FC2ブログ

SAMURAI SPIRIT・柳生宗矩の『無刀』の心とは(1)

 我<しもべ>たる飼い主は、明らかに、二重人格的性格の持ち主だ。普段は「お犬様。お犬様」なんていっているが、僕が小さい頃、何か理由は忘れたが、くしゃみをしながら、僕に「踵(かかと)落とし」を食らわせたんだ。それ以来、くしゃみは僕のトラウマさ。ああ、やだやだ。暴力反対。

 さて、いよいよ、柳生宗矩の『兵法家伝書』・「無刀」の思想についてですが、ネット族になじみ深いWikipediaで検索してみると次のような記述に出会います。
 
 まず、柳生宗矩については、「『活人剣』を提唱し、戦場での一技法に過ぎなかった武術としての剣術に、『活人剣』『剣禅一致』などの概念を組み込むことで、人間としての高みを目指す武道に昇華した」とされています。また、「無刀」については、
「吉川英治の小説『宮本武蔵』、それを原作とした漫画『バガボンド』の影響もあり、一種の悟りの境地、あるいは平和主義的な思想として捉えられる事もあるが、この伝書内で語られる『無刀』は、『わが刀なき時、人にきられじとの無刀也』とある通り、”刀がない状態で危機に陥った際、如何に対処するべきか”という実用重視の護身術的なものである。ただし、宗矩の父・石舟斎は『兵法百首』において『無刀にて きはまるならば 兵法者 こしのかたなは むよう成けり』と歌っており、全く論拠のない創作とも言いがたい部分もある。」とされています。

 この点について、私は、『兵法家伝書』それ自体を読む限りにおいても、「無刀」を単なる『実用重視の護身術的なもの』とだけ狭く捉える事には無理があると思います。なぜなら、宗矩自身が、「無刀は、当流に、是を専一の秘事とする也。身構え、太刀構え、場の位、遠近、うごき、はたらき、つけ、かけ、表裏、悉皆無刀のつもりより出る故に、是簡要の眼也。」と述べおり、まさしく、この「無刀」こそ、新陰流の眼目・奥義を示すものとしているからです。
 すなわち、新陰流のあらゆる術・理に本源とする極意とは、たとえば、「身をばてきちかくふりかけて懸になし、太刀をば待になして、身足手にて敵の先をおびき出して、敵に先をさせて勝つ也」(「表裏をしかけて、敵に手をださせて勝つべき用」、「打にうたれよ、うたれて勝つ心持」、「おそろしげもなく、敵の身へちかづきて、うたせて却而勝つなり」等々)との言葉に表されるとのことですが、これに対して、「無刀」とは、間を極めることにより、相手に接近して、(「機前の兵法」―――敵の気をよく見、予測することによって)相手の「太刀のわが身にあたる座にて取る」つまり「きられてとる」、すなわち、「・・・人の刀をとり、もし又必ずとらず共、おさえてきられぬが勝」とするものです。こうして、両者を比較検討すれば、まさしく、「無刀」とは新陰流の奥義を究極にまで突き詰めた姿にほかならず、そして、それは、先手・先手とこちらから打ち掛かり、相手を斬り殺すことによって勝とするのではなくて、「無刀」の<位>によって相手を制圧し、「切られないこと」をもって勝とするものにほかなりません。ですから、この境地にあっては、自己防衛(「きられぬこと」)が、扇一本あるいは素手によってさえ、相手を殺さずに実現されるわけですから、これを「平和主義」と表現しても、当たらずとも遠からずと言って良いだろうと思うのです。

 足元で寝ている、サロさん!続きはお昼ご飯の後にしますわ。
スポンサーサイト



コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

SARO MURIKI

Author:SARO MURIKI
おりこうさんのワンワンです。年齢は、2018年11月現在満12歳です。見てのとおりの柴ですが血統書はありません。性別はオスで、飼い主には、朝夕、45分ずつ2回の散歩を義務付けているVIP犬、正確に言うと、VIDです。文句あっか?!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
ワン・クリック・エリア
おもしろかったらクリックしてね!
にほんブログ村 犬ブログ 柴犬へ
にほんブログ村 にほんブログ村 格闘技ブログ 剣道へ
にほんブログ村 にほんブログ村 政治ブログ 平和へ
にほんブログ村
リンク
QRコード
QR
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる