FC2ブログ

吉右衛門の「法界坊」を観た!

 日本の民衆にとって「悪」とは何だろうか
    ―――あるいは、「巨悪」と「小悪人」の弁証法(?)―――



     
DSC_0836法界坊2



images法界坊



     ※ かなり前のことになりますが、9月15日、歌舞伎座で『秀山祭九月大歌舞伎』(昼の部)を観てきました。秀山祭とは初代中村吉右衛門(俳名:秀山)の偉業をたたえる恒例の催し物ということですが、今回の演目は、以下の通りでした。

  1、鬼一法眼三略巻(きいちほうげんさんりゃくのまき)菊畑 
     吉岡鬼一法眼:歌六、虎蔵実は源牛若丸:染五郎、
     皆鶴姫:米吉、智恵内実は吉岡鬼三太:松緑

  2、隅田川続俤(すみだがわごにちのおもかげ)法界坊
      法界坊:吉右衛門、おくみ:芝雀、手代要助:錦之助、
     野分姫:児太郎、道具屋甚三:仁左衛門

  3、浄瑠璃 双面水照月(ふたおもてみずにてるつき)
     法界坊の霊/野分姫の霊:吉右衛門、渡し守おしづ:又五郎、
     手代要助実は松若丸:錦之助、おくみ:芝雀


     はじめに、各演目の感想を一言。まず、「菊畑」は、歌舞伎の時代物らしい叙情性が感じられ、染五郎の明快な演技にも大変好感が持てました。「法界坊」は、吉右衛門のアドリブに〈世話物の人気狂言〉というこの演目の性格が滲み出ていると感じると共に、その内容については、「これは一体何なんだ?」という戸惑いに似た奇妙な感覚にもとらわれたのでした。この点については、後でもう少し詳しく述べたいと思います。最後の「双面(ふたおもて)」は、吉右衛門が法界坊の霊と野分姫の霊を演じ分ける〈舞踏〉ということになりますが、私には「評価」が難しいといった印象をもちました。勿論、「見に来て良かった。面白い!」というのが、地下鉄日比谷線の中で私が抱いた感想ということになりますが。
 
     さて、今回の歌舞伎鑑賞の主目的は、〈お馴染み〉吉右衛門の「法界坊」であったわけですが、まずはいつものように、歌舞伎座のホームページからその概要を転記しておきましょう。

   「隅田川続俤(すみだがわごにちのおもかげ)」

 ◆色と欲におぼれた破戒僧の執念を描いた人気狂言
 浅草聖天町に住む願人坊主の法界坊は、釣鐘建立の勧進をして歩いていますが、実は集めた金を道楽や飲み食いに使ってしまう生臭坊主。永楽屋の娘おくみに恋慕していますが、おくみは、手代の要助と恋仲なので、相手にされません。その要助は、実は京の公家吉田家の嫡男松若で、野分姫という許婚がいる身でしたが、重宝「鯉魚の一軸」を紛失したために没落した御家の再興を目指し、姿を変えて機会をうかがっていたのでした。法界坊は要助を陥れようと悪事に加担し追い詰めますが、もとは吉田家の家来筋であった道具屋甚三の機転により、あえなく失敗します。怒りのおさまらない法界坊は、野分姫をも無理やり口説こうとして…。
 悪党ながら、人間味にあふれた法界坊。盗みも人殺しもするものの、美しい娘がいると追い掛け回したりと、どこか憎めない愛嬌があります。

     さて、この「法界坊」が江戸庶民の人気を得ていただろうことは、その笑いを誘う〈わかりやすさ〉からも容易に想像できます。ただ、問題なのは、なぜこの〈盗みも人殺し〉もする「悪党」が「人間味あふれた」、「どこか憎めない愛嬌」を持つ人物として演じられなければならないのかです。皆さんはどう考えるでしょうか?
     ところで、Wikipediaによりますと、法界坊には托鉢しながら勧進を行っていた『穎玄(えいげん)』というモデルがいたらしく、そうしたところから想像すると、この演目は、この穎玄の「実像」を暴き出し、その欺瞞性を痛烈に批判=〈笑い飛ばす〉といった趣向が隠されていたのかも知れません。江戸時代の町人層の僧侶に対する批判の強烈さはかなりのものであり(家永三郎『日本道徳思想史』第8章「町人の道徳思想」などを参照)、オリジナルな法界坊はもっともっとおぞましい姿で演じられ可能性も考えられるでしょう。しかし、同時に、当時の民衆が、「双面」で演じられたように、法界坊を〈人間〉の二面性の一面を表すものとして、より切実には、自らを、実際の生活の中で〈盗みも人殺しもする〉存在、あるいは、〈しなければ生きていけない〉存在として捉え、自嘲気味に彼に共感を寄せていた可能性も考えられるのです。また、一般に、古今東西の民衆にとって「悪党」とは一種のヒーローであって、歌舞伎の「白浪五人男」もそうでしょうし、現代日本では、『ラピュタ』の女海賊ドーラや『ワンピース』などにもそうした傾向を見ることができるでしょう。もちろん、しばしば〈盗みと殺し〉の被害者となった民衆の心の痛みは容易に想像しうるわけで、こうした民衆の「悪党」に対する矛盾した意識をどう理解すれば良いのか、それが問題なわけです。

     ところで、「悪党」という言葉を『広辞苑』で引いてみると次のように記されています。「鎌倉中期から末期にかけて、幕府体制や荘園制的秩序に反抗した武装集団。もともと悪党は、山賊、海賊、夜討ち、強盗など悪者一般の意味であるが、13世紀中頃から史料上にみえ始める悪党は、惣領制の解体と貨幣経済の進展という新しい動きの中で生まれ出た歴史的存在である」。『太平記』で有名なあの「忠臣」・楠木正成が、こうした「悪党」と呼ばれる存在であったことはかなり知られていることでしょう。つまり、こうした場合の「悪」とは、ある「体制」や「秩序」に対する〈異端〉を意味し、また、「悪党」には、そうした「体制」の権威や秩序には囚われない〈痛快〉な行動様式をとる武装(暴力)集団といったニュアンスも含まれていたと思われます―――私の高校時代の先生が『悪源太』の「悪」とは〈強い〉という意味だと言っていたことを記憶しています。とすると、ある支配的な「体制」の欺瞞性や非人間性が明らかになってきた場合、その「悪」が一定の「正当性」を持ち、虐げられてきた人々の心を掴むといったことは大いにあり得たと考えることができるでしょう。実際、普遍的な哲学的・宗教的観点から考察された「善悪」の水準とは別に、いわゆる一般的な「善悪」の観念が、歴史的・文化的・「階級」的な性格を有していただろうことは疑いないところです。例えば、「殺人」に関して言えば、現在、安楽死や尊厳死について議論されていますが、江戸時代では「切腹」(自殺?)や「仇討ち」(殺人)は法的な義務(善)であったわけですし、また、「盗み」について言えば、その「体制」自体が「征服の権利(ライト・オブ・コンクエスト)」つまり「巨大な盗み」によって成立し、さらに、その「体制」の維持が、年貢や冥加金をはじめ、極めて階級的意味で恣意的な「経済」外的強制(暴力)によって成り立っていた場合もあるわけです。つまり、封建的身分制社会のように、「巨大な殺しと盗み」が一定の社会的秩序を形成し、それを暴力装置とイデオロギー装置が維持・正当化するといった中では、被支配層を構成する民衆が、そうした社会的秩序への抵抗の感情を「悪」とか「アウト・ロー」への共感といった形で表現した場合があっただろうことは容易に想像することができるのです。ただ、ここで注意しておかなければならないのは、そうしたいわば「巨悪」とこの芝居に登場する〈盗みも人殺し〉もする法界坊のような「小悪人」(悪人・悪漢)と民衆との関係ということになります。

     つまり、まず第一に、江戸時代の民衆が、鼠小僧とか石川五右衛門などに見られるように、「巨悪」への勇気ある反逆・挑戦(「悪」)に喝采を送ったと考えることはできるでしょう。さらに、江戸時代の仏教が、切実な民衆的基盤を有していた「鎌倉仏教」とは異なって、寺請制度に典型的に見られるような封建的支配秩序を下支えする役割を果たしていたことから、都市の町人層はこうした僧侶たちへの批判(軽蔑)意識を、とりわけ、目の前の「破戒僧」(=法界坊)に対して向けていたとも考えられるでしょう。ところが、同時に、民衆は、この「破戒僧」(=法界坊)にたいして、「人間味あふれた」・「どこか憎めない愛嬌」をもつ人物として共感もしていたらしいということなのです。繰り返しになりますが、それは何を意味するのでしょうか。

     もう十分に長くなってしまったのでもう止めますが、そうした傾向性の中に、違いや異質なるものを一つの「システム」の中に包摂する特殊日本的文化の基底的特性(心情と論理)が読み取れるのだろうと私は考えているのです。その詳細についてはまたの機会に論じたいと思いますが、今回は、その「人情味」や(ある意味での)「包容力」を〈是〉としながらも、そうした庶民の「小悪人」への共感が「巨悪」を容認・正当化する経路へと導かれ、巨悪への批判が隠されてしまう場合があることは指摘しておかねばならないでしょう。私は、中村吉右衛門が演じるところの「人情味」溢れる『鬼平犯科帳』の「ファン」でもありますが、その中で極めて興味深いと感じるのは、若かりし頃「盗賊」の一味に加わろうとした経験もある長谷川平蔵と元「盗賊」である「密偵」たちとの濃密な関係です。そこに見られるのは「アウト・ロー」(無法者)の「体制」への統合ですが、両者を結びつけているのは、「殺さず、犯さず、貧しいものからは奪わず」といった、いわば「義賊」のイデオロギーなのです。それがまた私の気持ちを引きつけるわけなのですが、しかし、よく考えてみると、平蔵たちがそのために働いていた当時の幕藩体制が「殺さず、犯さず、貧しいものからは奪わず」を実践していたなどと言ったら、もう笑い話ということになってしまうでしょう。

     「一人殺せば悪党。100万人殺せば英雄。One murder makes a villain. Millions a hero. 」とはチャップリンの『殺人狂時代』の中での言葉ですが、私たちは「小悪人」たち一人一人の〈違い〉を明確にするとともに、「小悪人」と「巨悪」とを一緒くたにごちゃごちゃに論じることには警戒しなければならないと思います。「一億総懺悔」はもうまっぴらですから。


 ※ なにやら、12月14日に解散ー総選挙とやらの報道で賑わっていますが、本当にバカバカしい!「解散権は総理が持っている」とか、茅場町でも神保町でもなく・・・・阿呆らしくて思い出せもしない◯◯町の政治屋さんたちが言っていますが、要するに、自らの欺瞞そのものでしかない政治がバレそうになったので、なんとか「目眩まし」のために解散しようというのでしょう。先日私の学生時代の先生が勧めてくれたので読んでみたのですが、アベノミクスの基本的性格など、とうに、(真っ当なリベラルである老ケインジアン)伊東光晴の『アベノミクス批判―――四本の矢を折る』(岩波書店)によっても、極めて明瞭に暴かれてしまっていると言って良いのです。時間がないので要約もしませんが、要するに、真実は結局覆い隠すことはできないのです。あとは、国民の一人一人が、自らの真の利益に沿った投票行動を行うことでしょう。安倍の経済政策と集団的自衛権の行使・原発再稼働(=巨大な「盗み」と「殺人」)が、再び、日本と日本人にもっと大きな「災難」もたらすことがないように!です。
スポンサーサイト



コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

SARO MURIKI

Author:SARO MURIKI
おりこうさんのワンワンです。年齢は、2018年11月現在満12歳です。見てのとおりの柴ですが血統書はありません。性別はオスで、飼い主には、朝夕、45分ずつ2回の散歩を義務付けているVIP犬、正確に言うと、VIDです。文句あっか?!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
ワン・クリック・エリア
おもしろかったらクリックしてね!
にほんブログ村 犬ブログ 柴犬へ
にほんブログ村 にほんブログ村 格闘技ブログ 剣道へ
にほんブログ村 にほんブログ村 政治ブログ 平和へ
にほんブログ村
リンク
QRコード
QR
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる