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SAMURAI SPIRIT・宮本武蔵・剣の理法の探求(1)

 我<しもべ>たる飼い主は、今結構仕事が大変らしけれど、素振りなんかしている時はとても楽しそうなんだ。あと、散歩の時なんかも、大またで踏み出したり、急に左右前後に動いたりするけれど、あれは足さばきの練習なんだって。何が面白いんだろうね。

 さて、私が剣道を始めた頃まず感じたのは、「おお、うまくなっていく!」という技術習得の面白さと、「おお、(この齢で)体が喜んでいる!」という身体的快感でした。実に、楽しく、さわやかで、次の稽古日が待ち遠しくてならないくらいでした。そして、そうしたなか、私が初めて読んだ剣道関連の本が、宮本武蔵の『五輪書』だったのです。

  読後、武蔵という人物は、頑固で気難しく付き合いにくい人物だったんだろうなと思う一方、それは、学生時代に読んだ『葉隠』とは印象を全く異にする、いわば「近代」的な、さらに言えば、普遍的-歴史貫通的な人間の「主体性」を感じさせてくれる、大変魅力的なものでした。学生時代の私にとって、『葉隠』的<武士道>は、「武士道といふは、死ぬ事と見附けたり」 という言葉に象徴されるように、極めて短絡的・観念的な印象を与えるばかりではなく(こうした短絡的把握への批判は、武蔵の『五輪書・地の巻』はもとより、沢庵『玲瓏集』、勝海舟『氷川清話』そして、山岡鉄舟『修養論』などにもはっきり見られます)、それは、「小姓の武士道」あるいは平和な時代の「主人もちの思想」、殿様の命令で「小姓」役すら喜々として勤め、上役の命令に唯々諾々と服従して死地に赴く「(小)役人」、すなわち、封建的な「支配―<隷属>」関係・「命令-<服従>」関係をさらに「人格的依存」の水準で受容した、『役人』・『兵士』の、(「仁義礼智信」というよりは)「忠君愛国」といった徳目でかざられた、従者の「覚悟」としか感じられませんでした。

  これに対して、武蔵の「兵法」(武士)の道は、もっと<主体>的で、近代的な「自己実現」のそれに近い、「剣」一筋で身を立て、一国一城の主たらんとする意志さえ感じられるものでした。武蔵は、他の諸芸・諸能の道(仏・儒・医・和歌などの道、そして、農・工・商の道)との対比において、まさしく「兵法」の道を<理論>として確立し、その道を極めようとしました(「求道」精神。この対比において、各々の道は「対等」なものと把握されるばかりではなく、かえって、兵法はその追及の深さにおいて他の諸道に遅れをとっているとさえ認識されていたのです。)そして、兵法について、次のように述べられます。
 「大形の武士の思う心をはかるに、武士は只死ぬるという道を嗜む事と覚ゆるほどの儀也。死する道におゐては、武士斗(ばかり)にかぎらず、出家にても、女にても、百姓己下(いか)に至る迄、義理をしり、恥をおもひ、死する所を思ひきる事は、其差別なきもの也。武士の兵法をおこなふ道は、何事におゐても人にすぐるゝ所を本とし、或は一身に切合にかち、或は数人の戦に勝ち、主君の為、我身のため、名を上げ身をたてんと思ふ。是、兵法の徳をもってなり。」

  武蔵は「剣術実(まこと)のみちになって、敵とたたかひ勝つ事、_此(この)法聊(いささ)か替わる事あるべからず。」(火乃巻)とも述べていますが、彼にとって、兵法が兵法であるとは―――宗教家が人を救い、医者が病を治し、歌道者が和歌の道を教えるように―――、いわば<武>の専門家として、狭義においては、まず個別的な戦闘において勝つことこそが重要なのです。彼は、さらに、広義の兵法(=「政治」)についても次のように言っています。少し長くなるが引用しておきましょう。
 「此法を学び得ては、一身にして二十三十の敵にもまくべき道にあらず。先ず気に兵法をたえさず、直なる道を勤めては、手にて打ち勝ち、目に見える事も人にかち、又鍛錬をもって惣躰自由(やわらか)になれば、身にても人にかち、又此道に馴れたるこころなれば、心をもって人に勝ち、此所に至りては、いかにとして人にまくる道あらんや。又大きなる兵法にしては,善人(よきひと)を持つ事にかち,人数をつかふ事にかち、身をたゞしくおこなふ道にかち、国を治むる事にかち、民をやしなふ事にかち、世の例法をおこないかち、いづれの道におゐても、人にまけざる所をしりて、身をたすけ、名をたすくる所、是兵法の道也。」(地乃巻)

  このように、武蔵にとって、兵法の根本とは、たたかいに「勝つ」ことに他なりません。ここには、何か一般的・抽象的な道徳的目標のために兵法があるという道学者的な理由付けはありません。それは、医、和歌、大工などの専門家としての道が、たとえば、「忠君愛国」の為にあるのではないのと同じでしょう―――もちろん、それらの道が、さまざまな時代や地域において、より広い<共同体>や<国家>或は<神>に関係づけられることはよく見られることでしょうが。これに対して、武蔵の場合、もしなんらかの目標があるとすれば、それは、並列におかれた主君と我身の「立身」・「功名」ということになるでしょうか。そして、こうしたスタンスのもとで、必勝不敗の身体的・精神的諸条件の徹底的に合理的な探求が行われたわけです。そして、これこそが『五輪書』の持つ最も大きな特徴であり、魅力ということができましょう。

  もちろん、こうした勝利に徹底的にこだわる姿勢は、明らかに、『平家物語』の「武士道」(それは<武>に携わる同業者間のシンパシーに基づくものだ)とも、柳生宗矩の「武士道」(活人剣)とも異なっているといえるでしょう。そして、それは、「兵法勝負の道におゐては、何事も先手々々と心懸くる事也。」(風乃巻)という表現に見られるように、「平和」の追求どころか、専守防衛ならぬ「先手必勝」の先制攻撃論を、手段を選ばない奇襲をはじめとするとするさまざまな謀略-「はかりごと」を当然視させるに至るものかもしれません。そして、現実の歴史においても、『五輪書』の記述は、美しく飾られた目的に正当化されつつ、確かにそうした読み方もなされてきたはずです。

  しかし、それでいいのか。現代において、私たちは、『五輪書』をどのように読むことが出来るのか、その魅力はどこにあるのか。次回は、それを再度考えてみたいと思います。    サロさん。君、本当に元気だねえ。
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プロフィール

SARO MURIKI

Author:SARO MURIKI
おりこうさんのワンワンです。年齢は、2018年11月現在満12歳です。見てのとおりの柴ですが血統書はありません。性別はオスで、飼い主には、朝夕、45分ずつ2回の散歩を義務付けているVIP犬、正確に言うと、VIDです。文句あっか?!

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