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古典芸能に触れ、感じたこと―――歌舞伎・狂言・能

日本人の〈心情〉に迫る迫真の演技
        ―――個性的であることの「普遍性」



  ※5月8日(金)の夜、妻に勧められて、歌舞伎『絵本太功記 尼崎閑居の場』(NHK「日本の芸能」)を観ました。副音声で高木英樹氏の解説を聞きながらの視聴でしたが、吉右衛門の武智光秀や又五郎の佐藤清正の豪快な演技をはじめ、大変見応えのある番組でした。とりわけ興味深くを感じたのは、『絵本太功記』の中でも最も人気があったというこの場面で感じられた、武智光秀に対する浄瑠璃作者や観衆の「評価」についてでした。つまり、彼らは、決っして織田信長や羽柴秀吉の「ファン」なのではなく、母と息子を死なせ「堪えかねたる」と大泣きしつつも、「大義なき戦」にではなく(!)、あくまでも「義」に立って、散っていった剛毅な光秀に魅せられていたのではないか、ということなのです。それ故にこそ、あの場面で彼を死なせることはできなかったのではないか。芭蕉や近松があの木曽義仲のファンであったことはどこかで読んだ記憶があるが、こうした江戸時代の一般ピープルの価値意識とは、単なる「判官贔屓」ということではなく、まさしく、頼朝や信長や秀吉や綱吉など、〈支配者〉・〈権力者〉に対する批判的意識であったのではないかと改めて感じたのです。

   さて、私は、今年に入ってから、家族の勧めもあって、日本の古典芸能のいくつかを見ております。今日のブログは、それについて簡単に書き記しておきたいと思います。


 ◯狂言『咲嘩』(野村万作ほか)
    『悪太郎』(野村萬斎ほか)――1月24日、埼玉会館


  ※狂言は以前にも見たことはありましたが、今回は、映画『のぼうの城』―――この城(忍城)は「ここら辺りの」城でござる―――で好演を見せた野村萬斎の演技を観に行きました。ここでも、一般ピープルにとって「悪」とは何かが興味をそそりました。

 ◯歌舞伎『一谷嫩軍記 陣門・組打』(中村吉右衛門ほか)、
     『神田祭』(尾上菊五郎ほか)  
     『水天宮利生深川』(松本幸四郎ほか)
                 ――2月14日、歌舞伎座


  ※それにしても、歌舞伎の舞台で見る「馬」というのは実に愛らしいものです。あれ以上、どう表現すれば良いのでしょうか。また、『一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)』では、熊谷次郎直実が我が子小次郎を敦盛の身代わりにしたという設定になっているのですが、こうした『平家物語』のディフォルメがどのような効果と(批判的)意味を持つのかを、「熊谷陣屋」の場をも踏まえて、もう一度熟考してみたいと感じました。『神田祭』の舞踏もいいですねえ!今年は、神田明神に行きたいと思っています。最後に、『水天宮利生深川(すいてんぐうめぐみのふかがわ)』ですが、今の格差社会の一面をも抉るような幸四郎の熱演は、妻が「あそこまでやらなくてもいいんじゃないかしら。鬱になりそう!」と言った程だったのですが、私は「松たか子の親父!よくやった‼︎」と掛け声をかけたくなりました。誇張はされていますが、私には、主人公の絶望感がなにかよくわかるような気がしたのです。

 ◯文楽『花競四季寿 万才/海女/関寺小町/鷺娘』、
    『天網島時雨炬燵 紙屋内の段』
                 ――2月27日、東京国立劇場


  ※文楽(人形浄瑠璃)を実際に見るのは今回が初めてだったのですが、私はその素晴らしさに感動し、後日、わざわざ、企画展示「文楽入門」(国立劇場伝統芸能情報館)を見に行ったくらいでした。まず、義太夫節と三味線が素晴らしい!その〈個性〉的な日本音楽が与える効果は絶大で、音楽の持つ力を改めて実感させられました。もちろん、人形たちの表情や巧みな人形操作よるその表現はまさしく最高水準のものと感じられました。内容的には、『花競四季寿 万才/海女/関寺小町/鷺娘』で表出された、微妙な変化の中に美しさや意味を感じ取る〈感性の細やかさ〉に、「ああ、これが〈日本〉的な感性なのではないか」と強く感じたところです。また、『天網島時雨炬燵(てんのあみじましぐれのこたつ)』は、近松の名作『心中天網島』の改作版なのですが、ここでも「人情」に厚い妻おさんと小春との「〈義理〉」の立て合いの〈悲劇〉が話の中心であろうと思われました。そこには封建的道徳を突き抜けた〈かっこよさ〉が感じ取れるのです。文楽は、是非、もう一度見に行きたいと思います。

 ◯狂言『昆布売』(万作、裕基)、
    『宗論』(萬斎、石田幸雄)
     素囃子『黄鐘早舞』
    『祐善』(萬斎ほか)――3月29日、国立能楽堂


  ※能楽堂の舞台を間近に見ると、確かに、大ホールでの舞台とは一味違った印象が感じられます。『昆布売』は人間国宝・万作と孫の裕基との共演で、裕基は上手いとは言えないでしょうが、その初々しさと勢いは「昆布売」に適役だったのではないでしょうか。また、浄土宗と法華宗の僧侶同士の対立を面白おかしく表現し、最終的には、いかなる愚かな人間にも仏性が宿っているという人間賛歌で終わる『宗論』は、昨今の世界的な宗教的対立の状況を考えた時、その意義はなかなかなものと思われました。さらに、素囃子『黄鐘早舞(おうしきはやまい)』は、笛・小鼓・大鼓という日本楽器の素晴らしい音色と表現力を聞かせてくれ、大いに楽しませてもらいました。最後の『祐善』は、自身の傘が日本一の下手と評され、無用に扱われて狂い死にし地獄に落ちたものの、僧の回向で成仏できた傘張職人の話なのですが、これなども、何か、現在の日本人にも通じるものを感じさせられました。

 ◯狂言『物見左衛門 花見』(万作)、
    能『嵐山』(観世芳伸)、
    間狂言『猿聟(三宅右矩)――4月22日、国立能楽堂


   
   ※季節が春だったこともあって、娘と一緒に、桜に関する狂言と能そして間狂言を楽しんできました。私は、なぜか、山部赤人の「ももしきの大宮人はいとまあれや桜かざして今日も暮しつ」(『新古今和歌集』)という句を覚えているのですが、それにしても、日本人は昔から桜が好きだったようです。能『嵐山』の内容については、the能ドットコム(http://www.the-noh.com/jp/plays/data/program_068.html)などを参照願えればと思いますが、今回、特に強く印象に残っているのは、吉野の木守(こもり)の神と勝手(かつて)の神の踊りです。ゆっくりとしたテンポにもかかわらず、その姿に私はすっかり魅せられてしまいました。それは、ラベルの『ボレロ』をはるかに凌ぐものと感じました。また、囃子方の演奏は能の大きな構成要素であり、私にとって大変魅力的なものに思われました。私は、日頃、世阿弥の「秘すれば花」ならぬ、「秘するは恥ばかり」などと戯言を口にしているのですが、余裕があれば、是非、また、能を観に行きたいと思っています。


   ということで、「日本の古典芸能」に関する私の印象は極めて肯定的なものなのですが、ただ、わたしは狭隘な「日本主義者」になるつもりは全くありません。私は、個や特殊と離れたところに類や普遍は存在せず、また、多様な特殊的なるものを媒介せずしては普遍的なものには到達しえず、また、普遍的なるものは必ず個別的・特殊的なるものの中にも存在するだろうと考えているからです。それ故、私が「日本の古典芸能」を楽しむことができるのならば、きっと、「世界の古典芸能」をも楽しむことができるに違いないと思うからです。



春の能楽堂
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SARO MURIKI

Author:SARO MURIKI
おりこうさんのワンワンです。年齢は、2019年11月現在満13歳です。見てのとおりの柴ですが血統書はありません。性別はオスで、飼い主には、朝夕、45分ずつ2回の散歩を義務付けているVIP犬、正確に言うと、VIDです。文句あっか?!

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