FC2ブログ

私にとって「愛国心」とは何か(4)―――「日本人」とはなにか(2)

 「日本人」とは何か(2)  縄文人と弥生人
        ――― 要するに、『日本人』と言っても、〈多様〉なのだ!
 

      
     私は、この夏に、青森県の三内丸山遺跡を訪れることができました。この遺跡は縄文時代前期~中期(約5,500~4,000年前)の大規模集落で、私にとっても、まさしく『縄文文化の扉を開く―――三内丸山遺跡から縄文列島へ』(国立歴史民俗博物館編集、2001年)ものでした。そこで展示されていた縄文人たちの遺跡・遺物に接したとき、私はえも言われぬ感動を味わったものです。
     
     ところで、皆さんは、『海上の道』(岩波文庫、1978年)という柳田国男晩年の著作を読んだことがあるでしょうか。この本は、いわゆる「日本人」の起源を探った書で、「遠い昔、日本民族はいかなる経路をたどってこの列島に移り住んだのか。彼らは稲作技術を携えて遥か南方から『海上の道』を北上し、沖縄の島伝いに渡来したのだ・・・」という柳田の仮説が提示されたものです。また、本書の解説の中には、この柳田説の意義について、次のような中村哲氏の見解が紹介されていました。
    「稲作文化を伴う弥生式土器の南限は沖縄の先島には及ばないために、考古学の領域では、北方からの文化南下説を有力にしているが、柳田もそれに正面から反対しているわけではない。しかし、・・・・原日本人の渡来については、沖縄の人と文化が南方とのつながりを持つことに注目して、その論理の延長の上に考えようとする思考がある。・・・・それ(柳田の仮説)は北方からの文化南下説を正面から否定しているわけではないが、あたかもそれは有史以後のことで、原日本人そのものが始原の時代においては南から島づたいに漂いついたもので、その際、途中で離島に残ったものが原沖縄人であるというもののようである。」
     
    ところで、私たちは、昨年、柳田説にも関連する、次のようなニュースに接しました。

    「日本人の遺伝的な系統はアイヌ(北海道)と琉球(沖縄県)が縄文人タイプで、本州・四国・九州は縄文人と弥生系渡来人との混血とみられることが、東京大などのゲノム(全遺伝情報)解析で分かった。約100年前に提唱された「アイヌ沖縄同系説」を裏付ける成果で、1日付の日本人類遺伝学会誌電子版に論文が掲載された。」(http://sankei.jp.msn.com/science/news/121101/scn12110108070000-n1.htmを参照)

    私たちは、小学校の段階から、縄文文化と弥生文化の区別について学んでいましたが、もし、私たちが「日本人」=「列島人」の起源と言う問題を設定するとすれば、上記の記事のように、そこには〈縄文人〉と〈弥生人〉という身体的そして文化的特徴に相違のある二つの「血族」、「部族」の存在を前提とするということになるのです。そして、その両者の関係(混血など)を考えていく中でこそ、私たちは「日本人とは何か」という問への答えを探り当てられるであろうというわけです。

    ところで、私が小学生の頃には、稲作と金属器に象徴される弥生文化を日本列島にもたらした渡来人たちは「帰化人」、すなわち、外国から渡来し「日本人」になった人々と呼ばれていたと記憶しています。しかし、元々、日本列島に住んでいた「(原)日本人」とは「縄文人」だったのであり、柳田説やゲノム分析で判断する限り、彼らは南方から「海上の道」づたいに日本列島に移り住み、九州から北海道までの広い範囲で「縄文文化」を花開かせた人々であったのです。そして、これらの縄文系の「(原)日本人」たちは、朝鮮半島から渡来した弥生系の人々によって、九州では隼人(熊襲)、東北地方では蝦夷(えみし)、北海道ではアイヌなどとよばれることになったというわけです。こうした縄文系の人々については、最近ではNHKの『アテルイ伝』の阿弖流為、そして、(これは創作ですが)『もののけ姫』のアシタカなどのように、その文化をも含めて、大いに注目されることになっていると言ってよいのです。また、かなり前ですが、奥州藤原氏がそのミイラの特徴から蝦夷系であるという報道もありました。そこから推察すると、古代末期から中世にかけ、(桓武平氏、清和源氏といった)棟梁レベルは別ですが、土着の武装した縄文系の人々が地方武士団の形成に関わった可能性は大いに考えられるといってよいでしょう。実際、九州の話になりますが、西郷隆盛や大久保利通などの薩摩藩の下級武士に、薩摩「隼人」といいましょうか、南方縄文系の人々の特徴を感じることができると思うのは私だけではないでしょう。

