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アベ政治と日本社会の”劣化”

 アベ政治のウソと不公平が生み出す格差と不信感が
   日本の共同社会としての「質」をどんどん低下させている
   

   ※関東地方は、6月29日に梅雨明けしたわけだが、その後、梅雨期のような天候に逆戻りしている。また、西日本では、地震や集中豪雨によって多くの人々が深刻な被害を受け、苦難を強いられている。これらに対して、国会でも官僚の書いた作文を恥ずかしげもなく棒読みするだけのアベは、相変わらずの口先だけの決まり文句を繰り返すだけで、誠実さのカケラも感じさせない姿を晒している。また、6日には、オウム死刑囚7人への処刑が執行されたが、それは自らの失政を”隠蔽””するために行われたのではないかと疑わせるに十分なもので、オウム真理教事件の真相解明に蓋をするばかりではなく、死刑廃止に向かう国際社会における日本の評価を著しく傷つけるものであったといえよう。とりわけ、大量処刑前夜のアベやカミカワたちの有様は、事件の被害者や家族たちの悲しみや怒りとは無縁のもので、残虐刑を喜色満面でやってのける権力者たちの醜い姿を晒すものでしかなかった。残念なのは、今の日本社会には、こうしたアベたちの有様に異様さを感じない、おぞましい風潮が確かに存在していることだ。
 
   現在の日本社会には、とても”真っ当”とは思えない”恥知らず”なアベに頼る他、自らの「比較優位」―――それ自体、今の自分さえよければ良いといった、極めて利己的で、短期的で、かつ時代錯誤的な利益でしかないように思われるものだが―――を保持できないと考えているらしい、「多数派(?)」の”劣化”した姿が観取出来る。

   先日も、カンヌ国際映画祭パルムドール受賞の『万引き家族』(是枝裕和監督)を観てきたけれど、それは、日頃私たちが垣間見ている日本社会の象徴的”現実”の中で、「家族」を、人間同士の結びつきをどうとらえるのかといった非常に重い問を私たちに突きつけるものだった。しかし、この作品に対するアベの反応にも表れているように、こうした問題を私たち自身の問題として受け止めるといった感性を、日本社会の「多数派(?)」は失ってきているように感じられるのだ。また、先週は、友人夫妻と共に、池袋の東京芸術劇場で上演されている『ザ・空気 ver.2 誰も書いてはならぬ』という演劇を観た。内容は、アベ政治と巨大マスコミ(記者クラブと公共放送)との癒着を風刺する機知に富んだものだったが、身につまされるようで、笑うことなど全くできなかった。私自身も、巧みに編み上げられている権力構造の中で、醜い支配者たちよって用意された”another story"の中に逃げ込んできたのではないか。そして、今も、「諦め」という”another storyがちらついている。しかし、最近は沖縄出身の全盲のテノール歌手・新垣勉の歌(特に『願い―愛と平和の歌』が好きだ)に”癒されて”いる私ではあるが、同時に、”癒されて”なんかいる場合ではないとも強く感じるのだ。”危機”を深化させ、ただそれを先送りにしてるだけに過ぎないアベノミクス、そして、戦前の政治と戦争を肯定し、民主主義を踏みにじって独裁的性格を露わにしているアベ政治の現実は、私たちの命と生活にとってますます危険なものになっているのだから。

   ところで、あの”擬似ファシスト”たるトランプの支持基盤は、今でも『聖書』をそのまま信じているらしい白人の福音派キリスト教徒で、その数は国民のほぼ30〜40%を占め、トランプがどのような政策をとっても、「岩盤」の如き支持を彼に与えるのだという。こんな話を聞くと、馬鹿馬鹿しくも感じるが、もちろん、「トランプ現象」なるものは、新自由主義と新保守主義そして経済のグローバル化がもたらした矛盾に対する一つの”イデオロギー”的反応(継承と抵抗)の一局面として理解すべきもので、愚かな大衆やポピュリスト政治家への侮蔑で済むような話ではありえないはずだ。実際、前世紀に経験したファシズムの教訓からも、そうしたイデオロギーのもつ破壊力を軽んずることは決定的な誤りと言えるだろう。そして、実際、彼らが用いるウソや差別や歪んだ人間観・社会観によって、日々、多くの人々が不幸と死に追いやられているのだ。

   そして、トランプと「100%共にある」日本のアベ政権においても、アメリカとかなり類似した現象が見られる。あの”どうしようもない”アベ政治の現実を前に、アベ政権に対する支持率が下げ止まったり、回復したりする有様は、ある意味で、”奇怪”と言ってよいほどだ。しかし、こうしたアベ政権によって、日本は確実に奈落の底に突き落とされようとしている。そんなアベ自公政権の支持基盤については、次回以降、2〜3回に分けて考えて見たいと思っているが、今日は、人間のイデオロギーについて概観し、アベやアソウやその取り巻きたちの「反国民的」なイデオロギーと、それをボーッと受容している「一般ピープル」の危険性に心を止めておきたいと考える。

   さて、人間諸個人の「思想」(意識、観念、イデオロギーetc.)がかなり「偶然的」に定まるというのは、私自身の経験からしても言えることだ。もちろん、「思想」の「存在被拘束性」については承認するけれども、それも、歴史的・地理的・文化的な関係(間柄)の中で生まれることであり、さらに、諸個人のレベルでは、いわゆる「性格類型」はもちろんのこと、様々な経験や知識そして教育などによって大きく影響されることは当然のことと思う。また、「恋」は盲目という表現もあるが、同様に、「政治」も一つの特殊なイデオロギーの領域であって、必ずしも〈生活〉の”現実”に「合理的」に対応するものではないことは、歴史的にも現在的にも明らかなことだと言わなければならない。こうしたことから、政治の領域における「宣伝」・「教育」・「プロパガンダ」の重要性が説かれ、いわば人々を「思想」的に操作しようとする「おばけ」のような輩が登場することになる。そして、実際は富と権力を志向する彼らにとって、とりわけ「一般ピープル」などは、ウソをついてでも従わせればいい存在でしかないというわけなのだ。

   ところで、私はしばしば「一般ピープル」という言葉を使ってきたが、以上のような考察からも、「一般ピープル」だから必ずこう考えるはずだなどということは全くありえない話だと考えている。ただし、「一般ピープル」であるが故に不可避的に直面しなければならない実体的な”関係”もあるのであって、そうした関係性についての意識を共有していることの重要性と可能性は非常に大きなものだとも考えている。つまり、そうした関係に対する認知や反応は「多様」であっても、同時に、そうした”現実”への眼差しは、諸個人間のイデオロギー的な”ねじれ”を克服する上で非常に重要な基盤を与えてくれると考えるからだ。
   私は、都心に出て、その「豊かさ」に驚く。そして、私の周りでもベンツに乗っている人たちをしばしば見かける。そんな彼ら―――もちろん全てではない―――が、短期的な利害の観点から、現在のアベ政権を支持したからといって何の不思議もないだろう。問題なのは、”現実”と”観念”との間に不可避的な矛盾・葛藤を抱えざるを得ない、私と同じ「一般ピープル」に他ならない。人間は幻想的な観念の中で生き、そして、死ぬこともできる。ただ、それが「真っ当な」なものでない場合、私もそうだったが、人間は「不安」に陥る他はなく、より「真っ当な」答えを見いだそうと、自らの観念を”検証”しなければならなくなる。そして、その最終的な判断の基準は、”人間”と”社会”についての基底的な価値意識なのだと思う。そして、昨今の日本社会の”劣化”の現状と危機の深刻さは、このレベルに関連したものに違いないのだ。

 アベ(そして、トランプ)が、なぜ「恥ずかしい」存在のか?
 それは、同胞に対する「人間らしい感情」の欠如の故に他ならない。
  
 特権にあぐらをかく、アベとアベ友たちの”冷たさ”に
                   人々は愕然とするのだ。

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SARO MURIKI

Author:SARO MURIKI
おりこうさんのワンワンです。年齢は、2018年11月現在満12歳です。見てのとおりの柴ですが血統書はありません。性別はオスで、飼い主には、朝夕、45分ずつ2回の散歩を義務付けているVIP犬、正確に言うと、VIDです。文句あっか?!

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