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義理と人情と平和主義(1)―人生をどう総括するか?

ベートーヴェン第9交響曲
      「歓喜の歌」から考える





  ※この前、僕は、獣医さんのところに行って、予防注射を打ってきたんだよ。その時、獣医さんに「太りましたねえ。12.1キロもありますよ。何しろ食事を減らすことですね!」って言われたんだよ。確かに、サーヴァントさんは最近何故か〈超〉優しくなってきていて、チョイと催促するとホイホイと食べ物をくれるんだよね。お互い、食べることが大好きなんだけれど、実にいい傾向だね


   さて、老い先短いこの歳になると、改めて、これまでの自分の〈人生〉とは何だったのかとか〈最後の時〉に何を思うのだろうとか、若干「哲学」的あるいは「宗教」的なことを考えてしまうこともあるものです。勿論、最も理想的な死の姿とは、〈寿命〉を全うし、自らの「生きる力」を燃焼し尽くして、「眠るように」生涯を終えることなのでしょうが、周りを見回せば、病気や事故や戦争など、そうした幸運(=老衰死)を手に入れることは非常に難しいようです。そうしますと、神や仏の存在を信じ、「絶対他力」で、死後、極楽や天国に行けると信じることができる人は別ですが、私のようにそれができない人間にとっては、やはり、〈最後の時〉に、それまでの自分の人生に「喜び」や「楽しみ」や「満足」を感じることができるかどうかは決定的に重要な意味を持つと思われるのです。勿論、『平家物語』で描かれている平清盛をはじめとする〈エリート〉たちの「死に様」が実に多様であるように、人々のそれらに対する〈価値〉意識は、時代や文化、階層そして個人的資質などによって極めて多様であり得ることでしょう。ただ、普通の〈一般ピープル〉にとってのそれがなんであるのかを考えてみると、それは、「やりたいことをやり切った」とかいったより個的な「充実感」よりは、対〈他〉的な関係性におけるそれが圧倒的に重要であるように思われるのです。私が聞いた母の最期の言葉は「お父さん」でしたが、〈一般ピープル〉たる私も「いやあ、うまいものを思う存分食べることができて幸せだった!」とか、「死への旅路は人生最期のアドベンチャー。おもしろそー!」とかは考えそうもないのです。

   ところで、私たちは、〈優しい母〉や〈親切な隣人〉そして〈美しい故郷の自然〉などを、努力せずとも「与えられる」場合があります。そして、そうした場合には、私たちは、自らの人生に〈喜び〉や〈楽しみ〉や「満足」を与えてくれたこうした人々や自然に〈感謝〉しつつ(「ありがとう!」)逝くことができることでしょう。しかし、人間の悲しい「性」(?)で、そうした理想的な〈関係性〉は予定調和的に実現されそうもないのです。つまり、そうした関係性は、まさしく、「審判の日」までに、自らの人生の中で「勝ち取る」べく努力しなければならないものとも言えそうなのです。今回は、こうした点について私が考えたことを述べてみたいと思います。

   私が中学生(か高校生)の頃、年末、テレビで、ベートヴェンの第9交響曲(『合唱』)を視聴しました。字幕にはシラーの詩が出ていましたが、私は、その時はじめて、「あ〜っ!こういう意味だったんだ!?」という強烈な印象と、また、妙な違和感を覚えたのを記憶しているのです。当時の私にとって、ベートーヴェンの『喜びの歌』とは、学校で習った、岩佐東一郎作詞の「晴れたる青空ただよう雲よ 小鳥は歌えり林に森に 心はほがらかよろこびみちて 見交わすわれらの明るき笑顔 花咲く丘べにいこえる友よ 吹く風さわやかみなぎる日ざし 心は楽しくしあわせあふれ 響くはわれらのよろこびの歌」であったわけですが、その美しい自然を満喫するがごとき『田園』的内容とテレビの字幕の落差は一種衝撃的なものであったのです。とりわけ印象に残ったのは以下の部分です。手持ちのライナーノートから引用してみましょう(訳:喜多尾道冬)。

     心の通じ合える真友を得るという
     むずかしい望みのかなったものも、
     気だてのやさしい妻をめとることができたものも、
     よろこびの気持ちを声に出して合わせよ!
     そうだ、この広い世の中でたったひとりでも
     心をわかち合える相手がいると言えるものも和すのだ!
     だがそれさえできぬものは、よろこびの仲間から
     ひと知れずみじめに去っていくがよい