     ところで、「日本人」の起源については、一時、江上波夫氏の「騎馬民族(征服王朝)説」などが話題を呼んだこともありました。しかし、基本的には、先の記事にも明らかなように、紀元前4世紀頃から、大陸(朝鮮半島)の北方弥生系の人々が、九州北部から日本列島全体に広がり、縄文系の人々との『混血』がすすんでいったと考えて良いようです。そして、「最終的に、現代日本人は、平均として、およそ北方弥生系7~8割、南方縄文系2~3割の比率で混血しているというのが、最近の人類学の結論」なのだそうです。我が家でも、どちらかというと、私が弥生系、妻が縄文系と言った趣があり、子供たちもそれぞれ微妙に両者の特徴を分有しているようなのです(笑)。

     そうなりますと、次に問題になるのは、両者の『混合』の有様です。そして、この点については、私の短い人生の中でも、結構面白い話を色々と聞かされていたのです。

     まず第一は、私が埼玉に住み始めた頃、同僚から、埼玉県には高麗(こま)や新座や志木など朝鮮に由来する地名が多く、昔から埼玉県に住んでいる人々の80%には朝鮮系の血が混じっているだろうとの話でした。さらに、それらは高句麗系とか新羅系とかいうことですから、紀元前4世紀からヤマト王権の確立に至る長い過程では、朝鮮系の数多くの部族・氏族が日本列島に渡来したであろうことが推察されるわけです。そして、この弥生系の渡来人の中には、当然、天皇家も含まれるのであって、この点については、大学で歴史を教えていた昭和天皇の弟である三笠宮が、「皇室が朝鮮半島から渡ってきたことは間違いないでしょう」と授業で言っていたという話を、私は学生時代に「友人」から聞いていたのです。このことは、今上天皇の「談話」―――「私自身としては,桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると,続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く,この時以来,日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。また,武寧王の子,聖明王は,日本に仏教を伝えたことで知られております。」(2002年3月)―――の中にも窺われるところです。要するに、その出自が百済系であるのか伽耶(加羅)系であるのかといった議論は別にして、天皇家が弥生系渡来人の系譜に属することは疑いないことと思われます。

     こうした見方については、神話の「ナイーヴ」な受容に基づく『皇国史観』の熱烈な信奉者は別でしょうが、すでに『記紀』の建国神話それ自体の分析の中からもほぼ常識的なものとなっているのです。たとえば、次田真幸氏は、『古事記』上巻の神話を、高天の原神話群・出雲神話群・筑紫神話群の三つに分け、それをもとに、北方系(とりわけ古代朝鮮系)種族と考えられる天孫系氏族(天皇氏族)と、本源的には南方系(とりわけ南西諸島や沖縄との関連が注目される)だが大陸・朝鮮半島との関係も深く農耕及び漁労を経済的基盤とする社会を形成していた出雲系氏族(「国譲り物語」の大国主はとりわけ有名)、そして、九州南部の海人族系氏族(インドネシア系の種族と考えられる隼人族は有名)との関係を論じているのです(次田真幸・全注釈『古事記(下)』、講談社学術文庫、1984年、の「解説」を参照)。すなわち、建国神話のレベルにおいても、日本列島の様々な歴史的時点において、「渡来」系と「土着」系(縄文系あるいは先行の弥生系渡来人)との確執と抗争、妥協と融合が展開されたのであろうことが推察されるのです。

