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日本会議・神道政治連盟―――なぜ悪逆非道で”反国民”的なアベ政権が続くのか(4)

アベ政権は「保守」と言うよりも極右《カルト》では?!
    アベ「従米」政権の「愛国」とは一体なんなのか?!



   ※台風12号が近づき、そして、西に去って行った。西日本の被害が心配だ。和歌山市長選では、また、姑息なカジノ隠しで、現職が当選した。賭場の胴元仲間の政治がこっそりと進展していく。それにしても、国内・国際を問わない、世の中の〈荒んだ〉雰囲気が重く心にのしかかる。その原因の一つは、言うまでもなく、排他的な狂信的宗教に関連したものだ。人間が科学的観方を獲得した後も、人間の宗教的感情と観念の力は相変わらず大きな力を振るっている。シオニズム、イスラム原理主義、キリスト教原理主義、オウム真理教、そして、国家神道もそれに含めなければならない情勢になっているようだ。おぞましい光景だ。

   現在のアベ政権に大きな影響を与えている組織として、日本会議と神道政治連盟という二つの組織が挙げられている。アベとアソウをはじめ、アベ内閣では、15/19人が日本会議に、19/20人が神道政治連盟に名前を連ねているという。両者にはかなり重なり合う面が多いとのことだが、要するに、これらは、戦前の政治と戦争、とりわけ、総力戦体制下の超国家主義(天皇制ファシズム)を肯定・支持する〈極右〉の団体ということだ。私なりの受け止め方で言えば、前者は、冷戦崩壊前の社会主義や共産主義に反対するという意味での「右」ではなく―――それならば、自由民主主義者や社会民主主義者も「右翼」となってしまう―――、旭日日章旗を掲げ軍歌を流しながら街宣する「極右」軍国主義者に極めて近い団体だ。実際、日本会議の中枢を担っているのは「生長の家」などの民族派学生運動の元活動家らが多いらしい。また、後者は、全国約8万社を束ねる神社本庁の関連団体なのだが、それは、古来からの「神社神道」ではなく、明治維新以降の「国家神道」(天皇を主権者とする政治体制を天皇をアマテラスの子孫とする現人神信仰によって正当化する、国教化された神道)の流れをくむ宗教的民族主義者の組織で、戦前の侵略戦争を肯定する歴史観(「靖国史観」)を奉ずる〈靖国神社〉への参拝を推進している政治組織だ。
  
   ところで、どの国にもどの時代にも宗教的民族主義者や軍国主義者はいるものだが、その両者が合体し、一国に”全体主義”的な体制を築き上げていたのが総力戦体制下の日本だった。そして、その指導者(政治的・経済的・軍事的・イデオロギー的)たちは、無謀な侵略戦争に突き進み、国民に言語を絶する悲惨で汚辱にまみれた犠牲を強いた上で、敗北したのだった。ところが、靖国神社が掲げる「靖国史観」とは、国民を〈虐げた〉政治や戦争を〈真っ当に反省することもなしに〉肯定する歴史観であって、「国事」に殉じた者とりわけ軍人を「英霊」として「美化」することによって、彼らを戦地に送り出した(自分たちをも含めた)戦争指導者たちを「負けたけれども、悪くはなかった」として擁護するものなのだ。それ故に、東條英機らは靖国に合祀されることになったのだが、これに対して昭和天皇は、理不尽な犠牲を強いられた戦争犠牲者たちの立場に立ったのであろう、その後、靖国神社への参拝を止めたのだった―――同様の心性は、戦後日本の沖縄への対応を潔しとせず、沖縄に心を寄せ、しばしば訪問した明仁天皇にも見られるであろう。それにしても、何をやっても、そして、結果がどうであれ、(批判が許されない)「天皇」のため、あるいは、(それ自体極めて曖昧な)「日本の歴史や文化」そして「日本人の心」を守るためだったなどと言えば済むとなれば、指導者の〈責任回避〉にとって、これほど便利な〈仕掛け〉はないだろう。さらに、そうした戦争指導者への批判を「自虐」と呼ぶレトリックも登場したが、これは、国民一般をそうした輩と同一視することによってのみ成り立つ話に過ぎない。もちろん、国民の多くは、敗戦という現実を前に、そうしたイデオロギーを受容し、協力してしまったことに後悔と責任の念を抱きつつ、戦前からの自由主義的・民主主義的な伝統とそれを体現する政治家たちを仲立ちとしながら、平和憲法の理念を我がものとしていったと考えられるのだ。戦争指導者たち、とりわけ、超国家主義者たちの責任を曖昧にしてならない。

   このように、戦前の戦争指導者たちとりわけ超国家主義的な指導者にとっては、近代「天皇制」の〈国家主義〉的イデオロギーは、自らの権力行使に〈正当性〉を与える重要な根拠であった。そして、このことは、鬼畜米英・一億玉砕を叫んで国民を煽りながら、敗戦後は、米ソ対立を背景に、アメリカの「スパイ」となって〈延命〉した―――アメリカからすれば利用した―――岸信介たちにも当然当てはまる。こうして、彼らは、戦前の国家主義的なイデオロギーとアメリカ追従という醜悪な矛盾を抱え込んだのだ。さらに、こうした彼らの矛盾と欺瞞を鋭く突くのが日本国憲法の理念に他ならなかった。こうして、彼らとその末裔にとって、日本国憲法体制(基本的人権の尊重、国民主権、平和主義)の破壊は宿願となったのだ。そして、それは、岸信介の孫・安倍晋三によって、時代錯誤的かつグロテスクな様相を呈しながら眼前で推し進められている。

   ところで、戦前の超国家主義につながる戦後の「歴史修正主義」的思想については、このブログでも、『「従軍慰安婦」問題・考(1〜3)』や『安倍の好きな靖国神社に行ってみた――大江戸散歩・番外編』などで触れてきているので、興味のある方はご覧いただきたい。ただ、今回考えたいと思っているのは、戦前回帰の「極右」思想が、どのような方法で、そして、なぜ、この時代に、ある程度受容されるがごとき風潮になっているかだ。アベ政権を持続させている背景の一つには、明らかに、このことがある。

   まず、東西冷戦終結以降、宗教的外皮をも纏う、国家主義的・民族主義的な勢力が世界的に勢いを強めていることはしばしば指摘されていることだ。とりわけ、ソ連邦崩壊以後の東欧、中東におけるアメリカのユニラテラリズムに対抗するイスラム原理主義、グローバリズムの矛盾や難民問題に起因する欧州における「極右」勢力の台頭、そして、キリスト教原理主義を主要な支持基盤とする自国第一主義のトランプのアメリカ、中華民族の偉大な復興を掲げる習近平の中国、そして、ギリシャ正教会(ービザンツ帝国)とも結びつき「第三のローマ」を目指すプーチンのロシア等々、世界は強力な指導者(「独裁者」)に率いられた〈帝国主義〉さらには〈全体主義〉的な様相さえ呈するに至っている。これらの指導者は、テロリストまがいの既成秩序の破壊と惨事便乗型の行動を繰り返し、不安と恐怖に駆られた「大衆」に差別と偏見に満ちた「強者」の価値観・論理を刷り込み、国民を操作しようとしていると考えられる。世界は、今、混沌とした状況下にあると言って良い。

   こうした中、日本においても、戦前の帝国主義的な侵略戦争を推進した、国家主義的・民族主義的な価値観と体制の復興を謀る策動(「改憲」)が山場を迎えている。その旗振り役が自民党内で自由主義的な護憲派を抑えて主導権を握ったアベなのだが、彼自身は公の場でその〈超国家主義〉的な主張を声高に主張することはせず、日本国憲法の価値観との対立をできるだけ隠そうとしている。ただ、それは日本国憲法の理念が幅広い国民に定着していることへの戦術的な対応であって、そのポーズは「見せかけ」で、〈本音〉は自分たちと同じだと、「ネトウヨ」などの「極右」はアベを熱烈に支持し続けているわけだ。しかし、アメリカに経済的にもそして軍事的にも従属することによって自らの階級的・階層的利害を確保し、そのためには国民同胞の犠牲など気にも留めない買弁的なアベたちを信じるのは、自分がお坊っちゃまの本物の「お友達」でないならば、あるいは、官房機密費で生活の面倒でも見てもらっているのでないならば、あまりにもナイーヴ過ぎるというものだろう。

   ただ、アソウは「ナチスに学べ」とその手の内をポロッと漏らしてしまっているが、確かに、アベたちがナチスの「成功体験」にも学ぶ巧みなプロパガンダを駆使していることは確かだ。例えば、歴史的事実の隠蔽とアナザーストーリーの提示、聖戦のイデオロギーや「愛国」的献身の美化、汚い「本音」(ある時代の支配層によって形成され、歴史的にも継承されてきた差別や偏見)をくすぐるポピュリズム的手法、恐怖こそ人を動かすのだと〈力〉を見せつけるファシズム的手法、そして、心にもないのに殊勝気に謝ってみせたり、すぐウソだとバレるのに妙に自信あり気に断言して見せたりたりする「印象操作」、等々だ。ただ、これらは、物事をあまり深くは考えない「大衆」を騙すテクニックとしては有効だろうが、人々が正しい知識や情報を獲得し、科学的・論理的・多角的な思考をすれば容易に乗り越えられる程度ものに過ぎない。しかし、問題なのは、そうした思考自体をブロックする心理的なフィルターないしバイアスの形成なのだ。

   ここで私がポイントだと感じているのは、一見〈政治的とは思われない領域〉で形成される基底的な「人間」観や「国民」観に他ならない。前々回扱った「新自由主義」や「社会ダーウィン主義」(⇆「競争原理主義」)などもそうなのだが、そうした領域での観念が「国家主義」的・「超国家主義」的なイデオロギーを支えるということだ。今回の事例で言えば、戦前の侵略戦争(残虐行為)の受け止め方に際して、私が以前大変興味深く聞いたのは「(優しい)爺さんがやった戦争が悪いものだったはずがない」というものだった。そして、最近になると、なんと、「(よい)日本人がそんなことするはずがない」となっている。確かに、侵略戦争に動員された肉親や同胞の「善意」を肯定的に受け止めたい気持ち(心理)は重々理解できるが、同時にそれは、しばしば、帝国主義的な侵略戦争を支えた人種間や民族間の優劣を前提とする差別や偏見と通底してしまうのだ。こうした意味で、最近のマスコミに見られる「日本すごい」的な煽りは、それがスポーツや文化の領域におけるものであっても、明らかに、政治的な効果を持つと考えなければならない。例えば、以前は、対等な国民・民族間同士の「親善ー友好」(多様性の統一:共存・共栄)だったものが、最近は、日本の、あるいは、日本人の「優秀」性を誇示する、あるいは、誇示しなければならないものへと変化してきているように感じられる。そして、そうした流れの中で、「日本人」や日本人の「国民性」に対する、それ自体〈事実〉にはそぐわないのだが、ほとんど「信仰」に近い感覚・観念が醸成されるのだ。そして、このような感覚や観念は、国家主義や民族主義を正当化する「下敷」として容易に利用されるだろう。こうしたことに私たちは重々注意しておかなければならないと思う。

   勿論、スポーツも、文化も、そして、武道も、国籍・民族を超える〈人類〉に共通する普遍性を持つものだ。それらを国家主義的あるいは民族主義的な枠組の中に閉じ込めようとする動きは、明らかに無理筋というものだ。例えば、我国の〈神社神道〉についていえば、それは、”縄文”時代にもその源を発する多神教的な性格を持つものであって、たかだか明治以降の、天皇崇拝に収斂される「国家神道」の枠組みに収まるものではけっしてないのだ。我々が楽しむ、神田明神の御祭礼は、近代の狭い国家主義や民族主義の遥か前から存在する深みを有している。更に言えば、欧米列強の植民地支配が荒れ狂った帝国主義時代に形成された「国家神道」は、極めて包容力のある「神社神道」に比べれば、”排他”的で”狂信”的な、「カルト」に近いものとさえ言えるのだ。そして、アベ政権はこうした「カルト」と一心同体の如き有様となっている。

   さらに、それにしても、なぜこの時代という疑問についてだが―――それは「なぜオウム真理教が・・・」というのと同様に非常に難しい問だ―――、大まかに言えば、「外」(他者)との関係に恐怖心を抱き、人間としての「自信」を失いかけている人々が、内向きに(排他的に)その「自信」を回復させようとする故かも知れない。さらに世界的な動きとの関連で言えば、生産手段の私的所有(:労働力の商品化)と市場経済によって”孤立”化し、さらに「大衆社会」状況によって”アトム”化し、挙句の果てはグローバリズムによって”棄民”化されて寄る辺ない存在と化しつつある人々が、人間としての「共同性」の回復をなんらかの擬似的な共同体あるいは観念によって満たそうとする願望の故かも知れない。ただ、それが、現実的な「共同性」(共同の利害)に裏付けられている場合―――労働組合や様々な協同組合そして北欧型の社会民主主義などはそうした事例だと思う―――はそれなりの現実性を持つのだが、それが観念的かつ排他的で独善的な場合には、歴史的にも明らかなように、それらによってもたらされる惨禍は計り知れないものになってしまうのだ。日本人がそうした陥穽に再び陥らないことを切に願うものだ。
 
   長くなってしまった。次回は、公明党ー創価学会についての感想を述べてみたい。

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SARO MURIKI

Author:SARO MURIKI
おりこうさんのワンワンです。年齢は、2018年11月現在満12歳です。見てのとおりの柴ですが血統書はありません。性別はオスで、飼い主には、朝夕、45分ずつ2回の散歩を義務付けているVIP犬、正確に言うと、VIDです。文句あっか?!

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