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伝統的「保守」?――なぜ悪逆非道で”反国民”的なアベ政権が続くのか(3)

アベとタケナカなど 悪徳・勘定奉行と口入屋に過ぎぬではないか!
私的な利益誘導政治に取り込まれては故郷と故郷の人々は守れない! 


   ※一昨日、熊谷で国内最高気温41.1℃を記録した。死者もたくさん出ている。まさしく、生命の危機を感じる暑さだ。そんな中、短時間ではあるが畑で草取りをしたのだが、いつものように蚊に刺されないので不思議に思った。後で、1st兄貴から、蚊も35度以上だと活動を停止すると言う話を聞いて納得してしまった。ただ、国民の血をすするアベの支持率は、まだ、殺人的な国内最高気温よりも高い。日本人の頭も暑さで狂っているのだろう。

   前回は、アベ政権に恩恵を受ける「富裕層」(資本家・経営者)316万人について考えてみた。そして、この層の家族を含めた数は、およそ、1000万人ほどになるのではないかと推測される―――316万と言う数字をほぼ世帯数に近いと考えると、「富裕世帯」は全世帯5340万の5.9%(17世帯に1世帯)、そして、世帯平均人数は2.47人だが、富裕層の家族はこれよりも多い3人だと仮定すれば、ほぼこの程度の数字になる。そして、この層の投票率は一般的に高いと考えられるから、この層の投票数は、前回衆院総選挙(比例区)の与党獲得票2560万票のうちの約40%、自民党得票数1855万票のうちの約55%ぐらいになるのではないだろうか。アベ自民党は、もはや、米国に追従して自分たちの階層的利益を確保するために国民一般の利益を売り渡す、買弁的な「富裕層」のための政党と言って良いと思うが、上の数字はそうしたアベ政治の「岩盤」的支持層の有り様をかなり正確に表しているのではないだろうか。もちろん、社会には〈資金〉も〈経営〉も必要なわけだが、問題はそのあり方とそれを担う人々の思想だ。無節操な金融緩和と金融機関のサラ金化、電力をはじめ、既成産業の既得権益を守る産業政策に依存する巨大企業群、国民全ての経済的複利の増進ではなく、一部の資本家や経営者の私的利益のみを追求する経営手法等々、日本社会の劣化は、この層がアベ的な選択肢に依存し、それ以外の選択肢を示し得ないところにも現れているといってよい。しかし、こうしたやり方での富と権力の維持など、儚い幻の如きものと言って良いだろう―――アホノミクスの崩壊は近い。

   さて、アベ自公政権を支えているもう一つの勢力として、地方自治体(都道府県・市町村など)の首長と議員たち、そして、彼らを支援する後援会などの構成員が考えられる。総務省のデータを参照すると、市町村レベルでは、「無所属」が圧倒的に多いが(70.8%)、その過半数がいわゆる「保守」系ー「自民」系であることは間違いないだろう。都道府県や政令指定都市のレベルになるとより政党色が強まるが、やはり、自公が40〜50%の得票率を確保しているようだ。この勢力が国政選挙で自民党を支えるわけだ。

   ところで、地方政治におけるこの勢力に対する私自身の印象は、良く言えば、その土地に根付き、郷土愛に燃えた面倒見の良い世話役といった人々だ。その多くは比較的裕福な農民や商店主そして中小企業の経営者たちだが、そのまわりには、同じ町内の知り合いの人々や水利組合とかライオンズクラブとかの会員とかが集まっている。これらの人々は、私にとっては、時代劇や歌舞伎などでおなじみの古い伝統的な「保守」のイメージにつながる人々で、逆に、どうしてこれらの人々が「アベ政治」(”悪役”そのものだろうに!)を支持するのか疑問に思う程なのだ。つまり、これらの人々には、地域社会を実体的に担う「人情」厚き人々も少なくないのであって、故郷とそこに住む人々を犠牲にして自分たちの階層的利害を追求して恥じない買弁的アベ政治と根本的に対立する面があると思うからだ。

   その一方で、これらの人々は、いわゆる人権意識とか主権者意識とかとはかなり遠いところにあり、親分・子分的な命令ー服従の意識に囚われ、政治家との人格的な繋がりによる〈私〉的利害の実現という関係性の中に閉じ込められている面が強いように思う。良く聞いた話だが、何かしてほしいこと、実現してほしいことがあれば、政権(権力)の座にある自民党に頼るのが一番早いと確信しているというわけだ。つまり、言ってみれば、彼らは、〈小さな〉「モリ・カケ」的関係性の中で生きている、あるいは、生きて行かざるを得ないと諦念しているのであって、それがアベ自公政権に対する「寛容さ」にもつながっていると考えても良いかもしれない。

   ただ、私たちが政治に要求すること、そして、政治に実現させねばならないことは、裏口入学だとか就職のコネだとか公共事業の”不正”な受注だとかいったことではなく、あくまでも「公」的な、すなわち、全ての人々に当てはまる、人間らしく生きるために必要な諸条件の実現なのだ。すなわち、例えば、障害がある人のためのなんらかの施設は、障害のある人々の「私」的な要求なのではなく、明日の私たちのためでもある、「公」的な要求なのだ。もちろん、財源が限られ、小さなパイを取り合うといった場合もあろうが、その時こそ、その公共性や正当性を判断する透明で合理的な調整が必要とされるのだ。こうした《公平》性の観点からすれば、アベの「モリ・カケ」など、その対極にある代物と言って良い。そして、アベたちは、あらゆる面において、〈希少性〉を操作し、限られたパイを奪い合うような関係を強め、人々を卑小な「私」的利害関心の意識の中に閉じ込め、「利益誘導」型政治の罠の中に国民を絡め取ろうとしているのだ。予算削減と補助金・許認可・・・国民の分断・孤立化の上に、アベ友どもによる国税と資産の私物化が進められている。これに対して、私たちは、先に述べたような「公共」的世界をこそ創り上げていかなければならないのだ。

   ところで、アベ政治による「地方の疲弊」と共に強まっているのが、地方議員の「ネトウヨ」化だ。それは、アベ政治の下では、本来的な(故郷とその住民を守る)「保守」政治は実現できないので、それを過激な「右翼」思想でカモフラージュしようとする動きとも考えられる。ここで、大きな働きをしているのが、日本会議と神道政治連盟という、宗教的ナショナリストの、二つの組織だ。これについては、創価学会とともに、次回触れることにする。
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自公政権の「岩盤」的支持層?―――なぜ悪逆非道で”反国民”的なアベ政権が続くのか(2)

 磨くのは、”目くらまし”と”言い訳”のレトリックだけ!
―――経団連、利益誘導型の自民系議員後援会、神政連ー日本会議、 公明党ー創価学会、そして、気弱で計算高い似非エリートたち



   ※熱くて農作業はムリだ。とても日中外に出る気になれない。それにしても、西日本の被災者の方々のこの暑さの中での苦労を想像すると、本当に気の毒だと思う。そして、被災者そっちのけのアベ政権の「空白の66時間」は、やはり、彼らの本質を実に良く表していると改めて感じる。今回の事態は、御用マスコミによってはほとんど言及されないけれど、科学者たちによって30年も前から予想されていた「地球の温顔化」による「気候変動」の一つの現れなのであって、今回直接的な被害から免れた私たちにも近い将来必ずふりかかってくるものなのだ。そうした中でのアベたちの対応は、豊さと特権によって何があっても自分達だけは大丈夫だと慢心している故と思うが、極めて切迫感の無いものだった。要するに、「安全な場所」に居て「指揮官」ズラをしているアベたちにとって、一般ピープルの「被害」など、”交通事故”死者数に比べればいちいち気にするほどのことでもないとか、あるいは、上に立つ者はその程度のことは気にしてはならない位に考えているのであって、こうした事は、兵士の死でも、過労死でも、原発関連死でも同じことなのだ。そして、忘れてはならないのは、そうしたことが《彼らのご都合》(階級的・階層的利害)によって判断されているという事だ。こんな輩に、一般ピープルの命と生活が守れるはずはない。参議院の6増やカジノ法案の採決も強行されたが、国民の利益を顧みず、自分達の矮小な利益の為にはウソを吐きまくっても恥ない自公政権・・・もう2度とこうした輩を政権の座に着けてはいけないと心底より思う。

   さて、こうした”反国民”的なアベ政権がなぜ続くのか?という問についてだが、まず確認しておかなければならないのは、当たり前のことだが、アベ政治によって「利益」を得ている「階級・層」が確実に存在していること、また、そのイデオロギー的主張に共鳴する「個人・団体」が強い組織的裏付けを持って存在していることだ。代表的な例は、経団連などの業界団体、”利益誘導”型の自民系議員後援会、神政連ー日本会議、公明党ー創価学会、そして、政・財界と密接に結びつき「天下り」(民間企業・大学・公益法人など)などで甘い汁を吸おうとしている気弱で計算高い”似非エリート”たちだ。今日は、そのうち、最初のものについて、私なりの印象を述べておきたい。

   日本経済の中で圧倒的な構造的権力を有する資本家・経営者の団体は経団連だ。今回の「働かせ改革」をはじめ、自民党政権が経団連の「政治局」たる事は明々白々であり、そのHPを見ても両者の密接な繋がりは明らかだ。また、先日、大竹まことの『ゴールデンラジオ』(月曜、森永卓郎)を聴いていると、日本には100万ドル(1億1000万円)以上の”投資可能”資産の所有者が、前年比9.4%ー30万人増の、316万人いるという。そのほとんどが投資家や経営者だと考えられるが、彼らにとって、ツケは一般国民に転化しつつ、いかがわしい「トリクルダウン」論を掲げて、恥ずかしげもなく《株価》を吊り上げ続けているアベ政権は、おスガリするに十分価する存在というわけだろう。しかし、その一方で、圧倒的多数の一般ピープルが過重労働と不安定労働に苦しみ、そして、実質賃金を減らしているのだ。また、彼らは、眼前にある少子高齢化による「労働力不足」を”低賃金”で乗り越えようと、高齢者や外国人「労働者」の労働力を本格的に利用しようと考えているようだ。勿論、そのことによって生じる深刻な《矛盾》は、これまた、一般ピープルが直接被ることになる。最近「100円ショップ」がよく似合うようになった私は、「余裕と安心」の富裕層と「板子一枚下は地獄」の庶民層の「二極化」が実感出来るようになってきている。

   ところで、こうした拡大する《格差》を「公正」な競争の結果として当然視し、その上に胡坐をかくイデオロギーが、その色彩をカメレオンの様に変えながら、社会の様々な領域に浸透している。すなわち、新自由主義や社会ダーウィン主義を代表とする、「勝者」への富と権力の集中を正当化する、ボッタクリのイデオロギーとその変種だ。勿論、資本家であろうと富裕層であろうと、こうしたイデオロギーやその政治的な変種である「アベ政治」に批判的な人々も存在する。また、真っ当な「日本思想」の流れの中にはそれらを根底的に批判しうる伝統(例えば、網野善彦氏の「無縁」や「公界」など)も当然ある。しかし、その声は、今、決して大きいとは言えないだろう。こうした状況を許しているのは、近代以降の日本の「権力思想」や「教育思想」の影響も考えられるし、また、とりわけ、1980年代以降の世界的な新自由主義・新保守主義の流れと連動した企業での「能力主義管理」や学校での「競争原理」・「管理主義」教育の果たした役割も大きいと考えられる。しかし、そもそも、こうしたイデオロギーが、〈共同〉的存在たる人間の「公平」という観点からどう判断されるかは、歴史的そして思想的な問題に他ならないのだ。実際、「社会権」思想に基づく福祉国家やニュー・ディール期を経験した欧米諸国では、一時期の後退を経て、現在は、明らかに、それに反対する「カウンター」勢力の勢いが増している。しかし、我国においては、グローバリズムを無批判的に受容する雰囲気の中で、そうしたイデオロギーがかえって影響力を増しているとすら感じられるのだ。

   だが、現在の日本の実情を見ると、そもそも、眼前の「勝者」なるものが、「公平」そして「質」という観点から、「適者」と言えるのか自体が極めて疑わしいことなのだ。我国では、明治維新以降も、政治家や天皇制官僚との―――決して《公平》とは言えない―――特権的な結びつきによって、国から法的・財政的な保護を受けて「成長」してきた「政商」(そして、「財閥」)なるものが存在した。要するに、日本の巨大企業には、公平な市場での競争の結果というよりは、国家が国民から徴収した税金を、公平な合議や調整によってではなく、有力な政治家との私的な結びつきによって手に入れ、甘い汁を吸ってきた例が少なくないということだ。こうした傾向は、明らかに、戦後にも引き継がれ、現在も、モリ・カケ問題をはじめ、その例に事欠くことはない。さらに、最近の事例を見て行くと、保護を受ける側も保護を与える側も、その「質」たるや呆然とするばかりのものとなっている。「寄らば大樹の陰」とでも考えているのだろうか、権力周辺に巣食う種々雑多な輩は、何か特別な能力や素晴らしい業績を残しているわけではなく、さらに、その価値意識たるや、”ただ自分だけが良ければいい”といった、ほとんど「ゲス」まがいの連中が多数存在していると言わざるを得ない。官民を問わず、まあ次から次へと、よくも出てくるものだ!

   そもそも彼らが自分たちの「厚遇」(収入や権限など)の根拠としているのは自らの「能力」や「業績」らしいが、政・官・業のトップを見ても、そのことに納得できる人物はどれだけいるのだろうか。「公」や「志」とはほとんど無縁な政治家たちはコメントする気にもならないが、必要条件たるお勉強はできたらしい「官」も、その十分条件たる「倫理規定」を満たしているとは到底思えない実状が次々と明らかになっている。業(財)も、以前はフランスのレギュラシオン学派からも注目された「日本的経営」も 今は昔、労働者の首切りや賃金カットによって利益をあげ、お手盛りで、役員報酬や株への配当を引き上げているだけの有り様が主流だ。これらが「適者」だとすれば、日本の未来は絶望的と言う他ないだろう。
   
   そもそも、「適者」とは、「弱肉強食」のジャングルや「悪魔のひき臼」のような粗野な市場や「反国民」的でボッタクリのグローバリズムの中での「生き残り」のことではないはずだ。最近も(NHKスペシャル)『人類誕生』でやっていたが、人類(ホモ・サピエンス)が何故生き残こり繁栄できたかといえば、偶然の要素と共に、われわれが相互に協力し合い、対立・抗争を巧みに制御できたからに他ならない。ダーウィンが社会ダーウィン主義者ではなかったように、こうした視点は、これまでも人類学の常識だったはずだ。勿論、人間には競争心も闘争心もあるが、「盛者必衰」の理のとおり、その野方図な〈放任〉(競争原理主義)の果てには、破滅か共倒れしかあり得ないのだ。しかし、人類は、優れた《スポーツ》や《武道》が示しているように、これに対して「秩序の枠」(ルールや心構え)を生み出してきたのだ。そもそも、人間の能力は相対的なものであり、また、歴史的・社会的に「他者」によって支えられているものに他ならない。それは経済活動であれ、発明であれ、芸術であれ同じことだ。「他者」への尊重や「共存・共栄」の意志こそが「人間社会」の維持・発展の基礎と言ってよいのだ。そうした視点に立つことが「公平」であるという意味でなければならない。「適者」とは、〈共同〉的存在たる人間の「共存・共栄」に向けて力を発揮できる「人物」を指すべき言葉でなければならないはずだ。

   しかし、歴史的には、粗野なボッタクリ主義者も存在してもきた。帝国主義者もそうだし、現在の「新自由主義者」や「社会ダーウィン主義者」、そして、その変種もそうだ。それは《愚かな》「勝者」が陥りやすいバイアスの故とも言えようが―――勿論、原始の時代から、《賢い》「勇者」も存在する。例えば、星野道夫『アークティック・オデッセイ 遙かなる極北の記憶』―――彼らには、人間社会の「共同性」といった観念自体が「機能」していないと疑わざるをえない程だ。そうであるなら、我々「一般ピープル」は、その「共同性」というものがいかなるものであるかを、たとえば、ストライキや不売や非協力などで示してやらなければならないのではないか。勿論、グローバル化した経済の中では、多国籍化した資本や富裕層は、生産や販売の拠点を他国に移したり、安価な外国人労働者の導入を図ったりしてその利益を維持しようとするかもしれない。しかし、グローバル化した資本も、政府による異次元の金融緩和によって円安と株高を維持している日本を見れば典型的に分かるように、アメリカであろうが、中国であろうが、ロシアであろうが、実際には、「国民国家」の公的な介入によってその利益を保持しているのだ。そして、いうまでもなく、その「国民国家」を実体的に支えているのは、我々「一般ピープル」に他ならない。それ故に、現在の「国民経済」と「民主政治」が維持される限り、アベ達は、「本当のこと」も「本音」も語ることができないという訳だ。そして、いつもの歪んだ顔付きといかにもウソっぽい口調で、”言い訳”と”めくらまし”を繰り返すだけなのだ。

   長くなってしまったのでもう止めるが、勿論、現在の資本家・経営者の中にも「国民経済」を”実体”的に担っている尊敬すべき人達がいる。しかし、問題は、そうした彼らの多くが、アベ自公政権以外の政権を構想できていないこと、相変らず、それにおすがりする他ないと思考と行動を停止している点にある。最近、小泉純一郎と小沢一郎の反原発での連係が話題になっているが、こうした古老の動きに注目が集まる状況こそが深刻と言わなければならないと思う。

   アベ政治の闇を切り裂く閃光は何処から発せられるのか?!

