところは、「姉貴」が生けた花を前に「家族写真」を撮るのが恒例となっている。そして、なぜか、「箱根駅伝」を見る。現在は5区の山登り中で、東洋が首位、4連覇を狙う青学が追っている。さてどうなるのか?ところで、今朝の夢は元の職場の奇妙な夢だった。でも、これから見る夢を「初夢」としよう。あとは、この「初ブログ」だ。まあ、吉凶は別として、今年の一年はこんな風に始まっている。野菜作りのように「実直」に生活していくつもりだ。



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自給を目指し、サロさん用サツマイモの収穫




プロフィール

SARO MURIKI

Author:SARO MURIKI
おりこうさんのワンワンです。年齢は、2019年11月現在満13歳です。見てのとおりの柴ですが血統書はありません。性別はオスで、飼い主には、朝夕、45分ずつ2回の散歩を義務付けているVIP犬、正確に言うと、VIDです。文句あっか?!

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