FC2ブログ

「怖い」音楽について―――著作権侵害とやらによる〈再録〉

  音楽は「再現」芸術である!
      ―――「第九」(1942年盤)と「地上の星」

    

   ※昨日、痛い足を引きずりながら山から帰ってくると、私が2013年3月に書いた『「怖い」音楽について―――「第九」(1942年盤)と「地上の星」』という記事が著作権に違反しているということで削除される旨の連絡が入っていました。おそらくその理由は、中島みゆきの「地上の星」の歌詞が引用されていたためであろうと推察されます。ということで、まず、その「著作権侵害」という歌詞の部分を除いて、前掲の記事を再録し、そして、この件についての私見を述べておきたいと思います。お付き合いください。



【再録部分】

   我家で「恐ろしい」話として今でも話題にのぼるものがあります。それは次のような話です。20年ほど前の12月24日、買い物帰りの私と子どもたちは駅を降りて家に向かって歩いていました。すると、私たちの前を前屈みで歩いていた高齢者の方の手から、かなりの数の紙片が当日の強い北風によって、あたかも木枯らしに舞う枯葉のように、次々と吹き飛ばされていったのです。その紙片は、恐らく、競馬か競輪、オートレースか競艇の券だったと思います。当日は、クリスマスイブ。ひょっとすると、彼の家では、奥さんが彼からのお土産(プレゼント)を待っていたかもしれません。夕闇迫るなかでの絶望的な情景。それは子どもたちに強い印象を与えたのです。

    ところで、私は音楽が大好きなのですが、その音楽がとてつもなく「恐ろしく」感じられることもあるのです。今日は、そうした中の2つの例を紹介したいと思います。

    まず、最初は、フルトベングラー指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、ブルーノ・キッテル合唱団、ティルラ・ブリーム(ソプラノ)、エリーザベト・ヘンゲン(アルト)、ペーター・アンデルス(テノール)、ルドルフ・ヴァツケ(バス)、1942年録音の、ベートーベン 交響曲第9番ニ短調「合唱」です。とりわけ日本において人気の高いあの「合唱」が、とりわけ、クラシック・ファンなら必ず聴いているであろうフルトベングラー=バイロイト祝祭管弦楽団の演奏で知られるあの「合唱」が、なぜ「恐ろしい」のか? それは、この1942年盤が、第二次世界大戦中、ドイツの各都市が連日のように連合軍の空襲に見舞われ、一般市民はおびえ憔悴しきり、ナチス・ドイツの敗戦の陰が現れ始めた、まさしく「非常体制下の演奏」であったからなのでしょう。出谷啓氏のライナー・ノートにはこうあります。

    第1楽章の猛烈におそいテンポと、再現部のアタマにきかれるティンパニのとどろきわたるような強打、そして再現部の終結あたりからのテンポが徐々に速まってくる劇的な迫力など、素晴らしいかぎりである。第二楽章はまさに気狂い踊りといっていい荒れ方で、いたたまれなくなってくるほどだ。一方第三楽章は、信じられぬほどのおそいテンポでじっくりとうたい上げるが、弦の表情などまるですすり泣きのようにきこえる。そしてフィナーレのコーラスも、断末魔の絶叫をきくようで、思わず肌に粟が生ずるほどの恐ろしさである。オーケストラのみのコーダでは、めまぐるしくテンポが加速されるが、すさまじい迫力で全曲が終わったあと、きき手の心から何かつき物が落ちたような虚脱感を味あわせるのではないだろうか。

    私は、特に、第4楽章の印象が強いのですが、出谷氏の「断末魔の絶叫をきくようで、思わず肌に粟が生ずるほどの恐ろしさ」とは、録音の悪さもあるのですが、言いえて妙だと思います。それは決して何度も聞きたくなる演奏ではありません。逆に、ベートーベンの『第9』が二度とあのように演奏されなくていいように、音楽家たちが二度とあのような演奏をしなくていいようにと、願わずにいられないのです。


    二つ目は、NHKの人気番組『プロジェクトX 挑戦者たち』の主題歌、中島みゆき作詞・作曲の『地上の星』です。『プロジェクトX 』は、戦後日本の、製品開発をはじめとする様々なプロジェクト・チームに参画した「普通の」あるいは「無名の」人々のドキュメンタリー番組(成功物語)でした。それでは、まず、その歌詞を確認しておきましょう。―――ここで、「著作権侵害」という『地上の星』の歌詞が引用されます!

           〈削除〉    

        
    この歌詞のなかに何を感じるかは人それぞれでしょうが、その中に「無名の」・「普通の」働く人々のあり方や思いが表現されているだろうことは言うまでもないでしょう。そして、私などは、この番組の中に、いわゆる「日本的集団主義」の中における、(個的な)「職人気質」の如きものが描かれているように思い、実に興味深く観る事もしばしばあったのです。

    ところで、ある朝のこと、私と息子は、新任研修の行われているある施設の傍を通りかかりました。そして、そこから聞こえてきたのが、新入社員の若者たちが歌う『地上の星』だったのです。その歌声を聞いて、当時高校生だった息子が、「怖え~」とつぶやいたのです。私自身も、その寂寞たるトーンに、1942年盤の「合唱」とは異なるものとはいえ、なにか「肌に粟する」ような恐ろしさを感じたのです。それはなにか絶望感すら漂わせる歌声でした。それは何故だったのでしょうか。

    彼らは、新任研修の中で、まさしく、「地上の星」たれとこの歌を歌わされていたのです。しかし、その時の彼らの精神状況は決して良好なものとは感じられませんでした。確かに、一定割合の非正規雇用が常態化した今の日本において、彼らは正社員の肩書きを手に入れた「恵まれた」若者たちなのかもしれません。だが、あの研修のあとに何が待ち受けていると彼らは感じていたのでしょうか。一時、いわゆる「日本的経営」の良好なパフォーマンスが外国の研究者や企業に注目された時期がありました。実は、『プロジェクトX 』が取材の対象にしていたのはこの頃までの日本企業といってよいでしょう。しかし、この頃の日本企業には、また、「社畜」・「過労死」などといった言葉が存在する状況も生まれていたのです。そして、私自身は、熊沢誠さんの仕事などを通して、「実体経済」を担う職業人としての「職業倫理」やそうした職業人たちの「共同」意識が、「社畜」化や「過労死」を生み出した企業や資本の論理を乗り越える可能性はないのだろうか、などと考えていたのでした(汗)。

    勿論、その後の展開は、「上」はヘッドハンティング、「下」はフリーターに象徴される、新自由主義路線の導入による「日本的経営」の蚕食でした。そうした中で、フリーターなどは、「社畜」・「過労死」に対抗する「フリー・アルバイター」とまでもちあげられながら、低賃金の不安定労働力として使い捨てにされ、これに対して、正規雇用の若者たちは、先の新任研修に垣間見ることが出来るように、相変わらず、「社畜」・「過労死」路線の受容を強いられているようなのです。最近の「ブラック企業」といった造語もその辺の事情を表したものなのでしょう。そして、私は思います。フリーターのあの給料では安定した結婚生活は無理だろうなと、また、「運良く」正規雇用になったとしても、あの相も変わらぬ長時間労働では、結婚できたとしても、配偶者との真っ当な時間の共有すら無理なのではないかと。そんな状況を想像させる『地上の星』だったのです。

   ベートーベンの「第9」も『時代』や『ファイト』を歌った中島みゆきの『地上の星』も、それを聴きそして歌い・演奏するシチュエーションによって全く違って聞こえるものなのです。音楽とは、まさしく、それが〈再現〉される時に「意味」を放つ芸術なのだ、と強く思うのです。


―――ねえ、サロさん。今の日本の状況を墨子さんなら何と言うだろうね。
―――「僕知らんわ」って。自分たちで考えろってさ

【再録部分】終了



   さて、以上のような記事が「著作権侵害」で削除されたわけですが、私にとっては「ナンジャラホイ!」という感じなのです。つまり、私は、いわば、「喜びの歌」や「希望の歌」がそれが「再現」される状況や歌う人々によって全く異なった印象を与える例として2つの曲を取り上げたのです。そして、もちろん、私は、『地上の星』を自分の曲(詩)として剽窃したわけでもなく、中島みゆきの「歌」それ自体を載せたわけでもなく、そのことによってなんらかの経済的利益を得たのでもないのです(笑)。逆に、そうした私の経験を語る上で、『地上の星』の歌詞を、出典を明らかにした上で、できるだけ忠実に提示するべく〈引用〉したのです。これはなにかを〈表現〉しようとする場合の最も基本的な「仁義」と言うべきものだと私は考えていました。

   ところで、なぜ、歌詞を乗せると「著作権侵害」になるのでしょうか。それは、おそらく、その歌詞を見てしまうとCDが売れないとかの〈経済的損失〉が生じるからというのが原因だろうと考えられます。しかし、私の感覚から言えば、それは、逆に、作品の「宣伝」にこそなれ、そんなことで作者に経済的な不利益を与えるなど到底考えられないことです。例えば、YouTubeを見ていますと(時には、コマーシャルさえ付いた)様々な曲や作品がアップされています。そして、私などは、ブルーハーツの曲を聴いて、中古ですがCDを三枚も買ってしまったくらいです。また、私が自分の作品を発表したとします。その時、私が期待するのは、〈剽窃〉されるのは別でしょうが、どれだけ多くの人々がその作品を読んでくれたのか、どれだけ正確に読んでくれたかということが最大の関心事となるのです。さらに言えば、それによって学位を取得するといった場合は「倫理的」な問題も生じるのでしょうが、〈公に発表されている〉文章や楽曲をどのように利用しようと自由なのではないでしょうか。例えば、学生が夏休みの課題を図書館やネットで調べてレポートを書くことなど何の問題もないことでしょう。また、YouTube上で、誰かがカラオケで『地上の星』を歌っているとします、それは著作権違反なのでしょうか?また、私が多くの友人の前で得意の口笛で『地上の星』を吹いて聞かせた場合、それは著作権違反なのでしょうか?要するに、偽ものや海賊版を作って私利を図るといったような場合は別でしょうが、多くの〈文化〉的な作品については、歴史的にもそうであったように(「写本」など今日では「著作権違反」となるでしょうが、そんな場合、人類の文化はどうなっていたのでしょうか)、より多くの人々によって共有されることこそが肝要なのだと思うのです。

   最後に、今回の私の場合については、個人的に大きな違和感を感じたとだけは言っておきたいと思います。ただ、作詞者である中島みゆきさんがどう考えるかはわかりませんが、まあ、削除したいという人がいるらしいので仕方がないでしょう。しかし、これからは歌の歌詞だとかなんだとかには一切関わらないようにしたいと思っています。全く、馬鹿馬鹿しいことですから!‼︎!




      
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

SARO MURIKI

Author:SARO MURIKI
おりこうさんのワンワンです。年齢は、2017年11月現在満11歳です。見てのとおりの柴ですが血統書はありません。性別はオスで、飼い主には、朝夕、45分ずつ2回の散歩を義務付けているVIP犬、正確に言うと、VIDです。文句あっか?!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
ワン・クリック・エリア
おもしろかったらクリックしてね!
にほんブログ村 犬ブログ 柴犬へ
にほんブログ村 にほんブログ村 格闘技ブログ 剣道へ
にほんブログ村 にほんブログ村 政治ブログ 平和へ
にほんブログ村
リンク
QRコード
QR
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる