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2019年1月・ニュース雑感(1)海外編

「したり顔」の哀れな末路が見える
  ―――それに付き合わされることない知恵を発揮し得るか?



 ☆大坂なおみが全豪オープンで優勝
   クビトバトとの優勝決定戦を”気合いを入れて”見ていたら、「2nd兄貴」に「大坂なおみってお父さんにとってどんな意味があるの」と冷ややかに言われてしまった(w)。本当に何だったのだろう?自分の何かを投影してでもいたのだろうか?「日本人」だからと応援していたとも思えない。おそらく、彼女の”キャラ”に何か惹かれるものがあったのだろう。それにしても、『リテラ』の「大坂なおみが日清ホワイトウォッシュ問題を「気にしてない」「なぜ騒ぐ?」は誤報道!別の質問への回答を歪曲・誤訳」と言う記事には考えさせられた。この報道が正しければ(記事を読む限り間違いはない)、日本の巨大マスコミの恥ずかしさは尋常ではない。しかも、『日刊スポーツ』の記事によると、二重国籍の大坂なおみが日本登録で出場するようになった理由は大坂の父フランソワさんが「無名の時から娘を支援し続けた日本の恩義を尊重した」ためだという。そこには、これからの日本が取っていくべき姿勢が表れているようにも感じられた。「日本人」の概念も明らかに変化してきているが、自らが生まれた母方の母国=日本が、彼女にとって、頼りになり、愛すべき国であり続けることを願うばかりだ。

 ☆「孤立化」を深めるアベ外交―――真の「友好」は金では買えない
   昨年末のブログで、アベの外交を「トランプにカモられ、プーチンにはオチョクられ、習近平にはノセられ、文在寅にはウトまれ、金正恩にはシカトされ」と評したが、いやはや、事態は一層深刻なものとなってきている。それもこれも、アベ政権の、金をチラつかせて、「強き」には媚び「弱き」には高飛車に出る、「スネ夫」的性格によって引き起こされたものと考えて間違いないと思う。いやはや前途は暗い。

   トランプとの関係で言えば、膨大な軍備品を法外な値段で買わされていることはもちろん、これからも、アベ友一味の利害を守るために、どれほど多くの譲歩を強いられ、貢がさられるかは想像もつかないほどなのだ。

   また、プーチンとの「北方領土」問題については、たとえプーチンが納沙布岬の眼下に見える歯舞・色丹を北海道の一部として引き渡すことに同意することがあっても、「南千島」の国後・択捉島のロシアへの帰属をサンフランシスコ講和条約の記述に従って公式に認めさせようとしているぐらいのことは素人にもわかることだ。それを〈戦争による領土の併合〉の否定を基準に、日露和親条約(択捉島以南)や樺太・千島交換条約(千島列島全体)の時点にまで戻って交渉し得るかは、まさしく、政治の力量の問題と言えるのだ。しかし、現状は2島も危ういものとなっている。とまれ、最低限、先住のアイヌ民族には国境線をまたいで生活し得る権利がみとめられるべきではないだろうか。

   また、中国との関係で言えば、アベ友は戦前のイメージを引きずって日本優位の幻想にすがりついているが、中国の生産力や技術水準はもはやアメリカが脅威と感じるところまでに達している。こうした中、対米関係悪化の穴埋めを日本に求めてくる中国との関係において、経済面で圧倒的に依存している現状を直視しつつ、長期的な展望に立った適切な関係の構築に成功しなければ、その悪影響は計り知れないというべきだ。もちろん、日本経済の「ものつくり」国家としての自立と再生を基本にだ。

   さらに、日韓関係は、「レーダー照射」や「低空威嚇飛行」の問題で当分関係改善が見込めない有様となっている。私見では、今回の状況は、「歴史認識」問題に直結する「徴用工」問題への適切な対応ができないが故の両国政府の関係悪化と言う状況下で、(おそらく)偶発的に生じたであろう「レーダー照射」事件を、「同盟国」関係の中で穏便に処理することをせず、公に問題化したことに発するのだと思われる。そして、それも、日韓の相互依存関係の現実を直視できないアベ友たちの幻想的な優越意識に基づいているはずだ。中国に対しても同様だが、日本がケツを捲れば、韓国は困って、日本がアメリカにするように、擦り寄ってくるだろうというわけだ。しかし、その結果はどうなるのか。やれるものならやってみろと文在寅は思っていることだろう。つまり、それほどまでに、6カ国間における日本独自の存在感は低下しているということだ。北朝鮮との関係については、もう、言うまでもない。カヤの外なのだから。