    このことは、3世紀後半以降の「大王」(天皇氏族)を中心とするヤマト王権自体を「新参」の渡来系氏族を〈中心〉とする連合政権と考えることに繋がります。ところで、時代は下りますが、ヤマト王権内部における蘇我氏を代表とする「渡来」系氏族と物部や中臣を代表とする「土着」系氏族との対立はよく知られているところでしょう。それでは、氏は何にせよ「新参」の渡来系氏族が元々使用していた言語とはなんだったのでしょうか。勿論、それは朝鮮系の言語です。すなわち、ヤマト王権内では、「渡来」系の朝鮮系の言語と「土着」系の「ヤマト言葉」が拮抗して使用されていた可能性が高いということなのです。(そして、宗教的には、「渡来」系の仏教と「土着」系の原始宗教(国つ神)の対抗です。)この点に関連して記憶に新しいのは、本木雅弘主演の『聖徳太子』(NHK,2001年)です。いうまでもなく、「聖徳太子」は、百済と縁浅からぬ渡来系の氏族ー蘇我氏の血をひく人物で、蘇我馬子とともに天皇中心の中央集権体制を築いていった人物といわれています。そして、この番組のなかでは、なんと、「もうそろそろ(「朝廷」内で)ヤマト言葉を使いましょう」と言った台詞が出てくるのです。私は、思ったものです。あり得る、あり得ると。つまり、この「ヤマト言葉」なるものがどのように形成されてきたかは不明ですが―――おそらく、南方系の縄文人たちの言語と北方弥生系の〈先行〉渡来人たちの言語との「混合」だったと想像できますが―――、「新参」の渡来系氏族にとっては、「津軽弁」と「薩摩弁」と同様に、始めは意味不明なものだったのではないでしょうか。

     私にとっては、現在了解可能な同じ言語を用いて共に生活している人々の出自が、縄文系であろうと弥生系であろうと、また、朝鮮系であろうとインドネシア系であろうと、どうでも良いことのように思われます。ただ、私たち「日本人」を、戦前の天皇制を支えた、「血族的・同族的な文化的統一体」といった観念で理解することだけは誤りだとはっきり認識しておく必要があります。柳田民俗学は、そうした偽りの画一化に抗して、日本〈民族〉の「多様性」と「常民」レベルでの〈接触・混合〉を明らかにしようとしたものだと私には感じられるのです。すなわち、日本人とは、「純血種」などではなく、争いながらも和してごちゃごちゃに混じりあった、多様性を有するいわゆる「雑種」(ミックス)なのであり、その「雑種」性の中にこそ、その「特質」あるいは「固有性」が形成されていったといわなければならないのだと思います。このように考えれば、天皇家の「万世一系」(それ自体疑わしいのですが)などは、「日本人」どころか、朝鮮半島からの渡来系氏族(百済系?加羅系?)のY染色体(男系遺伝子)の「純粋」性を維持するということになるのですから、歴史的に形成されてきた「日本人」からますます離れるものとなると言って過言ではないでしょう(→「女性天皇」当然のことです)。

      こうした日本民族の多様性と人民的なレベルでの「統一」=「混合」の有様を認識することは、明治国家によって上から形成された、「過剰同調」をすら要求する画一的な「民族」論=ナショナリズムを否定することになるとともに、国家形成以前の水準において民衆自身が形成・維持してきた多様な「民族」性を再発見し、それを楽しむことに繋がるでしょう。また、その「民族」性とは、多様性の統一としての個性を持つと同時に、国境を越えた開かれた性格のものでもあるはずです。私たちが〈愛する〉「日本人」とは、そうした「民族」だと思われるのです。

     次回の『私にとって「愛国心」とは何か(5)』は、同胞愛と国家愛について考えたいと思います。
スポンサーサイト



コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

SARO MURIKI

Author:SARO MURIKI
おりこうさんのワンワンです。年齢は、2019年11月現在満13歳です。見てのとおりの柴ですが血統書はありません。性別はオスで、飼い主には、朝夕、45分ずつ2回の散歩を義務付けているVIP犬、正確に言うと、VIDです。文句あっか?!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
ワン・クリック・エリア
おもしろかったらクリックしてね!
にほんブログ村 犬ブログ 柴犬へ
にほんブログ村 にほんブログ村 格闘技ブログ 剣道へ
にほんブログ村 にほんブログ村 政治ブログ 平和へ
にほんブログ村
リンク
QRコード
QR
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる