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私にとって「愛国心」とは何か(5)―――同胞愛と国家愛(1)

  同胞愛と国家愛(1)
      ―――「〈開かれた〉ナショナリズム」と「〈閉ざされた〉ナショナリズム」



     前回は、いわゆる「日本人」なるものが、おおまか(というのは、それらはさらに細かく分類できるのだろうから)、南方系の「縄文人」と北方系の「弥生人」と呼ばれる人々の「混合」によって形成されてきただろうことを確認しておきました。そして、そのことは、戦前の「天皇制国家」のイデオロギー=「家族国家」観を政治的に利用したい勢力は別として、動かし難い歴史的「事実」として認められていると言ってよいでしょう。

     また、天皇家(氏族)の出自についても、現在は宮内庁によって封印されている古墳の学術的調査とその公表が実現されれば、その「事実」はさらに明確になっていくはずです。元々、他国の王室を見てもわかるように、皇室と「国民」が同じ血族・部族でなければならないといった「必然性」などないわけで、恐らく、学者ぞろいの天皇家の人々こそ、内心は、その「事実」を明らかにしたいと願っているとすら想像できるのです。

    ところで、こうした「事実」に対して、極めて消極的な姿勢を示す勢力が残存していることも事実です。しかし、その理由は、結局、そうした一部勢力が、天皇家の「神話」を政治的に利用し、自分たちを正統化したいと望んでいるからとしか考えられません。明治維新以降に建立された靖国神社に関連する問題もその典型的な事例で、東条英機らA級戦犯が合祀された1978年以降、昭和天皇が靖国神社への参拝を行わなかったことも、こうした脈略のもとでこそ理解できるのです(http://tamutamu2011.kuronowish.com/tennnoumemo.htm、などを参照)。すなわち、A級戦犯が「昭和殉難者」として合祀されて以降、中曽根康弘元首相など自民党政権の政治家たちは、個人としてではなく、内閣総理大臣など日本国を代表する立場で盛んに「公式参拝」をしようとしたのですが、それは、まさしく、彼らが、A級戦犯が指導した戦前の侵略戦争を、「(戦後)国家」の代表者として「正当化」しようとしたからだと言えましょう。そして、こうした状況の中で、天皇が靖国神社に参拝することは、あの無謀な侵略戦争を愚かしくも無責任に指導し、膨大な犠牲者と「屈辱」を生み出した戦争指導者たちに「日本国民統合の象徴」たる立場で頭を下げ、そのことによって、あの侵略戦争を「正当化」することに利用されてしまうことに他なりません。昭和天皇の戦争責任については別途論じられなければならないとは思いますが、この点については、そうした策謀に不快感を示し、そうした勢力との「共犯」関係に取り込まれることを拒否した昭和天皇の姿勢は、『日本国憲法』下の天皇として、極めて適切なものであったと私には思われるのです。

     さて、先のように、「日本人」ー「日本民族」を縄文人と弥生人の「混合」(ミックスあるいは「ハイブッリッド」)と把握する視角は、それを、沖縄(琉球)やアイヌ民族、そして、朝鮮や中国など当時の東アジア文化圏、また、遥か中国東南部やインドネシアなどの東南アジア文化圏との関係で、さらには、「人類」の始原、そして、遂には、「生命」の根源とのつながりの中で把握する方向性を示すことになるでしょう。このような視角で把握された「民族」は、閉じられた、〈他〉者あるいは〈外〉なるものとの「宿命」的な敵対関係の中でではなく、開かれた、つまり、その差異・多様性を〈自ー他〉あるいは〈内ー外〉を貫通する「つながり」の中で楽しむことのできる存在として、あるいは、固定的なものではなく、変化・変容しさえするものとして認識する、いわば「〈開かれた〉ナショナリズム」とでも表現しうるようなものに結びつくと考えられましょう。それは、共に生きる「世界(家族・地域・国・・・)」の中における「他」者への興味や関心、相互依存や愛情など、いわば、極めて原初的な「隣人愛」から出発した「同胞」意識と言ってもよいものと思われます。例えば、海外旅行に行きたいと思う気持ちのほとんどは、こうした方向性にあることでしょう。

     しかし、「共同的」な意識は、もちろん、こうした方向性にだけ向かうのではありません。すなわち、内向きの、〈閉ざされた〉方向性に向かう傾向性も同時に存在するのです。例えば、親子をはじめとして、「個ー個」そして「個ー集団」との予定的調和はあり得ないでしょうし、さらに、「共同体」内部あるいは「共同体」間での支配ー従属関係に伴う緊張や矛盾に媒介されることによって、その「共同的」な意識は、〈閉ざされた〉方向性に陥る可能性があるのです。とりわけ、近代の「革命」と「戦争」の時代にあっては、権力的な組織体である国家に媒介された「〈閉ざされた〉ナショナリズム」が形成された場合も多かったのも事実だと思われるのです。そして、その最悪の形態は、「民族」間の敵対性を、相手を同じ「人間」と見ない「差別心」―――例えば、DNAにまでその根拠付けを求める固定的・宿命的なレイシズム―――によって根拠づけようとするものです。そのような観点からすると、「日本人」と「朝鮮人」・「韓国人」が、「血族」という観点からすると、共通の「祖先」から発しただろうという「事実」は、きっと、不都合なものなのでしょう。最近のヘイト・スピーチに見られる差別性もこうしたところに根を持つのかもしれません。

     時間の都合上、今回は、この辺で切り上げます。次回は、「ナショナリズム(民族意識・国民意識)」が生まれてくる根拠について、歴史貫通的な側面と歴史的な側面から考えてみたいと思います。その作業は、とりわけ、「〈閉ざされた〉ナショナリズム」を乗り越えていくために必要な作業と考えられるものです。


―――サーバントさんは、長い氷河期に適応して生き抜いてきた種族の子孫らしいって言ってたけれど、それってどうしてわかったの

―――それは、血が濃いんですよ(苦笑)。ところで、「日本犬」の代表のような顔をしているサロさんも、立派な「縄文犬」だよね。DNAのレベルで言うと、私たちも、結構長い付き合いということになるかもしれないよ。


     
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SARO MURIKI

Author:SARO MURIKI
おりこうさんのワンワンです。年齢は、2019年11月現在満13歳です。見てのとおりの柴ですが血統書はありません。性別はオスで、飼い主には、朝夕、45分ずつ2回の散歩を義務付けているVIP犬、正確に言うと、VIDです。文句あっか?!

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