   だが、一番問題なのは、こうしたアベの対応が、各国政府首脳はもちろんのこと、当該諸国の普通の国民や国際世論にどう受け止められているかということだ。意見あるいは利害の対立があっても、相互に尊重し合い、尊敬し合う関係というものはあるものだ。しかし、一緒にゴルフをやったドナルドの、一緒に温泉に入るはずだったウラジミールの、そして、習近平や文在寅のアベに対する表情はどうだったのか思い出してみよう。また、アベは国民が汗水垂らして生み出した税金を大量に世界にばらまいているが、各国の民衆は、アベや日本をどう受け止めたのだろうか。尊敬を勝ち得たのだろうか。アジア諸国はもちろん欧米諸国の政府や民衆はアベの「歴史修正主義」をどう見ているのだろう?「従軍慰安婦」や「徴用工」問題に対する日本政府の態度に賛同しているのだろうか。尖閣や竹島そして北方領土問題に対しても積極的な理解を示していると言えるのか。そんなことはあるまい。その場限りの社交辞令やリップサービスはあるかもしれない。しかし、結局、真の「友好」や「尊敬」は金では買えぬものだ。「落ち目」のスネ夫が、真っ当な努力もせずに、虚勢を張っているだけでは、あとは、残っている預貯金までをも差し出すしかなくなることだろう。その結果は、一層、馬鹿にされ、疎んじられると言うことだ。今の日本には、もはや、アベの愚策に付き合っているような悠長な暇はないと言うべきだ。(続く)   
     
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Thunderbolt Fantasy東離劍遊紀2―躍動するキャラ

 「実存」の危うい輝き!
    ―――ショウフカンの”普通”が貴重に見える時―――

   ※前回はNスペの『アウラ』について書いたが、昨年末には、この他にも、BS1スペシャルの『隠された日本兵のトラウマ〜陸軍病院8002人の”病床日誌“』や『戦争孤児〜埋もれた”戦後史”を追う』という印象深いドキュメンタリーがあった。被害者がかえって差別や犠牲を強いられるという不条理な日本社会の有様が重く心に残っている。そして、こうしたことは今の私たちにもけっして無縁なものではない。それをどのように受け止め、どう対処していくのか、今を生きる我々に問われているのだ。

   さて、『Thunderbolt Fantasy東離劍遊紀2』であるが、今回は一度見ただけで細かいセリフなどをしっかり把握していないので、全体的な印象だけを書き留めておきたい。作品の衝撃度という点では前作を超えるものではなかったと思うが、キャラクター設定の面白さや最後の”もづきのよ”を使った仕掛けなど、相変わらず楽しませてもらった。

  まず、キャラクター間の関係について言えば、殤不患(ショウフカン)と蠍瓔珞(カツエイラク)、凜雪鴉(リンセツア)と嘯狂狷(ショウキョウケン)、さらに、最強の敵諦空(テイクウ)=婁震戒(ロウシンカイ)と七殺天凌(ナナサツテンリョウ)、また、新キャラの浪巫謠(ロウフヨウ)とショウフカンとのそれが基軸となっていたようだ。しかし、カツエイラクは思いの外「常識」的で気弱な「忠臣」であり、また、眼鏡のショウキョウケンも悪に殉じるほどのプライドを持たない小賢しい「役人」に過ぎないのだ。そして、結局、両者とも、ショウフカンやリンセツアにではなく、「悪」の権化の如きロウシンカイに殺されてしまうことになる。ところで、吟遊詩人ロウフヨウが敏感に感じ取ったテイクウ=ロウシンカイの「悪」の正体とは何だったのだろうか。

   それは、一言で言えば、「虚無主義(ニヒリズム)」であろう。それも、単なる「懐疑主義」の延長のそれではなく、本源的な「存在(命)」そのものへの「虚無感」といってよい。確かに、荒んだ現状から、いわゆる「人間性」や欺瞞的な価値観への懐疑が生まれてくるのは当然のことと言える。しかし、そもそも、自らのそれをも含めて、「存在(命)」そのものに何か特別な意味や価値が必要だなどという考え方自体が傲慢なのではないのか。そうではなく、”普通”に生きる「存在(命)」自体に意味や価値(「尊厳」)があると”認識”すべきなのではないか。しかし、そうした「感性」を持ち得ないが故に、ロウシンカイは、ナナサツテンリョウの「美」に意味と価値を見出した時、容易に彼女が求める犠牲者の「存在(命)」を無視ないし軽視することが出来たといえるだろう。ただ、彼とナナサツテンリョウとの関係は、ナナサツテンリョウの魔力に操られたものというよりも、彼の「実存」的選択の結果によるものであり、そうした意味において、ナナサツテンリョウの思惑を超えるものだったことは大変興味深いところだ。

   ところで、この作品の躍動する多様なキャラクターを前にして、「人間」に共通する本質、とりわけ、共同的なそれを抽象的、一般的に指摘することは非常に難しいだろう。反対に、それらの個別ー具体的な「実存」の「自由」と「責任」にこそ、この作品の魅力があると言って良い。しかし、「実存」への過度の着目は、個人的な価値を過度に肥大化させ、人々を孤立や対立に追い込むことも少なくはない。そうした中で、ショウフカンの基本的スタンス―――それは「普通の人」のそれだ―――は、彼の仲間であるロウフヨウやリンセツアだけではなく、”過激”な映像を観せられている我々をも「ホッ」させるのだ。それにしても、今のところ、私の周りにロウシンカイに似た人物の存在を強く意識しないで済んでいることは救いと言える。ただ、あのカツエイラクやショウキョウケンやナナサツテンリョウにはそれなりの”リアリティ”が感じられるのだ。本当に困った現状だ。(ということで、次回は、昨今の現状についての感想を述べてみたい。)

アウラとイシ――人にとって文明とは何だったのか?!

「人」を殺しあわない「真の文明」は可能か?
 ――「人」を分け「人」を結びつけるものを知らなければならない


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『イシ』と自作の歩行補助ヒモ


   ※サロさんと遠くの公園まで散歩してきた。サロさんの気が向くままに歩いたら、2時間以上かかった。ただ、嬉しいのは、サロさんの後足が足を引きずるようになる前の状態に回復していることだ。実は、足を引きずる様子を見てもうダメだと思い、市販の歩行補助ハーネスや二輪歩行器も用意したのだが、結局、使えたのは、写真に写っている剣道の胴紐で自作したものだった。そして、今は、それも使っていない。こうした様子を見ていてつくづく感じるのは、サロさん自身が自分の足で歩きたいと思っているだろうことだ。考えさせられることだ。

   さて、昨年末、NHKスペシャル『アウラ 未知のイゾラド 最後のひとり』を観て心動かされた。アマゾンの奥深くに暮らしていた未知の先住民=イゾラドの最後の一人となったアウラ。彼の部族に一体何が起きたのか。それが、文化と言葉の壁を乗り越えようとする言語学者ノルバウ・オリベイラの努力によって、影絵のように映し出されていく。それは、これまでも「未開」と「文明」(あるいは、「文明」と「文明」)の「接触」によってしばしば引き起こされてきた、「文明」の側からの侵略と強奪と虐殺による「死」の有様に他ならない。それが、あの第二次世界大戦後の世界の中でも繰り返されていただろうということだ。私はアウラたちの生活と文化がどのようなものであったのかについては番組の範囲内でしか知らないが、同様に、「文明」によって一つの民族の「最後の一人」にまで追い詰められた人物については、シオドーラ・クローバーの『イシ 北米最後の野生インディアン』(1961年)や『イシ――二つの世界に生きたインディアンの物語――』(1964年)でかなり詳細に知ることができる。

   両書とも、同じ人間としての「共感」と彼が受けた悲しみへの「同情」から、涙なしでは読めないような作品だ。筆者のシオドーラ・クローバーは、イシと直接関わった文化人類学者アルフレッド・クローバーの妻で、また、あの『ゲド戦記』で有名なル=グウィンの母だ。そんなこともあって、ル=グウィンは『イシ 北米最後の野生インディアン』の再版(1991年)に「序文」を書いている。素晴らしい文章だ。カリフォルニア・インディアン・ヤヒ族の「最後の一人」イシ(本名ではなく「人間」という意味)の伝記とも言えるこれら本の内容を敢えて紹介することはしないが、『イシ 北米最後の野生インディアン』は文化人類学や社会学的知見を備えた大人向けの本で、『イシ――二つの世界に生きたインディアンの物語――』は文学的性格の強い子供向けの本だ。そして、私には、やはり、前者の方が迫真力が感じられたと言って良い。しかし、どちらにしても、「文明」や「科学」の名の下に、同胞を迫害し、自然を傷つける「人間」の悲しい有様に猛省を迫るものだ。

   ただ、イシの時代においても、「インディアン」を迫害した凶暴な人間たちもいたし、また、イシたちを守ろうとした人たちも存在した。そして、私たちは、両者を分かつものは何であるかのを知り、そして、私たちがそのどちらの側に立つのかを考えなければならない。それが無知や偏見や恐怖心に基づくものなら、それを克服しなければならないし、いわゆる、「人間性」の本質に関わるものであるならば、そのことを深く省察しなければならないだろう。

   ところで、年末から正月にかけて、「人間性」について、「姉貴」と話したことがある。彼女の話によると、問題は、人間「存在」の根源的な「暴力性」への自覚から、どのような「生き方」が選択されるのかということだという。そもそも、人間は、自然や他者に支えられることなしには生存しえないけれど、同時に、生きていく上で、自然や他者を傷つけたり、犠牲にしたりせずには生きていけない存在でもある。それ故にこそ、私たちは、自然へも、植物へも、動物へも、そして、人間同士でも、それなりに「気遣い」して生きていく方が良かろうというわけだ。私は、こうした発想はイシのそれに近いもののように感じる。それは、いうまでもなく、インディアンを虐殺したベンツやアンダーソンのそれ、そして、私欲に居直る「アメリカ第一主義」のトランプのそれとは対極をなすものだ。さらに、それは、最近もより凄まじい様相を呈している、トランプと「100%共にある」、アベやアベ友たちのそれとも違っている。

   田中正造は、明治45年6月17日の日記で次のように書いている。「○真の文明ハ山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さゞるべし。  ○古来の文明を野蛮二回らす。今文明ハ虚偽虚飾なり、私慾なり、露骨的強盗なり。」
   私たちは、どちらの「生き方」を選んでいけるのだろうか。
   
  (うちの「奥さん」はル=グウィン(とサトクリフ)のファンで、その影響で、私は『ゲド戦記』も『イシ』も読む機会を得た。ありがたいことだ。)

『ボヘミアン・ラプソディ』を観る       ―――君にも何か悲しいことがあるだろう?!

 社会の支配的価値観とのズレやスキマに悩みつつ、
  自らのアイデンティティを貫こうとする心優しき狂詩曲


   ※一月も半ばに突入。時間の流れがこんなに早く感じるのは初めてのことだ。今年の目標は「やらなければならないことをまずやって、あとは、やりたいことだけをやる」としたのだが、やらなければならないことをきちんと済ますこともできないままに、毎日が過ぎていく。処理能力が落ちているのかもしれない(w)。ただ、今年になってサロさんの足の調子が良くなっているのは、大変喜ばしいことだ。生命の修復力を見せつけられているようだ。春には遠くの公園に散歩に行けるかもしれない。それでは、今日は、柄でもないのだが、映画『ボヘミアン・ラプソディ』について書いて見たいと思う。

   12月の末、イギリスのロックグループであるクイーンのボーカル、フレディ・マーキュリーの伝記的映画、『ボヘミアン・ラプソディ』を見てきた。この映画は世界的な大ヒットになっているのだそうで、マスコミでもしばしば取り上げられている。もちろん、私は、特別なロックファンでもないし―――嫌いでもないが―――、クイーンのファンだったこともない。ただ、「ボヘミアン・ラプソディ」という曲については、「ママ、人を殺しちゃった」という変な歌詞の歌が流行ったことは記憶していたし、「We will rock you」や「We are the champion」などのメロディーも記憶に残っていた。こんな私が、映画館で予告編を見た時、「よし、見てやろう!」と思ったのは、これから述べるように、この『ボヘミアン・ラプソディ』という題名あるいは曲名に特別な感情が湧いてきたことによる。

   まず、以前にも書いたけれど、私の家庭は豊かではなかったが、コンサート・ホール・ソサエティというレコードクラブに入っていた。そして、送られてきたその中の一枚に、リスト作曲『ハンガリー狂詩曲 HUNGARIAN RHAPSODIES』(ハンス・スワロフスキー指揮、ウィーン国立歌劇場管弦楽団)があった。子供の頃の私は、何故かこの曲が好きで、良く聞いていたものだ。そのためか、この曲が持つ独特な”曲想”が私の中に深く入り込んだようだ。20年程前、私はミュージック・ツクールという音楽ソフトで作曲の遊びごとをやっていたのだが、その時作った「〇〇寺のテーマ」という曲は、当時は全く意識していなかったにせよ、ブラームスの「ハンガリー舞曲」(第3番へ短調)やモーツァルトの「協奏交響曲K364」(第2楽章ハ短調)の曲想に酷似してしまうことになったのだw。いうまでもなく、それらに共通する”曲想”は、『ハンガリアン・ラプソディ』の中にもある、あの憂鬱なメロディーに他ならない。ただ、この「ハンガリアン」とは、「ハンガリー人の」と言う意味ではなく、ハンガリーに住んでいた「ジプシーの」音楽(ハンガリーの舞曲「チャルダッシュ」も「ジプシー」の民族舞踏のそれ)なのであった。リストばかりではなく、私の好きなブラームスやドヴォルザークもそれらに魅せられたのだ。

   また、今から25年程前、私は、直接的にではないが、ある人から、「ボヘミアン」と評されたことがあった。そして、この「ボヘミアン」も、「ボヘミア」地方(チェコ中・西部)に住む人々という意味ではなく、実際は、北インド起源の移動型民族「ロマ」(「ジプシー」はそのフランス語の蔑称)を指す言葉であり、また、その後転じて、「俗世間の掟に従わず気ままな生活をする人。芸術家など」を意味する言葉となっていた。もちろん、その人は、自由・奔放な「芸術家」と言ったロマンチックな意味合いで使ったのではなく、まさしく、社会の支配的な価値規範に従わない流浪の民=「ジプシー」のような輩と言った意味合いで使ったに違いない。より過激に言えば、「無国籍者」とか「非国民」といった意味合いでだ。しかし、私は、無国籍者でも少数民族でもなかったが、当時の「支配」的な社会的規範に過剰に同調することを拒んでいたこともあって、かえって、この「ボヘミアン」という言葉に妙な親近感を抱いた記憶があるのだ。

   『ボヘミアン・ラプソディ』には、そんな私の思いが投影された。そして、フレディ・マーキュリーの「ボヘミアン・ラプソディ」を彼の生涯と重ね合わせて改めて聴いてみると、それは、まさしく、20世紀の「〈ボヘミアン〉・〈ラプソディ〉」であると納得できたのだ。それは、”I don't want to die"だけれど"I sometimes wish I'd never been born at all"と思うような”just a poor boy"の、”the real life"であるか"just fantasy"であるか区別のつかないような「夢幻」的な「叙事詩」なのだ。そして、それを独特な〈哀愁〉と〈野放図〉な情熱によって表現する曲想は、まさしく、〈ラプソディ〉のそれに他ならない。フレディ・マーキュリー自身、比較的裕福で教養ある家庭に生まれ育ったけれど、あくまでも、北インド系のイギリスの「植民地人」の子であり、その宗教はゾロアスター教であり、おまけに、ゲイでもあって、当時のイギリスの”支配的”価値観からすれば、偏見と差別にさらされる「疎外された」社会的マイノリティに他ならなかったと言えるだろう。そんな彼らが自らの”アイデンティ”を失わずに生きていこうと決意した時(" killed a man)、彼は、母にそして友や迫害者に、そのことをどのように語りかけたのか。いうまでもなく、その言葉は、決して革命家のそれではなく、”等身大”の普通の心優しい青年のそれだったということだ。"As if nothing really matters"・・・"Any way the wind blows…"と。

   最後に、疑問となるのは、何故このような独特な”曲想”を持つ歌が、当時のイギリスをはじめとする世界の多くの若者たちに受け容れられ、また、フレディ・マーキュリーの死後も、イギリス国民によって、「20世紀最高の歌」に選ばれたのかということだ。年末に、NHK・BS『世紀を刻んだ歌「ボヘミアン・ラプソディ殺人事件」』も観たが、その答は明確に語られてはいなかったように思う。

   ただ、近代以降の青年のあり方は、どのような社会にあっても、既成の社会規範や価値観にとっての「異邦人」あるいは「新人類」といった如き存在になる可能性が高く、そんな彼らにとって、既成秩序からの「同調」圧力の重み(憂鬱さ)やそれに対する湧き上がるような抵抗への情熱は身近なものであったとも考えられよう。また、多元的で多様な”文化”や”個性”との接触や共存と言う観点から言えば、次のようなことが言えるかもしれない。すなわち、イギリスという国(UK=「グレート・ブリテン及び北アイルランド連合王国」)は、言葉や文化が異なる4つの「民族」(イングランド、スコットランド、ウエールズ、アイルランド)の連合体だったということ、そして、帝国主義時代には「日の沈むことのない」大帝国を形成し、世界中の「異民族」・「異文化」と接触・共存することとなり、さらに、そうした性格は、戦後の旧植民地の解放と英連邦の存在などによって一層強まっただろうということだ。イギリスに暮らす人々にとって、「異邦人」あるいは「異文化」との相互的な理解と相互的な承認、融合や共生は、まさしく、必須の課題であったと言えるだろう。そんな中でのフレディ・マーキュリーの歌は、諸個人の自由や平等を拡大するよりポジティヴな方向性を指し示したものとして多くの若者たちに受け取られたのではないだろうか。そこにこのロックの真髄があるのかもしれない。

謹賀新年2019―――人生七十古来稀なり

サロさんと「老い」を楽しむ
 ―――老境も味わい深し!誰が永遠の「生」など望むものか!



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こんな姿ですが、明けましておめでとう



   ※老人性のうつではないと思うが、どうも全般的に「欲求」が希薄となってきて(要するに、面倒くさいw)、何をするにもスピード感がなくなっている。また、若い頃と比較すると、体力的にはもちろんだが、精神的にも明らかに注意力と集中力に欠けてきた―――「勘違い」による間違いが圧倒的に多い(W)。サロさんも、満12歳(〜人間で言うと72歳かな)となって、このところ改善も見られるのだが、後ろ足が不自由となって歩行がままならなくなっている。しかし、サロさんも私も老境に達していることは間違いないが、食事にしても散歩にしても遊びにしても、それなりの興味や関心は持ち続け、楽しむ心を失ってはいない。逆に、世の中の「縛り」からそれなりに解放されることによって、より「自由さ」が増しているとも言えるだろう。「人生下り坂最高」(火野正平)とまでは言わないが、サロさんと一緒に「老い」をゆったり楽しみたいと思っている

   去年は、初詣のおみくじ(「凶」)が大当たりで、サロさんの足のことを始め、悪いことが多かったように思う。私の左膝の調子もイマイチで、登山にもツーリングにも行けなかったのは50年ぶりのことだ。また、英語や数学をやっていて、信じられないようなミスをすることにも愕然とした。もちろん、楽しいこと、面白かったことも少なくはなかった。家族や友人たちとの旅行やふれあい、(「暇つぶし」の面もあったが)卓球や合唱も少しは上達したように思う。ブログは、12月はほとんど書けなかった。1番の理由は、辺野古の海への土砂投入が沖縄県民多数の反対を押し切って強行されたことのようで、「どうしてくれよう!」という怒りが脳内に渦巻いて、文章にできなかったというのが真実に近かそうだ。とにかく、政治にしろ、経済にしろ、外交にしろ、アベとアベ友が主導する日本に明るい未来など絶対にありえないことだ。また、この”腐臭”漂う現状に鈍感で、ただボーッと生きているとしか思えない「日本国民」にも、つくづく悲しい思いをせざるを得ない。ということで、これからもあまり多くは書けそうにないが、世相への忘備録として今年もブログは続けようと思っている。

   年末には、『サンダーボルト・ファンタジー2』(13話)が完結した。そして、話題の『ボヘミアン・ラプソディー』も観てきた。「実存」が躍動していた。次回は、そんなところから始めようと思っている。


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年末の、サロさん用の芋掘り


プロフィール

SARO MURIKI

Author:SARO MURIKI
おりこうさんのワンワンです。年齢は、2018年11月現在満12歳です。見てのとおりの柴ですが血統書はありません。性別はオスで、飼い主には、朝夕、45分ずつ2回の散歩を義務付けているVIP犬、正確に言うと、VIDです。文句あっか?!

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