『シン・ゴジラ』を観て―――2016年夏

「世渡り上手」な”ネオン・ジェネシス”・ゴジラ
  ―――福島原発事故以後の「核と戦争」に対する”エリート”の想い


   ※台風とこの蒸し暑さのために畑仕事の時間を縮小し、宇沢弘文と佐久間象山、『仮名手本忠臣蔵』そして”DECLARATIONS OF INDEPENDENCE(Zinn)"を読んでいました。そんな中、今週の火曜日、「奥さん」と「姉貴」が今話題の『シン・ゴジラ』を見に行くというので私もついて行くことにしました。見終わった後の三人の感想は、三人一致して「面白かった!」です。とはいっても、それは三者三様のかなり屈折した意味合いにおいてのものだったようで、たとえば、結構映画好きな「奥さん」は「このご時世に、かなり危ない話よね」とか、限りなくオタクに近い「姉貴」は「好きなように作ってかつシリーズに沿ってよくまとめたね」とか、また、愚直な田舎者である私は「否定の否定は肯定ですかねえ」とかいったふうでした。さらに、昨夜は、『ガンダム』ファンらしい「1st兄貴」の〈映像技術〉の重要性に関する「ご高説」も伺ったのですが、とりあえず今日は、私が感じたことの幾つかを書き記しておきたいと思います(ネタバレ注意)。

   
   
   さて、「1st兄貴」には批判されるのですが、私のこの作品に関する主要な興味と関心は、もちろん、脚本・総監督の庵野秀明氏の「社会思想」にあります(野暮ったいですねえ!)。それにしても、脚本と演出が同じ人間だと、台詞から映像表現まで、よくここまで『新世紀エヴァンゲリオン』に似るものです!まさしく、これは、庵野秀明氏の”ネオン・ジェネシス(「新・創世記」)・ゴジラ”と言って良いでしょう。もちろん、それはけっして悪いという意味なのではなく、かえってこの『ゴジラ』を面白くさせているのだとは思います。

   ところで、私は、2年前の夏、このブログで「『ゴジラ』を観る(1)〜(3)」をアップしました。私の基本的な『ゴジラ』観は1954年版と1984年版にあるのですが、そうした観点から今回の『シン・ゴジラ』を見ますと、「核」(原発ー放射能)と「戦争」(核兵器使用も含めた集団的自衛権行使)の問題に対してこの作品が放つ社会的メッセージを安易に受容できるとは思わないにせよ、それは、2011年の福島原発事故と昨年の戦争法成立という日本の現状を踏まえた、日本人の手による立派な『ゴジラ』になっていると言って良いと思うのです。それは、あのアメリカ版『GODZILLAゴジラ』(2014年)とは全く〈質〉(時代との格闘)を異にするものといってよいでしょう。

   まず、ここに登場した〈新しい〉ゴジラが〈福島原発事故〉によって放出された放射性物質の「比喩」であろうことは明らかだと思います。それは、現実に首都圏に流れ込んだ放射性物質であり、また、例えば浜岡原発で大事故が発生した際流れ込むであろう放射性物質による深刻な汚染とそれによる被害です。このことは、ゴジラをあの「在来線爆弾」とともに一応「抑え込んだ」ことになっている、福島でよく目にした大型の「放水クレーン」や凍土壁に注入される「冷凍液」を思わせる設定にも表れているといってよいでしょう。そして、膨大な電力を消費しつつ、原発事故を遠くの出来事のように錯覚している東京こそが、放射能汚染と核戦争の「現場」として突きつけられるのです。

   ところで、五感によっては捉えることのできない放射能の危険性と熱核兵器の爆発に対して、対抗しうる手段はあるのでしょうか。もちろん、それは基本的にあり得ないのです。それは、これまでも日本の『ゴジラ』によって表現されてきたように、自衛隊の最新兵器によってであろうが、米軍の無人機やステルス爆撃機によってであろうが、不可能なのです。せいぜい、まずは遠くに逃げるか、短期間核シェルターに閉じ籠るかぐらいでしょう。そうであるにもかかわらず、アメリカと「国連」安保理は、それに対して熱核兵器で対抗しようとするのです。しかし、そもそも、原発に核兵器をぶち込むことなどあってはならないでしょうし、また、核兵器に対してではあれ、膨大な都民の犠牲を前提とする核兵器による無差別攻撃を容認するとすれば、一体、日本政府は何を何から守ろうというのでしょうか。もちろん、『シン・ゴジラ』の主人公たちは、そうした手段を極力避けようと努力し、そして、それに成功することにはなるのです。これまでの日本の『ゴジラ』のように。―――しかし、アベ政権はオバマの核兵器〈先制不使用〉の宣言に反対したのだそうです。日本の現状は、あのバカバカしい『GODZILLAゴジラ』の世界にすら接近しているようです。

   ところで、私は、米軍の地中貫通爆弾によって攻撃され苦しむゴジラの様子を見て、「かんばれゴジラ!」と応援したい気持ちになりました。あのゴジラの動きは狂言師・野村萬斎氏のものが使われているそうですが、このように、ゴジラの中に同じ生物としての命を感じさせたり、あるいは、同じ人間の手によって生み出された核技術による「犠牲者」の姿を感じさせるのも、日本の『ゴジラ』の特徴と言えるでしょう。ゴジラは怒っているのです!そして、どうすればゴジラは元の平和な生活に戻れるのでしょうか?!

   この点とも関連し是非付け加えておかなければならないのは、牧博士のことです(写真には庵野が私淑した『日本で一番長い日』の岡本喜八監督のものが使われています)。彼は『ゴジラ』の芹沢博士のように海に沈んだ(自殺した)のですが、その時の遺品が、宮沢賢治の『春と修羅』と「折り鶴」の形にすると意味を放つ「曼荼羅」(ゴジラの「体組成ー遺伝子」情報)でした。「折り鶴」といえば〈平和への祈り〉、そして、「曼荼羅」で私が思い起こすのは南方熊楠の曼荼羅(宇宙と世界の構成原理ー「生態系」)です。そして、被爆者の妻を持ち、(放射性物質を食べて変性した)ゴジラの存在を発見した牧博士とゴジラ自身との関係(「遺伝子操作」?)は不明ですが、ゴジラの存在が、人間によってつくり出された恐怖(核戦争と原発事故)の「ブロウバック(逆流・しっぺがえし)」であり、現代文明への抗議・警告の意味を持つだろうことは容易に想像しうるところです。また、彼が残した「私は好きにした。君らも好きにしろ。」という言葉は、人間が引き起こした核戦争や原発事故を前にして、君たちはどのような選択をするのか(核兵器と原発の廃絶か存続かという自由意志による選択)という呼びかけになっているのだろうと思われます。そして、もちろん、彼の曼荼羅は、米国を中心とする多国籍軍(国連)による核攻撃とは違った〈道〉を指し示すものだったわけです。

   さらに、『シン・ゴジラ』を非常に興味深いものにしているもう一つの特徴は、日本の政治体制(政治的・軍事的意思決定過程を構成する法的諸制度や人的要素)に対してかなり辛辣な「批判」的論評を与えていることです。たとえば、世襲と保身と無責任に特徴付けられる政治家たち、ただ只管権力の位階制を這い上がろうとする立身出世主義の官僚たち、空虚なエセ科学主義を振り回す御用学者たち、等々です。そして、とりわけ強調されているのが、戦後の日本をアメリカの「属国」だとはっきり「規定」していることです。このことは、日米安保体制や原子力行政をはじめとして、最近の米国側からの情報公開によってますます明らかになっている事実に他なりません。しかし、この映画の主人公は、こうした政治体制の内部にありながらも、「国民の幸福」に責任を持とうとする、若き〈エリート官僚〉たちと設定されているのです。もちろん私は、こうした「エリーティズム」を簡単に信用するものではありませんし、さらに、彼らの活躍を可能にした政官の「イスタブリッシュメント」たちを結局みんな日本を真剣に心配した「いい人」たちでしたとするが如きの「結末」には、現在のアベ政治の現状を考える時、全く「おめでたい」話だと思わざるを得ないのです。
   
    とりわけ、私が不安に感じたのは、彼ら若きエリート官僚たちが、有事における権限の集中(ー国民の人権の制限)を求めているらしいこと、また、一定の「抵抗」を示しつつも、最終的には、東京におけるゴジラへの核攻撃という国連安保理の決定や多国籍軍による集団的自衛権の行使を「受容」していること、さらに、「ゴジラ」(原発・放射性物質そして核兵器)との安易な「共生」すら呼びかけているように思われることです。もちろん、こうしたメッセージは、「緊急事態法」や「集団的自衛権の容認」そして「原発の再稼動」などといった昨今のアベ政権の政策と〈親和性〉を持つのであり、〈現政権〉を支える「権力エリート」たる人々には「当然」のことと言えるのでしょうが、私のような「一般ピープル」にとっては、〈とんでもない〉方向性を意味するのです。大体、一部の「権力エリート」の判断が決して信用できるものではないことは歴史的にも自明のことですし(たとえば、破局を招来した大日本帝國憲法体制を想起せよ)、また、我々の生活を最後に守るのは決して軍隊(自衛隊)なのでもありません(「一般ピープル」の〈自発〉的「抵抗」に決まっています)。また、「ゴジラ」との「共生」がもし原発の再稼働などを意味するのだとすれば、そんなものは欺瞞以外の何物でもないでしょう。「世渡り上手」な先生方からは、廃炉をも可能にする原子力技術の維持・発展のためには原発の再稼働が必要だなどという議論を聞くこともありますが、現実の原発再稼動がそうした目的のために行われるなどとは笑止千万なことです。すなわち、現在推し進められている原発再稼動はあくまでも「原子力村」のセコイ利益実現のための商業的稼動に他ならないのであって、廃炉などのために必要な原子力技術の研究・開発は、各電力会社の責任も明らかにしつつ、公共的に組織された機関で行えば良いのです。

   それにしても、スリーマイル島(1979年)〜チェルノブイリ(1986年)〜福島(2011年)と、私の人生の半分にも満たない30年ほどの間に繰り返されてきた原発事故がこの地震列島において再び繰り返されることはないなどという如何なる(科学的)根拠が存在するというのでしょうか。何しろ、ゴジラは怒っているのです!早くこの地上から姿を消し、ゆっくりと休みたいと思っているはずなのです。

  
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SARO MURIKI

Author:SARO MURIKI
おりこうさんのワンワンです。年齢は、2016年11月現在満10歳です。見てのとおりの柴ですが血統書はありません。性別はオスで、飼い主には、朝夕、45分ずつ2回の散歩を義務付けているVIP犬、正確に言うと、VIDです。文句あっか?!

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