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韓国の民衆の動きについて考える

少しは、相手(韓国の民衆)の「身」になって考えてみることだ

   ※夏も終盤だ。朝夕のサロさんとの散歩も楽になってきている。今日は埼玉県知事選の投票日だ。県民が、上田県政の継承と発展を訴える候補者を選ぶのか、千葉の森田知事のようなイメージキャラクターを選ぶのか、「仁術」よりも「NHKをぶっ壊す」ために出馬したらしい京大出の医者を選ぶのか。さて、どうなるか。ただ、一言言えば、学校の偏差値や社会的地位など、一般ピープルにとっては、全く”意味”を成さないと言うことだ。

   さて、前回は香港の民衆の動きについての感想を書いた。その時書き忘れたことに、香港特別行政区政府に対するデモ参加者の中に、堂々と旧植民地本国イギリスの「ユニオンジャック」を振りかざしていた人がいたことがある。「おいおい、君はイギリスの植民地支配を認めるのかよ?!」とも思ったが、実は、植民地支配の現実の中には、植民地本国に協力して地位と富を得ていた人もいたわけで、彼はその末裔なのかもしれないなどと勘ぐったことを記憶している。

   これに関連して考えたことは、韓国における反政府デモの中で、「お前らよりも日本に支配される方がマシだ」と、旧植民地本国日本の「日の丸」が振られることがあり得るだろうか。そんなことは、日韓両国民共に、全く想像できない光景だろう。そして、それこそが日本の過酷な植民地支配の現実を反映したものなのだと思う。ところが、そうした中でも、日本に協力した人々はいたのだ。例えば、朴槿恵(パク・クネ)前大統領の父親であり、今話題の「日韓基本条約(1965年)」を締結した朴正煕(パク・チョンヒ)元大統領は、日本の統治下、陸軍士官学校を卒業して職業軍人となり、日本の植民地支配に「協力」していたのだ。そんな彼は、「鬼畜米英」を叫びながら戦後は米国の「エージェント」としてその占領統治に協力しその地位と富を築いた日本の指導者達とある意味で相似形を成すと考えられるが、ただ、両者の戦後の日本あるいはアメリカに対するスタンスにはかなりの相違があると言って良いだろう。そして、その理由は、結局、日本の植民地支配とアメリカの占領統治が両国の”民衆”にどう受け止められたかに拠ると考えられる。つまり、日本の”民衆”は、戦後のマッカーサーの占領統治を戦前の政治よりマシだ(解放?)と感じたのであり、韓国の”民衆”は、日本の過酷な植民地支配からの解放を心から喜んだということだ。そのことこそが、韓国の政治的支配層、とりわけ、対日協力者でさえもが、「反日」の態度を取らざるを得なかった理由と考えられるわけだ。ただ、「反日」感情とは言っても―――北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)とは未だ戦後処理も国交回復も実現し得ていないわけだが―――、韓国とは概ね「平和」的にその経済成長に協力しえ、また、文化的交流も盛んになったため、とりわけ、若い世代の間での「反日」感情はさほどでもないということのようだ。

   しかし、もちろん、一つの大きな問題が残っていた。それは、対日協力者だった戦後韓国の政治的指導層にではなく、彼らからも打捨てられたままになっていた、日本の植民地支配の直接的被害者である一般”民衆”への「”真”の謝罪」と「補償」という問題に他ならない。そして、近年、それらを求める動きが活発化した背景には、いうまでもなく、アベにもつながる、日本の「歴史修正主義」的動きの活発化があったと言って良いだろう。日本の論壇の中には、戦前の朝鮮半島への植民地支配を正当化し、さらには、いわゆる「従軍慰安婦」や「徴用工」として過酷な暴力的支配を受けた人々に対する人格的な侮辱さえ含まれる言説―――私には、これがいわゆる「日本人」のすることなのかとさえ感じる程ひどい―――が溢れていた。さらに、これに乗っかるような日本政府による「公式」謝罪の拒否や被害者の個人請求権に対する、あの朴正煕と結んだ”国際法”(「日韓基本条約」ー「日韓請求権協定」)を盾にとった、突き放した姿勢、そして、安全保障上の懸念(実は、「従軍慰安婦」や「徴用工」問題など歴史認識についての「目覚まし」)を理由とした「ホワイト国」からの除外が、火に油を注いだ。まあ、韓国人の身になってみたら、これで怒らないのなら、その人は、同胞を思う「愛国者」でないのみならず、「人間失格」とさえ感じられるのだろう。こうして、韓国の人々は、そうした日本(アベ政権)の態度が改まらなければ「絶交」も止むなしといった感覚になってしまったのだと思う。そうした雰囲気の中で、文在寅政権による貿易上の報復(食品の検査強化)や軍事情報包括保護協定(GSOMIA)の破棄もあるということを忘れてはいけない。短期的にどちら有利だとか、どちらが勝っただとかといった「中2」的な反応の愚かさは、時が経つほど身にしみてくるに違いない。

   さらに、金と力のトランプに対してはただ指をくわえて怯えているだけのようだが、文在寅の生い立ちや政治的経歴を見れば、彼の今回の姿勢が「反日」世論にすり寄る単なる選挙目当てのものだなどという話は、ニュース・ショウ的なバカ話に過ぎまい。彼は、あの朴正煕や全斗煥と闘った、韓国の民主化と南北の融和・統一を目指した人物に他ならないからだ。GSOMIAにしても、北の軍事的な脅威という観点からすれば、何十年も前から通常兵器だけでも十分「ソウルは火の海」なのであって、日本が警戒しなければならない弾道ミサイルとは水準が違うのだ。要するに、見るも醜悪かつ不遜な態度で文在寅政権と韓国民衆を「敵」に回してしまったアベ政権は、経済的にも、政治的にも、軍事的にも、その短慮を後悔する時が間違いなく来ることだろう。アベはその誤った歴史認識のために、日本国民の「利益」を損ったのだ。もちろん、アベたちは文在寅政権が倒れ、元「対日協力者」たちの末裔が再び政権に就くことを期待しているのだろう。しかし、あの軍事独裁政権を倒し、また、最近では、朴槿恵元大統領をも倒した「蝋燭革命」の韓国”民衆”を甘く見てはいけない。さらに、アベたちは、いわゆる元「従軍慰安婦」や元「徴用工」の人々を侮辱し、軽んずることによって、保守派の人々をまで遠ざけてしまった。こうした状況は、アベ政権が倒れるまで続くことになるだろう。

   最後に、韓国の言い分すらもちゃんと報道しない日本のテレビを見ていると、本当に、日本の”民度”は大丈夫なのかと心配になってしまう。なんのことでもいいから、ヨーロッパやアメリカのニュース番組や報道を見てみることをお勧めする。アベ政権下の今の日本が国際社会でどう見られているか、それなりに理解できるだろう。そして、日本のマスコミのように、文在寅政権を一方的にコケにし、アベ政権を手放しで支持している国などほとんどないのだ。

   
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香港の民衆の動きについて考える

自分のことは自分で決める!自分たちのことは自分たちで決める!
 ――「政治」の”公共”的、”自治”的”本義”を復興する主体として!


   ※8月も半ばを過ぎた。時間の経つのが著しく早く感じられる。先日、美空ひばりが死んでからもう30年も経つ事を知った。そして、私があと30年生きることはまずないだろうw。本当に長いことはないのだ。しかし、日本と世界の未来のことが心配だ。地球環境や社会環境の悪化によって人々が〈苦しみ〉、「こんなことなら生まれてこない方がよかった」などと考えることはないのだろうか。この「異常気象」と虚飾の「豊かさ」の中で、心が重い。

   それにしても、香港と韓国の民衆の動きが”暑い”。とりわけ、香港の情勢はかなり緊迫しているようだ。第2の天安門事件が起こるかも知れない。香港の民衆は、よほど「中国化」を嫌っているのだろう。つまり、彼らの大半は「漢民族」ではあるけれど、あくまでも「香港人」であって、「中(華人民共和)国人」ではないということだ。そして、彼らの多くは、今回の「逃亡犯条例(犯罪容疑者の中国本土への引き渡しを可能にする改定案)」によって、返還後50年を待たずして、香港の「自治」と「政治的自由」(「一国二制度」)が蚕食され、葬り去られていくのを拒否しようというのだろう。それは、体を張っても守りぬかねばならないものと感じられているようだ。

   どの国家、どの地域においても、一定の「秩序」の形成・維持によって、ある特定の人々が例外的ですらある「利益」を享受したり、その一方で、その同じ「秩序」の中で、人間としての権利や尊厳を傷つけられたり、十分尊重されなかったりする人々が存在することがありうる。ただ、「民主政治」においては、前者の如き人々が常に監視され批判されるのはもとより、後者の如き人々も、たとえそれが少数であっても、その「政治(公共)的諸権利」は当然保障されねばならないものとしてある。まして、それが多数である場合には、権力保持者たちがそれを”超然”と無視したり、強権的に弾圧したりすることは許されることではないはずだ。

   もちろん、「政治主体」(一国や一地方そして諸個人や諸団体)の判断が常に「正しい」というわけではない。実際、それらが”人権”を毀損する場合、国連などの国際機関や排他的統治権を有する中央政府などが介入し、一定の「秩序」を「強制」することは必ずしも否定されるべきことではないと考えられる。例えば、アメリカ合衆国の南部諸州における黒人差別に対して連邦政府が介入し、黒人の人権を擁護することなどは必ずしも非難されるべきことではあるまい。要するに、「強制」を伴う法の執行は、平等・公平でなければならないだけでなく、あくまでも、「人権」の擁護という観点からなされなければならないということだ。

   こうした観点からすれば、「一国二制度」の維持を求めた、あの「圧倒的多数」の「香港人」たちの「政治」的要求は、決して「人権」を毀損するものと考えることはできまい。それ故、その「政治」的要求は当然尊重されてしかるべきものと言える。もちろん、「一国二制度」が持つ香港独特の歴史的事情―――アヘン戦争後の1842年から150年以上もの間イギリスの植民地だった香港が、1997年、返還から50年間は外交と国防問題以外では「高度の自治」を維持するという「一国二制度」のもとで、中国に返還されることになった―――には、微妙なものがある。中国政府からすれば、香港は中国の一部なのだから、物理的強制力に担保された中国の法律にも従うべきだということになるのだろう。そして、もし香港の動きが「一国二制度」の枠組みを超える「独立」運動あるいは国内における「反体制(=革命)運動」と見なされることになれば、あくまでも「内政」問題として、武力弾圧も辞さないということになるのだろう。こうしたことは、国連代表権問題で中国の一部とされた「台湾」(「中華民国」)にも共通することだ。おそらく、「中央集権」的な「主権国家」の論理とはこうしたものなのだ。

   このように考えれば、香港の問題は、「政治」の〈中央集権〉的な体制と〈連合主義〉的な体制との選択の問題、さらに言えば、「政治」的結合そのものをその構成員(諸個人や地方自治体やその他の団体)の自主性や主体性を基礎に構想・構成するか否かという問題としても考えることもできる。そして、私は、歴史的に形成されてきた一定の「経済的再生産圏」や共同的・相互扶助的な「公共圏」を、法による「強制」の契機を含む一定の形態で構成すること(「政治体」)を一定程度承認しつつも、それは、あくまでも、前者を成り立たせている構成員・構成体の「人権」や「権利」が擁護されるのを前提とした「同意」や「承認」に基づくべきものだと考えている。それ故に、もしそうした基底的なこの同意や承認が得られないのであれば、あるいは、双方が受容しうる妥協的な「統一・共存」が成立し得ないのであれば、分離や独立、あるいは、より緩やかな連合の形成に移行する他ないと思うのだ。そして、こうした対応は、現在、世界の様々な地域で起こっている同様の諸問題への基本的な解決の道筋をも示していると考えている。

   ところで、私には、香港の民衆の闘いと沖縄県民の闘いは重なって見える。こうした地域的な闘いの評価には、しばしば、政治的・経済的利害や民族・宗教などの違いに基づく「二重基準(ダブルスタンダード)」が見られることがある。しかし、中央集権化を強める権力主義者習近平体制に対抗する香港の民衆の動きを「支持」するのであれば、なりふり構わず辺野古米軍基地建設を強行するアベ政権に対抗する沖縄県民の動きも当然「支持」されるべきだろう。両者は、共に、少数者を差別・抑圧するファッショ的民衆運動でもないし、権力による民衆の操作主義的な動員でもなく、あくまでも、強大な権力を前に、自らの生活圏・社会圏の「質」は自分たち自身が最終的に決めるのだという、「政治」(公共性ー自治)の原初的・本源的な表現に他ならないと思うからだ。自らの生活と運命を人任せにはしない彼らの姿は、尊敬と憧憬に値するとさえ私には思われる。そして、その「公共」的意識の高まりは、彼らの社会生活の「質」を必ず向上させていくものと感じられるのだ。

   擬制的に仕組まれた「国益」観念を操る中央主権的権力主義者たちは、様々な対抗措置や陰謀をめぐらしてくるだろう。しかし、民衆はそれに打ち勝つ知恵と勇気を持っているはずだ。頑張れ!香港と沖縄の人たち!あなた達の生活の質を決定する最終的な権限はあなた達自身にあるのだから。
      

「戦争」を考える日本の夏―――「深い反省」をもとに

戦前の〈侵略戦争〉を”肯定”し、
  「戦争」と核兵器を”肯定”し、改憲に走るアベを許すのか?!


   ※お盆と台風が遠ざかっていった。それにしても、巨大化した台風や命に危険がある暑さの中でもオリンピックをやるわけだ。アメリカ(のテレビ局)の都合に従ったようだが、やるのなら1964年の時のように、秋にすべきだったろう。また、JOC理事会が非公開のままになったが、これも、オリンピック招致に関わる「買収疑惑」に関係があるのではないか?!どちらにしても、アスリートや観客たちのためにオリンピックをやるわけではないということらしい。そして、戦前の戦争も、これからアベがやろうとしている戦争も同じことなのだろう。

   夏には、毎年、「広島・長崎」そして「終戦記念日」を契機として、数多くの作品や報道に接し、「戦争」を考える機会が多い。今年は、平松恵美子監督作品『あの日のオルガン』(第2次大戦末期、若い保母たちが幼い園児たちの命を守るために集団で疎開し、東京大空襲の戦火を逃れた、久保つぎこ作のノンフィクション『あの日のオルガン 疎開保育園物語』の映画化)や新発見の史料をもとに作られたNHKスペシャル『全貌 二・二六事件 ~最高機密文書で迫る~』が特に印象に残っている。結局、私たちを救ってくれるのは市井の「英雄」たちであり、これに対して、既存の「(似非)エリート」たちは国民の安全と平和を守るどころか、悲惨な戦争と破局に国民を引きずり込むか、あるいは、少なくとも、それを阻止することができなかったのだ。

   さて、今年の「終戦記念日」関連の報道の中で最も注目されたのは、先の大戦に対する「深い反省」という、徳仁天皇の言葉だった。この言葉は、裕仁天皇〜明仁天皇へと受け継がれてきた、戦前の「政治」と「戦争」に対する基底的な捉え方だと言って良い。とりわけ、裕仁天皇については、最近の資料の公開によってその内容をかなり詳細に知ることができるようになっている。それらは、戦前ー戦後の政治的意思決定過程の中枢に在って、その内実を直接経験できた人物の捉え方として極めて重要なものと言えよう。そして、その「反省」は、天皇の「国民に寄り添い、国民を思いやろうとする」姿勢の一つの帰結でもあるのだろうが、同時に、それらは、戦争を直接経験した国民自身の捉え方と通底するものがあったと言っても良いのではないか。そして、言うまでもなく、戦後の『日本国憲法』体制とは、こうした戦前の政治と戦争に対する「反省」の上に築かれ、維持されてきたものなのだ。

   これに対して、戦後の米ソ冷戦体制の中で生き延びることのできた戦前の戦争指導者たちとその末裔は、無謀で残虐な「侵略戦争」とその結果生み出された「国民の〈無用〉な犠牲」を”反省”することもなく、それを”肯定”・”美化”しようとさえしてきた。その典型はいわゆる「靖国史観」や「大東亜戦争肯定論」などに表れているが、現在まで引き継がれているアジア諸国との「無用」な軋轢は、現政権の中にも巣食っているそうした傾向に起因していると考えて間違いあるまい。イタリヤやドイツとの対比でも明らかなように、戦後の日本に必要だったのは、そうした指導者たちやその思想との「切断」だったのであり、その欠如こそが日本の若者に「無用」な〈負の遺産〉を押し付けていると言って良いのだ。”私欲(物欲・権勢欲等)”に野放図に駆られ、かつ、国民の安全と平和を守ることにおいては信じられない程”無能”だった戦争指導者たちがなぜ「肯定」されねばならないというのか。国民と若者たちは、もっともっと怒り、批判的であって良いのだ。

   ところで、先の戦争において犠牲となった戦没者の死をどう捉えれば良いのか。その無残で悲惨な死に思いを致す時、それが「尊い犠牲」であり、戦後の日本の平和と繁栄の礎となったとはどのような意味で言えるのか。率直に言えば、それらが、本当に(!)「圧制」への抵抗や「侵略戦争」に対する闘いであったのなら、こうした疑問すら持つことはなかったであろう。それは、国民の多くが無謀で残虐な侵略戦争に動員されたが故に違いない。そうした中、「侵略戦争」への動員とその結果としての無残な死を「〈尊い〉犠牲」と表現することは、おそらく、「私は他国でどうしてこのような死に方をしなければならないのか」と思い悩んだに違いない多くの兵士たちを、「聖戦」のイデオロギーの中に閉じ込める働きを為すことになるだろう。それは、「侵略戦争」を「聖戦」とする虚偽のレトリックを正当化し、維持するのに利用しうるからだ。しかし、「尊い犠牲」をこれとは違った脈絡で考えることも可能かも知れない。すなわち、生き残った人々が、犠牲となった戦没者の方々の姿から、戦前の侵略戦争の現実を直視し、”反省”し、それに基づiいた「平和憲法」を支え続けることによって、74年間の「不戦」を維持することができたということだ。「安らかに眠ってください  過ちは繰り返しませぬから」とは、生き残った人々が彼らの死を無駄にしない決意を示すものに他なるまい。これに対して、最近は、アニメ・ソングを単純に現実の歴史に投影するが如き、極めて恥ずかしい自己愛的「反応」を見ることも少なくない。しかし、"No War For Oil"と主張するアメリカ市民の反戦運動や私的功名心に基づくトランプの戦争(あるいは融和)策動に抵抗するアメリカの職業軍人たちの動きを見てもわかるように、「自衛」の名の下に、国民に〈無用〉な犠牲を課そうとする動きをチェックすることは、国民の命と安全を守る民主政治の根幹に関わることと言って良いのだ。

   最後に、私たちが74年間の「平和」を維持する上で「尊い犠牲」となったのは、兵士として侵略戦争に直接動員され、それに殉じさせられた「英霊」たちだけなのではもちろんない!その「英霊」たちが守りたいと願った家族や同胞、すなわち、膨大な〈一般国民〉の犠牲があったのだ。そうであるにも拘わらず、戦前の戦争指導者とその末裔たちは、これらの〈一般国民〉を大切に扱おうとしてきたのだろうか。自分たちの「国策」に都合よく従ったたものだけを特権的に扱おうとしてきただけではなかったのか。執拗に繰り返される靖国神社(「英霊」の追悼施設)への「公式参拝」も、そうしたことの表れだったのではないか!しかし、全国には、「一般戦災死没者」を追悼する施設が数多く存在している。今年の夏、私はそのうちの2つに行ってきた。それが写真の大谷・平和観音と浅草・浅草寺の平和地蔵尊だ。生きたいと願っていた多くの普通の人々の命を奪った戦争指導者たち。他者の命の価値を貶める輩たち。彼らは、これらの像をどのように見るのだろうか。

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浅草寺・平和地蔵尊


「日本人」って何だ?―――「人種主義」を超えて!

「単一民族」国家観の虚妄と排外主義的「愛国主義」の落とし穴
 ―――「日本人」の「長所」の一つは、異質な他者を受け入れ、共存してきたことかもよ

  
   暑い中ではあるが、8月に入って、2冊の本を読んだ。戸谷学『鬼とはなにか―――まつろわぬ民か、縄文の神か』(河出書房新社 、2019)とB.スマッカー『六月のゆり』(ぬぷん児童図書出版、1979)だ。両書とも読み始めたら止められない面白さがあった。前者は、全国の神社(神道)研究の成果を踏まえたもので、私が抱いてきた民俗学的、文化人類学的興味に十分応えてくれる内容だった。一例を挙げれば、(遺伝子情報が縄文系「優位」だったろう)南方熊楠と(弥生系「優位」だったろう?)柳田國男との関係の指摘なども大変興味深かった。著者の問題意識は、言うまでもなく、「縄文」の復権だ。後者は、黒人奴隷の少女ジュリリー(6月の百合)が、「一人の友におおぜいの友を」を合言葉とする「地下鉄道」に乗って(―――奴隷制度に反対する白人たちの手助けを受けながら)、アメリカのミシシッピからカナダのセント・カサリンズまでの約2000㎞を逃亡する話だ。その中で描き出される人種差別主義者たちの醜さ、そして、人間の”自由”のために戦う人々の姿は感動的だ。そして、現在のアメリカ大統領がこの本の登場人物の誰たちに似ているかは言うまでもない。恐ろしいことだ。

   ところで、最近テレビを見ていると、「日本人とはなにか」―――日本語を喋り、「日本文化」の中で生きている”(北方)モンゴロイド”―――といったイメージに改めて疑問が湧いてくる。テレビに出てくる司会者やスポーツ関係の人たちに、肌の白い人や黒い人たちがたくさんいるのだ。その多くは混血(ハーフだったりクオーターだったり)のようだが、日本人より日本人らしい他人種の人や、見た目には全く区別のつかない東アジア系出自の人たちも多いことだろう。さらに、私の周りを見回すと、息子さんや娘さんが他人種の人と結婚した例がけっこうある。そして、そのお孫さんたちは、「日本人」らしい「風貌」とは異なることが多い。昨日、小泉進次郎が滝川クリステルとの結婚を公表したが、もしかすると、日本の首相の妻が「ハーフ」ということになる日が来るかもしれない。要するに、「日本人」という概念の中に含まれていた「人種」的な要素が風化しつつあるのだ。これまで「日本人」=「単一民族」という観念を強調し、しばしば、「ショービニズム」(熱狂的愛国主義、排外的愛国主義)的主張を行ってきた人たちはどう思うのだろうか。

   ただ、「日本人」はもともと、”多人種”的性格があったというほうが正確なのかもしれない。今、手元に見当たらないので正確なことは言えないが、神島二郎は、『文明の考現学―<原日本>を求めて 』(UP選書、1971年) の中で、留学から日本に帰ってきた時、こんなにいろいろな「顔」(人種・民族?)がある国は珍しいのではないかと感じたと述べていたと記憶している。つまり、この極東の端っこの島国に本当にたくさんの人種・民族が流れ来て混血を繰り返したということだ。現代「日本人」の遺伝子の中には、縄文系も弥生系も、朝鮮系も中国系もモンゴル系も白色系も、そして、ネアンデルタール系のそれすら含まれているのだ。もちろん、それぞれの「人種」的・「民族」的アイデンティティも重要だろうけれど―――とりわけ、他人種や他民族による差別や抑圧に直面した時には―――、私たちは同じ「人類」としてのこの現実をこそ重視すべきだろう。

   滝川クリステルが「日本的」かどうかはわからない(もちろん、日本人だ)。しかし、彼女がいうところの「おもてなし」なるものが、外来者(「まれびと」etc.)を興味深く、温かく迎え入れた「日本文化」の〈一つの側面〉を表現しているのは確かだろう。昨今流行りの、奇妙な”排外主義”的な自国第一主義よりもはるかにまともだとは言える。


『香川照之の昆虫”やばいぜ!”』を見た

一寸の虫にも五分の魂
   ―――サロとの散歩でたくさんのミミズを見た


   ※最近、アスファルトの歩道上でミミズの干からびた姿を目にすることが多い。今朝は、草はらとの境界線付近で体をくねらせてもがいているミミズを見てしまった。どうしてわざわざアスファルトの上なんかに出てくるのだろう。土に野菜や草を埋め込むと元気なミミズが大量に発生するが、土の中も水分が蒸発して暑いのかもしれない。ところで、私は小さい頃蟻にかなり興味を持っていた。巣をひっくり返したり、容器の中で飼ってみたり、何時間もじっと見ていたのを記憶している。ただ、香川照之の昆虫への思いはちょっと別次元のもののようだ。先日、2nd兄貴が、お城博士・千田嘉博を見ていて、「さかな君(宮澤正之)」の「ギョ・ギョ・ギョ」みたいに「ジョ・ジョ・ジョ」とか言わんのかね、と言って笑わせてくれたが、香川照之が驚いた時にはなんと言えばいいのだろうw。ちなみに、我が家にも巨大なカマキリが代々住んでいるし、また、やもり君はもとより「虹色」のへび君まで住んでいる。そして、可愛いけれど憎らしいのが恐竜の子孫たる鳥たちで、さくらんぼの争奪戦はもとより、先日は、超甘いトウモロコシまでやられてしまった。しかし、生き物たちに囲まれた生活は悪くは無い。

   さて、『香川照之の昆虫すごいぜ!』は、全部は見ていないが、好きな番組だった。蟻も昆虫だし。さらに、今回のNスペ『香川照之の昆虫”やばいぜ!”』は、「極楽とんぼ」的な昆虫ファンとは一味違った印象があった。言うまでもなく、環境問題との絡みでだ。世界各地で昆虫が激減し、「あと100年で昆虫は絶滅する」とまでいわれ、人類滅亡を招く恐怖のシナリオ=「昆虫カタストロフ」が現実になってもおかしくないというわけだ。もちろん、こうした現状を生み出したのは「人間」であって、これに対し、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』や「生態系」の理論などが警鐘を鳴らしてきたことではある。ただ、この番組がすごいところは、やはり、カマキリに魅せられ、カマキリの姿にまでなった香川照之の”視点”なのだと思う。日本語には、「一寸の虫にも五分の魂」と言う素晴らしい言葉がある。今朝ミミズを見て頭に浮かんだのもこの言葉だった。地球上で「生命」を共にする生物たちとの「共同性」をこれほど”感性”的に表現しえた言語があるだろうか(英語にはないよな?)。そして、こうした自然あるいは他生物との「一体感」が、香川にあの真剣な「怒り」の表情を生み出させたのだと思う。それは、人間自身が”やばい!”というだけではないのだ。

   私は、一週間ほど前に、携帯用の買い物袋(エコバッグ)を買った。何年か前に「姉貴」から誕生祝いにもらってはいたのであるが、もう一つというわけだ。その理由は、テレビで、プラスティック製廃棄物によって苦しむ海の生物たちの姿を見たからだ。食物連鎖の頂点に立つものが何を言うかとも言えるが、この地球上で共に生きている他の生物たちに”無用”な殺生はせず、その命の恵みに感謝して生きることは、「宗教者」ではなくとも、大切なことではないかと思うのだ。
プロフィール

SARO MURIKI

Author:SARO MURIKI
おりこうさんのワンワンです。年齢は、2019年11月現在満13歳です。見てのとおりの柴ですが血統書はありません。性別はオスで、飼い主には、朝夕、45分ずつ2回の散歩を義務付けているVIP犬、正確に言うと、VIDです。文句あっか?!

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