『Thunderbolt Fantasy 東離劍遊紀 』考

  「武侠」ファンタジーの傑作
      ―――”渋い”セリフがなんとも言えない!

   

   ※サロさんとの散歩から帰ってきた。関東の冬空は本当にきれいだ。ところで、バイクにも乗れるようになったので、先日、シネマ歌舞伎『め組の喧嘩』(「平成中村座」における2012年の公演)を見てきた。故中村勘三郎の辰五郎をはじめとする大写しにされた歌舞伎役者の表情と観客と一体となった歌舞伎小屋の熱気が印象的な作品だった。〈町火消し〉と武家をバックとする〈力士〉との喧嘩を描いたものであったが、火消しの親方とその妻そして鳶衆の「儒教」的倫理の内面化の有様が大変興味深かった。「匹夫の勇」などと揶揄する声も聞こえてきそうだが、終幕近くの町奉行と寺社奉行の権威に基づく「収め(あずけ)」は「ご愛嬌」として、「一般ピープル」が「元気」であることは悪いことではないだろう(中江兆民「人民の元気」)。そこには醜悪な「巨悪」への批判的視点の萌芽も感じられるからだ。


   ところで、一昨日、「2nd兄貴」が、豊洲に、新作『Thunderbolt Fantasy 生死一劍』を見に行ってきた。かなり面白かったらしい。そこで、私は、前作『Thunderbolt Fantasy 東離劍遊紀 』(全13話)の方を振り返ってみることにしたい。この作品は、台湾の人形劇「布袋劇」と日本の脚本家・虚淵玄(うろぶちげん)らが共同制作したもので、その革新的な映像と内容は、T.M.Revolutionの主題歌「RAIMEI」(作詞・井上秋緒、作曲・浅倉大介)とともに、老輩たる私にも大変興味深く感じられるものだった。とりわけ、キャラの設定とそのセリフが「渋い」!2回見ただけなので正確さには欠けると思うが、私が感じたエッセンスを書き留めておくことにする。

   さて、この作品には「武侠人形劇」とか「武侠ファンタジー」と言う「副題」が付いている。この〈武侠〉とは、強きをくじき、弱きを助けることをたてまえとする人物のことで、唐代に成立したおなじみ『水滸伝』などは「〈武侠〉小説」と呼ばれるわけだ。また、〈武侠〉の日本における「一般ピープル」版が「町奴」であり、先に取り上げた『め組の喧嘩』は、江戸末期の町火消し(「を組」)、侠客ー町奴の「新門辰五郎」をモデルにしたものと考えられる。もちろん、『東離劍遊紀』の〈武侠〉たちは「剣客」なのであるが、そこには、私の興味をそそる、ちょいと「屈折」した「哲学」が語られている。 

   物語の概略は割愛するが、それは、かっての〈大戦争〉を封じ込め封印されていた「天刑劍」を「最強の剣」として奪い取ろうとする蔑天骸(ベツテンガイ)に対し、護印師の一族で「義」をもってそれを護り抜こうとする丹翡(タンヒ )をたまたま助けることになった「大盗賊」凜雪鴉(リンセツア)と「刃無鋒」殤不患(ショウフカン)の二人が、それぞれの思惑から彼らと同行することになった「剣客商売」の狩雲霄(シュウンショウ)・「武勇の名声」に憧れる若き捲殘雲(ケンサンウン)・殺し屋で冷酷非常な「剣鬼」殺無生(セツムショウ)・冥界生まれの「妖人」刑亥(ケイガイ )らと共に凄まじい武闘を繰り広げる、奇想天外なファンタジーである。ただ、ここでは、彼らが交わす会話の中に現れている、「剣」や「武」に対する「思想」に焦点を当ててみたい。
      
   さて、物語の登場人物の中で、「剣」や「武」について最も平凡で単純な議論を展開しているのは、武芸によって現世的利益を求め卑怯な手口も厭わない狩雲霄であり、また、武芸の「栄光」をただ只管追い求める捲殘雲だ。ただし、捲殘雲は後に丹翡や殤不患との関わりの中で「義」に目覚めていくことになる。しかし、このファンタジーの中でとりわけ興味深いのは、「剣」や「武」に信仰的な〈幻想〉を抱いている殺無生や蔑天骸、そして、それらに対して人としての〈限界〉や〈優位〉を自覚している凜雪鴉や殤不患である。

   殺無生は、「剣の道は必然性の探求」であるとし、唯只管「強いものが勝つ」といった「運命」の観念にとらわれて、自分をも含めた人の〈生死〉に対する人間らしい感覚を欠いた「サイコパス」的人物だ(「いかれてやがる」)。また、蔑天骸は、「剣」とは「力の証」・「生死を分かつ絶対的真実を形にしたもの」と捉え、富も栄華も権力もこの「滅びの力」の前には泡沫に過ぎないとする「〈暴力〉至上主義者」だ。また、彼にとって早さこそが剣技の極意であり、自らを「無双の強さ」に到達したものとして、周囲にその「覇者の気風」を撒き散らしている。

   これに対して、凜雪鴉は、「剣の道」は極まれば「真理」に通ずるとしながらも、その「道」がたどり着く先は「山の頂などはなく、無辺の海原のようなもの、極めるほどに果てが見えなくなる」ものであって、「無双の強さ」など幻想だとする。そして、蔑天骸を上回るほどの技量に到達しながらも、「剣の道」の奥深さを侮らないが故に、その探求に〈飽きて〉、それを放棄したと言う。また、彼の魂の愉悦は、人を欺き、踊らせ、陥れて遊ぶことにあるのであって、もし彼が修めた「剣(殺人剣)」の「正道」を貫けば「邪道」を絶ってしまうことになり、それでは、彼にとって最も面白い「狡猾で野心家の、誰よりも自分が強くて賢いと思っている」悪党をからかって遊ぶことが出来なくなってしまうとも言う。確かに、人に屈辱と絶望を与えて喜ぶ凜雪鴉は屈折した「ど外道」と言ってよいだろう。しかし、彼は、決して「弱い者いじめ」なのではなく、思い上がった悪党(「強き」)を挫く、「義賊」の「愉快犯」的な一変種(人間としての限界ー挫折を見つめているが故に?決して「軽い」性格ではないのであるが)と言って良いだろう。そして、巨悪がのさばるご時世にあっては、こうしたキャラクターが我々「一般ピープル」にとって比較的受け入れやすい存在になるとも言えるのだ。

   最後に殤不患であるが、彼は、斜に構えてはいるものの、極めて自省的かつ謙虚で、また、義と人情に厚い人物として描かれている。また、彼の生き方には、闘いに際して「俺が選んで俺が切る」とか、「正しくあろうとしたことは悔やむんじゃない」とかいった言葉に表れているように、「真理」や「本質」に対する「信仰」的確信とは異なる、個(主体)としての「実存的選択」の意識が強く窺われるように思われる。そして、彼が選び取っていった「剣」と「武」に関わる生き方とは次のようなものであった。まず、彼は、刀剣など所詮道具に過ぎず、結局それを持つ人間次第だと言ってのける。まさしく、彼の「人間の主体性」への基底的な信頼感の表れと言えるだろう。しかし、「剣」は、〈人心を惑わし天下を乱す〉厄介な代物でもある。確かに、「剣」は「強さ」や「支配力」や「勝つ」ことへの人間の「思い」を肥大化させ、また、そうした力能を象徴する物神崇拝的対象となって、人々の心を惑わし、戦いを引き起こす原因にもなるからだ。そこで、彼は、故郷「西幽」を回って、そうした魔剣・妖剣・聖剣・邪剣36振りを集めて、それを捨ててしまおうとしたのであった。また、「武」について、彼は次のように言う。「人を斬るのが難儀なのは、当然だろ?。どこまで技を極めようとな、剣を振るうのが軽々しく簡単になちゃいけねえよ。だが、俺ぐらい性根が俗物になると、常に自分を戒めているのも面倒なんでな、いっそ刃の付いた剣なんぞ持ち歩かないほうが良い」。こうして、彼は剣に見せかけた木刀を腰に流浪の旅を続けたのである(「刃無鋒」)。

   私は、少々剣道をかじったことがあり、これまでも、このブログで「『SAMURAI SPIRIT』考」なる記事を書いたことがあった。つまり、私自身も、人間にとって「剣」や「武」は何を意味するのかを考えてきたわけだ。もちろん、「剣(刀)」は一つの道具(手段)であり、問題はそれを扱う人間の「思想」(目的)であるということは一般論としては言えよう。しかし、原子力も同じだが、それが人間を殺傷する〈桁外れ〉の能力を持つ以上、それを通常の道具と同じように安易に考えてしまうことはできない。銃砲刀剣類や軍事装備ー兵器に対する規制・削減・廃絶が考えられなければならない理由もそこにある。また、そうした「武器」を用いることは、まさしく、「武士道」のようなより突っ込んだ思想の形成を必然化させたとも言い得るのだ。こうした意味において、この物語の中で展開されるキャラクター間の会話は、そうした問題を再考する上で大変興味深い素材を提供してくれていると言って良いと思う。

   最後に、私は、こうした物語の展開の中に、「道教」的あるいは「老子」的な思想―――さらに言えば、東洋的な虚無(相対)主義(荘子など)をも突き抜けるなんらかの思想―――が看取できるのではないかと考えている。実際、作者の筆名〈虚淵玄(うろぶちげん)〉にもそれを読み取ることができるのではないか。つまり、「玄」(根源的な道)は「(空)虚」にして「(深)淵」、これは「老子」の思想に他ならないからだ(例えば、蜂屋邦夫著『図解雑学 老子』参照)。実は、私も、私自身の考え方を、東洋的な思想の流れの中で、「義理と人情と平和主義」などとふざけて表現したことがあった。いうまでもなく、「義理と人情」は〈孔子〉(儒教)的概念である一方、「平和主義」は、トルストイやガンジーの思想にも継承された、〈老子〉的なそれと近似したものと言えるのである。また、「武士道」との関連でいえば、この物語の殤不患=「刃無鋒」は、まさしく、「武」を捨てきれなかったとはいえ、〈無刀〉・〈活人剣〉の思想に接近した人物と理解して良いのだと思う。娯楽作品にはいろいろな楽しみ方があるが、表現者たる虚淵玄にこうした「思想」性があったとしても少しもおかしくはないだろう。

   さて、明日は、もし晴れれば、虚淵が脚本を担当した『GODZILLA 怪獣惑星』でも観に行ってみようかと思う。さて、どんな作品だろうか。

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SARO MURIKI

Author:SARO MURIKI
おりこうさんのワンワンです。年齢は、2017年11月現在満11歳です。見てのとおりの柴ですが血統書はありません。性別はオスで、飼い主には、朝夕、45分ずつ2回の散歩を義務付けているVIP犬、正確に言うと、VIDです。文句あっか?!

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