『この世界の片隅に』を観て考えたこと

    「世界の片隅に」普遍的な〈愛〉をみつける



   ※良質の映画を見る事は幸せなことです。とりわけ、不誠実極まりない歪んだアベ政治の現状を前にしているとその感を強くします。ところで、以前、この映画の原作、こうの史代さんの『この世界の片隅に』について触れた事がありました(http://saromuriki.blog.fc2.com/blog-entry-59.html)。あれから4年、じっくり作り込まれた作品が完成したのです。いち早く観てきた(どことなくすずさんに似ているような)「姉貴」が「良かったよ」というので、私も早速近場の映画館に駆けつけてみました。期待を裏切ることのない、素晴らしい作品でした。

   歳をとると涙腺が緩むと言いますが、私は、冒頭に流れたフォークルの『悲しくてやりきれない』からウルっときてしまいました。そして、観終わった後私の脳裏に浮かんだのは、私自身意味不明なのですが、〈「ポスト・モダン」的「状況」の中に香る”普遍的”な愛〉なるものでした。とはいえ、なぜ私がこの原作と映画に感動したかといえば、それは、「大状況」と「大イデオロギー」(「大きな物語」と「大きな正義」)とは水準を異にする、「世界の片隅」に生きる「ふつうの人々」の生き方と思想に、その「大状況」と「大イデオロギー」を根底的に批判しうる可能性を感じたからなのだと思います。また、こうの史代さんの好きな言葉にアンドレ・ジッドの「私はいつも真の栄誉をかくし持つ人間を書きたいと思っている」があるとのことですが、私は、すずさんやリンさんや周作さんや水原さんの生き方と言葉に、そうした人間としての「栄誉」を感じることができたと思っています。

   それでは、この物語のキー・ワードと考えられる4つをあげておきましょう。ただし、映画と原作との間には、〈設定〉―――とりわけ、原作の横糸とも思われる、(水原=)すず×周作(=リン)の関係におけるそれぞれの「こだわり」とそれからの「解放」―――や〈セリフ〉に若干の相違があります。その事の意味することやその評価についてもまた別途考えたいとは思いますが、ここでは、記憶力の問題もありますので、主に原作に即しつつ論じておきたいと思います。

 ○「どこにでも宿る愛」ー「あちこちに宿る切々のわたしの愛」

  「個」と「類」、そして、それを媒介する様々な「集団」の〈内的・外的〉関係は、極めて複雑で矛盾に満ちたものです。しかし、「神は細部に宿る」とも言われますが、人間社会を「人間」社会たらしめてきたのは、個々人一人一人に宿る、人間を「人間」たらしめる基底的な〈感情〉―――それらは、古今東西、「慈悲」、「仁」、「愛」、「憐憫の情」、「ピティエ」、「シンパシイ」等々、様々な宗教的・哲学的概念によって把握されようとしてきたもの―――に他ならなかったろうと思われます。実際、巨大な暴力や差別の状況の中にあってすら、そうした〈感情〉(「愛」)を大切にし、育み、生きようとした、すずさんやりんさんのような「普通」の人々が存在したのです。そして、そのような人々の存在によってこそ、人々は絶望と憎悪の淵に沈みこむことなく、存在し続けることができたのだと思います(「どこにでも用意さるゝあなたの居場所」)。いうまでもなく、「栄誉」はこうした「普通」の人々にこそ与えられるべきでしょう。

 ○「すず お前はほんまに普通の人じゃ」(水原晢)

  これは、すずの幼なじみである、海軍志願兵水原の言葉です。また、彼はすずに「この世界で普通で・・・まともで居ってくれ」、そして、彼が死んだとしても、彼を「英霊」としてではなく(「普通」の一個人としての)「おれ」として思い出してくれとも言い残します。これらの言葉は、すぐさま、この世界でなにが「ふつう」で「まとも」なのかという問に繋がりますが、それは、水原自身の家族や同胞への思いが、軍隊という国家組織や「愛国心」という「大きな正義」に「包摂」されたときに生まれた「歪み」(「人間の当たり前から外された」〈不条理〉)故に発せられた言葉だったと考えられます。もちろん、こうしたことは、女性の結婚や出産などに関わる差別的な社会的風潮の中で悩み、また、「歪んだ」大義を振りかざす戦争という巨大な暴力によって〈右手〉を奪われたすずについても言い得ることでしょう。しかし、すずはこうした「歪み」に負けず、「普通」に「当たり前」に生きて行こうとする強さを持っていたのです。そして、いうまでもなく、こうした一人一人の「ふつう」で「当たり前」な生活が〈歪められる〉ことに真正面から向き合い、「当たり前に」〈怒り〉そして〈抵抗する〉ことが、「個の尊厳」と「基本的人権」を基底的な価値とする「民」主主義の原点だと言って良いと思います。さらに言うならば、〈国家〉イデオロギーとしての「愛国心」のレベルにおいては〈国家〉間の「戦争」は根底的に批判し得ず、それは、こうした「個の尊厳」に基づく一人一人の「基本的人権」・「平和的生存権」の視座によってこそ可能と思われるのです。いうまでもなく、「一般ピープル」は、差別し、暴力を振るう存在でもあります。しかし、それを乗り越えるのも「一般ピープル」の「普通」で「まとも」な人々なのだと言えるのではないでしょうか。

 ○「そんとな暴力に屈するもんかね」(すず) 

  この言葉は、広島が被爆した後、空飛ぶB-29の編隊を見つめながらすずの口から発せられた言葉です。また、すずは、敗戦の詔勅を聞いた後、「この国から正義が飛び去っていく じゃけえ 暴力に屈するという事かね それがこの国の正体かね」とも言います。朝鮮半島やアジアの国々を暴力によって侵略し、そこに住む「普通」の人々の生活を破壊した「国家の大義」は脆くも崩れ去ったのです。それでは、いかなる暴力にも屈することのない、すずの「正義」とは何なのでしょうか。言うまでもなく、それは、「普通」で「当たり前」な人々の生活を基準とするものに他ならないと考えられます。そして、そうである限り、「面従」することはあっても、暴力に屈して虚偽のイデオロギーを受容することもなく、逆に、不条理な暴力を笑い飛ばし、さらに、どのような場所においても、「当たり前」に生きるために全力を尽くすのです。そこには、「普通」で「当たり前」な人々の意地と勇気さえ感じられるのです。

 ○「りんさんの事秘密じゃなくしてしもうた・・・これはこれでゼイタクな気がするよ・・・」(すず)  
   しかし、戦争や差別などの不条理に〈歪められた〉「普通」の人々は、悲しいこと、辛いこと、悔しいこと、恥ずかしいこと等々に悩み、苦しまざるを得ません。そして、私たちの多くは、閉塞的状況の中で、諦め、忘れることでその苦しみから「解放」されようとするのです。そして、リンの言う、記憶を秘密にして死んでいく事の「贅沢さ」とは、その究極的な表現とも言えましょう。戦争体験を一言も話さず墓場まで持っていくと語る元兵士たちの苦しみはいかばかりのことだったのでしょうか。しかし、すずが可能だったように、記憶を〈分かち合う〉ことも出来るのです。そして、そうした存在を身近に持つ事は最高に〈贅沢〉な事なのかも知れません。
   このアニメ映画に登場する呉の街並みは、当時呉に生きていた人々の記憶を掘り起こし、その「かけら」を寄せ集めて再現したものだと聞いた事があります。世界の片隅で生きる「普通の」人々がその記憶を世代を超えて分かち合う事の大切さ、これもこの映画を見て感じたことです。私が流した涙の質は、直接戦争を体験はしなかったものの、戦争を生き延びてきた親世代の体験を聞きながら育った私たちが、そんな親世代の想いを分かち合い、心寄せることによって生まれてきたもののようにも感じられました。

   13日(火)沖縄で2機のオスプレイが事故を起こし、15日(木)には国際的にも国内的にもほぼ「最悪」のアベ=プーチン会談が行われました。ここでも、私たちは、〈国家の論理〉を〈私たちの普通で当たり前の論理〉によって乗り越えなければならないのだと感じました。

サロさんありがとう この世界の片隅で仲良くやろうや!
DSC_4936.jpg


スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

SARO MURIKI

Author:SARO MURIKI
おりこうさんのワンワンです。年齢は、2017年11月現在満11歳です。見てのとおりの柴ですが血統書はありません。性別はオスで、飼い主には、朝夕、45分ずつ2回の散歩を義務付けているVIP犬、正確に言うと、VIDです。文句あっか?!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
ワン・クリック・エリア
おもしろかったらクリックしてね!
にほんブログ村 犬ブログ 柴犬へ
にほんブログ村 にほんブログ村 格闘技ブログ 剣道へ
にほんブログ村 にほんブログ村 政治ブログ 平和へ
にほんブログ村
リンク
QRコード
QR
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる