「こんな人たちに負けられない」発言の背後にあるもの

 アベ政治のファシスト的心性――②
   ―――K・シュミットの「友・敵」理論から




  
DSC_5384.jpg「個」の観点からすれば、
僕とサーヴァントさんは完全な家族である

 
   ※アベ首相が「閉会中審査」に出席する。ただ、自民党は与野党の質問時間を通常の2:8から5:5にするように強硬に主張していたのだそうだ。与党議員との「知らぬ・存ぜぬ」+「岩盤規制に風穴」ショウをしつこく繰り返せばバカな国民は信じるとでも考えているのだろう。しかし、「真相究明」のポイントは、前川氏と和泉首相補佐官はもちろん、昭恵夫人・田村室長・松井大阪府知事・萩生田官房副長官・加計理事長らに対する、籠池元理事長が受けた〈証人喚問〉を承認するかどうかだ。この条件を欠いては、国民の疑念を晴らすことは決してできないだろう。
   それにしても、山本地方創生相という人物はなんなのだ。情報公開法(条例)以降、行政は都合の悪い記録はできるだけ残さないように画策・努力してきたわけだが、「加計がない」のは「自分が十分注意していて」の故なんだそうだ(笑)。また、加計の文科省と同様に、「隠蔽」を部下(陸自)だけの責任にして保身を図れると思っていたイナダは、戦後の自衛隊が「葉隠(小姓)」的存在ではなく、シビリアン・コントロールとは別次元の私的保身のために一方的に利用できる存在だと思い込んでいた〈ファシスト〉とは一線を画する存在であることを理解できていなかったのだろう。本当に、愚かしいことだ。

   それにしても、アベたちはどうしてあのような見え透いた嘘を言い続けることができるのだろう。私はその理由を、「こんな人たちに負けるわけにはいかない」というアベの発言の背後に感じられる、K・シュミットの「政治の〈友・敵〉概念」にあると考えている。シュミットは、前述の『政治神学』のなかで、カトリック反革命国家哲学の「中間を許さぬ(神と悪魔の)二者択一の思想」や「決断主義(最後の審判を前にした根源的悪に対する独裁)」について論じていたが、主著『政治的なものの概念』(1932年)では、「政治的な行動や動員の起因と考えられる、特殊政治的な区別とは、友と敵と言う区別である。」とし、戦争や内戦の現実的可能性を強調しながら、存在的に他者・異質者である〈敵〉を指し示し、その物理的殺戮をも呼びかけることのできる「主権者」(独裁的〈国家〉指導者)の存在をいわば法則的・必然的な事実として承認し、それに従うよう呼びかけていたのだ。そのおぞましさは、「『ドイツ法学におけるユダヤ人』学会への結語」(1936年)における反ユダヤ主義に端的に表れているが、彼の理論は、まさしく、「奴らは敵だ!敵は殺せ!」と叫ぶ独裁的指導者を待望するものだったと言って良い。そして、そうした主張を支える基底には、キリスト教(カソリック)に流れ込んだ、ゾロアスター教的〈善・悪〉二元論があったと考えられるのだ。

   このように、アベの「こんな人たち」発言は、国際政治においてはもちろん、国内政治においてさえも、「友」と「敵」を峻別し、異分子たる敵を差別し、抑圧し、排除し、殺戮することさえ「当然視」するシュミットの理論との類似性を感じさせるものなのだ。そして、こうした感覚からすれば、「敵」に嘘をつくことなど、道徳的に痛みを感じることでは「全くない!」ということになるだろう。さらに、こうした権力政治の「おばけ」のような感覚からすれば、「悪巧みを巡らす」本当に身近かな少数の〈お友達〉以外は、利用してもいい、嘘をついてもいい、そして、しっかりと監視しておかねばならない潜在的な「敵」(「こんな人たち」)と捉えられることにならざるをえないのだ。籠池理事長への「トカゲの尻尾切り」はその典型だが、さらに「下っ端」の追従者などは、もう単なる使い捨ての道具でしかないことだろう。

   ところで、シュミットがいうように、「友・敵」結束(すなわち闘争や戦争)の現実性あるいは現実的可能性を前提したとしても―――「暴力」(物理的強制力)と同様に、そうした関係の現実的可能性が全く消滅することはないだろう―――、シュミットのように、独裁者による国権主義的な支配ー従属関係(主権ー隷属関係:独裁)を肯定・擁護することに即結びつくわけではない。例えば、シュミットが批判の対象にした自由主義的(あるいは多元的)政治理論・国家理論では、矛盾や対立あるいは異質なものの存在を前提としつつも、対話や妥協を通して調整を行い、「平和的」に共存する協調的な関係を志向しているからだ。しかし、シュミットにとっては、それらはいわゆる「決められない」政治なのであり、とりわけ〈例外的状況〉(あるいは決断の時)にあっては、「革命勢力」に有効に対抗できないので、〈彼らが望む〉秩序の形成・維持のためには、権力を執行部に集中し、その独裁的力で決着をつけなければならないというわけなのだ。こうした意味において、アベの「抵抗勢力」に対する「官邸主導」などはシュミットの「独裁」の戯画でしかない。しかし、善悪二元論的な、自己否定的要素を全く持たない独裁政治は、まさしく、権力中枢部による〈権力政治(パワー・ポリティクス)〉の「おばけ」と化していくのだ。

   一般的に、政治概念には、自治的・公共的そして調整的な性格を強調するものと、支配的・闘争的そして権力的な性格を強調するものがあると考えられるが、シュミットの理論は、アカデミックな衒学趣味と客観性の装いの下に、後者の側面を肥大化させ、さらに「幻想を捨て、戦争を準備せよ」といった、〈反民主主義〉的で〈好戦〉的な〈国権主義〉・〈軍備拡張主義〉に帰着するものとなるのだ。しかし、政治概念について言えたことは、シュミットの〈例外的状況〉の最たる〈戦争〉の把握にも言える。詳しくは述べないが、孫子の兵法やクラウゼヴィッツの戦争論がシュミットの政治ー戦争概念とは似て非なる思想性と方向性を持っていることは明らかだし、また、「平和」を希求するわが「武士道」や苛烈な植民地支配に抵抗したガンジー主義(非暴力直接行動)など、〈例外的状況〉にあっても全く異なった方向性を示すものもあるのだ。そして、こうした方向性こそが、戦時国際法や戦争の違法化、そして、核兵器禁止条約などの流れを生み出してきたといえる。これに対して、現在のネオ・ナチや歴史修正主義などは、戦前のファシズムや超国家主義の「ゾンビ」のような代物でしかない。

   さて、シュミットと類似した心性を共有するアベ政治は、「似た者同士」のトランプと同様に、国内政治においても、国際政治においても、ただひたすら〈分断〉と〈対決〉へと人々を誘う「おばけ」の如き〈権力政治(パワー・ポリティクス)〉に突っ走っている。ところで、このように人間をある集団に囲い込み、相互に差別・敵対させるファシスト的思惟にとって最も都合が悪いのは、「人類」とか「個人」とかいった観念・意識に他ならない。なぜなら、そこにおいては、「異質」なる他者も「同じ人間」(=人類)であり、また、「個」から出発する限り、国境だろうが、階級だろうが、性別だろうが、家族だろうが、民族だろうが、それが分かつ壁を(容易に?!)乗り越えてしまうからだ。それ故に、ファシスト的政治体制を志向する(実質的には少数の「お友達」)勢力は、盛んにこれを攻撃しようとするのだ。ところで、そうした「プロパガンダ」が成功するかどうかの分析にとって重要な対象の一つに、それに感応するある社会における「基底的な価値意識」がある。次回は、そうした視点に関連するものの一つとして、アドルノの「権威主義的パーソナリティー」を取り上げてみたい。それはファシスト的「政治神話」の中身がどのようなものであるかを意識化し、私たち日本の〈一般ピープル〉が自らを反省的に把握する上で大きな意義を持つと思われる。


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そんなことよりも、僕は暑いから寝る

 
 

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SARO MURIKI

Author:SARO MURIKI
おりこうさんのワンワンです。年齢は、2017年11月現在満11歳です。見てのとおりの柴ですが血統書はありません。性別はオスで、飼い主には、朝夕、45分ずつ2回の散歩を義務付けているVIP犬、正確に言うと、VIDです。文句あっか?!

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