アベ政治と日本社会の”劣化”

 アベ政治のウソと不公平が生み出す格差と不信感が
   日本の共同社会としての「質」をどんどん低下させている
   

   ※関東地方は、6月29日に梅雨明けしたわけだが、その後、梅雨期のような天候に逆戻りしている。また、西日本では、地震や集中豪雨によって多くの人々が深刻な被害を受け、苦難を強いられている。これらに対して、国会でも官僚の書いた作文を恥ずかしげもなく棒読みするだけのアベは、相変わらずの口先だけの決まり文句を繰り返すだけで、誠実さのカケラも感じさせない姿を晒している。また、6日には、オウム死刑囚7人への処刑が執行されたが、それは自らの失政を”隠蔽””するために行われたのではないかと疑わせるに十分なもので、オウム真理教事件の真相解明に蓋をするばかりではなく、死刑廃止に向かう国際社会における日本の評価を著しく傷つけるものであったといえよう。とりわけ、大量処刑前夜のアベやカミカワたちの有様は、事件の被害者や家族たちの悲しみや怒りとは無縁のもので、残虐刑を喜色満面でやってのける権力者たちの醜い姿を晒すものでしかなかった。残念なのは、今の日本社会には、こうしたアベたちの有様に異様さを感じない、おぞましい風潮が確かに存在していることだ。
 
   現在の日本社会には、とても”真っ当”とは思えない”恥知らず”なアベに頼る他、自らの「比較優位」―――それ自体、今の自分さえよければ良いといった、極めて利己的で、短期的で、かつ時代錯誤的な利益でしかないように思われるものだが―――を保持できないと考えているらしい、「多数派(?)」の”劣化”した姿が観取出来る。

   先日も、カンヌ国際映画祭パルムドール受賞の『万引き家族』(是枝裕和監督)を観てきたけれど、それは、日頃私たちが垣間見ている日本社会の象徴的”現実”の中で、「家族」を、人間同士の結びつきをどうとらえるのかといった非常に重い問を私たちに突きつけるものだった。しかし、この作品に対するアベの反応にも表れているように、こうした問題を私たち自身の問題として受け止めるといった感性を、日本社会の「多数派(?)」は失ってきているように感じられるのだ。また、先週は、友人夫妻と共に、池袋の東京芸術劇場で上演されている『ザ・空気 ver.2 誰も書いてはならぬ』という演劇を観た。内容は、アベ政治と巨大マスコミ(記者クラブと公共放送)との癒着を風刺する機知に富んだものだったが、身につまされるようで、笑うことなど全くできなかった。私自身も、巧みに編み上げられている権力構造の中で、醜い支配者たちよって用意された”another story"の中に逃げ込んできたのではないか。そして、今も、「諦め」という”another storyがちらついている。しかし、最近は沖縄出身の全盲のテノール歌手・新垣勉の歌(特に『願い―愛と平和の歌』が好きだ)に”癒されて”いる私ではあるが、同時に、”癒されて”なんかいる場合ではないとも強く感じるのだ。”危機”を深化させ、ただそれを先送りにしてるだけに過ぎないアベノミクス、そして、戦前の政治と戦争を肯定し、民主主義を踏みにじって独裁的性格を露わにしているアベ政治の現実は、私たちの命と生活にとってますます危険なものになっているのだから。

   ところで、あの”擬似ファシスト”たるトランプの支持基盤は、今でも『聖書』をそのまま信じているらしい白人の福音派キリスト教徒で、その数は国民のほぼ30〜40%を占め、トランプがどのような政策をとっても、「岩盤」の如き支持を彼に与えるのだという。こんな話を聞くと、馬鹿馬鹿しくも感じるが、もちろん、「トランプ現象」なるものは、新自由主義と新保守主義そして経済のグローバル化がもたらした矛盾に対する一つの”イデオロギー”的反応(継承と抵抗)の一局面として理解すべきもので、愚かな大衆やポピュリスト政治家への侮蔑で済むような話ではありえないはずだ。実際、前世紀に経験したファシズムの教訓からも、そうしたイデオロギーのもつ破壊力を軽んずることは決定的な誤りと言えるだろう。そして、実際、彼らが用いるウソや差別や歪んだ人間観・社会観によって、日々、多くの人々が不幸と死に追いやられているのだ。

   そして、トランプと「100%共にある」日本のアベ政権においても、アメリカとかなり類似した現象が見られる。あの”どうしようもない”アベ政治の現実を前に、アベ政権に対する支持率が下げ止まったり、回復したりする有様は、ある意味で、”奇怪”と言ってよいほどだ。しかし、こうしたアベ政権によって、日本は確実に奈落の底に突き落とされようとしている。そんなアベ自公政権の支持基盤については、次回以降、2〜3回に分けて考えて見たいと思っているが、今日は、人間のイデオロギーについて概観し、アベやアソウやその取り巻きたちの「反国民的」なイデオロギーと、それをボーッと受容している「一般ピープル」の危険性に心を止めておきたいと考える。

   さて、人間諸個人の「思想」(意識、観念、イデオロギーetc.)がかなり「偶然的」に定まるというのは、私自身の経験からしても言えることだ。もちろん、「思想」の「存在被拘束性」については承認するけれども、それも、歴史的・地理的・文化的な関係(間柄)の中で生まれることであり、さらに、諸個人のレベルでは、いわゆる「性格類型」はもちろんのこと、様々な経験や知識そして教育などによって大きく影響されることは当然のことと思う。また、「恋」は盲目という表現もあるが、同様に、「政治」も一つの特殊なイデオロギーの領域であって、必ずしも〈生活〉の”現実”に「合理的」に対応するものではないことは、歴史的にも現在的にも明らかなことだと言わなければならない。こうしたことから、政治の領域における「宣伝」・「教育」・「プロパガンダ」の重要性が説かれ、いわば人々を「思想」的に操作しようとする「おばけ」のような輩が登場することになる。そして、実際は富と権力を志向する彼らにとって、とりわけ「一般ピープル」などは、ウソをついてでも従わせればいい存在でしかないというわけなのだ。

   ところで、私はしばしば「一般ピープル」という言葉を使ってきたが、以上のような考察からも、「一般ピープル」だから必ずこう考えるはずだなどということは全くありえない話だと考えている。ただし、「一般ピープル」であるが故に不可避的に直面しなければならない実体的な”関係”もあるのであって、そうした関係性についての意識を共有していることの重要性と可能性は非常に大きなものだとも考えている。つまり、そうした関係に対する認知や反応は「多様」であっても、同時に、そうした”現実”への眼差しは、諸個人間のイデオロギー的な”ねじれ”を克服する上で非常に重要な基盤を与えてくれると考えるからだ。
   私は、都心に出て、その「豊かさ」に驚く。そして、私の周りでもベンツに乗っている人たちをしばしば見かける。そんな彼ら―――もちろん全てではない―――が、短期的な利害の観点から、現在のアベ政権を支持したからといって何の不思議もないだろう。問題なのは、”現実”と”観念”との間に不可避的な矛盾・葛藤を抱えざるを得ない、私と同じ「一般ピープル」に他ならない。人間は幻想的な観念の中で生き、そして、死ぬこともできる。ただ、それが「真っ当な」なものでない場合、私もそうだったが、人間は「不安」に陥る他はなく、より「真っ当な」答えを見いだそうと、自らの観念を”検証”しなければならなくなる。そして、その最終的な判断の基準は、”人間”と”社会”についての基底的な価値意識なのだと思う。そして、昨今の日本社会の”劣化”の現状と危機の深刻さは、このレベルに関連したものに違いないのだ。

 アベ(そして、トランプ)が、なぜ「恥ずかしい」存在のか?
 それは、同胞に対する「人間らしい感情」の欠如の故に他ならない。
  
 特権にあぐらをかく、アベとアベ友たちの”冷たさ”に
                   人々は愕然とするのだ。

プロフィール

SARO MURIKI

Author:SARO MURIKI
おりこうさんのワンワンです。年齢は、2018年11月現在満12歳です。見てのとおりの柴ですが血統書はありません。性別はオスで、飼い主には、朝夕、45分ずつ2回の散歩を義務付けているVIP犬、正確に言うと、VIDです。文句あっか?!

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