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私にとっての「愛国心」とはなにか(2)―――「同胞」考

 
  開かれた「同朋愛」は偏狭な「ナショナリズム」を超える
 
 ――同胞を使い捨てにして「領土・領海・領空を守る」などという輩は愛国者ではない。

     
     安倍首相は、長崎国際テレビ番組のインタビュー(12日収録、15日放送)で、「われわれは9条を改正し、その(自衛隊)存在と役割を明記していく。これがむしろ正しい姿だろう」と述べ、今回の参院選で今まで封印してきた、憲法9条〈改悪〉への野望をあからさまにするに至っています。
     また、7月16日の東京新聞朝刊によれば、石破自民党幹事長は、現行自衛隊法では、隊員が上官の命令に従わない場合、最高でも懲役7年が限度であるということから、「国防軍」の創設が実現した暁には、日本国憲法では禁止されている特別裁判所の一つ「軍法会議」にあたる、「審判所」設置の必要性に関して、次の様に述べている。

 「『これは国家の独立を守るためだ。出動せよ』と言われたときに、いや行くと死ぬかもしれないし、行きたくないなと思う人がいないという保障はどこにもない。だから(国防軍になったときに)それに従えと。それに従わなければ、その国における最高刑に死刑があるなら死刑。無期懲役なら無期懲役。懲役三百年なら三百年。そんな目に遭うぐらいなら、出動命令に従おうっていう。人を信じないとかいわれるけれども、やはり人間性の本質から目を背けてはいけない。」

    現行の自衛隊は「国の独立」を守るために出動するのではないと認識しているのかどうかは分からないが、現在、問題の焦点となっているのが、アメリカが要求する「国際貢献」、すなわち、海外における米軍との集団的自衛権の行使であることを考えれば、具体的には、たとえば、日米軍事同盟に基づきアフガニスタンで「国防軍」が戦闘行為にはいった時、「上官の命令」に従わなければ、現行の刑法では死刑が最高刑であるのだから、「死刑」にするというわけだ。さらに具体的に言えば、青年期にキャンディーズの〈追っかけ〉をしていた(→https://twitter.com/kinokuniyanet/status/357705297126621184/photo/1 )〈軍事オタク〉が内閣総理大臣=国防軍の最高司令官になったとして、そんな輩が、私の子供たちに人を殺すよう命令し、私の子供たちがそれを拒否すれば、〈死刑〉というわけだ。ふざけるな

     今日、ジブリの『熱風』(2013年7月号特集「憲法改正」)で、宮崎駿や高畑勲の論稿をを読みました(→http://www.ghibli.jp/docs/0718kenpo.pdf)。ところで、私には、「私にとって〈愛国心〉とは何か」を書くという宿題があったのですが、参院選を前にした安倍や石破の言動を前にし、また、年上の宮崎さんや鈴木さんや高畑さんの、まさしく、そうした「流れ」に逆らう抵抗を見るにつけ、私も不十分ながら自らの問題意識の一端でも書き残しておきたいと思い、推敲不足ではありますが、アップしておきたいと思います。お付き合いください。

     
     前回の『私にとって「愛国心」とはなにか(1)』で、私は、近頃やかましい「愛国心」とやらについて、主に〈個〉的な水準から批判しておきました。こうした地点から、彼らの〈利己的〉な司令官ぶりを見れば、余程のお人好しでない限り、その言葉を単純に信じることはないだろうとは思います。ところが、考えてみると、私の中にも、「愛国心」と水準を同じくするような意識があるのです。すなわち、私の中には、〈個〉的な水準だけではなく、〈集団〉的な水準、つまり、夫婦であったり、親子であったり、兄弟であったり、同郷者であったり、同窓生であったり、同国人であったり、同じ人類、そして、同じ地球上の生き物であったりすることへの〈共同〉的意識、生死、利害あるいは運命を共にする、いわば、「愛」と表現しうるような、〈共同〉性の意識もあるのです。

     勿論、こうした個と個、個と集団、そして、集団と集団との〈共同〉的な意識や関係も予定調和的なものではあり得ず、必ず、矛盾・軋轢・対立などが不可避的に存在しますから、それらは何らかの形で「調整」、「統合」、あるいは、「分離」などが図られなければならないと考えられます。こうした点については、また、後日、稿を改めて論じたいと思いますが、今回、特に問題にしておきたいのは、こうした〈共同意識〉の領域における、(1)親子、兄弟、友人、あるいは、隣人といった直接的関係を持つ人々との間の共同意識と、(2)より広範囲な、例えば、その多くは「民族」国家として歴史的に形成されてきた、近代「国民国家」の共同意識=「ナショナリズム」、この両者の関係についてです。いうまでもなく、この両者を直接結びつけるものはないのであり、必ず、媒介の論理あるいは仕懸けが必要なのです。

     ところで、ここで注意しておかなければならないのは、おそらく、私たちの中には、そうした「ナショナリズム」とは必ずしも一致するものではありませんが、しかし、その〈基底〉をなすがごとき共同性の意識が存在するだろうということです。それは、同じ言語や習慣、宗教や文化といったものを共有する者同士の感情あるいはそれへの〈帰属〉意識であり、あるいは、また、同じ風土や自然や生活圏(市場圏あるいは再生産圏)を共有する者同士としての感情あるいはそれへの〈帰属〉意識と言ってよいだろうものです。こうした意識を、今は、仮に、社会における「同胞」意識と呼んでおきます。しかし、こうした意識は、家族愛などの身近な人々との共同意識と同じ様に、いわゆる、政治的すなわち排他的な支配ー従属関係の下に統合された「ナショナリズム」=「愛国心」とは性格を異にするものだと私は思うのです。すなわち、こうした「同胞」愛は、政治的な「愛国心」とは〈切断〉されて在るのです。しかるに、私たちの親の世代の多くは、戦前の「国家」主義な侵略戦争に動員された際、既存の「国家」=政府のために戦うことが、家族や隣人そして「同胞」のために戦うことだというレトリックや宣伝に包み込まれ、その本質を見誤ってしまったのだと思うのです。

     こうした国家主義的な「ナショナリズム」=「愛国心」の包摂・統合のメカニズムについては稿を改めたいと思いますが、今回は、「同胞」に平気で嘘をつき、また、「同胞」を死刑にすると脅かしながら、「同胞」の命と生活を「道具」として利用する〈戦争への動員〉が、一方では、国家的な敵対関係を故意に強調しながら、また、他方では、極めて原初的な身近な人々に対する愛情や社会の「実体」的な相互依存関係を基盤に必然的に生まれるだろう「同胞」意識を利用しつつ行われるということに、万全の注意が必要であると確認しておきたいと思います。しかし、また、開かれた同朋愛(家族愛や同胞愛・・・)は、両者の違いを認識している限りにおいて、そうした偏狭な「ナショナリズム」を批判し、超えることができるであろうことも確かだと思うのです。

     日本国憲法の「平和主義」を護り、実現しましょう!

 
     次回は、「日本人」あるいは「日本民族」とはなんなのか、という点について述べる予定です。
  


 
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SARO MURIKI

Author:SARO MURIKI
おりこうさんのワンワンです。年齢は、2018年11月現在満12歳です。見てのとおりの柴ですが血統書はありません。性別はオスで、飼い主には、朝夕、45分ずつ2回の散歩を義務付けているVIP犬、正確に言うと、VIDです。文句あっか?!

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