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SAMURAI SPIRIT・宮本武蔵・剣の理法の探求(3)

  ところで、武蔵の「求道」的姿勢は認めるにしても、彼の「(軍事的)勝利至上主義」といっていい兵法の具体的あり様は、あまり<美しい>ものではなかったかもしれません。たとえば、小説や映画に描かれる吉岡一門との戦いなどはその一例でしょう。ただ、事実がどうだったとしても、武蔵が強調した「勝つ」事へのこだわりは、彼が生きた「戦国時代」という時代状況、そして、彼が属した階層の性格を考えれば、十分理解しうる範囲内にあるといえるでしょう。彼らは、「社会病質者」や「粗野な乱暴者」たちを含む武装した「敵」と白兵戦を闘ったのであり、そして、そもそも、「人殺し」をともなう戦争や闘いが美しいことなどあろうはずはないからです。
  
   しかし、今回、私は、『五輪書』や島田美術館所蔵の『宮本武蔵像』(自画像?)などを見直していくことで、やはり、その中に、武蔵の追求した<合理性の美しさ>や「求道」の到達点を見出すことが出来たと感じているのです。たとえば、『五輪書』・「水乃巻」で武蔵が描いて見せた、生死を決する<一撃>の有様を想像してみると、それは、まさしく「気剣体」の一致した<美しい>一撃に他ならないように思われるのです。勿論、荒ぶる行為・実践の中から、<美しいもの>が生まれ出るとすれば、それは、いわゆる「求道的な精神」を媒介にしてしか可能ではないと私は思います。それは、ただ自分だけが勝てばいいというのではなく、他者をも感動させるような、精神的・身体的に<完成>された、<天晴れな>一撃(「一本」)であり、それへ向かっての努力です。それらこそ『五輪書』が示してくれているものでしょう。そして、それは、「剣道」という特定の領域の中で追求されながらも、さらにそれを通して<普遍>へと到る、極めて大切なものを私たちに示してくれているに違いありません。
  ところで、武蔵が現代に生き、その「求道精神」を現代剣道に適用した場合、それはどのようなものになったのでしょうか。勿論、現代における「剣道」は実際の争いの中で相手を殺傷することを目的とするものではありません(そのような目的を設定すること自体現実的な「合理性」を持たないでしょう)。しかし、武蔵のそれは、あくまでも、「剣の理法」の徹底的に合理的な追求になったであろうと考えられます。そして、そうした道の追求からこそ、逞しく美しい技、志を同じくする者同士の相互的な尊重、そして、共に生きる-「平和」の境地が示されることになったのではないでしょうか。
  新渡戸稲造は、日本においては、「武士道」が、キリスト教のような宗教に代って、<倫理的・道徳的>なものを提供することが出来たと述べていますが、「武士道」が様々な宗教や思想の影響の下に形成されたのは事実だとしても、それは、あくまでも、日本武道の「求道精神」こそが、<主体的に>そうした<倫理的・道徳的>なものを掴み得たということだと思うのです。そして、それは、ギリシャにおける(平和の祭典たる)オリンピック精神や西欧で発達した「スポーツ」のフェアプレーの精神(それとキリスト教との関係はわかりませんが)と共通するものを持つのだとも考えられましょう。

  それでは、最後に、宮本武蔵と「平和」との関係を検討しておきます。ところで、NHK-BSの「SAMURAI SPIRIT」は、「平和」を求める沖縄空手の精神の中に、いわゆる「武士道」精神があったのではないかと示唆していますが、この指摘は、歴史的に考えるならば、大いに疑問だといわざるをえないでしょう。そうではなく、問題のポイントは、沖縄空手も剣道も、共に、同じ「武道」としてのあり方の中から、その究極的な目標としての「平和」を掴み得たのではないかということなのです。甲野善紀氏は、無住心剣術に関連させて、次のような見解を明らかにしています。
  「・・・日本の武士は『人を殺す』という極悪行為に対するひけ目や怯みを払う独特の思想を形成させていったが、やはり人間である以上そのことに対して本能の奥底に強い抵抗があったことは当然であろう。そうした武士たちの心の奥底の思い―――武を肯定しつつも、人を殺さずに済ませることを願う―――に具体的な形で答えたものが、無住心剣術の特色として日本剣術史上著名な「相ヌケ」であろう。」(『剣の精神誌』)
  ここは、無住心剣術について論じる場ではありませんが、私は、剣の達人たちの著作の中に、同様な心のメカニズムを感じることができるのです。つまり、「剣の理法」追求の<直接的な>到達点は剣によって人を殺して勝利を得ることですが、日本の「武道」家たちは、さらに、こうした「武道」の否定的側面を止揚して、「人を殺さずに済ませる」―「共に生きる」というところまで進もうとしたということなのです。先に、人殺し・戦争・闘いが美しいはずはないと書きましたが、もしそれらが正当化されるとすれば、それは、殺人をも正当化する、家族や同胞そして共同体や国家の為に払われる献身や自己犠牲であったことでしょう(ただ、これらの側面を政治的に利用し、自らは安全な場所にいながら、そうした側面を一般的・抽象的に声高に強調し、人を死地に追いやることほど<醜い>ことはないのですが)。実際、ごく普通の人々にとって、武を志す理由のほとんどは、自分や仲間・家族を守る為であったと思われます。しかし、そうした防衛的行為とそれへの献身は、必ずしも、「殺人」を必要とするわけではないのです。これまで論じてきた、柳生宗矩の「無刀」や勝海舟の「手捕り」はこうした志向性を表すものと私は考えます。また、(一刀正伝)無刀流の山岡鉄舟は、「然れども余、未だ嘗(か)って殺生を試みたる事なきのみならず、一点他人に加害したる事も亦あらざるなり。」(『修心要領』)と述べています。剣の道に真正面から取り組んだ先人の心とはかくのごときものであったのです。

  それでは、宮本武蔵はどうだったのでしょうか。彼は、晩年、「人は人に切られるものではない」と言っていたと勝海舟は述べていますが、その意味はどのようなものだったのでしょうか。それに対する私の考えは、武蔵も晩年柳生宗矩の「無刀」のごとき境地に到達していただろう、というものです。こうした判断の理由のひとつは、先に言及した晩年の『宮本武蔵像』です。以前、我師匠は、それについて、「あれが自然体ですね」といったことがありました。そして、現在、私も、晩年の武蔵の「間」と「拍子」にとってあれが攻守自由自在な自然体なのだ、と理解できるような気がしています。それには一部のスキもないのですが、同時に、又、決して攻撃的なものでもなく、相手の攻撃を抑止する気迫にあふれているものといってよいでしょう。
  また、彼は、『五輪書』のなかで、「求道」の到達点としての『空』の境地について次のように述べています。
 「武士は兵法の道を慥(たしか)に覚へ、其外(そのほか)武芸を能くつとめ、武士のおこなう道、少しもくらからず、心のまよふ所なく、朝々時々におこたらず、心意二つの心をみがき、観見二つの眼をとぎ、少しもくもりなく、まよいの雲の晴れたる所こそ、実の空としるべき也」(『五輪書』空乃巻)
  私は、この「空」の境地とあの晩年の『武蔵像』は明らかに重なっているものと考えます。 人は切られるのではないかという恐怖心ゆえにこちらからも人を切ろうとする。そして、このことは相手側にもいえる。武蔵は、こうした恐怖心を必勝不敗の(『空』の)境地への到達によって乗り越えていたのではないでしょうか。さすれば、自分を守るために先を取って人を切る必要もないのだから、(極一部の社会病質者や素人はべつとして)、相手もリスクを犯してまで切りかかってくることもないであろう。あの居合道の達人の姿を思い浮かべていただきたい。晩年の『武蔵像』は二刀を帯びていると言う意味で、「勢力均衡論」(反撃される恐怖によって先制攻撃を抑止する)に近いものを感じますが、これは、自らの先制攻撃を否定し、いわゆる専守防衛に徹することによって争いを抑止しようとする、「平和」を求める新しい水準を示していたといってよいでしょう。そして、海舟の言う最後には刀を持つこともなかったという武蔵晩年の境地は、柳生宗徳の「無刀」の境地に限りなく近いものだったと考えてよいのではないでしょうか。
 しかし、それが、確かに、海舟、そして、ガンディー、キング牧師らの水準に到るには、もう一歩の思想的あるいは宗教的飛躍が必要であるかも知れませんが。

  「サロさん。師匠にお世話になった感謝の気持ちも込めて、剣道についてこれまでに考えてきたことを書いてきたけれど、こんなものでいいんだろうかね。どう思う。」
  「どうかな。もっと一生懸命「剣の道」と向かい合って、痛い思いをしたほうがよく判るんだと思うけどね。でも、僕と一緒に散歩してた方が無難だと思うよ。」
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SARO MURIKI

Author:SARO MURIKI
おりこうさんのワンワンです。年齢は、2018年11月現在満12歳です。見てのとおりの柴ですが血統書はありません。性別はオスで、飼い主には、朝夕、45分ずつ2回の散歩を義務付けているVIP犬、正確に言うと、VIDです。文句あっか?!

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