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さいたま市公民館の「俳句掲載拒否」問題を考える

      「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」

  
     先月14日、安倍政権は、特定秘密保護法の運用基準を閣議決定し、同法は12月10日に施行されることになりました。主権者たる国民の「知る権利」を侵害する暴挙がまた一つ強行されたのです。時の政府が何が「国家秘密」であるかを決定し、それを客観的に〈チェック〉する第三者機関が存在せず、そうした中で、時の政府にとっては不都合な真実にアクセスしようとする者に重罰を課そうというのです。「沖縄密約」のような国家の基本的なあり方を左右する重要な事実が闇から闇に葬り去られてしまう可能性がさらに高まったのです。しかし、その最も深刻な影響は、重い刑罰を前にした、国民の側の〈自主規制〉だという意見もあります。主権者たる国民を〈物言わぬ〉被統治者に貶めようというわけです。まるで、封建時代のように。

     ところで、さいたま市大宮区の三橋公民館で毎月開かれていた俳句教室では、会員が互選で選んだ一句が毎月公民館の「月報」に掲載されていましたが、今年の6月、冒頭「九条」の一句が、「公民館が政治的に中立でないと誤解される恐れがある」として、掲載を拒否される事件が起こりました。この問題については、『東京新聞』や『埼玉新聞』などで詳しく報道されているのですが、全国的にはあまり知られていないとも思われますので、簡単に紹介しておきたいと思います。

    まず、私などは、この俳句に読まれた情景を想像すれば、ある個人がこうした歌を読むことはごく自然なことのように感じられるのですが、いかがでしょうか。現代俳句の第一人者とも言われている金子兜太さんも、『埼玉新聞』の8月17日版で、次のように述べています。
   「作者はデモに好意を持ったが、熱く共感したわけではないと私は受け取る。感受性の強い人なら普通のことで、どうしてこの句が問題なのか、ぜひ教えて欲しい。結果として政治的な意味をお役人がもたせたのは、ご自身がご時世に過剰反応しただけ。作者としては当たり前の感銘を詠んだ句で、お役人に拡大解釈され、嫌な思いをしてお気の毒」。
   「今回は一庶民の一つの句をやり玉に挙げて大げさな問題にした。こんな拡大解釈のようなことがお役人だけではなく社会で行われることになったら、『この句は政府に反対する句だから駄目』などと、一つの句が潰される事態になりかねない。有名な俳人だけではなく一般の人も萎縮して俳句を作らなくなる。俳句を作る人の日常を脅かすもので、スケールは小さいが根深い問題だ」。

      この句の作者は、「私の人生や経験、思いを一方的に否定されたように感じた。一市民のささやかな句に反応して排除するなんて、その方が恐ろしい」と嘆いたそうだ。金子兜太さんは「お役人が拡大解釈した実に野暮で文化的に貧しい話」と言ったそうですが、私は、こうした「野暮で文化的に貧しい話」は、日本の政治家や官吏にしばしば見られる一般的な傾向であるようにも思われるのです。それはどうしてなのかと言いますと、彼らは、それ自体擬制的なものでしかない「公」的なるものにすがりつき、何より、実態としての国民一人一人の〈多様性〉と〈自立性〉を認識できていないのです。つまり、彼らは、「主権者は国民の一人一人だ」ということがわかっていないのです。国民一人一人が主権者であるということは、「〈私(朕)〉は『国家』なり」ということではなく、〈多様〉で〈自立〉した国民一人一人が〈集合〉的に「国家」という集団を形成しているということであって、それゆえに、国家や時の政府が、〈一応〉「法」に基づいて排他的強制力の保持を許されているとしても、同じく「法」に基づいて、そうした〈多様〉で〈自立〉した国民一人一人の基本的人権を毀損するような〈恣意〉的な権力の行使は禁じられなければならない、ということなのです。

    ところで、この句の掲載を拒否した引間正巳三橋公民館長は、7月3日の『公民館便りへの俳句不掲載について』でその理由を次のように説明しています。すなわち、「社会教育法」第23条第2項の、公民館は「特定の政党の利害に関する事業を行い、又は公私の選挙に関し、特定の候補者を支持すること」をしてはならないこと、また、「さいたま市広告掲載基準」第4条(1)、「国内世論が大きく分かれているもの」の広告掲載は行わない、ということを根拠に、「このようなことから、俳句の中の『九条守れ』というフレーズは、憲法を見直そうという動きが活発化している中、公民館の考えであるという誤解を招く可能性があるため、掲載をご遠慮いただくものです。」としています。また、所管するさいたま市の稲葉康久教育長も、「月報は公民館の責任と権限に基づいて発行している。世論を二分している内容の作品はそぐわない。」と述べています。

     それにしても、冒頭の一句が、特定の政党の利害に関する事業に関係するとか、なんらかの〈広告〉に類するものに関係するなどいう判断がどうして出てきたのでしょうか。金子兜太さんが指摘するように、その判断が極めて恣意的(時勢に過剰反応した拡大解釈)なものだということは間違い無いことでしょう。そして、もし俳句の会の互選によって選ばれたこの句が、「政治的」であり「月報」に掲載すべきではないとの判断が行政の「責任・権限」に基づいてなされたとするなら、まさしく、行政による〈言論統制〉ということになってしまうのではないでしょうか。
     また、JT生命誌研究館館長の中村桂子さんは、「公民館とはまさに地域の人々が集まり考えを述べ合う場ではないだろうか。世論が分かれる大事な問題だからこそ、意見を述べる場にするところではないだろうか。そもそもこの句は、素直に情景を描写しているものであり、なぜこれを掲載できないのかわからない」(『東京新聞》7月8日夕刊)と述べていますが、まさしく公民館の「責任」とは、〈多様〉で〈自立〉した「主権者」の公共的討論と集合的〈意思〉の形成を保障すべきものであって、意見の違いを隠そうなどというのは、国民一人一人の「主権者」としてのあり方を否定するものに他ならないと言えるでしょう。
     それにしても、この句について、なぜ「世論を二分している内容の作品はそぐわない。」などという「飛躍」した判断が行われることになったのでしょうか。先に紹介した中村桂子さんは、「ここで行われたのは行政の勝手な自主規制である。地方自治体としてやってはならないことだ。税金は市民が納入しているのに上の方だけを見ている姿勢は許されない。・・・市民に最も近いところが自主規制した時に社会はどうなるか、考えるだに恐ろしい。身近な所こそ重要であることを再確認したい」と述べています。要するに、お役人達が、時の政権(安倍政権)の意向を敏感に感じ、極めて「政治的」に「自主規制」したということなのでしょう―――ただ、私は、地域の一部党派からかなり日常的に圧力があるのではないかと想像しているのですが―――。しかし、その「自主規制」とは、国民から〈公共性〉を奪い取り、時の政権に無批判的に追従する存在に貶めようとする行為なのです。

     特定秘密保護法の制定に見られるような、国民に対するある意味で「鎮圧主義」的な政策は、実は、こうした「自主規制」の動きをその最も望ましい効果として期待しているのだろうと考えられます。しかし、私たちは、後継の世代のためにも、〈物言わぬ〉被統治者に貶められてはならないのです。

     「主権者の 〈誇り〉貫け 5−7−5」(S.ムリキ)


 ※ もう一つ、歌心が・・・・

DSC_2193皆既月食

  サロは無視 秋の夜空に 皆既月食 (10月8日――お粗末!


  ―――サーバントさん! 散歩の途中で急に立ち止まらないで欲し
     いんだけど
  ―――君だけには言われたくないね

 
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SARO MURIKI

Author:SARO MURIKI
おりこうさんのワンワンです。年齢は、2018年11月現在満12歳です。見てのとおりの柴ですが血統書はありません。性別はオスで、飼い主には、朝夕、45分ずつ2回の散歩を義務付けているVIP犬、正確に言うと、VIDです。文句あっか?!

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