下諏訪旅行―――〈御柱〉を訪ねて

 異文化間の闘争と和解
  ―――日本列島における〈縄文文化〉と〈弥生文化〉を考える



   ※今年の第1回家族旅行は、下諏訪の諏訪大社下社「春宮」・「秋宮」に決りました。決めたのは「奥さん」と「姉貴」ですが、サーヴァントも大賛成でした。と言いますのは、昨年、『古代史ミステリー 御柱〜最後の縄文王国』と言うテレビ番組を観て、一度は行ってみたいと考えていたからです。ところで、私は、これまで何度か触れてきたように、柳田民俗学を踏まえた神島二郎の政治学(主著としては『近代日本の精神構造』)に少なからぬ興味と関心を抱いてきました。それは、私自身がその一員である日本の〈一般ピープル〉の「姿」を省察する上で不可欠の一視点のように思われたからです。そして、その中で、とりわけ興味深く感じていたのが「馴化」ー「馴成」という概念でした。こうした観点からすると、諏訪大社の〈御柱〉のあり方は、私たち「日本人の発想」を読み解く一つの重要な鍵だと感じられたのでした。以下、1泊2日の下諏訪旅行を振り返ります。



【一日目】

雪の諏訪大社下社秋宮で

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 ※下諏訪駅を降りると、先ほどから降り出していた雪が1〜2センチほど積もっていました。駅前にある長野冬季オリンピクの時に建てられたという〈御柱〉を見た後、期待に胸を膨らませながら「下社秋宮」に向かいました。諏訪大社とは、4箇所(上社本宮・上社前宮・下社春宮・下社秋宮)のお宮から成る神社です。それは「諏訪明神」を祀るものですが、その「社」をそれぞれ4本の〈御柱〉が「守って」いるのです。いうまでもなく、問題はそれが何を意味するかです。
   写真の背後にあるのは「神楽殿」で、両脇の狛犬は青銅製では日本一の大きさといわれています。こりゃ、サロさん勝てないわ!


秋宮一之御柱
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 ※〈御柱〉は、〈奥山から里に下って神となる〉樅の巨木で、寅年と申年ごとに「建て替え」られます。その時に行われるのが、あの「木落し」で有名な「御柱祭」です。
  ところで、先に取り上げたNHKの『古代史ミステリー 御柱』によれば、諏訪地方は、BC10世紀以降日本列島に入ってきた稲作文明を自主的に拒否し、森の恵みと共に暮らす(狩猟・採集の)「最後の縄文王国」でした。また、そこには、聖なる場所に巨木を立てることによって山と森の神(精霊)たる「御左口神(ミシャクジ)」を祀り、相互の結束を確かめ、生きる力を得る信仰があったと考えられるのです。ところが、BC3世紀ごろ、この地域に稲作文明が持ち込まれます。そして、それを持ち込んだのが、出雲において「高天原」系に最後まで抵抗し、戦いに敗れてこの地方に逃げてきた、(あの『古事記』の「国譲り」神話で有名な)大国主命の息子「建御名方(タケミナカタ)命」だったのです。そして、この「シカを殺して田畑を拓く」タケミナカタに対抗した縄文系の人々の指導者が「洩矢(モレヤ)」でした。ただ、その争いの結果として、両者の間には〈微妙な〉「和解」と「共生」の関係が生まれたのです。そして、そうした「融和」の宗教上の表れが、勝者たるタケミナカタはこの地方の縄文系の神たるミシャクジの存在を許容し、また、モレヤは外来のタケミナカタの神を祀り、神事を司るということだったと考えられます。それが諏訪明神(タケミナカタ)を祀る諏訪大社の「御柱」に表れているのです。(以上私の「読み込み」も含めて)
   二つの「文化(文明)」間の争いはいつもこうした形で収束するというわけではないでしょう。そうした意味において、諏訪に稲作(弥生文明)を導入したのが、高天原系に最後まで抵抗した出雲系のタケミナカタだったことには何か大きな意味があったのかもしれません。また、諏訪明神(タケミナカタ)のご神体は御山や一位や杉の御神木でもともと社殿はなかったといいますから、そもそも、高天原系に国を譲ったといわれる出雲系の人々とはどのような人々だったのでしょうか。海から渡ってきた先住の稲作農耕民だったのでしょうか、あるいは、諏訪の人々と同じように、農耕を受け入れた縄文系の人々だったのでしょうか?
   それにしても、ここに見られるような「融和」の意義については、「個」的水準ではもちろんのこと、「文化」論的にも「評価」は様々だと思います。しかし、口先だけで「和解」や「寛容」を唱える、アベやアソウの「競争原理主義」や「ぼったくり主義」などと比較すれば、はるかに検討に値する深さを持っているように感じるのです。
   
