晩夏に思う―――2017年8月31日

  なにを今更?!―――
     されど、1回限りの「生」について



僕は〈サロさん〉です
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   ※夏らしい夏を経験しないままに、8月が終わろうとしている。今日はかなり涼しかったので、畑の雑草を鍬で刈り取る作業をした。そんなことをしている時に、ふっと、「自分の感情や観念の絶対的な固有性」という「妄想(幻想?)」に取り憑かれてしまった。

   人はそれぞれの「生」を生きるしかない。そして、その「生」に対する感情や観念は。たとえそれが生理的・心理的・社会的・文化的な構造やシステムの拘束を受けているとしても、やはり、その人だけのものという他はないのではないか。もちろん、「固有」とは言っても、共通する「基盤」に基づく〈共感〉や〈理解〉は可能に違いない。しかし、やはり、一人一人の「個」にとっての固有性が消え去ることは決してないだろう。そして、その「固有性」は、若い頃よく聞かされた「人間の孤独」という「寂しさ」が付着したネガティヴな意味あいのものではなく、もっとポジティヴな意味合いのもののように思われる。それは、また、固定的な「個性」でも、投企の主体である「実存」でもない。おそらく、無限の対他的関係性の中でほとんど偶然的に生じる限定的な感情や観念の累積とでも言えばいいもののように思われる。

   人間は〈社会〉的存在だ。「人」は特定の地理的・歴史的・文化的社会の中に生まれ、その社会の文化を学び、それに適応しながら生きていく。ある特定の社会で生きていくうえで、その社会における社会規範や法が大切なことは言うまでもない。しかし、私たちは、縄文人にも現代日本人にもなり得た「人」だったのだ。そして、この「人」=「個」は、その「社会」と完全に一体化し得ないことはもちろん(歴史が存在する)、また、他の「個」と同一化し得ない存在であることも自明といえる。要は、そんな「人」の個別性に徹底的にこだわること、そんな「人」=「個」を大切(前提)にしながら、〈社会〉生活を送ることなのだと思う。しかし、そんな「人」=「個」の固有性を無視ないし抑圧する「観念」や「社会体制(システム)」も存在するのだ。〈サロさん〉は、単なる「犬」でも「柴犬」でもなく、〈サロさん〉だ。〈サロさん〉を単なる「犬」や「柴犬」に封じ込める概念や思想体系の暴力には、断固、批判的でなければならないと思う。どこでどのように生まれようと、この一回限りの「生」=「命」をこそ大切にすべきなのだ。

   先週、元同僚たち5人の話を聞くことができた。それぞれの人たちの生き方の「固有性」に感心させられた。また、ペシャワール会の中村哲さんの講演会も聞いてきた。「まっとうに生きてりゃ、怖いことがあるものか」―――私も、まっとうに生きて、私の「生」=「命」を大切にしていきたいと思った。


   
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SARO MURIKI

Author:SARO MURIKI
おりこうさんのワンワンです。年齢は、2016年11月現在満10歳です。見てのとおりの柴ですが血統書はありません。性別はオスで、飼い主には、朝夕、45分ずつ2回の散歩を義務付けているVIP犬、正確に言うと、VIDです。文句あっか?!

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