   
   まず、印象的だったのは、もう聴覚を失っていたというベートーヴェンがその最後の交響曲において同胞(友)に呼びかけた最後のメッセージが、人生にとって「一番」大切なこと(喜び)は、友や配偶者など、本当に心を分かち合える人を持つこと、あるいは、そうした〈関係性〉を「勝ち取る」ことにある、というものでもあったということです。勿論、そうした〈関係性〉を「勝ち取る」ためには、自らが「本当に心を分かち合える」人間であるよう努める必要があるでしょう(そして、そのことが実に難しい!)。こうしたべ−トーヴェンのメッセージは、過酷な「運命」に負けることなく、まさしく、「喜びに勇み、勝利の大道を歩む英雄」のように生きた彼の姿を想うと、とりわけ、意味深く感じざるをえません。そして、こうした〈人生〉への価値意識は、今、古今東西の様々な文学・哲学・思想などを振り返り見ても、また、「功」成り名を遂げた人々の不安そうな表情や苦悩の末に死を選ぶ著名人、そして、死を間近にして〈同胞〉のために「歴史の真実」を語り出す人々のことを考えてみても、人間にとって最も重要なものなのではないかと思われるのです。

   次に違和感を感じたことですが、それは、そうしたことに失敗した人々に対して、「えっ?追い出しちゃうわけ!ベートーヴェンって結構「冷たい」んじゃない!」、と感じたことです。勿論、詩全体の意味は、神ー自然が人間に与えてくれる〈喜び〉・〈楽しみ〉を全ての人々(もろびと)が共有し、同胞として互いに抱き合うことへの呼びかけであり、また、人々を冷たく引き裂くこの世の中のしきたりの中においてすら感取できる〈喜びと愛〉こそが「神」と「楽園」の存在を証明するものだという一種の信仰告白と言えるものでしょう。しかし、この、いわば、人間を「勝者」と「敗者」に二分し、敗者を「排除する」といった感覚には、当時も今も、違和感を感じざるを得ないのです。そして、それは、個人的な性格的差異に帰することもできましょうが、おそらく、私が吸収してきた「文化」に大きな関わりがあると思われるのです。つまり、私の中には、儒教的「性善説」や仏教的「運命・宿命」観、神道(アニミズム)的「神」ー「人」の観念など、東洋的と言っていいかもしれない感覚があって、それが「敗者」あるいは「悪者」を自分と結びつけ、簡単に切り捨てるのを抑制するのではないかと感じるのです。次回のブログで予定している、「基本的人権」や「国民主権」の観念を、私のより基底的な価値観に近いと感じられる「義理」・「人情」の観念で表現してみようという発想も、こうした一種の違和感によると言って良いのです。勿論、多様な「文化」的差異の中にこそまた「普遍」的なものが存在するだろうという予感を前提としてなのですが。

   長くなりましたので、今回はこの辺で切り上げますが、私の人生の「総括」は、万物とりわけ全ての〈命〉との相互的な依存関係を前提としつつも、やはり、最も身近な人々とのそれによってなされるだろうと思われるのです。そして、神や仏によって救済されることを信じることができない私にとっては、その「総括」がなんらかの意味で〈肯定的〉であることが、私にとっての「極楽」や「天国」への道を指し示すことになると思われるのです。しかし、愛し信頼する人々に対して、いつも「◯◯ すまねえ。許してくれ。」と言い続けざるを得なかった私に〈肯定的〉な答が得られるのでしょうか。それはわかりません。しかし、恐らく、その成否は、過去の反省に基づいて、今日これからの毎日を〈真〉に「楽しく」・「喜び」に溢れたものに出来るのかどうかにかかっている、と言う他はないと思うのです。

   サロさん!今日はいい天気で、気持ちがいいねえ!

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SARO MURIKI

Author:SARO MURIKI
おりこうさんのワンワンです。年齢は、2018年11月現在満12歳です。見てのとおりの柴ですが血統書はありません。性別はオスで、飼い主には、朝夕、45分ずつ2回の散歩を義務付けているVIP犬、正確に言うと、VIDです。文句あっか?!

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