 

【二日目】

甲州道中と中山道の合流点ー「錦の湯」前で

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 ※秋宮近くの宿で一泊した後、「すわのね」のオルゴールを聞いてから、旧中山道を通って「春宮」に向かいました。写真は、甲州道中と中山道が合流した下諏訪宿「錦の湯」の前です。「錦の湯」は、先にも述べたタケミナカタのお妃に縁のある温泉で、昨年亡くなった永六輔さんの書いた石碑もありました。



旧中山道の宿場町を歩く
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 ※旧中山道沿いには本陣跡を始め、大小様々な宿屋があります。その風情にはなんとも言えない趣があります。宿といえば、私たちが泊まった宿の割り箸の袋に「あざみの歌」と「信濃の国」の歌が印刷されていました。「信濃の国」はその美しい自然の中で優れた文化と人材を生み出してきた信州人の思いが表現されたもので、大変興味深く感じました。また、「姉貴」が「あざみの歌」ってどんな歌と聞くので、歌詞を見てみるとなんとメロディーが浮かんできました。おそらく、何十年もの間一度も歌ったことはなかったはずです。歌の力はすごいと再確認しました。これも良い思い出になりました。また、この地は、『平家物語』第7巻の「実盛」で斉藤別棟実盛と〈一騎打ち〉を演じた木曽義仲の家来、手塚別棟金刺光盛の所領だったとのことです。木曽源氏の人気が感じられました。



諏訪大社下社春宮・左右片拝殿
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 ※「秋宮」から「春宮」まではゆっくり徒歩で35分ほどでした。「春宮」にも本殿はなく、正面に神楽殿、そして、その奥に写真の幣拝殿と片拝殿あります。さらに奥には宝殿があり、また、その奥にそびえる杉の木が御神木なのだそうです。つまり、私たちは、「山の神」・「森の神」となった「建御名方(タケミナカタ)命」に参拝しているということになります。境内には樹齢数百年にもなろうという欅などの巨木が立ち並び、壮観でした。この後、「万治の石仏」に向かいましたが、その途中にある御柱を建てたミニチュアのような社がなんとも可愛らしく思えました。



「よろずおさまりますように」―万治の石仏
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 ※もう一度見てみたいという仏像の顔はそうあるものではありません。しかし、岡本太郎さんも「推薦」したという「万治の石仏」はそうした仏像の一つです。なにしろ、その個性的な姿は本当に印象的です。とりわけ、その顔は、なんとも言えない優しさを湛えながらも、私たちのすぐ側にいそうな人物のそれなのです。近くにあった解説文を読むと、「『南無阿弥陀仏』と唱えれば、現世でこの身このまま成仏できると説き、民衆に即身成仏による仏としての自覚を与えた。これは今までに例のない念仏思想で、『仏頭授受』を伝えるものと言われている。」とありました。要するに、「即身成仏」の姿なのですねえ。



諏訪湖の冬姿
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 ※「万治の石仏」からは、参詣道を下り、途中で「ハッピーしもすわ丼」(840円)を食べ、諏訪湖畔に向かいました。諏訪湖を間近に見ることは初めてでしたが、中央道のサーヴィスエリアから見る姿とは違って、雪の湖岸に水鳥が遊ぶその姿は大変優雅に感じられました。また、以前テレビドラマで見た武田勝頼やその母「諏訪御前」のことも思い出されましたが、彼らの見た諏訪湖はどのような姿だったのでしょう。実は、この写真の中央に富士が見えるはずなのです。この時も、本当に微かではありましたが、その姿を認めることができました。



車窓からの富士――甲府付近
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 ※諏訪湖からははっきり富士を見ることはできませんでしたが、帰りの車中で姿を現した厳冬期の富士は、やはり、この旅を締めくくるに不可欠のもののように感じられました。富士は本当にいい山ですねえ‼︎





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SARO MURIKI

Author:SARO MURIKI
おりこうさんのワンワンです。年齢は、2016年11月現在満10歳です。見てのとおりの柴ですが血統書はありません。性別はオスで、飼い主には、朝夕、45分ずつ2回の散歩を義務付けているVIP犬、正確に言うと、VIDです。文句あっか?!

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