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SAMURAI SPIRIT・柳生宗矩の『無刀』の心とは(2)

  僕は、我<しもべ>たる飼い主と一緒で、花粉症があるんだよ。おまけに、アレルギーで耳が痒くなることもあるので、おやつはイモ類だけなんだよ。でも、昨日は、とうとう耳がおかしくなって、頭の形が鉄腕アトムみたいになっちゃったんだ。夜の散歩で動物病院によってチック2本(汗)、そして、薬ももらってきたんだ。早く直ると良いんだけど。さて、我<しもべ>たる飼い主、続きは書けたのかな。

  もちろん、『兵法家伝書』における「活人剣」の思想は、武力行使や殺人そのものを否定しているのではありません。逆に、それをある意味で正当化しようとしたものともいえましょう。宗矩は次のように言っています。
 「古にいえる事あり。『兵は不祥の器なり。天道之を悪む。止むことを獲ずして之を用ゐる,是れ天道也』と。」すなわち、「一人の悪に依りて万人苦しむ事あり。しかるに、一人の悪をころして万人をいかす。是等誠に、人をころす刀は、人をいかすつるぎなるべきにや。」また、「人をころす刀、却而(かえって)人をいかすつるぎ也とは、夫れ乱れたる世には、故なき者多く死する也。乱れたる世を治める為に、殺人刀を用ゐて、巳(すでに)に治まる時は、殺人刀即ち活人剣ならずや」と。
 ここには、自分たちの武力行使と殺人は、万人を苦しめる悪を倒し、乱世を平定することによって、多くの人々を生かすためのもだという「活人剣」の「理想」が語られています。もちろん、こうした「理想」は、封建的支配層の、さらに、天下を平定した徳川家臣団の欺瞞的な自己正当化に過ぎないということも可能であると思います。そして、こうした観点からは、自己権力の確立・維持のために、高い理想(「厭離穢土 欣求浄土」・「活人剣」など)を振りかざしながら、「虚心」かつ「自由自在」に権謀術数を行使し、敵を掃討していった宗矩像が描かれるかもしれません。
 しかし、私は、こうした彼の「言い訳」の中にこそ、「平和」を志向する彼の基本的な姿勢が伺えると思うのです。すなわち、彼の議論の前提には、道教(や儒教)の「天道(物を殺さず生かす)」思想や禅の思想などを見出すことができますが、大切なのはそうした人類共生の「理想」を基本的に受け入れた彼の姿勢あるいは資質にあると思うのです。彼は、もともと争いごとや「殺人」を好まない人物だったにちがいありません。彼は、兵法の根本たる「略(はかりごと)」についてさえ次のように言わずにはいられないのです。
 「表裏は兵法の根本也。表裏とは略(はかりごと)也。偽りを以って真を得る也。・・・略は偽りなれ共、偽りをもって人をやぶらずして(害することなく、相手をいため傷つけないで)勝つときは、偽り終に真と成る也。」
 さらに、彼は、こうした「志向性」を極めて大切なものとし、それに忠実たらんとしたと考えられます。すなわち、宗矩は長男の十兵衛を廃嫡にし、さらに、新陰流の後継者を鍋島元茂としていますが、それはなぜだったのでしょうか。彼は『兵法家伝書』の中で次のように書いています。
 「兵法は人をきるとばかりおもふは、ひがごと也。人をきるにはあらず、悪をころす也。一人の悪をころして、万人をいかすはかりごと也。今此三巻にしるすは、家を出でざる書(注:門外不出の秘書)也。しかあれど、道は秘するにあらず。秘するは、しらせむが為也(注:流儀の術・理を秘伝とするのは、道統の純粋さを守り、真に伝えるに足る人物にこれを伝えたいためである)。しられざれば、書なきに同じ。子孫よく之を思へ。」
  こうした内容から推し量ると、十兵衛は、宗矩にとって、「道統の純粋さを守り、真に伝えるに足る人物」ではなかったということになります。さすれば、いわゆる十兵衛の「行状不良」の中には、たとえば、強さを求めて果し合いなどを好む性向のごときものがあり、そして、そうした性向は、石舟斎から宗矩へと受け継がれた(究極的には『無刀』に到る)「活人剣」の思想とは相容れなかったと考えるほかないのではないでしょうか。宗矩は、勝海舟のように「殺人」それ自体を否定するほど徹底していたのではありませんが、明らかに、「平和」を志向する性格類型に属する人物だったといえるでしょう。
  私が最も評価する本の一つに元アメリカ陸軍士官学校教授のデーヴ・グロスマンの『戦争における「人殺し」の心理学』があります。そのなかで、彼は、「人間に生来備わっている同種殺しに対する強力な抵抗感」(平均的な人間には、同類たる人間を殺すことへの抵抗感が存在する)について述べるとともに、2%の「生まれながらの兵士」=殺人嗜好者(強制された場合もしくは正当な理由を与えられた場合、後悔や自責の念を感じずに人を殺すことが出来る)の存在を指摘しています。さらに、彼は、アメリカ精神医学会『精神障害の診断と統計の手引き』第三版によりながら、国内男子のおよそ三パーセントにあたる、攻撃性の高い、自らの行為が他者に及ぼす影響に自責の念をもたない<反社会的人格障害者>(社会病質者)の存在を指摘した上で、次のように述べます。
「攻撃性には遺伝的素因がある。このことは有力な証拠で裏付けられている。・・・しかし、この素因が完全に発達して攻撃性となって現れるには、環境的な要因も作用する。つまり、遺伝的素因と環境的要因とがあい待って人は殺人者となるわけだ。だがそれだけではない。他者への感情移入能力の有無という要因もある。この感情移入の能力にも、おそらくは生物的および環境的要因が働いているだろうが、どちらに起因するにせよ、他者の痛みを感じ理解できる者とできない者がはっきり分かれることはまちがいない。攻撃性があって感情移入力のない者は社会病質者となる。いっぽう攻撃性はあるが感情移入能力もある場合は、社会病質者とは全く異なる種類の人間になるのである。」
  私は、武士のような強大な武力を持ったものが、自己利益の実現のために、何のためらいもなく、粗野でむき出しの物理的強制力を行使するといったことは、危険極まりないものと考えます。そうした意味において、柳生宗矩が、身を立て名を上げるために、敵を斬り倒し、自らの強さを誇って獅子吼をあげるといった人物ではなかったこと、そして、さらに、彼が自らのそうした志向性を思想にまで高め、他の武士たちに大きな影響を与えていったことは、極めて幸いなことであったと思います。
  確かに、新渡戸が言うように、「人の中にある戦いの本能は普遍的かつ自然的」なことであり、さらに、グロスマンが言うように、少数ではあっても「殺人」を好む社会病質者さえ存在しているかもしれません。しかし、他方、人間のなかには、古今東西の優れた思想家、哲学者、宗教家そして科学者たちが見事に抽出して見せたような、同類に対する哀れみ、慈悲、愛、共感等々が存在することも確かなことに違いありません。そして、わが国の歴史にあっては、まさしく「武人」のなかに、人間にとってけっして「善」ではありえない暴力の痛み、恐怖、残酷さを最もよく知り尽くす者として、両者の矛盾を乗り越え、“理想”の“平和”を強い意志をもって希求する人間を輩出してきたのです。たとえば、宗矩と同じ新陰流の流れにある「無住心剣術」における「相ヌケ」は、まさに、激しい修行の末に、その生死を分ける一瞬において、お互いが「打てない、打たれない」の境地に到達しようとしたものと言われています。(これについては、甲野善紀『剣の精神史―――無住心剣術の系譜と思想』などを参照してください。)
  最近力を増しているようにも思われる、商業主義的で、粗野な、暴力礼賛的風潮に対し、これまでみてきたように形成・継承されてきた日本武道のSAMURA SPIRIT―――『平和主義』―――は、まさしく、世界武道の『華』として、これからも人々を魅了し続けるにちがいないと私は思っています。(次回は、『五輪書』を読みながら、「剣の理法」について考えます。)

サロさん、耳は大丈夫かな。気晴らしに、散歩にでも行きますか?

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SARO MURIKI

Author:SARO MURIKI
おりこうさんのワンワンです。年齢は、2018年11月現在満12歳です。見てのとおりの柴ですが血統書はありません。性別はオスで、飼い主には、朝夕、45分ずつ2回の散歩を義務付けているVIP犬、正確に言うと、VIDです。文句あっか?!

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