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歌舞伎座「八月納涼歌舞伎」(第二部)を見ました

 僕だって〈人間〉みたいにカッコ良く生きたいな
     ―――〈実存的投企〉を希求する人間の様々な「生き方」



DSC_2102納涼歌舞伎



     ※昨日、クロス・カブ(HONDA CC110)で、日帰り林道ツーリングに行ってきました。カブ君との初ツーリングは、7月の30日の山梨県大月までのものでしたが、8月中には、もう一度、富士山を東西南北から見て回る「旅」(ツーリング+登山)を計画しているところです。我家にも家でゴロゴロしている方を好む人がおり、又、私自身「何故わざわざ疲れることを」と考えることもあるのですが、どうやら私には多動的気質が宿っている気配があるのです。これらの旅についても近日報告予定ですが、今回のブログでは、8月9日に観た歌舞伎について振り返っておきたいと思います。


     今回の歌舞伎座・「八月納涼歌舞伎」(第二部)は、

  ○近松門左衛門 作 『信州川中島合戦ー輝虎配膳』一幕
           長尾輝虎 橋之助
           直江山城守 彌十郎
           唐衣 児太郎
           越路 萬次郎
           お勝 扇 雀

  ○大佛次郎 作   『たぬき』二幕四場     
           柏屋金兵衛 三津五郎
           太鼓持蝶作 勘九郎
           妾お染 七之助
           門木屋新三郎 秀 調
           松村屋才助 市 蔵
           倅梅吉 波野七緒八
           隠亡平助 巳之助
           芸者お駒 萬次郎
           狭山三五郎 獅 童
           備後屋宗右衛門 彌十郎
           女房おせき 扇 雀
      
      の二作で構成されていました。

     ところで、一作目の『信州川中島合戦』について、歌舞伎座ー公式サイトの「みどころ」欄には、次のように書かれています。

  ◆時代物ならではの多彩な役柄が織りなす豪華な一幕
   越後の長尾輝虎(後の上杉謙信)は、敵対する武田信玄の軍師山本勘助を味方に引き入れようと考え、家老の直江山城守の妻唐衣が勘助の妹であることを利用して、勘助の母越路と妻お勝を館に呼び寄せます。輝虎は自ら料理を運びますが、その計略を察知していた越路は膳を足蹴にします。短気な輝虎は激怒して刀を抜きますが、お勝が必死の思いで止めに入り…。
   時代物らしい絢爛とした舞台に、武将の輝虎をはじめ多彩な役柄が登場します。歌舞伎らしい技巧に富んだ義太夫狂言の一幕です。

     さて、私自身の感想は次の2点でした。一つ目は、橋之助の様式化された〈怒り〉の表現に、限りない懐かしさのようなものを感じたこと。私は、幼い頃、テレビで習い憶えた歌舞伎役者の〈見栄を切る〉所作をマネして母親に喜ばれたことを記憶していますが、そうしたある感情の様式化のなかに見られる日本〈文化〉の面白さを再確認したのです。生で見た橋之助の演技は迫力ある実に印象的なものでした。2つ目は、萬次郎演じる越路の〈格好〉良さです。何がカッコいいのかといえば、それは、このヒロインの「生き方」〈そのもの〉といってよいでしょう。加藤周一(『日本文学史序説』)流にいえば、作者近松門左衛門の「時代物」は,彼自身の出身階級すなわち時代の支配層の価値体系を町人大衆に向かって宣伝する役割を果たしていたということになり、確かに、越路の直接的な「イデオロギー」は、封建的主従関係の倫理―――輝虎の見え透いた供応によって、〈主〉たる武田信玄を裏切らない―――であったのでしょうが、歌舞伎を見ていた当時の庶民階級が彼女に喝采を送った理由は、決してそうした特定のイデオロギー・〈忠誠心〉に対してではなかったろうと思われます。そうではなく、それは、近松の「世話物」のヒロインやヒーローの「生き方」にも共通するところの、従属的ではない倫理的に〈主体的〉な生き方、「世間」や「義理」に対して〈個あるいは私〉の一念を貫こうとする生き方、困難ではあっても〈命すらかけて〉その想いと遂げようとする生き方、言うなれば、強いられた従属的な生き方に抗する〈実存的投企〉への憧れでだったのではないでしょうか。そして、それは、そうした〈人情〉を「不条理」に抑圧・圧殺しようとする権力への抵抗の感覚でもあったことでしょう。「花は桜木、人は武士」といいますが、それは、必ずしも『葉隠』的武士道ー倫理に従うといったことではなく、〈命を賭けても〉〈主体的〉に自らの生を選択していく、そんな〈潔い〉「生き方」への憧れを意味していたと思われます。そのように感じられました。

     さて、2作目の『たぬき』は、「みどころ」欄で、次のように紹介されていました。    

  ◆人間の化けの皮の下に隠された本性を描いた喜劇
   江戸深川の火葬場では、柏屋金兵衛の葬式が営まれていました。ところが日もすっかり暮れたころ、死んだはずの金兵衛が、再び息を吹き返します。思案した金兵衛は、自分はこのまま死んだことにして、女房のおせきではなく、妾のお染と暮らそうと、お染のもとに駆け付けますが、そこにはすでに情人の狭山三五郎がいました。愕然とした金兵衛は、お染が自分から引き出していた金を持ち出します。二年ほどが経ち、甲州屋長蔵と名を変え成功していた金兵衛は、訪れた芝居茶屋で偶然にもお染の兄の太鼓持蝶作と出くわして…。
   大佛次郎によるこの新歌舞伎は、別人になりすました男が味わう人間心理の表と裏を描いた皮肉の効いた喜劇です。おかしさと切なさが巧みに混ざり合う舞台をお楽しみください。


     ところで、この『たぬき』は、昨年6月「喜撰法師」で軽妙な〈踊り〉をみせてくれた三津五郎の、病からの本格的な「復帰」第1作であり、私にとっても注目の舞台でした。思うに、江戸の〈庶民〉―――実際は、豪商ですが―――を演ずるのに、彼ほどの適役はないかもしれません。また、勘九郎と七之助が劇中でも兄弟役を演じており、勘九郎の父親譲りだろう絶妙な「味」、そして、七之助の相変わらずの美しさや微妙な女心をすら表現し得ていただろうその演技は、なかなかなものと感じられました。さらにもう一つ、舞台で見た獅童はデカかった! 映画での印象と生の舞台とでは全く違っていました。

     さて、あの『鞍馬天狗』の大佛次郎がこの新作歌舞伎で何をテーマにしたのかは判然としませんが―――おそらく、こうした「たぬき」たちを優しく見つめるということだったとは思いますけれど―――、「人間の化けの皮の下に隠された本性」を描いた喜劇という「みどころ」欄の表現には、若干違和感が感じられました。といいますのは、たとえば、金兵衛は、最後に、息子梅吉(七緒八)の「(お父)ちゃんだ。(お父)ちゃんだ。」という〈純〉な叫び声によって、甲州屋長蔵という「化けの皮」を自ら脱ぐことを決意するわけですが、そういった親子の〈純〉な関係が予定調和的なものであるなどということはあり得ないことでしょう。また、「情人」狭山三五郎の存在故に金衛門を裏切ってはいたお染ですが、困窮する生活の中でさえ三五郎のために酒を手に入れようとする彼女の心が「純」なものではないとは言えないと思います。つまり、人間は二面(多面)性を持つ矛盾した存在なのであり、極めて直接的な〈欲求〉を追い求めることもあれば、また、「理想」化された〈観念〉を追い求める存在でもあるのです。そして、それらはそれ自体として幻想的であったり実体的であったりするというものではなく、(「義理」と「人情」だけではなく)、「人情」自体が矛盾を孕むものなのだということだと思います。
     ところで、こんなことを考えているなかでフッと私の脳裏に浮かんだのは,「大日本帝国の『実在』よりも戦後民主主義の『虚妄』の方に 賭ける」という丸山眞男の言葉でした。話のレベルは随分違うのでしょうが、例えば、「結局恋は冷めるものよ」とか「結局男は金と地位よ」とかいわれながら、あるいは、「子供、子供といったって,結局、捨てられるだけなんだから」とか言われながらも、お染めや金兵衛のように「虚妄」に賭けることこそが人間の本質なのであり、また、そうしたことが人間社会を維持・発展させて来たのではないか、そんな風に私は考えたのです。まあ、ちょっとした思いつきではありますが。

     ※サロさん! 君は長い「骨」と短い「骨」を見せると、ほとんど長い方を持って行くよね。君の選択は十分〈実存的〉だと思うよ。君も私も同じ仲間ですよ。はははー
 
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SARO MURIKI

Author:SARO MURIKI
おりこうさんのワンワンです。年齢は、2018年11月現在満12歳です。見てのとおりの柴ですが血統書はありません。性別はオスで、飼い主には、朝夕、45分ずつ2回の散歩を義務付けているVIP犬、正確に言うと、VIDです。文句あっか?!

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